モモンガさん、世界征服しないってよ   作:用具 操十雄

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STACCATO

 

 

 魔導国領内の外れにある、ラナー王女が復興を任されている小さな村。

 レエブン候の協力によって、彼の領地から送り込まれた人間、周辺から集められた難民、それらが聡明なラナーの指示に従って汗水を流し、小さな廃墟だった村は順調に村としての形を取り戻していた。

 

 ラナーが間借りしている空き家の一室にて、複数のエイトエッジ・アサシンが壁際に整列していた。

 代表の一名が形式的に頭を下げ、ラナーへ断片的にまとめられた情報を手渡す。

 

「ありがとうございます。これより頂いた情報を精査いたします。皆様には継続して情報収集をお願いします」

「一つお聞かせ願いたい。よろしいですか?」

「はい、何でしょうか」

 

 口調こそ丁寧な彼らだが、ナザリック外の人間であるラナーに、敬意は感じなかった。

 それを知ってか知らずか、ラナーは目上の者に対する態度を崩さない。

 

「何ゆえ魔導国内の、それもよりによってアインズ様やヤトノカミ様のいらっしゃる王都の調査を、我らに指示なさったのですか?」

「不思議でございますか?」

 

 明らかに人間に対して敬意を払っていない暗殺者に、質問を質問で返せる人間はそういない。

 

「アルベド様から指示に従うよう命じられましたが、エルフ国の情報収集と聞き及んでいます」

「アルベド様の仰る通りです。ですが、それは途中過程の一つにすぎません。最終目標はエルフを滅ぼし、法国の懐に入り、彼らのアイテムを奪うことです」

「は、はあ……」

「それには誇りあるナザリック外の者、それも主神の御二人と交流があり、尚且つ死んでも損害にならない人間を探すのが早いのです」

「はぁ」

「何よりも、アインズ様とヤトノカミ様の治める国家に対し、法国が何らかの動きを見せる頃合いなのです」

 

 拳を握って熱弁する彼女は、美しい女性が頑張って働く姿に見えた。

 それは外見だけであり、内心では全く別のことを考えているなど、見抜けるのはアルベドだけである。

 

「王都で動いているイビルアイさんとラキュースへ、そのようにお伝えください」

 

 珍しく盛り上がっているラナーに、エイトエッジ・アサシンは気圧される。

 

「全てはアインズ様とヤトノカミ様のため。ナザリックに敵対する者は、これを機に完全無力化をしてしまいましょう。皆さま、これからもよろしくお願いしますわ」

「御意」

 

 エイトエッジ・アサシンは自らを強引に納得させ、持ち場へ帰っていった。

 

「ふふっ……全ては私とクライムの蜜月がため。ナザリックを不動のものとし、私とクライムが静かに暮らせる環境を整えなければ」

 

 口元へ斜めに張り付いた三日月を消し去り、可愛いペットが主の帰りを四つん這いで待つ部屋に移動していった。

 金色の首輪に伸びた鎖を強く引き、引っ張られてラナーにしがみ付く彼の顔を眺め、女神のように微笑む。

 瞳にはラナーへの愛情が宿っており、輝きを失っていなかった。

 

 愛おしいペットに人差し指を舐めさせながら、誰を生贄にすべきかと楽しく悩みながら、夜は更けていった。

 

 

 

 

 バハルス帝国の帝都中心部、ジルクニフ皇帝の愛妾、ロクシーに与えられている邸宅にて、ジルはフールーダの監視を四騎士へ任せ、彼女のもとを訪れていた。

 

「どうなさいました? まさか無駄撃ちしたくていらっしゃったわけでは――」

「前置きはよい、そろそろ真意を教えてもらいたいのだが」

 

 ジルの目には彼女を責める色が浮かんでいた。

 

「なぜ野心家のレイを魔導国の使者へ選んだ」

「わかりませんか?」

「ああ、わからないな。彼は帝国を売り渡し、アインズの部下になり兼ねん。それを承知で彼を使者へ抜粋した、お前の意向を聞きたい」

 

 優し気に物を言うジルは表情こそ穏やかであったが、返答を間違えば烈火のごとく怒り狂っただろう。

 

 彼の想像通り、レイ将軍は部下にしてほしいと、既にアインズへ申し出ていた。

 上機嫌で魔導国より戻った彼の動向により、ジルはそれを見抜く。

 

「彼は何をなさっていますか?」

「数日の休暇を申し出た。監視の目によると、帝都内のエルフの奴隷を買い占めているようだが、アインズに命じられたのだろうか」

「あら……そうでしたか。これは……不味いかもしれませんね」

「……だから、何がだ」

 

 お淑やかに腰かけるロクシーは、指を顎に当てて何かを考えていた。

 

「御供の方とお会いしてから、ずっと気になってました。忠誠を誓っていない部下を持ちながら、放置ともいえる自由行動を取らせる。しかし、彼らは裏切る気配がない。これは魔導王が、支配欲とは無縁の存在であり、力で人を従わせないと示唆してます」

