モモンガさん、世界征服しないってよ   作:用具 操十雄

110 / 135
この話のみオリキャラ率高いです

※※※警告※※※

一部、食事中には読めません


旧支配者編
デバッグモード


 

 

 闇が支配する長い回廊、突き当りには薄明りに照らされた上階へ伸びる暗くて長い階段がある。

 

 最上段まで上ると大きな鉄の扉が待っている。

 

 耳を澄ませば、扉の向こうのおぞましい何かが、尖った爪で内側から引っ掻く音がする。

 

 実体化した恐怖そのものだと本能が警告する。

 

 常人は階段を上るにつれて足が震え、恐怖に耐え切れなくなって引き返していく。

 

 キングは扉の前で立ち尽くし、とうとう開けることができなかった。

 

 ラヴクラフトなら開けただろう

 

 

       ―――もっとも、隙間程度だが

 

 

 

 

 

 

 両の親指で気管を潰すと、女は口を動かしたが声は出ていない。指が緩み、空気を渇望している彼女の全身が微かな酸素を得る。吸気は破れかけた大きなマカロニみたいな気管を笛に変え、甲高い縦笛に似た音を出す。

 

 更に力を籠めると、女の体から力が抜けた。己が悪行に呆然とすれば、悪意に満ちた女の高笑い。

 

《堕落は世の常、味わいたるは虚無なりし悦楽。()くて憎悪は産み落とされ、汝、悪に堕ちるべし》

 

 声がしたので見上げるも、そこには何もいない。

 幾重にも重なった女の哄笑が、自分の周囲に轟いた。

 

 無視して、自らの手を眺めた。

 

 一切の殺意、憎悪、敵意、害意もなく、彼女を殺めてしまった自らの手を眺めていた。

 

 両手が鮮やかな血に染まって見えた。霞がかかったようなぼやけた意識の中、許されない自分を誰が殺してくれるのだろうかと思った。

 

 

 ―――場面は暗転し、視界は観測者へ戻る。

 

 

 遠視するだけに使い潰した依り代を捨て、黄色い外套(ローブ)をなびかせながら宙に舞った。自分がここにいる理由はわかっている。

 

 失敗した。

 

 仲間ともども次元の狭間へ封じ込め、世界から永遠に消え去ろうと企てた。世界の破滅に興味はないが、彼女を止めるのは自分に科せられた役、たったその程度の命題を与えられし道具。自らの渇望は、彼女と永遠の虚無を過ごすこと。彼は自分がそう創られていると知っている。

 

 策が成就する直前、奇妙な木乃伊(ミイラ)の手に阻まれた。

 

 強く押し戻された彼は時空乱流に弾かれ、小高い丘で倒れていた。阻害したのは格下の分不相応な力だったが、こちらの力を行使していないので押し戻されるのは何らおかしくはない。

 

 のろのろと起き上がりながら白仮面を嵌め直し、魔導国の王都を目指す。このイベントをクリアするに重要な鍵、銀の門の召喚者に遭わなければならない。既に彼女は幻魔境(ドリームランド)から彼を捕捉し、自らを世界へ産み落している。

 

 幻魔境(ドリームランド)は魔力の渦の中に存在している。魔法を使えば彼女に気付かれてしまう。自分にできる限界の速度で、王都へ向かって宙を漂った。

 

 

Stars brightly burning, boiling and churning(星々は天を焦がし)

 

 

 今は何の力も持たない、この世界に来ることさえ叶わなかった、敬愛する旧支配者たち。

 

 彼らを思い出し、キャロル(聖歌)を口ずさみながら黄衣は風に舞う。

 

 

Bode a returning season of doom(終焉の時、来たる)

 

 

 

 

《クトゥルフイベント、始まったよー》

 

「うわぁあ!」

 

 誰かの声で飛び起きると、聖王国の首都郊外の宿屋だった。窓の桟にたむろっていた雀が、ヤトの大声で飛び去っていく。漆黒の全身鎧に身を包んだアインズは、寝惚けて飛び起きた相方に首を振りながらため息を吐いた。

 

「やれやれ……目覚めはどうだ?」

「……なんか、嫌な夢を見ましたわ」

「それは気楽でいいな」

 

 聖王国に滞在して5日目、それなりの情報を得たので冒険者登録に行く予定だった。

 

 しかし、それは3日前の予定である。

 

 アインズに入った緊急連絡によれば、カルネAOGで何かが起きたらしい。

 

 状況確認に冒険者を差し向け、今日の午後、王都のレストランで報告を受ける算段がついている。その程度のことで帰還を余儀なくされるのもどうかと思ったが、万が一、プレイヤーが来たという可能性を考慮した。

 

「聖王国で遊びたかったのに」

「そう言うな。まだまだ時間はある。プレイヤーなのか確認を終えて、また戻ってくればいい」

「聖王国の冒険者組合を見る限り、ここにプレイヤーはいないでしょうからねぇ。まあ、急がなくてもいいですが」

「そう……なんだよなぁ……」

「はいはい、残念な顔をしないように。まだまだ領内の村とかも確認しないといけませんよ。人間国家は他にもありますし。とりあえず帰りましょうか」

「ああ……そうだな」

 

 肩を落としたアインズの背中を押し、ヤトも転移ゲートへ飲まれた。御付きのソリュシャンとナーベは、宿の支払いを終えてからナザリックへ帰還した。

 

 

 アインズは執務室で簡単な政務の確認を行い、連れ立ってレストランへ向かった。

 

 扉を開くと、先客が待っていた。

 

「君たちか……騒々しいのが来てしまったな」

「なんだよ、虹色かよ。この暇人」

 

 眼鏡の少年は紅茶と茶菓子を前に、優雅なティータイムを満喫している。アインズたちが同卓へ腰かけても、彼の手にある本が閉じられることはなかった。

 

「七彩の竜王よ。この店は高いが、払いは大丈夫なのか?」

「私は空いている時間に休憩をしているに過ぎない。心もとない手持ち金貨だが、暴飲暴食しなければ十分に楽しめる。君たちの拠点の紅茶は素晴らしく、香りだけでも楽しめる」

「女王はどうしたのだ」

「彼女は国へ帰した。いつまでもここで蛇に抱かれるのを待っていられるほど、竜王国の女王が暇では困る」

「そりゃ正解だな。俺も助かる」

「身内贔屓するようで気が引けるが、悠久を生き永らえるなら彼女を孕ませる選択肢も検討したまえ。彼女の寿命は人間のそれよりも長く、君たちとより長く付き合えよう。問題は、私と君が親戚筋になってしまうことだが」

「それは勘弁してくれ……」

 

 冒険者が来るまでの暇潰しと、しばしの歓談に興じた。

 

「七彩、たまには体を動かしてはどうだ。冒険者でもやれば収入が安定するだろう」

「私はプレイヤーである君たちにこそ劣るが、人間と比較にならない身体構造をしている。アダマンタイトまで上り詰めるのにさほどの時間を要さないだろう。これは持論なのだが、冒険者とは人間の職務だと考えている。魔導国が人間国家ならば、人間が尽力すべきだ」

「高飛車だなぁ」

「ヤト、今日は家に帰るのか?」

「ええ、まあ。たまには顔を見に帰らないと」

「そうか、あまりラキュースに負担を懸けるなよ?」

「わかってますよー」

「ふむ……」

 

 虹色はアインズの含みがある物言いに、髑髏の眼窩を凝視していた。気付かれたかと、内心で冷や汗が出る。当然ながら、伴侶のヤトは気付かずに虹色の茶菓子を盗み食いしていた。助け船は扉を開いた中位冒険者だ。慌ただしく入店し、アインズの前へ跪いた。

 

「魔導王陛下! 勅命の依頼、こなしてまいりました!」

「ご、ご苦労……」

 

 「助かった……」とアインズが心中で呟けば、虹色はそれを見越したように口角を歪めた。彼は人の心も読めるのだろうかと、アインズは警戒心を抱く。

 

「こちら、カルネ村……カルネAOGで起きた騒動の報告書です」

「後で目を通しておこう。報酬は組合から受け取るといい。また何かあったら頼む」

「は、はい! 光栄です!」

 

 王への忠誠も十分に、彼らは足早に退室していく。三人だけになった店内で、ヤトの騒々しい声が厨房へ放り込まれた。

 

