モモンガさん、世界征服しないってよ   作:用具 操十雄

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建国篇
月明かりに


 消耗したヤトが、プレアデスに連れられて帰還し、既に三日。アインズは彼の経過観察に部屋を訪れた。キングサイズのベッドで寝息を立てる彼の傍ら、アインズは心配そうに呟いた。

 

「ヤト……まだ寝ているのか……」

 

 彼の頭に手を当てると人型の体温が伝わってくる。

 

「すまない……なんて詫びればよいのか……」

「あ、アインズさん、おはよう」

 

 アインズのへこたれた空気を読み、ヤトは目を覚ました。明らかに今、冷ましたのではなく、ついさっきまで寝たふりをしていたような目の覚まし方だ。

 

「ヤト!」

「大袈裟だなー起きてましたよ、とっくに」

「はぁ? なにを言っているんだ」

「ナザリックのベッドが気持ちよくて三度寝ほどしましたね」

「……さっさと起きろ。このバカ蛇!」

「ふぁい……」

 

 大きな欠伸をして、ボロボロの服のまま円卓の間へ移動した。目覚めた彼は、ついでに食事を始めていた。ステーキやサラダを旨そうに咀嚼し、この世の物とは思えぬ料理を味わい続けた。寝起きだというのによく食べ、アインズの心配も消えた。

 

「無事に終わったんですね」

「ラキュースが一緒に付いてこようとして大変だったんだよ。武器も預かったままだろ?」

「怒ってました?」

「覚えてないのか」

「敵が強かったッス。うーん、ご飯も頼めばよかったかなぁ」

 

 鼻歌交じりにナイフとフォークでステーキを切断した。

 

「お前なぁ……俺がどれほど心配したか分かってるのか?」

「俺だったらキレてその場で蛇になってたでしょうね」

「……そうか」

 

 相手も自分の事を大事に考えてくれていることがわかり、アインズの不満は引いた。

 

「俺も本気で走ったんで仕方ないスよ。」

「先に転移しておけば間に合った」

「まぁ、確かにそうですけどね」

 

 彼の目は食べ物に向いている。今さら、蛇になっていればこんなことにはならなかったと言い出せなくなった。

 

「自殺しかねないほど心配していぞ。食事してからラキュースに顔出しておけ。ついでに剣も返してこい」

「そんな大げさな。ざまあみろとか、自業自得とか言ってませんでした?」

「昼間の事をごめんなさいごめんなさいと繰り返していたが。」

「想像できないですね。」

「膝枕されて頭を撫でられた事も……覚えてるわけないか、眠っていたからな」

「なんですか、そのエロゲみたいな状況」

「……はぁ。それじゃあエロゲ風に言うと、攻略済み」

「うーん……まるで想像ができないスけど。異世界の現地妻ですかね?」

「リアルに妻がいたのか?」

「いません」

「それならただの妻だ」

「あ、そっか。なんか恥ずかしいですね! 俺の嫁を紹介しますみたいな!」

 

 自分の事であっても、やはりゲーム内のイベント感覚であった。アインズは今日、何度目かのため息を吐いた。彼が起きてからというもの、ため息の数は驚くほどの速さで増えた。

 

「はぁー……下らない事ばかり言いやがって。心配して損した」

「いつもの事ですよ」

「文字通り死ぬほど心配しているから、さっさと手土産でも持って会いに行きなさい」

「王都に行きますか。セバスに彼女の家を――」

「もう聞いているそうだ。回復したら一刻も早く会いたいと伝言が届いたんだと」

「なんか恥ずかしいッスね」

「……それこそ俺の知った事じゃない」

「冷たいなーモモンガさん」

 

 ふざけている彼をみて、少しだけ安心していた。いつも通りのヤトがまた返ってきたのだ。

 

「王都行ったらすぐ帰ってくるんだろう?」

「ええ、その予定です。みんなの顔も久しく見てないし」

「わかった。内政や情報の報告は戻ってからにしよう。ナザリックへ訪問の日程を聞いておいてくれ」

「はいー。それじゃ行ってきまーす」

 

 アインズが開いた転移ゲートに飛び込んでいった。

 

「異世界を謳歌してるな………俺も何かしようかな」

 

 思いつくのは、イビルアイと現地魔法の研究くらいしか思いつかなかった。

 

 

 

 

 仮面は破壊されてしまった。服もボロボロのシャツしかなかった。王都へ転移した彼を、セバスと、見覚えのないメイドが出迎えてくれた。

 

