もしそういった要素が苦手な方は、注意してお読み下さい。
「―――――おきて――――」
声が聞こえた―――気がする。誰かが私を呼んだ―――気がする。不思議だな、私にはもうなにも聞こえないはずなのに。なにか光がさしている―――気がした。誰かがそこに立っている―――気がした。おかしいな、私にはもうなにも見えないはずなのに。
それを解っているのに、気がするというだけなのに、なんだかどちらも正解な気がしてならない。誰かが私を呼んでいる。誰かが私を覗き込むようにして立っている。そんな確信めいたなにかを抱かざるを得ない私は、徐々に瞼を開いていく。するとそこでは―――
「あ、起きた。おはよーございます」
私が私を見つめてました(哲学)……いや、本当になんで?なんで?って続けちゃいたくなるんですけど。ここで一曲いっときましょうか。じゃなくて、私の目の前でにこやかにおはようの挨拶をかます美少女―――って、だから私だっていってるじゃん。誰とかそんなんじゃなく私―――私……?
「ふぁぁああああっ!?ド、ド、ド、ドドドドド……ドッペルゲンガー!?」
「いや、違う―――くないかも?あながちそれも正解といえば正解なような気もするなぁ……」
一気に意識が覚醒した私は、あおむけの状態から尻もちを着いたような体勢に。座ったままザザザっと後ずさりしながら、震える指先でドッペルさん?を捉える。すると、向こうは完全否定するような様子は見せずにうむむと唸って自分の存在が説明しにくいとでもいいたげだ。
それからしばらくあーだこーだと考え込むような感じで、あっちをウロウロこっちをウロウロ。なんだかマイペースだな……。私も似たようなものだが、目の前にいる彼女は少しばかりベクトルが違う気がする。そうしてしばらく待っていると、手をパン!と鳴らすので妙案がみつかったと思っていいのだろう。
「あ、そっか、こういえば話が早かったよね!」
「むむ、その心は?」
「初めまして、お兄さん。私は貴方だよ」
「はい……?」
嬉々として、自信満々な様子で彼女は私は貴方という。いやね、そんなことは解ってるんですよ?だって、どこからどう見たって私だし。あれか、さては私のポンコツ具合を甘く見てるな。そんなこといわれたらますます混乱しちゃうじゃないですかやだー!
「私がキミでキミが私で?つまり私は誰でキミは誰で私たちは……誰よ?私?」
「うん、とりあえず少し落ち着こうね」
いや、落ち着こうねっていったってキミぃ……。自爆して死んだと思ったらこれで、せっちゃんが出てくるでもなし私のドッペル?が出てくるって落ち着けないてば。っていうかよくみたらなんだこの空間、どこまでも真っ白が地の果てまで続いてるじゃない。さらにわけがわからないよ。
「頑張って、私の言葉にヒントがあるから!」
「えぇ~?ヒントっていわれても―――なぁああああっ!?」
「なにか思いついた?!」
「なんか私ってばめっちゃ喋れてるーっ!?うわ、すごいこれ……いったい何年ぶりなんだろ!」
「あ~……そっちも気になっちゃうよねー」
あまりに理解が及ばないせいかスルーしてしまったが、ドッペルゲンガーって叫んだ時点からベラベラと口から言葉を発することに成功しているじゃないか。あまりに自然な発声だったな……。って、ドッペルさんがなんだか悲しそうな表情してるや。……私の姿をしているというのは勘定から外しての発言だけど、いちいち仕草が可愛いな。
さて、このままじゃ申し訳ないしちゃんと考えてみよう。え~と、ドッペルさん曰く短い発言でも私にヒントは与えたらしい。こういう場合は前後の発言を洗いざらい挙げているのがセオリーかな。まぁ注目すべきはどうみたって―――初めまして、お兄さん……だよね。って、うん?お兄さんて……。
「私を男だって知ってる……!?」
「そう、それ!じゃ、そこから導き出せる答えは?」
「キミは、貴女は―――藤堂 黒乃……ちゃん?」
「おお~大正解!」
誰だろうと私をお兄さんと呼べるはずがないんだ。なのにこの子は、間違いなく私をお兄さんと。だとするのなら、答えなんて1つしか存在しない。それを知れるのは私が身体を借りている少女―――藤堂 黒乃のみ。私が恐る恐る回答を口にすると、黒乃ちゃんは無邪気な様子で拍手をしながら正解だと称える。
「ちょっ……あのさ!質問、いいかな……」
「あ、うん、私が答えられることなら」
「ここって、その、どういう場所なのさ?私は……死んじゃった?」
「えっと、前者はいろいろややこしいから後者からね。大丈夫、死んではないよ。辛うじてって感じではあるけど、ちゃんと息もしてれば脈もあるから」