「おーい、オーダー、納豆キムチとろろオクラくさや丼ご飯特盛、酒はフレイミングショットで」

「ヤト、それは止せ。食堂を火事にしただろう。頼んだ食事も臭くて周りに迷惑だ。猛抗議の文書が王宮に上がってきている」

「いいじゃないスか、収穫無しのやけ酒っぽくて! 飲まなきゃやってられんぜい」

「お前が良くても店は良くない。ここは会員制だ、選ばれた者だけの。お前が作らせたのだ。変なものを食うな、変な飲み方するな」

 

 アインズの文句も堂に入っていた。ヤトは異臭料理を断念し、いつもの酒とチョコレートに取って代わる。不満そうにチョコレートをバリバリと齧るヤトに、アインズは安堵の溜め息、虹色は馬鹿を見た溜め息を吐いた。

 

「魔導王、好奇心で聞くのだが、人間の本名はなんというのかね」

「私の本名は、スズキサトルだ。今のアインズという名は、プレイヤーで成り立つギルドの名だ。誰かが転移したらここに仲間がいるという目印になる」

「旗もモモンガさんのですもんね」

「お前が勝手に変えたんだよ。王宮の上空から眺めて気付いたが、一面、髑髏の旗だったぞ」

「スズキ・サトルか。この世界では珍しい名前だ」

 

 ふと、ヤトの名前が思い出せず、髑髏は蛇の化身へ向いた。

 

「ヤト、人間だったときの名前、何だったかな」

「え? サトルでしょ?」

「それは私のだ。そうではなくて、お前の名前だ」

「うーん……あんまり思い出したくないんですけど。もうヤトって呼ばれるのに慣れちゃいましたし」

「昔話も親交を深めるのに重要だぞ」

「仕方が無いなぁ。俺の名前は……」

 

 会話の空白、彼は口を開いたまましばらく止まった。

 

「マジ………マジ…………マジすか」

「……何を言っているのだ、お前は」

「名前がぁ……思い出せねー……」

 

 「マジ」の後につく言葉を思いつく限り繋げ、繰り言をする。どれほど繰り返そうとも、遂に自分の名前を思い出すことができなかった。ヤトの首はへし折れそうなほどに傾げられた。

 

「おい、ふざけるな。ラキュースの中二病でも移ったのか? たかだか150日ちょっとで本名を忘れるほど、お前の知能は低くないだろう」

「……わからない。記憶がない。俺は、誰だ?」

「記憶がない?」

「俺、自分の顔、母親の顔さえ、思い出せない……」

 

 黙って聞いていた虹色はヤトを凝視した。虹色少年の表情はいつになく真剣で、両眼に戸惑う黒髪黒目の男を映していた。

 

「蛇神よ、最近の話だが、私も記憶を奪われた経験がある」

 

 二人の顔と関心は彼に向く。

 

「君がビーストマンの駐屯地を立ち、竜王国民を集めて演説を行うまで、時間にして丸一日分の記憶が切り取られていた。記憶を食う魔物、あるいは行動を制限する魔物に心当たりはないかね」

「……そんなのいたっけ、アインズさん」

「記憶にないな。私が使う魔法と同じ魔法を使えるものがいれば可能だが」

「たとえば……」

「プレイヤー」

 

 虹色の一言で、わかりにくいアインズの顔色がサァーッと変わった。

 

「急ぎ、周辺に調査させる魔物を放つ。何か発見したらすぐに情報を寄越させる。ヤト、いつでも飛び出せる準備を。聖王国の再訪は無期延期だ」

「はぁ……」

「ヤト?」

 

 彼の表情は浮かない。

 

 それから、ヤトは何を話しかけても上の空であった。いつもなら下らない茶々や馬鹿話を差し込むような場所で、彼は上を見上げて呆けていた。開いた口が閉じられる気配もなく、認知症でも発症したようであった。

 

「お前は疲れているんだよ。今日は帰って眠るといい」

「あー……はい。帰ります」

「ラキュースによろしくな」

「……はーい」

 

 ヤトは体を左右にゆらし、ふらふらと店を出ていった。

 

 「パタン」と小さな音がして、虹色は読んでいた本を閉じた。眼鏡を外して足を組み、真顔でアインズを正面から見据えた。

 

「魔導王、迷ったのだが……やはり君は彼について理解を深めるべきだ。私とラナー王女しか知らない仮説だが、聞くには相応の覚悟がいる。君は無慈悲な真実を受け容れる覚悟はあるかね」

 

 アインズは答えない。

 

「仮説ではあるが、君と彼の関係性に亀裂を入れかねない内容だ。あるいは、不快に感じた君に私が殺される可能性もある。どれほど残酷であろうと、現実を受け入れる覚悟が君にあるか?」

「あいつのことなのだろう? 前々から意見は聞きたいと思っていたよ。率直に感じたことを教えてほしい」

「結構」

 

 アインズの眼窩へ赤い光点が宿った。虹色は本を卓へ置き、両肘をついて身を乗り出す。

 書物以外に興味を示さない彼が、ここまで積極的になるのは珍しい。

 

「何ら確証のない意見という前提で聞いてもらいたい。彼は蛇神へ受肉する前、既に死んでいるのではないのか。彼の心は種族に引き摺られていると言い難い。行動理念が脆弱で、感情があまりに歪だ」

「そ……それならば私も同様だろう。人間の残滓とオーバーロードのせめぎ合いを感じることがある。何よりも、この体は正真正銘のアンデッドだ」

「否、君と彼は似て非なるものだ。そう……たとえば、手の骨が全て砕けたとする。骨の欠片を繋ぎ合わせて再編成し、見た目だけ取り繕ったとしても、それは以前と同じものではない。一切の耐久力なき、形だけの存在だ。何かを殴打すれば、即座に骨は砕け散る」

 

 少年は拳を握り、ふらふらと揺らした。

 

「私が思うに、君がいうところの人間の残滓だが、スズキ・サトルの性格を薄めているに過ぎない。敵対者へ容赦がないのは人間も同様。アンデッドの証明にはほど遠い。価値基準が人間をベースにしている点から見ても、君は人間らしさが薄くなっただけなのだよ、スズキ・サトル」

「ちょっと、待て……」

 

 アインズは立ちあがる。何をしようと思ったのか自分でもわからず、そのまま静止した。虹色の仮説は最後まで続けられる。

 

「対して蛇の心は、作為的に破壊されている。砕け散った心の欠片を寄せ集め、何らかの理由で再構成され、体裁を保っているだけに過ぎない。君が人間の残滓ならば、彼は人間の残骸だ。常に惑い、悩み、自信が持てず、もっとも確かな感情、敵対者への殺意にのみ引き摺られる。あるいは、人間化できる故の弊害かもしれぬ」

「誰かが……あいつを壊した、と」

 

 アインズの中にやりきれない憤りが噴き上がった。

 

「最上位者だ」

「神………いや、神など存在しない」

「やはり、君も無神論者だったな。神がいないにせよ、それに近しいものがいるだろう。ユグドラシルの原則に則っていると仮定すれば、現地生物(モブキャラ)の上位種を競技者(プレイヤー)として、その上位者は」

「そんな、馬鹿なことが……」

旧世界(ユグドラシル)製作者(プログラマー)だ」

 

 一瞬、アインズは目の前が深い闇に覆われた気分になった。世界を創造する力を持った者に破壊されたヤトの心。如何なる手段を用いても今のヤトは、かつてゲームを楽しんだ彼ではない。再構成された出来損ないのジグソーパズル、歪められた異形種。二度と異世界転移前の彼は帰ってこないだろう。

 

 しかし、だから何だというのだ。

 

「あの馬鹿は、私の仲間だ」

「魔導王、君の馬鹿げた支配力、統率力、剛運を前に、彼の歪みは目立っていないだけだ。君の運命は全てを丸く収めてしまう。だが、限界まで伸ばしきった撥条(ばね)の反動は想像を絶する。見栄えだけ再構成された彼の精神は、そう遠くない未来、必ず限界を迎えるだろう。以前にも話したと思うが、この世界が破滅に向かっているのなら必ずその兆候は表れる。彼の記憶が失われつつあるのは、一つの兆候かもしれん。あるいは、そちらの報告書に兆しがあるのではないかね」

 

 アインズは椅子に腰かけて深呼吸をした。精神の沈静化を待って、報告書の1ページ目を開く。

 

 雑な文字でそこにはこう書いてあった。

 

 

《カルネAOG、リィジー・バレアレ殺害事件に関する報告書》

 

 

 

 

 

 聡明な虹色も完璧ではなく、一つの過ちを犯した。

 

 動揺するヤトを単身で帰してしまった。

 

 運命とは人が望む、望まないにかかわらず、僅かな隙さえ逃してくれない。

 

 

