今回はみんな大好きあの人回です。
霞スミカは完全に自己を見失っていた。
引き止める声を振り払い、彼女は逃げるようにレオーネ・メカニカから去った。一人ヨーロッパを放浪していた彼女は、今は一人西欧のダウンタウンに建つボロアパートに隠れるように暮らしていた。
その部屋には必要最低限の家具すら揃っていなかった。あるのは安酒の空瓶と小汚い毛布、そして部屋の隅に固まった乾いた吐瀉物だけだ。
スミカは、ただただ酒を飲むことのみに時間を費やしていた。朝起きてからひたすら浴びるように酒を飲み、気絶する。そんな生活をもう半年は続けていた。
今の彼女に、自分を慈しむだけの余裕も理由もなかった。できれば、このまま酒に溺れてしまいたい。何も考えられなくなって死んでしまいたい。あぁ、ゲロを喉に詰まらせて死ぬのも良いかもな。そんな風に毎日考えていた。
彼女の身体は、あの時の傷によりネクストの機動に耐えられなくなっていた。もし乗れば、まず間違いなく脊髄に傷が入るという。良くて半身付随、最悪では死の可能性もあるとの事だ。
それでも、レオーネ・メカニカは彼女を捨てようとはしなかった。彼女に士官やアーキテクトの道を指し示し、リンクス養成施設での教官という職も案内した。
だが、霞スミカはネクストに乗れなくなった自分に価値を認める事が出来なかった。
もはや、狂人に対して彼女が復讐を行う機会は永遠に失われた。
自らをこんな姿にしたあいつを殺せない、そんな人生に一体何の価値があるのか?
酒をあおる。度数の高さのみが売りの安酒だ。味など無いに等しく、ただ質の悪い酔いのみが身体を支配する。
彼女は死にたかった。だが、何度天井に縄をくくっても、その度に聞こえる狂人の嘲笑う声により、彼女は怒りのままに縄を引き千切ってしまう。握ったナイフはぼんやりとしたイレギュラーの幻影に突き刺してしまい、身を投げるにしてもその様子を楽しそうに眺めるクソッタレを相手しているうちに、気がついたら気を失っている。
その他の方法を試しても、まるで弱い自分を馬鹿にしたようにあいつは笑い狂い、スミカは怒りのままに暴れてしまう。
結局、彼女は酒に逃げ続けた。酔っている間は、少なくともあの声には靄がかかっていた。このままこの霧が濃くなって、何もわからなくなって死ねたらどれだけ幸せだろうか。
もう一度酒をあおる。と、瓶が空になった。代わりを探そうと周りに手を伸ばすが、中身の入った瓶は無い。
舌打ちをする、まだ頭に酔いは回っていない。
「買いに行くか…………」
壁に手をついて立ち上がりながら、スミカは床に放り出された衣服を拾う。レオーネから逃げ出して以来洗濯などしていなかったが、この町ではそんな格好の方がよく馴染んでいた。
ぞんざいに靴を履き、フラフラとドアを開く。空はどんよりと曇っていた。ここに来てから、空に太陽を見た覚えがない。
柵にもたれながら階段を降りる、部屋の一つから、男女のものと思われる喧騒の音が聞こえた。どこからか子供の泣き声が響き、正気のものとは思えない笑い声が上から降ってくる。
それら全てを無視して、うつむきながら階段を降りる。看板だけが煌びやかなアダルトショップの前を通り、霞スミカは曇天の下を歩き始めた。
インテリオル・ユニオン関連の銀行に存在するスミカの口座は未だに凍結されていなかった。未だに潰れずしぶとく残っているチェーンのハンバーガーショップの向かいにあるATMで、限度額いっぱいまで金を引き出して財布に突っ込む。
右肩を壁に預けながら、酒屋を目指して歩く。自分を追い抜く人間も、自分とすれ違う人間も、露骨に目をそらして歩いており、車道の向かいを歩く人々は好奇の目でこちらを眺めている。
