エルフの住む国家において最も豪華な屋敷、緑の芝生が生い茂る玄関前の庭で、回復薬を振りかけられたティラは、取り戻した武装を装備している。
ナザリックの回復薬と比較し品質で後れを取るポーションでは、彼女の体力は回復しきれず、痛々しい生傷からは血が流れていた。
「ティラ殿、ゴウン殿へ報告を頼む」
「どの面下げて報告しろと?」
あまり表情が読めない彼女は、珍しく怒りを露わにする。
「依頼を無視して全滅するわけにいかん。この情報を誰が報告するのだ!」
「暗殺者としての流儀」
「……なに?」
「負け犬より戦死」
「戦争に私情を持ち込むな!」
「これ、メッセージのスクロール。連絡よろしく」
帝国最強の暗殺者と自負があった彼女は、既に走り出していた。
アインズとの立ち合い、蛇による襲撃で敗北は経験していた。暗殺者として申し分ない自戒自重も仕込まれている。
それを凌駕する怒りは、性欲処理の道具として見做され、まともに戦いもせずに殺されかけた事実。
イジャニーヤとしての組織を尊重し、自由な所属を依頼したヤト、腕前を高く評価し、正々堂々と立ち合いを経て所有物とした
クレマンティーヌの装備品を鷲掴みに、彼女は地下への階段を駆け降りる。
負け犬として命拾いするくらいなら無残な死を選び、暗殺者としての流儀を守りたかった。
十中八九、死ぬとわかっていても。
ガゼフが何か喚いていたが、知ったことではなかった。
◆
地下室の死地は完成されていた。
クレマンティーヌはザリュースの後方で隙を窺い、エルフはブレインの胸倉を掴み、鱗がある肉塊の上で彼を殴り続けた。
幸いにも感知されておらず、ティラは影を伝ってクレマンティーヌへ装備を届ける。
無言で受け取った彼女は、物音を立てないように装備をはじめた。
「《影縛り》」
殴打を続けるエルフの影にクナイが突き立ち、影を縛られて動きを止め、ティラはブレインを国王の間合いから外す。
「回復は?」
「……ゴホッ、悪い、エルフだと思って舐めてた。回復薬の類は持ってない」
「……役立たず。あと五秒が限界」
「わかった……痛て、あの糞野郎……」
口に指を突っ込み、口内にぶら下がる奥歯を吐き出した。
短い休憩時間は終わり、彼の拘束は力業で外された。
「この虫けら共がぁぁあああ! 《
ブレインの体を掠めた怪光線は壁を貫通してどこかへと向かった。
影に潜って直撃は避けたが、忍術の詠唱で一手遅れたくノ一の脇腹は黒く焦げた。
肉の焼ける臭いが地下へ充満する。
誰かが階段を慌ただしく降りてくる音で、敵は動きを止めた。
「ブレイン!」
「ガゼフ、俺たちはここで死ぬぞ」
「当たり前だ! 私だけ逃げられるか! 敵は一体だ、魔導国の力を見せてやれ!」
ガゼフはかつてない怒りに囚われ、怒号にティラは耳を塞ぎ、ブレインは直情的な友人に苦笑いをした。
気持ちの切り替えに相応しく、ティラとブレインは軽口を叩く。
「妾さん、もう一度、奴の影を縛ってくれ」
「妾じゃない、妾候補生」
「お前もなかなかの負けず嫌いだな」
「ガゼフのおじさんには負ける」
「二人とも真面目にやれ!」
ティラは珍しく笑い、つられてブレインも笑った。
「笑えば可愛いじゃないか。アインズさんにも見せたか?」
「生きて帰ったら試す」
「ああ、頑張れよ、妾候補」
改めてブレインが先頭に立ち、戦闘の再開を二人に告げる。
「いくぞ、二人とも。死出に旅立つ準備だ! ティラ!」
手負いのくノ一はエルフの影を縛り、怒りを剥き出しにする彼は拘束された。
