モモンガさん、世界征服しないってよ   作:用具 操十雄

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嗚呼、塩漬けの夢と鉄錆

 

 

「忘れるというのはね、考えようによっては幸せなことなんです」

「その続きは、確か……《忘れなければ、先に進めないこともある》で合ってますか?」

「《夢や希望、永遠の愛さえも》……ですかね。付け加えるなら、過去の憎悪や絶望も忘れて、人はまた前に進むことができる」

 

 ウルベルトとタブラと談笑する記憶が、夢という映写機で再生される。かつてゲームを共にした仲間。引退したゲームの朧な記憶。依然として記憶にかかる雲は晴れず、千切れた空の隙間から垣間見た鮮烈な景色は、断片化された思い出の夢。

 

 タコに似た外見の彼は嬉しそうに笑った。

 

「流石はヘロヘロさん。AIやプログラムだけじゃなく、他の話もできるとは」

「ははっ、買い被り過ぎですよ」

「ヘロヘロさんは自分で考えて行動すれば優秀だとおもう。悪の秘密結社だったらヘッドハンティングしたいくらいに」

「ウルベルトさんまで……仕事で飼い慣らされるってのは、何も考えなくて済むから楽なんです。そんなに優秀じゃありませんよ」

 

 (ふる)く、ナザリック地下大墳墓を統治し、そこから世界征服しようとした支配者たちとの歓談。もちろん自分も面子に含まれている。異世界に転移した今となっては、もう一度、みんなとの思い出を反芻する価値もある。そうでなければ、思い出すことも稀だっただろう。

 

「ユグドラシル世界の一つくらい、みんなで征服しようぜ!」

 

 強引な会話の転換と参入の仕方で、随一の問題児が混ざってきた。

 

「るし★ふぁーさん、いつにも増して唐突ですね」

「またこいつか……」

「……」

「ちょっと、るし★ふぁーさんよ」

「あ、ベルリバーさん」

「大浴場にゴーレム設置するって、そっちの方はどうなったんですか? さっき見に行ったらまだいませんでしたよ、ゲロ吐きライオンゴーレム」

「やっべ、忘れてた!」

 

 ろくでなしが狼狽する情景を最後に、視界のコントラストが緩やかに暗転していく。

 

(みんなは機会があればこちらの世界へ来てくれるのかな)

 

 夢の最後は問いかけで終わった。

 

 

 穏やかな男性の声で返答があったが、記憶に残らなかった。

 

 

 

 

 眩い朝の輝きは夢を消し去り、薄汚れた少年の顔面を滅多刺しにする。

 

 開け放した窓に雀が集まり、小うるさい歓談を楽しんでいた。一つ前の客が餌でもやっていたのだろう、まるで立ち去る気配がない。朝陽に照らされる室内に清潔なベッドと朝食の香り、息を吸えば湿度の高い朝の空気が肺を満たす。ヘロヘロは異世界転移して以来ではなく、生まれて初めて心地よい目覚めを味わった。

 

 大きく伸びをすると雀たちは驚いて逃げていった。欠伸をして起き上がり、本調子ではない頭でこれからの予定を考える。

 

「……変に動いてモモンガさんの邪魔するのやだし。二人が帰ってくるのを待ちたいけど、お金がない。冒険者の依頼ってすぐに終わるかな」

 

 異世界とはいえ、ここは友人が作った国だ。後からやってきて偉そうな顔はできない。自分がモモンガの立場であれば、遅れてきて偉そうな顔をされたらいい気分はしない。現実で友人ならまだしも、ゲーム内だけの友人だ。いわゆる“いい人”のモモンガは我儘に応じてくれるだろうが、甘えるわけにいかない。今の彼はギルドマスターではなく国王だ。立場や部下の目もある。

 

 彼がゲーム仲間へ執着しているなど知る由もない。

 

 聖王国に出掛けた二人は、外交を取り付けるのか、あるいは友好的な交渉と考えるのが自然だ。だとすれば、そう簡単に戻らない。ここの宿代も第一席次が所属する”“組織”とやらから借りているが、いい大人が少年に甘えるのも情けない。ベッドに腰かけ、冒険者で金を稼ぐにはどうすればいいのか考え、ぼけっと外を眺めていた。

 

 立ち去った雀たちが、向かいの建物からこちらの様子を窺っている。パンでも持ってきてやろうかと思い立ち上がった。

 

(はぁー……眠い。朝食を食べてからもうひと眠りしようかなぁ)

 

 ドアがノックされた。

 

「はい?」

「失礼します」

 

 真面目な、更に付け加えるなら堅物そうな第一席次が入室してきた。

 

「あ、そっか。来てくれるって言ってたよね。おはよう」

「おはようございます、ヘロヘロ様。早速ですが、これから王宮へ行きましょう」

「そうなの?」

「はい。部下によれば、お二人は戻っているそうです」

「なんだ、そっか。よかったぁ」

 

 上手くいけば仕事を紹介してもらえる。前借りして金貨を借りれば、少年に甘えなくて済むだろう。大人として相応しい振る舞いができる。

 

 既に蛇は魔導国から消え、アインズはカルネAOGへ移動していたが、部下は最新情報まで知らない。

 

 

 朝食を後回しにして王宮に着くと、ウォートロールのゴ・ギンが中庭で兵士を(しご)いていた。面白がって眺めていると、トロールはこちらに気付いたようだ。見ていただけだったが、驚愕の表情とともに彼の目が見開かれてヘロヘロを捉え、邪魔した気まずさで先を急いだ。

 

 廊下の奥から頭髪の色が白と黒に分かれる少女が、果実のジュースを飲みながら歩いてきた。仕事がないのか、顔は退屈そうだ。太々しさなら蛇にも引けを取らないと、第一席次は心の中で思った。彼女はこちらへ気が付き、ストローから口を離す。

 

「おはよう、王様ならいないみたいよ。蛇は朝から来てないし、執務室はもぬけの殻」

「そうでしたか……ヘロヘロ様、申し訳ありません。入れ違いだったようです」

「いいよ、そのうちに戻ってくるだろうから。ヤトくんは家にいるんだよね?」

「多分ね」

「彼の家に行きたいんだけど、どうすればいいかな」

「本来はご案内したいところなのですが、朝から仕事が……」

「ん、私、暇だけど」

 

 彼女にも仕事を手伝わせようと思っていた第一席次は悩む。所属している裏組織は多忙を極めている。人材も戦力もまだまだ足りていない。六腕は朝から借金の取り立てに奔走し、ボスの少年は賭場の売り上げ確認がある。そうかといって、ヘロヘロを放置はできない。ここで対応を誤れば大蛇へ付け入る隙を与え、後で何を言われるか分かったものではない。