ここに来てから、ずっとそのような目で見られていた。だが、そんな事はどうでも良かった。他者からどう見られようとも、自分が何も成せないクズだという事実は変わらないからだ。
ドンッと、何かが身体にぶつかった。
後ろを見る。ボロ衣をまとった子どもが裏路地へと消えたのが見えた。ふと、左の衣嚢をさぐる。
やられた、突っ込んでおいた財布が無くなってる。別に、あの程度の金が無くなっても何でもないが、だからって見知らぬ子どもにくれてやるほど彼女は優しい人間では無かった。
幸い、酔いはまだ少ない。霞スミカは、自らの財布を奪った物を追うべく走り出した。
15分ほどかけて裏路地を回り、ついに下手人を見つける。傍にはスミカの財布もあった。
ゴミ箱の上に座ったその少年は、目の前にあるサンドイッチに目を輝かせており、周りが見えていないようだ。
ゆっくりと、少年の前に立つ。自分に影が差した事に気がついた子どもは、サンドイッチを頬張ろうと開けた口をそのままに、上を向いた。
次の瞬間、少年の青白い顔に霞スミカの足が突き刺さった。
ライ麦で作られたパンと、萎びたレタス、色の悪いハム、黒ずんだ玉子、そして血と乳歯が空を舞う。
少年は一度背にしていた壁にぶつかると、そのまま地面へと倒れる。色の悪い血が路地に広がり、椅子にしていたゴミ箱がその上に倒れこんだ。少年のくすんだ金髪の上に腐敗した生ゴミが雪崩れ込む。
「財布を盗む相手を選ぶべきだったな」
財布を拾う、どうやらサンドイッチの代金程度しか減っていないようだ。まぁ、こんな町で無警戒にしていた自分への罰金だと考えよう。
そう思い、彼女は路地から出ようとした。
何かが左脚を掴む。スミカは振り返らず、それを思いっきり踏みつけた。
「ガァッ!?」
まるで獣のような悲鳴を上げ、だがそれはまだ手を離そうとしない。
「…………ほう」
二度三度と踏みつけ、四度目は踏み躙る。だがそれでも腕は離れず、それどころかますます力を増し、脚へと抱きついた。
「かえ……せっ……!!」
「阿呆が、もともと私のだ。」
左脚に力を入れる。抱きついた少年ごと、それを持ち上げたスミカは、そのまま壁を蹴りつけた。
「グァッ!?」
全身に強い衝撃を与えられ、やっと少年は手を離し……
いや、違う、少年は自分が叩きつけられた壁を蹴ると、スミカの首元へと飛びかかってきた。
咄嗟に右腕で首を庇う。鋭い痛みが襲った。重さに耐えられず、思わず倒れてしまう。
「離せ!この犬がッ!」
右腕に少年の血とスミカの血が混ざる。いくら振り払おうとしても、口を離そうとしない。
ふと、少年と目が合った。
剥き出しの獣性、怒り、飢え、数多の感情が混ざり合った混沌の焔、そんなものがそこでは燃えていた。
そこには、あの時の自分と同じ感情があった。あの狂人に対して、自分が抱いたあの感情と。こんな目は、普通の人間にはできない。
空いた腕で、少年の首を絞める。流石に死に瀕する苦しみには耐えらなかったのか、少年は口を離した。歯抜けの噛み跡が、生々しく腕に残っている。
スミカはそのまま少年を組み伏せる、少年は暴れて拘束から抜けようとするが、体格にも格闘の経験にも劣る子どもではどうもならない。首を絞める。
「おい、どうやってそんな目を手に入れた」
「………!!」
もがき、もがいて、なんとか逃げ出そうとする。だがスミカは少しも緩めず、ますます力を増した
「何に対する怒りだ?親か?暮らしか?企業か?世界か?それともそんな相手に対して何もできない自分に対してか?」
さらに力をかける。と、ピタリと動きが止まった。
落ちたな。それを確認したスミカは少年を担ぐ。
