今回は中編になります。
それでは、少しでもお楽しみいただけましたら幸いです。
「かかカナタくん……手、離さないでね!?」
「ち、ちょっとプリンツ!? 右腕は私が掴んでいるのよ、貴女には左腕があるじゃない!」
「プリンツ、やっぱり無理しないで――」
左腕……もとい左半身にしがみつき、今や右腕にすら迫ろうとしているプリンツに再度声をかけてみるが、激しくいやいやと首を振る姿に、彼方はどうするべきか僅かながら逡巡した。
(……でも、この反応はやっぱり普通じゃない。それに二人ともだなんて)
これは、単純に初めての海水浴に戸惑っているというわけではないだろう。恐らく彼女達が艦娘であることに起因する反応だ。
――無意識に自分の身体が海に沈むのを拒絶している。
彼方はあの時、もっと早くに陸へと引き返さなかったことを後悔していた。
準備運動もそこそこに、早速彼方達三人は初めての海水浴に臨むため、勢い込んで押し寄せてくる波――といっても緩やかな小波程度の物ではあるが――へと歩みを進めていた。
爪先が濡れ、脛、膝、太股と段々と上がっていく水位と共に、彼方の両隣を歩いていた少女達の勢いが加速度的に失われていく。
ついに腰まで海に浸ろうかという頃には、二人は最早一歩も動けないような状態で顔を青くして固まってしまった。
「プリンツ? 大丈夫?」
爪先や脛に波がかかる度に喜んで跳び跳ねていたプリンツは、今や彼方の左腕にぴったりとへばりついて離れない。
「う、うん。大丈夫だよ……カナタくん。まだまだ、全然へーき」
強張った笑顔で答えるプリンツは、明らかに無理をしていますという様子だ。
「いや、でも無理して泳ぐ必要なんて――」
「お願い! もうちょっとだけ……ホントに無理ならおとなしく戻るから……」
懇願するように彼方の顔を見上げるプリンツの必死とも言える瞳に、彼方は二の句が次げなかった。
何がプリンツをここまで強く海水浴へと掻き立てているのか、彼方にはわからない。
しかしここまでプリンツが言う以上は、その意思は固いということなのだろうと判断した彼方は、もう一人――今は彼方の右腕をぎゅっと掴んでいるビスマルクへと声をかける。
「ビスマルクも、無理をして海に入る必要なんてないんだ。一度皆で陸に――」
「私の事は心配しなくていいわ、カナタ。プリンツがどうしても私達と泳ぎたいと言うのなら、私も一緒に泳ぎたい」
こちらも意思は固いようだ。
きゅっと結ばれた口からは、それ以上の言葉が出てくることは望めそうもない。
彼方は二人の強い意志に根負けして、本当に無理はしないということを条件に、もう少しだけ歩みを進めてしまったのだった。
「――まだ大丈夫! 絶対、泳いで見せ――っひゃぷ!?」
比較的大きめの波がプリンツの既に涙目になってしまっている顔面に直撃する。
右腕は全身を緊張させたビスマルクに抱き締めるようにしがみつかれて、思うように身動きも取れず、波の勢いでそのまま崩れ落ちそうになっている彼女を助け起こすことさえ一苦労という有り様だ。
このままでは折角の初めてのデートも辛い思い出ばかりになってしまうだろう――プリンツ念願の海水浴とは言え、やはりこの辺りが潮時だと彼方は判断した。
「プリンツ、ビスマルク。一旦上がろう――ほら、顔も海水で濡れちゃったしさ」
「ふえぇ……しょっぱいよぉ、カナタく~ん……」
海水なのか涙なのかわからないぐしょぐしょの顔でとうとうプリンツが情けない声を上げて白旗を上げる。どうやらプリンツに異論はないようだ。
彼方は右腕にしがみついているビスマルクに視線を向けると――
「し、仕方ないわね! プリンツがそう言うのなら一度陸に戻りましょうか!」
自分からは陸に戻りたいと言い出さないと決めていたのか、ビスマルクは更に強く彼方に身体を押しつけるようにして、矢継ぎ早に肯定の意を述べたのだった。
◆◆◆
「あ~あ! ――やっぱり水上艦とUボートじゃ、住む世界が違うってことなのかなぁ。気持ち良さそうだと思ったのに……残念です」
「そうね。……まさか、自分がここまで海水に浸かることに忌避感を覚えるとは思わなかったわ」
何とか二人を抱えるようにして砂浜に戻ってきた彼方は、休む間もなく二人を残して鎮守府に大きめのタオルを取りに戻っていった。
今は二人して砂浜で膝を抱えて、迷子の子供のようにただ座って彼方の帰りを待っている。
あれほど恐ろしいと感じた海も、砂浜からはなんてことのない――いつも通りの穏やかな海にしか見えない。
「カナタくんにもねえ様にも悪いことしちゃいました。私の我が儘に付き合わせて、こんな情けない姿まで見せて……ごめんなさい、ねえ様」
しょんぼりと肩を落としたプリンツが溢す珍しく弱気な言葉に、ビスマルクはついつい噴き出してしまった。
「ふふ……いつもの貴女からは考えられないほど弱気なのね。カナタはそんなこと気にしてなんかいないと思うわよ? もちろん、私もね」
ビスマルクもプリンツの我が儘に付き合わされたなどとは毛頭思っていないのだ。彼方もきっとそうだろうという確信に近い思いと、僅かばかりのそうであって欲しいという願望がビスマルクにはあった。
