モモンガさん、世界征服しないってよ   作:用具 操十雄

93 / 135
前編22,000文字


CLIANA QUEST 前編

 

 これは、とある剣士に雇われた女中(メイド)が、花瓶を求めて魔導国を右往左往し、混沌・騒乱の渦中で掻き混ぜられながら成長する、どこにでもあるささやかな物語である。

 

 

 

 ブレイン・アングラウスの邸宅にて、館の主と居候二名は冒険から戻らず、クリアーナはこの日も掃除に明け暮れた。自分一人分のいい加減な食事を終え、装飾の派手なカップで紅茶を煎れ、鼻歌交じりに優雅な一時を過ごしていた。それも長くは続かず、訪れた王宮の使者にティータイムは阻まれる。

 

 ブレインが意識を取り戻したと聞き、初めて主人が何らかの危機的状況に陥っていたと知った。職を失う恐怖は全ての疑問を丸呑みにし、慌てた彼女は出掛ける準備もそこそこに、用意された馬車に飛び込む。メイドらしからぬ所作に、騎士はしかめっ面をしていた。せっかく手に入れた安住の地を失う危機に直面した彼女は、周りに対する注意がなかった。

 

 

 

 

 法国との騒乱を終えた翌日の王宮は、以前の穏やかさを取り戻していた。騎士に案内され、厳めしい執務室の前を通り過ぎようとするが、中から聞こえる喧騒に耳を引っ張られ、ドアの隙間から中を窺う。以前にブレインの邸宅を訪れた漆黒の英雄モモンが、魔導王の執務室にて椅子に座り、二人の女性をはべらかしていた。

 若い娘に相応しく、ゴシップの現場を目にした彼女の体は扉に釘付けになる。

 

「悪いが後にしてくれないか」

「報酬は一夜の火遊びでいい。こっちは命懸けだった」

「ティラさん、ずるいですよ! 私だって報酬をまだいただいてないのに」

「ブリタも一緒にする?」

「ええ!? そ、そんな……私は、その……アインズ様がそれを望むなら……」

「はぁー……ティラ、蘇生されて間もないのに、記憶が定かでないだろう。ブリタも少し落ち着きなさい」

 

 黒髪黒目の男は嫌みを込めて大袈裟なため息を吐いたが、肉欲と愛情にの磁場に引きづられる両名には効果がなかった。

 

「自分が何を言っているのか分かっているのか?」

「ナニを」

「私は今晩、空いています! すぐ終わります!」

「何がだ……」

「ナニが」

 

 嫌みは通用しないとわかり、モモンは自身の疲労を吐き出すべく、深いため息を吐いた。期待を込めてキラキラした瞳を向けてくる二人の女性は、彼の心労に構うことなく欲望を露わにしている。瞳には各々の考えていることが具体的に書いてあった。

 

「わかった、わかった。前向きに考えておくから今は下がれ。魔導国の問題は山積みなのだ」

「本当に考える?」

「私はいつでも大丈夫です!」

「さっさと下がれ。精査する書類も判を押す書類も山積みなのだ」

 

 英雄モモンが王宮の執務室に忍び込み、女性と密会するなどこれ以上ない魔導国のゴシップである。家政婦は見たとでも言いたげに、美味しい情報を掴んだクリアーナは不敵に笑う。

夢中になり過ぎて背後から忍び寄る騎士の気配に気づかなかった。

 

「あらいやだ、見ぃちゃったー……蛇様だけじゃなくモモン様も女性に人気があるのね」

「こら! 早くついて来んか!」

「わわ、はい! すみません!」

 

 項垂れてはいたものの、ブレインの強さを信じている彼女の内心はお気楽だった。それも満身創痍の主人を見るまでであり、ギブスに四肢を固定され、包帯に顔面を覆われ、会話もままならない木乃伊(ミイラ)を見てに顔面蒼白となるまでである。ガゼフの部下の騎士数名が協力し、クリアーナに道案内をされながら、リヤカーで丁重に運ばれた。

 

 

 

 

 ブレインが新居に帰宅してから二日目、邸内は静まり返っていた。無礼な蜥蜴人も、殺人鬼の女もおらず、肝心のブレインは口が利けるが生気を失っていた。傷の状況を見る限り、命に別状はない。回復薬を飲ませればすぐに起きれるが、心の痛みを忘れぬように摂取を拒み、ベッドの上から動かなかった。

 

「ブレイン様? 聞いていますか?」

「あ、ああ。聞いている」

「それでは、何の話をしていたか仰ってくださいませ」

「クレマンティーヌとゼンベルは死んだ。俺が弱いばかりに……畜生」

「違いますよ……」

 

 皮を剝いていた林檎にため息がかかる。うら若き女性の憂いを吐きかけられた林檎は、皮を剥かれた箇所が酸化を始めていた。ブレインの心ここにあらずという態度は、クリアーナから見れば仲間が死んだことを消化しきれていないのは明白だった。

 

「きっと大丈夫ですよ、蘇生できますから」

「いや……あいつらは戦士として戦って死んだ。蘇生されても、戦いの日々に戻るのは御免だろ。だから、もういいんだ」

「良くないじゃないですか……」

 

 前日に切った林檎は手を付けられず、ベッド脇の机で乾燥して埃を被っていた。

 申し訳程度に齧った形跡があるものの、愛する女と友人を失った痛手は負った傷の何倍も深そうだとクリアーナは勘繰る。

 

「素直に好きだから蘇生してくれと頼まれてはどうですか?」

「だから、そういう関係じゃない」

「はぁ……男ってバカですね」

「放っておけ」

「ほら、自覚しているじゃありませんか」

 

 「やれやれ、素直じゃないんだから」と聞こえるように呟いたが、反応はない。文句の一つでもつけてくれればよかったが、言葉はどこかに吸い込まれていった。

 

「お話の続きです。花瓶を割ってしまいましたので新しく買いに行ってもよろしいでしょうか? もちろん、私のお小遣いから出しますので」

「ああ」

「夜までには戻ってきますから、食事は気にしないで下さい」

「ああ」

「どんな形がいいですか?」

「ああ」

「クレマンティーヌ様を愛していますか?」

「ああ」

「だめだこりゃ」

 

 繰り返される会話を解決する糸口は掴めず、諦めた彼女は林檎の皮も諦めて席を立った。

 退室する彼女の背中に、ブレインの声が掛けられる。

 

「そうだ、クリアーナ。明日でいいから王宮に行って、今回の報酬を受け取って来てくれるか。買いたいものがあるなら、それで好きに買っていい」

 

 以前に白金貨をありがたく頂戴した記憶が蘇る。臨時収入の見込みに彼女の背中は粟立ち、口角が吊り上がるのを必死で抑え込む。

 これ以上ない深いお辞儀をして部屋を退出した。

 

 

 

 

 翌日、昼食後に最低限の家事を終え、自由行動を楽しもうと早々に王宮を訪れた彼女は、執務室から聞こえる騒動に耳を澄ませる。ドアの隙間から見える風景は以前と同じく、英雄モモンが女性をはべらかしていた。女性の蕩けた表情が前回と違っており、ただならぬ関係を想像させる。

 

「王様ぁ……今夜も」

「私もですぅ……」

「昼間は遠慮してくれないか。仕事が捗らんのだが……」

 

 二人とも彼の腕を取り、両手に花のモモンは難しい顔をしている。

 

「うわぁ……どうしてモモン様が執務室で不埒な行為に及んでいるのに、魔導王様は怒らないのかしら」

「おい、何やってるんだ。そんなところで」

「ふわああ!」

 

 覗いていた後ろめたさで、体が物理的に飛び跳ねた。クリアーナが振り返ると、大蛇が直立し、見下ろしていた。蛇が立つというのもおかしな表現だが、尾を器用に使い、脚の代わりにして直立している。食べられないとわかっていても、至近距離で顔を覗き込まれ、気に入らないという理由で殺される妄想が浮かぶ。

 

「よく見たらブレインとこのメイドじゃないか。何してんだ? 何か面白いものでも見えたか?」

 