「ふむ……それは私も考えていた。だが一部の者だけではないか? あのブレイン・アングラウスだぞ」

「そこでレイ将軍を使者に選び、確認をしようと思いました」

「彼の反応を見て、アインズの人格を探ろうと?」

「はい。もしも噂に聞く魔導王が、野心に満ち溢れ、帝都を我が物にしようとするのなら、彼の行動はそれに伴ったものになるでしょう」

「それならすぐにわかったのだがな……この解答は何を意味するのだろうか。エルフの奴隷を買い占めているとは……理解が追い付かんのだが」

「……そうですね……わかりません」

「わかりませんで済むか!」

 

 ジルは感情の赴くままに、ロクシーを責め立てる。

 

「どうするのだ! アインズの叡智は私の比ではない。想像もしない新たな手段を用い、帝都を手中に収めようとするかもしれないのだ!」

「彼は何と言っていましたか?」

「噂に違わぬ人物だったと」

「人物? そう仰ったのですか?」

 

 再び彼女は上方を見上げて物思いに没頭する。

 放っておかれたジルは、徐々に苛立ち始める。

 

「どうするつもりだ?」

「もしかすると、我々の思い違いかもしれません。彼の魔導王、アインズ・ウール・ゴウンは圧倒的な武力を持ちながら、野心はない。何か他に目的があるのではないでしょうか?」

「他の目的? 悍ましいアンデッドが、一体なにを望むというのだ」

「偏見ではありませんか? 圧倒的武力を持つ方であれば、我々が血の滲む努力で築き上げた帝国など、毛ほども興味が湧かないのかもしれません。予想外の結果は、魔導王は実は人間だった、でしょうか」

「……それはないだろう。私はこの目で彼の髑髏を見たのだ。悍ましいアンデッドである証に、王都の貴族は半数が惨殺されたと」

「迂闊に喧嘩を売るとこうなる、と見せしめにしたのでは? 先日の舞踏会で、王国戦士長もそう話していたのでしょう?」

 

 ヤトにちょっかいをだそうと持ち掛けた時の、ガゼフの表情が思い起こされた。

 たとえ自分一人で帝国を敵に回そうとも、ヤトを怒らせるより死者が少なくて済むと、彼の顔は明確に物語っていた。

 実直なガゼフが演技をしているとも考えにくい。

 

「しかし、そうなると手段が限られるな」

「あら、それは誤解です。破壊を望まないのであれば、裏表なく彼に協力すればよいのではないでしょうか。学校建設の協力を望んでいるのでしょう? 主席魔法詠唱者くらいなら、安くて済みますわ」

「お前……そんな簡単に」

「私も魔導王にお会いしたくなりました。彼を魔導国へ引き渡す際は、私も同行をお許しください」

「……それは許さん」

 

 アインズが心の奥で生者を憎んでいると信じて疑わないジルに、ロクシーは蟹味噌の足りない雑魚でも見る目で、大きなため息を吐いた。

 

「考えられる最悪の手段は……じいが寝返ることだ」

「それがそもそもの間違いです。帝国の繁栄に彼が必要ないのであれば、簡単に渡してしまえばいいのです。妄信に凝り固まり、魔法に取り憑かれた魔法詠唱者など、帝国の繁栄に必要ありません。強引に帝国へ残そうとすれば、それこそ裏切るでしょう」

「……なるほど、一理ある」

「よろしいのではありませんか? 魔導国へ送り込み、そのまま寝返るのならそれもよし。今度はそれを口実に帝国からスパイを送り込みましょう。もし、魔導王がそれを見抜き放逐したとすれば、私たちが恩着せがましく引き取りましょう。その場合は、魔導王にもじいやにも恩を売れます」

「帝国は一切の損害を出さない、というわけか」

「レイ将軍は魔導国の様子について何か話していましたか?」

「メイドと美女が多く、非常に平和だったと話していた」

「村の復興でお忙しい彼の国は、警備に回す人材が不足しているのでしょうか。こちらも護衛は最小限にするべきです。早速、明日から魔導国へ行く準備をはじめます」

「だから、それは――」

「これ以上、不毛な水掛け論を繰り返すなら、お帰り下さいませんか?」

 

 眉間に皺を寄せてジルを責める妾に、それ以上何も言い返せなかった。

 

「話は変わりますが、強い戦士の美人さんを見つけました。魔導国に行けば手に入るかもしれません」

「戦士は必要ない。必要なのは高い知性だ。この国を繫栄させられるだけの、次期皇帝を産むに相応しい女が必要だ」

「そうですか、残念です。とても美人でしたのよ? どんなに頑張ろうと、顔の美醜は持って生まれた道具ですから」

「……美形に越したことはないが、繁栄なくては何の価値もあるまい。立場を奪った貴族にも、美人はいただろう。四騎士を辞めたレイナースも、呪いがなければなかなかの美人だったぞ」

 

 ジルの話を聞いているのかはさておき、ロクシーは噂の魔導王に会える機会を得て、期待に胸を躍らせた。

 帝国の繁栄という面において、これ以上に有用な存在はないのではという考えが、彼女の頭に浮かぶ。

 

 この日、ジルはロクシーの邸宅にて夜を明かした。

 しばらくレイ将軍を泳がせ、その後でフールーダを連れて魔導国へ向かうと、ベッドの中で決まる。

 