「セバス、なんか久しぶりだな」

「御快復おめでとうございます。お会いできるのを楽しみにしておりました」

「大袈裟だな。……それより、これは何?」

 

 後方で待機するメイド服を着た女性達を指さした。

 

「はい、先日の件で身寄りのない者を一時的に預かっております」

「……そうなんだ。宿代がかさむからナザリックへ送りたいが」

「申し訳ありません。何でもするからここに残ると言って聞かなかったもので」

「わかった……じゃあよろしく頼む」

 

 また行方不明という噂が立つのも面倒なので、それ以上は言わない。

 

(本当はセバスと一緒に居たいだけなんじゃないのか?)

 

 熱っぽく見つめる眼差しに勘繰るところはあったが、指摘はしなかった。

 

「宜しくお願い致します、ヤトノカミ様」

 

 新たな一般メイド達は、粗削りな作法でお辞儀をした。

 

「これはこれでいいのかもしれないな。メイド担当の三人が見たら大喜びだろう」

 

 メイドの服装で盛り上がっていた仲間を思い出す。新たなメイド達は静かな顔を見て、許されたと思い安堵の息を吐く。かつての“仕事”よりもよほど緊張した。

 

「まずはお召し物から買いに行きましょう。留守を頼みましたよ、ツアレ」

「はい、いってらっしゃいませ」

 

 セバスは一般メイドのリーダーらしき女性に声を掛けた。

 

 執事を引き連れ、ぼろぼろの衣服の男は服屋を訪れた。

 

「どうも、服が欲しいんですけど」

「あの、失礼ですがヤトノカミ様でいらっしゃいますか?」

「ええ、そうです。」

「やはりそうでしたか! ご利用ありがとうございます。今日は上着をお求めに?」

「そうです、できれば同じタイプが良いんですけど。シャツも血痕がついてるんで、新しいものを」

「畏まりました。こちらへどうぞ」

 

 押しの強い店主の勧めで、シャツとベストを購入した。

 

 以前の服に比べて徒っぽい雰囲気が気になった。

 

「イマイチだ……ジャケットが売り切れてなければ買ったのに。袖が長いから捲らないといけないしさあ」

 

 髪の薄い店主の話だと、黒のジャケットは王都中で売り切れとの事だ。胸元が空いた灰色Yシャツに黒のベスト、腰からは刀を下げた。セバスが褒めてくれた。

 

「よくお似合いでございます。ですが、支配者としては地味です。新しい物を探しておきましょう」

「また帝国へ服を買いに行かないとね。さて、次は花屋だな」

 

 赤いリボンをしたそばかすの娘が、花に囲まれて退屈そうに店番をしていた。ヤトの顔を見て何かを考えていた。

 

「いらっしゃいませー……あの、ナザリックの方でしょうか?」

「ええ、そうですが」

「お会いできて嬉しいです! 握手してください」

「はぁ」

 

 とても嬉しかったようで、握手した腕をと上下に激しく振られた。神の啓示を受けた信者のように、手を上にかざす。彼女はしばらく手を洗わなそうだ。

 

「ありがとうございます! 英雄様と握手ができるなんて光栄です! ところで、今日はラキュース様のお見舞いでございますか?」

「え……? ええ、そうです」

 

(なんで知ってんの?)

 

「お二人は仲睦まじく、英雄級の恋仲だと聞いています」

「……それなりですが」

 

 モモンとヤトの名声と同時、二人の仲も噂になっていた。自身でそう振る舞った記憶もあり、気分も悪くないので否定はしないが、大した肯定もしなかった。彼女が攻略済という話は、実際に見るまで信じられない。

 

「やはりそうなのですね? なんてうらやまし――」

「ラキュース様のお見舞いに行く予定なのです。何か花を見繕って頂けませんか?」

 

 長くなりそうな噂話はセバスに遮られた。

 

「はい! 喜んでー!」

 

 店員の若い女性はきびきびした動作で、花を集める。彼女の選択を見ていると、薔薇が多くなりそうだ。

 

「さーて、どれくらい弱っているのかを見に行こうか」

 

 大きい花束を肩に担いで歩く彼は、犯罪組織の幹部を思わせる。通行人たちは憧憬・尊敬・畏怖・羨望など様々な眼差しで彼を見るが、知った事ではなかった。

 

 

 

 

「意外と質素な家だな。家を飛び出したとは聞いてるが」

 

