それでは、少しでもお楽しみ頂けましたら幸いです。
彼方はビスマルクの目の前で倒れてから意識不明のまま、数日間高熱で寝たきりとなっていた。
日頃の疲労が溜まっていたのか、いや何かの病気なのではと慌てる霞達であったが、彼女達の中に医療に心得のある者はいない。
何とか最寄りの海軍基地から軍医を呼んで診断してもらったが、結局倒れた原因は不明。様子を見るしかない、と告げられた。
軍医は暫く泊まりがけで出来る限りの治療をすると約束してくれたが、霞達は気が気ではなかった。
「彼方……」
こうして手を握ることしか出来ないことに、霞は酷い無力感に苛まれる。
医者から見ても原因が不明であるということは、彼方がこうなった原因はきっとあの小箱にあるのだろう。霞は机の上に今も鎮座している指輪を睨むように見た。
プリンツからことのあらましを問いただしたときには、正直怒鳴りつけてやりたいくらいの気持ちになったのだが……彼女の話のあまりの突拍子のなさに困惑も大きかった霞は、その怒りを必死に圧し殺した。
しかしそのおかげで、最近の気分は最悪だ。仲間に当たらないよう気をつけてはいるが、自分の心がささくれだっているのを感じる。
大体『ケッコンカッコカリ』という名前のシステムがあるなんて話は、今までそれなりに長く艦娘をやっているが聞いたことがない。
彼方の母から話を聞いたときも、その単語自体が出てこなかったため、普通に人間の法律上での婚姻関係だったのだとばかり思っていたが……。実際はこのシステムを使用しての婚姻関係だったということなのだろうか。
だとしたら、どうして千歳は霞達にそれを教えてくれなかったのだろうか。
(それにしても……この指輪がなくちゃ艦娘は人間になれない、だなんて)
結婚した提督と艦娘が互いに幸せになるための道具だとすれば、確かに霞個人としても大いに歓迎したい話だ。妖精としても、この指輪を彼方に渡したのは善意での行いのはず。あれは、艦娘や提督を不幸に陥れようとするような存在ではない。
――艦娘は艤装を解体されれば、軍艦としての記憶と魂を失い、ただの人間になる。
霞達日本の艦娘は今までずっとそう言われてきたし、信じてきた。実際に彼方の母を見ていたし、疑うような気持ちなど微塵もなかったのだ。今だって、プリンツの話自体半信半疑でもある。
確かにこの鎮守府にいる誰もが解体された後の艦娘の行方を知らない。
提督と婚姻関係にある彼方の母――『千歳』以外は。
それだけに、プリンツによってもたらされた情報を彼女の世迷い事だと断じることができなかった。
鹿島なんて彼方の艦娘になってからも何度か解体を視野にいれたことがあったらしく、その話を聞いた途端に卒倒したくらいだ。
深海棲艦を倒して海が平和になったら彼方の母のように人間になって、彼方と暮らす。それが霞の夢だった。
その夢を叶えるためには、あの指輪を使う以外に方法がないのだとするならば――
(一体、あの箱には……指輪には何が入っているの?)
艦娘の夢か、希望か――それとも提督の、彼方の生命そのものなのではないのか?