 話を聞いたフールーダは、落ち着いた表情でこの提案を受け入れ、彼はデスナイトの支配魔法の研究のために魔法省の最下層へ籠る。

 

 彼を魅了してやまない魔法の深淵に踏み込んだアインズが顕現し、彼へ捧げる忠誠を恋する乙女のように会えない期間によって強固のものに変えていた。

 だが、それはジルとロクシーの想定内だった。

 

 この事態を最も想定していないのは、帝都でイビルアイと仲良くしているアインズ・ウール・ゴウンその人である。

 

 

 

 

 スレイン法国の大神殿最奥、集まった各最高神官長は、漆黒聖典の隊長が持ち帰った途中経過の報告書について議論を行っていた。

 支離滅裂な報告書に彼らの論議は白熱し、跪いて彼らの問いかけを待つ隊長とカイレは、足の痺れを気にしていた。

 

 年配のカイレを不憫に思った隊長は、彼女を室外へ待機させ、足の痺れを独占する。

 

「傾城傾国を使用できないか?」

「魔導王の情報がない、それは時期尚早ではないか」

「蛇に対して使用を検討すべきだろう」

「危険すぎる。殺してくれと懇願するようなものだ」

「蛇の妻に使用してみてはどうかね。交渉のカードになるやもしれん」

「それこそ自殺行為であろう。まだ片方に対して使用した方が可能性はある」

「どちらにしても戦争は避けられそうにない。もう少し穏便な策はないかね」

 

 不意に視線が自分に向けられたのを感じ、隊長は伏せていた顔をあげた。

 

「隊長、実際にその目で見た、君の率直な意見を聞きたい」

 

 思考はすんでのところで余所見から復帰し、隊長は静かな声で応じる。

 

「率直に申し上げますと、魔導国の蛇と交戦は無謀かと思われます」

「ほう、どうしてだね」

「彼の実力は未知数です。私と同等以上に戦える実力を有している可能性も高く、敵対行動はとるべきではないかと」

「ふぅむ……だが、このまま互いに見て見ぬ振りはできまい」

「問題は、蛇が人間に慕われている点です。迂闊な手段を取ると、魔導王だけではなく、その配下である従属神、更には人間である国民まで敵に回す可能性があります」

「この報告書には平和と記載されているが、何をもって判断した平和なのだ?」

「国民の顔は明るく、日々の労働に満足しているようでした。アンデッドなどの異形種も見当たらず、私が目撃したのは従属神だけです」

「パンツラブ・アバター、だったか?」

「パンドラズ・アクターです」

 

酷い間違え方だった。

支配者の二人が聞けば、盛大に吹き出してしばらく笑っていただろう。

 

「その従属神には勝てそうかね?」

「やはり未知数です。種族も職種も不明な従属神には、考慮すべき情報がありません。正直なところ、魔導国の者全てと、交戦は極力避けるべきです」

 

そこからわずかに横に逸れ始めた議論は、先ほどよりも白熱する。

 

「いっそのこと、魔導国と同盟でも結んではどうかね」

「悍ましいアンデッド相手に、同盟などできるものか」

「しかし、プレイヤーの可能性もあるのだろう? 帝国は同盟を結んだというではないか」

「スルシャーナ神の再臨と口にする者も少なくはない」

「再臨というのは誤りだ。そうであれば、スルシャーナ様の第一従者であったあの方が」

「その話はもうよい!」

 

一人の神官長が場を正し、皆が自発的に改めた場には束の間の静寂が訪れ、隊長の足は痺れ続けた。

 

立ち上がった時に転倒しないか、そろそろ心配になる。

 

「同盟は手段の一つとして考慮すべきだろう。この支離滅裂な情報の中に、実はアンデッドではないと書いてある。情報不足が否めない現状では、全ての手段を検討しよう」

「その通りだ。報告書に関しての議論は、隊長が再び魔導国へ潜入している間に行うべきだ」

「漆黒聖典第一席次、そなたには新たな指示を出す」

「はっ」

 

隊長は真摯に彼らの言葉を待った。

魔法の仮面を被って成人の顔つきになった隊長は、敬虔な宗教家に相応しい表情をする。

 

「裏切り者のクレマンティーヌを誘拐せよ。交戦の必要があれば最小限に抑え、撤退を最優先とする」

「行動は魔導国を去る直前に実行せよ。それまで、魔導王に関する情報を、少しでも多く集めるのだ」

「情報は支離滅裂でも構わん、ある程度の情報収集を終え、クレマンティーヌを攫え。機の判断は一任する」

「畏まりました」

「裏切り者を匿っているブレイン・アングラウスは、王国戦士長ガゼフ・ストロノーフに匹敵する強者。決して油断するな」

「全ては六大神の導きの下に」

「人を守護し、新たな世界の創世を」

 

 神官長と共に祈りを捧げつつも右足が痺れた隊長は、凛とした佇まいを崩さぬままに、最奥の会議室を後にした。

 ドアを閉める際に、魔導国の一夫多妻制度について議論している声が聞こえたが、無様に転倒してしまう前に、その場を早く立ち去りたかった。

 

