ここは木組みの家と石畳の街。空気はどこまでも透き通っていて、自然は四季ごとにさまざまな色合いを見せる、毎日散歩をしていても飽きないような素敵な街だ。
私ことココアは、この街の高校に通うため、ラビットハウスという喫茶店で下宿をさせてもらっている。
「ああ、チノちゃん。どうしてチノちゃんはチノちゃんなの」
「いきなりなんですか」
そして現在私はその喫茶店ラビットハウスの一人娘、私の妹であるチノちゃんに、なんとなくじとっとした目線を向けられていた。
「妹じゃないです」
「はっ!? チノちゃん私の心を読んだっ?」
「前から言ってますが、ココアさんがわかりやすいだけです」
いくらわかりやすいと言っても、こんなピンポイントで考えていることを簡単に当てられるとは思えない。つまりこれはチノちゃんがそれだけ私のことを見てくれているということではないだろうか。
えへへ。いつもはこうしてつんつんしてるけど、やっぱり心の中じゃ私のことを思ってくれてるんだね。うんうん、お姉ちゃんはわかってるよ。安心して。
そんな風に微笑ましい思いを抱きながらチノちゃんを見つめると、照れ隠しなのか、チノちゃんは思い切り大きなため息を吐いた。
「それで、さっきのはどういう意味なんです?」
「さっきの?」
「だからさっきの、私はどうして私なのか、っていう意味不明な質問のことです」
聞かれ返されなければ即刻忘れていただろう話題をチノちゃんが掘り起こしてくれた。
そんなに知りたいならしかたないなぁ。得意気に笑みを浮かべながら胸を張ってみる。
「ふっふっふ、それはねぇ」
「確か、『ロミオとジュリエット』の有名なセリフだろ? 文系苦手なココアでもさすがにそれくらいは知ってるんだな」
「あ、リゼちゃん!? 私の教えようとしてたこと先に言わないでよー! 『そんなこと知ってるなんて、さすがはココアさんです』ってチノちゃんに褒められる私の計画がーっ……!」
「いや、今更こんなことで尊敬なんてされないだろ……」
横から入ってきた声の主は、このラビットハウスで一緒に働いているツインテールの少女、リゼちゃんだ。ラビットハウスでは、私とチノちゃん、そしてリゼちゃんの三人とティッピーというもふもふなウサギ――アンゴラウサギ? っていう種族みたい――の一匹で一緒に働いていることが多く、今日も同様だった。
「そもそも私がココアさんを尊敬するということ自体がありえません」
「そんなぁー。チノちゃーん」
がばぁ、と抱きつくと「うっとうしいです」と一蹴される。でも離さない。もふもふ、もふもふ。うーん、やっぱりチノちゃんは格別なもふもふ具合だなぁ。
いい加減離れてください、と言わんばかりにぐいぐいと強く肩を押してきたので、しかたなく抱きしめるのをやめた。あんまりやりすぎるとチノちゃんに怒られちゃうからね。それに、もうもふもふ成分は十分蓄えさせてもらったし。
「はぁ……それでココアさん、最近『ロミオとジュリエット』の本でも読んだりしたんですか? ココアさんは文系が苦手な割にいろいろな本を読んでいるみたいなので、知っていても特に不思議には思いませんが」
子どもが読むような絵本から、ミステリーやアクションものの小説、果ては六法全書などなど。私からしてみれば面白そうなものを片っ端から読んでいるだけで特に区別しているわけでもないのだけど、雑食にもほどがあるとはよく言われる。
それだけいろんなものを読んでいてどうして文系全般が壊滅的なのかともよく言われる……。
「そういえば『ロミオとジュリエット』ってタイトルは有名には有名だけど、内容は知らないって人が結構多いんだよなぁ。ココアはチノに教えようとしたくらいなんだからもちろんどんな話かは知ってるよな」
唐突にリゼちゃんが言い出した確認に、ぎくり、と一瞬体の動きが止まってしまった。
「え? も、ももも、もち、もちろんだよ? そそそんな当たり前のこと私が知らないわけ」
「ほう? なら早速私の質問に答えてもらおうか。超初級問題だ。『ロミオとジュリエット』を生み出した劇作家の名前は?」
私が動揺した隙を見逃さず、リゼちゃんが鋭く問いを投げてくる。くっ、常に懐にモデルガンを携帯していたり、尾行や潜入などの心得を熟知しているだけあって、なかなか痛いところを突いてきてくれるね。
べ、別に本当に知らないわけじゃないんだよ? ただ、どこかで聞いたことがあるのに忘れちゃってるだけで……だから、ちょっと考えればすぐに出てくるはず。えっと、えぇっと……確か、作家さんの名前はー……そうだ!
