アルベドの作戦において最も役割の薄いブリタは、急な呼び出しが入ると困るので単独で冒険者をやる訳にもいかず、またそれほど強さに自信もない彼女は、何とはなしに王宮へと出向く。
王宮の中庭では、何かの鬱憤を晴らすように鬼気迫るレイナースが、ティファ指導の下で修業に明け暮れており、話しかける度胸は無かった。
庭の縁石に腰かけたイビルアイが、両腕で頬杖をついて二人を見ていた。
ブリタが話しかけられる相手は、彼女くらいである。
アインズが不在の現状で、彼女も暇を持て余していた。
「イビルアイさん。アインズ様は戻りましたか?」
返答はなく、小さな彼女は首は横に振られた。
「私たちって、アインズ様がいないと暇ですね……」
「そうかもしれない」
陽が高くなった頃に帝都の使者が訪れたが、アインズの不在を受けて夕方に出直すと言伝を受けた。
アインズが疲労困憊の戦士二名、蜥蜴人二名を連れて帰還した頃には、夕方に差し掛かろうとしていた。
「ご、ご苦労だったな。みな、二日くらいは休んでくれ」
「……」
「調整を行ったダンジョンに、このメンバーで再び潜ろう。一般公開するのはまだしばらくかかりそうだからな」
「……」
精悍なガゼフまで、いつ倒れてもおかしくないほど消耗しており、何の返答も無かった。
労をねぎらわれて休みを言い渡され、トボトボと王宮を去る四名は、背中から哀愁と疲労と絶望を漂わせていた。
縁石に腰かけてその様子を見ていた彼女たちは、アインズがため息を吐いて額の汗を拭ったのを確認し、ようやく立ち上がる。
「アインズ様、お帰りなさい」
「おかえりなさい」
「ああ、ただいま。ずっと待っていたのか?」
「はい、帝都の使者が夕方に来るそうです」
「そうだったな……着替えにナザリックへ戻るか」
自らの茶色い服を眺めた。
その格好で帝都の使者と会うことは、誰の目から見ても不可能だった。
「着替えが用意してあります」
「お手伝いをします」
「いや、着替えくらいは自分で――」
「お手伝いは駄目ですか?」
上目づかいで頬を赤く染める二人の女性に、免疫能力が低いアインズはたじろぐ。
「い、いや……私は子供ではない。魔導王が着替えも一人で出来ないと――」
「魔導王様とあろう御方が、一人で着替えるなど、それこそ不自然ではないでしょうか」
「名の知れた独身の貴族は、メイドに着替えや夜の世話までさせています。夜が駄目なら、着替えくらいさせて頂けないでしょうか」
「わかったわかった。好きにしろ」
長くなりそうな二人の説得を億劫に感じ、投げやりに追従を許可する。
再び小さなため息を吐いて、女性二人を従わせたアインズは、執務室で着替えをはじめた。
手際よくアインズの上着を脱がし、室外のメイドへと渡す。
ごく自然にシャツのボタンに手を掛けようとする四本の手は、アインズに掴まれて素早く離された。
肌着は来ておらず、シャツの下は裸だった。
「シャツのボタンは自分でやる」
「では下を」
「ブリタ、それは私の役目だ」
「いや、退室してもらいたいのだが」
「サトル、私は妻です。いずれはその……そういう関係に」
「アインズ様、私は妾です」
「……イヤ、ソウナンダケドー……ココロノジュンビガーミタイナー」
口の中でごにょごにょと文句を言う彼に構わず、二人はボトムに手を掛ける。
「
咄嗟に発動した魔法により、アインズは漆黒のモモンへと変わる。
黒く輝く鎧に着替えたアインズの表情は見えなくなり、ブリタとイビルアイは残念だと露骨にしかめっ面をする。
「お着替えが……」
「お手伝いが……」
「今日はこれで過ごせばよかろう。どちらにしても、アンデッドにはまだ戻らないようだからな。帝都の使者にはこれで応対する」
「それはまずいのではないでしょうか。アインズ様に会いに来た使者に対して、部外者に応対させるというのは」
「……そうだろうか」
「私もどうかと思います。モモン様とアインズ様が同一人物と知るのは、王宮に出入りしている一部の男性と、アインズ様を愛する女性だけです」
「……そーだな」
しばらく食い下がる女性二人から献上される疲労が、ダンジョンでの意地悪疲れに上積みされていく。
肉体の疲労は感じないが、精神の疲労は身体を斑に蝕んでいる。
