ヤトが地獄を知った日から遡ること7日間。
番外席次は食料と人間化アイテムのお土産を手に入れ、上機嫌で王宮の執務室にいた。
骨と蛇はまだ会員制レストランで大騒ぎしており、自由行動をするなら今しかない。急いで戻ってくれば、長期に渡って王宮を留守にしないで済む。
「早く転移門、開いてよ」
「……承知」
呼び出したシャドウ・デーモンに無茶なお願いをし、強引に承諾させた転移魔法で、魔導国と聖王国の国境付近へ飛ぶ。
夜の磯に明かりはないが、星辰と三日月の加護で夜の海が光っている。岩場に立つと波の飛沫が顔にかかった。刻は満ち潮、洞穴の入り口は海面より下に呑まれ、海水は洞穴を満たしているだろう。彼が生きているのか疑問になった。
「あーあ、つまんないの」
岩礁へ横になり、空を見上げた。背中にごつごつした岩肌が当たり、寝心地は最悪だった。寝返りでも打とうものなら、背中は擦り切れて赤くなりそうだ。
「はんばあがあ……冷めちゃうわ」
上空には魔女の口に似た細長い三日月がある。
新月の夜は近い。
◆
野宿をすると太陽光が剥き出しの顔面に当たるので、体は強制的に覚醒を促される。番外席次は予定よりも早く起きあがる。岩礁の寝床は寝心地だけではなく目覚めも悪く、起きると首がゴリッと嫌な音を立てた。
何かを待っているときは上手く寝付けない。いつだったか、法国に魔導国が侵攻したときも彼女の寝つきは悪かった。あの日は戦うのが楽しみで仕方なかったが、今は違う。暇潰しの玩具を見つけて楽しんでいるに近い。彼がプレイヤーなのか確認さえできれば、勝手な行動も後付けの理由で許されるだろう。
洞穴を満たしている海水が完全に引くまで、半日以上はかかりそうだ。
退屈に耐え切れず、潮が引き切る前に、水音をばちゃばちゃと騒々しく洞穴へ入っていった。
「ノワール! 生きてるー?」
奥でごそごそと蠢く音がする。
生臭さに混じって仄かな鼻を突く刺激臭がし、奥から困ったような声が聞こえた。
「だ、誰ですかぁ……」
どうやら眠っていたようで、声は寝ぼけている。目を擦って大欠伸でもしていることだろう。
「私だよ、私」
「私さんでしたか…………わたしわたし詐欺ですか?」
「はぁ? 意味わからないけど、覚えてないわけ? ……信じられない」
「ごめんなさい、冗談です。この前はどうも」
「緊張感がないのね。私が寝込みを襲いに来たのかもとか考えないの?」
「そうだったとは知りませんでした。困りましたね……」
声は緊張感を帯びることなく、寝起きの緩い雰囲気を維持していた。番外席次はため息を吐き、奥へ荷物を放り投げた。ポーンと弧を描き、紙でできた箱は奥へ飛んでいった。
「はい、食べ物。昨日の夜に着いていたから冷めちゃったけど」
紙箱の音が鳴り、受け取ったのが分かる。受け取れたということは、普通の手が生えているのだ。
「昨日の夜から待っててくれたんですね……ありがとうございます」
「これも」
番外席次は杖状のアイテムを奥へ放り投げた。やはり、同様に「パシッ」と掴み取った音がなる。この暗闇でどうやって位置を掴んでいるのか不明だが、彼は手がある種族のようだ。正体不明だった種族を徐々に狭めていく。
「何ですか、これ……杖?」
「人間になる試作品アイテムよ。私の考えが正しければ、あなたは異形種よね。周りの目が気になって出てこれない。そうでしょ?」
光の差さない洞穴で、得意満面に奥を指さす彼女の姿は相手に見えていない。気の抜けた返答が戻ってきた。
「はぁ……」
「使ってみなさいよ。そうすれば気兼ねなく外出できるわ」
「……なんか、怖いなぁ」
「は? なに?」
うじうじした態度に苛立つ。こちらは時間を浪費してまでプレイヤーか確認しに来てやっているのだ。いっそ槍を奥へ投げ込めば、はっきりした対応をするようになるだろうか。
「……まず、食べてからでいいですか? 凄く美味しそうな匂いが」
「せっかく持ってきてあげたのに、そういうこと言うわけ? こっちは一晩も待ったんだけど」
「……すみません」
彼女の知性はさして高くもないが、異形種だと断定していた。恐らく嘘が苦手なタイプで、下手に露呈する嘘を吐くくらいならと黙っているのだろう。異形種ではないと、否定する言葉は少しも出てこない。そもそも、洞穴内が海水に満たされるような満ち潮で、平然と眠りこけているものが人間であってたまるか。
彼女も伊達に長く生きていない。
問題は種族と強さだが、そちらは情報不足でわからなかった。
「早く使わないと、槍を打ち込むわよ」
「わかりました」
奥から深呼吸する音が聞こえた。ややあって、光の差さない闇の最奥が輝き、逃げ場のない光は番外席次の全身を照らす。目を潰そうとする光から逃げ、洞穴から飛び出した。しばらく目が使い物にならず、瞼の開閉を繰り返した。