 乱暴に開け放とうとした蛇の腕を慌てて止める。

 

「あ、蛇様。邪魔しちゃだめです」

「あん?」

 

 蛇は隙間から見える甘ったるい風景、気の緩んだ雰囲気を垂れ流す友人に飽きれた声を出す。

 

「……何やってんだ」

「あ、あの、どうしてモモン様が魔導王様の部屋にいるのでしょうか」

「モモ……あ、そっか。代理じゃないか? 魔導国で強者は忙しいからな」

「なるほど、そうでしたか。ブレイン様も元気がないのですわ」

「嫁が死んだ影響かねえ。早く蘇生してやらなきゃな」

「それが、ブレイン様はお認めにならないのです。殿方は不器用なものですね」

「ふーん……そりゃ困ったな。とっとと嫁にでもしておけば、素直に認めたかもな」

「その通りでございます。まったく、ブレイン様ったら不器用なのですわ」

 

 徐々に大きくなる囁きは、中にいるアインズへ届く。ドアを開いた魔導王の黒目は大蛇とメイドがうわさ話を楽しむ光景を映し、顔が歪む。肉の腐敗臭でも嗅いだのかと聞きたいくらいに、ものすごいしかめっ面だった。

 

「そこで何をしている」

「いやちょっと世間話を」

「は、はい。ブレイン様のお話を」

「さっさと入れ」

 

 もう少し雑談に興じたかった両名は、残念そうに執務室へ入室する。

 

「アインズさん、アルベドとイビルアイは?」

「アルベドはデミウルゴス、パンドラと学校建設の打ち合わせをナザリックで行っている。イビルアイは現地で作業する人員を募っている」

「ティラとブリタに手を付けたと見て間違いないでしょうかね」

「間違いない。そういうこと」

「わ、私の純潔を捧げました! たくさん抱いてくれました!」

「アルベドー! イビルアーイ! どこだ! 早く帰って来い!」

 

 大蛇は何かを叫びながら執務室を飛び出し、遅ればせながらアインズも彼を追う。放っておくと新たな戦乱の火種として、魔導国の王宮に燻るだろう。アインズの夜のローテーションを組もうと、盛り上がったアルベドと他の種族全員で殺し合いになる最悪の展開が浮かび、妄想に刺激されたアインズは慌てて蛇を追う。

 

「待てぇええええ!」

「ブレイン様の報酬を……」

 

 大蛇と青年の鬼ごっこが始まった。魔法を駆使して強引に蛇を捕え、モモンが蛇を引き摺って戻るまで、クリアーナと二人の妾は待機せざるを得なかった。

 

「魔法を使うなんて卑怯な」

「やかましい」

「二人同時に手を付けるなんて好色スね。確かこういう奴をヤリチ――」

「少しは黙れ!」

「あのエルフを笑えませんな、これじゃ」

 

 丸太のような大蛇を引き摺り、執務室に帰還すると、二名の蕩けた女性はまだ夢の中にいた。

 蛇はソファーに腰かけ、アインズも椅子に腰を下ろす。

 肘置きに腰かける二人の女性はしな垂れかかり、執務室はハーレムなのだと知った。クリアーナは目の前に座るのがモモンだと思い込んでおり、会話の順番が回ってくるまで窓の外を流れる雲を見ていた。

 

「ティラとブリタも、あまりイチャイチャすんなよ。アルベドとイビルアイに見つかったら殺されるぞ」

「妾の領分はわきまえている」

「私もです! 妾は妾らしく、おこぼれに預かれれば」

「女同士の結束は強いなぁ。よかったですね、楽しそうで」

「……まぁな」

「否定しないよ、この人。どんだけヤったの」

「それなりに……い、いや、この話はよい」

「たくさんヤった」

「はぃ、満足していただけました」

「……そろそろクリアーナに用件を聞いてもいいか?」

 

 視線を集めたクリアーナは低電力(スリープ)モードから復帰し、改めてブレインからの言伝を伝えた。アインズは命を賭して任務を遂行した彼らへの報酬を高く見ており、手持ちでは足りず、翌日に出直すよう命じた。

 

「命を賭けてくれた彼らには、それ相応の報酬を約束しよう。明日には用意しておく」

「はい、畏まりました。失礼します、モモン様」

「ん? ……うむ」

 

 素直に退室するクリアーナの背中に、自分はアインズだと公言するか悩んだが、結論が出る頃に彼女はいなかった。一向に出て行かない妾たちを椅子の肘置きに座らせ、蛇に問う。

 

「ヤト、冒険者を外交に使う試験的運用は、調査不足で過程はボロボロだったが、結果だけ見れば悪くはない。ブレインには白金貨をまとめて渡そうと思うのだが」

「いいんじゃないスか、適当にガサッっとあげれば。それよりさっき話したんですけど、ゼンベルとブレインの嫁はどうしたんですか?」

「それなのだが……実はな――」

 

 

 

 

「ふーん……そいつぁ困りましたね」

「何がどうしてこうなるのか理解できん。記憶とは難しいものだな」

「ブレインは強いから大丈夫でしょ。それより、早く遊びに行きましょうよ。行ったことない国へ外交しましょう、ガイコー」

「時々、お前をぶち殺してやりたくなるよ。毎日のようにレイ将軍が訪れ、帝国の属国化に際して皇帝と二人きりで会談させろと催促している。そろそろ法国も魔導国を訪れるだろう。それ以外にもガゼフの治療、エルフと孤児の親を蘇生、属国への対応と問題は天まで積み重ねられている。いつになればナザリックの維持費を税収で賄えるのだ」

「法国はカルネ村にでも送って謝罪させたらどうスかね。時間稼ぎもできますよ」

「怒った村人に袋叩きにされたらどうする」

「自業自得で」

 

 魔導国を訪れる準備をしている責任者たちに冷たい風が吹き、複数名がくしゃみをしたが、アインズとヤトの知る所ではない。

 

「属国への対応はデミウルゴスとパンドラを呼びましょうよ」

「駄目だ。皇帝と私を二人きりで会わせろと言っている」

「お友達にでもなるんですかね。良かったですね、現地人のお友達ができて」

「真面目に考えろ!」

 

 机に剛拳が振り下ろされ、端に詰まれていた書類が雪崩を起こす。ティラとブリタが書類をかき集めようと、腰かけていた椅子を降りた。

 

「まぁ、落ち着いて下さいよ、アインズさん。女抱いてる余裕はあったんでしょ」

「私だって現実逃避くらいしたくなる! なんだこの問題の山積みは! 営業マンだった頃でもここまで厄介事を抱え込んだ経験はない!」

「あ、光ってる」

 

 

 夕陽が差し込む執務室は、アインズの体から発せられる光に包まれ、赤い夕陽は遮断された。眩い発光の中、色白の素肌は水分を失って枯れ、肉が溶け、全身の毛髪が抜け、その全てが空気に溶けた。

 

 光が収まったのち、久方ぶりに職場復帰した精神の沈静化(相棒)は急いで仕事に取り掛かる。冷静沈着なアインズが執務室に帰還し、見目麗しい容姿は髑髏に変わった。

 

「……あーあ、もう戻っちゃった」

「ヤリ足りない」

「今夜は無しですね……」

「……」

 

 遠慮しながら言葉を選ぶ彼らに、アインズは重たい沈黙で答える。宴会芸で滑った気分に似ている気がした。先ほどまで激昂していた彼と打って変わり、執務室には静寂が流れる。神は沈黙を尊ぶが、それにしては随分と重たい沈黙だった。

 

 アインズは死の支配者(オーバーロード)に戻った。

 

 

 

 

 翌日、クリアーナは改めて報酬を受け取ろうと王宮を目指す。

 時間を見誤り、このままだと朝一番で王宮に付くと思い、時間潰しにと目的の花瓶を物色しようと手近な雑貨屋の戸を開いた。

 

 商品を選ぶ際、男性は機能性を重視し、女性は直感を重視する。

 理論に例外はなく、クリアーナは冷やかしに夢中となり、朝一番から始めたにも拘らず、お昼には三軒目の雑貨屋を訪れていた。王宮で報酬をいただく目的は後回しにされていた。