一人になりたかった。
視線に貫かれてどうしたものかと思案している彼に、空から天啓が舞い降りる。
「……ブリタ、冒険者としての活動はどうだ?」
「あ、いえ……はい、何もしていません」
「では暇なのだな? 仕事を頼まれてくれるか?」
「え?」
ブリタは名残惜しそうにアインズのシャツを見つめていた。
せめて素肌だけでも拝みたかった。
「早急にエ・ランテルの冒険者組合へ向かい、関係者へ近況の報告を頼みたい」
「あの、着替えが」
「いいから行きなさい。それからもう一つ、頼まれごとを聞いてほしい。こちらも急ぎだ」
「……私は、邪魔でしょうか」
「勘違いするな、追い出そうとしている訳ではない。本当に急ぎで必要なのだ。ブリタ、私の頼みを聞いてくれないのか?」
モモンは努めて優しい声色を差し出し、黒い鎧のスリットでブリタを見つめる。
いつもの赤い光は宿らなかった。
ブリタの主観的にだが熱い眼差しで見つめられ、頬を紅潮させた彼女はすぐに冷静さを欠く。
「はい! 行ってきます!」
「待て、まだ説明してな……行ってしまったか。やれやれ、イビルアイ、後で彼女に伝言を頼む」
猪のように話も聞かずに執務室を飛び出した彼女は、ドアを閉めるのも忘れていた。
イビルアイもため息を吐いた。
それから強引にイビルアイを追い出し、アインズは汚れた服を着替え、差し込む日差しが徐々に赤くなる執務室で、バハルス帝国の使者を待った。
◆
夕日の差し込む王宮の一室で、人間のアインズは肉のついた瞳で外を眺めていた。
化学物質に汚染されていない大気は澄み渡り、太陽は激しい自己主張でアインズの体を紅に染めあげる。
まるで太陽の一部になった気分を味わいながら、無心で景色を貪っていた。
景色に没頭して周りへの注意が薄れている彼に、イビルアイは物音を立てないように近寄り、アインズへ寄りかかる。
白い服が赤に染まり、赤ずきんに寄り添われる彼の姿は、赤い瞳をした蛇が見れば手を叩いて笑う絵面だった。
それでもアインズは気付いていたが、美しい景色に女性経験皆無の者が持つ、独特の防壁は門を開いていた。
「綺麗な夕陽だな……」
「見慣れた景色です」
「我々の世界では考えられない、美しい景色だ。空気が化学物質で汚染されると、景色をみることさえ許されない」
「サトル、いつか元の世界に帰るのですか?」
「いや、そのつもりはない。つもりはないが……かつての仲間を呼べるのなら、あちらへ行く必要があるかもしれないな」
「一人で行かないでください」
「妻を置いては行かないさ」
二人にそれ以上の言葉は必要ない。
イビルアイは控えめにアインズの手を取り、夕陽に染まる室内にて手を繋いで景観を眺めていた。
傍から見たら子供と大人が手を繋いでいるようにしか見えず、それもノックの音ですぐに離れてしまう。
「お客様がお越しでございます」
アインズは黒いローブをタキシードの上から羽織り、久しぶりに嫉妬マスクを顔に装着する。
少しだけ息苦しかった。
「通してくれ」
メイドと共に入室した帝国の使者は、先日に会った騎士だった。
端正な顔立ちで一見すると優男といった印象を受ける騎士は、その顔立ちから察するに貴族出身者なのだろう。
「お目にかかれて光栄です、魔導王閣下。私はバハルス帝国将軍の一人、レイと申します」
「初めまして、レイ将軍殿。私がアインズ・ウール・ゴウン魔導王だ。ここで立ち話も申し訳ない、応接間へ移動しよう」
二名の従者を引き連れて仰々しく跪く彼を促し、一行は応接間へと移動していった。
◆
「楽にしてくれたまえ」
「はい、失礼します」
魔導王としての堂々とした振る舞いを前に、従者の二人は可哀想に思えるほどに体を硬直させていた。
「イビルアイ、席を外してくれ」
「よろしいのですか?」
「護衛は必要ない。同盟国の将が最小限の従者で訪れてくれたのだ、私も礼を尽くそう」
「畏まりました。ドアの外で待機をしています」
妻として必死に振る舞う彼女は、今一つ身長が足りなかった。
緊張による従者の硬直は、走り去る少女で多少はほぐれたように見える。
「魔導王閣下、改めてお時間を割いて頂き感謝いたします。よろしければその仮面を外して、お姿を拝見させて頂けないでしょうか」