「ま、ぶ、しいー……」
背中へ呑気な声が掛けられ、見えないままに振り返った。
「あのー、大丈夫?」
「見えない……」
「子供、だったんだね、君。暗くて見えなか――」
「はぁ!?」
そう言われるのが一番、腹が立つ。彼女は未だ変わらず、スレイン法国最強の戦士。プレイヤーの血を覚醒させた先祖返りで人類最後の守護者だ。年齢だって百歳は軽く超えている。
得体の知れない、しかも弱弱しい相手に侮られたのが許せず、感覚で相手の位置を把握して胸倉を掴んだ。どういうわけかいつもは噛み合う感覚がずれており、相手はどこにもいなかった。確かにそこに気配があったが、いつの間にか消えたのだ。
「あれ? おかしいわねぇ……」
「……ぁのぅ……服が、無いんです」
徐々に光へ慣れてきた視界の片隅、黒髪黒目で肌が浅黒い少年が洞穴の入り口からこちらを覗いていた。レストランで強制的に人間化されたアインズの装備品はそのままだった。
「なに? あなたもしかして、ずっと裸だったの?」
「……はい」
「うわぁ……」
「い、いえ、違うんです。装備品は友人に渡してしまって……それに、その……服はいらないので……」
どうも歯切れが悪い。服の必要がない異形種とは何なのだろうか。考えられるのは衣服を気にしないアンデッド系、ゴーレムなどの人造生物系、あるいは羽や鱗が生えた獣系だ。大蛇も鎧を装備していない。
思考の流れは彼方へ逸れていき、検討する対象が大蛇へ移った。
彼がこのアイテムを使ったら裸の少年になるのだろうか。もし、レベルや腕力が変化するのであれば、その場で押し倒すという手段はどうだ。
(既成事実を作る手段も考慮すべきね……)
相手の声が聞こえるまで魂は復帰しなかった。
「あのぅ……どうしました」
「あ、そうか。そうだよね、服がないのよね。もしかして全裸?」
「……うん」
「先に一言だけ言っておくけどさ、私は100歳、超えてるからね。今度、子ども扱いしたらぶん殴るよ?」
「えぇ!?」
「なに? なんか文句あるの?」
ジロリと睨めば、声が弱々しいものになる。異形種だから少しは強いだろうと思ったが、今の彼女は助けたことを後悔していた。プレイヤーがこんなに弱々しい態度を取るわけがない。アインズとヤトは、初対面から大そう偉そうだった。
「……ごめんなさい」
「次は殺すからね」
怯えた少年の頭は引っ込んでいた。
改めて番外席次は途方に暮れた。
彼女の衣服は女性用で、貸し与えるわけにもいかない。雑魚の裸体など、面白くないので見たくない。一度しか人間化ができないため、この場に置いていけば洞窟は満ち潮で満たされ、人間の体では小さな溺死体が完成するだけだ。
「面倒くさいなぁ。近くの村で服、借りてきてあげるわよ」
「……何から何まで本当に、ごめんなさい」
「ちょっと待っててよね」
「ありがとうございます」
番外席次は半魚人たちを討伐して救った村へ走った。幸い、さほどの日数が経過していないので村人たちは歓迎してくれた。少年用の衣服を寄越せという無茶な要求に、彼らは笑顔で応じてくれた。
貸し与えられた黒い
番外席次はむせ返る彼の背中を何度か叩いた。
「ゴホ、ゴホ……ふぅ、ありがとうございます」
「ふん」
「すごく美味しい。普段、こんなに美味しいものを食べてるんですか?」
「会員制のレストランのお土産。美味しいに決まっているわよ。何もかも高いんだから」
「高いんだ……そんなものをわざわざ、ありがとうございます。いつか働いて返しますね」
改めて齧りかけの食べ物を凝視していた。
「ねえ、あなたの種族は何?」
「……ごめんなさい。僕、嫌われ者だから、あまり話したくないんです」
岩場に並んで座ると二人の身長は同じくらいで、村で育った幼馴染が食事をしているようで、微笑ましい。彼女の顔が上機嫌であれば、だが。
「つまんないの。少しは強いのかと思ったのに」
「……ごめんなさい」
「まあいいや。もう興味なくなったから来ないよ」
プレイヤーでないのなら、自分がここにいる必要もない。
興味は新たな余興へ移っている。蛇を強制的に少年化して、
「え……あ、そうですか? でも、今は大丈夫ですよね? いろいろと教えて欲しいんですけど」
「何を?」
「まず、名前を」
「番外席次」
「へ……珍しい名前ですね。魔法は使えるんですか?」
「私は前衛職だから使えないわよ」
「そうですか……見たかったな」
「なに? 魔法のないところから来たの? やっぱりプ――」
「い、いえ! 僕も前衛職ですし、眠っているあいだに別の場所へ飛ばされちゃったのかと不安になって! か、確認ですよ、確認」
取り繕う様子が余計に怪しい。しかし、プレイヤーがここまで弱気になるものだろうか。強者として転移したものはそこいらの魔物と戦い、自分が強者だと知るはずだ。知らないということは逃げ回っていたとしか考え付かない。
