今日も特に何も起こらないごく普通の日だった。
帰りがけに寄ったスーパーの袋を片手に、特筆すべき点もない部屋に帰る。
「ただいま」と呟き、電気を点け鍵を閉めた辺りで、ふと疲れた気持ちになった私は靴を脱いでふらふらとベッドに直行した。
着替えどころか食品を冷蔵庫に詰めてすらいないけど、誰か咎める人がいるわけでもなし。特に理由もないが、存分にだらけたい気分だったのだ。
ベッドに寝転がり、サイドテーブルの上に山積みにされている本を一つ手に取る。
『転生したらスライムだった件』……今流行りのネット小説の書籍版。たまたま連載当初から追っていた作品だ。
私、わりと熱しやすく冷めやすいタイプだから、あまりひとつの作品に入れ込むことってないのだけど。
これだけは何故か話が気になって続きが読みたくて……。
何でかな。別に俺TUEEEモノが好きって訳でもないのにね。文体や世界観的なものが合ってたのかな。
スマホでもなろうのページを開いてざっと目次をスクロールする。本編は約250話。番外編やらを含めると約300話。隙間時間を使ってヘビロテしたのでストーリーは大体頭の中だ。
どこが良いって、まず完結しているのがいい。つまりエタる心配がなく、心置きなく一気読みできるってことだ。
あと仲間キャラがロストしないのも悲しくならなくていい。ご都合主義? 上等だ。世にも悲惨な物語なんて、現実だけで十分だろう。
俺TUEEEというよりは俺たちTUEEEって感じで、負けイベントも少々あるが立ちはだかる敵は軒並み倒し、最終的には主人公が最強になり世界は平和になる。実に良いことだ。
主人公、悪魔やら魔王やらをわんさか配下に持つ大魔王だけど。
これも一種の世界平和の実現……かもしれないと、私は希望を抱いたのだ。
平和、いいよね。争いは苦手。煩わしい。
世界中に存在する人間全てが争わず、憎まず、疎まず……友好的であったなら。なんて素晴らしいことだろう。
夢見がちっていう自覚はある。
実際、そんなことは不可能だ。人間に感情と自由意思がある限り。
心がひとつになることなんてないし、面白半分で邪魔してやろうとする奴なんてどこにでもいる。
一致団結して世界平和なんて、それこそ夢物語だ。
けど。リムルなら、どうにかやってくれそうな気がするんだよね。
作者をして主人公から大先生とスキルを取ったらカリスマくらいしか残らないと言わしめた、あの最強スライムなら。
どんな理不尽でも、一層理不尽にどうにかしてくれそうなのだ。
だから私は、転スラが好きなのかもしれない。
「……この世界にいきたいなぁ」
天井をぼんやりと見つめて呟いた。仰向けに寝そべり、スマホは腹の上に。ちょっと温かい。
何というかね、夢があるんだよ。転スラの世界って。
意思の強さ、願う気持ちの大きさによってスキルが獲られるのなら、私は一体どんなスキルを獲得するのかな。
ごたごた考えてたら、眠くなってきた。
いいや、このまま寝ちゃおう。帰ってきてからまだ着替えも済ませてないことなんてすっかり意識の外に追いやって、私は眠ることにした。
うん。五分だけ。ちょっとだけだから。本当に。
だいじょうぶ。このまま朝までとか流石にあり得ないし。ちゃんと起きるよ……
《……………………………………………》
……すーっと遠くなっていく意識は、どこからともなく聞こえてきた機械的な声を、意味ある言葉として認識しなかった。
そして、世界は暗転する。
☆ ☆ ☆
……目が覚めた。
やばい、ぐっすり眠ったときのようにすっきりしている。たぶん朝だ。だって眩しいし。
一晩経ったということは……スマホの充電とスーパーで買った食材と服の皺がやばい!
ここまで一瞬で考えて、カッと両目を抉じ開ける。
稀に謎の浮遊感……というか落下感?に襲われて目覚める時と同じような感覚。身体より先に頭だけ起きてる感じ。
まず目だけを見開いて……そして見えた光景の信じられなさに数度瞬きをする。
えっと……え? 待って?