「申し訳ないがそれには応えられない。また機会があればお見せしよう」
「そうですか……」
貴族を思わせる端正な顔を、ここまで一度も曇らせなかった彼は、心の底から残念そうに俯いた。
「それで、今日は先日の外交の続きという話だが」
「はい、細部を詰める前に閣下が帝国を去られてしまい、ジルクニフ皇帝も残念に思っております。つきましては、改めて同盟に関する互いの条件を――」
「同盟に関する条件だが、私は帝国に多くを求めはしない。農耕用地の貸与、学校建設へ協力、魔導国が戦争になった場合は軍を動かして頂きたい。逆に帝国から我が国、いや、私への要望があれば、全力で協力しようと考えている」
「帝国の将として寛容な対応に感謝いたします。つきましては帝国側の要望を――」
それからは退屈な会談が続いた。
詰まるところ、圧倒的武力を所有するアインズの前で、帝国側が取れる手段など数える程度しかない。
帝国側の要望を読むレイの言葉は、長々と公的な文章を読むそれであり、内容を纏めて凝縮すると、《仲良くしてね》の一言で済むものだった。
ジルが最も恐れるのは帝国の滅亡であり、最も望むのは帝国の繁栄なのだ。
「帝国の繁栄に協力してほしい、ということで間違いないだろうか」
「左様でございます。共存共栄のために、相互利益を得る関係と」
「それはこちらも望むところだ。ジルにその通りでお受けすると、伝えて頂けるかな」
「ありがとうございます」
一旦、言葉を切ったレイは従者へ目配せを行い、将の意を汲んだ彼らはそそくさと退室していった。
「閣下は魔法詠唱者とお聞きしていますが、お間違いないでしょうか」
「その通りだ」
「よろしければ魔力の一端をお見せいただけないでしょうか」
「断る」
「な、なぜですか」
狼狽えはじめたレイに、何か企んでいないかと仮面の下で懐疑的な視線を送る。
「以前に私の力を垣間見たものは、その場に嘔吐してしまった。それほどに隔絶した力を簡単に見せてしまい、帝国が誇る優秀な将の貴公に、万が一にも廃人になられてはジルに申し訳が立つまい」
「し、しかし」
「情報としては、王国最強の戦士であるガゼフ・ストロノーフと同等以上に戦えるアンデッド、デスナイトを、死体を媒介にして作成ができる。だが、それが何百体いようと、私とヤトを倒すことはできん。なんら参考にはならないかもしれないが、今日はそれで納得してくれないかね」
「……デスナイト。フールーダ老へお渡しなさった、黒い巨躯の悍ましいアンデッドでございますね」
レイは無礼を承知でアインズの仮面を凝視する。
帝国と魔導国の国家間会談は、いつしかレイの個人的な面談となっていた。
瞳に野心の炎を宿らせる彼の燃える視線に、そろそろ居心地が悪いと困っているアインズの内心に気付かず、再び話を続ける。
「閣下、ここからは私個人の要望にございます。話を聞いて頂けますでしょうか」
貴族としての回りくどい話し方を止めた彼の話は、実にわかりやすかった。
「私は力を渇望し、力に魅せられた人間でございます。閣下のお噂はかねがね伺っており、その噂のどれをとっても、非常に魅力的でございます。魔法を見せてくださいなどと厚かましい要望は致しません。せめて、その神の領域に到達した魔力だけでも、愚かな私めに感じさせていただけないでしょうか」
身の内でどんな無茶が飛んでくるかと身構えたアインズは、素直でわかりやすい内容に拍子抜けする。
「……どうなっても知らんぞ」
「はい、よろしくお願いします」
アインズは探知を阻害する指輪を外し、己の魔力を周囲へ知覚できるようにする。
急激に濃くなったアインズの気配、レイへ触手を伸ばすか如く濃密に変容した空気に、慌てた彼は思わず立ち上がる。
額には瞬時に汗が滲んだ。
「魔力でも見えたのか?」
「……し、失礼しました。目には見えませんが、予想以上の力を感じたもので」
自らを圧し潰そうとする空気に、レイの体は動くまいと抵抗を続ける。
ここで返答を間違えば、首が胴体を残して旅立ってしまいかねなかった。
命の危機を感じるレイと打って変わり、アインズは彼が哀れに思い指輪を嵌め直す。
「座ってくれたまえ。見えなくても何かを感じるとは思わなかっ――」