興味が少しだけ戻ってきた。
「どうしてそんなに黒いの?」
「日焼け、ですかね」
「洞窟の中にいたのに?」
「冗談です。きっと生まれつき黒いんですよ。バンガイさん、あなたの仕事は?」
「うーん……世界の平和を守ることかな」
「いい人ですね。マドーコクっていい国ですか?」
「どうかな……王様、異形種だから正義でもないんじゃないかな。人間牧場とか作っていたから」
「……」
最後のハンバーガーへ齧りつこうとした口のまま、目を見開いて硬直していた。よく見るとこめかみの辺りを冷や汗が一筋だけ流れている。
「別に驚くことじゃないわよ。人間は弱い種族だから、あちこちで異形種に食べられたり、遊びで殺されたりしているわ。魔導国はそれでも他より平和よ。あなただって人間じゃないでしょ?」
「平和って……この辺には、魔導国しかないんですかね?」
「すぐ南に聖王国があるけど、あそこは異形種に排他的な国だと思うわ。長い城壁を築いて、アベリオン丘陵の亜人達の侵攻を防いでいるって」
「……そう、ですか。性王国……惑う国……なんかどっちも微妙だなぁ……性の王国についてもう少し知りませんか?」
「それ以上は知らない。私はそこから一番遠い、法国の出身者だからね」
「ホーコク……それはどんな国ですか?」
「神殿が収める宗教国家。六大神を崇めているの」
「ふーん……ロクデナシン? 手っ取り早くお金を稼ぐ職業って何ですか?」
「冒険者かワーカーね。身分も聞かれないし、強ければすぐに昇格して報酬も上がるみたいだから。名前なんて強ければ勝手に売れていくから」
「ボーケンシャ……冒険、”者”でいいのかな……。冒険をするのが仕事ですか?」
「魔物退治。あなた、弱そうだから難しいかもね」
「腕試ししたいな。この辺りに魔物とかいませんかね」
(やっぱりプレイヤーなのかしら……逃げ回って戦わなかったなんて情けないなぁ)
弱者を蔑む視線になっていたので、少年は慌てていた。
「あ、こ、この世界に図書館とかないですかね」
「この世界? あなたもしかして、プレイヤーなの?」
「プレイヤー……? 何を競えばいいんですか?」
「知らないわよ。ねえ、ここに来たときのこと、詳しく話してよ」
「はぁ、僕は――」
どうやら自分の机の上で居眠りをして、頭に何かの衝撃を受けたらしい。記憶ははっきりしているが、寝惚けていたのでここに来る前後の記憶が怪しい。自分がどうしてここにいるのかわからないようだ。頭を強く打って夢遊病でも発症したのなら、彼は間違いなくプレイヤーではないだろう。
(……異形種が自分の机とはどういうことなの? 家を持って、平和に暮らしていたのかしら)
最初こそ緊張していた少年も、慣れると饒舌になってよく話した。彼の話は理路整然としていて、とてもわかりやすかった。彼に関してはわからないことだらけだった。
「でも、働かずにのんびり寝ていられて、とても楽しかったですよ」
「仕事は何をしていたの?」
「仕事、ですか? うーん、何かを作ったり、何かを打ったりする仕事です」
「作ったり、売ったりするのね。商人とかかしら」
「そんな感じですかね」
彼は身分を偽ろうと石橋を叩き過ぎた。叩き過ぎた石橋は破壊され、渡るという選択肢が消滅する。7割がた、番外席次はプレイヤーだと断定していた。正体不明な異形種の商人で迷子とは支離滅裂な結論であったが、実力を調べるべきだと彼女の中で意見が一致した。
プレイヤーなら連れて返れば彼らも喜ぶだろう。肝心の彼らは聖王国へ出発しており、報告はしばらく先になるが、彼女はそれを知らない。
「一緒に冒険にいかない?」
「それはいいですけど、あまり強くないですよ。自分の強さに自信、ありませんし」
「いいから! ほら、行こう!」
「あ、ゴミは片づけないと駄目ですよ」
どうやら真面目な性格らしく、きっちり跡形もなく片付け、ごみを片手に歩き出した。
「魔法、使えませんか? 燃やせば楽ですけど」
「私は前衛職って言ったでしょ」
「そうでした……」
(残念、魔法が見られるかと思ったのに)
彼の思い通りには進んでいなかった。
◆
(意外と体力あるのね……)
北上すれば魔導国の都市、南下すれば聖王国とオークの集落、真水の海は番外席次も痛手を負う謎の砲撃があるので、足はアベリオン丘陵へ向く。置き去りにしても構わないくらいの早さで険しい山道を昇っているが、少年は息一つ乱れずについてきていた。
「どこまで昇ります?」
「敵が見つかるまでよ」
「生き物さえいませんよ。草も生えてないし……でも空気が美味しいな。はぁぁー」
両手を広げて前後させ、深呼吸していた。
「うーん……道筋が悪かったのかな」
言葉通り、山道には草一つ生えていない荒野そのものだ。岩、石、土しかない山道に住む魔物などいるのだろうかと、彼女も疑問に思う。これ以上、上に登るのは、降りる時間を考えると単純に面倒だった。