倒れたまま目を覚まさず今もベッドで眠り続けている彼方の手を握りながら、霞はその不安を拭い去ろうと、より一層強く温もりを感じるために彼方の腕を抱き締めた。
「……霞?」
「か……彼方、目が覚めたのね!?」
ぴくりと動いた指に力がこもり、霞の手を優しく握り返してくれる。実に五日ぶりだ、彼方の声を聞くのは。まだ声に力はないが、確かに彼方の声だった。
嬉しさのあまり、飛びつきたくなるのを霞は必死にこらえ――
「本当ですか!? 彼方くん!」
扉の前で聞き耳を立てていたのか、鹿島が部屋に飛び込んでくる。
それだけならばまだいいが、彼方に抱きついて完全に乗っかってしまっている。
「ちょっと鹿島! 彼方はまだ目が覚めたばっかりなのよ、離れなさいってば! また彼方が倒れちゃったらどうするつもり!?」
「はっ……ご、ごめんなさい。つい、その……嬉しくて」
霞に叱責され、申し訳なさそうに彼方に謝りながら鹿島は名残惜しそうに彼方から離れた。
「いや、大丈夫だよ。もしかして、大分長く寝てたり……?」
「長くなんてものじゃありません! 五日も意識がなかったんですよ!? 本当に大丈夫なんですか、彼方くん?」
鹿島が不安げに彼方の手を握る。霞が握っているのは左手。
鹿島が握っているのは右手だ。ベッドに横たわっている彼方に重さがかからないよう注意してはいるようだが、その胸にぶら下げている大きなものが彼方の体に乗っているのは霞は見逃さない。
(こ、こいつぅ……気をつけながらやってる辺り天然なんだろうけど、どうにも腹が立つわね!)
彼方が目覚めたことで沈んでいた気持ちも一気に明るくなり、下らないことにも頭が回るようになってきたようだ。
「い、五日も!? うーん……多分、あの指輪のせいだよね……。あの箱を開けてからのことが、ほとんど記憶にないんだ。でも、もう大丈夫。今は頭の中もすっきりしてるよ」
彼方は部屋の中に視線をさ迷わせると、机の上で止まった。指輪を見つけたのだろう。
立ち上がろうとする彼方を制して、小箱を彼方に手渡す。
彼方を昏倒させた原因である可能性が極めて高いこの指輪を彼方に渡すのは、危険かもしれないが……。
どういうわけか彼方の艦娘全員が、この小箱を捨ててしまおうという気にはなれなかった。
彼方は小箱を受けとると、開けることはせずに箱をじっと見つめている。
何かを考え込んでいるような彼方に、霞はプリンツの話を聞いて気にかかっていたことを聞いてみることにした。
「……プリンツから話は大体聞いたわ。多分全部ではないけど、重要な部分は少なくとも聞き出した。その上で確認したいのだけど……彼方は、艦娘の解体について、どう考えているの?」
「解体について……。僕は、プリンツの話が嘘だとは思えない。だけど、この指輪があれば消えなくてすむ――ということにはまだ確信が持てない。これが何なのか……ケッコンカッコカリが何なのかもまだわからないしね」
霞の問いに頷くと、彼方は自身の見解を話してくれた。
霞とほぼ同意見といって差し支えないだろう。
ただ、霞は不思議とその指輪が艦娘について、とてつもなく重要な意味を持つ存在であろうことは肌で感じ取っていた。
「彼方、私に……少しその箱を貸してくれない?」
頷いて手渡したくれた小箱を受けとる。
外から見ただけでは、本当になんの変哲もないただの箱だ。
しかし、プリンツではどうやっても開くことが出来なかったと言っていた。
「っ……あ――」
開いた。霞が少し蓋に手をかけると、いとも容易く蓋が開いてしまった。
『綺麗……』
うっとりと呟く声に振り向くと、鹿島と目があった。
どうやらお互いに同時に同じ言葉を口にしていたらしい。
気まずげに視線を逸らすと、もう一度指輪が目に入る。
「プリンツは、この箱を開けることができなかったのよね?」
「うん。だけど僕が触ったときは簡単に開いたから、『提督』じゃなければ開けられないのかと思ってたけど……」
そうとも限らなかったようだ。
この箱を開けるのには何らかの条件が存在しているのは確かなのだろう。