 

 メイドの姿を見つけ、なぜか揉み手で商品の説明をする店主の話によると、冒険者チーム”漆黒”関連の商品は在庫がなく、お渡しできるものがないと言われた。

 

「あのぅ、何のことでしょうか……」

「はい、漆黒関連の商品はメイドの方々が購入なさいますので」

「は、はぁ……そうなんですか」

「あなたは魔導国直轄メイドの方では?」

「いえ、私はブレイン・アングラウス様のメイドです」

 

 勘違いをしていた店主は、相手が一般市民のメイドなのだと把握し、揉み手をやめた。

 改めて花瓶を探そうと陶器が並べられている陳列棚の前に立つ。骸骨の魔導王と大蛇の陶器類が最上段のようだが、その全てに予約済みと札が貼られていた。一段下が冒険者で、その下一列が全て、”漆黒”関連の棚だったが、こちらも全て売却済みと札が貼られていた。

 花と蛇の皿が目に入る。

 

(この人が蛇様のお妃様なんだ。綺麗だなー……あ、花瓶)

 

 花瓶を見つけたものの、自宅に飾る花瓶がキャラクターものというのもしっくりこず、伸ばした手は花瓶を掴まずに戻ってくる。一般的な模様や紋章の描かれた花瓶はなかった。

 目的の品はなかったが、冒険者向けの雑貨屋は彼女の好奇心を程よく刺激し、滞在時間は徐々に伸びていく。長居する彼女に商魂たくましい店主は、明るい笑顔で近寄ってくる。

 

「もしよろしければ、新商品の試飲をなさいませんか?」

「よろしいのですか?」

「ええ、勿論です。すぐにお持ちしますので、少々お待ちください」

 

 店主が持ってきた黒い飲み物は、香りは良かったがえらく苦かった。

 思わず舌を出し、苦さを空気に溶かそうと手で扇ぐ。

 

「にっがぁ……」

「ふぅむ、やはり女性には蛇様飲料(ラキヤト)がよろしかったでしょうか。御口直しにこちらを」

「あっまぁ……」

 

 程よい中間の飲み物はないようだ。

 

「漆黒のお三方をイメージした真っ黒い飲み物なのですが、相手を選びますか」

「漆黒というと、モモン様ですか? あの方の人間の姿が描かれた商品が見当たりませんが、どうしてですか?」

「なんと! モモン様のお姿を御存じですか!?」

「え、えぇ……凄い食いつきですね」

 

 急激に興奮した店主の目は見開かれ、鼻息も荒く、体全体が紅潮していた。鼻息がかからぬよう引いた分、店主もにじり寄ってくる。

 

「常に黒塗りのフルアーマーに身を包んでいるあの御方は、誰にも素顔を見せなないとお噂でございます。どちらでご覧になったのですか?」

「あ、はい。ブレイン様のお宅に、遊びにいらっしゃいました」

「ほぅ、流石はブレイン・アングラウス様ですね。漆黒の英雄とも交友があるとは。して、どのようなお姿をしていらっしゃるのですか!? 詳しく教えていただきたい! 昼食を御馳走しますので、どうぞこちらへ!」

「あー……れー……」

 

 雑貨屋の店主は情報を得るまで生かして帰さないとばかりに質問攻めにされた。呼び出された絵描き数名によるモンタージュ作成に付き合わされ、開店予定の喫茶店に出されるメニューを一通り食わされ、彼女が解放されたのは日がすっかり高くなってからだった。

 

 後日、アインズの素顔は漆黒の英雄モモンの素顔として、誤解されたまま多種多様な商品に描かれ、魔導国中に散らばっていく。アインズがモモンとして行動すると息抜きにはならず、かえって過度のストレスが溜まることとなるのだが、それは幾分か先の話である。

 

 

 

 

「ひっひっふぅー……苦しい」

 

 噴水の縁に腰かけ、食べ過ぎて膨らんだお腹を撫でるクリアーナは、母親から習った妊婦の呼吸(ラマーズ法)を試していた。精神疲労を溜め込み、無心で蒼天の景色を貪った。膨らんだお腹を優しく撫で、口を開いて呆けていると、誰かが話しかけてくる。

 

「すみません、失礼ですが、王宮はどちらでしょうか?」

 

 年齢は20代前半で自分とそう変わらない女性だったが、着ている衣服に見覚えがあった。帝国で好まれるメイド服は、前の職場で自身も着ていたものだ。懐かしさについ探るような目つきなり、怪しまれたと勘違いした彼女は、慌てて謝罪を述べた。

 

「も、申し訳ありません、お取込み中でしたか」

「あ……ご、ごめんなさい。ちょっと疲れていたもので」

 

 食べ過ぎてお腹が痛いとは言えなかった。

 

「いえ、こちらこそ申し訳ありません」

「いえいえ、こちらこそ」

「あ、本当にお気になさらないで下さい」

「いえ、私こそ申し訳ありませ――」

 

「お姉ちゃん! 早く!」

 

 サラリーマン同士の謝罪合戦に似た不毛なやりとりは、彼女よりいくつか若い娘に阻まれる。

 その衣服はやはり見覚えがあった。

 

「あ、その服。帝国魔法学院の? あなたのそのメイド服も、帝国のものですよね」

「すみません。ええ、と、私はパナシス・エネックス・リリエル・グランといいまして、こちらは妹のネメルです」

「こんにちは」

 

 紹介された10代中ごろの娘は礼儀正しく頭を下げた。教育が行き届いているところを見ると、彼女も貴族階級出身者なのだろう。

 

「私はクリアーナ・アクル・アーナジア・フェレックです。こちらこそよろしくお願いします」

「実は、帝国主席魔法詠唱者様のお供に抜擢されまして。妹のおさな……学友が魔導国に引っ越したということで、私たちが御伴をすることに」

「あの、フェレックさん。アルシェとジエットを御存じありませんか?」

「ごめんなさい、聞き覚えがありません」

「もしかして……アンデッドに殺されたんじゃ……」

「ネメル! 魔導国で異形種を貶める行為は禁忌だと言われているでしょう!」

「はっ……申し訳ありません! 聞き流して下さい!」

「私からもお願いします! まだ妹は若いんです!」

「は、はぁ……」

 

 幾度となく頭を下げ、平謝りする彼女たちが何を言っているのか理解できなかった。そもそもクリアーナの血液は胃袋内の荷物を溶かそうと腹部に集中しており、酸素が行き届かない脳では思考もおぼつかない。

 

 魔導国の噂は帝国で一人歩きをしており、王族、貴族、一般市民まで、あまりよろしくないうわさ話が膨らんでいた。異形種を批判すると殺される、気に入らない人間は人体実験をされる、異形種が飢えたら手近な通行人を食う、皇帝は既に暗殺されたなど、枚挙にいとまがない。一部こそ的を射ているが、物騒な噂の大半は事実無根である。

 噂に踊らされている女性との話はようとして進まず、元より苛立って帝国を出た彼らの雇い人が、顔を赤くして催促をするまでそう時間が掛からなかった。

 

「貴様ら何をしているのだ! 先を急ぐと言ったであろう!」

 

 老人の怒号に二人は腰を曲げる。

 頭が地面に激突しそうな速度で、速やかに謝罪を述べた。

 

「ジルめ! 私の思考を察知し、我が神から引き剥がそうとしているのだろうがそうはいかん! 一刻も早く王宮に行き、魔導王閣下のために身を粉にして働くのだ! 魔法の深淵は目の前ぞ!」

 

 喫茶店の試食メニューは胃袋に効いており、強烈なフールーダの怒号が鳩尾(みぞおち)に響いた。置き去りにされて我慢できなくなった彼の演説は喧しかった。

 

(濃いなぁ……)

 

「お前たちも先を急ぐのだ! 何のためにジエット、アルシェの両名と面識のあるネメルを連れて来たと思っている。学校建設の大義名分であろう!」

「あ、あのぅ、長くなりますか?」

「あぁ!?」

 

