第21話
「最近、あまり来ないんだね」
ブランコに腰をかけて、白野は傍の少女に聞く。おずおずと顔を伏せ、桜はゆっくりとブランコを揺らした。
「うん。お爺様が…ううん、やっぱり、何でもないよ」
「そっか」
沈痛な面持ちにそれ以上尋ねることもできず、白野もまた、桜に合わせてブランコを揺らす。微かな桜の呟きが、風に乗って白野に届く。
「……空は、どんな形?」
「……空は、丸いよ。ねえ、桜。痛い?」
「痛いのは、慣れるもの」
「…………心は、慣れないよ」
初めて、二人の視線が真っ直ぐ交わされる。蕩けそうな蜂蜜色の中に、歪んだアメジストの瞳が映し出される。桜は愛しい我が家を飛び出して、初めて心から涙を流した。自分に抱きつき、噛み殺したように嗚咽を漏らす桜の頭を、白野はいつまでも撫でてやった。
間桐雁夜は戸惑っていた。宿敵と定めた男、遠坂時臣は既に聖杯戦争を脱落しており、教会の保護を受けているため手も足も出せない。庇護すべき対象の桜もまた、別の子供に癒しを見出して全く己の出る幕はない。今に自分がすべきことは、キャスターを打ち倒して新たな令呪を報酬にもらうことか、それともこの隙に他の陣営の脱落を図ることか。何より、半ば怪物と化した父、臓硯が漏らした一言が気になった。
「此度の聖杯には既に全く違う次元の思惑が絡んでおる。かっかっかっ、こちらとて仕込みに忙しいと言うのに、全くのう」
癪ではあるが、こと魔術やら神秘やらについて、あの老怪の言うことは当たる。バーサーカーは相変わらず意思疎通が困難だし、差し当たりは、桜に接触してきている子供に張り付くか……。
「桜が消えよったわい。ふん、小娘どもが何を考えようと、無駄だと言うになぁ。雁夜、桜を連れ戻してくるがよい」
老怪によって桜失踪の知らせがもたらされたのは、キャスター討伐指令が下って間も無くのことであった。
「何故拾ってきた?」
泣き疲れた桜を説き伏せ、何とかそっと拠点の廃校に戻るなり、腕を組んだ我らが王がこの上ない渋面をもって出迎えてくれた。下手な言い訳はやめたほうがいいと思い、反射的に桜を背後に隠して白野はいっそ堂々と宣った。
「放って置けなかった」
「ハッ!貴様ごときハサンが業を背負うだと?何たる思い上がりだ!己に降りかかる火の粉も払える哀れな雑種であるからして!第一、ーー」
ここで、蛇のような鋭い眼差しが桜に向けられる。射殺さんばかりのそれに、思わず桜が白野の袖を握りしめる。興味なさげに目を細め、黄金の王は幼子に到底向けてはならない暴言を吐いた。
「貴様は意思のない人形か?それとも壊れ果てた玩具か?何れにせよ、今のうちに死んで置け、娘よ。馴染んでしまえば、死ぬことも出来なくなるぞ」
「なっーー」
白野は思わず絶句して唇を
「まあ、待て。あれは介錯してやったほうがまだ良いと言うもの。人形が欲しくば幾らでも代わりを用意する故、諦めるがーー」
「桜は諦めない!手を離さないって決めたもの!絶対に、助ける」
「ほう。
初めて向けられる敵意に思わず身が竦む。今までの体験と比にならないほどの重圧が小さな体を襲う。刃を直接首に当てられるかの冷気を、震える足を叱咤して跳ね除け、白野はそれでも精一杯抗った。
「放っておいて!
無意識であろう、己に授けられた唯一の権能を解放し、白野の怒りに反応した雷が弾けた。振り返る事なく桜を追いかける姿に、頰を斬られた王は唇を歪ませ、燃えるような激情を瞳に宿す。
「なかなかどうして、良い顔をしてくれる」
「桜ーー!桜ーー!」
どれだけ歩いただろうか。季節外れの大雨が岸波白野の小さな体から体温を奪う。何故桜にここまで執着するか、正直分からない。けれど、体の奥から溢れた感情が、何処か遠くへ忘れられた記憶が、見捨ててはならないと、助けろと叫んでいる。それの正体は分からないけれど、白野は諦めるわけにはいかなかった。 諦められるはずもなかった。
熱で頭がぼうっとする。大丈夫だ。大丈夫。足はまだ辛うじて動く。くぐもった嗚咽に紛れていたが、あの時確かに桜は、彼女は、自らの意思で選んだのだ。もう戻りたくないと、そう言った。例えギルガメッシュが何と言おうと、連れ戻さなくては。
視界は既に朦朧としている。先の見えない雨のせいで、形も音もよく分からない。それでも白野は止まらなかった。ここで立ち止まるわけには行かないのだ。
ーーはくの。
ーーせんぱい。
ーーセンパイ
何かに導かれるようにして、大きな邸宅の外縁を辿る。桜にしては少し大人びた声色、とも思う。けれど、間違いない。彼女は、大事なーー。
「Arrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrr…!」
日本の住宅街に似つかわしくない、洋館の前で漆黒の西洋甲冑が視界を塞ぐ。その背後で、くたびれたパーカーを着た男が、何かを呟きながら桜を抱き上げる。
ーーセンパイ
ーーセンパイ
「…か、えして……桜を、かえせ」
掠れた声を絞り出す。叩きつけるような雨の中、頭は驚くほど冷静に動いた。あれは、バーサーカーだ。ギルガメッシュを、一度は手こずらせた。無謀であることは承知で、アイギスを展開し、紫電をまとったまま体当たりをする。
「…かえせ!…かえ、せ!」
叩けども堅牢な城のように、騎士はびくとも動かない。ぎちりと肩を押さえつける指が食い込む。骨が軋む音がする。もう腕は上がらないだろう。我ながら支離滅裂だが、退くことなど考えられなかった。退けば、二度と機会は巡って来ないだろう。
「汚ならしい手を離すがいい、狂犬風情が。誰の許しを得て我が財に触れるか」
眩い光の矢を受けて、無骨な西洋甲冑は大きく後方に弾け飛んだ。傲岸不遜な物言いと、雨垂れ越しにも見紛うことのない王の姿に、白野は心臓が止まる思いがした。