一度蓋を閉じて、鹿島に渡してみる。
「……あ、開きましたよ! 彼方くん!」
何故か自慢気に鹿島が彼方に指輪を見せる。
「だから危ないかもしれないって言ってるでしょ!?」
霞は急いで指を受けとると蓋を閉めた。
「……霞、きっともう大丈夫だよ。その指輪は、
彼方が変に確信を持ったことを言い出した。
完成している、とはどういうことなのだろう。
妖精が持ってきたときには既に指輪はこの箱に入っていたのではなかったのだろうか。
「僕が初めてその箱を開けた時には、中に何も入っていなかった。その指輪は、きっと僕の『何か』から作られたんじゃないかな。ほら、例えば……気力とか、体力とか」
確かに霞も先程似たような事を考えてはいたが、奪われた側が何を暢気なことを言っているのか。
何にしろ……何もない場所から急に現れる指輪など、どう考えても怪しすぎる。厄介な物であることに変わりはない。
「プリンツが開けられなかったのは、多分中身が空だったからだよ。今なら誰でも開けられるんじゃないかな」
事も無げにそう言った彼方に、溜め息が出る。
本当に今は元気なようだ。そして、長く倒れて霞を心配させていたことに対しての反省が足りていない。圧倒的に。
彼方が十分に元気なのはわかった。
ならば……これは、お仕置きが必要だろう。
ここまで心配かけさせておいて、ただで済ませる霞ではない、と彼方に知らしめなくてはなるまい。
「彼方」
「ん、何かな」
「んぅ~~っ」
「んんっ!?」
「えっ――ちょっ、ちょっとぉ! 霞ちゃん何してるんですかぁ!? あり得ません信じられませんズルですよズル!」
先程からズルをしていたのはどっちだ。
聞く耳をもつきのない霞は、久し振りに感じる彼方の唇の感触をたっぷりと楽しむと、ゆっくりと離れた。
「ひ、酷すぎます……こんなの目の前で見せられるなんて、あんまりです……」
目を覆いたくなるような光景をまざまざと見せられ、床に座り込みべそをかいている鹿島を上から一瞥すると、霞は茫然としている彼方に向き直った。
「彼方、今晩は私の抱き枕になりなさい。これは私に散々心配をかけた罰なんだから!」
「え……あ、うん。わかったよ。でも、その……プリンツは」
この期に及んでまだ他人の心配をする彼方にはほとほと呆れて物も言えない。
しかし添い寝権を手にいれたのは霞だ。霞は心に少し余裕が持てるようになっていた。
「プリンツなら、毎日彼方の顔を見に来ていたわ。彼方が倒れたのは自分のせいだって随分気にしてた。明日、声をかけてあげてなさいな。きっと喜ぶわ」
「そっか……ありがとう、霞」
それで安心したのか、彼方はベッドに横になると再び目を閉じ眠り始めた。規則正しい寝息と安らかな表情から見て、もう心配しなくてもいいだろう。
「どうしてこういつも大事なところで霞ちゃんに取られるんでしょうか……。彼方くんが目覚めたときについていたのが私だったら、彼方くんとの添い寝は私がするはずだったのに……」
ぶつぶつと恨み言を呟く鹿島を引きずって彼方の部屋を後にする。
彼方はまだ数時間は眠っているだろう。
彼方に出来るだけ元気が出る物を食べさせてあげようと思った霞は、そのまま食堂へと向かうのだった。
今回の騒動の中心となったあの指輪は、また彼方の机の上に置かれている。
あれがいつ使われるのか、それとも使われないのか――それは彼方次第。
彼方は一人、指輪も一つ――けれど、霞達は九人だ。
少なくとも今はまだ、霞達にあの指輪は必要ない。
ここまで読んでくださいまして、ありがとうございました!
今回で不穏な空気とは一時的にさようなら、次回からまた通常営業へと戻っていきます。
本小説は次章で最終章となりますが、それまで頑張って書いていきたいです。
とりあえずは、もう暫く続く第二章にお付き合いいただければと思います。
プリンツはこの小説でかなり重要な位置付けとなったので、是非幸せにしてあげたいですね。
それでは、また読みに来ていただけましたら嬉しいです!