「どーぞ。特製の
暁自らが吹雪達の前にカップを置いて、対面に腰かけた。得意気に声を伸ばして、手に持つカップを揺らして見せる。彼女のコーヒーも吹雪達のコーヒーも全てブラックだ。無糖。無牛乳。
鼻先を掠める芳醇な香りに、吹雪はごくりと喉を鳴らした。
「……苦そう……だね、叢雲ちゃん」
「そう?」
こそっと隣に座る叢雲に耳打ちするも、彼女は平気な様子でコーヒーに口をつけていた。苦いのもいける口らしい。反対に座る瑞鳳も何も加えずにそのまま飲んでいる。
吹雪は自身の前に置かれたカップを見下ろした。黒々とした液体はコンビニエンス妖精で見た駄菓子、シュガータールの姉妹品、ココアタールの黒さによく似ていた。
「んくっんくっ、ぷは。どうしたの? 飲まないのかしら?」
「え? あ、いえ、飲みます飲みます!」
ゴクゴクとカップの中身を半分以上一気に飲んだ暁が、ぺろりと唇を舐め、片眉を上げて問いかけてくるのに、吹雪は慌ててカップを手にして口をつけた。
――!
まだ口の中に含んですらいないのに苦い。唇が侵食されているかのようだ。
反射的にむっと口を縫い合わせて、なのに数滴ほどがするりと滑り込んだ。
凄まじい痺れが舌先を襲う!
これは……苦いなんてものではない……! これは暴力だ! 刺激の暴動だ!
苦すぎるんですよ……苦すぎるんですよ奴は!!
とてもではないがこのままでは飲めなくて、吹雪は周りがブラックを嗜む中、一人ミルクとお砂糖に手を伸ばした。
「ふふん。まだまだお子様ね」
「……うう」
勝ち誇ったように暁が笑う。よくわからない敗北感に襲われて、吹雪は項垂れた。生まれた日がどうこうとか年齢だとかは関係ない。自称レディーの暁に負けるのは、こう、なんというか、許されざるべき事なのでは、なんて思ってしまったりしたのだ。
吹雪は知らなかった。
暁がズルをしているなんて。
「それで? その格好はどういう事なの?」
シュワシュワと微かな炭酸の音を発する
「見たままよ。こちら、本日我が鎮守府に着任した提督・吹雪さんです。……本人もそう名乗っていたでしょ?」
ここにいない大淀に代わって瑞鳳が説明役を買って出た。
ちなみに、今ここにいない面々は車からダンボールを運び込む役を担当している。この地に来た目的の半分は物々交換だ。もう半分は情報の共有、そして司令官のお披露目。
「……また人間に会えるなんて、夢にも思わなかった」
暁は、夢見心地な瞳をして、うっとりと吹雪を見つめた。彼女も胸の高鳴りを感じているのだろう。人間と接する事で思い出される艦娘としての役割。本能が刺激され、なすべき事が強く脳に刻まれる。
深海棲艦がいるという話と合わせれば、彼女の興奮は一層高まった。
「今すぐすべての艦娘に伝えるべきね! 蜂起だわ! 決戦よ! 全部の戦力を集めて、その深海棲艦をやっつけるのよ!」
「それは不可能よ。わかってるでしょう? レ級には何人束になっても敵わない」
「関係ないわ! だってこっちには人間がいるのよ!? 人間の下で戦って沈めるなら、最高じゃない!?」
椅子を倒す勢いで立ち上がった彼女が、一言一言を机を叩くと共に発する。大きく見開かれた薄紫色の目が吹雪を捕らえて離さない。
人間、という言葉は、やはり今の艦娘達にとっては刺激が強い。
暁の豹変を受けて困惑する吹雪は、自身の存在が他にどう影響を与えるのか、それをまざまざと見せつけられた。
ただ人間だ、と名乗っているだけの自分の指示で戦えるなら死んでも良いと言うのだ。それが十四年、人がいない世界で過ごした艦娘の……共通認識。
瑞鳳も叢雲も、果ては初雪や潮だって、司令官の肩書を持った吹雪が『どこまでゆくのか』と問えばこう答える。『海の底まで』、と。
元々戦うために生まれた艦娘だ。彼女達は飢えている。十数年飢餓に晒されてきた。
ここにきて人間と深海棲艦が一緒くたに甦ったなら、とるべき行動は一つだけ。
戦い続ける。その身が朽ち果てるまで。
