モモンガさん、世界征服しないってよ   作:用具 操十雄

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Human nature is evil

 

 

 

 体に気怠さを残す魔導国の昼下がり。ベッドから起き上がって外を見上げるラキュースの顔は隙だらけだ。彼女の体力は回復しておらず、外出もできずにいまだ療養中であった。

 

 レイナースが食事を終えた食器を運びだす。退室間際に振り向いて声をかけた。

 

「ラキュース、蒼の薔薇の皆様がいらっしゃったけど、通して平気?」

「……騒々しいわね、ここまで聞こえてくるわよ」

 

 ガガーランの豪快な笑い声と、揶揄われて怒るイビルアイの声はノックの音より早く届いていた。案内された彼女たちは入室するなり騒々しい。真っ先に冷やかしたのは、正しい人数に収まった三姉妹だった。

 

「リーダー、頑張り過ぎた腰痛は治った?」

「強者に抱かれると大変」

「私はそんなに大変じゃなかった」

 

 早々に下品だった。

 いつからティラが蒼の薔薇に加わったのか不明だが、結成当初からいましたよとでも言いたげに、体に纏った空気で質問を拒んだ。ガガーランが酒瓶を掲げた。

 

「調子はどうだ、ラキュース。酒持ってきたから飲むかい?」

「ありがとう。でも、お酒は遠慮しておくわね。気乗りしなくて」

「そんなに酒豪じゃなかったがな。まだ調子わりいのか?」

「うーん……何かしらね。体がお酒を拒否してるみたい」

「へえぇ、体がねぇ……」

「何かが体に覆いかぶさってるように重たいし、何なのかしらね……」

 

 一同が「ヤトに何かされたのでは」と心を一つにし、ラキュースも否定しない。レベル100のプレイヤーを相手にしているのだ。弱者である現地人にどんな不具合が起きても不思議ではない。自然と視線は、アインズに嫁入りしたイビルアイに集約する。仮面の下で膨れたが誰にも見えなかった。

 

「……なぜ私を見る」

「お前さんは特に問題なさそうだな」

「知るかっ!」

 

 小さな彼女の機嫌はすこぶる悪い。当然、正妻としてアインズについていくものと思っていた矢先、先手を打たれて護衛はシャルティアとアウラに決められていた。それでもついていこうとしたが、アルベドがナザリックで働いているのに自分が独占するのも気が引けた。神の風格を持ち合わせているアインズ相手に、ベッド以外で子供のように駄々をこねくり回すのは相応しくないと思い、歯ぎしりをして王宮で別れた。

 

 正妻のジレンマは未だに彼女を焼いていた。

 

「……酷くないか? なぜ私が煽りを受ける。同じ元人間なんだから、もう少し優しくしてくれてもいいと思わないか……って、なぜ誰も聞いてくれないんだ」

 

 夫婦喧嘩は犬も食わず、彼女の愚痴へ耳を傾ける者はいない。

 

「それでね、あの人も出かけてしまったから、王宮の雑用役がラナーしかいないのよ。時間を見て顔を出してくれない?」

「そりゃ構わねえけどよ。アルベド、さん、っつったか? あの人がたまに顔出してるみたいだぜ」

「あら、そうなの」

「あの人も人間蔑視側だろ? 迂闊な発言をして殺されちゃあ、堪ったもんじゃねえからよ。俺は誰かさんと違って正妻でも妾でもないんだからな」

 

 アルベドの黄金に輝く両目を思い出し、大柄な彼女は身震いをした。柄にもない行動だったが、説得力は十分だった。

 

「……それもそうね」

 

 三姉妹はラキュースの顔を覗き込む。

 

「リーダー、変な顔」

「色気がない」

「女として枯れた?」

「……失礼ね、なによ急に」

 

 笑顔で脅す余裕はなかった。彼女たちはひとしきり談笑し、再び冒険の旅に出ていった。

 玄関まで見送ろうかと思ったが、ベッドから降りた途端に倒れ込んでしまい、旅はまだ先になりそうだ。体力をつけようと夕食に消化の悪い品が並んだが、いつになく食欲は旺盛で出された料理は残さず胃袋に落とされた。

 レイナースは食事を貪る姿を見ながら呟いた。

 

 

「早く帰ってくればいいものを」

「ふぅ、ごちそうさま。帰りを待つのも正妻には大切よ」

「私はそんなに強くない……」

「寂しがり屋ね」

 

 レイナースは頬を膨らませ、子供のような友人にラキュースは笑った。

 

「ねえ、レイナ。あなた、自分とヤトが似ているって気付いている?」

「……私は馬鹿じゃないもん」

「もんって……今、ちょっと馬鹿っぽかったわよ。でもそこじゃないの。自分に自信が無くて、弱弱しいところ。だから好きになったんでしょう?」

 

 反論は出ない。

 

「人間は誰も彼も弱いものよ。いま、あなたがここにいることは偶然じゃなくて必然な気がするわ」

「……?」

「王国がどうして魔導国になったのか知ってる?」

 

 一緒に暮らしてから何度かヤトに尋ねたが、答えは全てはぐらかされていた。レイナースはヤトが王国で何をしたのかと、ラキュースとの馴れ初めについての事情に疎い。

 軽い気持ちで話を頼んだが、内容は想像した以上に痛々しい惨殺の記録と甘ったるい惚気話だった。幾度となく争いを勝ち抜いたレイナースも、単純な拷問とくどい甘さに胃もたれした。

 

「……酷い奴だ。離縁してやろうか」

「ふふっ。でも、結果的に腐敗貴族を一掃し、国が変わる下地ができた。これ以上、最善の策はなかったのかもしれないし、彼らの悪行を顧みれば代わりに私がやりたかったくらいよ」

「物騒だな……帝国にいた頃は、遅かれ早かれ王国は勝手に滅びるとは思っていたけど」

「人間が幾ら努力をしても、沈む夕日は引き上げられないの。事実、誰もが先の見えない闇の中を走っている気分だった。早期決着しないと光の差さない暗黒時代が訪れると思っていたのに、あの馬鹿は大暴れして夕陽を朝陽に変えてしまったの」

「あの馬鹿が作った下地を使って、アインズ様が統治したから全て変わったということか。次期国王にこれより適任者もいなかった。しかし、滅茶苦茶な奴だ。失敗したらどうしたのだろう」