三名は同時に飛びかかり、ブレインはでくの坊に斬りつけながら、クレマンティーヌに向けて叫ぶ。
「クレマンティーヌ! お前は逃げろ!」
「はぁ!? 馬鹿じゃないの!? あんたがいないと私は――」
「黙って聞け! お前は戦いから足を洗い、魔導国で平和に暮らせ!」
「……ふざけるなよ……私は――」
「お前の記憶は弄られたもんだ! 初めから俺など愛していない!」
「…………え?」
「お前を助けるために、そうするしかなかった! 全部忘れて逃げろ! 苦しいならアインズさんに俺の記憶を消してもらえ!」
「……」
今までの愛情が強制的に設定された偽物だと知り、クレマンティーヌは嫌な汗をかいていた。
「ザリュース、隙をみて逃がせ!」
剣を構えるザリュースは無言で頷く。
三名が全力で攻撃したにもかかわらず、身動きの取れない彼に深手は負わせられない。
体中が傷だらけだったが致命傷に欠け、怒りが膨らんだだけのようだ。
口端から唾液を泡立たせて怒り狂っていた。
クナイを構えて術を使っていたティラが、大きなため息を吐いて動きを止めた。
「拘束が解ける」
狭い地下室は、渾身の殺意を込めた英雄のオーラで満たされる。
「虫けらがぁ! 全員なぶり殺しにしてやる!」
そこから戦いは一方的であった。
記憶という人格形成の地盤は揺らぎ、クレマンティーヌは自分がどうすればいいのかわからず、彼らが嬲られるのをただ見ていた。
彼女を逃がそうと叫ぶザリュースの言葉も、映し出される光景の前では響かない。
「《不動金剛盾の術》」
「《六光連斬》!」
「ゴミどもが! 《
虹色の盾を目くらましに飛びかかった忍者と、武技を最大限に活用して斬りかかった戦士は、エルフの両手から伸びる光線に腹を貫かれた。
二度に渡って熱戦に貫かれたティラの腹部は大きくえぐれ、焦げた腸がはみ出していた。
両名は損傷が激しく、壁にもたれて動けずにいる。
吐血は質の良いエルフの靴を汚し、不快に顔を歪めた彼はティラに歩み寄る。
ブレインは彼女が殺されるとわかっていても、自らを強化する武技を発動させる。
ここでティラを守れば、クレマンティーヌを守れずに犬死するのは明白だった。
失血で顔色が蒼白となったティラの顔に、エルフは足を近づける。
「靴を舐めろ、貴様らの血で汚れた」
「ゴプッ……めろ」
「あ?」
「犬の尻でも舐めてろ」
靴の底が見えた。
◆
アルベドの恋路を後押しすべく、魔導国を留守にしたイビルアイは、ガガーラン率いる冒険者チーム“蒼の薔薇”が暇潰しに受けた依頼に合流していた。
周辺地域を荒らす魔物退治であり、依頼は問題なく初日を終え、見晴らしの良い草原で野営を行っている。
睡眠と飲食の必要が無いイビルアイは満天の星を見上げ、アインズの星座が無いか探していた。
残念ながら星辰は振るわず、愛する夫の顔は夜空に描写できない。
馬鹿馬鹿しいと首を振り、にやける顔を正して周囲を見渡すと、双子の忍者がテントから飛び出てくるのが見えた。
見張りに最適な大岩から飛び降り、双子へ疑問を放る。
「ティア、ティナ、どうした?」
「たった今」
「死んだ」
「誰がだ? 周囲には何もいないぞ?」
『姉が死んだ』
声を揃えた二人に、イビルアイは魔導国で何かが起きているのを悟る。
同時刻、三つ子の長姉、ティラの顔面はすさまじい力で踏み潰され、人間の尊厳を踏みにじろうとするエルフにばら撒いた脳を踏み拉かれていた。
更に同刻、それを法国の空で見たアインズの視界は怒りで破裂し、理性は消し飛んでいた。