 

 番外席次に仕事を振るのは諦めるしかなかった。自然と、しわ寄せで少年の仕事が増えたが、番外席次に案内役を頼んだ方が作業効率が良い。

 

「ご案内、していただけるのですか?」

「そういうつもりで言ったんだけど?」

「……失礼しました、お願いします。組織の仕事はこちらでやっておきますので」

「ごめんね、ニートで……」

 

 浅黒い少年は申し訳なさそうに俯いた。相変わらずプレイヤーと思えぬ気弱な態度で、自分から言いだした番外席次の眉間に皺が寄る。大蛇だったらさも当然とばかりに手を取って歩き出しただろう。戦いに敗れたことで刷り込まれた蛇への評価は、現実よりも随分と高かった。

 

「まずこの前のこと謝ってくれないかしら。なに、あの無駄な説教。帰り道、凄く嫌な気分だったんだけど」

「あ、うん……ごめんなさい、許してください、バンガイセキジさん」

 

 ヘロヘロはサラリーマン並のお辞儀をした。謝られた少女は鼻から息をふんと吐いた。

 

「どうして急に怒り出したわけ?」

「あー……その、あのね。あのまま続けてたら、殺してみたくなりそうだったから、ね」

「随分と舐められたものね。そんなに強いの?」

「武器を溶かされて番外さんは素手だったでしょ? 俺はモンクだから武器いらないし。種族はユグドラシルでも一番強い酸を出すから、触られたら体に穴が開いてたかも。普通の立ち合いならまだしも、溶かされるのはきついと思うよ」

「……ふーん。なんかわからないけどムカつく」

「ほ、ほら。世話になった恩もあったから」

「手加減したんだ?」

 

 眉間の皺が深度を増した。

 

「じゃあ、殺し合いじゃなくてもいいから、今度、本気で立ち会ってよ」

「はーい……」

「わかればよろしい」

 

 仁王立ちして腰に手を当て、小さな胸を張っていた。

 

「さっさと行きましょ」

 

 どこまで納得したのか不明だが、番外席次はヘロヘロの腕を取って歩き出した。彼女の小さな手は柔らかくて温かい。胸が一瞬だけ高鳴り、緊張で固くなった。

 

「あ、はい、よろしくお願いします」

「レイナのお昼ごはん、御馳走になりましょ」

「くれぐれも粗相のないようにお願いしますよー!」

 

 

 背後で第一席次が叫んでいたが、二人の耳を通過しただけだった。

 

 

 

 

 ヘロヘロの衣服は薄汚いローブに、浮浪者が履くような襤褸(ぼろ)草履だ。ナザリックの衣服を纏う魔導王と、異世界の高級品を身に纏う大蛇の化身から比べ、プレイヤーとは思えぬみすぼらしさであった。

 

 どこよりも先に服屋へ連行された。一緒に歩くのに薄汚いローブの小僧など御免被りたいという意思表示なのだと、ヘロヘロも素直に従った。自分でも通行人の視線は気になっていた。魔導国は通行人(村人A)が多すぎる。

 

「黒シャツに黒ジャケットがいいと思うの」

「……何から何まですみませんです」

「珍しく素直ね。大蛇みたいに偉そうにしないの?」

「しないよ」

 

 ヒモになった気分だ。彼女のいう通り、ヤトに会うのにボロ法衣(ローブ)は恥ずかしい。向こうは妻帯者で、奥方の視線もある。本来の姿なら衣服は必要ないが、かといって人間化を解除してしまえば視覚アイテムが無いので無色で無機質の視野に戻ってしまう。ヤトの細君をその目で見たかった。きっと活動(婚活)の参考になるだろう。

 

「魔導王のツケにしておくから、お金は稼いで返してあげてね」

「はい……頑張って働きます」

「素直でよろしい」

 

 自分の名前で付けていないのに、少女はえへんと咳払いをした。名前通りに弱気なヘロヘロは、黒シャツと黒ジャケットへ着替えさせられた。草履に似たぼろ靴も廃棄され、服装だけならヤトと酷似していた。唯一、肌は彼よりも浅黒い。肌まで含めて全身真っ黒に統一された。

 

 ヘロヘロは腕を広げ、振り向いて背中を眺め、ベルベッド調の黒ジャケットを物珍しそうに触った。企業の上層部が着る高級品らしき衣服を、まさか異世界で自分が着るとは思わなかった。

 

 鏡に映された少年は色のせいで徒っぽい雰囲気だったが、見栄えは悪くない。高級品なのだと思うと、自然と背筋が伸びた。

 

「どう……かな?」

「悪くないわね」

 

 番外席次は腕組みして、自身がコーディネートした少年を眺める。口元がにやっと歪み、満足しているようだ。

 

「真っ黒だね」

「いいじゃない。顔も黒いから似合ってるわよ」

「なんかの邪神の顕現みたいだ」

「知らない。さあ、次、行こう!」

 

 ここ最近で高級品が飛ぶように売れている店主は、これ以上ない満面の笑みで手を振った。

 

 番外席次に手を引かれ、次の目的地へ向かった。

 

 

 

 

 二人は王都中央広場を通過し、市場へ通じる石畳を歩く。誰かに見られている気配はないが、繋いだ手は離した。歩きながら周囲を散策すれば、目を引くのは通行人に紛れているメイドだ。着ているメイド服も清潔感があり、ついつい目が追いかけてしまう。すれ違う人は物珍しそうにヘロヘロを眺めるが、彼の興味はメイドへ吸い寄せられている。人間を辞めても、性嗜好はそう簡単に変わらない。

 

「どうしてメイドが多いの?」

「魔導国はメイド希望が後を絶たないんだって。おかしいよね」

「羨ましいな……みんな美人ばかりだよ」

 

 宗教国家出身者の彼女は、自分の国のような上機嫌で笑った。ヘロヘロは大勢の若いメイドに囲まれる夢だか妄想だかわからないものを見た。

 

「人並みの顔した人がいないんだけど、やっぱりユグドラシルのゲームが元だからなのかな。みんな美男美女ばかりじゃないか」

「それ、遠回しに私も褒めてるの?」

「あー……そうだね。君は時間が経てばもっと美人になるね」

「チッ……蛇と同じこと言うなよ」

 

 舌打ちされたが、顔は怒っていなかった。

 