「滅茶苦茶よね。もっとも、ラナーはいずれそうなると予想していたみたいだけど」

 

 未だにラナーの考えだけは読めない。ナザリックがこの地に転移してくるより以前、国のために政策を提案するも妙な場所から綻んで失敗した過去を思い出す。今となれば、過去の失敗は計算だったのかもしれない。当時はわざと失敗したような真似をしたラナーに苦言を呈したものだ。

 

(今の彼女は何を狙っているかしら……もしかすると初めから何かの目的があってやってる可能性もあるわね)

 

 ラキュースは黙り込んで考え込み、レイナースは話の続きを促した。

 

「あいつはさほど成長してない気がする。アインズ様がいらっしゃらなかったらどうなっただろうか」

「変わらない人間なんていないわよ。私とあなたが彼を受け入れたように」

「私が言うのもどうかと思うが、奴は間違いなく悪人だ。それも神や悪魔の類ではなく、小悪党だぞ。体から漂う小物臭が……」

「それでいいのよ。あの人が本物の悪神になったら誰も止められないもの。だって素早いでしょう?」

「う、うん、確かに早い……」

 

 何か含みを持たせるいい方だった。

 

「いいじゃない、邪神の妻というのも素敵よ」

「そうなったら私たちは邪神の妻になるわけか……悪女じゃないか」

「仕方ないわよ。それでもあの馬鹿が大切だもの」

「私にできることはないだろうか……」

「無いわね」

 

 下手をすると民衆に石を投げられ、糾弾されかねない。レイナースの顔は浮かないが、ラキュースはいつも通りの明るい笑顔でそこにいた。自身が悪に堕ちたとさりげなく認めつつ、更に話を続けた。

 

「あの人の一番好きな所はね、欲望のまま女性を犯したり、金品を強奪したり、他者を苦しめないところよ。結局、人間くさい優しさを捨てられないのよ、あの馬鹿」

「欲望に耽溺する悪は全てを失う……か」

「あら、どこで覚えたの?」

「ラキュースがナザリックからお借りした本に書いてあった」

 

 ラキュースが読んだのは哲学書の類だ。アルベドから図書館への出入りは簡単に許可が下りたが、司書は本の管理に厳しいアンデッドだった。書いてある字はさっぱり読めなかったので、翻訳眼鏡まで貸してもらった。

 

「私たちはあの人の帰るべき場所よ。悩み、暴れ、疲れて帰宅した彼に“おかえりなさい”と言えばいい」

「ただいまって言ってくれるだろうか」

「当たり前でしょう。私たちは妻なんだから」

 

 二人の女性は沈黙を以て相手の意見に同意した。話題を変えてレイナースが再開する。

 

「そういえば、終わったらナザリックの風呂にでも入れって言ってたな」

「言われてみれば前回は死んだ皮膚を削いだだけだったわね。今度はゆっくりしましょうか、借りた本も司書様に返さなければならないし」

 

 温泉という文化はこの世界に存在しない。泳げるほどの大浴場を建設するのは酔狂な拝金主義と相場が決まっている。ナザリックの大浴場は男女別に分かれ、種類も豊富な風呂を見て固まった過去を思い出す。今となれば楽しい思い出だ。

 

「今ごろ竜王国で接待でもされてるのかしらね」

「竜王国は女王のようだ。籠絡されてないといいが……」

「心配するところはそこなの?」

 

 全てに絶望し、赤子に代理号泣させながら心理的荒野を彷徨っているなどと知る由もない。デミウルゴスが皆を引き連れて蛇神の前に降り立つ、数時間前のことである。

 

 

 

 

 ドワーフが建設した人間種専用の仮宿の地下に、大浴場が設置してあった。宿の主は少人数のためにお湯を張るのを渋っていたが、目の前で金貨を積み上げたところ三枚目で応じてくれた。思ったよりも安かった。

 

 軽く10人は入れそうな湯船の中心に、白い頭骨だけぽつんと浮かぶ面妖な光景が展開された。獅子を模した造形物の口からお湯が吐き出され、湯船に流れ込んで嘔吐物を満たした。

 ナザリックの大浴場に設置されたゴーレムを思い出させたが、あちらは作法を間違えたら襲ってくる。迫力と危機感に欠けていたが、造形の素晴らしさがドワーフの技術を物語った。

 

 お湯にたゆたうアインズは、相方を心配していた。

 

(あいつ、上手くやっているだろうか。いくら何でも、敵を倒すだけならできるよな。心配なのはプレイヤー級がいる可能性だが……)

 

 舌を仕舞い忘れた蛇がもやもやと空中に浮かび、尻尾を振ってこちらを小馬鹿にした。異常事態に遭遇した場合、影に潜ませているシャドウ・デーモンが連絡を寄越すだろうと結論が出た。

 

(周辺種族の支配を終わらせてから顔を出すか……従属する条件などの擦り合わせは奴じゃ難しいだろう)

 

 蒐集家(コレクター)としての特性が足先から昇ってくる。お湯の中で骨だけの足を擦り合わせ、欲求を堪えた。一刻も早く僕にした常闇の竜王を自慢したかった。

 正直なところ竜王国に必要性を感じず、属国にならないのならそれでも構わなかった。逸品の自慢に比べれば些事に等しい。

 

(早く常闇の竜王を自慢したい……ああ、楽しみだ。どんな驚く顔をするだろう)

 

 懸案事項で考えられるのは、ヤトが何かに悩んでいる可能性だ。例えを探れば幾つでも浮かんできた。

 竜王国の女王に感情移入して妾にする。

 ビーストマンを簡単に殺していいのか悩む。

 先祖である七彩の竜王の機嫌を損ねて戦闘になる。

 人間と喧嘩になって暴れまわる。

 

 想像できる不安は枚挙にいとまがない。面倒事を拗らせる事態でなければ、好きに暴れてもらって構わなかった。何にせよ、今のヤトは単身だ。迷いを軌道修正してくれる旅の御供がいない。先に監視でも差し向けるかと検討する。

 

(あいつはハマると際限なくうじうじと悩んでいる。元からあんなに暗い奴だったか)

 

 ユグドラシル現役時代の記憶を探ったが、古い記憶の仕舞われている引き出しは開かない。ヤトは41人中35前後であり、ギルドの後期加入者で引退も早かった。共にゲームプレイした時間は、上位の仲間と比べて少ない。

