二日目 女子・個人戦/男子・団体戦 でいきます
神代小蒔の朝は早い。
幼少の頃、京太郎と短くはあるが時を共に過ごし彼の嫁になることが決まった日から続けた花嫁修業の賜物である。
神代小蒔と須賀京太郎は許嫁の関係だ。京太郎は知らされていないが、小蒔はそう聞いている。
そもそも二人が出会うきっかけになったのが婚約者の関係を結びに来たということ。
力が弱まるのを嫌った神代家と須賀家の思惑が合致した結果だ。
しかし、そんなものは関係ない。小蒔にとって京太郎が婚約者だろうがなかろうが彼以外に意中の人物などあり得ない。
どうあっても京太郎のそばに居たかった。
そんな譲れない気持ちを知っているのは小蒔の親友であり、彼女の身を守る六女仙だけ。
その中の一人である石戸霞は小蒔の背中を押し、ある物をプレゼントしてくれた。
それは小蒔にとって最高の贈り物。
「ふふ……これがあれば私は京お兄ちゃんと……」
与えられた部屋で小蒔は手紙を広げる。そこには
結末が訪れるのは全国大会後。ハッピーエンドで。
霞がどうしてそんなことがわかるのか、小蒔は気にしたことはない。
自分がそのような分野に身を置き、何より小蒔は霞を信用していたからだ。
「今日は京お兄ちゃんが初めて大会に出る日。結果は……」
その答えを見て、小蒔は満足気に微笑んだ。
当然の帰結とも言える。京太郎は血反吐を吐くような特訓を続けてきた。美穂子に知識を叩き込まれ、衣にボコボコにされ、桃子と倒れて、小蒔にボコボコにされ、また衣にボコボコにされた。
それでも彼が弱音を吐くことは決してなかったのだ。
私が協力できるのも、ここに居れるのも明後日まで。私も永水高校の代表として予選に出なければなりませんから。
だから、しっかりと足跡を残す。私のことを忘れないように彼へ最大級の愛を示す物を。
だけど、今は……。
「京太郎様が力を出しきれるように腕を振るいましょう」
スイッチが切り替わる。
京太郎に関わることだけは拙い頭を使って覚えてきた。手料理など朝飯前だ。
「今日も一日頑張りましょう!」
そう言うと小蒔はキッチンへと向かうのであった。
◆◇◆◇◆◇◆
須賀京太郎の朝は早い。
中学でハンドボール部に入っていた彼はエースとして君臨していた。その座を支えていたのは泥臭い努力の結果であり、早朝練習の習慣はそう簡単には抜けない。
結果として早起きしてしまう彼は服を着替えると外に出て走り始めた。
「…………ふぅ」
いつも通りのランニングコース。いつもより早いペースで走ったせいか気怠い体を休ませるために一息吐くとゆっくりと呼吸が落ち着くまで歩く。
「……柄にもなく緊張してるな、俺」
今日、いつもより早く起きたのは寝付きが悪かったのも影響しているだろう。彼はそう自己分析していた。
今まではチーム戦。自分がダメでもそれをフォローしてくれる仲間がいたが今回は違うのだ。一度のミスが命取り。
そう考えるとプレッシャーが段違いだった。目を閉じれば浮かび上がる最悪の結末。今まで負けすぎたせいなのか、嫌なビジョンがまとわりついて離れない。
「……もう少し走るか」
何かを振りはらうように京太郎は走り出そうとするが、何かに服を引っ張られて前に進まない。
「ダーメ。それ以上は大会に響くよ、京ちゃん」
聞きなれた声がして振り向けば、そこには幼馴染がいた。滅多にお目にかかれないジャージ姿で、肩にはトートバッグを提げている。
「咲……どうしたんだ、こんな時間に」
「京ちゃんならこの時間帯に走っているだろうなぁと思って先回りしてたの。こうやってオーバーワークさせないように」
「……それにしてもよくここだとわかったな?」
「中学のとき、ずっと練習に付き合ってあげたの誰だっけ?」
「……咲だ」
「正解。さ、座って。休憩しよ?」
咲は適当なベンチに腰掛けると、ポンポンと隣を叩いて促す。京太郎は苦笑いしながらそこに座った。こういう時の咲は絶対に譲らないのを京太郎は知っている。
頑固なのだ、咲は。
「はい、お茶。ちょっとあったかいよ。これぐらいが好きだもんね、京ちゃん」
「おお、サンキュ」