 胃袋が揺らされ、どろどろになった食物の逆流を防ごうと、フールーダ老の怒号を必死で遮った。

 

「王宮へではなく、魔導王様とお会いする予定なので、一緒に行きましょうか?」

「なんと! 我が神に謁見予定なのか! もしや、魔導国直轄のメイドですかな?」

「あ、いえ。私はブレイン・アングラウス様のメイドです」

「ほほぅ、噂のブレイン殿のメイド殿か。《飛行(フライ)》で運ばせていただくのでご同行願いたい」

「いえ、女性にフライはちょっと……」

 

 交渉の末、馬車を手配して王宮まで同行することになり、食傷で動けない彼女には渡りに船である。唯一の問題は、フールーダがアインズのことを引き出そうと質問攻めにすることであった。

 

「ところで腹部を押さえているが、ご懐妊中かな」

「……違います」

 

 夕陽に赤く染められる王宮の正門にて、フールーダと面識のある騎士と遭遇し、同行している老人は再び叫んだ。

 

「レイ将軍! 貴公、ここで何をしている」

「あなたは、フールーダ・パラダイン様。なぜ魔導国にいらっしゃるのですか?」

「なぜではない。私が我が神に対する信仰を捧げることに何の問題がある」

「ふふ、一手遅かったですね。私は皇帝陛下と愛妾のロクシー様から、魔導王の部下になれるよう取り計らっていただく予定です」

「なぁにい……おのれジルめ! やはり裏切ったな!」

「裏切ったのはあなたですよ。主席魔法詠唱者でありながら、帝国を裏切るなど」

「黙れぃ! 貴様こそ将軍の階級にありながら、魔導王閣下についたではないか!」

「私とあなたでは立場が違います。私はエルフの奴隷を買い占めよと、魔導王閣下の勅命を賜っているのですよ」

「な……なぜだ、神は私をお見捨てになられたのかぁ……神ぃぃ」

 

 レイ将軍の鼻は徐々に伸びていき、引き換えにフールーダは年相応に小さくなっていった。

 

「はっはっは。これから全ての国家が魔導王陛下の足元に平伏すのです。私は特等席で拝見させていただくとしましょう」

「魔法詠唱者でもない貴様に負けてなるものか! 魔導王閣下の魔力を、今度こそ肌で感じて見せる! 魔法詠唱者のみに許された魔力の――」

「申し訳ありませんが、私は既に魔導王陛下が所持している魔力の奔流を、素肌に感じております」

「な、なんだとぉおお!?」

 

 老人が上げた驚愕の悲鳴は、今日一番の大きさだった。大人しく聞いている女性陣は両手を耳に当てて声を遮るが、それでも体の奥が震わされた。

 

「閣下は不躾な私の願いを叶え、己の力を解放して下さった。魔法詠唱者でなく、タレントも持っていない私にその力は見えません。しかし、一介の戦士である私にも陛下の偉大なるお力を感じることができました。座っているだけで絶命しそうな陛下の魔力、まさにあれこそが力です。あれこそが世界を統べる者の風格、威厳です」

「かみぃぃぃ……私が、どれほど焦がれていたのか」

 

 どちらがより部下に相応しいかと口論の傍ら、クリアーナはパナシスに話しかけていた。

 帝国の下級貴族出身者である彼女からすれば、生まれ故郷の世間話は楽しい。

 敗北を感じて体を揺らしているフールーダと、勝ち誇って胸を張るレイ将軍と違い、女性三名の会話は和やかだった。

 

「これからの予定はどうなっているの?」

「帝国に帰って職探しかしら。妹はここに残るけど、魔法の才がない私はそうもいかないから」

「ねえ、ブレイン様の邸宅は広すぎて、私一人じゃ掃除が行き届かないの」

「有名剣士様となれば、お住まいも豪華なのね」

「そこで、パナシスもブレイン様に雇われない?」

「そんなに都合よくいくのかしら」

「大丈夫よ。私も成り行きで雇われたから」

 

「アルシェ……ジエット……お願い、無事でいて」

 

 正門から一向に入って来ない喧騒に、不審に思ったメイドが声を掛けるまで、彼らはそこで談笑していた。ジエットの母が出てきていれば、ネメルの不安は解消されたのだが、新入りの彼女は多忙を極め、広い王宮でネメルとすれ違う。

 

 

 

 

 執務室に大勢の人間が並び、いつも通りの混迷に死の支配者(オーバーロード)は髑髏からため息を吐く。睨みあうフールーダとレイ将軍だけでも億劫な状況だったが、一番の問題は腕を組んで扉に寄りかかる番外席次だ。

 

 法国の人間を引率してきたのかと思いきや、彼女は単身で魔導国へ乗り込み、開口一番でヤトへ再戦を申し出た。プレイヤー両名は雑務に追われており、気分転換などする余裕はなく、無下にされた彼女は「戦ってくれるまで動かない!」と言い切ってから、言葉通りに執務室に居座った。

 

「法国の番外席次と帝国の主席魔法詠唱者、そしてレイ将軍よ。遠路はるばるご苦労であった。」

「つーか、お前帰れよ。なにフライングして一人で乗り込んでんだよ。当たり前の顔して執務室に居座んな」

 

 彼女は沈黙を以て返答とする。子供のように膨れる彼女は、人類を守護する最後の砦、スレイン法国最強の番外席次とは思えない。

 

「おう、無視か、このガキャ」

「うるさい、このガキ」

「見た目はお前より年上だ」

「蛇の年齢なんか誰もわからないよ」

 

 法国で見た光景が展開される。先手を打とうと、アインズは二人を追い出した。

 

「ヤト、中庭で喧嘩してこい」

「えぇ……メンドクセ」

「やった! 早く行こうよ!」

「ついでに空き家の案内を頼む。場所は任せる」

 

 投げやりな指令に大蛇は文句を言っていたが、番外席次に引き摺られて退室していった。単純な力は彼女に軍配が上がるようだった。二人がいないだけで肩にのしかかる荷物の大部分が消え、体が軽くなる。

 

「まず、レイ将軍。毎日、時間帯を代えて顔を出すのはご苦労だが、我々はやることが山積みだ。こちらから連絡するまで待つがいい。私としてもジルを待たせるのも心苦しい。早急にそちらの希望に応じよう」

「陛下、なぜアンデッドに戻られたのですか。いや、本当にアンデッドだったのですか」

「質問と異論は許さん。もう一度言う、こちらから連絡するまで待機せよ」

「…………畏まりました」

 

 しょげるレイ将軍を鼻で笑い、フールーダは興奮気味に前に出た。

 

「神よ! 我が神よ! 私を弟子にして下さい!」

「断る」

「そ、そんな……レイ将軍よりも私の方がよほど力になりましょうぞ! どうかお願いします!」

「どちらも私からすれば大して変わらん」

 

 レイ将軍に続き、フールーダは暗い顔で押し黙った。大きく離されていたアインズの忠臣レースが、実は鼻くそ程度の差もないと知り、レイ将軍は顔色が悪い。

 

「さて、クリアーナ。ブレインの報酬を渡す。受け取れ」

「ありがとうございます! 魔導王陛下!」

 

 小袋の口から覗く硬貨は、全てが白金貨だった。これだけあればメイドを何人も雇えるだろうと、クリアーナはにやけ顔を押し殺す。勧誘予定のパナシスとネメルを窺うと、初めて見るアンデッドと大蛇に怯え、震度3の地震に見舞われていた。

 

「さあ、私からの用件は済んだ。全員、今日は下がるといい。私の仕事はまだまだ山積みなのだ」

 

 肩を落としたレイ将軍とフールーダに続き、パナシスとネメルは退室していく。

 出遅れたクリアーナに骸骨の呼びとめる声が掛けられた。

 

「クリアーナ、ブレインの様子はどうだ?」

「え? えぇ、大人しく療養中です」

「そうか……」

 

 アインズはしばらくの間を空け、言葉を続けた。

 

「ブレイン個人に仕事を頼む。帰宅したら伝えてくれたまえ」

 

 

 

 