 黄昏がうつりゆく、逢魔が刻。夕刻の色を残す石畳の辻、周囲に人影はない。徹底した人払いが成されているかのように、静まり返っていた。

 

 大蛇は大鎌を構え、絶望のオーラで得体の知れない敵を威嚇する。

 

 その眼前、黄色い外套(ローブ)を纏った白仮面が立っていた。微風で外套(ローブ)が揺れ、大蛇の全身に怖気が走る。黄衣の彼は首を左右に揺らし、不気味な声で喋った。

 

《許されざる我らが眷属にして、世界の創造神、混沌なる美神が創造せし三邪神が一柱、執着と報復の蛇神イグ》

 

 気味の悪い声だった。老若男女、それも2人や3人で収まる人数ではない。年齢も性別もバラバラな大勢の口が一斉に話しているような、精神が汚染される薄気味悪い声だった。

 

 外套(ローブ)の片方が舞い上がり、反射的に斬りかかった。

 

(こいつは、この世界にいてはならないものだ)

 

 本能がそう警告している。背筋に感じる怖気(おぞけ)は、相手がプレイヤーという生温いものではないと教えた。

 

 紙一重で大鎌を避け、黄色い外套(ローブ)が舞い上がり、空中で静止してこちらを見下ろした。風もないのに黄色い外套(ローブ)がはためき、その下にあるおぞましい何かの正体を垣間見せる。

 

 飛び上がっても届きそうにないが、ヤトは構えを解くことができない。気を抜いた瞬間、殺されてもなんらおかしくはない。こちらの殺意を意に介さず、敵は話し続けている。

 

《憎悪に砕かれし、あはれな心、風に舞って追い求めるも幾星霜》

 

《我、汝の心を察し、世を掻き乱す闇現(やみうつつ)の惨事を避けむと、次元の狭間へ帰るとしたりき。我が願い、猿の手に断ち切られたり》

 

《再び、(うつつ)(まろ)()でし我に(あた)ふは、共闘のみなりけり》

 

《汝、救世の力を欲すれば、黄衣纏いし真月の夜》

 

《あまねく世界を覆う、邪気帯びし憎悪と破壊の竜巻、汝の犠牲を以って、我ら世界の穢れを無に帰す黄金の風となり、絶対の破滅と戦わん》

 

《さするに汝らの悲願、謁見せし副王に叶へられむ》

 

「……」

 

《……》

 

「何て言った?」

 

《汝、重ねてねんごろに聞くことと所望――》

 

「普通に話せよ! 俺にもわかるように!」

 

 カチリ、とスイッチが入ったような音がした。

 

 途端、外套(ローブ)の中で何かが蠢き、ヤトは思わず退く。あちこちで隆起する黄衣、あの形で動かそうと思えば、腕が最低でも4本は必要だ。大きな隆起以外にも、小さな隆起がそこかしこに見られ、彼の正体が触手を大量に生やした化け物で思い浮かぶ。

 

《あ“ー……え”ー……あああ、えええ、は、わーたーしーはー………》

 

 取り留めのない言葉を放った後、彼の頭がカクンと前に倒れた。

 

 外套(ローブ)で少しだけずれた仮面を正し、再びヤトを見下ろした。仮面のせいだけではなく、彼の素肌が露出している箇所はない。白仮面に彫刻された切れ長の目の奥で、こちらを凝視しているのがわかる。実はローブの下が空洞だったと言われても、納得できるだけの恐ろしさを持ち合わせていた。

 

《私は風神(ハスター)の黄衣。世界の創造神より作られし一柱》

 

 声は相変わらずおぞましさを持ち、ヤトは耳を塞ぎたい衝動にかられた。今は両手を話して武器を離すほうが恐ろしい。

 

「俺はお前なんか知らねえし用はねえ。消え失せろ、魔導国の領内から」

 

《私は、君たちがいうところのNPCにして神のアバター。世界の裏側へ封印された道具》

 

「NPCでアバター……? だからさぁ……もっとわかりやすく話せよ! 何なんだよ、お前は! ああ、見ているだけで鳥肌が立つ。気持ち悪い!」

 

 存在が蛇の理解を超え、恐怖は心を苛んでいる。大蛇は片手で体を掻き毟る。爪が鱗を剥し、血が流れても恐れは変わらない。鱗が剥がされ、赤い肉が露わになり、出血が始まっても搔き毟るのを止められない。手は自分の血で赤く染まり、それを伝って石畳に赤い斑点を描いた。

 

《ハスター様より命題を賜り、世界の裏へ封印されしもの。プレイヤーは解析しなければ存在を把握できない》

 

「だから! つまり!? 何なんだよ、お前!」

 

「デバッグの消し忘れだよ、ボケ」

 

 彼の声は一つになり、口調もヤトに合わせて粗野なものになった。やや低音の男性の声で、彼は話を続ける。

 

「ユグドラシル。その創造神(プログラマー)である四柱が作られた自分専用アバター。テストプレイで利用されたが、また使う機会を見越してデバッグ、この世界では次元の狭間ともいえるべき場所へ封印された」

「プログラマー専用アバター……」

「私に与えられた権限は、アバターの調整、改造。私は実体を持たず、他者を依り代として力を行使し、終わったら使い捨てる。ここまでは理解できたか?」

 

 大蛇は頷くのがやっとだった。

 

 この世界がゲームルールの延長に存在するとすれば、プログラマーとは神といって差し支えない。彼らと敵対するということは、世界の創造主(プログラマー)と敵対するということ。いわゆる何でも有りの《俺ルール》で戦う相手と、こちらは多種多様な制約付きで殴り合わなければならない。

 

 どれほど無謀か、思考速度の遅いヤトをもってしても考慮の余地はない。選択なされる結末は死、過程は絶望一択。

 

「ユグドラシルの無数にある小技。貴様のアバターでミズガルズの北北東、暗闇荒野の暗黒神殿、邪神像の裏側を叩くと女神のメッセージが聞ける。《魔王を召喚しろ》、と。転移後の世界は魔法的常識で成り立っている。細かい設定が実現化されると、貴様らのNPCを見ていればわかるだろう」

「お前の目的は……」

 

 黄衣が蠢いて白い手袋をした手が生え、二本の指を立てた。

 

「一つ、イベントのクリア。二つ、私たちを永遠に封印する」

 

 手はすぐに引っ込んでいく。

 

「……イベント?」

「ドリームランドにいる女神、膨れ女の目的は只一つ、世界を滅亡に導く破壊という名の自然現象、狂った魔王の召喚」

「俺が協力しなかったら?」

「世界は滅びる。君への憎悪を源泉として召喚された魔王は、君の友人、妻、希望を優先的に壊す」

「……おもしれえ。やれるもんならやってみろよ!」

「そうか、やってみよう」

 

 刹那、大蛇は速度を上げて飛び掛かったが、白仮面が外される方が早い。飛び掛かった体勢で宙を舞っている大蛇の意識は、素顔の奥へ吸い込まれていった。

 

 

 

★★★★★最悪

 

 

「うあああ!」

 

 酷く嫌な夢を見て俺が体を起こすと、変わらぬ自宅のベッドにいた。隣で寝ているはずのラキュースはいない。寝ていた場所を触るとまだ温かく、起きてさほどの時間は経ってないようだ。今日も家の湿度が高く、あまり良い目覚めとは思えない。寝ているときに引っ掻いたのか、腰のあたりに該当する鱗が剝げ落ち、シーツに血が滲んでいた。

 

 大欠伸をして立ち上がり、頭をくしゃくしゃにしながらリビングへ移動した。

 

 レイナースが作る朝食の匂いがする。

 

 人肉の焼ける匂いが香ばしく、俺の食欲を刺激した。

 

「あら、あなた。おはよう」

「ああ、おはよう、ラキ。あとレイナ」

「おはよう。幼児と女性、どっちがいい?」

「女性でいいや。脂っこいから腕だけにしてくれ。あんまり腹が減ってないから、無理に食うと胃もたれしそうだ」

「はーい」

「昨日の夜、鮮血酒を飲み過ぎたのよ。まったく、深夜までうるさいんだから」

「両脚羊はその場で絞めないと美味くないんだよなぁ……」

「これからは外でやってちょうだい」

 

 ラキュースの頭に咲いたラフレシアは感情で動き始める。噴水のように鮮血を噴き上げ、今日も体を赤く汚していた。しばらく眺めていると、ブチュッブチュッと放屁のような音が鳴り、何かの臓器らしきものが飛び出し、俺の前に並べられているスープへ落下した。

 