「閣下、私は帝国を明け渡そうと思います」
唐突に跪いたレイは男性特有の理由により、立ち上がるのが難しかった。
アインズが知れば、さぞかし遠くまで引いただろう。
「……はぁ?」
「閣下が帝国を欲するのなら、私は即座に皇帝の首を刎ねましょう。閣下が女を所望なさるなら、選りすぐりの美女を献上いたしましょう。閣下が世界を焼き尽くそうとなさるのなら、私が先陣を切り――」
「何か誤解をしていないかな? 私が何を望んでいると考えているのだ」
「は、はい。世界征服か、あるいは世界の滅亡を望んでいらっしゃるのかと」
「ぷっ……」
デミウルゴスやその創造主の姿を思い出し、口からは自然に笑みが零れていた。
笑い声こそあげなかったが、口から吹き出る空気は防げなかった。
「閣下?」
「あ……ご、ゴホン! いや、すまない。この際だからはっきり伝えよう。私は世界征服に興味はない。帝国にも女にも破壊に対しても同様に、さほど興味はない」
女性に対してちょっとは興味ある、などと言おうものなら、彼は喜々として大量の女性を献上すると見て取れた。
「でっでは、閣下は何をお望みで?」
「食糧難の解決、学校の建設が目下の目標だ。国内の情勢が落ち着いたのなら、私は蛇と旅に出よう」
「え?」
「作物の収穫サイクルを考慮すると、食糧難が解決されるまで余裕をもって一年はみている」
レイは目の前に座っているのが恐ろしいアンデッドではなく、慈悲深い魔導王なのだと受け入れようとしていた。
だが、体は先ほどの魔力を覚えており、彼は複数の理由により未だに立ち上がれなかった。
「強いて言うのなら、欲しいものはスレイン法国の持つ特殊アイテムだ。あれは人間に過ぎた力だろう」
「閣下、私を部下にして頂けないでしょうか」
「……はぁ?」
しばしの沈黙が流れる。
アインズは仮面の下から彼の意図を探り、レイは心臓を鷲掴みにされた気分になり、ごくりと唾を飲み込んだ。
将軍であるレイからすれば、王国との戦争にて最前線で指揮を執った時でも、ここまでの緊張はなかった。
「ふむ、考えておく。今はジルへ忠義を尽くすがいい」
「お、お待ちください! 私は圧倒的な力に憧れておりました。その最たる存在で、私が求めていた神である閣下が、目の前に顕現なさったのでございます! このままお会いしただけでは帝国へ帰れません! こんな機会は二度とこない可能性があります!」
ジルも苦労してるんだろうなぁ……でもなんですぐに裏切りそうな彼を使者に寄越したんだろう。俺に対して何かを試しているのかな? それにしても……面倒だ
仮面の下で目を細め、面倒がる彼の心境など知る由もない将軍は、とても引き下がりそうになかった。
どうしたものかと考えていると、先日の帝都滞在ですっとばした予定を思い出す。
「先日に帝都でこなせなかった仕事があったのだが、協力してくれるか?」
「はい! 何なりとお申し付けください!」
頭が高いので少しでも下げますと言わんばかりに、跪くレイは首を垂れた。
忠義を尽くす家臣というより、斬首を待つ罪人に見えた。
「これより帝都へ戻り、ジルへ今日の報告をするがいい。その後、帝都の奴隷商を回りエルフの奴隷を全て買い占めてほしい。金に糸目はつけん、帝都にいる全てのエルフだ」
「エルフ、でございますか?」
「先日に帝都を散策した時に立ち寄ろうしたのだが、非常事態が起きてしまい、急ぎ帰還せねばならなかった。私もそう簡単に国を離れることはできん。私の代わりに頼まれてくれるか?」
「は、はい。畏まりました。しかし、妾にでもなさるのですか?」
「……妾は数を減らしたいほどにいる。先ほど紹介しなかったのだが、私の傍にいた小さな女性は私の妻だ」
「はぁ……閣下は若いのがお好みで」
「ふっ……」
雑用をこなす必要がなくなったので多少浮かれており、再び笑みが漏れた。
人間の彼は精神の沈静化も無く、感情が素直に出過ぎていた。
「ゴホン! ふぅ……あれは十三英雄と旅をした吸血姫だ」
「……は?」
レイの口はそこからしばらく開いたままで、アインズの話を聞いていた。
「十三英雄はかなり多くの者が旅を共にしていたのだ、史実に記されていない存在も多くいたようだな」
「十三英雄が……妻?」