 

 それでも執着に似た仲間意識は強かった。

 

(……奴がいいように利用されるのは我慢ならん。そうなっていたらこちらで借りを返してやろう。試していない魔法があったな。やはり目途がついたら顔を出すとするか。あいつ驚くぞ、竜王を部下にしたと知れば)

 

 蒐集品の竜王を自慢したいだけだったが、ヤトが愚かな虫けら(人間)に不要な借りを作っているのは我慢ならなかった。

 

 若い女性の声で物思いから復帰した。

 耳を澄ますとうら若き女性の囁きが聞こえてきた。

 

「ねえ、やっぱり止めようよ……」

「何を今さらここまで来て。夜這いしないなんて女のコケンに関わるでありんす」

「意味わかってんの? だいたいここはお風呂場だよ? いくらお優しいアインズ様でもお許しにならないって」

「罰は体を捧げて許してもらえばいいのっ! アインズ様のご寵愛をアルベドと吸血姫に独占させておくのはずるいでしょ。あんただって欲しいんじゃないの?」

「……でもぉ」

 

 目的と行動が駄々漏れの会話にため息を吐き、吐息で水面が揺れた。

 

(まったく、あいつらは何をやっているんだ……)

 

 已む無く骸骨は湯船に潜る。呼吸の不要なアンデッドの体に感謝した。お湯を伝わってくぐもった声が聞こえた。

 

「あれ? いらっしゃらないけど、もう上がっちゃったのかな」

「このチビ。さっさと服を脱がないからアインズ様が出ちゃったじゃない」

「あたしのせいなわけ?」

「他に誰のせいよ」

「ぬぅぅぅ」

「きぃぃぃ」

 

 二人は額をぶつけ、視線で火花を散らしている。

 

「はぁ……仕方ない。汚れだけ落としてく?」

「今度こそアインズ様にこの身を捧げようと思ったのに」

「口調、普通になってるよ」

「で、ありんすぅ」

 

 長い一日でシャルティアの体は汚れていた。お湯を波立てないように底へ掴まるアインズの視界に、未成熟な女性の裸体が飛び込んでくる。一通りの女性経験があったとしても、可愛いNPCのものであれば別問題だ。湯船の底で激しく動揺し、心なしか息苦しくなった。

 

「あれ、なんか白いものが――」

「ぶはっ!」

 

 恋愛喜劇の主人公が行うありふれた反応をした。酸素は必要ないので、掛け声そのものから不要だった。

 

「あー……いんずさまぁ?」

「えぇぇ……?」

 

 アインズと愉快な仲間は見つめ合い、一瞬の沈黙が流れた。嵐の前の静けさだと骨で感じる。すぐにアウラの絶叫が響き渡り、浴場から宿屋全体を揺るがした。

 

「わあああああ!」

「おおお落ち着くのだ! 決して覗こうとしたわけではな――」

 

 シャルティアは立ち上がり、体を隠すバスタオルをバサッと勢いよく外した。薄い胸を突き上げ、湯船の中で仁王立ちしている。

 

「アインズ様! お待ち申し上げておりました。都合よくお互いに裸でありんす! わたしと裸の付き合いを――」

「いやああああああ!」

 

 アウラの金切り声は浴場全体に轟いた。すぐに彼女は蹲ったが、浅黒い肌が海馬に刻み込まれた。アインズは目に手を当てて少女の裸体から目を逸らしたが、指の隙間から完璧に見えていた。沈静化後、自分でやっていて恥ずかしかった。

 

「早く出ろ! い、いや、私が出る! 決して悪気があったわけではないからな!」

「お待ちをぉぉ!」

 

 色白の少女は湯船から上がる白骨の脚部に縋りつき、勢い余ってアインズは頭部を床に打ち付けた。除夜の鐘に似た、金属の衝突音が鳴る。一昔前のアルベドと完全に一致していた。

 

「シャァァルゥティアア! 放さんかぁ!」

「お慈悲をぉぉぉお!」

「褒美は後でくれてやる! だから今は離せい!」

 

 可愛い部下という前提があるので、蹴飛ばして振り払うこともできない。アウラが恥ずかしさのあまり、反対方向へ体を向けたのが見えた。

 

「二人一緒でも構わないでありんす!」

「私は構う!」

「体を見られたあ! 成長してから見てほしかったのにぃぃ!」

「あ、アウラ、決して悪い体ではな――」

 

 動揺で論点がずれていた。

 

(馬鹿! なに言ってるんだ!)

 

「エルフは成長が遅い。決して恥じる体ではない」

 

(違う違う! どう見ても気持ち悪いだろ俺!)

 

「アウラ! アインズ様も仰ってるから、二人仲良く三つ指ついて――」

「あ、あの、もうお見せしちゃいましたしぃ、アインズ様がそれをお望みなら……」

 

 シャルティアの拘束は解除され、アインズは立ちあがった。蹲って水面に顔を近づけるアウラの頬が赤みを帯びた。アインズは後ずさり、あわよくばそのまま脱衣所に逃げ込もうとしたが、シャルティアに回り込まれた。已む無く湯船に後ずさるも、縁が踵に食らいつこうと接近する。恍惚としたシャルティアはなおも詰め寄った。

 

「はぁん……アインズ様の御体、なんてお美しいのでありんしょう……まさに美の結晶……」

「シャルティアアアア! 昼間から続いてお前はぁ、少しは反省しろ!」

「チビもシシュン期でありんす! ここは纏めて面倒を見てもらいんしょう」

 

 言い切ったぞとばかりに髪をかき上げ、したり顔をして眉根を寄せた。今は性的嗜好をふんだんに詰め込んで作成した元凶、ペロロンチーノを怒ってやりたかった。下がればアウラが、進めばシャルティアが待ちかまえており、逃げ場はなかった。

 

「冷静にならんか! 今、そのような行為に及ぶつもりはない!」

「うーん……言われてみれば、アウラはまだちっさいでありんすねぇ」

「それも違う!」

「あ、あんただって大して変わらないじゃない」

「色気が違うでありんす。花嫁修業の成果でそこはかとなく漂う色気が」

「どちらも同じだ! 今はそんな話をしているば――」

「やっぱり……グス……あたしが子供だから、駄目ですか……?」

「そうではないっ!」

「アインズ様ぁ!」

「アインズ様!」

 