本当は質問なんかよりしなければならないことは山ほどある。けど、私も焦っているのだから許してちょうだい。それに、こんな非現実的な空間に関しては聞かずにいられないでしょ。あと、私の生死とかも……。前者は後回しにされてしまったが、とりあえず私は死んじゃいないらしい。
「それでここがどこかなんだけど、う~ん……本当に説明が難しくって。えっと、精神世界であり、魂の世界であり、認知の世界であり、概念の世界……って感じかな」
「オ、オーケー……それだけ聞ければ推理で頑張るよ、ゲーマーだからね」
精神世界というのは、つまりマンガやアニメでよく見るアレと思っていいのだろう。ここが私の精神の具現……だとするならあまりにも的確な表現だ。なにもない、まっさら、先は明るいけど終わりはない……なんていう、空っぽで宙ぶらりんな私にふさわしい空間。
魂……というのは、つまり今の私たちに違いない。この身体は肉体ではなく、魂が具現した姿。過去の記憶が消えた私は、直前までこれが私の姿であったという理由から黒乃ちゃんの姿を映しているのかも。……目の前にいる黒乃ちゃんだって制服姿の私なんだけどね。
「わぁ~……すごいね、私なんてこう……未だにボンヤリとしか理解できてないのに」
「アハハ……まぁ、オタクだからかな。まさか自分で体験するとは思ってないけど……。それに、認知と概念っていうのは私もよく解らないかな」
認知と概念は、どちらも抽象的だからなぁ。それこそなんとなく解りはするけど、説明が難しいというかなんというか。まぁ、別に説明ができなくても理解ができればいいんだけどね。元々はここはどこか教えてって聞いたんだし、それならもう目的は果たしたと思っていいじゃない。
「そっちの説明なら簡単だよ?えっとね―――」
「あ、少し待って。どうしても、キミにいっておかなくちゃ……」
「私に?」
「その、私の意思じゃないとはいえ、本当にごめんなさい!私は、キミの身体を―――いや、キミの人生を借りさせてもらってごめんなさい!」
私の意思ではないというのは言い訳がましいかも知れないが、神という存在のせいとなるとそう前置きをせずにはいられない。だがこれで、ようやく黒乃ちゃんに詫びを入れることができた。もちろんだがこれで許されていいなんて思ってはいない。ただ、1つのケジメとしてしないよりは余程いいに決まっている。
「大丈夫だよ、謝らないで。悪く思ってくれてるんでしょ?」
「黒乃ちゃん……」
「悪く思ってるなら、身体を返してくれるってことだよね?だから……私の身体を返して」
「っ…………!?」
謝らないでという言葉を耳にした私は、深々と下げていた頭を徐々に上げていく。すると私の目に飛び込んできたのは、なんだか慈愛に満ちた笑顔を浮かべている黒乃ちゃんだった。その顔をみて安心―――できたのは束の間、私がどう答えていいか解らない質問が飛んできてしまう。
「どうしたの、返してくれないのかな?」
「あの、それは……だから……」
「おかしいなぁ、悪いと思ってるんだよね。じゃあどうやったら返せるのーって聞くのが筋じゃない?渋るって変だよ」
悪いと思っているのは本当だ。この罪悪感を引きずりっぱなしでここまで生きてきたつもり。皆と笑いあっていたって、イッチーと愛し合っていたって……いつだって私には黒乃ちゃんに申し訳ない気持ちがあったに決まっているじゃないか!けど、でも……いざ返せっていわれたら―――
「……そっか、大丈夫。悩まなくたっていいから」
「黒乃ちゃん、その、私は―――」
「ねぇお兄さん、さっきの説明の続きしよっか。ここは概念―――だから、こんなこともできちゃうんだよ」
「日本刀……」
私がしどろもどろしていると、相変わらず黒乃ちゃんは綺麗な笑みを浮かべながらそれを制した。だがそれでは納得いかない。どんな言葉を並べたって言い訳にしかならないだろう。けど、故意ではないにせよ人の人生を奪っている重みは辛くてしかたない。もっと辛いのは黒乃ちゃんと思うと、私は黙っていられなかった。
だが、ついに黒乃ちゃんは私の言葉を無視してしまう。それもわざわざ無視をしてまで、さっきの認知と概念について説明を始めた。……?わざわざ説明しないといけないくらい重要なことだったのかな。なんて思っていると、黒乃ちゃんの手元に抜き身の日本刀が現れたではないか。
……概念でその現象となると、大まかに認識しているものなら形成して再現できるっていうことかな。つまり名前を知っていても姿を思い浮かべるだけじゃダメ、だけどなんとなくボンヤリと全体像を知っていれば可能っぽいな。しかし、それを教えてもらっても重要には感じない……。
「お兄さんに質問、刀で斬られれば人は?」
「え……死んじゃう、かな?」
「そう、正解。つまり認知の世界っていうのは―――」
(さ、殺気!?これはヤバっ……!)