きっと未来はその先にある。水平線に勝利を刻めば、きっと未来は救われる。
誰もがそう感じていた。純真な少女のように、信じて疑わなかった。
吹雪も例外ではない。……いや、生まれたての吹雪こそ、そう思っている。だから人間になる、というのは飛躍しすぎているが。
暁が落ち着いたのは、吹雪がコーヒーの正体がコーラである事に気付いた直後だった。
◆
「暁の鎮守府の仲間を紹介するわ。まずはうちの料理担当、漣」
「どーも」
「開発の担当、
「よっす、よろしく」
「生活指導担当と妖精指揮の専門家、
「よろしく」
「そして最後はこの私! レディ担当の暁さまよ!」
以上よ、と締め括れらて、吹雪は本棟前に停められた車の前に並んだ三人の艦娘の顔を順繰りに見た。ピンク髪にツインテールの漣に、茶髪の重巡摩耶、桃がかった髪色にクールな表情の不知火。
「三人だけなんだ……」
「あたしら以外はみんな寝てるぜ、提督さんよ」
「これが標準なのね。むしろ多い方だと思うよ、ご主人様?」
「司令の鎮守府が特別なだけです。一つ処に一人二人だけというのは珍しくありません」
思わず呟いた吹雪の言葉に、三人がそれぞれ言葉を返した。……一言目から吹雪を司令官と認めている。しかもこの地の司令官に対するような口振りだ。
少々の違和感を放り捨ててそれを受け入れた吹雪は、このまま話を進める事にした。……突っ込んだら、何か恐ろしい事になりそうな気がしたのだ。
「お隣さんは
「……それ、大丈夫なの?」
吹雪の疑問は、無論『一人で大丈夫なのか』という意味だ。
「人数が少ない方が資源のやりくりは楽だろうな」
「秋津洲先輩はハングリー精神旺盛だから心配ご無用、そんな事よりご主人様っ、漣達の欲しいものドンピシャで持って来てくれるなんて最高ですぞ!」
「相応の対価が必要ですね」
じーっと三人に見つめられて、吹雪は首を傾げた。物々交換の話は聞いているし、その内容も金剛の喜びようからだいたい予測がついていたが、はて、彼女達が殊更喜ぶものなんて持って来ていたのだろうか。
「こらっ、駄目よみんな! 彼女をうちの司令官にするなんてできっこないわ!」
「えっ、な、なに? どういう事?」
たたたっと走ってきた暁が吹雪と三人の間に割り込み、視線を一手に引き受けた。……うちの司令官に、とはどういう意味かと困惑する吹雪だったが、さっきの物々交換の話と口振りを思い出し、ようやく合点がいった。
彼女達は対価を支払い、見返りに
「いーじゃねーかちょっとぐらい。なんなら半分でもいいからさぁ」
「え、半分って……?」
「名案キタコレ! 均等に分ければみんな幸せ!」
「え? え?」
「不知火にお任せを。妖精さんから包丁とバーナーを借りてきます」
「ええーっ!?」
雲行きが怪しい。というか直球だった。
このままではケーキよろしく半分こにされてしまうっと戦慄する吹雪の前で、もー! と暁が怒りだした。
「どうして暁の言う事が聞けないの!? みんな、無理を言い過ぎよ! おかしいわ!」
「暁ちゃん……」
ああ、小さな彼女が一番正気を保ってくれている。
この頼もしいレディに、吹雪はかなり安心して、ほっと息を吐いた。
「みんながっつきすぎよ! そんなのレディの振る舞いじゃないわ!」
「……ん?」
「ちょっとずつちょっとずつ気を引いて、自分から来てもらえるようにすれば良いのよ!」
「……あれっ?」
何かおかしい。
彼女は三人を止めているのではなかったのか。吹雪の耳には、むしろ暁は三人を焚きつけているように聞こえた。
「じゃあうちで作れるケーキやクッキーで胃袋を掴むのね!」
「パーティと称すれば断れないでしょう」
「甘いのは苦手なんだけどなぁ……」
「うんうん、さすが暁ね。この作戦なら必ず司令官が手に入るわ」
目の前で繰り広げられる作戦会議に、もうどうしたら良いのかわからなくなってしまって、吹雪はとりあえず空を見上げる事にした。