「ふぅ……」

「おつかれー」

 

一息ついてカイレを探そうとした彼に声を掛けたのは、漆黒聖典の末端に席を置く、髪が白黒に分かれた番外席次だった。

 

「……あなたですか。カイレ様はどうしたのです」

「知らない。顔見たらよそよそしく逃げたわよ。失礼な話よね」

「そうですか。後でよく言っておきます」

「いいって、別に。弱いのに興味ないし。それより、魔導国はどうだったの? 蛇と交戦したって聞いたけど?」

「それは誤解ですよ。短い時間ですが立ち話をしただけです」

 

情報収集に失敗して夫婦の営みを邪魔してしまい、一触即発の状況を招いた挙句、カイレともども危なく殺されるところでしたと、誰がどう判断しても番外席次には教えられない。

聞いた数秒後には姿を消し、法国を飛び出して魔導国へ向かう可能性が高かった。

 

「蛇は強そうだった?」

「いえ、普通の……普通より実力が劣りそうな人間でしたよ」

 

寝間着姿でしたという件も、大事をとって念のため伏せられた。

 

「他に強そうな奴はいた?」

「滞在期間も短く、見当たりませんでした。女性は美人が多かったです」

「あ、そ」

 

 どうやら興味を失ったらしい。

 密かに安堵の息を飲み込んだ。

 息を漏らしたりすれば、それで感づかれてしまう。

 

 耳に特徴のある番外席次の興味は、手の中で弄ばれる玩具へ移っていた。

 

「他に何か面白そうな話は?」

「魔導国の強者は一夫多妻かもしれませんね」

「魔導王は?」

「彼の情報はありません」

「つまんないの、期待外れもいいところで……あ、二面揃った」

 

 自慢するようにルビクキューを差し出して笑った。

 

 年相応の少女に見えた。

 

「私と蛇、どっちが強そう?」

「あなたですよ」

「そっか……そいつは残念。敗北を知れると思ったのに」

 

 いつもなら唇の端を吊り上げ、血に塗れた笑顔を浮かべるはずだった彼女は、玩具(ルビクキュー)が二面揃ったことで少女らしく微笑んだ。

 魔導国の蛇が娶った二人の妻が浮かび、蛇が彼女に勝ったら彼女を娶るのだろうかと、他愛のない想像が浮かぶ。

 

「あなたより強そうであれば、どうなさるのですか?」

「決まってるでしょ」

「いけませんよ、あなたは人類の最後にして絶対の守り手なのです、迂闊な行動は――」

「誰に意見を言っているのか、わかってる? またぶん殴られたいの?」

 

 本来なら失言を悔やみ謝罪を述べる場面だったが、ルビクキューの功績により彼女の表情は緊迫感に欠けていた。

 

「失礼しました。私はこれから魔導国へ戻らねばなりません、何か有益な情報があれば、帰国した際にお教えします」

「好きにすれば? 期待してないから」

 

 素っ気なく言い放った彼女は、静かにその場を後にした。

 

「やれやれ……相変わらずの御方だ」

 

 宝物庫を守る立場でありながらも、自由奔放な態度の彼女を羨ましく思いながら、隊長も痺れた足をよろよろと引き摺り、再び魔導国へ潜入する準備を始めた。

 

 彼が魔導国へ戻るのは、ブリタが罪人を引き連れて魔導国へ帰還した日である。

 

 

 

 

 冒険者組合を出たブリタは、その足で“黄金の輝き亭”を訪れた。

 目的の人物は猫背でベッドに腰かけ、欠片ほどもやる気の見えない顔をしていた。

 黒い丸が三つ並んだ顔をみてパンドラを思い出したが、何よりも彼女が人間ではないのだと改めて知り、大きく怯んだブリタは控えめに声を掛けた。

 

「あの、こ……こん、にちわぁ……」

 

 やる気をなくしたナーベは、耳に届いた声と同時に容姿端麗な美女へと戻り、相手を間違っていなかったとブリタは安堵する。

 

微塵子(ミジンコ)、ノックもせずに無礼ですよ。叩き潰されたいのですか?」

「あ、ご、ごめんなさい。お時間よろしいでしょうか」

「私はアイ……モモンさm……ンン! モモンさんから言われて待機を――」

「その件ですが、アインズ様が待機はしなくていいので、一度王都に顔を出すように、だそうです」

「ア…スモ、モモ……アインズ様が?」

 

 待機呆けしているナーベは、美貌を崩さないままにどちらで呼んでいいのか迷った。

 仕切り直したブリタは彼女の美しさに見惚れ、なぜアインズが彼女に手を付けないのかを改めて疑う。

 

「はい、ナーベさんの妹と姉は王都の組合で、仕事のお手伝いをしていると伝えてほしいと。ナーベさん、姉妹がいたんですか?」

「みんなが……人間のお手伝いを?」

「ナーベさん?」

大蚊(ガガンボ)、気安く話しかけると踏み潰しますよ?」

「あ……あぅ」

 