「……俺も美人のメイドさん欲しいな」

「メイド雇うなら上位冒険者になって、掃除の人手が足りないくらい大きな家を買わないと駄目よ。弱いメイドを冒険に連れて行かないでしょ」

「旦那様とか呼ばれたりしちゃうのかな……」

「あ、ちなみに冒険者組合ってのがあっち」

「そこで登録して依頼を受ければいいんだね」

「プレイヤーならすぐにアダマンタイト級になれるだろうし、お金も溜まると思うの。当面の生活費は蛇から借りれば?」

 

 古い友人が金の無心にやってくるという、安いサスペンスドラマ的な展開が浮かんだ。

 

 今のヘロヘロの行動はまさにそれだ。平和に暮らしている友人の家に押し掛け、金と仕事を無心する。合流が少し遅れただけなのだが、居場所の無さに心は沈んでいく。相対的に番外席次の機嫌は良い。

 

「次は市場ね。小腹が空いたら市場に行くといいわ。物価は法国よりも安いし、店も沢山あるから」

 

 徐々に市場の喧騒が聞こえてくる。食欲をそそる匂いがし、ヘロヘロの腹部が胃の収縮で空腹を訴えた。

 

「この前の、お土産のハンバーガーもそこですか?」

「それは王宮近くのレストラン。王都の食事はどこも安いけど、あの店だけは馬鹿みたいに高いからね」

「その前にお金を返さないとなぁ。いつまでも――」

 

 ヘロへロの手が誰かに掴まれた。

 

 

 金髪の美しいメイドが、幸せそうな笑みを浮かべていた。

 

 NPCと創造主は、再会の出会い頭に最高潮(クライマックス)を迎える。

 

 

 

 

 ソリュシャンとユリが孤児院の手伝いを初めて数日で、子供たちは悪童(ギャング)を卒業した。更生した彼らは礼儀正しく、出掛けるユリとソリュシャンに大きな挨拶をしてくれた。

 

 (ひとえ)脅し(教育)の賜物だ。

 

 教育以外に料理もできるユリは重宝がられ、今日も夕食の買い出しに出掛ける。同行したソリュシャンと、市場の入り口で食材調達の振り分けを行なっていた。

 

「私は肉と魚を調達してくるから、ソリュシャンは野菜をお願いね。種類が多いから間違えないでね。あと分量も。金貨と銀貨を間違えると量が増えて――」

「ユリ姉、そこまで馬鹿じゃないわよ」

「あ、ごめんなさい。そうよね。それじゃあ、また後でね」

「心配性ね……それにしても、最近は買い物ばかり」

 

 アインズの勅命で無ければくだらない仕事に分類される。言い換えるなら、アインズとヤトの命さえあれば、いかなる業務も崇高で尊い。仮に娼館で働いて金を稼げと言われても、ソリュシャンは喜んで従う。人間(下等生物)と夜を共にする難行苦行も、マリアナ海溝より深い考えに活用されるなら我慢できる。

 

 君主がたった150日で作り上げた大国の首都。創造主(ヘロヘロ)から与えられたミニスカートのメイド服で闊歩するのが誇らしい。気分がいいので、言い寄ってくる粗野な男は殺さずに済ませた。彼らは口が裂けたソリュシャンを見て、顔面蒼白で逃げていった。

 

 ソリュシャンは紙袋を抱え、買い物の依頼書を眺めた。

 

「えーと、次は……キャベツ……ジャガイモは買ったから……顔なしリンゴ……顔ありもあるの?」

 

 

 古より、男は頭で考え、女は子宮で考えるという。脳の構造レベルで現れる考え方の違いは、頻繁に男女間の諍いを招いてきた。時として女性は頭で捏ねた理屈を跳ね返し、男性にはわからぬ兆しを読み取る。

 

 ソリュシャンは立ち止まり、腹部に微細な違和感を得た。自分の中、奥深くへ埋め込まれて凍結された何かが動いた。

 

 瞬間、全身を悪寒が駆け抜けていく。

 

 これまでの体調不良を限界まで強めたような不安、恐慌、危機感。慌てて周囲を見渡せば、魔導国に懐柔された番外席次が誰かと歩いている。背丈の同じくらいの少年で、顔に見覚えはない。仮に知っていたとしても、人間相手に何だというのだ。

 

 だが、これは理屈ではない。

 

 ここにいてはいけないという危機感を正当化する理由。敬愛し、恋い焦がれ、執着する創造主が世界のどこかにいるのに自分が側に立っていない。そんなことは被創造物(NPC)に許されない。直感が冴えている自分が、姿形が変わっている程度で創造主を見落とすはずがない。

 

 ソリュシャンは持っていた野菜の袋を落とし、気が付けば全速力で走っていた。すぐに彼らへ追いつき、少年の手を掴んで叫んだ。

 

「ヘロヘロ様ぁっ!」

 

 腕を掴んだと同時、薬物で高揚させたような得も言われぬ多幸感が訪れた。極めて自然に破顔し、頬が薄紅色に上気した。

 

 全身を黒一色に統一した少年に見覚えはない。少年も不思議そうに首を傾げていた。それでも腕を離せない。離したら、とても大切なものが消えてしまうと思った。創造してくれたものの気配を、NPCが読み違えるはずがない。その自負に突き動かされ、笑顔のソリュシャンは叫ぶ。

 

「ヘロヘロ様!」

 

 少年は訝しげに彼女を眺めた。この世界で金髪の女性はさほど珍しくない。夢の中で会ったような気もしたが、聞けば二人もいるヤトの妻はどちらも金髪で、行きがけの駄賃で太ももを触らせてくれた貴族の令嬢も金髪だった。髪の色だけで言えば、黒髪の自分や、白黒に別れている番外席次こそ珍しい。着ているメイド服も形状が珍しいという程度の印象だった。

 

(この前のお嬢さんの知り合いかな……それにしても綺麗だな……)

 

 ヘロヘロは数秒だけ見惚れてから、笑顔で尋ねた。

 

「ええと、ごめんなさい。誰かな?」

 

 ヘロヘロからすれば、「この前のお嬢さんの知り合いですか?」と軽く聞いたつもりだった。

 

 ソリュシャンは愕然とした。

 

 目を見開き、口を開いて固まり、顔色が絶望一色に染めあげられていく。

 

 持ち前の賢さですぐに体勢を立て直し、無理矢理に笑顔を作った。今度は心の奥から浮かぶ笑顔ではなく、引き攣った作り笑いだ。

 

 ここで引いてしまえば、二度と彼の側に立てなくなってしまう。二年以上も会っていなければ、大量に作ったメイドの一人を忘れてもおかしくはないと、強引に自分を納得させた。モモンガとヤトに会いにきたサービス終了日のことは聞かされていない。その日、ソリュシャンや他の一般メイドたちの顔さえ見ずにユグドラシルを去ったなど、知りたくない。

 

「っ……御挨拶が遅れて申し訳ございません。ナザリック地下大墳墓、玉座の間を守る戦闘メイド、プレアデスが三女。至高の41人が一柱、ヘロヘロ様に創造していただいた、ソリュシャン・イプシロンでございます」

「あー……あっ……と」

 

 手を離して跪く美女に、ヘロヘロは激しく動揺した。精神が沈静化するのを待ち、錆びた脳を激しく揺さ振る。しかし、あまりに考えるべき事柄が多すぎた。

 

(……ナザリックが転移、NPCが生きてる、プレアデスって……それより、なんで跪いてるんだ?)