「驚く必要はない。私が治める魔導国では、ありとあらゆる奇跡や珍事が起きる。極めて稀にだが、十三英雄そのものが出歩いていることもある。竜王の化身が王宮で酒を飲む日もあるかもしれん。異形種が営む店も、今後は開店するかもしれないな」
半開きになった口へ放り込まれた話は、非常に消化が悪そうだった。
自分が神話の一幕に登場していると、ここでやっと自覚した。
「レイ将軍殿、どうしたというのだ。口が開いているぞ」
「はっ、し、失礼いたしました。エルフの奴隷の件はお任せください。閣下の悪評が立たぬように細心の注意を」
「いや、別に構わん。ジルにはありのままを話してほしい。余計な誤解をされたくないからな」
「閣下、他の将軍たちは自分の規格や常識が通じない者に、排他的でございます。それは皇帝であっても同様です」
「ほう、国を統治する者は、苦労が絶えんな」
「はい、私は封建社会にうんざりしております、つきましては――」
すっかり部下になったつもりで上機嫌に拳を握り、魔導国とアインズの栄誉を称える彼に、精神の沈静化がないアインズは、仮面の下で慌てたり困ったり動揺したりと大忙しだった。
アインズの忠臣として、一通り自国を売り渡す算段と、新たな戦禍の未来を描いた彼は、満足したのか仰々しく挨拶をして王宮を去っていった。
執務室の窓から彼を見送ったアインズは、なぜ裏切りそうな者を使者にしたのかと悩む。
支配者として一日の長があるジルが、彼の裏切りかねない野心に気付かないはずもなく、若き皇帝の意図はさっぱり掴めなかった。
結論が出ないので諦めた彼は王宮内の自室へ戻り、仮面を放り投げ、シャツのボタンを外し、ベッドに寝転がった。
レイの長話を全て受け入れた成果により、王宮は夜に包まれていた。
この時、疲労が溜まっていたアインズは、自室に鍵をかけるのを忘れていた。
「ふーっ……疲れたな。精神の沈静化が無いと、思ったより大変だ。この有様では、ジルにしばらく会えないな」
「サトル、入ってもいいか?」
夜が訪れた王宮のドアが、小さな手でノックされたのを感じた。
ベッドで横になったままで頭を上げると、イビルアイは既に入室していた。
「鍵を閉め忘れていたな。どうしたのだ?」
「一緒に寝てもいいだろうか」
「ぶっ……ふふっ。キーノ、何だその格好は」
イビルアイはピンク色の寝間着に着替え、頭にはポンポンのついた三角の帽子を被っていた。
あまりに似合い過ぎている彼女に、アインズは全力で吹き出す。
アインズと同じく睡眠が必要ない彼女に、誰が入れ知恵したのか、少しだけ気になった。
「似合わない、だろうか……」
笑われるという重大な心理攻撃を受けたイビルアイは、今にも泣きだしそうな顔をする。
「あ、す、すまない。似合っているぞ」
「よかった!」
「わぶ!」
胸に飛び込んでくる彼女に、痛みではなく衝撃で叫び声をあげる。
「今日はここで寝ます」
「私の胸の上でか? キーノ、我々に睡眠は必要ないだろう」
「横になるだけでも効果があると聞きました」
「まあ……な。指輪を外して寝てみようかな」
「添い寝をします!」
魔導王になってから幾度となく経験した夜伽の申し出をされ、どうやって断ろうかと悩む。
心なしか頭痛がしていた。
「キーノ」
「サトル! 私は妻であっても同じく妻であるアルベドさんより、強さも魅力も劣るんだ……だから、その……私の初めてを先に貰ってほしい」
「いや、悪いが私は女性経験が――」
「私も初めてです!」
イビルアイは抱き着く手に力を込める。
「う、は、離せぇえ」
「どうして、嫌がるのだ」
「こ、心の準備が!」
「私は、見ての通り、少女の体なんだ」
イビルアイの手が緩まったので、アインズは改めて彼女を見つめる。
可憐な少女の魅力と、女性の良い香りに陥落しそうになった。
何ら必要ないのに、湯浴みは済ませているようだった。
「あ、ああ、そうだな」
「アルベドさんはあんなに美人だ。言い辛いのだが、その……体も申し分ない。未成熟の私は愛想を尽かされないか不安で」
「馬鹿な、そんなことを気にする必要はない」
「だから証が欲しい。いや、仮に捨てられたとしても、私の初めてを捧げられれば、捨てられても我慢できる!」