妙な胸騒ぎを覚え、イビルアイは双子とガガーランに依頼の続きを託し、魔導国へ向かう。
全ては何もかも手遅れだった。
イビルアイの台頭は、大地を揺るがそうと投げられた小石のように、定められた運命は揺るがない。
賽の目は遥か以前に定められており、直に因果は集束する。
◆
地下牢にガゼフの怒号が響く。
顔面を鼻から上にかけて潰され、白い歯を晒す下顎だけ残されたティファの遺骸は横に倒れていく。彼女に特別な感情があったわけではないが、仲間を殺された怒りで、実直な王国最強の戦士は手負いの獣に変貌を遂げた。
「この外道がぁ!」
「靴を汚され、怒りたいのはこちらだ。弱者は強者に討たれる。弱肉強食は常に世を成す
肉体を酷使して放たれた武技、《六光連斬》は無作為に振られた槍で塵と消える。
影を縛って動きを止めるティファの喪失は手痛い損失であり、事実、自由に動ける彼に手傷を負わせられない。
幾度となく斬りかかってもこちらの攻撃は槍の一振りで弾かれ、彼我のダメージ量は覆せない。
「ティファとゼンベルの死体から離れろ!」
「馬鹿かこいつは。愚者には付き合いきれんな……」
胸を押さえ、上がった息を整えているブレインの視界に線が走った。
それが投げられた槍の残像だと知るのは、ガゼフの脇腹を貫通する得物を見てからだった。
壁まで飛ばされ、石の壁にまで突き刺さった槍に歯を食いしばって痛みを堪えているが、張り付けられた彼は戦えないだろう。
無理に引き抜けば脇腹を大きくえぐられ、引き抜けたとしても大量の出血で動きが鈍る。
ブレインは構えた武器を納刀し、居合の一閃に賭けるべく腰を落とした。
「……お前の言う通りだ。俺たちは弱い。だが、残念だったな。魔導国でお前より強い奴を、二人も知ってるぞ」
「戯言を、嘘を吐くならもう少しマシな嘘をつくんだな」
自身の強さを信じて疑わない自己愛の狂信者に、こちらの挑発や揺さ振りは効果がなかった。
敗北に足るダメージが蓄積されており、動きは鈍り、視界も悪くなっていた。
我慢も限界に達したザリュースが、クレマンティーヌにアプローチを変えた説得を始めている。
「クレマンティーヌ殿、お逃げください。ブレイン殿の願いを無為にしてはいけない」
「……あんたは?」
「戦士は戦場で死ぬものです。ゼンベルが寂しがりますので」
「私も……ブレインと、死ぬ」
ここで死んでも困ることはなかった。
裏切った法国には戻れず、かといって独りぼっちで魔導国で暮らす気にもなれず、進退窮まった彼女が、彼らを見捨てて逃げてもその先には空虚な生が待っている。
衝動のままに人殺しをしても、アインズのお膝元で行うのは自殺行為であり、それこそブレインは望まない。
「いけません、ブレイン殿はそんなこと願ってはいない」
「願い?」
「男は女に生きてほしいと願うものです」
「……あんたも?」
「ええ……まぁ」
噛み合わなかった愛情の歯車が、ゴトリと音を立てて合致する。
◆
思えばこれまでの人生、何もいいことなど無かった。
自宅、法国、ズーラーノーン、どこにいても私は鼻つまみ者だった。
まだ弱いとき、兄の才能をやっかむ友人たちに
「名家の面汚しが! 出ていけ!」
「クアイエッセを見習え! 出来損ないが!」
「近寄るな。お前など妹ではない」
殺してやりたかった。
常に兄と比較された私の出来は悪く、何をやらせても兄の足元にも及ばず、愛情を注がれた記憶など原初の記憶にも残ってない。
唯一、戦士として秀でた私は、命じられるままに人間、魔物を殺した。