 

「お会い……しとうございました……ヘロヘロ様、私は――」

「ちょーっと! ここじゃなんだから路地裏に入ろうかぁ!」

 

 涙を浮かべるソリュシャン、動揺して酸性の汗を流すヘロヘロは通行人の視線を集め過ぎていた。番外席次は歪んだ笑みで追従した。

 

 

 そして路地裏。

 

 

 薄暗い路地の入口へ見張りとして番外席次を立たせ、嬉しさ余って半泣きのソリュシャンに、それを宥めるヘロヘロ。

 

 ややあって、(まと)を射たソリュシャンの説明で状況が把握される。

 

「そっか、ナザリックとNPCもまとめて転移したんだ。凄いデータ量だなぁ」

「創造主様にお会いでき、感激しております。どれほど恋い焦がれ、アインズ様だけに忠義を捧げようと、造物主様への想いは唯一無二のものです」

 

(なんか凄いこと言われたよね……忠義ってなに?)

 

 ヘロヘロを潤んだ双眸へ映し、ソリュシャンは微笑む。くすんだ瞳は瞼に覆い隠され、満面の笑顔だ。彼女は性癖や習性を忘れ、一人の女性になっている。

 

 ヘロヘロには未だにピンとこない。

 

「改めて、お帰りなさいませ、ヘロヘロ様。お待ち申し上げておりました。そのお姿を夢に見て、幾千の夜を越えたことでしょうか」

「あ……うん」

「ヘロへロ様、身の回りのことは何なりと私にお命じください。私の同行をお許しください。もう二度と、お側を離れません」

「うぅん……」

「ヘロヘロ様の命令であれば、どのようなことでも致します。忠誠の全てを主神アインズ・ウール・ゴウン様へ捧げながらも、ヘロヘロ様への想いはどれほどの歳月が流れようと色褪せることはありませんでした。どうか、私を永遠に支配なさってくださいませ」

 

(主神……? なにこの忠誠。凄いこと言われてるけど……どうすればいいかな)

 

 ヘロヘロは冷静だ。アインズと同様、ステータス無効化が精神・感情の沈静化に代わり、感情が大きく振れることはない。人間化アイテムは試作品段階で、感情を人間に合わせるほどの効果はなかった。

 

 ソリュシャンを眺めれば、彼女は満面の笑みで応じてくれる。普段のくすんだ瞳や、柔軟な思考、無垢なるものを溶かしたい欲求さえ、今の彼女には存在しない。創造主に愛でられたいと願う、従順な一人の女性だ。

 

「……私を、置いて行かないでください。地獄の果てまでも御伴を……いえ、ヘロヘロ様と共にあれば、どこであろうと天国に違いありません」

 

(美人だなー……)

 

 彼女の笑顔が眩しすぎた。NPCだった彼女の記憶は、ゲームのスクリーンショットと変わらない。生々しい女性の質感で、己が全てを捧げようと跪く彼女。身に纏うメイド服は、確実にヘロヘロの趣味嗜好に依る。対応に困るというよりは、一人の女性相手に緊張した。

 

 現実を受け入れる意味で考える時間がほしい。ここは距離を取るべきだと、ヘロヘロは彼女の忠誠を舐めた選択肢を選ぶ。

 

「そ、ソリュシャン」

「はい!」

「さ、さっきさ、アインズさんに、つまりモモンガさんに忠誠を誓うって言ったよね。彼は違う場所にいるから、そっちに行ったらどうかな」

 

 ソリュシャンの悲劇は、彼女が優秀過ぎたことだ。やんわりと拒絶されているのだと、彼女の知性は察してしまう。女性慣れしていないヘロヘロが、極度に緊張しているとは見抜けなかった。自らの創造主がその程度のわけがない。元人間だと知りながら、特別に優秀な人間という甚だしい身内贔屓が有効化されていた。

 

「あの、悪いけど、俺はヤトくんに会いに行くところなんだ。ナザリックも見たいから、後で合流しようよ」

「ご迷惑……でしょうか」

 

 改めて考えれば、存在を忘れられた(しもべ)風情が、何を偉そうに言っているのだろうと痛感する。デミウルゴスとヤトの掛け合いで、創造主は生きるためにユグドラシルの世界を去り、アインズを優先すれば永遠にナザリックが繁栄すると理解している。いつかヘロヘロが戻ってきて、自由意志の自分を見て喜んでくれると思った。

 

 心の奥、凍結された創造主への忠誠と敬愛は、油を差されて動き出している。精彩に欠けていた大車輪は炎上し、鉄錆を撒き散らしながら回転を始めた。一度回り出したら自力で止められない。作られたものだけが持つ忠誠を満たすには、ヘロヘロに認められ、支配されるしかない。

 

 ソリュシャンの笑顔は霞と消え、止めどなく大粒の涙を流した。当然、ヘロヘロは沈静化が必要なほど動揺する。

 

「そ、そそ、ソリュシャン!?」

「……ぅ……っく……申し訳……あ”りま”せん」

「泣くなよ。大丈夫だよ、別に俺たちは捨ててないし、忘れてもいないから」

 

 ヘロヘロなら、捨てていたとしても、忘れていたとしてもそう言う。安い慰めに何の効果もない。

 涙を手の甲で拭っても、あとからあとから洪水のように流れてくる。唇を噛みしめ、嗚咽だけでも必死で堪えた。

 

「ねえ、この人はただの親でしょ? どうしてそんなに悲しむの?」

 

 ヘロヘロの後方から番外席次の声がする。彼女の頭の中で、大蛇に言われた台詞が浮かんでいた。

 

(誰かのために何かを……か。やっぱり、よくわからないわ)

 

 嫌みや皮肉ではなく、純粋な疑問だ。

 

「だって、そうでしょ。忠誠を誓う意味なんてないじゃない。プレイヤーにしか使えない力であなたを作って、放っておいたんでしょ? どうしてそんな奴を相手に泣くの? 尽くすように作られたの?」

 

(その通りだ……)

 