 地図に書いてあった彼女の邸宅は簡素な一軒家で、庶民の家と言われても納得しただろう。1階建ての家屋は日当たりが良さそうだ。

 

「こんにちわー!」

 

 ドアが開き、護衛のイビルアイが顔を覗かせた。

 

「セバス殿とヤト殿か。先日は世話になったが、怪我はもういいのか?」

「ああ、もう元気になりましたとも」

 

 花を持っていない方の手を振り回した。体が揺れて花弁が数枚、散っていく。

 

「ラキュースに伝えてくるから、少し待っていてくれ」

 

 戻ってきたイビルアイはモモンについて聞き込み調査を始める。

 

「ところで、モモン殿はご健在か?ヤト殿と同郷なのか?彼は何歳なのだ?ナーベ嬢は」

「随分と気にしてるが、彼が好きなのですかな?」

「なっ! 何を言うんだ!」

「嫌いですか?」

「何を言うんだ!」

「……どうも怪しいなぁ」

 

 両目を細めてイビルアイを見つめる。途端に小さな体が左右に揺れ、足をもじもじと交差させた。仮面で表情は窺えなかったが、挙動不審だった。

 

「私は彼がぷれいやーの可能性があると疑っているのだ。私の本名を知っているのは――」

 

 話し過ぎてしまったことに気が付いて止めた。

 

「本名?」

「ラキュースが一刻も早く会いたがっている! こっちだ!」

 

 イビルアイは後ろに回って背中を押し、応接間へ押し通された。

 

 

 案内された部屋は日当たりが良い部屋で、小さめのテーブルに姿勢よく腰かけていた。質素な淡い色のドレスは自宅用なのだろう。黒いカーディガンを羽織ったラキュースは、温室育ちのお嬢様に見えた。

 

 顔の色素も薄く、触れると消え去りそうな幻に見えた。

 

「どうも、お久しぶり」

「お会いしとうございました」

 

 深く頭を下げるが、表情は浮かない。

 

 先日の事を悔いている事に加え、弱っている時の行動を思い返すと恥ずかしかった。目を合わせられないが、彼を見ていたい。一日でも考えない日はなかったと、彼女の心は堂々巡りで回っていた。

 

「はい、お見舞いの花です。薔薇が多いですが、嫌いじゃないですよね?」

「ありがとうございます、大好きです。イビルアイ、お願いしてもいい?」

「わかった」

 

 小柄なイビルアイが持つと、絵本に出ている花売りの少女に見えた。

 

「ヤト……様。あの日に言ってしまった酷い事をお詫び申し上げます。本当にすみませんでした」

 

 言葉が進むにつれ、表情が更に暗くなっていく。心なしか目も潤んでいるように見える。生命力は回復しているが、”彼女の”英雄に対しての悔恨は深かった。

 

「貴方に……なんと詫びればいいのでしょうか。許して下さい」

「いや、伝言無視したのは本当ですからね。気にしないで下さい」

「一緒に居たくない、触るなと言いました」

「本当にいいですよ」

「伸ばされた手を汚物のように避けました」

「汚物扱いだったのか……」

 

 そこまで拒絶されていたとは知らなかった。

 

「申し訳ありません。私のせいで貴方の命を危険に晒すなどと……お願いです、何でも致します。どうかお許しください」

 

 大粒の涙が溜まり始めた。

 

 並みの男であれば好色そうな目で見たであろう発言だったが、面白そうなので少し苛めたくなった。怒りをぶつけられた時の感覚を、再び味わいたかった。

 

「御自由にというと、求婚すれば受けて頂けると?」

「はい。」

「お皿を買っても怒りません?」

「はい」

「体に触れても怒りません?」

「はい」

「浮気で怒らない?」

「はい」

「うーんと……俺の専属メイドになれと言われたらなります?」

「はい」

 

(あれ?意外と頑固だな。怒らないぞ)

 

「ナザリックへ囲ってもいいですか?」

「はい」

処女(ヴァージン)ですか?」

「はい」

 

 見ていたイビルアイが咳き込んだ。なぜかセバスもゴホゴホ言い始めていた。やり過ぎている主に控えめに進言しているが、ヤトが空気を呼んだかは定かではない。

 

「えーっと……じゃあ結婚しましょう」

「はい!」

「嘘です」

「……そうですか」

 

 彼の材料(ネタ)は尽きた。

 

「暗くてつまんないですよ」

「ごめんなさい……私は貴方のために」

「ちょっと失礼」

 