「フォークスピア?」
「鋭そうだなっ!?」
「あ、わかった! スプーンスピアだね?」
「いや、鋭くない方が正解って意味じゃないっ!」
くっ、まさかカマをかけられたっ!?
むぐぐ、と悔しさと恨めしさを半々ずつ込めた視線に、私はまだなにも言っていないのに「いやココアが勝手にすっ飛んでっただけだ」とリゼちゃんが返してきた。
「はぁ……まったく。シェイクスピアですよ、ココアさん。そんな簡単なことすら知らなかったんですか? 私でも知っているのに」
「むしろそんな中途半端な知識量であれだけ自信満々になれる辺り、さすがココアと言うべきか……」
「さすがって言われてるはずなのに褒められてる気がしないよ!?」
「そりゃあ褒めてないからな」
リゼちゃんもチノちゃんもなんか厳しい! こんなんじゃ私、元気なくなっちゃうよ……。
しょぼんとして、窓際にある机の上に『の』の字を書いてみる。励ましてくれるかな、とちらちら視線を送ってみても、返ってくるのは「さぼらないでください」とか「ひなたぼっこしてないで、仕事しろよー」なんて雑な声かけのみ。
やっぱり二人とも厳しいよー!
「お邪魔しまーす」
「失礼するわ」
と、そんなところに店の扉が開く音とともに、聞き慣れた二つの声が新たに現れる。
誰が店に来たのか、いちいち見なくてもわかった。顔を向けるよりも早く足を動かし始め、入ってきた二人のうちの一人に突撃した。
「千夜ちゃぁあんっ! 可愛い妹とリゼちゃんが冷たいよぉー!」
一人はいかにもお嬢さまっぽい雰囲気が特徴の小柄な少女、リゼちゃんの後輩であるシャロちゃん。フルール・ド・ラパンというハーブティの喫茶店で働いていて、私もたまに行くけど、いい香りとうさ耳のロップイヤーが特徴的ないい店だ。
そしてもう一人が、私の同級生であり親友の、
いきなり飛びつかれてわけがわからないだろうに、千夜ちゃんは「あらまぁ、いったいどうしたのココアちゃん」と優しく胸の中に受け止めてくれた。
「相変わらず騒がしいわねぇ、ココアは」
シャロちゃんが私の様子に呆れたようにため息をついた。
「でも、それがココアちゃんのいいところよ? 一緒にいるとこっちも元気が湧いて出てくるもの」
「そこは私も認めてるわよ。まぁ、そのなけなしの活力も、生み出してくれた当人に振り回されて消費し尽くしちゃうわけだけど……」
「えへへ、急にどうしたの二人とも。そんなに褒められると照れちゃうよぉ」
「最後のは別に褒めてるわけじゃないわよ」
「シャロちゃんがリゼちゃんと同じことをっ!? うぅっ、やっぱり私の味方は千夜ちゃんだけなんだぁー!」
そんな風に叫んで、がばぁっ、と千夜ちゃんの胸に深く顔をうずめる。その直前、シャロちゃんはどこかうろたえたように視線をきょろきょろさせていたのがわかった。
同じ学校の先輩後輩だからなのかな、シャロちゃんはリゼちゃんのことをじっと憧れの視線で見ていることが多々ある。今回は、そんなリゼちゃんを突然引き合いに出されて戸惑っているという具合だった。
「り、リゼ先輩と同じっ? い、いったいなんのことを言ってるのよっ」
「うふふ。大丈夫よココアちゃん。私がそばにいるからねー」
よしよし、と頭の上に置かれた手をなでなでと動かされる。気持ちいいー……なんだかウサギになったような気分だよぉ。
「いらっしゃい、千夜にシャロ。悪いな、いきなりココアが飛び込んで行って……迷惑だったか?」
「リゼちゃん、こんにちわ。別に迷惑だなんてことはないわ。むしろ役得? なんだか今日のココアちゃん、どこか甘い匂いがするのよねぇ。まるでココアみたいな」
「今日の私が、私みたいな匂いをしてる……? それってつまりいつもの私は私以外の誰かの匂いをしてるってことっ!? いったい誰のっ!?」
「や、ココア。千夜が言ってる匂いはたぶん飲み物の方よ」
「あぁ、なるほどっ」
そういえば昨日は久しぶりにココアの香りがする入浴剤を使ったんだっけ? 日にち跨いでるのに、千夜ちゃんは鼻がいいなぁ。
「あと、こんにちわですリゼ先輩。連絡もなしに突然来ちゃいましたけど……その、ご迷惑でしたか?」
「とんでもない。ここは喫茶店だからな。いつでも、それこそ毎日だって来てくれていいんだぞ」
「いえ、毎日はさすがに……リゼ先輩がいるなら毎日だって行きたいけど、お金の方が……今月だってピンチだし」
シャロちゃんの言葉は段々尻すぼみになっていくような感じで、後半はほとんど聞き取れなかった。リゼちゃんも同じだったようで、「私がなんだって?」と問いかけ直していた。
「い、いえ! なんでもありませんっ! そ、それよりココアっ。そろそろ千夜から離れなさいよ。あんただって仮にもここの店員なんでしょ? 席にくらい案内してちょうだい」
「仮じゃないよ!? でも、うん! 確かにシャロちゃんの言う通りだね。千夜ちゃん、急に抱きついたりしてごめんね? それからありがとう、も」
「いいのよ。私とココアちゃんの仲じゃない?」
「千夜ちゃん……!」
やっぱり千夜ちゃんは優しい……でもだからこそシャロちゃんの言う通り店員としてしっかりおもてなししなきゃだよ!