 帰宅したクリアーナは、アインズの言伝を伝える。カルネ村へおつかいを頼みたいというものであったが、顔面の包帯が取れたブレインは、面倒臭そうに顔をしかめた。

 

「なんだよ、おつかいって」

「カルネ村にて待機しているワーカーチームの呼び戻しと、現地ポーションの購入。発展状況の調査だそうです」

「俺じゃなくてもいいだろうに、なんでご指名なんだよ」

「さぁ、そこまではわかりません」

「体も碌に動かないぜ、勘弁してくれよ」

 

 感情が仕舞い込まれた心底の箱に頭一つ分の穴が開き、意気込みに欠ける感情が漏れた。

 顔にはっきり、「面倒だ」と書いてあった。

 

「俺の代わりに行って来てくれよ。俺は家で療養する」

「えぇ……そんな――」

 

 クリアーナの頭蓋で閃光が走る。

 新たなメイドを雇うに際し、絶好の機会を得たと感づき、早口でまくし立てた。

 

「ブレイン様、魔導王様の依頼は私が行ってまいります。ですが、私がいないと邸宅の家事をこなす人間がおりません。今回の報酬でもう一人、メイドを雇われてはいかがでしょうか?」

「あん?」

「この屋敷はブレイン様、クレマンティーヌ様のご夫婦――」

「夫婦?」

 

 ブレインの疑問符は無効化された。

 

「ゼンベル……さま、そして私の四人で住むには広すぎます。掃除も行き届いていない箇所が多く、あと一人は使用人が必要です。雇ってもよろしいですか?」

「いや、雇うって誰をだよ」

「空いている人材は既に見つけています。バハルス帝国の下級貴族出身で現在、失業中ということです。魔導国最強の剣士が住む邸宅ですから、これ以上ない逸材に違いありません!」

「あー、わかったわかった、好きにしてくれ。アインズさんの方は任せるからな」

「やっ…………ゴホン、畏まりました、ブレイン様。それでは失礼いたします」

 

 両手を上げて「やったー!」と叫ぶのを瀬戸際で堪え、お淑やかな所作で退室していく。自室に戻ってから改めて叫び直し、面倒なおつかいを自分がやることになった事実からは目を逸らした。同郷で同世代の、新たな友人の勧誘が上手く言った彼女は、魔導国に来てから今日に至るまでの期間において、最も浮かれていた。

 

 

 

 

 翌日、足取りも軽く、王宮へと急いだ。

 執務室からはアインズが白骨化したことを嘆く妻の悲鳴が漏れ、彼女はドアの前で踏み止まる。僅か数日間、魔導国を外した彼女たちが見たのは、見目麗しい黒髪黒目の男ではなく、白磁で感情の読めない夫だった。両者の嘆く声は余裕をもって執務室外へ漏れていた。

 

「モモンガ様! まだ私は懐妊していません!」

「サトル! 人間に戻るんだ!」

「少し静かにしてくれないか。仕事が捗らないではないか」

 

 ノックを躊躇したまま時間にして30分、ドアの前で地蔵になる。

 扉を叩こうとした手は扉に触れる寸前で硬直し、ペルセウスに殺され損ねたメデゥーサが猛威を振るう。テュポーンの落とし子は肩を優しく叩き、彼女の石化を解いた。

 

「クリアーナ、また覗きか? あまり感心しないな」

「あ、蛇様。ご機嫌麗しゅう」

 

 メイドは裾を持ち上げて一礼をする。魔導国で最もお気楽なメイドとはいえ、彼女も貴族出身である。立ち振る舞いに無礼はなかった。例によって二人で隙間から困るアインズを覗き込み、すぐに事情を把握し、口角を歪める大蛇がドアを開け放った。精神の沈静化に甘えているアインズは、両腕に異形の嫁をまとわりつかせている。

 

 忌避したかった蛇の来訪は、アインズにとって最悪の機会で訪れる。事態が拗れる前に手を打とうと声を発するも、面白がって煽るヤトの声にかき消された。

 

「アインズさんは人間の妾を抱いたらしいぞ。しかも二人同時に」

「なぁぁんですってぇえええ! アインズ様! 私に一言もなく人間と遊ぶなどともっての外でございます! ナザリック内にもアインズ様の妾を希望する者がいるに違いありません! そのものを差し置いて人間に手を付けるのは――」

「サトル! ティラとブリタに手を付けたな! 私たちが働いている間に手近な者へ手を付けるなんて酷すぎる! 浮気者! うわあああん!」

「あーあ、泣かしたー。アインズさんのリア充っぷりも困ったものですねぃ。ちゃんとアルシェとその妹にも手を付けてくださいよ。人類みな平等ですよ、骸骨さん」

 

 アルベドは涙の出ない号泣(嘘泣き)でその場に崩れ、イビルアイは持ち味の小さな両手でポカポカと白磁の頭骨を叩いている。双方の意見は誤解の訂正、勘違いを指摘する点が豊富に含まれており、豊穣な誤見にアインズは指摘する気力も奪われた。

 

 沈静化を図った髑髏の眼窩に灯る瞳、赤い光点はヤトに向けられており、呟いた言葉が彼の感情を表す。

 

「覚えてろよ、馬鹿蛇」

「ハーレムは女抱いてなんぼですよーモテモテ骸骨さん」

 

 大蛇に懲りた様子はない。煽られたアルベドとイビルアイに纏わりつかれ、落ち着いた隙に中庭に詰まれた資材の検品を言い渡し、体よく執務室から放り出した。

 怒りが沈静化されたアインズは、静かに、だが確実にヤトへの報復を企てる。

 報復手段を検討する上司の心中を察することなく、ヤトの関心は立ち尽くしているメイドに向いていた。

 

「クリアーナが待ってますよ」

「あ、ああ、そうだったな。クリアーナよ、ブレインはどうした?」

 

 大蛇を睨んでいた光点が彼女へ向けられる。赤い光は正妻から浮気で責められていた先ほどまでの骸骨ではなく、神に相応しき力を持った魔導王の風格を感じさせる。

 

「ブレイン様は体調が芳しくないので、自宅で療養なさると仰いました。ですから、その……」

 

 執務室という密室で骸骨と大蛇に見られている状況が、自身が蛙にでもなった気分にさせた。発言を間違えれば魔法で殺され、機嫌を損ねたら大蛇に丸呑みにされるという危惧が、彼女の言語構成力を著しく低下させる。

 

「私が行きますから! パナシスとその妹はブレイン様が引き取ります!」

 

 何を言っているのか二体の異形種は理解できず、顔を見合わせた。

 いつしか日は高く上り、家財道具のない空き家を紹介され、冷たい床で眠った番外席次が、不満を露わにドアを乱暴に開くまで、骨と蛇は顔を見合わせて彼女の発言を噛み砕く。執務室の静寂が蹴破られたのは、乱暴に扉を開いた番外席次によってである。

 

「お邪魔しまーす」

「またお前か……」

「お前な、家を紹介してやっただろ。用もないのにここへ来るな」

「あのさあ、適当な家を用意してくれたのはいいけど、家財道具がなかったわよ。床で眠る羽目になったじゃない。今度、蛇の家を教えてよ。乗り込むから」

「断固拒否する。そこの骨さんに言え」

「魔導王さん、私の家財道具はどうすればいいの?」

「……ヤト、番外席次の買い物に付き合え。そしてさっさと出て行け、しばらく帰って来るな」

「ありがとう! 行こう、馬鹿蛇さん」

「いや、行くと言ってな……いててて、おい! 引き摺るな! くそ、こいつの攻撃は無効化できない」

「単純な力は私の方が上だね」

「尻尾が千切れるから離せ」

「蛇の尻尾は千切れないよ」

 

 体裁よく邪魔者を排除し、アインズの気が緩んだ。執務室は脈絡のない強引さで仕切り直され、改めてクリアーナの説明を受ける。

 

「ブレインは本調子ではないのだな。やはり彼女が死んだ影響か……こちらの対応を早急に………」

「魔導王陛下、クレマンティーヌ様とゼンベルはいつ戻るのでしょうか。屋敷に一人だとブレイン様も寂しそうで」

「蘇生すればいいわけではないのだ」

「?」

「………いや、何でもない。忘れてくれ」

 