 徐々に前後から詰め寄られていく。仲間が残したNPC(子供)に手を付けるのはアルベドだけで手いっぱいだったが、彼女たちからすれば仲間外れもいいところだった。

 

「アインズ様ァ!」

「や、やめろ、近寄――」

 

 飛びつくシャルティアに驚いて湯船の縁にかかとがぶつかり、アインズは背中から浴槽へ飛び込んだ。派手な着水音が鳴って浴槽のお湯が溢れた。溺れもしないのに「ガボボッ」と音を立て、白骨は湯船でもがく。

 

「アウラ!」

「え? え?」

「早く捕まえて!」

「あ、う、うん」

 

 アウラがアインズを起こそうとお湯の中を動き、シャルティアが頭から突っ込んでくる。

 

「げぇ!」

 

 アインズは飛び込むシャルティアに合わせるように起き上がり、アインズとシャルティアの頭は派手な音を立ててぶつかり、どちらかが蛙を蹴飛ばしたような呻きを上げた。

 

「アインズ様! 大丈夫ですか!」

「つっ……大丈夫じゃない」

 

 シャルティアは土左衛門よろしく湯船に浮かび、親の仇でも見つけて怒る餅のように大きなたん瘤が膨らんだ。そちらの心配は一切なされなかった。

 

「アウラ! お前まで一緒になって何をしている! こんなことをするために連れてきたのではないっ!」

「あぅぅ……でも、でも、だってシャルティアが……茶釜様は女性だから嫁入りできないって……」

「……悪影響だな」

 

 詳細は気になったが、アウラを全裸待機させて事情聴取する気にはならない。最優先すべきはこの場から逃げ出すことだ。シャルティアが大人しくなったのをこれ幸いと、足早に脱衣所へ駆けていった。

 

「アウラ、シャルティアが起きたら部屋に戻れ。明日は待機だ」

「はい……」

 

 アウラの返事を確認して脱衣所に逃げ込み、着るものも着ないまま転移魔法で逃げ出した。一刻も早く褐色と純白の裸体から逃げ出したかった。アウラはシャルティアを平手打ちして目を覚まさせ、誰もいない大浴場で友人同士は仲良く肩まで浸かり、体の芯から温まって命の洗濯を行なった。

 

 翌日、アインズは情報収集の名目でゴンド邸宅へ籠り、シャルティアとアウラの様子を遠隔視の鏡で見ていた。

 

「陛下、仕事にならんのじゃが」

「近隣種族の情報を知りたい。奪われた王都の話も聞かせてほしい。彼らを連れてきてくれ。今日は時間が余っている、ルーン工匠たちにも面通しをしたいので連れてきてくれるか」

「……なぜ唐突に。酒は持っておるのか?」

 

 アインズは意地でも宿には帰らないとでも言いたげに居座った。彼が宿に戻ったのは、太陽から逃げ出した常闇の竜王が夜になって戻った頃である。

 

「魔導王、元気が無いようだけど、太陽にでもやられたのかな」

「……部下の教育に悩んでいる」

「?」

 

 性教育とは言わなかった。

 

 

 

 

 

 デミウルゴスは細かく移動する蛇を見つけたが、ナザリックを出立してから半日以上が経過していた。(くだん)の大蛇は泣き喚く赤子を抱き、どこへ行くでもなくふらふらと頭を振って草原を進んでいた。

 赤子の口を借りて泣いているような常軌を逸した光景に、デミウルゴス並びに守護者とプレアデスも硬直した。平静を保とうと自分を諫め、ヤトの背後に降り立った。

 

「ヤトノカミ様、突然に失礼いたします。ご相談したいことがございます」

「……ああ、お前たちか」

 

 振り向いた大蛇の反応は薄く、赤い両眼は白く濁っていた。白濁した瞳にデミウルゴスが映っていたが、彼の脳は何も見ていなかった。風にそよぐ柳に魔法を打ち込んだ方がまだ手ごたえを感じられる。

 

「死ぬべきだったんだ……」

「は、はい?」

「俺は死ぬべきだったんだよ……あの日……」

 

 醜悪な種馬に成り下がった男性、恐怖に怯えて身を寄せ合わせて震える子ども、子を守ろうと尊厳を捨てた女、目の前で親友に食い殺された少年、脳内の記憶領域劇場で再生される絶望キネマの登場人物たちがなぜ助けないのかと視線で責め立てた。

 場面(チャプター)が変わって登場人物は獣人に変わったが、醜い怪物のくせに誇り高い獣の矜持を汚すなと、全員が思いつく限りの罵詈雑言を並べ立てた。

 誰もそこまで言っていなかったが、大地が底なし沼に変わったヤトは記憶を改悪して自分を追い込んだ。

 

 デミウルゴスは腕を組んで悩む。

 

 どうやって意識を呼び戻すかではない。彼の豪運を信じてこのままにすべきか、自分が手を差し伸べるべきなのかと、思考は二択を堂々巡りした。誤った解答を導き出し、ヤトが入手する成果の品質低下を招くことだけは避けたかった。

 これが対等な立場の守護者、部下であれば叱咤激励で意識を呼び戻せたが、相手は二柱の片割れ。アインズのために運命さえ味方につける副神の大蛇。

 

 本来ならば心配して駆け寄るべきだったが、デミウルゴスの躊躇がマーレとコキュートスに伝播して動きを止めさせた。自己嫌悪を狂気にまで昇華させた二名のメイドには伝わらず、後ろ手に拘束された両名は飛び出す。

 

「ヤトノカミ様……我らを断罪なさってください」

「私たちは創造主に捨てられたと疑い、あまつさえ姉に殺意を向け、ナザリックを災厄を招きました」

「断罪……?」

 

 蛇の反応は鈍かったが、視線はデミウルゴスに説明を求めていた。

 

「説明しましょう。実は――」

 

 白内障患者のような白く濁った瞳は、デミウルゴスの話が進むにつれて赤みを取り戻す。

 泣き喚く赤子は話の邪魔をせぬようマーレに預けられ、食事を与えられた。大蛇は頭を高く上げ、二人を頭上高い位置から見下ろした。

 

「断罪を、と?」

「我らの罪は許されるものではありません。もはや御二方だけでなく、創造主様にも顔向けできぬ所業です」

「放逐では生温うございます。存在を抹消すべきです、それこそが我らへの慈悲となるでしょう」

「……悪い、俺、お前らの上に立つに相応しくないからさ、その、他を当たってよ」

「そんな……」

「殺してください殺してください殺してください殺してください」

 