「別のところにしましょうか」
「どこですか?」
「あそこ」
「うわあー……綺麗な眺めだなぁ……あ、あそこに都市がありますよ!? あああ、水平線だぁ! 本当にあるんだ! ……なんて綺麗な世界なんだろう。あぁ! 遠くで何か飛んでますよ! あれドラゴンですか!?」
それなりに上まで昇ったので、確かに眺めはよかった。彼女は指さした方角を見てもらえず、拳を握って旅の相方を睨みつける。人間化した異形種は異様に興奮しており、景色一つで身を震わせられる彼が安上がりに感じた。
「空気が澄んでいるとあんなに遠くまで見えるなんて……綺麗だなぁ……本当に……ブル――」
「景色を眺めに来たわけじゃないんだけど?」
「あ、す、すみません。あまりに綺麗な景色だったので。えーと……あそこの集落みたいなところですか?」
「オークが住んでいるのよ。喧嘩を売りに行きましょ」
「ええ、そんな物騒な」
「ほら、早く!」
彼の手を引き摺って岩から岩へ飛び移りながら、山脈を急降下していく。彼の体重は軽く、強く引くと両足が空へ向いた。怖がって叫ぶ少年が面白く、調子に乗って飛び移る速度を早めていく。調子に乗り過ぎたらしく、一段と大きな岩から飛び移ろうとしたら
「うわああああああ!」
少年の絶叫がやまびこのように山脈を走り抜けた。
番外席次は山猫並みのしなやかさで体の位置を反転したが、彼は上手くできなかったようだ。頭から集落に並ぶ天幕へ突っ込んでいき、ガラガラと音を立てて倒壊させてしまった。
騒ぎを聞きつけたオークが集まり、番外席次の笑みが血に塗れる。相方の力試しという目的は蜃気楼のように揺らいでいた。
「人間、か?」
「こんにちは! みんな、悪いけど殺しちゃうね!」
オークは大爆笑に包まれた。突然に降ってきた人間の少女と少年は、天が与えたご褒美でしかない。その考えが失敗だったと、最前列にいた者の頭部が宙を舞ってから知る。
「あははは! オーク風情が舐めないでよね!」
「全員、武器を持てぇ! こいつらを殺せぇ!」
号令は戦闘が始まってからでは遅すぎる。ノワールが起き上がって体の怪我を確認しているあいだに、戦うオークの数は半分以下に減った。戦闘を遠巻きに見守るオークは大半が女子供だ。
「あははは! 弱い弱い弱いぃ!」
オークを絶滅させようと狂喜乱舞する番外席次に対し、黒い少年は岩に腰かけて呑気に眺めていた。オークたちは数多くの同胞が死に過ぎて、集団恐慌状態に陥る。いくら魔物とはいえ、涙を流して逃げ回る姿に同情心が湧き、ノワールは番外席次を止めようと立ちあがった。
「おーい、バンガイさーん! ちょっと落ち着いてください。もう彼らに戦う気力はありませんよ」
「いいのよ、どうせこいつら人間を食べるんだから! 先に殺しておいてもいいでしょ!」
「ちょっと話を聞きましょうってば。子供もいるのに可哀想ですよ」
「邪魔するなよ!」
飛び出てきた少年を武器で跳ね飛ばしたつもりだった。しかし、彼は依然としてそこに立つ。いつの間にか武器を掴まれ、拮抗状態が生み出されていた。番外席次が全力で力を入れているのに対し、彼は涼しい顔をしている。華奢な体のどこにそんな力があるのか、気を抜けば武器を奪われてしまいそうだ。
「くっ……ん……放せよ!」
「だめですよ。顔だって返り血で汚れてるじゃないですか」
戦闘中に身動きしなくなった両者に、未だ闘争本能が燃やす極めて少数派が襲い掛かった。
ノワールの後頭部めがけ、全力で叩き込まれた棍棒は、体を通過して地面を叩いた。
「あえ?」
とぼけた声を出すオークの前で、黒髪の浅黒い顔がゆっくりと振り向く。
「ほら、敵に襲われているわよ」
「……」
少年は番外席次の武器を放し、助けてやろうとしているのに邪魔された苛立ちでオークを睨んだ。
打ち出した拳は様子見で、軽く打ったつもりだった。決して強くなど打っていない。浅黒い拳は敵の体を貫通し、鮮血の飛沫と打ち抜かれた肉片を他のオークへ振りかけた。
「ぎゃあああ!」
犠牲者が放つ断末魔で、彼らの戦意は完全に消失した。
(ふーん。やっぱりプレイヤー……かなぁ……相手がオークだからよくわからないわね。やっぱり、私が戦うしかないか)
眉をひそめて小難しい顔をする番外席次の前方、少年は殺戮の童貞を捨て、複雑な顔で立ち尽くす。怯えたオークはその場に座り込み、彼らが気まぐれに助けてくれることを祈った。
手に付着した血を払い、少年は歩き出した。自分がある程度、強いことが分かり、それ以上に彼らを虐殺する必要はない。泣き叫んで母親に抱き着くオークの子を見て、瞬間的な苛立ちは収まっている。
「行きましょう、番外さん。彼らに興味はないので」