温められたお茶が注がれたコップを受け取ると京太郎はゆっくりとのどを潤していく。懐かしい味がして、じんわりと体の芯まであたためてくれた。不思議と夏でも不快にならないあたたかさ。
頭も体もやわらかくほぐれていく。そんな気がした。
「どうせ京ちゃん、変な緊張してたでしょ」
不意に隣の少女はそんなことを言い出す。油断していたところで的確に突かれた京太郎は図星といわんばかりに目を見開いた。咲は無言を肯定と受け取って、呆れた風に微笑む。
「ハンドボールのときもそうだったもんね。初めてベンチに入った時も、レギュラーに選ばれたときも、こうやって無理な運動してたっけ」
「……そんなつもりはないんだけどな」
「していたよ。その度に私はヒヤヒヤさせられたんだから」
「ははは……。面目ない」
「もう謝ってばかりだよ。だいたい京ちゃんは――」
プリプリと頬を膨らませて怒る咲に京太郎は頭が上がらない。だけど、少し嬉しくもある。
こうやって何も考えずに楽しく時間を過ごすことができる相手がいる。話しているだけで悪いものが吹き飛んでいく。
今年に入ってから部長に和。モモや福路さん、衣。たくさんの人と知り合ったけどやはり一番落ち着くのはこいつなんだ。
「――良かった」
「何が?」
「京ちゃんの顔。さっきまで死んでいたけど今は生きてる」
「なんだそりゃ」
「それだけ肩肘張ってたってこと。気がついてないかもしれないけどすごい怖い顔していたんだから」
「……そんなに?」
「うん。和ちゃんや東横さんも逃げ出しちゃうひどい顔。私だから良かったけど」
冗談めかして咲は告げる。遠慮がないのは長い時間を過ごした二人の距離だから出来ることだ。
だから、京太郎は桃子たちには隠している不安を吐露することができる。今まで心の奥底に潜ませていた負の感情を。
「……実はさ。勝てるイメージができないんだ」
「うん」
優しく咲は相槌を打つ。彼の気持ちを受け取るように。
「あれだけみんなの大切な時間を貰って、それで負けるのが怖い」
「……うん」
「期待を裏切るのが怖いんだ。みんなに失望されるのが……! そんな恐怖が前に出てきて頭がぐちゃぐちゃになるんだ。自信が……今の俺には湧いてこない」
「……そっか」
京太郎は恐ろしかった。一年生だから負けてもおかしくない。そんな免罪符は役目を果たさない。
今までは誰かの期待はチームのものだった。だけど、今は京太郎の双肩に誰かの期待が重くのしかかっている。
「悪い、咲。変な話してしまって。お前も今日、団体戦があるのにこんなこと……」
「本当だよ。情けない京ちゃん。……だから、そんな情けない京ちゃんに私がおまじないをしてあげる」
そう言うと咲は京太郎の手を握り締める。強く、強く。想いが
「……咲?」
「……私が信じてるよ」
咲の言葉は深く京太郎の胸に刺さって、解けていく。ゆっくりと彼の心に広がっていく。
「誰よりもあなたのことを知っている私が信じているの。確信しているの。京ちゃんが勝って、優勝する姿を。――それでも京ちゃんはまだ不安?」
そして、京太郎に魔法がかかる。彼を奮い立たせるとびきりの魔法が。
「……いいや。俄然やる気が出てきた」
「それでこそ須賀京太郎だよ。じゃあ、帰ろっか」
「おう、そうだな」
京太郎と咲は立ち上がり、並んで歩く。
昇り始めた太陽の光が
「……ありがとうな、咲。いろいろと迷惑かけた」
「いいよ、別に。中学の頃は京ちゃんにいっぱい助けてもらったから恩返しみたいなもんだよ」
「そうか。……なら、そういうことにしておく。あー、まさか咲に励まされるとはなぁ」
「あっ、なに、その顔。少し心外なんだけど」
「モモやマキちゃんにもばれなかったのに、最近は学校でしか会わなかった咲に見破られたのが意外だったんだよ。どうしてわかったんだ? 俺のこと?」
「だから、言ったじゃん」
咲は京太郎の背中を叩くと、彼の前へと回り込む。すると、さも当然のように彼女は言い放った。
「京ちゃんのことならなんだってわかるよ。だって、私は――ずっと京ちゃんの隣で見てきたんだから」
目の前で咲き誇る一輪の花を見て、京太郎は彼女には敵わないと破顔した。
そして、運命の大会が始まる。
次回、県大会へ進みます