 ヘロヘロも思った。自分はただ、自分のやり方で仮想現実(ゲーム)を楽しんだに過ぎない。こんな美人と会話できたらいいなと考えたこともあるが、それは妄想だ。

 

 優先すべきは仕事で、働かなければ死ぬしかない。

 

 彼がユグドラシルをやり込んでいたのは、転職を機に引退する二年前まで。転職してから連日、“死の行進曲(デスマーチ)”を歌い過ぎて時間の感覚さえ失いかけていた。

 

 そんな状況下で、引退したゲーム内で作ったNPCを、ログインもせずに二年間も覚えていろというのも無理な話だ。それでも当時の思い入れは凄いもので、蜃気楼並に朧な記憶は浮かんでいた。プログラム関連の仕事から帰宅してメイドたちのAIをプログラムした、無駄に肉体を酷使しながらも充実していたゲーム生活の過去。

 

 顔だけだそうとログインしたユグドラシルには、モモンガとヤトがいた。仮にモモンガ単身だったなら、聞き上手な彼に愚痴を零してすっきりし、寝落ちした公算が高い。愚痴ではなく簡単に談笑して去らなければ、今ここに自分は存在しなかっただろう。

 

 それまでの偶然で意思を持ったNPC。過剰なまでの生々しさ(リアリティ)を持った美女は、もうNPCではない。目の前で悲しむのは、自分の作ったNPCの姿をした一人の女性だ。今はまともに直視するのも難しい。もっと女性に慣れておけば、また違った対応ができた。

 

 

 どれほど言い訳を考えても、彼女の涙を止める決定打に欠けている。そして言い訳をすればするほど、自分が下らないものに思えた。

 

 

「わ……私たち、ナザリックの(しもべ)は、皆さまのお役に立つべく作られた生。許されないのなら、存在する理由がございません。ヘロヘロ様、どうか、その手で私を作り出したように、私の命も奪ってください」

 

 涙は止まらないが、彼女は強引に笑顔を作った。今ならアルベドの気持ちがわかる。彼女は認められ、愛され、側に置いてほしかったのだろう。それさえも叶わないのなら、哀れな創造物は無に還り、記憶に刻まれることを願うしかない。

 

「ほんの僅かもヘロヘロ様の記憶へ残れなかった、哀れで愚かな創造物を……その手で壊してください。私をお造りくださった……敬愛する御身の……その手で」

「お、おい、落ち着けってば! 死ななくてもいいじゃないか。別に、忘れてたわけじゃないから」

「いいえ……ヘロヘロ様は優秀な御方です。その手で作られた私も、御身の心中を察せられる程度はできます。捨てられて……いなくても………拒絶されて忘れられるくらいなら、いっそ殺してください……御身の記憶に少しでも残れれば――」

 

 ソリュシャンの表情は俯いて見えないが、伸ばした手は震えていた。

 

「どうしてこんな奴に縋るのよっ!」

 

 番外席次が怒鳴った。言い表せぬ怒りが泡立ち、二人の間へ乱入する。彼女の手を握り、受け取ろうとしたヘロヘロの手を強く跳ねのけた。

 

 番外席次はソリュシャンの手を引いてその場を去ろうとするも、ソリュシャンは震える唇を固く結び、彼女の腕を振りほどく。振り乱した顔から、涙が宙を舞った。彼女は即座にヘロヘロの前へ跪いた。

 

「こいつはぁ! あなたを作ったことなんて忘れていたのに! 名前さえ思い出せなかったのに!」

「……ひっぐ……っわだ……私は!」

 

 口を開いたことで、堪えていた嗚咽が混じりだす。言葉が濁り、呼吸はひきつけを起こす。大よそ普段の彼女からは想像ができない崩れた顔だ。どれほど美しく作られた顔が涙で汚れ、悲しみで唇が引き攣り、気品ある美しさが壊れようと彼女はそこを動かない。

 

 彼女は素直な心をぶちまけた。

 

「ぞれでもわだしは! ヘロヘロ様と一緒にいたい!」

「ソリュシャン……」

「それで満足なの!? あなたの人生、それだけでいいの!?」

「最後は……グッ、ひっぐ、ざ、最後に……ヘロヘロ様の顔を見て死ねるなら!」

 

 精神の沈静化を繰り返すヘロヘロは動けない。不甲斐ない態度に苛立ち、番外席次は彼の胸倉を掴みあげた。

 

「なんとか言えよ! あんたが勝手に作って勝手に捨てたんだよ!」

「ヘロヘロ様に触るな!」

 

 ソリュシャンが腕を振り払い、僅かに浮いていたヘロヘロは尻もちをついた。番外席次に大粒の涙が振りかかった。獣が我が子を守るような明確な敵意を放ち、創造主の前に立ち塞がる。NPCの忠誠を舐めていたヘロヘロと番外席次は、それほど強くない彼女に圧倒された。

 

「こんな……こんな目に遭っても……どうしてよ……どうしてそこまで誰かを思えるの!」

「それが、栄光あるナザリック地下大墳墓に所属する(しもべ)。創造主に忘れられるのは、死よりも恐ろしいことなのです。それに比べれば、創造主に看取っていただけるなど、どれほど幸福な最期でしょうか」

「……」

 

 彼女は間を空け、歪んだ顔を笑顔に変えた。

 

「ヘロヘロ様。私は、最後にお会いできた奇跡へ感謝します。御身が手を下さないのなら、せめて私の消滅を見届けていただけないでしょうか」

「そんなの……報われないなんて……悲しいじゃない」

「そうだ……もうゲームのキャラクターじゃないんだ」

 

 ヘロヘロはゆっくりと立ち上がる。ソリュシャンの死を賭した矜持に、頭を鈍器で殴られたようだ。そして、自分が骨の髄まで企業へ飼い慣らされていたと知る。

 

 依頼者と雇用主という飼い主の指示に従って右往左往し、自身で考えて行動することのない、球を追いかけるだけの犬。状況を受け容れるだけの木偶人形。この世界に来た自分は、異世界を謳歌するでもなく、ただ状況に流されていた。役割演技(ロールプレイ)という言葉さえ、今まで忘れていた。

 

「人間化、解除」

 

 浅黒い肌の少年は消えた。

 

 古き漆黒の粘体(エルダー・ブラック・ウーズ)は黒い体を波立たせる。動体検知の視野に美女はおらず、女性らしき形をしたものが二体いるだけだ。それだけで女性への緊張は消え失せた。

 

「ぁ……あぁ……嗚呼……ヘロヘロ……さま……」

 

 ソリュシャンは口と鼻を両手で覆い隠し、感動で身を震わせた。涙の量が増し、視界が水滴で歪む。不定形に蠢き続ける体を起こし、くぐもった声を出した。

 