 まだ続きそうな泣き言を遮り、身を乗り出して頬を両手で摘む。ピンクの唇が横に広がっていく。

 

「ふぁふぃを」

「柔らかいなー」

 

 しばらくふかふかした感触を楽しんだ。少しずつ顔が赤くなる反応も楽しかった。わざとニヤニヤした意地悪な笑みを浮かべる。

 

「ヤト殿……そろそろ勘弁してくれないだろうか」

 

 見るに見かねたイビルアイが止めるまで、ラキュースの頬は摘まれ続けた。

 

「涎が垂れたらそれはそれでいいのに」

「ん……何をなさるのですか」

 

 口を閉じて溢れそうな液体を飲み干し、暗かった表情に微かな怒りが混じりだした。

 

 彼女は最初から通して真剣だ、求婚の返事でさえも。

 

「いつもみたいに怒るか笑うか、してくれませんか? つまらないですよ」

 

 穏やかな笑顔を作り、相手の警戒を解こうとする。その笑顔をみて、彼女の悔恨は少しずつほどけていった。

 

「そうだ! 快復祝いにラキュースさんのお皿を買いに行きませんか?」

「……やめてください」

「俺も英雄になれましたし、ヤト皿を作ってもらって交換しますか?」

「……うるさいです」

「では雑貨屋に言って目の前で独占するところをみていてくだ――」

「うるさい!」

 

 本気で怒ってはおらず、彼の希望に応える声だ。壁際の二人は、気づかれずに溜息を漏らす。ヤトの笑顔は崩れないままで、その顔をみたラキュースも小さく笑った。

 

「ははっ、やっと元に戻った」

「ふふっ、相変わらずですね」

 

 穏やかに笑う二人を邪魔しないよう、セバスとイビルアイは静かに部屋を後にした。

 

 モモンの事をまだ聞き足りなかったので、紳士なセバスならちょうどいい人選だ。

 

「やはり怒ってる顔が良いですね」

「女心が分からない人は損をしますよ」

「恋多き方は好きじゃないんですよね?」

「……性格の悪い人は嫌いです」

「俺は嫌いですか?」

「酷い人……本当はわかっていらっしゃるのではないですか」

 

 微笑みながら文句を言う彼女は、初めて会った時のままだ。

 

「あ、剣を返しておきますね」

「ありがとうございます。そちらにおいて頂けますか」

「はい。ところでナザリックにはいつ来ますか?」

 

 剣を収納棚にしまいながら問いかける。

 

「明日には私も動けますので、四日後で如何ですか?」

 

 ティアを連れて修業の旅へ出た仲間が、数日は戻らないようだ。

 

「わかりました。俺はナザリックで待ってますね」

 

 太陽に雲がかかり、眩しい日差しに陰りが見えた。

 

「ヤト、こちらに来てください」

「もしかして愛の告白ですか?」

 

 椅子を彼女のすぐ隣へ移動する。茶化した彼に何も答えず、彼にもたれ掛かった。

 

「今は何も言わず、このままでいてください」

 

 彼女の肩へ自然に手を回す。

 

(おお、イベント発生だ。やっぱり攻略ず……み……)

 

 手のひらと胸から直接に伝わる鼓動が、彼の思考を停止する。

 

 激情をぶつけられた以上に、彼は己の心が動いた感覚に囚われた。

 

(心は…無くなっただろう。愛想笑いしかできない俺に心などない)

 

 動揺しながらも頭の何処かが冷めていた、と彼は思っていた。

 

「本当は……片時も離れていたくないのです」

 

 目を閉じ安心して体を預ける彼女の言葉で、動揺は混乱へと膨らむ。得体の知れないものが心に広がる。異世界に来た時に心の奥底へ、二度と浮き上がらない様に仕舞い込んだ感傷が、激しい動揺で浮上してくる。

 

(俺は…この女を……)

 

 人間の残滓が、沈殿していた記憶が浮上すると共に悲鳴を上げた。

 

(殺したい……愛したい……食べたい……弄びたい……揶揄(からか)いたい……助けてほしい…………愛されたい?)

