遠い遠い海の果て
遠い遠い陸の果て
遠い遠い空の果て
私がこの体でなかつたら、きつとそこへ行けたのに。
きつと貴方はそこに居る。貴方のところへ行けたのに。
人間はいいな。
海の果て。陸の果て。海の果て。どれも空をびゅんと飛んで、あつという間にいってしまう。
私はひかうきになりたかつた。ひかうきなら、あの自由なる翼を持つひかうきなら、貴方のところへ飛んで行けただろうに。
人間はすごい。
今では空の果てさへ超えて、
きつと貴方はそこに居る。
宇宙さへ超えれば、絶対に貴方に辿りつけるだろうよ。
人間に生まれればよかった。
人間なら、人間なら。
朝目が覚めると、貴方は隣で眠つている。
半分覚醒しつつも、起きることを拒んでる。
私は眠い体に鞭を打つて、貴方の為に置きあがる。
昨晩の残滓が、体を余計に重くする。
台所へ立つと、丁度夕飯の残りがいい具合になつていた。
肉じゃが、味噌汁、肉うどん。
おおよそ朝飯には向かぬ物ばかりだけれど、あの人は、朝はうどんしか食さない。丁度いい、うどんにしよう。
あの人はおなかを壊しやすい。やれ胃腸炎、やれ食道炎、やれ盲腸。終いには胃に穴が開いた。
更に悪いことに、開いた時、まさに夜のその最中であつた。
そんなに具合が悪いのなら、おとなしくしていればよろしかったのに、彼は私を抱こうとしていた。
仕方がないから、私はすぐに消防に連絡し、裸のままでは具合が悪いので、彼に服を着せ、私も服を着た。
結局あのときは、病院から出てくるのに1カ月もかかった。
さあ、朝飯の準備ができた。
その時、貴方は床から出て来た。
毎日毎日いつもそう。貴方は私が朝の準備を済ませるのをまつているのだ。
「おはよう」
ボサーつとした、如何にもさえない冴へない男が、ぬぼーつと立っていた。
是のごとき男の何処に惚れたのか。下着一丁で股をぽりぽり掻きむしりながら、あなたは大きなあくび。どこからどう見ても美男とは言い難い。
如何に愛してしまったのか。友人に何度聞かれたことか。
しかしていかに酷い事をされようと、私は貴方を愛している。
惚れた者の弱みなり。甘んじて受け入れませう。
「そんな恰好じゃあ馬鹿にされてしまいますよ?さあさ顔を洗って来てください」
横着者の貴方は、桶に溜めた水に顔を突っ込むだけで済ませた。これはまだいい方だ。
酷い時は外に出て、雨を浴びて終わる時もある。
「朝の洗顔とは目を潤し目を覚ますためにやるのであつて、顔を綺麗にする目的で行うものでなし」と、貴方はいつも言う。貴方は屁理屈がうまい。屁理屈合戦で私が勝てたためしがあっただろうか。いやない。
朝飯が終わると、貴方は軍服に身を包む。こうしてみると、こんな男でも恰好よくもなるものだ。
そういえば、貴方に初めて会つた時も、貴方は軍服に身を包んでいた。私が惚れたのは、軍服のまやかしだったのであろうか。
いや、違う。
あなたはそっと私を抱きしめる。
ああ、私はこれに惚れたのだ。この力強く優しい腕は、確かに私の惚れた腕だ。
私が崩れた時、貴方はずつと私を抱いていてくれた。その腕の中でずつと守ってくれた。だから私は惚れたのだ。その容姿でも、地位でもなく。その優しさに。
ありがとう、ありがとう。
その優しさが、私には痛い。
朝日が玄関に差し込み、私の瞳孔がきゅつと閉まる。
行つてきます、とそう言った貴方が、光へと吸い込まれていく。
さやうなら、貴方。
その瞬間、世界がゆがむ
瞼の裏に、ほんの何瞬で造られた世界が、急速に瓦解する。
ああ、終わつてしまった。あの美しき世界が。
遠い遠い空の果て
遠い遠い海の果て
遠い遠い陸の果て
私はそこに行ける。ひかうきで、列車で、船で。
でも貴方はそこにはいない。どこを探しても貴方はいない。
いや、いる。貴方はここに居る。でも、居ない。
貴方はいつも隣で笑つている。楽しそうに、そして優しく。
貴方との距離は約10糎。いや、5糎もないだろうか。
でもその距離は、どんな乗り物を使つたとしても、たどり着ける筈がなかった。
ああいつそ、どこか遠くの異国の地にでもいてくれればよかつたのに。そうすれば、貴方は私を抱きしめてくれただろうに。
ねえ、貴方。貴方に私はどうしたら会えるの?