「馬鹿だな。私は……私も初めてなのだが」
「望むところだ!」
「あ、待て、まだするとは言ってな――」
「もう我慢できない!」
なりゆきで夜を共にする事態に陥った二人に関係なく、魔導国の夜は更けていった。
これまでの人生で未踏破だった味を知った彼は、翌日から数日間程度だが、骨抜きになってしまい絶対の支配者らしくなかった。
翌日の朝、破瓜の痛みが完治しないイビルアイをベッドに残し、放り投げられた嫉妬マスクを手に取ろうとしたアインズは、なぜか装備が出来なくなっている事に気付く。
顔に当てると、お前なんか知るかと仮面に言われた気分になり、軽い傷心を覚える。
役目を終えた仮面は、アインズ自らの手で王宮の裏庭に埋められた。
なぜそうしたのか、誰にもわからなかった。
◆
数日後、城塞都市エ・ランテルにて、ブリタは与えられたお使いをこなそうと、冒険者組合を訪れる。
急いで来たにもかかわらず時刻は夕方になっており、日没まであまり時間がなく、この日はエ・ランテルで一晩を明かすことになりそうだった。
「そういうわけで、冒険者の地位向上及び、強化は順調に進んでいます。実際の成果確認は、王都にて統合冒険者の実戦を兼ねて行うようです」
「わかった、ありがとう」
「……アインザック、わかったのか?」
冒険者の組合長アインザックは、魔術師組合の組合長ラケシルに、目で責め立てられていた。
魔法に携わる者からしてみれば、いかに人格者で所属する国家の国王だとしても、今までの規則や法律を好き勝手にされたくないと、多少は思う所があった。
本心では旧友のアインザックと現役復帰する希望に胸が躍っており、それを隠そうと余計に反発する必要があった。
「リザードマンも見た目はごつごつしていますが、気さくな奴です。人間より力が強く、肉よりも魚が好きで、お酒も大好きです。良い冒険者になるのではないでしょうか」
「そんな馬鹿な……」
「ラケシル、同席させておいて悪いのだが、水を差すのなら帰ってくれないか?」
「す、すまん、アインザック」
「彼女をみればわかるだろう。明らかに以前の彼女ではない」
“漆黒の剣”にも劣る実力を有していた、鉄級の冒険者だったブリタは、見違えるほどに堂々と胸を張って話しており、まるで愛する人の自慢をしているように見えた。
凛とした姿と、身に纏う存在の格が上がった様子に、ラケシルとアインザックは自分らが第一線で活躍する希望を得た。
「それで、実際にはどんな稽古をしたのかね?」
「そうですね、アンデッドを殺し続けました。以前にここを訪ねた青銅の蟲王、コキュートス様の指導の下に。来る日も来る日も、毎日毎日、スケルトンをうんざりするほど殺しました」
「……」
普通に話したつもりだったが、少しだけ常軌を逸した説明に、沈黙が皆の肩を叩いた。
「あ、それから、アインズ様が重罪人を引き取りたいと仰っています。罪の重さは重たいほど良いとのことでした」
「……人体実験でもするのか?」
「そうかもしれません」
「そうかもって……ブリタ?」
「よろしいのではないですか? アインズ様はこの国の王なのです。生者を憎んでもいませんし、大人も子供も問わず国民に分け隔てなく優しくて、その……」
格好いいですという言葉を放つ前に、ブリタの頭蓋内にあるスクリーンには、微笑むアインズの人間姿が投影される。
妄想内の彼はブリタに都合よく動き、跪いて彼女の手の甲へ口づけをする。
「あ、うぅ、アインズ様ぁ……あいし」
「ブリタ? どうしたのだね?」
「あ、ご、ごめんなさい!」
それまで凛々しかった彼女と交代して、おどおどした鉄級冒険者のブリタが帰ってきた。
やはりひと月程度の付け焼刃のメッキは長持ちしないのかと、アインザックはため息を吐き、ラケシルはかえって安心する。
多少の妙な行動はあったが、目の前の彼女は以前に見知った若い冒険者のままだった。
洗脳や人体実験の産物ではないと判明した。
「魔導国王都では国民はアインズ様をみれば、自発的に足を止めて頭を下げます。お任せしても何の問題も起きないかと思います。問題が起きてもすぐに解決してくれますよ」
「わかった。そこまでいうなら、重罪人の手配はこれから始めよう。既に夕刻となったので、今日はエ・ランテルで宿をとるといい」