「ソリュシャン・イプシロン。もっと近くへき……こい」

「……はい」

 

 泣いて跪くソリュシャンの頭部へ、黒い粘液の手が置かれた。彼女は目を閉じる。このまま首を落とされても何の後悔もない。

 

「君……お前は、私を忘れて自由に生きることもできる。異世界を放浪し、愛するだれかと結ばれて暮らすこともできただろう」

「ヘロヘロ様がそうお命じになるのであれば、私は汚らわしく下等な人間相手だろうとそう致しましょう。私の体は不定形の粘液(ショゴス)始まりの混沌(ウボ・サスラ)。体がどれほど穢れようと、すぐに浄化できます。しかし、心だけは常にヘロヘロ様とともに」

 

 黒い粘液が笑った気がした。

 

 頭に置かれた手らしき突起が、金髪をくしゃくしゃと掻き混ぜる。天にも昇る心地よさで、彼女の端正な口元が緩む。永遠にそうしてもらいたかったが、黒い手はすぐに離れた。

 

「……ごめんな、覚えてなくて。本当にごめん。そんなに俺を必要としてくれてたんだな。誰かに必要とされるって、こんなに気持ちいいものだったんだ」

「……ヘロヘロ……さま?」

「二度と置いて行かないから、もう泣くな。できることなら何でもす……何でもしてやるよ」

「我儘を聞いていただけますか……?」

「なんだ?」

「泣きたいので、胸をお貸し願いませんか」

「……いいよ」

 

 彼女は立ち上がり、黒い粘液生物へ抱き着く。ヘロヘロの黒い体は緊張して固まった。それも沈静化されて柔らかくなり、ヘロヘロの手が彼女の背中へ回った。

 

「ヘロヘロ様……」

 

 迷子を慰める優しさで、ヘロヘロは肩を抱く。ここが彼女の限界だったのだろう。遂に堪えられなくなり、全力で泣き喚いた。

 

「ヘロヘロ様……へろへろさま……えっ……へろへろさまぁ」

「大丈夫だよ。俺は消えたりしない」

「……っあ……ああああああああ!」

 

 彼女は子供のように泣きじゃくり続けた。

 

 番外席次は、急激に潤いだした片目を閉じる。彼らへ背を向けて遠くを見れば、泣き声を聞いて路地を覗き込む者がいた。野次馬を追い払っていると、同じようなメイド服を着た女性が現れた。当然、ユリは妹の醜態を目撃して激しく狼狽える。

 

「そ、ソリュシャン! どうして泣い………」

 

 ようやく、抱き着いている相手が誰か気付いた。映像の一時停止したように、アンデッドの彼女は微動だにしなかった。すぐに再生ボタンが押され、彼女は叫ぶ。

 

「へぇっ!? ヘロヘロ様ぁ!? ソリュシャン! ヘロヘロ様! そ、ソリュちゃん状況のせつめ、あ、ああああいんずさまへれ、れれ、連絡を――」

「しー。邪魔しちゃ駄目みたい」

 

 ユリの動揺は著しく、彼女も持っていた野菜の袋を取り落とした。アンデッドなのに大量の汗を流し、手足を慌ただしく動かしていた。汗を流すアンデッドに苦笑いしながら、番外席次はソリュシャンを羨ましく思った。

 

「……人間化アイテム、また貰わないと」

 

 ソリュシャンの泣き声が止まるのを、ユリと並んで待った。

 

 路地が静かになったのはそれから数十分後だ。

 

 

 

 

「畏まりました。それでは、アインズ様がお戻りになるまで、ご連絡は控えさせていただきます」

「悪いな」

「何を仰いますか。ヘロヘロ様はナザリックのメイドを作られた御方。一般メイドの三分の一は、ソリュシャンと同様にお会いできる日を心待ちにしております」

「……ふーん……そうなんだぁ」

 

 こみ上げる愉悦は大人の階段を上り、沈静化という奈落へ墜落する。たくさんのメイドに囲まれ、崇められ、称えられながらナザリックで静かに暮らすなど、ヘロヘロ個人に都合が良すぎる。遅れてきたのだから弁えるべきだと、沈静化されて冷めきった理性で厳しく律した。

 

「これからヤトの家に行くから、スライム種に人間的な視覚を与えるアイテムが欲しい。それと、俺の装備品を宝物殿から」

「はい、担当者を呼び、すぐに。それまでの護衛はソリュシャンが」

「そうだね。それから、モモンガさんとヤトを驚かせたいから、くれぐれも口外しないように頼む」

「仰せのままに、ヘロヘロ様」

 

 ユリは路地裏を飛び出て走り抜けていった。

 

「さて、勢いで解除しちゃったけど、これからどうしたものかな」

 

 番外席次と少年だけなら南方の人間で済んだが、人間化を解除してはそうもいかない。限界まで薄暗い路地を行くも、やはり人目に触れないのは無理がある。また、ヘロヘロの歩みは這っているので遅い。

 

 日の当たる場所に出てから、三名は通行人の目を集め続けた。急ごうにも足がなく、巨大ななめくじが這うような音を出して鈍行した。

 

 ヤト邸宅に着く頃、周囲は恥ずかしそうな茜色へ染められ、ユリは邸宅前に立っていた。

 

「あ、俺たちの方が遅かったのか」

「いえ、私も先ほどついたばかりです」

 

(嘘だな……)

 

 特に理由も無くそう思った。

 

 ユリが手渡した小さな二つの球体。受け取って装備すると頭部へ侵入していく。ちょうど両目のような位置で止まり、体内で発光した。周囲の輪郭だけだった無機質な視野から、色鮮やかな人間的視覚に変わる。

 

 夕陽に染まるだけの簡素な街に、ヘロヘロは口を開いて見とれた。本来の姿で口を開いても、スライム種の歪んだ形でしかない。表情は誰にも読み取れなかった。

 

「汚染されてないって……凄いな」

 

 通常、異世界転移した者は現実世界の知識を使って周囲の人間を驚かせ、服従させ、支配するものだと思っていた。しかし、彼は異世界に来てから驚き、戸惑い、感動し続けている。背後で微笑むソリュシャンもその一つだ。

 

 この姿の自分が現実世界へ転移したら、あちらでやりたい放題(無双)するのだろうかと、少しだけおかしくなった。

 

 ぼんやりしていると、ヤト邸宅の扉が開かれた。

 

 

 

 

 ラキュース付きのセバスは、彼女が寝入ったので室外に出た。懐妊してからというもの、彼女の睡眠時間は長く、頻繁に訪れた。本人が言うには、お腹の子が栄養を持っていくから疲れるのだという。父親に似て、ルール無用(自由)なのかもしれない。