 ナーベラルとソリュシャンの目尻で水滴が滲む。一思いに処断してほしかった。悪夢は放置され、ヤトにも見捨てられた二人の心的外傷は深くなった。瞳は光を失い、今の二人は首と胴体が切り離されるのを待っていた。

 すかさずデミウルゴスが問う。

 

「ヤトノカミ様、竜王国とビーストマンの懐柔に苦悩していらっしゃるご様子。少しでもお役に立てていただければと、コキュートスとマーレをお連れ致しました。この二人も創造主に関する疑問や不安が燻っておりますので、ご意見をお聞かせ願いたいのですが」

「……そう」

「この地で御身が得た見識を御教授ください。このデミウルゴス、ウルベルト様より授けられた高い知性がございます。御身の実績に少なからず貢献させていただければ幸いです」

「……ああ」

 

 ヤトは自分で見聞きした事実だけを説明する。

 デミウルゴスなら既に知っている可能性を考慮したが、元から低い思考能力が蛞蝓に塩を山盛りしたように低下しているヤトは、つらつらと説明を行った。悪魔は静かに話を聞いて眉間に皺をよせた。額には青筋を立たせ、明確に怒っている。

 

 「見損ないましたよ」といつ言われてもいいよう、大蛇は事前に下を向いた。デミウルゴスは全く違うことを考えていた。

 

(忌々しい。汚らわしい人間どもと見下げ果てた獣ども……死では生温い)

 

 懐から羊皮紙を取り出し、ヤトに差し出す。

 

「こちらをお読みください。ダークドワーフ、ダークエルフ、ビーストマンなど、近隣種族にて人間がどのような扱いを受けているのかまとめた資料でございます」

「……今さら見てもしょうがないだろ」

「大それたことと理解していますが、やはり支配者として君臨なさる方が獣風情に丸め込まれるのは見るに堪えません。そちらをお読みなさったのち、お気に召さなければ私の喉笛を掻っ切っていただいて構いません」

「しないよぉ……そんなことー……」

 

 口調は上司としてではなく、職場にいる気弱な先輩並みになっていた。諦めてヤトは書類に視線を落とし、焦点は右から左を繰り返した。瞳の動きは徐々に速くなる。

 書類を読み進めるにつれ、大蛇の体から絶望のオーラが漏れた。

 

「ビーストマンとは醜悪な獣人です。肉食獣の闘争本能は知性を持ったことでより強まり、殺戮なくして抑えられるものではありません」

 

 見聞きしたビーストマンの印象をぶち壊すような事実に、言葉が出なかった。

 

 振り切った憎悪は体を震わせ、書類を握る手に力が込められていき、指が貫通して羊皮紙にいくつもの穴をあけた。

 そこに細かく記されたビーストマンの習性は――活動報告へカット――

 

 ヤトの視界は黒く塗りつぶされていった。

 

 

 

 

 (ヤト)は獣人を買い被り過ぎていた。

 

 これまでの出来事が早回しで巡り、脳のメモリは記憶の再生に容量をとられて言葉が出てこない。俺には考えることが多すぎた。デミウルゴスは頭の回転に合わせて解説を続けてくれた。

 

「野生の獣は生きるために必要最低限の獲物しか狩りません。未成熟な個体、特に子供を好んで狩るのは合理的で効率が良いからです。獲物に致命傷を与えたのなら、昼寝でもして力尽きるのを待てばいいのです。満腹時、目の前を獲物が横切っても無視をします。無駄な狩りをして体力を消耗する必要はありません。それゆえ、幼い個体に群れで襲い掛かるのです」

 

 それがビーストマンにも適用できると思っていた。えげつなく、猟奇的(グロテスク)な劣等種たる習性を見るまでは。事実、大切な友達だった人間の子供を食い殺した獣の子は、俺の目に神々しく、そして気高く映った。

 

「野獣に娯楽や快楽は存在しません。生きるために食らい、種を繁栄させるために交尾を行います。それが肉食獣の矜持、いうなれば誇りなのではないでしょうか」

 

 今思えば、焚火を挟んで虹色と話したあのとき、奴は俺が苦しむことを知っていた。

 知性の高いあの野郎が、俺の性格や行動を予想できないはずがない。脆弱さを悟り、獣だけに肩入れして人間を滅ぼすことはないと確信していた。

 

「ビーストマンは、勝利の宴にかこつけて人間を嬲り殺す醜悪な獣人です。心を持った獣は殺戮の楽しさを知っています。最終的に食べるから惨たらしく殺していいなど、それは獣性の教典(ドグマ)です」

 

 なぜ奴らは獣人の残酷性や宴の様子を話さなかったんだ…。

 

「恐らく必要がないと判断して話さなかったのでしょう。あるいはすべての個体が残虐ではなく、中には誇り高きビーストマンとやらも存在するのかもしれません。しかし、種族全体で見れば極めて少数です」

 

 そうだ……奴らは初めから隠していなかった。

 

 奴らにとって当たり前の事実は言葉の端々に現れていた。俺は疑問に思わなかった。出会った奴らのキャラの濃さと、家畜化された人間の事実を受け入れるだけで精いっぱいだった。

 

「この大陸全土に食人種族は驚くほど多いのです。今回、竜王国に攻め込んでいるのは大国ではなく、近隣の小国家から派遣された軍勢です。兵士の質が低いのも頷けます」

 

 奴らは宴と称して人間を惨殺する醜悪な獣、人間の仇敵だ。どうせ食うから殺す過程はどうでもいいというのは、デミウルゴスの言った通り獣側の独断的な屁理屈でしかない。俺は自分だけで踊り回り、勝手に落とし穴に落ちたんだ。

 

「人間の本質は悪魔以上に悪ですが、獣人を正当化する理由ではありません。食うためだけに殺すが勝利の宴は殺しも催しに入るなど、誇りが聞いて呆れます。やっていることは人間同様、弱者に対する凄惨な拷問、虫けらの四肢を捥いで喜ぶ幼子のような殺戮の饗宴なのです」

「反吐が出る……」

 

 俺の口は勝手に動いていた。

 