それから重罪人、特に以前に捕まえた盗賊を中心に、馬車一台分の罪人の用意をするために、予定が延びて丸一日をエ・ランテルで過ごすと決まる。
正直なところ、一刻一秒でも早く王都へ戻りアインズに褒めてほしかった。
「では、明日の夕刻にまた会おう。それまでには希望の罪人を、王都へ連行する準備を行なおう」
「よろしくお願いします」
「話は変わるのだが、モモン殿はどうしたのだ?」
「……王都にいるんじゃないですか?」
「ないですかって……いや、実は困っているのだ。この街にはアダマンタイト級がいない、難度の高い依頼がこなせなくてな」
「そういえば、王都の冒険者組合は、受付嬢が交代したそうです」
「そうか、人の入れ替わりも大変で……いや、何の関係があるのだね?」
アインザックの頭上に、やや大きめの疑問符が出現する。
「新しい受付さんは、アダマンタイト級かあるいはそれ以上に強い、戦うメイドさんとか。こちらにも派遣をお願いしておきますか?」
「アインザック……済まないが、私はこれ以上の会話についていけそうにない」
「ラケシル……私もついていっているわけではないよ」
アインズなら任せても大丈夫だろうと思い、二人は考えるのをやめた。
「ブリタ、君に任せよう。ご随意になさってくださいと、魔導王陛下に伝えてほしい」
「わかりました」
◆
毎夜の時間外労働が忙しい蛇が、のそのそと目を覚ましたのは、午後も随分と回ってからだった。
洗濯の終わった服に着替え、丸一日放置された翌日に、勝手に休んだにも拘らず何の連絡もなかった友人を少しだけ心配し、蛇の化身は王宮へと向かう。
アインズへの報告のためにと、ラキュースも付いてきた。
王宮の中庭で稽古しているレイナースを二人で少しだけ眺めてから、執務室へと歩を進める。
ドアをノックしても何の返答も無く、ヤトは年季の入った扉を開いた。
「地下ダンジョンの経過におかれましては、今後の展開とする一つの手段として、周辺の冒険者組合より希望者を募るよう手配をしては如何でしょうか。つきましては、こちらの方で組合長へ相談し、統合冒険者チームにて依頼をこなしてしまえば、冒険者の総数が不足しても、組合への対応としては申し分ないかと思われます。それに伴い、モモン様が不在のエ・ランテルへ戦力の増強として強者の派遣、あるいはモモン様として余暇を楽しまれるのも一つの手段かと考慮します。現に領内外れの森林にてキラー・マンティスが出現し、対応できる冒険者階級はオリハルコン以上と想定されました。今回はシズ・デルタちゃ……様が」
執務室の椅子へ腰かけたアインズは、ラキュースのよく回る説明を上の空で聞いていた。
聞いていたが、頭蓋という重箱の隅に、彼女の指紋程度でも残っているのか、ヤトの目から見ても怪しかった。
彼女の報告をソファーに腰かけて聞いていたヤトは、一通りの報告が終わるを待ってアインズを探る。
「聞いてました?」
「あ、ああ。もちろん聞いてる」
「さっきから変ですよ」
「アインズ様、何かございましたか?」
ラキュースは会話をヤトに遮られた件には言及せず、アインズを翡翠の瞳で見つめる。
友人の嫁が持つ桃色の唇が、アインズを動揺させて汗をかかせる。
「い、いや、何も……」
「何も?」
「ナニも?」
「……」
「ラキュース、俺、晩飯は肉が食べたい」
「今はアインズ様へ報告をしているのよ、少しだけ待ってね」
「代わりに俺がやっとくからさ、レイナと一緒に市場へ行って、いい肉買っといてくれよ。いいですよね、アインズさん」
「ああ」
「そうですか? ヤト、長居をしてアインズ様の邪魔をしてはだめよ。では、アインズ様、失礼します」
「ああ」
解せないラキュースが退出したのを確認し、ヤトはソファーで偉そうに足を組む。
アインズは額の汗を手の甲で拭った。
「ふー……もしかして大事なものを捨てましたね」
「何のこと?」
「それを捨てるなんてとんでもない! ってやつです」
「……捨てた」
「相手は誰ですか? アルベドですか? イビルアイですか? 大穴でティファとか、意外な盲点でティアとティナ、予想だにしない結末はガガーランで――」
「キーノだ」
「誰っすかキーノって!? 大穴で落馬で脱線ですか!?」
