浴室。
壁際にずらっと並ぶシャワーの中央辺りに、吹雪と叢雲は立っていた。
ザァザァ降りの湯水が肌で弾けて霧を漂わせている。蔓延する白さの中に二つある肌色は、とても明るかった。
「む゛ら゛く゛も゛ち゛ゃ゛ん゛~、私、私もうどうしたら良いのかわかんないよぉ~!」
「はいはい。シャンプーが目に入ったのね? じっとしてなさい、今流してあげるから」
わしゃわしゃと乱暴に頭を掻き回して泡を立てていた吹雪が、ぐわっと両腕をガッツポーズでもするみたいに広げて涙を流すのに、叢雲は呆れたようにシャワーのノズルを向けた。
吹雪は、部屋で叢雲と話してからはずっとこんな調子でぐずついていて、そんな年下の姉に叢雲はたじたじだった。
まるで子供のように天井を向いてあ゛~っと声をたてて泣く吹雪に思いっきり溜め息を吐いた叢雲は、壁にかけられた垢すりを見て、ひったくるように手に取って素早く薬液を染みこませ、揉み込んで泡立てると、この手間のかかる姉の丸洗いに取り掛かった。
■
「島風を探してる?」
「うん。私、頼まれて……はいないんだけど、この子の事、探してて」
古びた写真を渡された叢雲は、それを一瞥して眉を寄せると、そう吹雪に問いかけた。明るくやる気の
「……そもそも、この写真はどこから手に入れたのよ」
「それは、えっと、廊下にいた満潮ちゃん、から」
「…………満潮は生きているの?」
「い、生きてるよ? 息してたし」
「動いてはいないのね……」
ふぅ、と息を吐いた叢雲と一緒に吹雪も息を吐いた。怒られるかもと思ったけど、そんな事はなかったからだ。
「では連装砲ちゃん達はどうしてここにいるのかしら。……あなたはどこで彼女達と出会ったの?」
「……布団の中?」
「はぁ?」
はぁ? なんて言われても、事実をそのまま言っただけだから他になんとも言えない。指を突っつき合わせながら吹雪は今朝あった事を話した。
それから、自分が生まれた日に海で出遭った深海棲艦の事も。
「あんの深海棲艦……!!」
「叢雲ちゃん!?」
レ級のレの字が出た時点で叢雲は豹変した。さっと身を翻して出入り口へ取りつき、乱暴に扉を開け放ったのだ。
尋常でないその様子に慌てて追いすがって艤装を掴んだ吹雪は、成り行き上そのまま引っ張って押し留めた。
「ど、どこ行くの、叢雲ちゃん!」
「離しなさい! あの深海棲艦を倒しにに決まってるでしょう!」
「で、でも、どこにいるかなんてわからないよっ!?」
レベル差があるせいか凄まじい力に引っ張られて、踏ん張る足もじょじょにざりざりと床を擦って動き出してしまった時に、叢雲がふっと力を抜いた。
「あわっ!?」
当然投げ出された吹雪は、振り返った叢雲の細腕にふわりと抱き止められ、優しく押し戻されてその場に立たされた。
彼女はやるせなさそうな顔をしていた。自分の無力さを噛みしめるような、敗北と屈辱に濡れた表情。底から吹雪が読み取れたものは少ない。けど、少しばかりの共感があって、吹雪も表情を暗くした。
「そう、ね。……あの霧は神出鬼没。どこにでも現れるし、どこにもはいない。……それに、私一人で向かっていっても無駄死にするのがオチね」
「そ、そうなの?」
噛みしめた歯の隙間から苦々しさと共に言葉を吐き出す彼女に、吹雪は胸元に手をやって首を傾げた。
あの記録映像の中で深海棲艦化し、襲って来た者の中には戦艦級もいた。だけど叢雲は一人で全てを相手取り、これを轟沈させた。
その彼女がたった一人の戦艦に敵わないと言ったのだ。まるで想像できる戦闘レベルではなくて、吹雪は困惑した。
「……知らないのね。当時最強を誇っていた艦娘でさえ、あいつには敵わなかったのよ」
「……そう、なんだ」
最強と言われても吹雪にはピンと来ない。
だけどレ級がとても強いのはわかるし、それがとんでもレベルで、なのもなんとなくわかってきた。
激情からか広がっていた叢雲の艤装が折りたたまれて背側へ収縮する。頭部両側の艤装が緩やかに倒れ、起き上がると、彼女は壁に手を当てて吹雪と向き合った。
「島風を探しているという艦娘はレ級の
「うん。あの子、捕まってるみたいだった。武器も艤装も奪われて……それでも諦めず、たった一人の妹さんを探してたんだ」
「
「うん、うん! そうなの!」
そうなの! ではない。
あからさまに不審者である少女をただのかわいそうな艦娘と信じて疑わない純真な姉に、叢雲は頭痛を堪える仕草をした。頭が痛くなりそうだった。いや、ズキズキと痛み始めてきた。
その認識を変えるのは一朝一夕ではなせそうにない。強敵だ。
「まあ、今はその話は置いておくわ。問題は、よ」