 相変わらず取り付く島もなかった。

 無言で俯きながらもナーベを盗み見ると、色白の肌に黒髪のポニーテールが似合う彼女はぞっとするほど美人であり、儚い印象の人間アインズとお似合いに見えた。

 

「あ、あの!」

「誰が勝手な発言を許可し――」

「ナーベさんは、アインズ様と何もなかったのですか!?」

「はぁ?」

 

 露骨に不快な表情をするナーベに怯むことなく、ブリタはまくしたてる。

 

「男女の関係になったりとか、口説かれたりとかはしなかったんですか!?」

「なにを馬鹿なことを言うのですか!」

「それだけ美人なのに、どうしてアインズ様は――」

「黙りなさい! アインズ様にはアルベド様という方が!」

「知っています! でも、アインズ様なら沢山の女性に慕われてもおかしくありません!」

「蓑虫の癖によくわかっていますね。アインズ・ウール・ゴウン様は偉大なる御方、ですが今は――」

「アルベド様とイビルアイさんの二人と結婚するみたいです……私も妾に立候補したのですが」

「なっ……! 詳しく話しなさいっ!」

 

 突如として食いつきの良くなったナーベに、ブリタは夜通し事情聴取をされた。

 情報から隔絶されて放置され続け、人間蔑視の設定も忘れて彼女に食らいついた。

 

 忠誠と愛の温度差はあるものの、アインズという共通の話題を持った二人の話は大いに盛り上がり、訪れた朝が早く寝ろよと日差しで抗議したが、興奮した彼女らに眠気は訪れなかった。

 夜が明けて朝食の時間を通り過ぎ、昼近くになってからようやくナーベは王都へ転移していった。

 解放されたブリタは、美女を見送ってから彼女の使っていたベッドで一休みする。

 

 シーツに取り残された嗅いだことのない良い匂いに包まれ、アインズの夢を見ますようにと祈りを捧げ、大きめの胸に両手を置いて夢の世界へ旅立っていった。

 

 

 翌朝、紅に染まる夕陽に起こされたブリタは、慌てて冒険者組合の道を急ぐ。

 組合長のアインザックは組合の前に止められた馬車へ、縄で繋がれた罪人たちを詰め込んでいた。

 

「く、組合長! 遅くなって申し訳ありません!」

「やあ、遅かったな。実は馬車が足りなくてね、追加の馬車を用意しているので、まだ時間がかかりそうなんだ。君も顔見知りに挨拶してきてはどうかね」

「は、はあ。いえ、私は早く王都へ戻らなければならないので」

「ほう、見違えたとは思ったが、もしや想い人でもできたのかな? 女性は恋で大きく変わるというが」

 

 おどけて尋ねる彼は的確にブリタを射抜き、彼女の顔は夕陽の効果と合わさって真っ赤だった。

 

「む、その反応だと、やはり想い人でもできたのかね? まさかと思うがモモン君がそうなのか?」

「あ、あぅ」

「そうかそうか、モモン君にはエ・ランテルに戻ってきてほしいからな。君には是非とも頑張ってもらいたい。もし彼が複数の女性を希望するのなら、こちらでも協力は惜しまな――」

「もう十分います」

 

 ブリタが自らの失言に気付くのは、目を見開いて楽しそうに聞き込みを始めようとする、アインザックを見てからだった。

 

「なんだと!? 既に意中の相手、あるいは手を付けた女性がいるというのか!? ブリタ! その辺りの話を詳しく――」

「し! 失礼し! ます!」

 

 派手な失言をしたブリタはその場を走り去り、残されたアインザックは、王都へ女性を送り込むべきか、相棒のナーベ嬢に彼の好みを探ろうかと検討をはじめた。

 だが、彼の思惑は一切合切が上手くいかない。

 

 ナーベは既にエ・ランテルから消えていた。

 

 

 そんな理由でしばらくの空き時間を消費せざるを得ないブリタは、アインザックの言う通りに顔見知りの酒場へ顔を出す。

 かつてアインズが扮するモモン相手に、ポーションをせがんだ酒場だった。

 

「や、おやっさん。久しぶり」

「ブリタじゃねえか。しばらく見ねえと思ってたが、英雄さんの妾になったんじゃなかったのか?」

「ん、まあ……ね。英雄ともなると競合も多くてさ。それより、なんかちょうだいよ」

「あいよ」

 

 勝手知ったる古巣に帰った彼女は、飲み慣れた安い葡萄酒を口に運んだ。

 少しくどさを感じる葡萄の香りが立ち込め、安酒を旨そうに飲み込む。

 

「ふーっ……相変わらずやっすい酒だねえ」

「嫌なら飲むな。それより、どうなんだよ?」

「何が?」

「ナニが」

「はぁ?」

「だからぁー、色男のことだよ。奴さんとはヤったんだろ?」

 

 用心棒に似た逞しい店主は、太い腕を組みながら身を乗り出してブリタに絡む。

 いかつい表情に反して、目は完全に笑っていた。

 

「化粧をして髪も梳いて、随分とまあ美人になったじゃねえか。俺の目を隠せると思うなよ」

「そんなに長い付き合いじゃないくせに」

「短く深く、が座右の銘だからな」

「相変わらず口の減らないおっさんだな」

 