「あ、ちょっと待って。あなたたち、助けてあげるから人間から奪い取った金貨とか持ってないかしら。あれば許してあげるけど?」
「そうか……その手があったか……」
「生きる知恵よ。あんたたち、魔導国に刃向かったら次は皆殺しにするからね」
10分後、オークから巻き上げた金貨と財宝を小袋に詰め、黒い少年に纏わりつく番外席次の姿があった。
「ねえ、私と戦ってよ。手加減してあげるからさ」
「何でですか? 理由も無いのに喧嘩は嫌いですよ」
「プレイヤーのくせに臆病だね」
「プレイヤーってのが何のプレイヤーなのかは知りませんが、女の子は殴れませんよ」
なおも執拗に纏わりつく彼女の髪は、白と黒に別れている。不思議な彼女の容姿に、どうにかして自分の種族を言わず、彼女の種族を聞き出せないものかと思った。
(年齢だけでも知りたいな……)
「ねえ、聞いているの? あなた、本当はプレイヤーでしょ? 私と戦えばわかるわよ。対等に戦える相手はプレイヤーしかいないから」
「だから、女の子は殴れません」
少年は立ち止まり、頭を掻いて悩む。結局、なんらこの世界の情報を得ておらず、自分がどこの世界に迷い込んだか確証がない。
(困ったな……)
彼は嘘をついていた。
ここに来る前の記憶を辿れば、ログアウト後、翌日の仕事で使う調べものを済ませ、彼らがまだいるかと思い、最後にログインだけしようと思ったが、99%から先に進まなかった。隙をついて襲い掛かる人知を超えた眠気に耐え切れず、頭が前に落ちたところまでは覚えている。
ユグドラシルの異世界に飛ばされたのだろうと、しばらくの滞在で結論が出ている。
目が見えないことから自分の体がユグドラシルのアバターだと仮定していた。人間的視覚を得るアイテムは、他のアイテム共々、宝物殿へ収納している。何よりもわかりやすいのが自分の体を触るとドロドロしていた。食事も体内へ放り込んで、食べようと意識すれば勝手に溶けていく。変な海藻でも現実世界の食事よりは美味しかった。
ここまできて、もしかすると違うゲームの異世界なのかと疑念が湧く。
オークはユグドラシルでも弱かった。彼が一撃で倒せるのは適正だったが、倒してもデータクリスタルが出てこなかった。異世界に転移した前例がないので、それより探りようもない。
(ここは本当にユグドラシルかな……別のゲームの可能性もあるよね……どうやって調べればいいんだろう……カマかけてみるか)
「ハーフエルフのバンガイさん。その見た目からするに120歳くらいですか?」
纏わりついていた彼女の動きが止まった。いびつな形をした耳が、揺れた髪の隙間から覗いた。髪が白黒で分かれる彼女は、にやけた顔を真顔に変えた。
どうやら地雷を踏んだらしく、彼女の眉間に皺が寄っている。
「あ、ごめんなさい。触れられたくないよね。ところで、ユグドラシルって知ってる?」
慌てふためき、誤って別の地雷を踏んだ。彼は二発目の地雷に気付いていない。番外席次の笑みは血に塗れ、槍を握る手に力が籠る。
(決まり、こいつはプレイヤーだ。二人の仲間か、強さを確かめておこう)
(あれ、なんか様子が変だぞ)
彼女の怒りは収まったが、また新たに物騒な表情が張り付いている。これは闘争を旨とする戦争の犬、修羅を生きる殺戮者の顔。プレイヤーであれば、アインズとヤトの仲間である可能性が高く、実力も期待できる。
少年が悟るより早く、彼女は飛び掛かってきた。十文槍が頭部を掠め、斬られた黒髪が風に舞った。
「うわぁ……危なかったぁー……」
「ふふん、よく躱したね」
「やめてくださいよ! 僕が悪かったのは謝ります!」
少年の声は耳から入って耳から抜けていく。現実で喧嘩した経験はなく、しかも相手は可愛らしい少女だ。人間でないにせよ、自分に優しくしてくれた彼女の豹変についていけない。幾度も自分を切り裂こうとする十字槍を、体を捻って必死に躱した。
「わ、わああ!」
「ほらほらぁ! 反撃しないと死んじゃうよー?」
一見して番外席次が優勢、浅黒い少年が追い詰められて見える。事実、本人たちもそう思っていた。しかし、面白いように攻撃が紙一重で避けられる。時間が経つにつれ、体力の減った番外は優劣が逆転していることに気付く。
こちらの攻撃は少しも当たらず、彼のHPは満杯だ。仕掛ける度に、少年は槍を片手で受け流して、身軽な体捌きで距離を取る。仕掛けるに十分な隙があっても、絶対に反撃はしてこない。手加減されているようで気分を害された。
「ちょっと、真面目に戦ってよ!」
「ふざけるな! 理由も無いのに女の子を殴れないよ!」
「あ、そ……じゃあいいよ」
再び、横に払った槍は受け流される。そこを狙って掌から伸びていく怪光線は、少年の脇腹へ風穴を開けた。
瞬間、一人の少年だったそれは、得体の知れない化け物に変わる。