「……汚いなぁ」

「あ、あらら、ごめんなさい、あなた」

 

 這いつくばってきたレイナースに皿を渡し、新しいものに替えてもらう。

 

 今日も彼女は蛞蝓のように黄色い膿汁の足跡を付け、室内を体液の臭いで満たした。

 膿を垂れ流す肉の塊に手だけ生やした彼女は、黄色と肌色の肉塊から噴水のように膿を吹き出している。おかげで家の中は黄色と赤のコントラストからいつまでも脱却できない。

 

 室内の湿度もとにかく高く、爽快な寝起きなどどれほど味わっていないのだろうか。

 

 人間の姿で眠ると、朝起きて顔の皮がなくなっていることがある。湿度で書き毟ったのか、ラキュースの噴水が夜になると酸性を帯びるのかは不明だ。こと眠りに関しては、野宿した方がマシだ。

 

「ヤト、昨日、カルネAOGの都市長から食べごろだからどうぞ、と差し入れが届いたが、食べるか?」

「へえ、そりゃ珍しいな。もう煮えてるのか?」

「うん、朝からことこと煮ていたから、脳内は煮えていると思う」

「ありがとう、レイナ。頭蓋を切り開いて、砂糖をまぶして持ってきて」

「はーい」

 

 俺がネムの脳みそに舌鼓を打っていると、玄関の呼び鈴が「テケリ・リ」と来訪者を告げた。

 出迎えるまでもなく珍客は入ってくる。

 

 確認しなくても、軽い足音で誰かわかる。

 

「おっはよー!」

「んだよ、バンガイかよ」

「なんだはないでしょ。レイナちゃん、朝ごはん食べさせてー」

「はーい」

 

 レイナースは見た目の数百倍も可愛らしい声で返事をした。番外席次は顔の中心部をパカッと開き、顔面を縦に走る裂傷のような口で、レイナースのご飯を食べ始めた。せめて許可を得てから食べてもらいたい。

 

「お前、レイナの分を食うなよ」

「いいじゃない、別に。ちゃんと食費は渡してるわよ」

「……そうなのか?」

 

 ラキュースをみると鮮血の噴水が止まらないらしく、必死で頭の花を押さえていた。

 

「金貨はもらっている」

 

 新しい皿を持ってきた黄色い肉塊が答えた。結婚してしばらく経つが、未だに彼女の口がどこにあるのか分からない。声はどこから発せられているんだ。彼女を見ていると、解剖してみたい欲求に駆られるから困る。

 

「……それにしても、夫婦の時間を邪魔するのはだな」

「私も候補だもん」

「うるせえ、クソガキ」

「あんたより年上よ、馬鹿!」

「はいはい、二人ともそこまで」

 

 ラキュースは両手を叩いて喧嘩の機先を制した。

 花を押さえていた手を放したので、鮮血の噴水が噴き上がり、飛沫は俺の体に降りかかった。

 

「だから、花から血の噴水が出てるってばよ……」

「後で体を拭いてあげるわよ。それより、大事な話があるの」

「何だよ」

「あ、もう話すんだ?」

「早い方がいいと思って」

 

 番外席次は何か知っているようだ。

 自分の食事を持った肉塊(レイナース)が台所から現れた。

 

「心して聞けよ、馬鹿蛇」

「何だよ」

「ゴホン……ヤト、あの、子供ができたみたいなの」

「ふーん」

 

 頭蓋の頭頂部を切開されて白目を剥いたネムに、俺はスプーンを突っ込み続けた。脳みそを食べる俺の手は止まらない。彼女の言葉が俺の中で溶け終わるころ、ネムの頭は空っぽになっていた。蘇生してまた食べようかと思っていると、ラキュースの言葉がようやく染み込む。

 

「は? ……今なんつった?」

「鈍い男だ……」

「遅いわね! あんた、馬っ鹿じゃないの!?」

「だから、子供ができたの!」

「マジで?」

「まぢで」

「いつ生まれんの?」

「あと半年くらいかしら。お腹を食い破って出てくるわ。元気な蛇だといいわね……ふふ」

「そうか……」

 

 俺はにやける口元を隠した。

 

 嬉しさと同時に疑問がわき上がってくる。

 

 腹の赤子は人間と蛇のどちらなのだろうか。

 人の形をしていると仮定して、本当に人間なのか?

 蛇だったとして、それは旧支配者なのか? それともただの落とし子か?

 

「ねぇ……やっぱり、嬉しくない? まだ子供は欲しくなかった?」

 

 ラキュースをはじめ、レイナースと番外席次は俺の心を覗き込むように見ていた。

 ここは喜ばなければならない。

 

「いや、よくやった」

 

 俺は立ち上がり、ラキュースの脇に手を入れて持ち上げた。鮮血がいっそう派手に噴き上がり、顔面に降り注いで視界が紅に染まる。目が見えなくなったが、彼女も笑っているようだ。

 

 花と蛇は相性がいい。

 

「元気な子を産めよ!」

「うふふ、よかった。次はレイナだからね」

「私は? 私との子供が一番強いわよ!」

「お前は最後だ」

「最後? やったぁああ! 妾就任おめでとう!」

「バンガイさん、自分で言わなくても……」

 

 俺は勝手に盛り上がる第二夫人と番外席次を無視した。

 

「名前は何にしようかなぁ、俺の子だから前衛職だろ。やっぱり強そうな名前がいいな」

「駄目よ。前衛にしたらあなたと同じお馬鹿さんになっちゃうから」

「失礼な女だな。お腹の子に謝れ!」

「ごめんなさい、赤ちゃん」

「ねえ、私の子は?」

「だいたいな、俺はお前を妾にする予定はない。まだまだ先の話だろ」

 

 バンガイセキジは顔を縦に裂き、開いた口から長い舌を出してあかんべーをした。

 

「酒飲もうぜ、酒! レイナ、子宮酒を持ってきてくれ!」

「あ、はい。すぐに持ってくる」

「私も手伝うわね」

「名前は何にしようかしら」

「気が早いな、お母さん」

 

 おぞましい異形種たちの住む家屋はとても騒がしくなった。

 

 

 

 ………異形種?

 

 

 

 

 

「うわああああ!」

 

 

 悪夢を見た。

 

 知っている世界が壊れ、おぞましくも冒涜的な何かに書き換えられてしまい、自身もそれに侵食される恐怖。誰かが叫んでいると思い周囲を探すと、ヤトは自分がまだ叫び続けていることに気付いた。首を振って纏わりつこうとする狂気を掃う。

 

「あああああ! ………はぁ……はぁ……はぁ」

 

 黄色い布を身に纏った彼は、変わらずそこにいる。蛇が顔に手を当てるとヌルヌルした汗をかいていた。敵は悠然とした動作で、手を差し伸べるかのように布切れの片方を上げた。

 

「今、見せたのは世界軸をずらした別世界、バタフライエフェクトたる運命の選択肢の一つ。運命の収束とは対を成す、作成可能な未来予想図。映像を作成して脳の記憶中枢へ放り込んだ。お望みとあらば、彼女らのアバターを改造する。その程度の改造なら代償は本人を使わなくても、そこら辺にいる生物を依り代とすればできる」

「ふざけんなよ、ぶっ殺してやる!」

「おめえは語彙が足らねぇんだよ、ゴミが。脅すならもっと効果的にやれ。こんな風にな」

 

 敵は宙を泳ぎ、瞬時にヤトとの距離を詰めた。蛇の顔と白仮面は数センチの距離で接近する。大蛇は身動きが取れず、相手の仮面がずれないように祈った。

 

「勘違いするなよ、壊れかけの邪神。お前のアバターを微調整し、夢を見せたに過ぎない。戦闘力が存在しない、邪神の中で一番弱い俺でも、この程度のことは可能なんだよ。その証拠に、てめえのケツからどろどろになった脳みそ吐き出させてやろうか?」

「うぅぅ……畜生……頼むよ……家族と仲間には、手を出さないでくれよ」

「ああ、よかった、話を聞く気になったか。本当に怪物に変えてやろうかと思ったよ。先ほどの話を今の言語構成でもう一度だけ話すから、よく聞け」

 

 ふわりと風が顔を優しく撫で、黄色い布が離れていった。彼は地に降りることなく、空中に停滞して話し始めた。

 

「俺たちと同系統の種族。俺の創造主が愛したプログラマーの一人、混沌の女神。彼女が作った三つのアバターの一つ、執着と報復の蛇神イグ。女神の害意と憎悪(アンチ・ヘイト)に心を砕かれたお前を、私はずっと探していた」

 