 竜王国に嵌められ、今度は獣にも嵌められた。自分で勝手に嵌ったとはいえ、俺だけが苦しんでいるのに腹が立ち、憎悪という名の黒い炎が燃え上がった。全員まとめてぶっ殺せばどれほど精々するだろうか。口からは瘴気が漏れていた。

 

 下手に心があるから、他者に対して際限なく残酷になれる。

 人間も獣人も醜悪だった。

 

 そして俺は元人間だ。

 

「悪意とは他者の苦痛を目的とするものではなく、自身の享楽を目的とするのです。殺戮を楽しみ、後先考えずに人間を惨殺して食い殺すビーストマンは、知性が足りず先見の明もない下等生物です。……ですが、弱者に対して際限なく残酷になれるのは人間も同様。我々からすれば、他者の殺戮を娯楽として楽しむどちらの種族も下等生物に過ぎません」

 

 ゆっくりと時間を掛け、デミウルゴスの長くありがたい解説は俺の内側へ浸透していった。

 

 天秤は大きく振れていた。

 

「あぁのぉぉ劣等種族がぁぁぁぁ……よくも俺を騙したなぁああ!」

 

 俺は空に向かって衝撃波を放った。限度回数に到達するまで放たれた無数の衝撃波が、空気を切り裂いて大気圏に突入し、宇宙の深淵へ飛び出した。てんびん座を切り裂いたかは定かでない。胸のつっかえは取れず、大鎌を地面に叩きつけた。

 

 大きく振れた天秤は、たったいま破壊された。

 デミウルゴスが来なければ俺はどうしただろうか。

 

「むしゃくしゃする。よっぽど人間の方が貴いじゃないか。スレイン法国なんか、プレイヤーへの信仰を今でも捧げてい――」

「お話を遮り恐縮ですが……ラナー王女の報告によれば、法国の国民たちは異形種に従うことを断固として拒む派閥ができています。上層部の説得は続いていますが、プレイヤーへの信仰から道を外し、異形種への嫌悪だけで戦う彼らもまた、独断的で醜い教典(ドグマ)の狂信者に過ぎません。反対派は魔導国に下った人間を裏切り者呼ばわりしています。神の名を利用し、背教者に舞台裏で私刑(リンチ)を行なっているとか」

「……ってことは、だ。仮にラキュースやラナー、帝国のものに演説をさせようもんなら」

「その場で暴動になるでしょう。お妃様の身に万が一でもあるといけません。その政策は御止めください」

 

 絶望のオーラは全門解放され、明るい太陽を黒く染めようと立ち上った。

 やはり人間はどこまで行っても醜い。

 

 醜い悪だ。

 

 だから醜くあらなければならない。

 

 元人間の俺は醜い悪の怪物でなければならない。

 

 壊そう。全部壊してしまおう。邪魔者を皆殺しにして最後に俺を殺そう。俺がこの世界にいた痕跡そのものから消してしまおう。全て壊して壊して壊して―――

 

「ヤトノカミ様、人間は魔導国の貴重な資源として活用可能です。生きている人間は質のいい羊皮紙として皮を剥ぎ、あるいは維持費を効率よく稼がせる駒として農業に従事させ、死後はアンデッドの素体、食人種族への嗜好品としてなど、多岐にわたって有効活用が可能です。我々も人間からすれば悪の部類にはい――」

 

 デミウルゴスの話で目を見開く。白昼夢を見ているようで、俺は自分が大地を踏んでいるか確認した。危なく憎悪に囚われるところだった。

 

 振り切った憎悪は悪意となって胸の中に居座った。

 

「人間は醜くて弱いが、協力しあうことによって大きな力が生まれる。彼らの美しい愛を信じ、醜さと悪さを受け容れよう!」

 

 デミウルゴスは急に叫んだ俺の意味が分からず、首を傾げていた。今までの会話と大いに矛盾していたので、さぞかし不思議だっただろう。

 

「……なーんて、偽善的な言葉は持ってないんだよ。悪で大いに結構。人間の大多数が糞の入った肉のずだ袋だ。邪魔なら殺し、気に入らなければ資源に回す。ナザリック地下大墳墓の支配者が、人間みたいに脆弱で偽善者じゃ相応しくないよなぁ?」

 

 歪んだ口を見て、デミウルゴスが身震いした。今の俺には、人間種族に対する悪意しかない。

 

「資源確保の犠牲なら貴いもんだな。快楽のために殺害しないだけ獣に殺されるよりマシだ。刑務所代わりに人間牧場でも建てるか?」

「す、素晴らしい名案でございます! このデミウルゴス、悪魔としてご助力いただきましょう!」

「魔導国から死刑がなくなるな。罪人や反逆者には皮を剥がれて羊皮紙に使われるお勤めをやらせよう。人間の数を減らしたり、国外逃亡に繋がる罪人は魔導国にいらない。人口が増え過ぎるなら適当に誘拐して牧場に攫え」

「人間牧場の草案は既にまとめてあります。御身から賜った提案を組み込み、新たに人間牧場計画を考案致しましょう」

 

 デミウルゴスの表情は水を得た。嬉しそうに拍手してくれた。部下にここまで喜ばれるとやはり嬉しい。お世辞の可能性もあったが、今は素直に受け取った。

 

 心が少しだけ軽くなった。

 

 眼鏡を正したデミウルゴスは話を続けた。

 

「私は悩んでおりました。御二方と同種族の人間を守るのは、悪として創造してくださったウルベルト様に対する不敬ですが、人間を資源として解剖するのも同じ人間である御方々が不快に思われるのでは、と」

「悩み過ぎだな。俺たちは悪だろ」

「私もそう思います。そのため、こうして悩める者たちをお連れしたのでございます。アインズ様に対してのみ発揮される叡智と豪運で、常に最良の結果を出してきた御身であれば、我らの苦悩に何らかの解答をお持ちかと」

「はあ? なんのこっちゃ」

「順を追ってお話しいたしましょう」

 

 支配者不在のナザリックで勝手に始められた迷惑極まりない伝言ゲームの結果、ナーベラルとソリュシャンが苦しんでいると教えてくれた。マーレとコキュートスは復帰しているようだが、俺を不安そうに眺めていた。その様子を見る限り、やはりアルベドと俺の戦闘の悪影響が残っているように思えた。

 

 俺は意見を求められた。

 