表情は落ち着いたままだが、体中から溢れる威圧感は大蛇や魔導王に匹敵するものだ。
(油断したら、
緊張の冷や汗が背中を伝い、口角が限界まで歪んだ。大蛇と交戦したときの痛みや苦痛が思い起こされる。殺す気でやらないと、実力を推し量る前に死ぬだろう。
「あははは! 来なさいよ!」
こちらへゆっくりと歩いてきていた彼が、刹那に消えた。危険を察知して背後へ飛んだ彼女の武器が掴まれ、先ほどと同様、武器を奪い合う拮抗状態が生まれた。
「あ、できた……」
何か言っていたが、接近戦なら望むところだ。相手が逃げようとしても、番外席次には飛び道具がある。
「食らえっ」
「君の負けだよ」
大地に鼻が付くほど姿勢を低くして光線を躱し、彼は大きく距離を取った。追撃しようと武器に力を籠めると、右手と左手の位置が逸れ、体のバランスが崩れる。
何事かと思い十字槍を見ると手と手の間、木製の柄が途中から消え失せていた。鼻を突く刺激臭と、チーズのように糸を引く木造の柄で、武器を溶かされたと知った。
やたらに短くなってしまった十字槍では、これ以上の戦闘継続は難しい。
「いたた……これ、放っておいて治るのかな……人間化って、難しいね」
焦げた脇腹を撫でて苦笑いをする彼に、戦闘終了したのだと知る。
「ちょっと、勝手に終わらせないでよ」
「これ以上、続けるなら逃げます。全力で走りますよ」
「ふざけ――」
「ふざけてるのはどっちだ!」
昼行燈のような浅黒い少年は、獣のように歯を剥いて怒っていた。
「話し相手ができたと思って嬉しかったのに、バトルマニアですか? そりゃ大いに結構、勝手にやって、勝手に死んでください。僕は海岸の岩場へ帰るんで」
「待ちなさいよ! 勝手に終わらせるなんて許さな――」
「もっと優しい人だと思ってたよ。とても気分が悪い。殺し合ってどっちか死んで、何が面白いんだ。せっかく殺伐とした世界から抜けたのに、今度はギスギスした戦いかよ」
「……?」
「死にたいなら一人で死ね!」
一方的に怒鳴りつけ、少年は背を向けた。
「……ごめん、人間化アイテムと食事、ありがとう。………さよなら」
黒衣を風になびかせて歩き出した。
短い時間の戦闘で互いに無傷であったが、彼女の武器は溶かされた。彼が前衛職の異形種で、しかもプレイヤーなのは間違いない。自分が本来の装備でないにせよ、互角以上の相手と戦えたのに、少しも喜びがなかった。
(どうして、ここまで怒られないといけないの……)
急激に萎えた気分を背負い込み、骸骨か大蛇に報告すべく、魔導国の王都を目指した。
◆
浅黒い少年は星の並びが綺麗な夜空を見上げ、悲しそうにつぶやいた。
「酷いこと、言っちゃったな……」
後ろから彼女が付いてこないか心配して、しばらく後ろを気にしていたがその気配はない。恐らく彼女の住んでいる「マドーコク」とやらへ帰ったのだろう。
あの時は、それでいいと思った。
人間化してどこを歩いてもおかしくない姿を与え、今では光り輝く星々もこんなに綺麗に見える。何の見返りもなく食べ物を持ってきてくれた彼女を怒鳴ってしまい、心から申し訳なく思った。とはいえ、自らの選択を後悔もしていない。
「だって……仕方ないんだよ。あのまま戦ったら………殺してみたくなりそうだったから」
まだ手に感触が残っている。
手の中で握られた汗が、感情の変化で酸に変わった。彼女の武器を溶かしたとき、体の奥から湧き上がる暗い悦び、えも言われぬ快感が体へ広がった。もっと溶かしてやりたいという欲求は、沈静化されたようにすぐ沈んだ。
だが、一度でも味を知ってしまえば、もう知る前には戻れない。
「最低だ……俺……」
彼が座っている岩礁は、溶かす実験台にされて穴だらけだった。
おかげで酸の強弱の手加減は体で覚えたが、欲求だけはどうしようもない。
一度、何かを思い切り溶かせばすっきりするだろうが、それにはこの体を解除しなければならない。せっかく人間的な視覚を得て、現実世界と同じ経口摂取できる体を手に入れたのに、おいそれと手放す気にはなれなかった。真っ暗闇で自分の周辺だけが分かる視界は、機能的では無い。
真の姿は不都合が多すぎた。
アイテムの入手経路も聞いていない。人間を家畜にする恐ろしい悪の国には、とてもじゃないが近寄る気にならない。番外席次が言っていた人間牧場を作る国が平和、情報の真偽を確かめなければならない。本当に平和であれば、彼女に会いに行って謝ればよい。
「寂しいなぁ……一人って……誰か知り合いはいないのかな」
洞穴で昼寝ばかりしていたときは、こんなにも孤独を痛感しなかった。下手に番外席次と騒ぎ回った影響で、一人の夜が異様に長く感じた。
明日は近くの村に行き、仕事を手伝いながら話を聞こうと予定を立てる。仰向けに寝ると岩礁の肌触りが悪く、空腹も手伝ってなかなか寝付けなかった。
「お腹空いたな……」