戦士として頭角を現す過程で、たった一人の友人も目の前で死んだ。
漆黒聖典に在籍しても、私に回される仕事は
誰も愛情を注がない。
誰も信頼を築かない。
誰も私など見ていない。
命じられていない人間を殺すのにそう時間はかからなかった。
弱かった私を
同じ組織の属していた知人は、英雄級の人格破綻者だと言ってた。
それでいい。
私のようなどこにも居場所のない者は、伝説の殺人鬼にでもなって、兄の足を永遠に引っ張り続ければいいんだ。
家族という切れない
そんなどうしようもなく壊れた私を、彼は損得なく助けた。
犯ったり殺られたりもせず、ただ拾った。
何の価値もない私みたいな女は、そのまま死んでも構わなかった。
「知ってるか? 血が流れるのは体が生きたがっている証拠なんだと」
以前に彼が言った言葉通り、私の血潮は生きたがっていた。
死にたくない……生きたくない……。
あれだけ恨んでいた家族も、今はどうでもよかった。
使い慣れた短剣を掴んだ。
誰かに生きていてほしいと思ったのも、損得なく誰かのために剣を握ったのも初めてだ。
生まれてこの方、誰かに愛情を注がれた経験のない
私のような殺戮者は、どうせ碌な死に方をしないんだから、命くらい投げ打ってもいい。
口からは自然に絶叫が漏れていた。
「ブレイン! 私はあんたに死んでほしくない!」
声は届いたが、気障に笑っただけだった。
誰かを愛することは、殺人よりも満たされると知った。
殺戮や快楽に何の意味もない。
武技の詠唱を行う。
「《疾風走破》《超回避》《能力向上》《能力超向上》」
誰かに愛でられる花にはなれない、誰かの闇夜を照らす月は遠すぎる、なら私はあいつを守る盾になる!
過去に縛られず、あいつの未来を勝ち取るために今を生き、そして死ね!
◆
散りゆく覚悟を決めた月光花の叫びは、ブレインに届いていた。
彼女の美しさは至近距離で飽きるほど見たが、歪みのない表情の彼女は真っすぐに美しかった。
(ちっ、いい女だな……剣士の覚悟が鈍るだろ)
ブレインは鈍りかけた覚悟を締め直す。
武技の詠唱中の両眼から涙が流れていたが、戦いに集中した彼には見えなかった。
ザリュースは武器を構え、ブレインを支援しようと機を窺う。
狙うは彼が技を仕掛ける直前、己の命を捨てて隙を作ること。
死んだとしても先に行ったゼンベルが待っている、喧嘩ばかりで退屈はしないだろう。
「済まない、クルシェ。子供を頼む」
「行くぞ、腐れ外道。俺の刀は速いぜ、蛇の足元にも及ばないけどな」
「……意味が分からん。お前は殴り続けて殺してやる。命乞いをするまで許さん」
「ティラとゼンベルの借りを返してもらう」
ブレインの武技、《領域》は周囲3メートルに展開され、大よそ地下室の全てが彼の知るところとなる。
緩やかに歩いてくるエルフが実物よりも肥大して見えたが、以前に対峙した冒険者モモン、大蛇ヤトノカミの両者と比較すると小さく見えた。
モモン、つまりアインズは漆黒の鎧に覆われながらも内包された力を素直に表に出し、大蛇ヤトノカミは力も武器もその身体能力も人間の比ではない。
目の前の彼を殺せなくても、深手なら負わせられそうだった。
(右腕くらい、持っていきたいんだがな)
オッドアイのエルフは攻撃を開始する。
「死ね!」
「ブレイン殿の邪魔はさせない!」
飛び込んだザリュースは体を突き抜けた槍で後方に飛ばされた。
「邪魔するな!」
「おおお! 放してたまるかぁああ!」
口内に血が溢れたが、絶対に離すまいと突き込まれた槍を掴み、得物を彼から奪い取った。