 

 セバスの視界で景色が歪む。目を細めて注視すると、透明化したエイトエッジ・アサシンが佇んでいた。

 

「何かありましたか?」

「セバス様……拙者、幻術にかけられたやもしれませぬ」

「どういうことですか?」

「その、幻や白昼夢を話すのも気が引けますが……外に立っているあの方は……」

 

 彼は語るのを止めた。奥歯に物が挟まる報告を怪訝に思いながら、セバスは玄関の扉を開く。ユリとソリュシャン、法国から懐柔した番外席次を付き従える黒い粘体。咄嗟のことで、セバスは思考停止した。ソリュシャンが当該スライムへ耳打ちをすると、眼球らしき二つの球体が光った。

 

 セバスはなんとなく凝視されている気がした。ヘロヘロは緩やかに這い寄り、手らしき突起物をなめくじの目のようににゅーっと伸ばし、セバスは握手なのだと受け取った。

 

「やあ、セバス・チャン。久しぶり」

「……ヘロヘロ様……お久しぶりでございます。まさか再びお姿を拝見できるとは、光栄の極みでございます」

 

 執事は俊敏な動きで跪く。激しく暴れて動揺したいところだが、部下のユリとソリュシャンを前に必死で抑え込んだ。

 

「ヤトくんは?」

「外出しております。三日前に世界は広いと言い残し、旅に出たそうです」

「なんだそりゃ……?」

 

 冷静に考えれば、ヤトは遅れてモモンガに合流したと考えるのが自然だ。何らかのトラブル処理でもしているのだろう。先にそちらへ連絡してもいいが、ヘロヘロにはまだやることがある。世話になった漁村へ恩返しは先に済ませておくべきだ。合流するならその後で連絡すればいい。

 

「そうか……残念だな」

「ヘロヘロ様。すぐにアインズ様へ連絡を」

「いや、先にやることがあるから、そちらを片付けてから出直す。君は仕事に戻ってくれ。ヤトくんが不在なのに、奥さんに会えないからな」

「では、ナザリックへお戻りに」

「大騒ぎになるからまだ早い。当面はソリュシャンだけいれば事足りる。ヤトくんが戻ったらよろしく伝えてくれ」

「畏まりました」

 

 セバスは笑顔で従うソリュシャンに、胸がすく思いだった。創造主に付き従うは無上の喜びだ。彼女らしからぬ少女の笑みがそれを証明している。

 

「ソリュシャン、ヘロヘロ様の御供。お願いします。食事はナザリックから取り寄せてください」

「はい、セバス様」

 

 セバスは恭しくお辞儀をして、蛇の正妻護衛任務へ戻る。扉を開く前に何度かこちらを振り返ったが、笑顔のソリュシャンを見て安心したのか、邸宅内へ戻っていった。

 

「……さて、今日の宿はどうしよう」

「ヘロヘロ様。宿泊は王宮の客間が余っております。下手な宿へ泊まるより、そちらが間違いありません。費用もかかりませんわ」

「う、うん。そうか?」

「では、すぐに転移ゲートを」

「あ、私は夕食食べてから帰るから」

 

 番外席次が我が家のような気軽さで扉を開く。何度か手を振って、彼女は邸宅内へ走っていった。番外席次がお手付きではないのかと不安になる。

 

(そういう関係なのかな……。勝手に連れまわしたことをヤトくんに謝ったほうがいいかもしれない……)

 

 人の妾を勝手に連れまわして、再会して早々に文句を言われるのではと心配した。不意に扉が開き、白黒の頭髪が顔だけ覗かせた。

 

「また明日、王宮で待ち合わせしましょ」

「どうして?」

 

 道案内と情報提供の役割は終えている。番外席次がついてくる意味はない。御供なら、すぐ後ろで金髪のメイドが微笑んでいる。

 

「だって、暇だし……」

 

 少しだけ寂しそうだった。旅は道連れという言葉に従い、彼女の暇潰しと厚意に甘えることにした。領海の調査をするにあたり、人手は多い方がいい。上手くいけば、モモンガへ何らかの手土産(功績)を持ち帰れるかもしれない。

 

 開いた転移ゲートへ、ソリュシャンとヘロヘロは飲み込まれていった。ユグドラシル時代と同様、見慣れた黒い闇だ。ユリは二人を見送り、市場へ買い物に出かけた。今夜の夕食は時間が大幅にずれ込んだが、子供たちから不満は出なかった。

 

 

 数時間後、大蛇の邸宅内で談笑する声がする。

 

「まだお腹の音は聞こえないわね。子供の名前は決めたの?」

「番外さん、まだ早いんじゃ……」

「どうしようかな。ここは、二人で悩むべきかしら」

「やっぱり、蛇の子ってわかるようなのがいいと思うのよ」

「蛇と言えば、馬鹿だと思う。それでは子供が可哀想だ」

「レイナ、物は言いようよ。自由って意味にすればいいんじゃない? 今度、パンドラ様に相談してみようかしら……」

 

 ラキュースの部屋で談笑する声は、夜遅くまで聞こえていた。

 

 

 

 

 そうして、ヘロヘロは王宮の客間でくつろぐ。

 

 室内は綺麗に掃除されていて、布団も柔らかかった。顔を埋めれば太陽光の匂いがしてくる。ヘロヘロの体では、せっかくのベッドも濡れてしまうのが残念だ。

 

 ソリュシャンが運んできたナザリックの食事は、気違い沙汰の旨さだった。感動に身を震わせ、人間のように食べられないことを勿体なく思う。睡眠と飲食はアイテム装備で必要ないのだが、食という快楽を堪能して呆けた。

 

 ぼんやりしていると色のついた液体で満たされるグラスが差し出された。ソリュシャンがお酒を作ってくれた。彼女はこちらが指示を出さなくても動いてくれる。優秀に作った覚えはないが、今は作ったことだけに感謝した。

 

(嗚呼……メイドって素晴らしいなぁ)

 

 夢のような生活に、彼は身も心も満たされる。気が付けばソリュシャンを凝視してしまい、彼女は全身が赤くなっていた。慌てて視線を切り、作ってくれた酒を飲む。口を開いたつもりになれば、スライムの形が変形して穴が空いた。そこへ流し込めば、口の中に液体が充満した感覚になった。

 

 酒は初体験だ。

 

「ヘロヘロ様? お体が崩れていますが、どうなさいました」

「酔った……」

 

 実際の酩酊はステータス異常なので、なんとなくそんな気がしたに過ぎない。しかし、体はそれ以上に乱れた。ベッド上に広がる黒い粘液は、シーツと布団をお釈迦(全損)にしてしまった。