私は千夜ちゃんの腕の中から体を離すと、きりっ、とした動作を心がけつつ二人に道を開けた。
「それじゃあ二人とも、こちらのお席へどうぞ」
今はこの二人以外のお客さんはいない。ちょうど二人組が座るのに適している窓際の席へ案内する。
「あ、そうだ! ふっふっふ、ねぇシャロちゃん」
「……なによ」
(なんだかいかにもめんどくさそうなこと考えてそうね……)
注文を聞き終えて運び終わった後。 思いついてシャロちゃんに声をかけると少しの間を空けてから言葉が返ってきた。
千夜ちゃんはコーヒーで、シャロちゃんはコーヒー――というよりカフェインの入っているものを口に含むと異常なハイテンションになってしまう体質なので、ミルクを飲んでいる。
「あぁ、シャロちゃん。どうしてシャロちゃんはシャロちゃんなの」
「またそれか……内容よく知らないのによくやるよ」
ちょっと後ろの方でリゼちゃんが呆れたように息をついているのが聞こえてくる。
でもシャロちゃんならきっと面白い反応をしてくれるはず! こう、ココアセンサーみたいなものになんだかびびびって来たし! なんたってお嬢さまだからねシャロちゃんは! 本当はお嬢さまみたいなのは雰囲気だけなんだけど!
「……? なによそれ。貧乏な私への皮肉か当てつけだったりするの?」
「えっ?」
「あれ? なんでそんな不思議そうな反応してるのよ」
ひ、皮肉? 当てつけ? どういうこと?
おろおろと混乱していると、後ろから二人ぶんの足音が近づいてくるのが聞こえてきた。リゼちゃんとチノちゃんだろう。
「ココア。そのセリフはな、裕福な家の生まれだったジュリエットが、同じように裕福だけど敵対していた家にいるロミオに、『自分を愛しているのなら家名を捨てて』と迫ったものなんだ。まぁ、だからと言って貧乏になるかどうかっていうとまた別の話なんだが……って、ココア?」
ぽろぽろと勝手に涙が二つの瞳から溢れ出してくる。
かつて私とチノちゃん、リゼちゃんはあまりにもお嬢さまっぽいシャロちゃんの雰囲気から、自分勝手に『きっとすごいでかくて素敵な屋敷のお嬢さまなんだろうなぁ』というイメージを抱いていた。しばらくして、すぐにそれが間違いで、本当は特待生を維持するくらいの努力家でありながらバイトもたくさん掛け持ちしている大変な生活を送っていることを知った。
裕福から貧乏な印象への転落。そのイメージを象ったかのような、ロミオとジュリエットのセリフ。
そんな、そんな……これじゃあ私、まるで、まるで……!