情けない姿を見せてしまったのはビスマルクも同じだからだ。
彼方の艦娘の中で一番強くあらねばならないという気持ちが特に強いビスマルクにとって、彼方に弱さを見せてしまったことは正に痛恨の極みだったのだ。
(情けない艦娘だって、思われちゃったかしらね……)
そんなことはないはずだ、と思っていてもやはり少しだけ不安になってしまう。
しかし、今は自分のこと以上に――この悲しげに俯いてしまっている、姉妹のように大切に想っている仲間のことが気がかりだった。
――海水浴という案は、きっと悪くなかった。
実際最初はビスマルク自身も楽しそうだと思ったし、彼方も楽しんでくれていたように思う。プリンツの発想は間違っていなかったはずだ。
二人が『普通の女の子』ならば、きっと大成功に終わっていただろう。
「海水に浸かることへの忌避感っていうのは――恐らく私達水上艦の艦娘が本能的に持っているものなのでしょうね。あの恐怖心は、きっと一朝一夕でどうにか出来るものではないわ」
惜しむらくは、ビスマルクとプリンツは『普通の女の子』ではなかったということだ。
それはプリンツも身を以て知ったことだろう。
だが、それを押してでも海に入っていこうとしたプリンツの真意とは何だったのだろうか。
「えぇ、そうですね……私にも、よくわかりました。艦としての私の――水底へ抱く恐怖心が」
自らを強く抱き締めるように縮こまるプリンツが、ぽそりと呟いた。
――艦娘の持つ二つの魂のうちの一つ。戦艦と重巡洋艦としての魂が、彼女達を水底から遠ざけようとする。
たかが海水浴だ、海の中とは言え地に足はついている。
彼方だっているし、溺れることなど万に一つもなかっただろう――でも、ダメだった。
頭では分かっていても、魂が拒絶してしまうのだ。
「……ねえ様。やっぱり、
「……プリンツ」
――艦娘とは人の形をした兵器だ、というのがビスマルク達の母国の人間が持つ艦娘に対する共通認識だった。
当時からその考え方があまり好きになれなかったビスマルクは、その言葉を投げ掛けられる度に幾度も否定を重ねてきた。
時にはそれを行動で示すため、敢えて命令違反を犯すこともあったが、信じられないという顔をさせてやれたくらいで、結局
――イレギュラー。厄介者。
ビスマルクが人間達からそう認識されるまで、然程時間はかからなかったように思う。
厄介払いかのように次々と厳しい戦場を点々とさせられていたビスマルクは、それでも沈むことなく戦い続けた――やがて母国では不自然なほどに高い練度を誇る戦艦となるまで。
そんな中でずっとビスマルクと共にいてくれたのが、目の前にいるプリンツだった。
彼女もまた『自分達がただの兵器だなんて思いたくない』という思いが人一倍強かったのだろう。
それだけに、今回の件は彼女にとって相当に大きなショックであることがビスマルクにも容易に想像できた。
だって――他でもない自分自身に『お前は人間ではない』と否定されたのだから。
満足に彼方と遊ぶことさえ出来ない、人間としては出来損ないの存在――
今日のデートとは互いの親睦を深めるためにあったのだろうとビスマルクは理解していたが、今はプリンツにとってはもっと大切な目的も含まれていたように思えてならなくなってきていた。
「ねえ様。私……日本に来て、私達のことを大切に扱ってくれる提督さんに出逢えて……勘違いしちゃってました。人間になんて――なれるはず、ないのに」
初めて見る諦念のこめられた表情で自嘲気味に吐き出されたその言葉は、恐らく彼女の偽らざる本心だ。
いつも明るく振る舞ってくれる――ビスマルクを笑顔にさせてくれる姿とは全く違う弱々しさに、ビスマルクは戸惑いを隠せない。
(プリンツは、人間に憧れていたの?)
何故かそう問いかけることすら出来ず、ただ彼女の顔を見つめることしか出来ない。
その今まで見せたことがない、深い哀しみに彩られた瞳からは微かな絶望がたゆたっているように、ビスマルクには見えた。
ビスマルクは今まで一度も、人間になりたいと思ったことはない。
飽くまで自分は艦娘だ。心を持ち、人間を深海棲艦の脅威から守るために生まれてきた人に似て人ならざる存在。
最も力を持つ戦艦としての矜持を持って、ビスマルクはこれまで戦い続けてきた。
プリンツも同じ気持ちなのかと思っていたが、実際は違っていたらしい。
ただの兵器として扱われたくはない、という思いは共通していたが、その思いの根底にあるものは全く別のものだったのだ。
そんなビスマルクに、今のプリンツにかけてあげられそうな言葉は、どうしても見つけることができなかった。
「――ごめん、待たせちゃって! まずはこれで身体を拭いて」
暢気な声を上げて戻ってきた彼方と全身を包まれる柔らかな感触に、沈黙を保つことしか出来ず己の無力さを痛感していたビスマルクは、自分でも気づかないうちに安堵の溜め息を漏らしていたのだった。
ここまで読んでくださいまして、ありがとうございました!
次回でプリンツ、ビスマルクとのデートは終了予定です。
それでは、また読みに来ていただけましたら嬉しいです。