「こういうことだよ!」
あまりにも唐突な質問だった。が、常識の範囲内っていうか、教えさえすれば小さな子供だって理解しているようなことでしかない。しかも正解だっていうし、いったいさっきからこの質問になんの意味が―――と思った矢先、黒乃ちゃんからとんでもない殺気が湧き出たのを察知した。
スウェイバックのようにして、なにも考えずにとにかく後方へ下がる。すると黒乃ちゃんの振るった日本刀は空を裂き、私の鼻先を掠りながら気持ちのいい音を鳴らす。驚きと共に恐怖が顔を出す最中、私は思い切り尻もちをついてしまう。そして、鼻先に感じるこのジンジンとした痛みに流れる血―――本物の怪我だ。
「え、え……?い、いったい……なにを……?」
「いったでしょ、ここは認知の世界。つまり、貴方がそう認識しているのなら、ここでも全く同じことが起こるの。斬られれば痛いし血も出るでしょ?」
刀で斬られれば人は死ぬ。銃で撃たれれば人は死ぬ。その他私が頭で理解している当たり前のこと、それはこの空間でも同じ意味を持つと……?魂の具現なのに傷つけられれば痛いし血も出る。つまり、もしや、言葉を切って黒乃ちゃんがこれを私に知らしめたのは―――
「もしかして、私の魂を殺すため……?」
「ピンポーン、またまた正解。もう貴方が消えるまで待ってなんかいられないもん。私の身体でいくとこまでいっちゃったしね、私の一夏くんと―――さ!」
「ひっ……!」
もはやそれしか考えられなかった。黒乃ちゃんの放った言葉の前後をパズルのピースとして組み立てると、魂の状態で具現化している私を殺して肉体を取り戻そうとしてるとしか。黒乃ちゃんは尻もちをつたいままの私に対して、日本刀で強烈な突きを見舞う。それを不格好ながらに避けると、後の私は逃げるのみ。
「待って、待って!こんなの絶対おかしいじゃん!?なんでこんな―――」
「待って……?待たないよ!私がどれだけこの時を待ち続けたと思ってるの!」
「気持ちは解かるよ!でも―――」
「アハッ、それ笑うとこだよね?解るはずないでしょ……大好きな人との大切なこと、勝手に身体を使われて、先にいろいろこなされちゃった私の気持ちなんて!」
恐怖のあまりに命乞いが飛び出たが、なにもおかしくはない。黒乃ちゃんが私を憎む理由は十分にあるし、私を殺す権利だってあると思う。だって立場が逆だったとしたなら、私だってその相手を殺したいくらいに決まってる。だけど私は、なんて醜いのだろうか。
怒りに満ち溢れ、涙を流しながら襲い掛かる斬撃を避けてしまう。自分の命可愛さに、悪いと思っているなんて綺麗ごとを重ねながら、あまつさえ気持ちは解かるなんて気休めを紡ぎながら。あぁ、なんて―――なんて醜い。醜く、無様で、残酷だ。
「はっ、避けるのは上手だよね。けど、これならどうかな」
「飛び道具……!?お、お願いだからこれ以上は―――」
「待たないってば!」
「づっ!?ああああぁぁああああっ!」
黒乃ちゃんは真っ白な地面?床?に日本刀を突き刺すと、手元にドスのような刃物を呼び出す。あ、あれは……人間サイズになってるけど紅雨と翠雨!?だとすると、用途なんて私はよく解かってる。黒乃ちゃんは、なんの躊躇いもなくそれを私に投げつける。紅雨は私の肩に突き刺さり、翠雨はふとももに突き刺さった。
「い゛った……い。痛い、痛いよぉ……!」
「そう、ならもっと苦しいのをあげないとね!」
「がっ……はっ……!?あっ、げふっ、おえっ……!げほっ、げっほ、がふっ……!?」
私が突き刺さった7本の愛刀のうち2本に苦悶していると、黒乃ちゃんは猛ダッシュでこちらに迫っていた。すると私の手前あたりで思い切りジャンプし、容赦のみえない前蹴りを繰り出す。その足底がとらえたのは―――私の喉。蹴られた瞬間に理解しがたい衝撃と共に、ただひたすら苦しく呼吸が困難な状態が訪れる。
「……ひと思いに殺す予定だったけど、貴方をみてるとそうもいかなくなってきちゃったなぁ」
「あうっ……!けほっ、けほっ!」
「私と同じ顔……!当たり前だよね、だって私の身体だもん。それなのに、それなのに……!楔だかなんだか知らないけどこんな傷―――残したりして!」