今さら海藻を食べる気にはならなかった。
彼は知らぬうちに厄介事へ巻き込まれていると、まだ知らない。
明日の風は明日にならないとわからないが、今の風はわかる。
沖から忌まわしくも不浄な風が吹いていた。
◆
会員制レストランは初めから満員御礼など望んでいない。ここはヤトが食べたいものと飲みたいものを置く用途で作られており、一般客の売り上げは副産物程度にしか期待されていない。
にもかかわらず、それなりに客は入っている。金貨1枚以下で飲み食いできるものはなく、全ての品が高価だった。みな、ここでしか手に入らないものを求め、人から人へ評判が広まり、客はそれなりに入っていた。
元漆黒聖典第一席次、現”八岐大蛇”の頭目、その少年が扉を開くと、彼女は一人で酒を飲んでいた。待ち合わせの相手はすぐに見つかり、彼は同卓へ腰かけた。
「……忙しいので、気軽に呼び出されても困りますよ」
久しぶりに王都へ戻った番外席次から、「金持ってこい」と呼び出されたのだ。金貨は持ってきたが、あくまでもこれは組織の金。裏組織の頭目でありながら、真面目さを維持している彼は自分の交遊費を経費で落とさない。
部下、同僚、仲間へ迷惑を掛けてはいけないと、自分に厳しかった。それでも、入れ上げている娼婦から「お金、貸して?」と言われたら、差し出してしまいそうな危うさも持ち合わせている。元八本指の幹部は、それだけが心配だった。
「うるさいなぁ、なに? 文句あんの?」
「魔導王陛下から、あなたはこちらの仕事を手伝わせるように指示が出ています」
「ちっ……」
ノワールに怒られてから、番外席次は王都へ帰った。「二度と行ってやらない!」と腹を立てながらも、時間は感情を変質させる。名状しがたい気分は胸の辺りへ停滞し、酒でも飲まなければ消化できない。時機が悪く、大蛇と魔導王は国外へ出かけていた。
彼女が絡み酒を飲む相手は、少年しかいなかった。格下の相手や自分を知っている相手では、萎縮してしまって話しどころではない。
「その酒、大蛇の酒ですか?」
「そうだよぉ? うふふ、これ凄いよね。すぐに酔えるからさぁ」
「……はぁ。どこに行っていたんですか? あの蛇に文句を言われてしまいましたよ」
「ごめんねぇ。確認したいことがあったからぁ。それでね、ちょっとあんたの意見を聞かせてよー」
どうやら既にできあがっているらしい。不在にした数日間で何があったか余すところなく、一切を包み隠さずに話してくれた。聞き終わった少年の思考は自然と結論へ行きつく。
「間違いありません。プレイヤーですね。魔導王と馬鹿蛇だけではなく、もう一人いたとは……よりによって彼らが王都を外しているときに」
「ねえ、私、間違ってるのかしら? どうしてよっ! 弱肉強食だから強い奴と死合いたいってだけなのよ。こっちだって色々とやってあげたのに、あんな言い方しなくてもいいじゃない!」
「しかし、異形種ということは、彼らと生き別れた仲間なのでしょうか。蛇は内心で、本当はいないと思っています。彼が私の予想を更に上回る馬鹿で、何らかの見落としがあったのでしょうか」
「私が悪いの!? だって、あの食料だって、すごく高いんだよ? あんな風に、言わなくてもいぃぃじゃないぃぃ!」
「次は私が行きましょう。あなたは闘争の熱気に逆らえない、少し休んでください。聖王国との国境付近の漁村でしたね。あの村は我々が白蛆を討伐した場所からそう離れていませんが」
「あの野郎ぉぉぉ、次、会ったらぶん殴ってやる。あああ! 思い出したら腹が立ってきたわ! 一発、食らわせてやらないと気が済まないわよ!」
一度たりとも噛み合うことなく、歯ぎしりをする少女と、腕を組んで思い悩む少年は、別々の結論を弾き出す。二人のレベル100現地勢力は、何かに引き寄せられるかのように動き出した。
武器を溶かされた番外席次はおもむろに立ち上がる。酒の勢いも手伝って、代替品として少年の大剣を掴んだ。
「あ、待ってください!」
「こんちくしょおおおおおお! 待ってろよ、ノワール!」
彼女は飛び蹴りをして扉を開き、酒瓶と大剣を持って走り去っていく。止めようと差し出した手は距離が開いたので諦め、空中で寂しく制止した。
「……私の……剣が」
料理人が宴も
「お会計はこちらです」
「……」
「どうなさいました?」
「くっ……こんなに高い酒だったとは。私は何も口にしていないというのに」
番外席次が飲んでいたヤト専用のエストニアは、相場の十倍で販売されている。酒の肴と合わせ、想定外の金額だった。隊長は財布の中身を消し飛ばされ、足りない分は組織の付けにされた。勢いで相場を吊り上げた大蛇への恨みが、新たに一枚だけ積み重なった。
報復の機会は永遠に訪れない。
◆
大蛇は苦悩する。
