そうだ、どこかへいこう。頭の中で誰かが囁いた。
出勤中の、いつものプラットホーム。今日も乗り切れずに次の通勤急行を待つ間に、そんな思いに取りつかれた。
次の列車が来た。これには身体を押し込めばなんとか乗れそうだった。
「はい列車発車いたします!はい身体強く引いてください!」
駅員が声を張り上げる。私はドアの上に手をかけて身体を押し込もうとする。
「はいじゃあすみません、押しますよ!」
駅員にそう声をかけられたとき、私は叫んだ。
「すみません、おります。おります!」
駅員はにこやかに列車から降ろしてくれた。
ホームに降り立つと、地獄のような電車は扉を閉めた。
「分散乗車にご協力ありがとうございます」
私は無理な乗車を諦めて鉄道会社に協力をしたと解釈されたらしい。滑稽だった。
私はハンケチで口元を抑えつつ、いつものホームに背を向けた。
そして私は、急行に乗った。
「毎度ご乗車ありがとうございます。この列車は……」
いつもより丁寧な気がする車内放送を聴きながら、窓の外を眺める。
携帯の電源は切った。そろそろ連絡が鬼のように来る頃だ。
別に何か理由があるかと問われれば、何もない。
別に嫌気がさした訳でもない。
ただ、頭の中で誰かが囁いたんだ。ここじゃないどこかへ行こうって。
列車はいつの間にか住宅地を通り過ぎ、谷間を縫うように走り抜ける。川の上を鉄橋で渡ると、川のあぶくがしっかりと見える。緑が後ろへ飛んで行き、その隙間から自動車道が見える。
車掌が検札に来た。
「切符を拝見いたします」
「すみません、切符がありません。清算をお願いします」
「はい、どちらまで?」
「わかりません。一番遠くまで」
「そうですか」
まだ若そうに見える車掌さんは手元の器械をカタカタ操作すると、なにやら薄っぺらい紙を出した。
「一番近くの大きな駅までの切符です。そこで一端降りたら、フリー切符をお求めになるとよいでしょう。それか、その駅からなら国鉄が出ています。特急が止まるはずですし、それに乗ればどこまでも行けますよ」
そう言って切符のなりそこないみたいな紙を出してくれた。紙の切符だなんて、何年ぶりだろう。
「620円です」
「ありがとうございます」
「いえいえ、仕事ですから」
そういうと、車掌さんはどこかへ行った。
車窓はいつの間にかにのっぱらになり、ぽつぽつと家が見え始めたかと思ったら駅に着いた。
「大和羽生~大和羽生です。国鉄線はお乗換え~」
列車から降りると、にわかに駅員たちが騒がしくなった。何事かとみてみれば、車両と車両の連結部で何やら作業をしている。
「当駅で後ろ5両を切り離します。この先水川方面へ行かれるお客様は前より3両をご利用ください」
見れば、お客たちがさも当然のように乗り換えてる。
駅員はてきぱきと作業を進め、あっというまに一つの列車は二つになった。
「お客さん、乗りますか?」
さっきとは違う車掌さんにそう聞かれた。
「いえ、乗りません」
「そうですか、すみません」
そういうと車掌さんはそのまま列車のドアを閉めて、そして列車は発車していった。
勤務先と最寄り駅の延長線上にあるところなのに、こんな景色があるだなんて何も知らなかった。
一端改札の外に出て駅の窓口に行った。窓口で適当に路線図を見る。
「目的地は決まりましたか?」
ぼさーっと立っていたら先ほどの車掌が話しかけてきた。
「いえ、まったく」
路線図に書かれている数多の文字が、実感のない虚無なものに見える。
結局私は何も知らないのだと言われているようで悲しいよりも途方に暮れる。
「だったら、ここから支線に乗って終点まで乗ってみるのがいいですよ」
「支線、ですか?」
「ええ、支線です。沿線は情景に富んで楽しみに尽きないと思います。人も少なくて落ち着けますよ」
それはいい。さっそく行ってみるとしよう。
「それはそのフリー切符とやらを買えばいいんですか?」
「ああいえ、この路線は終点まで下りずに往復するぐらいならフリー切符は要りません。でも、もし途中下車されるならフリー切符が便利でお安いですよ」
「あら、そうなんですか?これはご親切にどうも」
「いえいえ、なにぶん支線は赤字なもので。一人でも多くの方に乗っていただければ嬉しいということですよ」
車掌は笑って詰所に引き上げていった。最後、ドアを開けると振り向きざまに「5番線発車ですよ!」と教えてくれた。
私は窓口でフリー切符を買い求めると、5番線へと向かった。
駅のピクトグラムに誘われるがままに5番線へ向かうが、肝心の5番線が見つからない。
4番線まで来たから5番線はすぐ隣なはずだが、5番線がない。迷っていると、駅員さんが話しかけてくれた。
「お困りですか?」
「ああいえ、5番線が見つからなくて」