 別に何か狙いがあって行動したわけじゃないし、何らかの解答と言われても困る。悪意は困惑に押し切られ、全力で壁にぶつかった気分になる。俺はカレーと間違って糞でも舐めたような顔になった。

 

「うーん……作られた存在だからなのか、人生経験が足らないんだな。経験が」

 

 「いっそ相手探して結婚でもしてみるか?」と喉元までせり上がったが、彼らの真剣な表情にふざけるわけにもいかない。時間稼ぎが必要だった。虹色の話を思い出し、適当でそれらしい質問を選ぶ。

 

「デミウルゴス、神はいると思うか?」

「面白いご質問です。悪魔の私に問うたのは何か意味があるのでございますか?」

「いや、知能が高いお前の答えを知りたい」

「そうですね……神は存在しません。この世で信じるは忠誠と愛、全ては――」

 

 デミウルゴスは半端なところで言葉を切った。

 

 らしくない態度に彼を凝視したが、眉間に皺を寄せて難しい顔をする彼の考えは読めない。俺より高い知性を持つ彼の考えが分かるわけがない。馬鹿なりの視点でいえば、答えを言うことで何かが変わるのを躊躇っている、そんな雰囲気が出ていた。

 

「……失礼いたしました。神は存在しません。我らがこの世で信じているものは設定された自身の存在定義、そしてアインズ様への絶対的な忠誠と敬愛。神が他にいるのなら滅ぼしましょう。ナザリック地下大墳墓の主神はアインズ・ウール・ゴウン様のみ。それがナザリックに生きる我らの存在意義と証明、創造主に悪として設定された私の主義です」

 

 最後の語尾が震えていたのを聞き逃さなかった。言い切った表情はとても晴れやかだった。意図がよくわからないが、アインズさんを優先することに決めたらしかった。NPCは創造主を優先すると思っていたので意外だった。

 

「よくわからんが、ウルベルトさんよりアインズさんを優先するってことなのか?」

 

 全員の視線がデミウルゴスに集まった。

 

「我らの忠誠はアインズ様に捧げる供物。絞り出される苦悩の雫、その最後の一滴まで、アインズ様の所有物です。創造主への忠誠まで献上してみせましょう。我々の忠誠はアインズ様にあれと、ヤトノカミ様から学ばせていただきました」

 

 突然に名前を出されて動揺した。高すぎる評価に、買い被り過ぎていると指摘できる空気じゃなかった。

 

「それこそが、懐かしき栄光ある過去、アインズ・ウール・ゴウン黄金時代の残り火です。ナザリックの崩壊は至高の御方々の過去を侮辱する行為、万死に値します。我らはアインズ様並びに自身の創造主や至高の御方々が創造なされたナザリック地下大墳墓を永遠に守らなければなりません。たとえ……」

 

 言葉を切った。今、NPCは最後の一線を越えようとしている。俺は胸がすくような気分だった。

 

「たとえ創造主、ウルベルト・アレイン・オードル様と敵対することになっても、私はアインズ様とナザリックを守り通してみせます! 敬愛すべき私の記憶、過去のウルベルト様を否定することだけは許してはならないのです!」

 

 それは、眩い光に包まれる円卓の騎士に見えた。

 迷いを振り切ったデミウルゴスに引き摺られ、俺の胸につっかえていた黒い何かが何処かに去っていった。

 

 二度と戻ってくるな。

 

「そうか……それでいい……のかもしれないな……。神だか何だかは俺たちを選んだ。だからここにいる。そして俺は生きている。この世の全てをギルドを守ったアインズさんに捧げるため。あの人が求めるものを奪い取り、探し求め、献上するためだけにここにいる。俺の心臓は人間体の中で動いている」

 

 デミウルゴスの瞳にはめ込まれた二つの金剛石が煌めいた。考えこそ不明だが、同じ視点に立っている共鳴(シンパシー)を感じた。俺の頭は綺麗に澄んでいた。

 

「我らも共にありましょう。悠久の生が尽きるまで」

「お前らに教えておく。至高の41人とは、全員が人間だ」

 

 コキュートスとマーレはアインズさんから聞いていたようで驚きはないが、二名の美女は被害が甚大に思える。目を限界まで見開いて愕然としていた。

 

「不安に思う者がいたら説明してやれ。ギルド、アインズ・ウール・ゴウンのメンバーにナザリックを捨てた者はいない。生きるために去っただけだ。彼らを呼び戻す方法は、異世界への連絡手段、こちらに来る移動手段の二つ。それでも全員が戻るとは限らないが、大半のメンバーが帰ると思ってる」

「ほ、本当ですか!?」

「手段ガ分カレバ、御方々が御帰還ナサルノデスカ?」

 

 マーレとコキュートスが一歩前に出た。ついさっきまで斬首を待っていたナーベラルとソリュシャンも、瞳を輝かせて俺を見ていた。

 

「死んでる可能性もある。人間が向こうで幸せになるのは不可能だからな。それに異形種となるのを拒否するかもしれない。帰還しても心が歪んで、俺みたいに暴れるかもしれない。全員が戻ってこないかもしれない。もしかしたら誰も呼び戻せないかもしれない」

「おぉ、なるほど。それがナザリックの最盛期を取り戻す手段で、それを探すために旅を希望していらっしゃるのですね」

「アインズさんが希望するなら探すしかないよな。俺たちの王様を幸せにするために、な」

 

 俺は口を歪めた。

 

「だから、ナーベラルとソリュシャンも元気出せよ。ヘロヘロさんと弐式炎雷さんが戻ったら悲しむだろ」

「は、はい!」

「弐式炎雷様……」

「きっと喜ぶぞ。元気に動き回ってるお前達を見れば」

 

 二人は晴れやかに顔を上げた。少なくとも瞳は輝きを取り戻していた。

 

 全員が戻ったらそれはそれで騒がしくて楽しいのだろう。喧嘩になって致命的な決別をしたとしても、それさえもできないのはやはり残念だ。何より、アインズさんが心から楽しそうにしている未来はそれしかない。

 

 俺は自分の役目を自覚した。

 

 正直なところ、アインズさんがこの世界の主役かわからないが、俺だけ戻ったことに意味があるとしたらこれしか無い。

 

《何を見て何を成すのかは、往々にして当人の与り知らぬものだ。君の目の前にある天秤の秤皿は何を求めている》

 