 何らかの感情を表していたが、髑髏の感情はクリアーナにわからない。

 

「ブレインの邸宅へ、そのパナシスというメイドを送らせよう。今日は彼女に仕事を教え、明日の朝に出直せ。こちらも準備をしておく」

 

 クリアーナの退出を確認し、アインズはフールーダへ《伝言(メッセージ)》を飛ばした。《伝言(メッセージ)》をレイ将軍の謀略と疑い、アインズからの連絡と理解させるまで多量の時間を要したが、どうにか理解を得て、パナシスとその妹を渡す指示を出した。フールーダは個別に連絡を貰ったことで舞い上がり、連絡の最中に彼女たちへ指示を出していた。

 

 互いに懸案事項の処理を急ぐべく、クリアーナは帰宅し、アインズは地下牢へ向かった。

 

 

 

 

 蘇生したクレマンティーヌには記憶の欠損が見られ、著しく人格に影響を及ぼしていた。元に戻そうとするも記憶の再構築作業は依然として進まず、ブレインの元気がない状況で焦っていた。

 地下牢に囚われている彼女は、両手足の枷に加え、猿ぐつわまでかまされているが、闘志と殺意は燃えていた。

 

(まるで快楽殺人鬼だ……いっそのこと思春期までの記憶を消してみるか。廃人になっても、ブレインに対する愛情を植え付ければいい。あまり自信はないが)

 

 再改造という光が見えた。

 人間らしからぬことを悩みながら中庭の前を通過すると、アルベド、イビルアイ、番外席次、ヤトが積まれた資材の傍らで騒いでいた。混ざるつもりは毛頭なかったが、アインズが自由意志で人間に戻る方法はないかと、彼らの議論は白熱していた。

 

「つまり夫婦生活が自由になれば、アインズさんの息抜きと魔導国の御子ができる。バンガイもあの人の妾になって子を産めるだろ? お前の望みはそこで叶うぞ」

「ふーん……悪くないけど、魔法詠唱者と戦士職の子ってどうなるのかな」

「そこまでは知らん」

 

 アインズの妾を増やそうとするヤトの目論見は悪戯にアルベドを刺激し、彼女は頭から湯気を出して息巻いていた。これならやかんで湯が沸かせるに違いないと踏んだヤトは、面白いものでも見るように、友人の嫁を眺めた。

 

「ぬぁりません! イビルアイがアンデッドである以上、アインズ様のお世継ぎを生むのは私のお役目でございます! 魔導国とナザリックの両者を統べる御子なのです! 嫡子は正妻である私が責任をもって孕んでみせます!」

「あ……うん。そう……そうだな。私はアンデッドだから、子供が産めない。アルベドさん、頑張って」

 

 痛ましい表情の第一夫人は、自称第一妃に心中を察してもらえず、ヤトに肩を優しく叩かれた。

 

「そしてアインズ様と私の子供、つまりナザリックの御子が、いつか世界を統べる日が……」

「あのエルフと同レベルだな……」

 

 顔を上気させ、妄想は爆発的に膨らんでいた。

 身の危険を感じたアインズが、《伝言(メッセージ)》でヤトを地下牢に呼び出してからも、アルベドは妄想を膨らませ続けた。手持無沙汰となったイビルアイと番外席次は、縁石に座り込んで世間話を始める。

 

「ねえ、破瓜ってやっぱり痛いのかな?」

「あ、ああ。致命傷のダメージ並みに消耗したぞ」

「そうなんだ……」

「それ以上に、愛される喜びを感じた」

「ふーん。そういうのはいらないかなぁ……」

 

 妄想から帰還したアルベドはナザリックへ帰還し、資材の再計量を頼まれたイビルアイは資料を取りに執務室へ向かった。手が空いた番外席次は地下牢から大蛇が戻るまで、新居のレイアウトを、雲を見上げて考えていた。

 

 

 

 

 空気が循環せず、黴と埃の臭いが消えない地下牢で、一人の女性が暴れていた。

 簡素な衣服を着ているが手足には枷がはめられ、舌をかみ切らぬよう猿ぐつわがなされている。何を言っているのか不明だが、表情は怒気と殺気で満ちていた。

 

「なんでこんなに怒ってるんですかね」

「危険だから拘束してある。ブレインの元気がないのは彼女がいないせいだろうが、失った記憶を再構築するのは不可能だ。どうしたものかと思ってな」

 

 蘇生されたクレマンティーヌは、アインズに死体を塵にされた経緯と合わせ、雑に修正した記憶の大部分に損傷が見られた。支離滅裂となった記憶を消去し、まともに確認できた最後の記憶は、エ・ランテルにてアインズに圧殺されるより以前、漆黒聖典を裏切ってカジットに出会う頃まで戻る。それ以後の記憶は損傷が激しく、断片で接合された支離滅裂な記憶は消去する以外に手段はなかった。結果として、目の前にいるクレマンティーヌはアインズと初めて出会った時の彼女であり、アンデッドに監禁されて大そうご立腹で、強い殺気を込めてこちらを睨んでいる。

 

「うーん……ちょっと話してみましょうか」

 

 気が乗らないアインズが口枷を外すと、彼女の口から出たのはアインズには聞き覚えのある台詞、ヤトには雑魚の粋がりである。

 

「エルダーリッチ風情が! 仲間のナーガ連れて来たって無駄だ! ちっ、武器さえありゃ英雄の領域に足を踏み入れたこのクレマンティーヌ様が、てめえら雑魚モンスターに負けるはずがねえんだよ!」

「ああ、駄目だこりゃ」

「記憶とは厄介なものだ。タブラさんが話していたが、人間の記憶は脳内には存在せず、宇宙の深淵にあるアカシック・レコードに記録され、それを読みだしているハードに過ぎないと言っていたな。ここ数日、それを痛感している。他者がどうにかできる代物ではなかった」

「いや、消したならもう一度作ればいいんじゃないスかね?」

「どういうことだ?」

「ラナーはどこに?」

「来客用の貴賓室にいると思うが」

 

 何かを企んでいるヤトはアインズを伴って地下牢を後にする。

 背後からクレマンティーヌの罵詈雑言が飛んで来たが、既に大蛇の関心は別件に寄せられていた。

 

 

 

 

 持ち前の美貌に一片の曇りなく、若く前途有望な騎士を携えた元王国第三王女は、美貌を崩さずに微笑んだ。

 大蛇についてきただけのアインズをみた彼女は、開口一番にこれまでの功績を褒め称える。

 

「おめでとうございます、魔導王陛下」

「何がだ?」

「法国と帝国は予定通りに属国化され、魔導国は周辺国家を統べる大国となるでしょう。次は諸国へ通達を行い、傘下に入らなければ神殿を引き上げると脅し、先見の明なき愚かな国家への対応としましては、陛下と蛇様がお出向きに――」

「あー、悪い。その話は後にしてくれ。今日は別件の相談に来た」

「う、うむ……」

「あら、そうでしたか」

 

 アインズが人間であった期間は16日間。短いようで長く、客観的に魔王として相応しき振る舞いはほつれていた。この先、アルベドとラナーが立てた計画通りに、諸国を属国とすべく行動する必要があるとラナーの言葉で明らかになり、久方ぶりに幻の胃痛を堪能する。

 

 一国家の頂点として、神に相応しき振る舞いを以て属国を従わせるこの先の展望は、冷静なアインズの頭に不安の雨を降らせた。考えれば考えるほど胃が痛くなり、誰かに任せて逃げ出す大義名分を欲するアインズの口数は減る。

 

「どうなさったのですか、ヤトノカミ様。本日、ラキュースのお姿が見えませんが」

「レイナースが死んだ件で責任を感じて引き籠ってる」

「まぁ……明日にでも顔を出させていただきますとお伝えください」

「元気だからいいと思うが……いや、そんな話じゃなく、今日はクライムの件なんだが」

 