 

「ヘロヘロ様、人間化アイテムは参謀のパンドラ様が担当なさっております。アインズ様がお造りになった、知性のある御方です」

「あぁ、ドッペルゲンガーで軍服着てたよな。どんな人?」

「迂闊に話しかけられない相手です」

 

(怖い人なのかな……)

 

 悩んでいると、ソリュシャンが思い詰めた顔で話しかけてくる。

 

「ヘロヘロ様、ご質問がございます」

「なに?」

「昼間、ヘロヘロ様は愛する誰かと結ばれる自由もあるとおっしゃいました」

「誰か、好きな相手でもいるのか? 結婚したいなら構わないけど」

 

 彼女の顔は瞬時に赤くなった。発光しているのかと聞きたくなるほど、露出している素肌は全て朱に染められている。色で感情の変化は読めず、彼女の言葉を待った。

 

 

「ヘロヘロ様と結婚はできますか?」

 

 

 開いた口が塞がらないとはこのことだ。精神の沈静化以前に、何がどうしてそうなるのかの理解が必要だった。同じスライム種のソリュシャンにはヘロヘロの表情がわかる。あんぐりと呆けている彼に、蛇足を始めた。

 

「私は創造主様というだけでなく、一人の男性としてヘロヘロ様を見ております」

「女の子がパパと結婚するっていう意味?」

「それとは違います。ナザリック内でいえば、シャルティア様はペロロンチーノ様の妃になるべく、夜の花嫁修業を欠かしておりません。私も幾度か誘われました」

「女同士で夜の花嫁修業か……マニアックな性格は遺伝なのかな」

 

 エロゲー好きな彼のことだ。様々な趣味嗜好を設定しているに違いない。

 

「現に、アルベド様はアインズ様とご結婚なさいました。至高の御方々と(しもべ)が添い遂げることができるという好例です」

「アルベドって……」

「タブラ・スマラグディナ様がお造りになられた、守護者統括です」

「へぇ……」

 

 アルベドの顔は浮かばなかったが、モモンガを小一時間ほど問いただしたくなった。

 

 これでもヘロヘロは、NPCにどこまで手を出していいのか悟られないように悩んでいる。ソリュシャンは自分の好みを詰め込んでいるため、やることなすこと全てがヘロヘロの好みだ。アンデッドでないヘロヘロは、性欲値が薄められていない。ハーレムを作るのが簡単にしても、NPCに手を出すのは漫画家やイラストレーターが自分で描いた絵に興奮する感覚に近く、どうにも違和感を禁じ得ない。

 

 モモンガに先を越され、少しだけ安心すると同時に羨ましくなった。

 

「同じ系統の種族であれば、種族の差など気にしなくて済みます」

「あー、うん、そう、だよな」

「今なら、アルベド様の気持ちがわかります。あの方はアインズ様を誰よりも深く愛しておられました。忠誠を捨て、ヤトノカミ様と殺し合うほどに」

「………ふぇ?」

 

 ソリュシャンはヤトとアルベドの殺し合いという一件の説明を挟む。今の彼女であればこそ、アルベドの心情の説明ができた。

 彼女の理性は健在で、驚いたり、困惑したり、混乱したりするヘロヘロと緩やかな時間を過ごした。

 

「そっか、NPCに裏切られる可能性も考えないといけないんだ」

「ヘロヘロ様。私は何があっても裏切りません。生涯、お側に置いてください」

「あ、そうなるのか」

「お気に召しませんか?」

「断ったらどうなる?」

「……」

 

 ぐずぐずと鼻をすするような音が鳴り、ヘロヘロが慌てる。

 

「ちょっとちょっと、泣くなよそんなことで」

 

 顔を上げさせると、彼女の顔は平静のままで涙も流れていない。片目を閉じて悪戯な笑顔を浮かべ、騙されたとわかった。

 

「嘘泣きです」

「はっ、いいよ。忠誠とか、疲れるんだよなー。やっぱり女の子はそんくらい――」

「ヘロヘロ様!」

 

 彼女はベッドに広がる黒い粘液に飛び込んでくる。どうやって感知しているのか不明だが、的確に頭の位置を捉え、体ごと顔を至近距離に持っていった。

 

 広がった体に、彼女の柔らかい部位が押し当てられる。あちこちの触感がまとめて把握できる不思議な感覚に男としてのボルテージが上がったが、すぐに抑制された。

 

「ヘロヘロ様、(しもべ)風情が至高の御方と御婚姻など、大それた願いだと知っています。私は守護者統括でもなければ、何かの守護者ですらありません。一般メイドに戦闘能力を与えられた程度の存在です」

「身分は関係ない気がするけどな。俺たちが勝手につけた設定だし」

「そんな私にできることは、身の回りのお世話をすることです。どうか、今夜の夜伽をお命じください」

 

 ヘロヘロは目を光らせ、頬の辺りをぬるぬると引っ掻いた。

 

「俺……初めてなんだけど」

「私もですわ!」

「あーそうなんだー……」

「うふふ……ヘロヘロさまぁ……」

「近いな……」

 

 今のソリュシャンとアルベドは似ている。ヘロヘロがアルベドと遭遇してそれを知るのは、今しばらく先のことだ。黒い粘体の生物に融合しようとするソリュシャンと、体裁だけ拒否しているヘロヘロの夜は長かった。

 

 

 睡眠も飲食も必要ないので、何も問題はない。

 

 

 彼の行動如何により、世界の形が変わる事実はいまだ闇の中。白昼に晒されるに必要なのは、太陽の光だけだ。翌日、番外席次、ソリュシャン、ヘロヘロの三名は朝早くから漁村へ転移した。

 

 ソリュシャンが前日と比べて妙に艶々し、黒い粘体に灰色が混じっていたので番外席次は首を傾げた。

 

 

 

 そちらの事実は永遠に隠蔽された。

 

 

 

 

 

 






次回予告

人は変わるもの、時は移ろうもの、海は揺蕩うもの
(おとな)う浜辺、寸分狂わぬ不同の波、昨日と違うは虚ろ船
恐れるべきは誘う声より、波で消えていく足跡なり

夢・幻想・真実、いずれか授け、乙女は笑顔で骸と化す。


次回、「旧支配者のレクイエム」

第5話、「C」


「俺は……君を殺さなくてはならない」
「どうでもいいんだよ、ボケ。面倒くせえんだよ、生きるの死ぬのって」


※オリ展開+オリキャラのため、読み飛ばし可能(次話から3話はそんな感じです)
※作者リハビリ中(創作の)


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