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ!?」
ただ悶え続ける私の近くにしゃがみこんだ黒乃ちゃんは、私の前髪を掴んで半強制的に頭を上げさせた。未だ咳が止まらないながらも黒乃ちゃんを視界に入れれば、その顔は今度こそ私への憎しみを露呈させている。この魂の姿さえ、私が黒乃ちゃんを象っているのが気に入らないようだ。
すると黒乃ちゃんは、私の右頬にある傷を特に恨めしいように睨む。そして私の肩に突き刺さっていた紅雨を引き抜くと、まるで傷をなぞるかのように刃で私の頬を裂いた。単に痛いというのも勿論あるが、私はどちらかといえば恐怖が振り切ったのが原因で悲鳴を上げる。
「解ってないね……。一夏くんが好きっていってくれてるんだよ!?だったらそんな傷なくったって、一夏くんは一生愛してくれるに決まってるのに!」
「それ……は……だ、だって……」
「そんなに自分に自信ない?けど関係ないよ、そんなの、私からいわせれば一夏くんを信じれないのと一緒」
「ち、違う!それだけは絶対に違う!私だってそんなこと解ってるってば!けど……」
正論だった、紛れもなく完全論破だった。だって私も解っていたから。こんな傷なくったって、イッチーが好きでいてくれるなんて。解っていたからこそ、黒乃ちゃんの目を真っ直ぐ見れなくなってしまう。イッチーを信じてないのと一緒と、そういわれてしまったのもあるだろう。
「けどじゃない!1%でも疑ったよね……?それなら貴方は一夏くんにふさわしくない。あの人の隣に居るべきなのは私なの、貴方じゃなくて―――私」
「うっ、うぅ……」
「ふさわしくない人が私と同じ顔っていうのがずっと耐えられなかった……。それに、どうせ死んじゃうんだしそんなのもう必要ないでしょ?だから―――剝いじゃおっか」
「へ、え……?う、嘘でしょ……嘘だよね!?流石にソレは絶対やりすぎ―――」
やっぱり反論のしようがない……。イッチーのことは好きで好きで堪らないよ、死んじゃうくらいに大好き。……けど、イッチーを疑ってしまったということも間違いじゃないんだ。それに対して黒乃ちゃんのこの自信ったらないよ……。あぁ……羨ましいなぁ、私もいってみたい、そんな自信満々に―――彼は私だけしか愛せませんって。
そんな感傷に浸っていると、なんだか黒乃ちゃんが不穏なことを呟いたのが聞こえた。意識を向ければ、黒乃ちゃんはあまりにも無邪気な顔して紅雨の刃をチラつかせている。それは絶対にやり過ぎだという焦りながら指摘する間にも、刃はどんどんどんどん私の眼前に迫り―――
「そーれ、ベリベリ~」
「あ゛っ!や、やめっ……やめてぇぇぇぇ!ひっ……あ゛あ゛あ゛あ゛っ!痛い……痛い痛い痛い痛い痛いよぉぉぉぉおおおっ!」
「アハッ、いいよ~そのままそのまま。ショック死なんかしないでね、せっかくのリベンジタイムなんだから!」
「お願いだからもうやめてよぉ!やだっ、やだぁああああっ!痛いのっ、痛いのぉっ!やだぁっ!助けてイッチー!イッチーってばああああっ!」
「……その名前出すのは無しね。貴方に!一夏くんの!名前を!呼ぶことは!許可して!ないから!」
「いぃ!?いぃや゛ぁあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ!!!!」
先ほど入れた切れ目を起点にするかのように、黒乃ちゃんは私の顔面の皮を剥ぐように紅雨を動かす。いや、多分だけど肉ごといっているだろう。もはや私には、叫んで気を散らすくらいの選択肢しか残されていなかった。しかし、そんなのほとんど無意味でしかない。
マドカちゃんの時に頬が深く切れる感覚は味わったが、あれが際限なく頬全体を襲ってくるのだからどうしようもない。黒乃ちゃんは私をいたぶり、泣き叫ばせ、募った恩讐を晴らす気のようだ。しかし、イッチーの名を出したのが悪かった。それまで楽しそうにしていたのに、苛立ちを発散させるかのように刃が更に深くをえぐる。
「イッチー……イッチー、イッチー、イッチー!いっちぃ……!」
「呼ぶなっていってるのが解らないかなぁ?名前を呼ぶ権利すらないっていうのが解らないのかなぁ?!」