 いつもはぎょろっとした目で相手を睨む店主も、久しぶりに会った彼女に対しては目が優しかった。

 

「お前さんがここを去ったあと、店じゃもっぱらの肴だったぜ。英雄の妾になって冒険者を引退したってな」

「ふうん」

「教えろよ、英雄様はベッドの上でも英雄だったのか?」

「だといいんだけどね……そんな相手にしてもらえず、王都で来る日も来る日もアンデッドを殺してばーっかり。今は別の作戦に関わってるんだけど、待機時間が多くてさ。弱いから自分では動けないし」

「んなことはどうでもいいんだよ。英雄はどうした」

「私は妻にはなれなそうだよ」

「ほー。詳しく聞きてえな」

 

 酒の席に相応しい話に花を咲かせていると、酒場のドアが開かれる。

 彼らはモモンにポーションの件で食って掛かる事態の、元凶となった冒険者たちだった。

 懐かしい顔を見つけた彼らは、嬉しそうに彼女へ近寄ってくる。

 

「よお! ブリタじゃねえか! 英雄の妾になったんじゃねえのか?」

「たまには一緒に飲もうぜ。いつまでここにいられんだよ」

「英雄に妾を解雇されたかぁ?」

 

「あんたたちとは違うんだよ。あっちで飲んでな」

 

 粗野な男たちは、大きな口を開けて豪快に笑った。

 彼らはテーブル席に移動し、カウンターに座るブリタへ、余裕をもって届く大声で会話をはじめる。

 

「最近じゃ、英雄の不在を受けたのか、でかい依頼はないがな、小さい依頼が大量にあんだよな」

「そうそう、飼い犬の捜索から草むしりみてえな雑用ばっかだ。魔導国になって魔物が減ったから、商人の護衛が一番おいしいが、そのせいで取り合いだしな」

「まったく、魔導王様様だぜ。近隣の魔物を統治してから、上位冒険者を集めたもんだから、細々としてるが俺たちでも忙しくていいよな」

「金も安いから、飲み明かしたら溶けちまうけどな」

 

 ブリタは店主にだけ聞こえる声で、大きな会話に相槌を打つ。

 

「ふーん、そうなんだ。あいつらもやっすい酒飲んでるより、よほどいいよね」

「そりゃまあな。それよりー、どうなんだよ。英雄さんとは。飽きるほどにヤったのか?」

「おやっさん、しつこいよ」

 

 先ほどの話をまた繰り返すのかと思い、ブリタはため息を吐いた。

 

 それから空いた時間を利用し、久しぶりに会ったろくでなし達の話に聞き耳を立てていた。

 もっぱらの問題はエ・ランテル随一の薬師、バレアレ家がカルネAOGに引っ越してしまい、そこまで出向くのが面倒という件に移る。

 

「遠いんだよな、あそこ」

「まったくだ。あんなに発展してんなら、組合でも作ってくれりゃいいのによ」

「そりゃ無理だろ、なんだあの化け物は。住民もゴブリンとかオーガまで混じってんだぞ」

「金貨払って冒険者雇うより、よっぽど安上がりだしな」

「それよりあの化け物は何なんだよ。見たことないアンデッドだけどよ」

「魔導王が村長を殺してアンデッドに変えたっつってたがよ」

「ほんっとに、恐ろしい化け物だな」

「どっちがだ?」

「魔導王に決まってんだろ」

「ああ、まったくだ。あんな化け物が治める国なんか、出ていきてえが、金もねえ」

 

 ブリタの眉間に深い皺が刻まれたが、盛り上がる彼らに気付いた素振りはない。

 

「平然と人を殺す王様を、どうやって崇めろっつんだよ」

「あまり酷いなら俺らで殺っちまうか?」

「はん、俺らも英雄になるか?」

 

 アインズの高評価は魔導国領内の国民に、間違った伝言ゲームにて水のように浸透していた。

 しかし、一部の冒険者や流れ者は、アンデッドという一点だけでやっかみを抱き、彼らのように酒場で悪くいうものは少数だが残っている。

 笑い合う三人は、ブリタが弱い殺気を放っていることに気付かない。

 

「モモンもさっさと討伐してくれりゃあいいのによ」

「英雄なんだからこんな時くらい、役に立たねえとな」

「名誉を称えてやってんだから、無料奉仕くらいは罰が当たらねえぜ」

 

 ついに我慢の限界を超えたブリタは、怒りを爆発させる。

 

「ちょっと! あんたたち!」

 

 大きな目くじらを立て、テーブルの彼らに歩み寄った。

 

「黙って聞いてりゃなんなのよ!」

 

 ブリタは自分より大柄の男の胸倉を掴み、軽々と持ち上げた。

 哀れな生贄は、締められる前の鶏よろしく、足をじたばたと前後に振った。

 

「アインズ様は人間だろうと異形種だろうと、分け隔てなく優しいんだよ! あんたらみたいな穀潰しが、貶していい人じゃないんだ!」

 

 持ち上げた男の顔色が徐々に蒼くなっていったが、加熱したブリタは冷めそうにない。

 