「問題?」
側頭部を手の付け根でとんとんと叩きながら言えば、吹雪がオウム返しにする。
何はともあれ、まずはその島風の事を話さなければ始まらない。そう判断した叢雲は、最終決戦での島風の事を語った。
「あの時……私は、何もできなかった」
「……?」
『シマカゼっ!』
一人の艦娘の悲痛な声が海に響く。
不意を打たれて首を掴まれ、持ち上げられた島風は満身創痍で、だから――抵抗が遅れた。
かち上げるように振り上げられた拳に打たれ、浮き上がった彼女の体は限界を迎え――。
その身に秘めた力と共に爆散した。
激しい風が巻き起こり、波を起こす。それでほとんどの艦娘が、自分達の仲間がやられたのだと知った。
「……それ、じゃあ」
「そう。……あなたの探している艦娘は、もういない」
「そ、そんなっ」
吹雪は、二つの目的をいっぺんに失ってしまった。
島風を探す。そして、あの少女の下に連れて行く。
もはやどちらもできないと知った吹雪は、悲嘆に暮れた。
……でも、だけど。まだ、まだもう一つ、生きる目標がある。
「なら、私、満潮ちゃん達を元に戻してあげなきゃ……」
「……それは無理なのよ、吹雪」
俯きかけた顔を上げて絞り出すように言った吹雪に、叢雲は目を伏せて、諭すように返した。
「な、なんで? ほとんどの子は燃料がないからああなってるんでしょ?」
「もちろん、それが理由の艦娘もいるにはいるわ。でもほんの少数。他はみんな、自分達の存在する意味を見失って倒れてしまっているの」
「なら、また意味を見つけさせてあげれば……!」
「だから無理なのよ。世界中のどこを探しても人間はいなかった。人間がいない限り、多くの艦娘はもう立ち上がる事はできない」
「そんなぁ……! なんで、そんな……」
叢雲の言葉には真実味がある。
なにせ十四年もそこかしこへ行っていたのだ。きっと多くのものを見てきたのだろう。感じてきたのだろう。
だから吹雪は何も言い返せず、じわじわと瞳に涙を溜めて、堪え切れずに泣き出してしまった。
「それじゃあ、私、なんのために生まれたの……?」
「吹雪……」
ぼろぼろと涙を零し、服の端をぎゅっと掴んで伸ばす彼女を、叢雲は優しく抱いた。
そうするほかなかった。その悲しみや失意を慰める事などできなかった。
『人間がいない』という事実は、覆しようがないのだから。
◆
正午過ぎ。
風呂上がりにリラクゼーションルームに足を運んだ二人は、そこで寛いでいた。
「あ゛~゛~゛、き゛く゛~゛~゛」
「……」
背もたれの無い長椅子に腰かけ、冷えた水をちびちび飲みながら、叢雲は蕩け顔の吹雪を眺めていた。
マッサージチェアに体を預けて全身を解されている彼女は、まるで天国にいるかのような声を出して涎を垂らしている。
泣き腫らした目もようやっと腫れが引いてきて元通りに近くなってきているのもあり、叢雲はそろそろその形容しがたい表情をやめろと注意しようかと思い始めていた。とてもはしたない。そもそもあんた、生まれたてでどこも凝ってないだろう。
まあ、せっかく持ち直してきたのだ、笑ったカラスをまた泣かせる必要はどこにもない。
席を立ってもう一つグラスを用意した叢雲は、体を弛緩させている吹雪を叩き起こして、水を勧めた。放っておくと9時間くらいやっていそうだったので強制終了もやむを得まい。
「ごめんね、叢雲ちゃん。恥ずかしいところ、見せちゃったね」
横長椅子の方に映った吹雪は、両手でグラスを挟んで持ち、気持ちが落ち着いてくると、先程の事を謝罪した。
「別に、良いのよ。泣きたい時に泣くのが一番なの」
「……ありがとう。優しいね、叢雲ちゃんは」
「……それに、さっきの吹雪の方がよっぽど恥ずかしい顔をしてたわ」
「へぇ!? そ、そんなにだった?」
なんだか恥ずかしい事を臆面もなく言ってくる姉に、叢雲は咄嗟に誤魔化した。足をぴんと張って驚く吹雪は、それからおかしそうにくすくすと笑い始めた。
「ふふ。ほんとにありがとう。私、まだ頑張れそうだよ」
「頑張ってもらわねば困るわ」
前を見たまま叢雲は言う。
きっと今、吹雪はとても穏やかな笑みを浮かべているだろう。直視すれば心が溶かされてしまいそうだ。
それでは駄目なのだ。
それでは、この時代を生き抜く事はできない。
あの倒れ伏した艦娘達と同じにならないようにするには、心を強く持つしかない。
「吹雪。どれだけ残酷な事実があっても、決して折れては駄目よ」
「…………うん。わかった」
素直に頷く気配がした。
……それがとても危うく感じられて、叢雲は秘かに溜め息を吐いた。