「メイドに話を聞けば、お前は平和を望んでいるらしいな。哀れに思い、世界を崩壊へ導く最悪のイベントを回避させようと、同系統の魔力を利用して次元の狭間へ帰ろうとした」

 

「お前が猿の手を使ったから計画はご破算、クトゥルフイベントは回避不可能。こうなったら仕方がない、俺はお前と共闘し、邪悪なアバターを異次元へ帰してやる」

 

「お前が望むなら、魔王が暴れる真月の夜、二人で世界を救う黄金の風となって、お前の体を犠牲にして魔王と戦い、世界の破滅を防ごう」

 

「全てを終え、外なる宇宙に坐す副王に謁見しろ。お前らの叶わぬ願い、あの方なら叶えてくれる」

 

 ヤトは何も言わずに立ち尽くす。ようやく彼の話が理解できた。浮かんでくる様々な疑問があるが、まず最初に聞かなければいけないことがある。

 

「お前は……俺の何を知ってるんだ」

「真実を告げよう」

 

 瞬きの刹那、黄色いローブが目の前を覆った。大蛇の全身はローブの内側へ収束され、ヤトの意識は遥かなる時空を彷徨う。

 

 

 PC画面で動画を見ているように、映像が流れ始めた。

 

 

 

 

 ――Dive Massively Multiplayer Online Role Playing Game

 

 

 通称、D M M O R P G、《Yggdrasil(ユグドラシル)》。

 2126年に日本のメーカーが満を持して発売した、仮想世界で現実世界にいるかのごとく遊べる体感型ゲーム。

 

 広大なマップとプレイヤーが選べる選択肢の多さから、国内で爆発的な人気を博した。

 

 

 元を辿れば、軍事、医療分野の使用を目的に開発されたものであり、基本的なコストが高額だったが、10年後には家庭でも所有することができるまでになる。

 

 なによりも素晴らしいのはそのデータ量だ。

 

 プレイヤーが選択する自身の分身、アバターだけで700種類が存在し、職業は2000を超える。組み合わせで同じキャラクターが被らないほどのデータ量が存在するが、それは作成時の膨大な手間と時間を意味する。

 

 家庭用(コンシューマー)へ移行するに際し、サービスを提供する企業側では複数のプログラマーチームが組まれたが、人材不足は深刻だ。

 

 選り抜きのプログラマーたちは作業分担するべく複数の課へ散り、各課の長と決められた者は方々から人材を寄せ集めるべく奔走した。そして、1つの課に最低でも10人以上が在籍し、選抜(エリート)の第1課からその下の課へ作業指示が流される。

 

 プログラマー、グラフィッカーは早急な販売へ向け、日夜、恐ろしいノルマと戦っている。

 

 この日に限り、第4課、通称《クトゥルフ班》の空気が緩んでいた。

 

「じゃあ、ちょっと行ってくるわ。あと、よろしくな」

 

 見た目が若い中年男性、第4課の長、用具(ようぐ)課長は小脇に資料を抱え、足早に出ていく。後を追うのはサラサラとしたミドルの黒髪が風に舞う内亜(ないあ)女史。彼女の役職は係長だ。

 

「ああん、用具=外主課長ぉ。私もスキーに連れていってくださぁい」

「スキーになんか行かねえよ、死ね」

「仮眠室でもOK。あ、ゴムあったかな。なくてもいいけど」

「おめえは前からいちいち、エロうるせえんだよ! すっ込んでろ!」

 

 ドアが乱暴に閉められた。取り残された彼女は、ばつが悪そうに艶のある髪を弄っていた。

 

内亜(うちあ)さん、しつこいスよ。それに下品」

「あーあ、課長、怒っちゃった……」

「だってぇ、我慢できないよ。あの人の顔を見てるだけで……ああん、もう我慢できない! 私も外で待ってる!」

 

 彼女もまた、乱暴に扉を開いて走っていった。

 

「……」

「痴女だな……」

 

 幸い、今日のノルマは終えており、今の仕事はプログラマー会議という名の役職付き苛めに出かけた、課長の報告を待つばかり。

 

 仕事が台風の目に到達した黄色いシャツの男は、息抜きに自分専用キャラクターを作成しはじめた。グラフィッかーは既に帰宅しているので、制作を終えたモンスターからあちこちのパーツをコピー、ペーストして寄せ集め、自分の理想の姿へ近づけていく。隣に座っている少し腹がせり出た水色のシャツの男は、頭を揺らして夢と現を行き来していた。

 

「テストプレイの日程、聞いた?」

「んー………し、らねー……」

「そ」

 

 やや時間が経過し、黄色いシャツが相棒を叩き起こす。

 

「できた! 見て見て、九頭竜(くずりゅう)。俺専用キャラ」

「んあ…………蓮田(はすた)ぁ、仕事中に何やってんだ」

「自分だって寝てたじゃん。どうせ課長は会議で、糞みたいなお偉いさんたちに、雑巾並みに絞られてんだからいいよ」

「……ふあーぁ……眠い」

 

 他に残っているプログラマー、事務員はおらず、全員が既に帰宅していた。雑然とした第4課内で、二人の声だけが響く。複数に分けられたプログラマー課、それぞれが神話の名前を通称としてつけられている。

 

 オーディンを自称する第一課の課長は企業の親戚筋に当たり、第一課以下は総じて二軍扱い。エース部署とは扱いに格差があった。当然、部署同士の仲はよくないが、自ずと同じ部署内の親交は深まる。この二人は単純に仲が良かった。

 

「ほら、テストプレイは好きにって言ってたじゃん。だからこのキャラ使おうかと思って」

 

 画面には黄色いローブを纏い、白い仮面を付けたキャラクターが映し出されていた。

 

「なに、それ、普通のプレイアブルキャラクターなん? これから経験値稼がせて成長させるの? 敵に経験値一億倍くれるキャラでも作る?」

「それはそれで面倒だな……他の何かにできないかな。設定さえしっかりと作っておけば――」

「設定こそいらねえっつーの。なんだよ設定って。ハスターの化身とでも書くのか?」

蓮田(オレ)の化身かな」

「問題はそこじゃねえよ」

「でもさ、作ったアバターのテストプレイは作った部署にやらせればいいのにな。俺たちは実際にダイブできるから、好きなキャラでいいでしょ。他のアバターの微調整ができるように、それ相応の権限だけ与えておけば。そうか、敵の経験値とかを弄れるようにしておけば、アバターの成長後までチェックできるな」

「んー……つまりぃ……本当にプログラマーキャラクターってこと? アバターの設定とか、世界の設定を好きに弄れるような。世界からすれば神様ってことだな?」

「おお、寝ぼけた頭でも理解できたか。よかった、よかった」

「死に晒せ。睡眠不足舐めんなよ」

「眠気が上限超えて、言ってる意味がわかんないよ、タコさん」

 

 蓮田の肩にほっそりしたしなやかな手が置かれ、鈴が転がっていくような声が聞こえた。

 

「北欧神話がモデルのユグドラシルで、クトゥルー神話を持ち出しちゃいかんでしょー?」

 

 よく手入れされた爪は色合いが良く、顔と同様に美しかった。桃色のリップが彼女の色気と美しさを増しており、蓮田は思わず見とれた。

 

内亜(ないあ)係長、お疲れ様です。課長は、まだ会議ですか?」

「ありゃあ、まだまだ駄目そうだにぇ。上のお偉いさんは、効率よく課金者を集める仕組みを作れとしか考えてないわ。作る側が楽しまないと、遊ぶ側も楽しまないっていうのにさ………全員、内臓をディスポーザーに入れて死ねばいいのにね!」

「最後のが一番、本音っぽいスわ」

「っていうか、また盗み聞きしたんですね」

 

 両名の一つ上の役職でありながら、彼女はとても気さくで話しやすい。他の誰よりも美人で、コケティッシュな顔が黒髪によく似合う。至近距離の会話に蓮田の胸は鼓動を早めた。

 

 九頭竜は蓮田の悪行を彼女へ密告する。

 

「それより見てくださいよ、内亜係長。このアホが黄衣の王を」

「もう見たよ、なかなかいいんじゃん?」

「は?」

 

 決して望んだ返事ではなかった。黄色い作成者は調子に乗り始める。

 