逃げるか、戦うか、選択肢は二つに一つだが、そこに至る過程は無数に存在する。結論を先延ばしにして日和見する時間はない。黄色くて意思を持ったイベントアイテムが教えてくれた世界の破滅、新月の夜まであと10日。その前に、黄色いマントの寄生型アバター、プレイヤーからすれば
別れの挨拶に時間は取れない。
すぐにでも旅立ちたいが、大蛇には確認しなければならない案件がある。
話を理解するのに時間を要し、時刻は既に夜。
邸宅の扉を開いて奥へ進むと、レイナースが顔を覗かせた。
「おかえり。旅は終わったのか?」
「いや……ちょっと野暮用で帰っただけだ。すぐに出る」
「そう……ラキュースはもう寝ている。起こさないで」
「顔だけ見たらすぐに行くよ」
「わかった。食事は? 食べるなら用意するけど」
「いらない」
寝室に入ると、ラキュースは既に眠っていた。夜はシャドウ・デーモンに見張りをさせ、セバスは邸宅へ帰っているようだ。音を立てず、彼女の布団をそっと捲る。
(スキル《ピット器官》)
視界の片隅に熱画像処理された画面が加わり、ラキュースの赤い人型が見える。目的はその腹部、特別に温かいその箇所に、小さく、とても温かいものがあった。強く押さないよう細心の注意を払って優しく触れると、あり得ないと知りながら鼓動が伝わってくる。
黄色い道具が見せた悪夢は、全てが虚ではなかった。
(俺の、子供……)
確認を終えたらすぐに去ろうと思っていたが、彼女の腹部から手が離せなかった。
まだ形にもなっていない生命の胎動は、正妻の胎内で確実に息づいている。
自由行動するアイテムとの邂逅にて、最悪のタイミングで最高の情報を知った。当然、ヤトは自分の家族を守るために自らを犠牲にする。世界の平和を守るには自分が永遠に消え去るしかない。
現地勢力を見捨てて逃げることもできるが、自分がこの世界のどこかへ存在する限り、破壊の自然現象はいずれ再び顕現する。
鱗のついた手がラキュースの頬を撫でた。
(ごめん……)
胸を張り裂こうとする感情が溢れても、蛇の瞳は涙を流さない。存在しただけでこの世界を危機に貶めた自分にできるのは、最後の戦いで命を懸けるしかない。
人知れず出発しようと、玄関の扉を開いた背中にレイナースの声が掛けられ、反射的に動きが止まった。
「次は、いつ帰って来る?」
「……さあ。何しろ、世界は広いからな」
「待っている。早く帰って来るように。できればいつ帰って来るかわかったら連絡がほしい」
「……あぁ」
「いってらっしゃい」
振り向けなかった。
本当は行きたくないと叫び、ここで生きたいと彼女を抱きしめたかったが、それをしてしまえば二度と家から出られないだろう。口からはいつも通り、素っ気なくいい加減な台詞しか出てこない。
「んじゃ、行ってくる」
「気を付けてね」
笑顔で見送ってくれているであろう彼女の声を背中に受け、静かに邸宅を出た。
目的地はカッツェ平野の霧の中。自分の幸せを投げ捨て、幸せにしてくれそうもない選択肢と知りながら、自分以外の全てが幸せになる選択をした大蛇の目的地。人生でたった一度だけ選べる死に場所だ。
運命の打開策はないが、妥協案はあった。唯一の希望ともいえる、大蛇が遺せる未来。その部分の記憶だけが、寸分狂わずに記憶領域内で再生される。
《私を装備してアバターを改造すれば、使用後、代償にお前は全てを失う。アイテム、素材、金貨、経験値、アバター、記憶、未来、いわゆる垢BANだ。それでも足りなければ他人が持つお前の記憶、お前が救った者の命、果てはお前の妻でさえも代償に消費される》
「なあ……クリアしたらなんかあんのか? さっきの副王ってなんだよ」
《副王の力は次元の構築。外なる宇宙に坐すあの方は、世界の原則が通用しない。作られたNPCでありながら神を越えしもの。魔法的常識で成り立つこの世界と、科学的常識で成り立つ現実世界へ穴をあけて通路を通し、次元を超えた接続が可能。魂さえ現実世界から引き抜いてしまえば、破棄されたアバターを作成し、そこへ籠められる》
複数の邪神、あるいは自分が
しかし、彼の話を聞いた今となっては、自分の決断に後悔はない。
世界から不要とされた自分がアインズへ託せる、我が子と未来の希望。
回想から復帰すると、王都の神殿前にいた。祈りを捧げる教会にはまだ明かりがついている。前を通りかかると、オルガンに乗せてアインズを称える子供たちの讃美歌が聞こえてくる。
世界に不要とされた自分に、讃美歌は
大蛇は全力で走りだした。
絶望と悲哀の慟哭を、誰にも聞かれないように。
「――――!」
言葉として形を保っていない、純粋な咆哮、破壊された心の欠片の射出。
絶叫する慟哭の風は、王都を突き抜け、草原の草を一方向へ引き、エ・ランテルとカルネAOGの境を横断し、一直線にカッツェ平野を目指す。
この日を境に、蛇神ヤトノカミは魔導国から消えた。