「あー……イビルアイだ」
「ほう、あだ名で呼び合う仲でしたか」
我ここに真理を得たりと、黒髪黒目の男は色白の指を顎に当てて頷く。
「……凄いんだな、その、人肌というのは」
「支配者らしくない口調ッスね」
「無理。今日は余裕ない。精神の沈静化もない」
「やれやれ、おめでたいですね。赤飯でも炊きますか?」
「いらないよ……」
口元を歪めてニヤッと笑い、ヤトは楽しそうにアインズを弄りだす。
「イビルアイはアンデッドですけど。死んでるから肌は冷たいんですか? っていうか、下の潤いは?」
「……肌は少しだけひんやりした。すぐに温かくなったけど」
下の話には言及されなかった。
「へえ。忠告しておきますけど、あまりイビルアイとばかりヤり過ぎないように。アルベドにバレたら、この前の大騒ぎのやり直しですよ」
「う、うん……気を付ける」
「大丈夫かなぁ……」
ヤトはじとっと目を細めて、あからさまに疑っていた。
一皮剝けたとはいえ、剥けたばかりの彼は、行為に没頭しそうだった。
「お前はどうしてるんだ?」
「シフト制で」
「シフト制って……」
「ラキュースとレイナが死んだら、俺も後妻は異形種にしようかな」
「うん…………はぁ? お前があの二人を……そうだ! あの二人を吸血鬼にして、ずっと一緒にいたらどうだ? シャルティアに頼めばできるんじゃないか?」
自らの素晴らしい閃きをヤトに提案したつもりだったが、意外にも彼は眉をひそめた。
「却下」
「なんで?」
「いつかは俺も死にますよ。あいつらに、俺より長く生きてほしくないんで」
「お前もまだ、色々と抱えてるんだな」
アインズの支配者として構築された心の城砦はイビルアイの冷たい温もりで崩れ、ヤトの目の前には城から出てきた王が単身で微笑む。
あまりに人間くさいアインズは、光となってヤトの心へ降り注ぎ、彼も少しだけ感傷的な気分になる。
「俺は人間ですよ」
「知ってるよ、ヤト」
「でも蛇の化け物です」
「お前、まだそんなことに拘って――」
「どちらも俺ですよ」
「……そうだ、俺の友達だろ」
「個人的には兄貴的な感じが強いですけどね。なんかその方が家族っぽくないスか?」
「ふっ、そうかもしれないな」
少しの間、アインズは目を細めた。
再びゆっくりと目は開かれ、神妙な顔で再開する。
「ヤト、約束しろ。俺を一人で置いていくな」
握りこぶしがヤトへ差し出された。
「偶然の産物で、未だに現象自体が意味不明だが、俺たちは互いにリアルを捨て、人間を辞めた。それぞれが妻を娶り、お前は生体だから遅かれ早かれ子を成すだろう。今後は俺たちの家族も増える」
「はあ」
「仮にお前の子が百人できたとしても、俺たちは互いに代わりがいない存在だ。だから、俺を置いて死んだりするな。ラキュースとレイナはまだまだ長生きするだろうが、あの二人が死んだら、お前はアンデッドにでもなれ」
「うーん、それはちょっと――」
「ただ生きるだけというのは、難しいものだ。姿が変わって精神効果や感情値に影響が出たが、お前が最も望むのは人間として生きる事だろう?」
「まあ」
「だから、俺を残して死ぬな。少しでも長生きする手段を考えろ。約束してほしい」
「なんで拳を出してんスか?」
「馬鹿だな。こういうときは拳を合わせるもんだろう」
「あ、そっか」
いつか桜の木の下で杯を交わしたように、ヤトは立ち上がって拳を軽くぶつけ合わせた。
「でもアンデッドは嫌ですよ。弱くなったらレベル上げ面倒だし」
「お前なあ。ずっと後に考えるべきことに、先に結論を出すなよ」
男同士の友情に浸らせろと言いたげなアインズは、いつも通りに目で責めていた。
血肉を持つ彼の顔は、感情が分かりやすかった。
破瓜の消耗で床に伏せっているイビルアイが、いつまでも戻らないアインズを心配して呼びに来るまで、彼らは他愛のない話に興じていた。
魔導国の内政に関しての話は、翌日に持ち越された。
精神の沈静化がないアインズは、沈静化されない動揺を恐れ、執務室から滅多に外へ出なくなる。
例の如くヤトが雑用をこなすと決まったが、特に片づける案件もないので、さした問題も無かった。
彼らが動き出すのは、ブリタが王都に帰還してからの話である。