「ほら見ろ、このタコ! 内亜女史だぞ、舐めんなよ。他の課の奴らが羨む美人なんだぞ。俺が結婚したい相手ナンバー1」

「それは無理ぃー。私は課長一筋だもんねぇー」

「そうですか……」

「タコ言うな。だからクトゥルフ神話で、北欧神話関係ねーじゃん」

「テストプレイ終わったらデバッグに突っ込むから問題ないです」

「意味ねえだろ!」

「まあまあ、まだ時間あるから遊んでていいじょ。課長が戻ってくるまで、どうせ帰れないしねぇ」

「……俺だってクトゥルフアバター作ってやる」

 

 モニタへ顔を向けた九頭竜に、にやけた二人の視線が集まる。

 

「やる気になった? どうせテストプレイするんだから、他の課が作ったアバター使うなんて興ざめだろ」

「そうだよねー、なんでうちはアバター作成ノルマが少ないんだろ。マップとダンジョン、クエストばっかじゃ飽きるっつーの。カルマ値を上げるだけのクエストとかマジキモイ、生産性皆無。変なもん作らせやがって、あのデブ」

 

 彼女が「デブ」と呼ぶのは、第一課の長しかいない。自分の上司を苛める彼を、彼女は心底嫌っていた。

 

「アバターのノルマ数が多いのは日本書記課でしたっけ? まあ、あそこは人数多いから仕方ねえッスわ」

「不愉快だわ……ニホンショキの馬鹿女」

 

 彼女の顔が色を失った。

 

 彼らの育ちは決して良くない。ユグドラシルを管理する企業において、蓮田、九頭竜は小卒の社員、内亜はスラム街出身の臨時社員だ。それでも役職がついたのは、用具を昇進させようとする彼女の献身的な、あるいは自己犠牲に近い努力の賜物だ。

 

 底の見通せない虚無の顔をしている彼女の過去に思い馳せると、蓮田の胸にとげが刺さる。

 

(どうやって生きてくれば、ここまで他人へ憎悪を向けられるんだろう……)

 

 彼女の顔は一変し、いつものにやけた彼女が帰ってきた。だらしない三十路女という単語が浮かぶ。

 

「オイラも膨れ女でも……いや、魔王を作ろう。全てを憎み、全てを破壊し、そして私も滅びる……永遠に!」

「あ、内亜さん………あぁ、まぁいっか」

 

 独り言にしては声量が大きく、内容も物騒だ。彼女も自分のPCへ座り、作業へ没頭した。本来の仕事以外に熱中する三名は、上司が搾り汁さえ出なくなって真っ白の灰として戻るまで、自分専用のプレイアブルキャラクター作成に没頭した。

 

「お疲れー………」

「あ、課長、会議はどうでした?」

「かっちょぉぉぉおおお! 会いたかったよぉぉぉ!」

「近寄るな、メス豚が!」

「ぎゃ!」

 

 即座に額を叩かれ、発情した内亜は蹲った。最初こそ女性に手を上げるのはどうかと思ったが、彼女に詳しくなるとそれが自然な対応なのだと知る。特に既婚者の課長は貞操の危機だ。武力行使も止むを得ない。

 

「頭の固い上と、一軍のクソどもは納得した。俺たちの気分転換にアバターの増設枠、それ以外にも武器、アイテムやマップの作成で時間の猶予ができたから……って、何してんだ、おまえら」

「自分たちプログラマーの専用キャラ作成中ッス。運営のチート性能キャラなんて、作るだけで楽しくて」

「蓮田のアホが始めましたー。私は悪くありませんー」

「そうですー、私も悪くありませーん。課長、抱いてくださーい」

「ビッチは黙れ」

「俺が悪いのかよ! 責任、押し付けんなー!」

 

 騒々しい三名の部下を見て、課長の口からは苦笑いとため息が零れた。

 

「俺も副王でも作るか……今日は会議で疲れた、この有様じゃ碌なアイデアが出ない。簡単な打ち合わせだけ、PCを弄りながらやろうか。適度なマルチタスクは脳のシナプス伝達が良くなるっていうからな」

 

 その意に反し、誰も口を開かず、モニタから目を離さなかった。遊びとはいえ作業は作業、プログラマーの性質に則り、彼らは作業に没頭し、打ち合わせはできなかった。一足先に作業を終えた内亜女史は、課長のモニタを覗き込む。

 

「課長、できましたぁ?」

「見るな痴女」

「酷いなぁ……誰かを求めるは、生きている証拠ですよ。こんな世界、生きているだけで儲けもんって」

「……ああ」

「愛する人と結ばれたい……なぜ、そんなことも叶わないのでしょう。用具課長、愛しています」

「俺が結婚してるからだよ、バカタレ! お前もいい加減、しつこいぞ! 男は他にもいるだろうが」

「あーらら、やっべーバレちった? この勢いで抱いてくれると思ったのにぃ!」

 

 キーボード清掃用のスプレーを浴びせられ、彼女は歓喜の悲鳴を上げ、夏の虫のように逃げていった。

 

 全員が遊び終わり、課長から簡単な報告がなされる。

 

 時刻は22時であった。

 

「――と、いうわけで、アバターは各自、三種類くらいまでなら作っていいそうだ。バランス崩壊キャラは禁止、事前に原案を提出して承認を受けるように。ワールドエネミー、レイドボスのテストプレイで専用キャラ使うのは自由。それ以外のテストプレイで余計な権限を与えないようにな。どこでバグが起きるかわからない。自分の作ったキャラはデバッグへしまっておけ、ユグドラシルが順調に運用できたら様子を見て消すようにな」

「課長、専用キャラの職業はどうしましょう」

「普通の職業を取らせるのか? 冒涜的なおぞましい邪神が、戦士とか魔法詠唱者は興ざめだな」

「……旧支配者レベル5とか?」

「九頭竜、乗ってきたねー。ほんとはやりたいんだろ。うり、うり」

 

 少し出っ張っている九頭竜の腹部は、美女の肘にくすぐられた。

 

 蓮田が羨ましそうに見ていた。

 

「ちょ……勘弁してくださいよ、これでもかなり眠いんですが」

「どうせデバッグに乗せて実用しないキャラだ、好きにしていいよ。俺もテストプレイで使用するキャラは、いわゆる“僕の考えた最強きゃら”にしようと思ってた。ワールド・エネミーがバランス崩壊すぎるんだよ。こっちもチート使わないとチェックすらできやしない。ドロップアイテムがバグでポーションだとしても、確認するには倒さなきゃいけないしな」

「用具課長、ユグドラシルが異世界に転移した場合、デバッグで作られたこのキャラはどうなるんですかね?」

 

 内亜が手を上げる。悪戯を仕掛け、ターゲットが引っかかるのを待つ子供の顔だ。敢えて課長を怒らせ、反応を心の底から楽しんでいる。質問の内容もまるで空気を読まない、無関係なものだった。

 

「妄想全開だな。異世界転移ものは逃避してるみたいであまり好きじゃないんだが……そうだなぁ。デバッグに仕舞われたキャラは、次元の狭間みたいなところへ封じられた扱いになるんじゃないか?」

「ふーん……じゃ、デバッグを解除するアバターを作ればいいのか……。神様、お願いです。異世界転移した不届き者どもへ、アザトース様の地獄が降臨しますように」

「そいつらに同情するよ……イカれた魔王が降臨する世界なんて、夢も希望も無い」

「今の我々と何が違いますか?」

「……まーな」

「課長、私は、どんな世界でも一緒にいますよ」

「……作業に戻れ」

「振られちった」

 

 唇の端から桃色の舌を出し、嬉しそうに自分の席へ戻っていった。

 

 早々と自分の席へ戻り、遠目に眺めていた蓮田と九頭竜は、顔をモニタへ向けながらひそひそと密談する。

 

「あの二人、仲いいよね」

「九頭竜、知らないの? ここの人選は課長が全て選んだって」

「ふーん……適当じゃなかったんだ」

「じゃなかったら、偽名なんて使えないでしょ。何だよ、蓮の田って。そんな苗字が日本にあんのか。内亜なんてあからさまだよ、ニャル様だよ」

「……俺は本名だ」

「俺たちはここの社員だけど、内亜さんは課長がどこからか引っ張ってきたんだよ。スラム街出身者って、他の女子社員から陰口を叩かれてんの見たことある」

「そうなんだ。どうやってスラムから拾ったんだろうな」

「配属当初のあの人はヤバかったよ。なんか、世界の全てを憎んでるって顔してさ。俺なんか、出会い頭に飛び蹴りされたよ。目つきが気に入らねえって」

「……怖えよ。あの顔でそんなこと言うのか」

「時おり見せる顔がね……人を殺してると思う」

「嘘つくなよ」

「いや、本当だって。前に本で読んだけど、一度、人を殺した奴は瞳の奥が暗いままになるんだって。あの人のはまさにそれだよ。楽しそうに笑ってても瞳の奥が暗い。まあ、連れてきた当初、課長と内亜さん、顔が傷だらけだったからね。ひそひそ話を盗み聞きしたけど、殴り合いで勝ったから仕方なく用具さんに従ってやってるんだって。今は心の底から服従してるっぽいけど」