「今度、アインズ様を貶してみな。私があんたらをこの国から追い出してやる! わかったら静かに飲みなっ!」

「わ、わかった! わかったから、放してやってくれ!」

 

 かつて自分たちと同等、あるいは手が届く範囲の上位に位置していた彼女は、影も見えないくらい遠くへ行ってしまった。

 彼の体感で長時間を持ち上げられて呼吸困難に陥り、顔面蒼白で泡を吹きながら気絶した仲間が、それを確かに証明していた。

 彼の意識は、いい日旅立ちと言わんばかりに、翌日まで戻ってこなかった。

 

「あ、ご、ごめんね! やりすぎちゃった! ちょっと、あんた! しっかりしなよ!」

 

 我に返った彼女は見知ったブリタであったが、誰も声を掛けられなかった。

 ばつが悪くなったブリタは、店主に木偶人形を任せ、冒険者組合へと飛び出していった。

 

「ごめん、おやっさん! また来るから!」

「ああ、次来た時は土産話でも持ってこいよ」

 

 飛び出すブリタの背中に声を掛けた店主は、感慨深そうに呟いた。

 

「大したもんだな。何かを一端(いっぱし)に極めるってのはよ。オラ! お前もいつまで伸びてやがるんだ」

 

 意識を失って水揚げされた鮪のように横たわる彼は、店主によって乱雑に宿泊室へ運ばれていく。

 残された彼らは連れの心配もせずに、小声で酒を飲み直した。

 

「王都に行くと、あんなに強くなれんのかねぇ」

「美人になってたぞ」

「……俺たちも行ってみるか?」

 

 この日を境に、冒険者の間で王都へ行けば強くなるという評判が広まる。

 組合長のアインザックは、刻一刻とエ・ランテルを離れていく冒険者たちを、胃痛と共に見守った。

 

 英雄モモンをエ・ランテルに縛り付ける作戦は、練りあげる前に屋根まで飛んで壊れて消えた。

 

 エ・ランテルの冒険者組合が陥った危機的情報は、アインザックの胃壁が過度のストレスで投げやりになり、穴が空く寸前まで到達してからアインズに届いた。

 

 

 

 

 ブリタが罪人を積んだ馬車と共に、エ・ランテルを出発する時刻。

 王宮の執務室では、机に座ったヤトにアインズが怒られるという、非常にらしくない場面が展開されていた。

 

「……だから言ったのに」

「……正直、済まなかった」

「うるさいッスよ、本当に。アルベドはどうしたんですか? ぶっ殺しますよ?」

「……スマナイ」

「心が籠ってない」

 

 “精神の沈静化によく似た沈静化(賢者モード)”をされたアインズは、申し訳なさそうにヤトへ謝罪を述べる。

 心はちっとも籠ってなかった。

 そもそも彼の心はここにいない。

 

 骨を抜かれた様子に不満を呈すヤトは、大きめの椅子に寄りかかり、組んだ足の上に組んだ手を乗せ、アインズよりも偉そうに説教をする。

 

「逸る気持ちはわかりますがね、二人も妻がいるのに、イビルアイとだけ何度も夜を共にすんのはまずいでしょうよ。アルベドと俺の殺し合いの、第二ラウンドが始まりますよ」

「……わかってる。その……いや、凄いんだよ」

「やだ、何言ってんの、この人……」

「凄いんだって。その、愛が肌を通して直に伝わるというか、どうやら俺はイビルアイに惚れてるようだ」

「はぁぁぁあー……」

 

 ヤトが吐いたため息は、これまでにため息を吐いたことのある誰よりも長く、そして深かった。

 

「惚気は結構。しかも覚えたての行為に引き摺られる恋路なんて、馬にでも蹴られてください。アルベドを呼びましょうか?」

「待ってくれ」

「なんでッスか。ぶっ殺しますよ?」

 

 妻にすると自分で言っておきながら、いつまでもアルベドに手を付けないアインズに、流石のヤトも苛立ちを覚える。

 

「アルベドはハードルが高すぎる」

「はぁ?」

「いや、その……わかるだろう。あんなに美人で、体も、その……なぁ?」

「歯切れ悪っ!」

「最初にプロポーズしたのはイビルアイだ。だから先に手を付けるのも」

「そうやってアルベドから逃げた結果が、この前の騒動でしょ」

「……」

 

 議論は最初から一貫してヤトに軍配が上がる。

 アインズは自らの支配者らしからぬ態度に、元気と気力を失って気が滅入る。

 

「お前の言う通りだ。アルベドにも連絡する。しばらくナザリックに籠っていいか?」

「アルベドにハマったら二度と出てこなそうなんで、ダメ。王宮に呼び出してください」

「……それもそうだな」

 

 白い淫魔の美しい体型が浮かび、如何にも淫魔らしく絶世の美貌を持つ彼女に、経験の浅い自分が対応できるのか不安になる。

 

「アインズさんの旺盛すぎる好奇心にも困ったもんですね。どうせ疲労も睡眠も必要ないのをいい事に、一晩で何回戦もしてるんでしょ?」

「なぜわかる」

「わかりますよ。卒業した直後の男は全員そんなもんです」

「経験豊富な男は違うな……」

「まあ、俺には疲労も眠気もありますからね。誰かさんみたいにヤりまくれないですし。そんなことより、明日はランポッサ三世さんと飲みに行く日ですよ」

「知ってるよ」

 