 

 心の悲鳴は慟哭へ変わり、事態に気付いた彼は目を見開き、慌てて彼女を体から離す。

 

 思い出したくない記憶を残さず(すく)ってしまいそうだった。

 

 捨てた者の顔、かつて捨てた者達の顔、捨てた友人の顔、存在意義のない自らの顔、己の異形の姿、各々に付随する負の感情まで嫌な記憶として混ざり合い、思考を奪い去ろうとする。

 

 静かで暗い水面に似た心は、激しく揺蕩(たゆた)い大きな波を起こし、渦を巻いて攪拌を続け、沈殿物を掻き混ぜ続けた。

 

 彼は初めからこの世界を楽しんでいた。

 

 自分ではそう思っており、また周りからもそう見えた。忘れたい記憶から目を逸らす手段の一つと気付かなかった。異世界を謳歌しているのは事実だが、それだけでも無かった。彼はそこまで切り替えと要領のいい人間ではない。

 

 彼女の両肩を掴んで離したつもりが、結果的に至近距離で向かい合った。

 

 潤んだ瞳と上気した頬、ピンクの唇が視界に入った。

 

 少し開いた唇が、頭の中で轟音の警笛を上げる。性欲ではない何かに心を掻き乱され、胸を掻き毟り、全力で叫びたい。生命力に溢れる彼女は魅力的だった。

 

 心が人間のままだったら、嫌な記憶から目を逸らし忘れるために、ドアの外で待つ二人を気にせず押し倒していた。

 

「ヤト、私はあなたが――」

「やめ……てくれ」

 

 純粋な想いを伝えようとする彼女を遮った。

 

 必死で記憶と感情を脳の奥底に押し込もうとしている彼に、いつもの余裕はない。片手を額に当て、指の隙間から視線で射殺そうとしていた。

 

「ヤト……?」

「……ナザリックで……待ってる」

 

 他の考えで思考の大半を取られており、妙な間を入れながら声を絞り出した。

 

 「泊まって……いけ。見るところ……多いから」

 

 落ち着かない頭は、敬語で話すゆとりがなかった。戦闘中の彼を思い出させ、彼女の想いは溢れる。彼女にとって待ち望んだ英雄との初恋で、途中で自制などできない。

 

「はい。四日後に伺います」

 

 手を隣の彼に差し出す。

 

「……」

「今は……今だけで構いませんので、手を握って下さいますか?」

 

 初めて会った時に見せた、向日葵を思わせる明るい笑みだ。ヤトには少し、眩しすぎた。差し出された手を、恐る恐るだが優しく握る。

 

 再び彼の肩へ頭を預け、静かに目を閉じた。

 

「嬉しい。ずっと……このままずっと……こうしていたい」

「ラキュース……」

 

 必死で嫌な記憶や感傷と戦う彼の心境など知る由も無い。

 

 甘い痺れが彼女の胸を刺した。

 

「貴方が何者でも構いません。私は今……幸せです」

 

 彼女の純粋な想いを真正面から受け止め、言葉を失い思考が止まる。

 

 もう、何も考えられない。

 

 寄り添う二人は、窓から差し込む薔薇色の夕日に染められていた。

 

 淡く儚い蜜月とは考えもせずに。

 

 この日、彼女はゲームの女性(ヒロイン)から、気になる女性へと変わった。

 

 それがどれほど残酷なことか知らずに。

 

 

 

 

 彼女の邸宅を出ると夜になっていた。

 

 月が綺麗な夜だった。

 

 月明りが石畳の街を照らしている。

 

(ラキュース……)

 

 心で呟いた。

 

 自分が異形の化け物であることを、今は忘れていたかった。捨てて来た現実も、二度と思い出したくない。故意に忘れた感傷も、考えたくない。

 

 ただ、彼女の嬉しそうな顔だけを思い浮かべた。

 

 歩きながら手のひらを見つめた。

 

 彼女の温もりは、まだ手のひらに残っている。

 

 

 

 

 踏み台に乗って花瓶に水を入れているイビルアイ。

 

「明日、ラナーの所へ行きましょうか」

「ナザリックへ行く報告か?」

「ええ、彼女も聞きたいことがあるでしょう」

「わかった。準備しておこう」

 

 小走りで部屋を出る彼女は、ラキュースの変化に気付かない。

 

 窓から月を見上げる、恋する乙女の眼差しに。

 

(ヤト……)

 

 穏やかに笑った顔を思い出し、温もりの残る両手を胸に当て嬉しそうに微笑んだ。

 

 心地よい痛みが胸を刺す。

 

 この先どうなろうと、この日の出来事を忘れないだろう。

 

 窓から差し込む月明り同様に、輝く未来を想像しながら月を見上げ続けた。

 

 

 満月は、あるべき夜に坐していた。

 

 

 




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