「秘剣《
これ以上ないタイミングで技は決まったが、弾かれたのはブレインだった。
光の大剣が出現し、ブレインの技を造作もなく撥ね退ける。
「《
大剣は体勢を立て直す前のブレイン目がけて射出され、回避が間に合わないと踏んだ彼は死を覚悟した。
「一人で格好つけんなよっ!」
誰かの叫びが聞こえ、彼の視界に影が差した。
輝く大剣の威力を殺そうと短剣を突き立てたが、何の効果もなかった。
威力を殺されないままに光が体の中央を突き抜け、体の中心を消し去られた。
ドサドサッと二つが倒れる音が聞こえる。
大剣に腹部を貫かれたクレマンティーヌは下半身と上半身が分離し、鎧は紙のように千切れていた。
「クレマンティーヌ……?」
貫かれた箇所には何も残っておらず、内部から体を支える脊椎さえも消し飛び、下半身から小腸と大腸がもつれて溢れた。
余命は1分もないのは明らかだった。
「馬鹿が、我が子を孕ませてやろうと思ったものを」
エルフは歪んだ笑みを浮かべている。
ザリュースとガゼフは怒りで飛びかかり、死で分かたれる二人を邪魔させまいと死力を尽くす。
「こぉのぉ……下衆野郎がぁ!」
「祖霊となったゼンベル! この外道を倒す力を貸せ!」
「いい加減、目障りだ!」
彼女の上半身を支えるブレインの頬に、クレマンティーヌの手が優しく添えられた。
「なんで逃げなかったんだ!」
「ブレイン……よかっ……た……」
「喋るなっ!」
「あは……偽物でも……やっぱりぃ……あんたが好き……」
絶命を免れぬ吐血量に掠れた息、それに混じって吐き出される愛の告白。
体を二分され、急激に薄められる意識の中で、彼女は笑っていた。
微笑みは歪んでいなかった。
助ける術はなく、己の死に満足した彼女を蘇生できる保証はない。
「面倒な女だ。違う生き方はいくらでもできただろ……俺はお前に、生きてほしかった」
「私も……同じ、だ……よ……」
今際の際に洒落たことも言えず、想い人の盾になって本懐を遂げ、力尽きた彼女は静かに息を引き取った。
頭部に付けられた猫の耳は主の死を悟って床に落ち、ブレインは彼女の瞼をそっと閉じた。
「先に行って待っててくれ、俺もすぐにいくからな」
叫ぶでも縋りつくでもなく、彼女を優しく横たえる。
今は涙を流す時間ではなく、歯ぐきから血が出るほど食いしばって堪えた。
敵に放り投げられたガゼフとザリュースが両脇を通過し、壁に激突した。
生きているのは三名だったが、満身創痍でない者はいない。雌雄はかなり前に決している。
ザリュースとガゼフは体に穴を開けながらも立ち上がり、未だ燃えている闘志に後押しされ戦闘の続行を望む。
記憶の中で歪んだ笑みのクレマンティーヌが言った台詞が、頭の中を残響する。
(ブレイン、大好きだよー)
彼女を愛していたか、ブレインにはわからなかったが、一人の剣士として敵を倒したかった。
「悪い、二人とも。俺にやらせてくれ」
傷みに悶えるガゼフとザリュースは、ブレインの背中から言い表せぬ覇気が立ち上るのを見た。
それが英雄のオーラだと、現時点で知ることはない。
ガゼフは友人が死を決意していると直感する。
「ブレ、イン……お前は、逃げろ。ゴウン殿が――」
「ガゼフ、もう後には引けない。俺はあいつのために死ぬ」
「やめろ! そんなことを、彼女が望むのか! 彼女の意志を無為にするな! お前は意地でも生き残るんだ! ここは私が――」
「俺は剣士だ。剣を振うためにここにいる」