何か……どこか知らない荒野のようなとこに突っ立ってるんですけど……?
茶色い土はカサカサにひび割れ、乾いた風が吹き抜け、周囲には人どころか人以外の生物すら見当たらない。建造物もない。
いや、どこだよ、ここ……。
茫然と立ち尽くすしかない私の手には、近所のスーパーのレジ袋のみがぶら下がっていた。
……とりあえず、現実逃避気味に袋の中身を漁ってみる。
にんじん、たまねぎ、じゃがいも……買ったそのまま、特におかしなものは入っていない。カレーが作れそうな食材しかない。
飲み物もあるので、とりあえずしばらくは乾き死にも飢え死にも免れそうだ。ははは。笑えない。
はぁ……。若干死んだ目で天を仰ぐ。
さんさんと降り注ぐ日射しが眩しい。そして温かい。焼ける。
乾いた風に、ざらついた砂に、突き刺さるような日射し。こうもリアリティーがあると、どうせ夢でしょとも思えないな。そもそも明晰夢とか見たことないし。
んで、夢じゃないとしたらやはり……転移なのか。
えー……。こういうのはもっと、血気盛んな学生くんとか人生に悲観してるサラリーマンとかが置かれるべき境遇でしょう。どうして私が?
……まあ、転移しちゃったものは仕方がないか。
テンプレ的には世界を救わないと帰れなかったりそもそも帰還手段がなかったりするけど、案外ひょっこり帰れるかしれないし。
とりあえず……移動するか。まず人間を見つけたい。いたらいいなぁ。
そして数時間後、当てもなく何となくで荒野を歩き続けた私は、無事第一村人……ではないが、一人の人間と出会った。
人間の、少年だ。歳は十歳そこそこ。金髪碧眼で、かなり整った容貌をしている。まるで少女のような美少年だ。それと、腰に剣を携えている。
……んん? 何か……どこかで見たような顔だけど。
いやそんなまさか。気のせい、だよな?
しかし気のせいではなかった。
何故なら、彼は……
「クロエという少女を知らないか」
__身の丈に合わない剣を片手に、金髪碧眼の美少年は私に問う。
その、覚えのある名前と……相対する彼の『少女と見紛うばかりの美貌』が、脳内でパズルのピースのようにピタリと嵌まった。
……クロエ? それって、転スラのキーパーソンの一人の名前じゃない?
金髪碧眼で、女のように美しい男? そんなキャラクターが、いたじゃないか。
レオン・クロムウェル。魔王の一柱にして、異世界人であり、また真なる勇者でもある男。
そう、本編のおよそ300年程前……邪竜ヴェルドラが勇者によって封じられ、混乱はあるものの世界が落ち着きを見せ始めた頃に、彼はクロエと共にあの世界へと転移してきたのではなかったか。
突如としていなくなってしまった……実際はユウキによって未来に召喚された……クロエを探して、レオンは世界中を一人で旅し、魔法を修得し、知識を求め魔人を滅ぼし……いつしか配下が増えて行き、小さな領土を手に入れ……
ああ、覚えている。私がWeb版の転スラを何周したと思っているんだ。数えきれないほどだぞ。
まだ転スラがそれほど有名でなかった連載中から追い掛けてきた、この私が。
忘れるはずがない。間違えるだなんてありえない。
何より、この魂が確信している。
目の前の少年は、間違いなく、クロエを探して世界中を旅しているレオンだ。
そして……この世界は、転スラの世界、なんだ。
……私のよく知る本編の時間軸より、およそ300年も過去の世界だけれど。
なんと。少年が帯剣してた辺りでファンタジーな世界観なんだろうなぁとは思ったけど、まさか転スラの世界だなんて。転スラのこと考えながら寝オチしたからかな?