 隣で微笑むクライムは護衛の騎士然と剣を携えて佇んでいた。誰の目から見ても姫を守る騎士であり、おとぎ話の一幕のようだった。クライムの首に嵌められた黄金の首輪と、そこから伸びる鎖がラナーの手に握られていなければの話だが。

 

「クライム、室外を見張ってくれ。ちょっとラナーと密談がある」

「クライム、すぐに終わるから大丈夫よ」

「畏まりました、ラナー。何かあればお声かけ下さい」

 

 服従の鎖は自身の手に握られ、ラナー王女の子犬はいそいそと退室した。

 黙り込むアインズは奴隷の幸福について考える。

 

(服従と自由意志のどちらが幸福か……鉄人が独裁すると凄いと言っていたのはウルベルトさんだったかな)

 

「ラナー、調教について教えてくれないか? 殺人狂の女を調教するのにどんな方法がいいかな」

 

 ヤトは詳しい説明を加え、意見を求められた聡明な彼女も、唐突な疑問に間を空けて考え込む。

 

「それは……少々難しいですわ。始めから私への愛があったクライムとは違い、彼女には何もありません。調教する前の予備知識として生い立ち、好み、自覚すらしていない本心まで見抜かなければなりません。更にこの問題を難解たらしめているのは、ヤトノカミ様が手籠めにしようとしているわけではない点です」

「そうなんだよ。最終的にブレインに渡さないとだめだからな」

「アインズ様、彼女の記憶は消せるのですか?」

「あ、ああ。あまりに昔の記憶を消してしまうと、人格や倫理観に影響が出るが、直近の記憶を消す程度であれば問題ないだろう」

「わかりました。では、このような手段はいかがでしょう」

 

 

 

 

「謝罪や命乞いを一切聞かず、力の差がわかりやすい痛めつけ方を、相手の心が壊れる寸前まで何日か繰り返す、とは。ラナーもなかなかですね。たまに異形種と話してる気分になりますよ」

「私も少し引いている。ヤト、分かっていると思うが、ブレインに渡すのだからやり過ぎるなよ?」

「いや、こいつはツアレの妹を殺した殺人鬼でしょ? 記憶が無いならそれは別人ですよ」

 

 牢屋の扉が開かれ、二体の怪物を目の前にしても彼女の罵声は怯むどころか加速の一途を辿る。

 

「それはそうなのだが、壊れた奴隷はブレインの望む女ではないだろう」

「ん、まあ、そうなんですけどね」

「お前らなんか! 武器があればスッといってドスッ! で終わらせてやったのに!」

 

 「パン!」と乾いた音が地下牢に残響し、平手で打たれた彼女は壁まで飛ばされた。

 こちらを見上げる彼女の頬が、鱗に覆われた右手で張られ、痛みを堪える彼女に歪んだ笑みの大蛇が問う。

 

「お前さぁ、ツアレの妹を殺したんだよな? ブレインの嫁じゃねえなら容赦しないぞ」

 

 反応を待たずに頭を掴み、中庭へ続く階段を引き摺って上った。四肢を拘束する枷が邪魔で抵抗できず、掴まれた頭部が動きに合わせてミシミシと音を鳴らす。両脚は枷の重さで階段に打ち付けられ、痣だらけになる頃には外気にあてられ、陽光に目が眩んだ。

 

 彼女が目にしたのは、幾重にも上塗りされた最悪の風景である。

 

 漆黒聖典の面々は、法国の責任者が孤児を連れてくる前に危険な異形種がいないか偵察と調査をすべく、一足先に魔導国王宮へ乗り込んでいた。間が悪い彼らは王宮で雲を見上げていた番外席次に捕捉され、暇な彼女にいいように虐められていた。

 心の歪みが矯正されていない番外席次は、第一席次の少年を馬にして暇潰しをしようと試行錯誤しており、少年からすれば迷惑極まりない。

 裏切り者のクレマンティーヌからすれば、番外席次まで動員し、総力を上げたスレイン法国の追手にしか見えない。

 蛇と骸骨の姿を見つけた一同は児戯を中断する。

 

「なぜ漆黒聖典がここにいる」

「よう、お前らどうしたんだ?」

「蛇殿……こちらのアンデッドはどなたでしょうか」

「アインズさんだよ」

「スルシャーナ様に酷似しているのですが、同一人物ですか?」

「すまないが、そのやりとりは白金の竜王と済ませている。私はアインズ・ウール・ゴウンだ」

「白金の竜王とは、評議国のですか?」

「そうだよ。他にいんのか?」

「会談でもさわりだけ話したのだが。今さら何を驚いている」

 

 感情を押し殺したつもりが、想像以上に驚愕の顔をしていた。

 

「い、いえ、竜王は頻繁に出入りをしているのですか?」

「たまに王宮へ来るぞ」

「その通りだ。ツアーとは友好関係を構築している。ヤト、折を見てナザリックに案内してやろう。コレクションを自慢しなければ」

「そういえばそんな話をしてましたね」

「馬鹿な……500年前の盟約が……なぜ奴がプレイヤーと友好関係を……そんな馬鹿なことが」

 

 既に隊長の頭は上の空である。番外席次の存在が評議国に発覚することを恐れ、隊長は帰還して責任者へ報告すべきか、あるいはこのままアインズと蛇に一任するか、どちらが正しいのか悩みはじめる。大蛇は怪訝な表情らしきものを浮かべ、隊長を見ていた。

 

「なんだこいつ。盟約ってなんだよ」

「竜王と友好関係なのがそこまで珍しいのか? 強者と強者が友好関係を結ぶのは当然であろう」

「わかったらさっさと行け。俺はこいつを調教しなければいけないんだよ」

 

 裏切り者として処罰される覚悟を決めた彼女は、頭を掴んで持ち上げられたが何の反応も示さない。改めてかつての同僚、今は裏切り者の彼女を見つけた隊長の頭は、空白だらけになる。

 

「クレマンティーヌ……」

「あ、そっか。かつての仲間だったっけ」

 

 遠目に様子を窺っていた漆黒聖典は、大蛇に酷い目に合わされている彼女に多少の同情をしたが、裏切り者に対する視線は苛烈だった。特に彼女の兄が向ける視線は強烈であり、飼い慣らしていた魔獣が存命であれば即座に襲わせただろう。視線に気づいたアインズとヤトがそちらを眺めると露骨に目を逸らし、何らかの関係性を窺わせる。

 

「人気者だな、コイツ。連続殺人鬼(シリアルキラー)の癖に」

「……私が責任をもって彼女の処断を」

「余計なことするな。風俗行ったこと、仲間にばらすぞ」

「……くっ、卑劣な」

 

 自分にだけ聞こえた脅迫に、目つきは色濃い険を帯びたが、蛇の知ったことではない。彼が風俗で楽しんだことは紛れもない事実であり、卑劣でも何でもない。険悪な空気も、悪神(ヤト)からすれば悪戯程度の話である。

 

「番外席次よ、漆黒聖典を帰らせろ。今日は忙しく対応する余裕がない」

「はーい。ほらほら、あんたらはとっとと帰りな。私はこれから蛇公と家財道具を買いに行くから忙しい」

「か、家財道具!? まさか、神人であるあなたが、蛇の妻に――」

「なってねえよ、ガキ。阿保かお前は」

「まだなってないよ。ぶっ殺すよ?」

 

 二体の異形種に気圧され、漆黒聖典の隊長は数歩引く。

 

「そ、そうでしたか、失礼しました」

「わかったらとっとと帰れよ」

「そうはいきません。我々は明日に訪れる皆さまのため、会談の準備を――」

「忙しいって言ってんだろ。マジでバラすぞ、あいつらに」

「こちらも抵抗させていただきます」

「おい、番外席次。このクソガキを何とかしろ」

「知らないよ。私はあんたの妻でも妾でもないから。それとも、こいつ殴ったら妾にしてくれる?」

「黙れビッチ」

「失礼ね!」

 

 バカ、チビ、ガキの三拍子が揃い、実に喧しい。特にヤトへ対して意地を張っている隊長は聞き分けが悪く、アインズがクレマンティーヌの様子がおかしいことに気が付くまで、不毛なやり取りを続けていた。