「まあ、部下にするとしたら、忠誠に勝るものは無しだな。献身的に尽くして成果を上げる部下なんて、誰でも欲しいだろ……なんか詳しすぎない? 内亜さん、好きなの?」

「否定はしないけど課長には勝てない」

 

 昔の彼女は決して他人に触れなかった。課長だけが、べたべたと纏わりつかれていた記憶がある。

 

「課長が貶されたり陰口叩かれたりすると、恐ろしい顔をしてるよ。自分のことは右から左に抜けていくのに」

「それじゃあ見た目がいくら美人でも、憎悪と破壊の徒だな」

「本物のニャルラトテップを拾ったのかもしれないよね……俺も一緒に闇に堕ちようかな」

「あん? なんか言った?」

「なんでもない」

 

 人の心が造り出す闇の深淵は、彼には荷が重すぎる。どれほど美しい彼女へ恋い焦がれようと、決してそれは叶わない。彼の想いは自信のアバターへ受け継がれた。

 

「それより、クトゥルフアバター見せてよ」

「ん、いいよ。居眠りアバターの自動砲撃システム。全身鎧扱いで、装備している核のレベルは一桁だけどレベル100砲撃。るるいえ・うがなーぐる・ふたぐんー」

「ノリノリだな」

 

 蓮田と九頭竜が見切りをつけて帰宅後、内亜は作成した魔王を自慢する。鼻は天まで伸び、心なしか上から見下ろしていた。蓮田のモニタはつけっぱなしで、黄衣を身に纏う何かはデバッグ世界から彼らを眺めていた。

 

「お前………馬鹿じゃねえの? いや、知ってたけど、この化け物は駄目だろ。この組み合わせだとダミーが増殖するから、理論上、超位魔法をリキャストタイム無しで発動できる。MP消費量10分の1で、HP1677万」

「課長、Fが6桁までしか入りませんよー。しょぼくないっすか、このHP」

「ダミーが増殖すんならHPが一桁でも倒せねえよ。《眷属召喚》で呼び出すレベル40から70で稀にレベル90、喇叭を吹くぬめぬめの異形。本体はレベル90以下の魔法と物理無効、操作不能…………操作不能!? 馬鹿かお前はぁ! テストプレイできないだろ!」

「だって白痴でしょ?」

「まずお前がイカれてるよ。何かの間違いでワールド・エネミーとして外へ出てみろ。クレームの嵐で、俺たちの首が物理的に飛ぶぞ。面白いのはわかるがな、作って終わりだろう、これじゃあ。よくも無駄な時間を過ごしてくれたな」

 

 この忙しい時期に部下が時間を浪費するという暴挙に出て、海底から湧き上がったような深い溜息を吐いた。額に手を当て、浪費された時間の挽回をどうしたものかと悩む。

 

「せめてインプットした魔法だけでも抜けよ。これはバランス調整される前の超位魔法だ。こんなのリキャストタイムなしでバンバン使ったら、世界の王者(ワールド・チャンピオン)でも吹き飛ぶぞ。ワールド・エネミーに俺つえええ! ってやるならわかるが操作できねえしよ」

「せっかく作ったんですから、このままでお願いします。頭の悪い魔王様を消さないでください。ぼっくらはみんなーいっきているぅーいきぃているからうったうんだぁぁぁ!」

「歌うなっ! 万が一、外に出た場合を考慮して、魔王対策で設定に加えておこう。銀の門で撤退可能、っと」

「あん、いけずぅ。でも、異世界転移なんて儚い夢だなー…まぁ、裏にクトゥルフ神話の神々が仕込まれて、白痴の魔王までいる世界なんてまっぴらごめんですがね。この世界で生きるよりもそれはそれで楽しいかもなー……課長よりいい男とラブラブクラフトですよ!」

「うるせえ、唾吐きかけんぞ」

「ご褒美ですわ!」

 

 用具は疲労困憊といったため息を吐いた。

 

 モニタに映し出されているのは、魔王の職業。内容は支離滅裂で意味も理解できないが、彼女の思い入れと理想だけはそこに書いてあった。

 

《破壊Lv10。憎悪Lv10。白痴Lv10。絶望Lv10。虚無Lv10。地獄Lv10。邪界思念系魔法詠唱者Lv10。魔王Lv10。カタストロフィLv10。アザトースLv10》

 

 もっとも、職業自体には何の意味もない。ただ体裁だけ整えたに過ぎず、設定が具現化する世界にでも行かない限りは何の問題もなかった。

 

「そういえば、これしか作ってないのか?」

「もう一つ、高度の意識体で、アザトースを呼び出すのが役割っていう設定だけ作りました。デバッグが封印に変わったら、それを解くキャラクターを。まあ、姿も形もなく、設定だけの存在ですけど。用具さんのも見せてくださいよ」

「大した事ないよ。俺の理想しか詰め込んでない」

「ふーん……あ、でもこのスキル面白そう。現実で使ってみたい」

「面白いだろ」

「ええ。これをこれとこれを使えば、私でも課長と結婚して子供を産めますからね」

 

 内亜のショートカットが手刀で揺れた。

 

 軽い痛みを感じて、とても嬉しそうに微笑んだ。

 

「俺なんか普通のサラリーマンだよ。本当に副王だったら黒山羊と結婚しなきゃいけないしな」

「うわ、あかん! それはあかん! 子だくさんだ。そして私は嫉妬する、山羊に!」

「お前はこの世界を壊したいんだろ」

「やだなぁ。破壊したいなら全ての次元を破壊してやりたいですよ。それに、ただ課長を愛してるだけですよーだ」

 

 やがて警備員がビル内の周回を初め、二人は帰り支度をする。ガスマスクの内側に息を吹きかけながら、内亜が思い出話を始めた。

 

「課長、この世界がイデアから派生した影の一端って言葉、まだ覚えてますよ」

「仮に俺たちが原型となる世界の影だったとしても、生きるのに何の問題もなく、また死ぬ理由とはなり得ない」

「私たちが存在しない世界こそが原初(イデア)の世界で、この世界はパラレルワールドだって」

「だとしてもそこに意味はない。生きる理由とは探すものではない、作るものだ、だったか?」

「やるべきことをやりたい放題にやって、死ぬならそれでもいい。路地裏で私に殺されかけたくせに、下から偉そうに説教したのは課長スからね。本当は責任とって結婚してほしいくらいですよ。いつもそうやって女を口説いてるわけですね」

「一部、考えが飛躍しているな。まあ、世界の真実からかけ離れていたとしても、それに何の意味もないからな。生まれたから生きるだけじゃなく、限界まで楽しんでから死なないと勿体ないだろ」

「さすが課長、いつ抱いてくれるんですか? 愛人は異世界転移してからお作りになられるんで?」

 

 課長は黙殺し、一瞥もしなかった。ごそごそとガスマスクを嵌め、帰り支度を終えた。ガスマスクの視界を磨く内亜が、思い出したように叫ぶ。

 

「そういえば、第一課のオデン豚野郎が上げてきた死の支配者(オーバーロード)ってなんスか。俺はこのキャラを使うって豪語してましたけど、なんで死の支配者の翻訳がオーバーロードになるんですかね。あの豚、私に色目使ってくるからウザいんですよ。マジでぶっ殺してやりたくなります」

「死がオーバーで、支配者がロードだろ? 何の問題もないじゃないか。そんなに怒るなよ」

「まだありますよ。廊下で話しかけてきやがって! 見て見てー、ニャル子さんのアバターをウチの課で作ったよ、知ってるぅぅ? ニャル子さん! とかいって美少女系アバター見せつけてマジキモイ、死ねっ!」

「……おまえも下手に美人だから絡まれて大変だな。まあ、オーバーロードは主役が使うんだってのは俺も聞いたけど、だとしても主役はあいつじゃないよなぁ? あんなデブった主役がいるかよ」

「あはは! やっぱりそうですよね! あ、用具さん、ガスマスクに隙間空いていますよ」

「おっと」

「仕方がないんだから……はい」

 

 内亜の細い手がガスマスクを優しく正した。

 

 

 

 