理由はさておき、私が転移したのが転スラの世界だと言うなら朗報だ。だって見知らぬ異世界よりはずっと生きやすい筈……いやそんなこともないな。
まず第一に、元の世界への帰還手段が存在しない。
絶対に不可能という訳ではないけど、最低でも時空に干渉できるスキルと、それを高い次元で使いこなせるスペックが必要だ。うん、人間には絶対無理。
まあ別に帰らなきゃいけない理由とか特に思い付かないからこの件については置いておこう。
ああ、意識してみればユニークスキル獲得してるね。でも……戦闘向きかって聞かれたらそうでもない。どっちかというと生存向き?
私はごく平凡に生きてきた普通の人間なので、実は剣術がすごくて~とか古武術を習ってて~とかいうことはまるでない。つまり現状、戦闘が出来ない。
盗賊も魔物もわんさかいるこの世界で一人で生きていくには、力が必要だ。今の私にはそれがない。
……無力だ。どうしようもなく。
「……どうしたんだ?」
俯いて黙り込む私の様子が気になったのか、レオン少年が声を掛けてきた。
そうだ、返事をしないと。クロエのことは……知ってるけど。言えない。未来に召喚されたなんて。
証拠なんてないし、信じてもらえる筈もない。
けど。嘘をつくのは嫌だった。
何とか絞り出した声は、笑いたくなるほどに情けなく、か細かった。
「ごめんね。私、ついさっき此処に来たばかりだから……」
「……異世界人か」
理解が早くて助かる。こう言っておけば、私がクロエのことを知る筈がないって思ってくれるだろう。
どう、しようかな。これから。たった一人で。
……。
「おい。泣くな」
「泣いてなんかない……!」
咄嗟に目元に手をやるが、涙は出ていなかった。
でも、レオン少年からすれば私は泣いているように見えるんだろう。
涙のあるなしではなく。この心細さを感じ取って。
……ああもう、子供に気を遣わせるなんて情けない! ぴしっとしてないと。
何もない目元をごしごしと擦って、私はしっかりと前を向いた。
そうだ。立ち止まっている暇なんてない。
力がないなら手に入れればいい。
この世界で生きるために、強くならないと。
私は、この世界で生きたい。
「大丈夫だよ。私のことは心配しないで」
上手く笑えているだろうか。
自信はないけど、心配してくれてありがとうの意を籠めて軽く頭を下げて歩き出す。当てもなく。
……が、すぐに腕を掴まれて立ち止まるはめになった。
振り返ると、何やら顔をしかめたレオン少年が。
怖い。美形の不機嫌顔、怖い!
おそるおそる「何かな……?」と尋ねると、レオン少年は返事の代わりにひとつため息をついて、そして私の腕を掴んだまま歩き出した。
「えっと……?」
「人間の町はこっちだ。……当分の面倒くらいは見てやる。あとは自力でどうにかしろ」
「!」
それは……願ってもないことだけど。いいの?
じっと端正な横顔を見つめるが、当然のように真意は掴めず……しばらく歩いた頃には、私はすっかり開き直った。
本人が言ってるんだ、お言葉に甘えよう。むしろ、そうしなければ私に明日はないだろうから。願ったり叶ったりじゃないか。
というわけで。
「ねえ、きみ。名前は? きみのこと、なんて呼べばいいかな」
「……レオンだ。好きに呼べばいい」
「じゃあレオンくん。私はキキョウっていいます。これから、その……お世話になります……!」
……こうして、この世界が転スラの世界だと知った私は、偶然出会ったレオン少年としばらく行動を共にすることになる。
彼は様々なことを私に教えてくれた。この世界の常識から魔法の数々、剣術まで。
指導は厳しかったけれど、それも彼なりの優しさなのだと私は知っている。
気が付いたときには「レオン」「キキョウ」と気軽に名前で呼び合う仲になっていた。気の置けない友人、と言ってもいいだろう。はは、何だか照れくさいな。
この世界で初めて出会った人間が、レオンで良かった。
心の底から、そう思う。
10/8 一部加筆修正しました
2018.01.19 一部加筆修正