 

「馬鹿蛇、その辺にしておけ。それより、彼女の様子がおかしい」

「え?」

 

 頭部を掴まれ続けたクレマンティーヌは、糸の切れた人形並みに脱力し、生への渇望を失っていた。

 

「あれ、なんか人形みたいになってる。なんだこいつ……起きろ、メス豚」

 

 頬が赤くなる程度に平手で打つと、外れていた目の焦点が蛇を捕える。

 

「おいおい、しっかりしろよ」

「うわー、女を叩くなんて最低」

「腕を切断されたお前は黙ってろ」

「クレマンティーヌ……裏切り者の末路は哀れだな」

「偉そうになに言ってんだ、このクソガキ。好色は宗教家として罪じゃないのか」

 

 二人の批判的な視線もどこ吹く風であった。脇に手を入れ、赤子をあやすように持ち上げたが、彼女の四肢は脱力している。閉じる気配のない口から、か細い声が紡がれた。

 

「殺せ……」

「はぁ?」

「こんな糞ったれな世界……もういらない」

「おいおい、何だよ。さっきまでの威勢はどうした」

「……死にたい」

 

 ブレインの奴隷にすべく調教する筈が、数日間に渡って調教を受けたかのように彼女は生を諦めていた。対応に困った大蛇は髑髏を見やるも、反応は芳しくない。

 

「何、コレ」

「私もわからん」

 

 わざわざラナーに指導を受けた奴隷調教師としての知識は、実践することなく蒸発する。

 娑婆に嫌気がさして死を渇望する人形は地下牢に戻され、夕刻という理由で漆黒聖典も王宮を追い出される。番外席次だけは最後まで駄々を捏ねまわし、辟易したアインズは「ベッドくらい、買い物に付き合ってやれ」と大蛇に命じてから執務室に引き籠もり、翌日に訪れるスレイン法国の責任者たちへの対応に頭を悩ませる。

 

(国内外の草案を参謀三名に協力して任せ、私自ら国外へ出ていくのも悪い手ではないな。部下を信頼して一任するのも上司の役目か。あの馬鹿にも何か任せたいが、何をしでかすかわからんからな)

 

「ねえ、ベッドを運んでくれるような男気はないわけ?」

「自分で運べるだろ。甘ったれるな」

 

 安ベッドは造りまで安く、番外席次は軽々と運んでいた。

 今夜も魔導国は平和である。

 

 

 同時刻、漆黒聖典の仮宿。“黄金の林檎亭”の男性宿泊室にて、武装を解除した彼らは、初めて見た死の支配者の振る舞いに感嘆の声を漏らす。隣室の女性宿泊室でも同様の会話が成されていた。漆黒聖典はスルシャーナに仕える一部隊である。アンデッドや異形種に対する嫌悪は健在だが、スルシャーナと髑髏の形が寸分たがわぬアインズに、従属を望む種子が心の鉢に植え付けられていた。

 

「隊長、蛇さんに対して意地になっていませんか?」

「……否定はしないよ」

「カイレ様と潜入した時に取っ捕まったって聞いてますが、何かされたの?」

「……いや、なんでもない」

 

 風俗に連れていかれて強引に初めてを捧げさせられ、しかも最初の女たちが忘れられないとは、口が裂けても、如何なる拷問を受けても言えなかった。密かに身請けできないかと思っているなど、部下や同僚に気付かれたら恥ずかしさで首を吊ってしまう。

 

 各自の夜は順調に更けていった。

 

 

 

 

 クリアーナは、夜になって屋敷を訪れたパナシスとその妹を、主であるブレインに紹介する。二名の女性は仰々しくお辞儀をした。

 

 

「ブレイン・アングラウス様、不束者ですが、よろしくお願いします」

「よろしくお願いします」

「……ああ、よろしくな」

 

 なぜ勝手にメイドがメイドを雇い、しかもその妹まで広い屋敷に住まわせるのかと思うところはあった。心身ともに本調子でない彼はそれ以上語らない。何よりもクリアーナが持ち帰った白金貨の枚数は、半年間は遊んで暮らせる金額であり、広くて静かな屋敷が賑やかになるのは喜ばしいことだった。

 

「ブレイン様、魔導王様がクレマンティーヌ様の件はもう少し待ってほしいと」

「いや、もういい。あいつも安らかに眠りたいだろ。起きても戦いの日々に戻るだけだから、蘇生は必要ない」

「いいえ、駄目です。男の人はいつもそうです。女心を分からず、自分の中で勝手に解決してしまいます」

「そうか? あいつに限っては違うと思うがな。クリアーナもあいつが帰ってきたら、気まぐれに殺されるかもしれないぜ?」

「それは……そうですけどぉ。ブレイン様が元気ないと、屋敷全体が暗いのです。ゼンベルのや……ゼンベルさまもいませんし」

「いま”奴”って言おうとしただろ」

「細かい男は嫌われますわ、魔導国最強の剣士、ブレイン・アングラウス様」

「まったく、どうしてこう、この国の女は逞しいんだろうな……」

「何か仰いました?」

「いや、なんでもない。クリアーナの好きにしていい。アインズさんのカルネ村へのおつかい、俺の代わりによろしくな」

 

 いそいそと退室するメイドたちを見送り、ブレインは冥土へ旅立った彼女とゼンベルを思い出す。自身に学がないと思っている彼は、生きていると死んでいる、生きながら死んでいる、三択で彼女の幸福度が高いものはどれかと悩み、いつしか眠りの底なし沼に墜落した。夢の中のクレマンティーヌは一通り彼を嘲笑し、嗤い転げてのたうち回り、疲れて優しく微笑んだ。

 

 もう一度会いたいとは言えなかった。

 

 

 

 

 退室した三名は、無言で自室に向かう。客間は掃除が行き届いておらず、この日はクリアーナの自室で就寝する予定だった。扉を開く頃、パナシスとクリアーナから含み笑いが漏れる。

 

「ふっ……」

「ふふ……」

「やったー! これからよろしくね、パナシス! ネメル!」

「夢みたい。王国戦士長、ガゼフ・ストロノーフに次ぐ剣士、ブレイン・アングラウス様の豪邸に住めるなんて。妹まで一緒に」

「あのー……私までよかったんでしょうか」

 

 雇われたわけではないパナシスの妹ネメルは、不安な顔色で聞く。

 

「大丈夫よ。でも、自分の部屋は自分で掃除をしてね。働き出したら家賃を入れてね」

「あ、はい。それはもちろんです」

「お小遣いだってくれるんだから。この前なんて白金貨一枚も貰ったの」

「ええ!? お小遣いで!?」

「お金に執着がないみたい。生活費も全て私が預かっているし」

「ふえええ……」

 

 開いた口が塞がらないという顔をしていた。

 

「明日はブレイン様のお食事をお願いね。私は魔導王様のおつかいに出掛けるから」

「わかった。市場はどこかしら、道に迷わないといいけれど」

「途中まで一緒に行きましょう。少しだけど、魔導国を案内するわね」

「ありがとう、クリアーナ。それより、美味しいね、このパン」

「そうでしょう? 並ばないと買えないんだから。パン屋の場所も教えてあげないとね。ジムおじさんって人が作る漆黒あんパンは絶品なんだから」

「本当に素晴らしい仕事場だわ。何度も言うけどありがとう、クリアーナ」

「よろしくね、パナシス」

 

 浮かれる姉をよそに、妹のネメルは懸案事項に思い馳せる。両手を合わせて神に祈っていたが、はしゃぐ二人は気付いてすらいない。

 

「ジエット……アルシェ……あぁ、神様。どうか二人が魔物に食べられていませんように」

 

 祈るネメルは放置され、カルネ村へ向かう支度をするクリアーナとパナシスは、旧知の仲がするように長話へ興じる。既に花瓶のことは忘れ去られていた。

 翌朝の寝坊だけは確定していたが、翌日に何が待ち受けているか、二人は知る由もない。

 

 

 

 仲間を手に入れた彼女の冒険は、まだ半分しか終わっていない。

 

 

 




遅れてすんません



▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。