綺麗な空だ……。あの薄く澄み渡る青色の中に溶けていけたら、きっと気持ち良いだろうなぁ……。
「ケーキ食べ放題と聞いては黙ってられまセンネ!」
「うおっ、なんだ!?」
にょきっと摩耶の背後に現れた金剛が、にっこり笑顔で摩耶の肩に手を置いた。いつの間にそこに。あいにく吹雪は空を見ていたから気が付かなかった。
「漣ちゃん、しっかり」
「んっ。どしたの、潮」
漣に寄り添った潮がその手を引けば、先程までの興奮が嘘のように静まって、不思議そうに問い返している。
「……不知火に何か?」
「何もかかしもないわ」
どこかへ行こうとしていた不知火は、前から歩いてきた叢雲に足を止め、静かに問いかけた。
荷物を運び終えて吹雪に報告しに来ただけの彼女には、不知火に特に用はない。が、そのやりとりで不知火も正気に戻ったらしい。それ以上何を言うでもなく、叢雲の歩みに合わせて吹雪の前へ戻って来た。
「吹雪。とりあえず物々交換は終わったわ。どうする?」
「できればすぐお
今のやりとりを聞いていれば、身の危険を感じずにはいられない。吹雪としてはさっさと自分の拠点に逃げ帰りたかったのだが、戻って来た大淀は「そうですか? 少し交流を、と思っていたのですが……」と難を示した。
もう顔合わせは済んだんだからいいんじゃないかな、帰っても。そう吹雪は思ったが、「partyしないデスカ!? ケーキ食べたいデース!」と非常に乗り気な金剛に阻まれ(ちょっと悪い言い方をすれば、駄々を捏ねられた、とも言える)テイトク~、ネ? ネ? と腕に取りつかれて上目遣いでお願いビームを当てられては、とてもではないが否とは言えない。
(さっきみんなが変な風になってたのは、一時的なものだよね)
だからきっと、大丈夫。
自分を誤魔化した吹雪は、暁達の案内で食堂へ向かう事にした。
◆
「はぁ~ん、美味しかったねー」
「……まぁ、そうね」
アクシデントは起こらず、吹雪はたんまりケーキを胃に収めてご満悦。幸せそうにお腹を擦りながら叢雲に同意を求めた。連装砲ちゃん達の口元を布巾で拭ってやっていた彼女は静かに頷いた。澄ました顔をしているが、この中で最も多くの甘味を口にしたのは叢雲だったりする。
食べ放題だ、とはしゃいでいた金剛は紅茶を飲みながらだったので、食べた量自体はそれほどでもなかった。
「でも、不思議だねー。どうしてうちでは日用雑貨が開発できて、ここではお菓子が開発できるんだろう
?」
「さぁね。あたしがいる事が条件らしいんだけど」
金剛と同じテーブルについている摩耶が、ティーカップに指を引っ掛けて危なげに揺らしながら答えた。
妖精さん達の説明には不明瞭な点が多く、ゆえに謎は解明されていないが、考えるだけ無駄である。作れるから作れる。それでいいのだ。
お腹が満たされて眠くなってきてしまった吹雪は、いけないいけないと頭を振り、帽子をかぶり直した。まだ口の中にクリームと生地の甘みが残っている。唇を舐めればより鮮明にそれが感じられるだろう。
「ケーキウマー」
「ふふっ」
仲睦まじげに食べさせっこをしている潮と漣。
「…………」
「…………」
黙々と目の前のケーキをやっつけている不知火と初雪。
「ではやはり、沈んだのね」
「多くの証人がいますから、確実に……」
「実際に私も見たし……」
奥の方で満潮と大淀と瑞鳳が小声で話している。
「もうケーキは良いの? お代わりは?」
「ううん、私はもう大丈夫。叢雲ちゃんは?」
「貰っておくわ」
お皿やカップを手に忙しなく働いていた暁が吹雪達の下に来て、叢雲にチョコレートケーキを渡して走り去って行った。
キューキューと催促する連装砲ちゃん達に半分切り取ったケーキを三分割して分け与える叢雲を眺めながら、平和だなぁ、と吹雪は思った。何もなくて、意味もない日々は嫌だけど、こういう穏やかさなら大歓迎だ。
穏やかな交流会は、港に『神隠しの霧』を引き連れた秋津洲が現れるまで続いた。