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ!イッチー……イッチー!イッチー!イッチー!イッチー!」
「……解った、解ったよお兄さん。これは逆効果ってことだね……ハイハイ、ごちそうさまでした」
私がイッチーの名を呼ぶことで黒乃ちゃんの琴線に触れたのは理解している。でも、私はイッチーと叫ぶのを止められなかった。イッチーと叫ぶと助けてくれるなんて思ったからじゃない。単にその名を呼んでいると気が紛れたのだ。ノーダメージになるなんてのは夢物語、それはあり得ない。
けど、本当に気が楽……。イッチーの名を呼んで、これは私に与えられたイッチーとの愛の試練だと脳内で変換すれば、不思議とショック死してしまいそうな痛みにも耐えられる。無論、それは黒乃ちゃんの怒りを買う行為だ。連呼するのに苛立つように、また刃の食い込みが激しくなる。
それでも私は、負けじとイッチーと叫び続ける。最後の方は悲鳴も消え、イッチーと連呼し続けるばかり。すると、これは自分の苛立ちを加速させるだけだと思ったのか、黒乃ちゃんは冷え切った様子で私の前髪を離した。首で支える気力なんてないため、私の額はゴチンと床に叩きつけられる。
「うっ、あぁ……あっ……!」
「お兄さん、はいこれ」
「……紅雨……?」
「うん、自決用。それ自分に突き刺してさっさと死んで。じゃないと、貴方にもっと痛みと苦痛を与えるから。そうだ、さっきイッチーって叫んだ分だけとか面白くていいかもね」
床にピッタリ伏せたような状態になるが、そこでようやく滴り落ちた血が小さな溜まりを作っていたことに気が付く。だが、これだけズタズタに引き裂かれては血なんてそうそう止まるはずもなく、私の右頬から流れる血で溜まりはみるみる内に大きくなっていく。そんな最中だった。
カラカラとなにかが床をスライドするような音がしたのでそちらに目を向けてみると、私の眼前に転がっているのは紅雨だ。虚ろな視線でその存在を理解すると、その用途は自害の為だという悪魔の囁きが聞こえる。紛れもなくそれは、黒乃ちゃんの声そのもの……。
これで自害しないと、もっと酷いことをするってさ。ハハ……今より酷いのが思いついちゃうの?私からすれば素晴らしいドSっ娘なわけだけどさ、もう少しだけマイルドにしてくれたらいいのに。つまり、今以上のものなんて耐えられるはずがない。
(…………)
私の手は、紅雨の柄を握る。楽になってしまいたい、これ以上の痛みを与えられたくないという気持ちが強かったから。こいつを自らの腹や喉や心臓に突き刺してしまえば、それで私を苦しめる戒めは全て潰える。……けど、その前に1つだけ解いておかなければならない謎があった。
「ねぇ……黒乃ちゃん……」
「ん、どうしたの?」
「ちょっと、よく見てて……。う、あ、ぐぅっ……うぅっ!」
「……いい加減に頭がおかしくなっちゃったかな」
その謎を解くヒントを得るためには、私が痛みを受ける必要がどうしてもあった。だから黒乃ちゃんによく見ていてと念を押してから―――太ももに刺さっていた翠雨を引き抜いた。刃が私の肉から離れると同時に、痛みが走り鮮血が飛び散る。そのまま翠雨を投げ捨てるのと同時に、私はある確信を得た。
「やっぱり……ね……」
「ねぇ、つまんないことやってないで死んでってば。じゃないといった通りに―――」
「黒乃ちゃんさ、キミは……どうしてそんなに……苦しんでいるの……?」
「……はぁ?」
最初に鼻へ一撃もらった時から、私の胸中にはずっとなにか引っかかりがあった。ずっと、苦しかったんだ。勿論だがそれは、痛いから苦しく感じていたわけじゃない。むしろ逆、傷つけることが苦しいかのような感情だった。気のせいだと思うじゃん?だって、一方的にやられっぱなしだったんだもの。
けど、もし、私の胸に宿る傷つけることに対する苦しみが、私の仮定した通りだとしよう。だとするとそれは、黒乃ちゃんの真の目的を導くための答えとなりうる。あぁ、そうか……そういうことだったのか。なぁんだ、1つ解れば―――全てが違和感だらけじゃない。
「黒乃ちゃん……キミは、死ぬつもりだったんじゃないかな……?」
黒乃と黒乃の対話が始まり、帰結する場とは?
黒乃が黒乃へ放った言葉の真意とは?
次回―――決着