 疲労困憊から復帰したガゼフは、ダンジョン内でアインズが言っていた件をさっそく実行に移そうと、忠義を尽くす君主のもとを訪れていた。

 二の足を踏むかと思われたランポッサ三世は、意外にもすんなりとこれを承諾し、とんとん拍子で新旧の国王と右腕の酒席が設けられる。

 

「忘れてなきゃいいんですよ、魔導王さん」

「楽しみだな」

「あ、それからー、最近ウチの近くに覗き魔が出るんで、護衛をつけてくれませんか? エイトエッジかシャドウ・デーモンを邸宅の周囲に」

「覗き魔? よくわからんが、護衛は手配して……おい、自分でやれ。メッセージは使えるだろう」

「ありゃー、バレたか」

「楽をするな、楽を」

 

 支配者たちは執務室に籠って表に出ず、平和な魔導国の何気ない一日は終わりを迎えようとしていた。

 

 

 同時刻、地下ダンジョン内で入手した疲労困憊から復帰したブレインは、引っ越しの荷物を纏める合間に、クレマンティーヌの部屋を訪れる。

 メイドのクリアーナが上着を脱がして体を拭いている最中だった。

 

 色白の白い素肌が眩しかった。

 

「おっと、悪い」

「もう終わりますから、いても構いませんよ」

「そうはいかないだろ」

「どうせ妻にでもするのですよね?」

「その予定はない」

「……本当ですか?」

 

 疑うメイドには答えなかった。

 回れ右して室外へと出たブレインは、お湯の入った洗面器を抱えたクリアーナが出てくるのを待つ。

 

「お待たせしましたー、準備は出来ていますわ」

「何言ってるんだ?」

「んまぁ、最後まで言わせるおつもりですか、旦那様。野暮ですわね」

「……酷い誤解だな。そんなことより、これ」

 

 ブレインはダンジョンクリアの報酬として貰った白金貨一枚を、クリアーナが抱える洗面器に入れた。

 

「っ……白金貨!?」

「これでひと月くらいもつか?」

「十分です。幸いにも食費は安く済んでいます」

「じゃ、それで頼む。余ったら小遣いにしていい」

「きゃー! ありがとうございます! 私の敬愛する旦那様!」

 

 若く現金なメイドは、高額の小遣いが入った洗面器を大事に抱えて、自室へと入っていった。

 引っ越しの荷物を纏める作業に手を付けるのだろう。

 機敏な動きが期待できそうだった。

 

 ブレインは気持ちを切り替え、クレマンティーヌの部屋へと入室する。

 

「入るぞー」

 

 毎度のことながら、虚ろな瞳で座る彼女からは、何の返答もなかった。

 

「元気か……ってそんなわけないよな」

 

 何の反応も返ってこないと知りながら、ブレインは壁に寄りかかって腕を組み、一人だけで会話を続ける。

 

「王様が、お前の嫌な記憶を消してくれるそうだ。よかったな、これでお前も元に戻るかもしれないぜ」

「……」

「知ってるか? 体が血液を流しているのは、生きたがってる証拠なんだと。王様の受け売りだけどな」

 

 ブレインは返答のない彼女に近寄り、絶食の影響でか細くなった腕を取った。

 彼女の体は、確かに生きたがっていた。

 

「戻ったら俺に武技を教えてくれよ」

「……」

「こんなに痩せたら剣も握れないぜ。強さを取り戻すまでは俺が稽古をつけてやるよ」

「……」

「お前に武技を教われば、俺は強くなれる。その後は好きにしろよ。結婚して強い子を産むのも悪くはないと思うが」

「……」

「なあ、クレマンティーヌ。平和なこの国で、血を見ない生活を送ったらどうだ? お前が何者かは知らんが、そこまで追い込まれる必要もないだろ」

 

 握っていた手を離し、彼女をベッドに横たえる。

 生きる気力を無くした彼女は、自力で瞼を下ろすことさえ叶わない。

 彼女の瞼をそっと下ろし、ブレインは部屋を退室する。

 

「じゃあな。今日はうなされずに寝てくれよ。明日から引越しで忙しい。寝不足は御免だぞ」

 

 返事がないのを承知の上で、彼女が元気になる姿に多少の期待を寄せた。

 ゼンベルのように馬鹿で賑やかな同居人が増えるのも、最近は悪くないと感じていた。

 美人であれば目の保養にもなるだろう。

 

 お世辞なら美人と言えるメイドとは違い、彼女は顔も体もよくできていた。

 

 

「やれやれ……手間のかかる女だな」

 

 口元は笑っていた。

 

 ブレインとクレマンティーヌの関係性、健康状態、精神状態がどこに進むかに関わらず、危険の予兆は近寄ってくる。

 

 光を待ちわびた賽は、運命の胎動を感じて静かに目を覚ます。

 

 誰も予期せぬ混沌の未来を導き出すために。

 

 


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