「ごめんねジャロぢゃぁああああんっ! わだ、私っ、そんなつもりなんて一切これっぽっちもまったくなくて! ただシャロちゃんが面白い反応をしてくれることを密かに期待してただけでぇ!」
「ぬわぁっ!? ちょっ、こ、ココアっ!? きゅ、急に抱きついて来ないでっ……っていうか最後の地味に失礼ね!?」
「シャロぢゃぁあんっ……! うわぁああああんっ! ごめんなさぁあい!」
「わ、わかった! わかったから! なにも気にしてないからっ。もういいから、離してって……」
「でもぉ」
「そ、そんな涙目で見上げて来ないでよぉ……わ、私だって、まるでココアが私のこと嫌ってるみたいなことをちょっとでも考えちゃって……わ、悪かったって思ってるわ。だから、私のその気持ちと、ココアが悪いことしたって思ってるその気持ちと、おあいこよ」
「シャロちゃん……!」
(もうっ、なによこれ……! めちゃくちゃ恥ずかしい! 絶対顔赤くなってるっ……リゼ先輩の前なのにぃ)
(でも……ココアがそんないやみったらしいことしてくるわけないなんてわかってたのに、少しでもあんなこと考えちゃって、罪悪感覚えてるのは事実だし……)
(ううぅ。っていうか千夜、ちょっとは助けようとする姿勢を見せてくれてもいいのに。あんたの親友でしょ。なんでそんな微笑ましそうにこっちを見てるのよ! あとさりげなく後ろ手に携帯構えるなっ! 撮ろうとするなぁ!)
やっぱりシャロちゃんは真面目でいい子だ。謝らなくていいことまで責任を感じて、しかも直接口に出して言ってくれる。感激だ。
こんなこと言われたら私もいつまでもめそめそしてられないね! 素早くシャロちゃんから飛び退くと、ごしごしと目元を拭った。もう涙は出ていない。
「シャロちゃん! なにかもういっぱいお飲み物頼む気はないっ? 今なら私がサービスしてあげるよ!」
「え? べ、別にいいわよそんなの。っていうか、おあいこって言ったでしょ。お互いに悪かったんだから、貸し借りみたいにする必要はないわ」
「そういうつもりで言ったんじゃないよ? ただ、私は本当にいい友達を持てたんだなーって。そう思ったら、急になにかしてあげたくなっただけだから」
「……ココア。あんた、そういうことナチュラルに言ってて恥ずかしくないの?」
「えへへ。もちろん少しは恥ずかしいけど、本当のことだもん。自分の気持ちに素直でいるのが私の取り柄の一つだからね!」
「……はぁ。あんたのそういうところ、ちょっと羨ましいわ」
(私ももう少しリゼ先輩への気持ちに素直になれたら……いや、カフェインを摂取すればあるいは、ってダメダメ! そういうのは自分の言葉でしっかり伝えなきゃ意味ないんだから!)
「ココアさんは素直すぎるくらいなので、もう少し自重という言葉を覚えた方がいい気もしますが。他のお客さんがいないからよかったものの、突然泣き出してお客さんに飛び込んで謝り出すなんて、奇行にしか見えませんよ」
「あ、あはは。チノちゃんも、ごめんね? シャロちゃんに悪いことした、って思ったら頭が真っ白になっちゃって……」
「……別に構いませんよ。いえ、叫ぶのは勘弁願いたいのですが……ココアさんのああいうところは、数少ない素直に尊敬できる部分ですから」
「数少ないの!?」
くすくす、と辺りから笑いが漏れ始めた。見れば、リゼちゃんも、千夜ちゃんも、シャロちゃんも笑っていた。
もしかしてチノちゃんも!? そう思い改めて見直してみるが、その表情はいつものクールインプリティ……で合ってる? 英語苦手だけど合ってるよね? 合ってる合ってる! たぶん! きっと!
リゼちゃんや千夜ちゃん、シャロちゃんによれば、チノちゃんはよく笑うようになってきているとか。いつもいつも私はその笑顔を見る機会に恵まれなくて……さっきはチノちゃんの笑い声がかすかに聞こえてたから、確かに笑ってたはずなのに!
「突然泣いたり笑ったり驚いたり、落ち込んだり。本当、ココアは見ていて飽きないよな」
「そうねぇ。私も頑張らなくちゃ」
「千夜がなにを頑張る気かは知らないけど、とりあえずそれは頑張らなくていいって言っておくわ。どうせ漫才の練習かなにかでしょうし」
他にお客さんがいないこともあって、しばらくそうやっておしゃべりを楽しんでいた。
そんな中、ふと私ははっとする。
私が最初、チノちゃんによくわかってない内容の劇のセリフを問いかけたのも、シャロちゃんに同じことをしてみせたのも、実は一つの目的があって、それに話を繋げるためだった。
いろいろあってすっかり忘れてしまっていたけど、皆が揃っているちょうどいい機会だ。もう前フリなんてなしに一気に言ってしまおう。
「ねぇ、皆。話は変わるんだけどね?」
「どうしたんですか?」
チノちゃんのそんな疑問に続き、皆からの視線が集まってきたのを確認して、私はぴんっと人差し指を立てた。
「――――『演劇』、やってみない?」