先に死んでいったゼンベル、ティラ、クレマンティーヌのため、剣士の矜持は彼に後退を許さない。
仇敵は、強さを覚醒させたブレインを嘲笑する。
「絶対強者に立ち向かうか。弱者とは度し難いな、野良犬」
「ブレイン・アングラウスだ」
「あ? 野良犬の名に興味は――」
「お前に食らいついて手傷を負わせる野良犬の名前くらい覚えておけ」
「お前は泣いて命乞いをさせてや――」
「あまり吼えるなよ、同じ野良犬に見えるぞ」
エルフの王は堅牢な顔に青筋を立て、血走った眼を見開いた。
実直な怒りを露わにする彼を、口喧嘩で一本取ったブレインは嘲笑する。
「命を賭けてかかってこい!」
「愚弄するかぁぁ……この負け犬がぁぁあああ!」
動けないザリュースと違い、ガゼフの体は十分に動けた。
それでも動けなかったのは英雄のオーラに気圧されたからだ。
暴虐の王ではなく、悲しみを強さに変えたブレインが、知らずに放った英雄のオーラはエルフの波動を押し込んで場を支配する。
尊い犠牲を無為にしまいと全てを背負い込んだ彼は、短時間で別人のように成長していた。
レベルの上限解放、新たな職業の取得が可能だったが、今となってはどうでもよかった。
握った刀に力を込め、《領域》を展開する。
ガゼフは
死ぬ覚悟を決めた彼に蘇生は適用されないと知っていても、愛か騎士道かわからず、何か貴いものに殉じようとする友人に水は差せず、ガゼフは共闘の刃を置いた。
自身が彼の戦いを助ければ、それを汚してしまう。
彼の隣で戦いを観戦している者も、同じ気持ちで友の戦いを見守った。
(ブレイン……お前という奴は)
友人が放つ輝きに、
「死ねえ!」
どこから取り出したのか、エルフは新たな剣でブレインの体を細かく斬りつけた。
展開した領域、刀が届く間合いへ足早に踏み込んだ彼に対し、ブレインは動かない。
より確実な距離に、敵が立つのを待っている。
突き込まれる剣も意に介さず、切り傷からいくら血が流れても動かない。
戦闘前と同様に、心へ穏やかな風が流れる。
最も効率良いタイミングと体の動きという居合の
こちらをせせら笑うエルフへ、未試用の武技を、それも新たな組み合わせで叩き込むまであと一歩。
失敗して死んでも構わない。
今度はあの世で彼女に報いてやれる。
流れる血と痛みに、彼は動揺もせず、一瞬の機会を狙った。
狙うは油断に付け込む
一歩前進した敵の刀は腹部を貫通したが、機は熟し、ブレインは抜刀する。
当該区域の命中率を上げる《領域》、知覚できない神速の刃《神閃》、それに乗せて併発したのは、宿敵で親友の得意技《六光連斬》。
精神力を上限まで使用し、脳に度を越した負担がかかり、両眼から血の涙が流れる。
命と引き換えの覚悟がなければ、自分を守って死んだ彼女に報いるなどできない。
彼女の命が無為に終わるのだけは許せなかった。
「あああああ!」
命を犠牲に放たれた六つの同時斬撃は左右均等に当たらなかったが、十分な手傷を負わせる。
剣を掴んだ利き腕は根元から宙を舞い、血を周囲にまき散らしながら遠くへ落ちた。
自分以外の全てが弱者と侮る彼がここまでの手傷を負わされた経験はなく、こちらを見下げていたエルフは不思議でたまらないばかりに、目を開いてきょとんとしていた。
まるで隙だらけの彼は弱者の多大なダメージに愕然と口を開け、切り落とされた右腕の断面を見ていた。
追撃するブレインによって勝負が決すると思われたが、肉体と精神を酷使したブレインこそダメージ量が大きく、そのまま地面に倒れていく。
腹部を貫く剣を抜く力も残っていなかった。