「ああ、5番線ね。4番線の端っこにあるんですよ。ほら」
駅員さんの指さす方を見ると、4番線のプラットホームが途中で終わっていて、その先が5番線になっていた。
その先にちょこんと、小さな電車が鎮座していた。これが支線の電車か。
「まもなく、大和高原行の電車、発車いたします」
笛がピー!っと鳴らされる。
「おっと!お客さん、あれに乗らはる!?」
「あ、え、ええ」
「あー!ちょっち急いで!はいはい!」
駅員さんがあわててマイクを取り出した。私は電車まで駆けた。
「5番線、お客様乗降中です!」
そういうと、ひょこっと顔を出した乗務員さんが手を出して合図した。
「はい、乗れますよ!」
「どうもすみません!」
顔も見ずに頭を下げ、電車に乗り込んだ。一両編成の小さな電車だった。
私が車内に入ったとたんに扉が閉まった。改めて駅員に会釈する。
しかし、わざわざ構内放送を使ってまで電車を止めてくれるとは思わなかった。遅れがでてはいないだろうか。
「いやしかしアンタ、間に合ってよかったわねえ」
電車はさほど人は乗ってなく、その数少ないうちの一人が話しかけてきた。
「ええ本当に。悪いことしてしまいましたわ」
話しかけてきたのは初老の女性だった。それでもきっと、私より若いのだろう。
「いいのよいいのよ。この線は二時間に一本あるかどうかですもの。きっと待ち惚けてしまうわ」
そう言って女性は笑った。
こんな何でもない会話が、新鮮で驚いた。
電車は右へ左へ大きく揺れながら先へ先へ進んでいく。
「次は~椎唐~椎唐」
大きく左に揺れて、電車は止まった。結構な数のお客が降りて、ただでさえ少ない車内が更に少なくなる。
「アンタさん、どこに行くの?」
先ほどの女性が話しかけてきた。
「いえ、特に決めてはいないです」
「あらそう。ならね、この駅で降りてみるといいわよ」
丁度、どこかの駅で降りねばと思っていた頃だ。
「ここには何かあるんですか?」
「あのねえ、せんべいがおいしいのよ。食べていってちょうだい」
「せんべいですか」
「そうなのよ~。ご当地特産なの。良かったら食べて頂戴」
「ありがとうございます」
せんべい、と聞いて俄然立ち寄りたくなった。私、食べ物には目がないの。
駅は簡素な木造で、それでも少し大きいようだった。
100年前にこんなような建物をよく見た気がする。震災後はめっきり減ったけど。
古びた、それでいてしっかりとした改札口を抜ける。
「ありがとうございました。はい、ありがとうございました」
無機質な電子音ではなく、人の声で改札に出る。
目に飛び込んでくるのは、時間が止まったかのような商店。のぼりには「名物 せんべい」と書いてある。
信号のない道路を無造作に横断して、店の中に入った。
「すみません、おせんべいひとつ」
すっきりしない青空の下、せんべいを頬張る。
しっかりとした塩見がおいしい。
これは濡れ煎餅と呼ばれるものだろうか?しっとりとしたそれを紙に巻いていただく。
かじれば少し過剰なしょっぱさが差し込んでくる。でも、外側が少し甘いおかげでそれもまたおいしい。
はむ。はむはむ。少し大きき目のそれを一口ずつ口の中に溶かし込んでいく。
しっとりとしているせいで髪切りにくいが、かわりにぼろぼろと零れ落ちにくい。
一口一口、心が高揚してくるのがわかる。
「上々ね」
白くかすんだ太陽の下で、すこしぽかぽかとしながら食べる。味よりも何よりも、それがおいしかった。
「お客さん、どこから?」
店主のあばあさんが話しかけてきた。
「少し、都会の方から」
「あらあら、そんなところから。よく来てくださいまして」
「おせんべいおいしいです」
「ありがとうねえ」
こんな、“生きている”会話をしたのはいつ以来だろうか。もしかしたら初めてなんじゃないだろうか。
口をついて、言葉が唇から零れ落ちてくる。それがとてつもなく心地よかった。
「これね、お土産でもらっていって」
そういっておばあさんが差し出したのは、小さな小包と飲み物だった。
「あら、おいくらですか?」
「いいのよいいのよ、持って行って」
だがしかし、そんな気軽にもらえるようなものには見えない。
「いいんですか?」
「あたしゃもう飲めんのよ。これぐらい、軽いもんさあね」
見ると、お弁当とお酒。旅には丁度よさそうなものだった。
「ありがとうございます」
「いいのよいいのよ。こっから先、どこかいくの?」
「いえ、まだ決めてなくて」
「あらそうかい。ならね、このまま電車に乗ってね、終点まで行くがいいね。そこまで行きゃあ温泉があるでね」
「温泉ですか?」
「温泉よ温泉。食べもんなら温泉饅頭があるさね」
「あら、それはおいしそう!ぜひとも行かせていただきます」
「いってらっしゃいな」