 映像が飛び、それから数日後。気分転換にと、アバターの作成に手を付けた内亜の手が止まる。画面には、頭部に立派な角を生やし、両腕の生えた大蛇が浮かんでいた。用具は持っていた書類を丸め、彼女の頭をはたいた。

 

 蓮田と九頭竜をはじめ、他のデバッガーがこちらを見ていたので、「散れ」とばかりに手で払った。

 

「おい、イカれ痴女。お前の上げてきたアバター案、考え直せ。案2の蟲。物理攻撃力0固定でMP吸収。無属性魔法を物理攻撃手段とするって、誰が使うんだこれ。見た目もミ=ゴそのまんまじゃないか。吸収対策されたら風船と変わらんぞ。あと、案3の狼。戦車に乗った双子の天使は人狼ですって、もう意味わからん。一人のプレイヤーが二人のキャラを操作するのか? お前は阿呆か。堕天使ベリアルの人狼って、天使であって“人”狼とはどういうことだ」

「あー……はは、疲れが溜まってるんでしょうねぇ。あと欲求不満。それよりヨーグさま、これどう思います」

「変な呼び名で呼ぶなよ……」

 

 モニタを覗き込むと、種族名の付いていない蛇の体がくるくると回った。

 

「んー、別にいいんじゃないか」

「蛇神イグ、と」

「待て。イグは外せ。北欧神話ベースだから、1課がうるさい」

「ちっ、あの第1課のデブが……あの糞デブ、版権の切れた既存のキャラクターは自分の課だけで作ってますよ。既存のキャラだとデザインが楽だからって。企業の経営筋だからってやりたい放題、同じ課の社員を女ばかりにしたって噂ですよ? 私にも粉かけてきやがって、殺してやろうかと思いました。なにがオーディンだ、死ね。いや、むしろ私があの出っ張った腹を掻っ捌いてぶち殺し――」

 

 用具の手が彼女の頭に置かれなければ、飛び出して鉄砲玉になっていたかもしれない。

 

「その辺にしておけ。俺もお前も、首が離れると困る」

「……ふん」

 

 内亜は手をせわしなく動かし、設定に文言を入力する。それは彼女の個人的な意思であり、ユグドラシルのプレイヤーに効果を与えるものではない。しかし、遠い未来、蛇神ヤトノカミの運命を大きく狂わせた。

 

《蛇神。かつて地球に飛来し、大陸を支配した旧支配者。この姿で異世界転移したのなら心が破壊され、世界の封印を解き放つ。このアバターを使うものは、一切の希望を捨てよ。星辰が振るう夜に心を壊され、白痴の魔王を召喚し、終わりのない災禍で世界を破滅へ導くもの》

 

 ユグドラシルの全アバター中、700分の1。

 唯一、このアバターだけがそう書き込まれた。

 

 覗き込んだ課長の顔がニヤリと歪む。

 

「いいね。その設定なら面白いからいいよ」

「ついでにおデブちゃん(膨れ女)の設定も変えておこうっと……私の作ったアバターに異世界転移は許さない、と。ここと、ここも、弄って弄って……うふふ」

「その蛇アバターを使うのは少ないと思うな。上位互換種族がたくさんいる。人間種の方が使い勝手もいい。さあ、そのペースで作業を進めよう。会社にお泊りしたくない」

「仮眠したいんですけど、一緒に寝ませんか?」

「しねーよ! 残業!」

「無理です! 増毛!」

「ハゲてねえよこの野郎!」

 

 別のPCから侵入して蛇神の設定を見た蓮田は、異世界転移するのが内亜でないように祈った。予防策としてお蔵(デバッグ)入りした自分のアバターに、一文を書き加えた。なぜそうしたかについて、論理的な理由はない。なんとなく、そうしたかっただけだった。

 

 

《蓮田の知ることは全て知る、彼女の憎悪を消し去る道具。一切の手段を択ばない》

 

 

 一般ユーザーへ公開されたユグドラシルは、目立ったバグもなく運営されていく。下手な操作をしてバグが発生することを恐れた彼らは、デバッグのアバターを放置した。自らのNPC(アバター)が別次元へ飛んで意思を持ったなど、彼らは知る由もない。

 

 

 

 

 

 目の前を流れる映像が消え、ヤトは力なくその場に跪く。手の力は抜け、武器が石畳に落下して乾いた音を鳴らす。涎か脂汗か、あるいはその両方かわからない水滴が、石畳の色を変えた。

 

 大蛇はしばらく動けなかった。

 

 過剰なまでに時間を掛け、風にたなびく黄色い布へ顔を向けた。

 

《これこそが無慈悲な真実。永遠の絶望、癒せぬ苦痛、避けられる喪失、貴様の命運》

 

 彼の声はおぞましさを取り戻していた。数多の人間が織りなす声の狂宴は、絶望に打ちひしがれる蛇神の心へ浸透する。このまま彼の話を聞けば、気が狂ってしまいそうだった。

 

「俺は、壊れたのか?」

 

莫迦(ばか)め、人間だったお前は死んだ。いつから勘違いしていた? 自分が正気だと》

 

「……アバターに設定されたからって、プレイヤーが影響を受けんのかよ」

 

《その通り、設定が問題なのはプレイヤー側ではない。問題は、イグの設定に合わせて設定を弄られた女神、膨れ女。その正体は、創造主の憎悪と破壊衝動を膨らませる高次元の歪んだ鏡面意識体。魔王召喚の呼び水。メガホンで拡声されるかのように憎しみ(ヘイト)値を限界突破させ、膨張し続ける桁外れの憎悪。唯一の憎悪対象、貴様の心を破壊し、反動でデバッグの封印を解いた》

 

「意味がわからん……俺の心を砕く意味があんのか」

 

《理屈ではない。砕くことでデバッグが解放されるよう条件と設定が書き込まれている。魔法的常識によってそれが実現し、彼女は設定に殉じてそれを満たしただけのこと。唯一の幸運は、次空転移の流れが予想以上に早く、彼女は貴様を見失った。創造した彼女の言葉通り、憎悪の対象はたった一人》

 

「そんな馬鹿なことがあるかよ……幻魔境(ドリームランド)の女神ってのは――」

 

《蛇神イグ特効。お前に対して……ではない。イグのアバターだけに対して使い切れないほどの害意。貴様は彼女に勝てない。どれほど攻撃しようと、彼女に触れられただけで瀕死になる。簡単に殺さないのが彼女の悪意。そして彼女を倒さない限り、魔王は必ず顕現する》

 

「俺が……このアバターを……選んだだけで……?」

 

 白仮面の頭が前に倒れ、肯定した。

 

 癒せぬ絶望と徒労。

 

 運悪くこのアバターを使って異世界転移したがため。たったそれだけのために自分が壊れ、家族、仲間、友人、部下のいるこの世界を破壊される。大蛇は地面に跪き、頭を垂れて動かない。未来には何の希望も残されていない。彼が生きている限り、この世界は滅びの危機に晒される。

 

 二人の妻も、アインズも、部下も、仲良くなった人間も、一人の例外なく間接的に彼が殺す。

 

 創造神(プログラマー)が本気で破壊のみを目的として作り上げた化け物に、どうやってプレイヤー風情が戦える。

 

《託された使命、我が命題を全うするは創造主への敬意。3人のプレイヤーはイベントの流れの中にある》

 

 プレイヤーの人数が増えていることに気づけなかった。

 

 何においてもまず、彼が敵か味方か確認しなければならない。生きる気力は回復しないだろうが、そんなことは壊れた自分の考えることではない。

 

「魔王って何なんだ。ワールド・エネミーかなんかの扱いなのか……? アイテムを総動員して全員で力を合わせれば――」

 

《そんな上等なものではない。イベントのシステムそのもの。ゲームオーバーと書かれた画面が、もっとも概念として近い。そこからクリアするのはプレイヤーに不可能。初めからクリアできるように作られたイベントの類ではない。破壊という自然現象の顕現。何の意思もなく、破壊だけを繰り返し、破壊するものがなくなってから最後に自身を破壊し、デバッグモードで再び顕現の刻を待つ》

 

「クリアする方法は……」

 

《私は”風神(ハスター)の黄衣”。膨れ女と永遠の虚無に沈むか、彼女のアバターを改造すべく、ここに存在する道具。プレイヤーと私の共闘ならば、銀の門で撤退させる時間が稼げる。魔王に一発たりとも、魔法を使わせてはならない》

 

「お前は……何なんだ」

 

 

《自由意志で世界を徘徊し、一つの世界を意味する究極の加護》

 

 

「まさかワールド――」

 

 

世界級(ワールド)アイテム》

 

 

 

 

 

 

 

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。