 虹色の言葉を思い出し、今の俺をあいつが何と言うか気になった。

 

 人間の本質は悪だ。

 元人間の俺は悪でなければならない。正義や崇高さに拘るなんてイカれてる。

 アインズさんの強い光に照らされて闇は濃さを増し、夜の中で俺は外道となろう。

 

 ラキュースとレイナースは何と言うだろうか……。

 

「デミウルゴス、ソリュシャンとナーベラルの枷を外してやれ」

「これは失礼、直ちに」

「終わったらこっちに来てくれ」

 

 俺はデミウルゴスと顔を突き合わせて密談を始めた。スレイン法国の反異形種派はアインズさんが何とかする。今は竜王国とビーストマンどもに借りを返さなければならない。それが俺の成すべき行動、上げるべき実績だ。

 

「デミウルゴス、二度と舐めた真似をできないようにしたいんだけど、何か名案はないか?」

「そうですね……ではこのような策はいかがでしょうか――」

 

 彼の提案は俺の欲しかった案だった。少々手間がかかるが、悪のロールプレイに舞台設定は重要だ。これだけ人数がいれば一日で終わるだろう。

 

「パンドラが聞けば、オペラツィオーン・シュヴァルツェヴァルト(黒い森作戦)とでも名付けるでしょう」

 

 言葉の意味が分からなかったので無視した。

 

 俺は上空を見上げた。取りあえず今日は晴天だったが、作戦当日が雨だと具合が悪い。

 

「明日は晴れるかな」

「雲の様子を見る限り、明日は晴天が見込まれます」

「殺戮にはちょうどいいな」

「はい。死ぬには良い日です。存亡を懸けた戦いはいつだって晴天でございます」

 

 俺は愛想笑いで返事をした。空気も緩み、指示を待っている皆を眺めた。

 

「待たせたな。これから指示を出すからよく聞けよ」

 

 皆が俺の言葉を待っている。他の誰かが戻るまでの代理副支配者だから、今は我慢して聞いてほしかった。申し訳ない気持ちをチリトリで集めて捨てた。

 

「ナーベラルとソリュシャンはビーストマンの駐屯地に設置してある牧舎に行き、子供の家畜を一人残らず攫え。大人の家畜は殺していい。ビーストマンに見つかるように騒ぎ立て、宣戦布告してこい」

「畏まりました」

「ソリュシャン、知性のない子供は食べてもいいから」

「ょょ、よろしいのですか?」

「いいよ、面倒だし」

 

 そうだ、人間なんかどうでもいい。

 彼らは死んでも新たな肉体に魂が宿る。この世界の(ルール)が生まれ変わりで都合良かった。お陰で幾らでも残酷になれる。

 

 次いで俺の首はコキュートスとマーレに向いた。

 

「コキュートスとマーレは恐怖公を呼び出せ。この場所に黒い国境線を張る。侵入する者はゴキブリの餌にしろ。あそこの砦は竜王国のもんだけど、ついでに破壊しといてくれ。人間の生死は問わない」

「仰セノママニ」

「は、はい! わかりました」

「ヤトノカミ様。この赤子はいかがいたしますか?」

 

 マーレの腕の中で赤子は眠っている。死んでも代わりが産まれるなら別にどうでもいい。母親が生むだけの機械扱いされて死んだとなれば、こいつも死にたくなるだろう。

 

「殺しちゃえば?」

「いけません。子供は未来への可能性でございます」

「だって、もういらないよ。人間なんか勝手に増えるし、こいつも生い立ちを知ったら死にたくなるだろ」

「苦悩や葛藤に揉まれて成長し、我らの求めるものを探り当てる可能性もあります。蜘蛛の糸程度の価値しかない存在でも、何らかの役に立つかもしれません。資源は有効に活用しましょう」

「うぅん……そうか?」

 

 俺が赤子を殺そうとし、デミウルゴスが止めるという異様な光景に、マーレとコキュートスは顔を見合わせていた。

 

「面倒だな……魔導国と関係ない国の孤児院へ放り投げてくれ。魔導国からの贈呈品だとでも言っておけ」

「名前はどういたしましょう」

「……そういえば聞いてなかったな。母親を殺された子って意味の名前でも付けといて」

「畏まりました。すぐに手配いたしましょう」

 

 俺の代理号泣していた赤子の対処を終え、下を向きすぎて凝り固まった首を左右に振ってほぐした。

 

多分、俺はこれからも苦悩しながらのた打ち回って前に進んでいく。蛇は蛇らしく蛇行すればいい、確実に前に進めば構わない。今の俺は何が大事で何が大事でないか把握している。

 

 アインズさんの未来のため、俺は魔導国の蛇、主神の影で暗躍する邪神として邪魔者を殺戮する。

 

 手始めに獣の小国家を滅ぼさなきゃならない。誇り高き崇高な獣の戦士は、恐らく少数でも存在するだろう。今の俺には犬の糞にも劣る。

 

 命の価値なんてそんなもんだ。

 

「デミウルゴス、アインズ・ウール・ゴウンの旗を焼き払え。モモンガさんの紋章、髑髏の旗に差し替えろ」

「……よろしいのですか?」

「いいんだよ。俺たちの目的は、アインズさんと創造主の帰還を待っているNPCたちのために、皆を呼び戻す。主神をアインズさんと決めたのなら、徹底的にやれ。空いてる奴らを総動員してモモンガさんの紋章旗に替えてくれ」

「畏まりました」

 

 デミウルゴスの眼鏡が太陽光を反射して輝いた。不変の自己ルールを設定した俺に躊躇いはなかった。

 

 アインズさん一人のために獣が滅んだとしても、今日も世界は勝手に回り、太陽は燃え続ける。

 

 今日も世界のどこかで人が食われるが、知ったことではない。

 俺たちの好きなように、俺たちの規定(ルール)で邪魔者を排除する。

 

 なぜなら俺は世界の出演者(プレイヤー)だ。

 

 

「さあ、行くぞ。鋼鉄の意志で髑髏の紋章旗を突き立てろ。世界が誰のものか教えてやれ」

 

 

 

 

 







”ラヴレス”と名付けられた赤子はカルサナス都市国家連合の孤児院へ届けられた。


カットされたビーストマンの習性はR-18の活動報告に乗せておきます。
残酷なものが苦手な人は見ないでください。
作者はやりすぎました。流石にカットしました。


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