また一つ、良いことを聞いてしまった。
「ありがとうございます。また来ますね」
「あらまあ、期待して待ってるわ」
なんだか、嬉しかった。
駅に戻ると、電車まであと45分もあるみたいだ。
なにかいいところはないかと地図を見ると、すぐ近くに隣の駅が見えた。
「すみません、これ、隣の駅まで歩いていくとどのくらいですか?」
近くにいた駅員に聞いてみる。
「ん?ああ、だいたい30分ぐらいですよ。ほら、ハイキングコースになっててね」
見てみると、高原ハイキングコースと書いてあった。確かに駅まで30分で行けるようだ。
「ありがとうございます」
「ああお客さん、歩くんなら飲み物買っていった方がいいですよ。冬場でも歩くと結構脱水になりますんで」
「あら、ご丁寧にどうも」
駅員の忠告通り、飲み物を自販機で買い求めてから歩き出す。
割れたアスファルトの道路から外れて、草木の生い茂る砂利道に入る。
通勤用に運動靴を買っておいてよかった。勤務用の靴だったら今頃足をくじいていた。運動靴でさえもうすでに足が痛いのに。
少し歩いただけで、息が上がる。やはり
重心が動くと、癖でそれを立て直そうとしてしまう。波があるわけではないから、結局つんのめったり変な体勢になったりで、そろそろ腰を痛めそうだ。
ぎこちない足さばきで石を蹴飛ばしながら歩みを進める。
ところどころに、木の電柱みたいなものがある。不思議に思って進めば、なにやら看板が。
『このハイキングコースは、関畿日本鉄道大和高原線(旧:宇崎鉄道大和本線)の廃線跡を利用して作られたものです。この線路は大和本線の一部として作られましたが、1962年によりカーブの少ない新線へ移行しました。新線も、1989年に知隙線(現在のルート)ルートに変わってしまいました。これは、開業当時の面影を残す数少ない貴重な遺構です。大切にして未来へ記憶を守りましょう。』
なるほど、ここは昔線路だったんだ。なればこれは電車の架線柱か。
見てみれば傾斜もカーブもハイキングコースにしてみれば緩やかな気がする。なるほどこれは確かに電車用の線路であったに違いない。
ところどころに枕木のようなものがあるのは、演出かはたまた当時の面影か。何十年も前のものだと、もうすでに腐りきって土に返っていることがある。これは演出だろうか。
いやしかし、演出だと思ったものが意外と往時の遺物だったりするらしく、それが遺構探求の“アジ”らしい。
構わず進んでいくと、突如として道が急峻になる。ここらで本格的な山道になり、遺構とはおさらばのようだ。
グッド・バイ、旧線。また来るかもしれない。
私を待ち受けていたのは丸太と土で作られた階段のようなもの。
雨かなんかで土が侵食され、階段部分がえぐられている。あるのは詰みあがった丸太で、非常に歩きにくい。
自治体各位には、せめてコンクリート製にするかすべて木製にしていたきたいものだと愚考する。
足が痛い。それと共に太ももとふくらはぎの痛みも出てくる。
だけれども楽しい。息が上がるたびに、変な話だが生を実感する。
別に自然の空気を吸ったからでも運動したからでもなく、ただいまここにいることそれが、なぜか精神の中に生を想起させる。そして息を上げるという行為でそれが補強されている。そんな感じがする。
一歩一歩が軽くなっていく。まるで痛みと反比例するように。
私はそんな性癖を持った覚えはないのだけれど。
電車の音が聞こえる。きっと先ほどの駅ですれ違う反対方向の電車だろう。
唸る音が聞こえる。電車も今ここで生を実感しているのだろうか。
階段を上り切った先に、これまた古びた駅舎があった。うっそうとした森林の中にぽつんと佇んでいるそれは、時代に置いていかれたと言うよりもむしろ、自ら望んでそこに存在するかのように思える。
無人の駅を通り過ぎてプラットホームに行くと、電車がやってきた。
運転士にフリー切符を見せて乗った。
その時、フリー切符と一緒に路線図や観光案内をもらったのを思い出した。
路線図だけ取り出して、席に座る。
さっきまで空虚な文字の羅列に見えたそれが、今は少しだけ実が詰まって見える気がする。
行ったところはその情景が、行ってないところには想像が、ありありと頭の中を巡る。
この文字の向こうには何があるんだろう。
目指す“大和高原”の文字とその間にあるいくつかの文字に、心が踊る。
もしかしたら、これが旅と言うやつなのだろうか。
それに思い至った瞬間、このこころの高揚が、好奇心と楽しさであることを知った。
列車は急カーブを不安げな音を立てながら進む。
軋む音が面白く聞こえる。
この次の駅は一体、どんなところなのであろうか。
to be continue maybe someday......