「クレマンティーヌ……」
何かを呟く彼の体は、白くて華奢な腕に抱き留められた。
血の涙で赤く滲む視界に、こちらを眺めるアインズがいた。
黒髪黒目の王様は右目から一筋の雫を落とす。
「ブレイン……お前は強い。誰かの為に戦おうとする意志、覚悟を決めて戦う命の輝きは、こんなにも神々しく、かくも尊く、そして美しい」
「へっ、死にぞこなっ……たか……」
「私より弱いお前に最大限の敬意を払い、これより戦いを引き継ごう」
弱者と見下した野良犬から深手を負わされ、妖精王は状況を理解して咆哮を上げた。
「こぉのぉ……許さん、許さ――」
不快な声は慈悲なき斬首の音で消される。
エルフの首は血しぶきを上げて飛び、アインズが何をしたのか誰も理解できなかった。
時間停止の魔法など、この場にいるもの全てが知らない。
床に転がる彼の頭部はアインズに何かを叫んでいたが、感情のままに踏み潰され、辺りに脳漿をぶちまける。
「ガゼフ、ブレインとザリュースを連れて帰還しろ。この穢れた国を無に帰す」
「しかし……」
「早く行け! 私が理性を抑えている間に!」
「………ゴウン殿、後は頼む」
ガゼフとザリュースは、昏倒したブレインを引き摺り、開かれた転移ゲートへ飲み込まれていった。
誰もいなくなった地下室で、アインズは首のない死体へ歩み寄る。
まだ温かい死体からは噴水のように断面から血が噴き出していた。
蘇生魔法を展開しようとしたが、どうやら蘇生アイテムを持っていたらしく、切断したはずの首は生えてくる。復活したエルフの王は周囲を眺めて状況を把握しようとしていた。
視線は目の前の白いタキシードのアインズに止まる。
深い闇を宿したアインズの瞳には、事態を把握しようとする目の前の男さえ映っていなかった。
殺意に黒く塗りつぶされた彼の望みは一つしかない。
「絶対に許さん……死すら生温い! 自称強者のお前は強者のみに許された苦しみを味わえ!」
アインズはプレイヤーと信じて疑わない。
この世界における強者とは、竜王を除くと、その全てがプレイヤー、あるいはそれに関連する者以外に考えられない。
だからこそ、アインズの怒りは上限を振り切り、憎悪へ昇格した。
自分やヤトと同じ人間でありながら、伝承に聞く八欲王のように、欲望のまま傲慢に周囲を支配している彼に、純粋な嫌悪の念が湧き上がっていた。
エルフの強さは、ギルドのメンバーと比較すれば相手にならぬ弱者であった。
怒りを爆発させたアインズが、改めて彼に対する考察をするわけもなく、今はただ殺してやりたかった。
百時間に一度しか使えない
「スキル、
詠唱に合わせ、アインズの背中へ巨大な時計が浮かび上がった。
「《
女の絶叫が地下から溢れて近隣の家屋を襲った。それを聞いた者は異常事態を察知し騒ぎ出す。
不可思議なことに、体に何ら異変はない。
与えられた12秒を、皆は思い思いに状況把握へ奔走する。
ここで死ねる者は幸福だった。
ようやく状況を把握したエルフは、怯えたり逃げ出したりもせず、ただ見下したような笑みを浮かべる。人間のアインズを侮り、口からは蔑む言葉が出ていた。
「ふん、なんだそれは。こけおどしか?」
「《
アインズは殺害対象に自由行動を許さず、心の臓腑を握り、彼はふらふらと体を揺らして意識を失った。
相手が複数の可能性も考慮し、攻性防壁を再起動する。
背負われた時計の針は優雅に、だが確実に流れ、彼らの行き先を告げるように天を指した。
「はじめるぞ」
かくて世界は死に絶えた。