その顔には、久方ぶりに浮かぶ笑みがあった
「気に入ったぞガキ。喜べ、このクソッタレな暮らしから抜け出させてやる。」
霞スミカの元上司である参謀将校は、説明された住所にあったアパートの前に立っていた。
半年前に姿を消した自社の最精鋭から、私用の携帯電話に公衆電話からの連絡があったのは昨日の深夜の事だった。
「もしもし……?」
「私だ」
「……霞か?」
「あぁ、そうだ」
「いまどこにいるんだ?ヤケになるなと言った筈だが……」
「すまんが、いま説教を聞くつもりはない。明日は日曜だろう?今から住所を言うからそこに来てくれ」
「…………わかった、言え。」
そして、彼女は住所と、住んでいるアパートの名前と部屋番号を言うと、「では、待っている」とだけ言って通話は切れた
次の日の早朝、男は高速鉄道に乗り込んだ。言い方に難はあるが、あの霞スミカが他人にモノを頼むというのは相当の事態だと考えたのだ。
インテリオル・ユニオンの支配地域、その西の端のダウンタウンにたどり着いたのは、昼頃の事だった。彼は錆びた階段を一定のリズムで登ると、指定されたドアの前に立ち、ノックし、言った。
「霞、いるのか?」
中からドンドンという足音、少しして扉が開く。
半年ぶりに会う部下の姿を見て、男は顔をしかめた。
人に会っているというのに下着姿、ボサボサで重力を無視して跳ね回る髪、体臭と吐瀉物と酒気の混ざった臭い、彼女がまだ新人で、自分も使い走りの頃、何度か朝に弱い彼女を叩き起こす為に部屋に行った事があるが、ここまで酷い状況は初めてだった。
「若い女の格好じゃないぞ」
「22だ。もう若くない」
ぶっきらぼうにスミカは言うが、男は表情を変えずに言葉を続けた。
「22は充分若いよ、で、何なんだあの電話は」
「まぁ入れ、何もない部屋だがここよりは話しやすい」
そう言って、スミカは室内に戻った。溜息を吐き、男も部屋に入る。
軋む廊下を歩き、ガラスの割れたドアを開いて居間に入る。
「…………おい、何だこれは」
そこには、霞の他に見知らぬ少年がいた。だが、その様子はただごとではなかった。
この年端もいかぬ子どもは口に猿轡、腕には手錠、首には犬用と思われる首輪が巻かれ壁につなげられていた。何とかそれから抜け出そうともがき、獣のように唸る。
「あぁ、それか、下の店で買ったんだ。なかなか似合ってるだろう。特にこの首輪なんか……」
「そっちじゃあない」
男は溜息を吐く。
「言っとくが、ユニオンの支配下で人身売買は許可されてないぞ」
「あぁ、そっちについては問題ない。これは拾ってきただけだからな」
こんな格好の人間から問題ないと言われても、一切安心などできない。拾ってきた?誘拐ではなくてか?
「あぁ、誘拐でもないぞ。警官に聞いたらここらでは有名なストリートチルドレンらしい。だから、誘拐じゃあ無かった。」
「……で、何の用なんだ?」
男は無理矢理話を続けた。言いたい事は多々あったが、これ以上続けてもマトモな会話になると思えない。
霞スミカは笑った。その暗い笑みに、男は暗澹たる思いを抱いた。昔の彼女は、苛烈ではあるもののもっと明るい笑い方をする少女だった。
霞スミカは言った。自信満々に、彼女の見つけた復讐の為の答えを。
「なに、単純な話だ。こいつをリンクス候補生の訓練施設に入れて、私をその教官にしろ」
「リンクス候補生が増える?」
アテネにあるインテリオル・ユニオングループのリンクス訓練施設の廊下にて、ウィン・D・ファンションは、前を歩く自分を見出した男に対して尋ね返した。
「あぁ、そうだファンション。さらに付け加えると、教官も変更になる」
先月から少しばかりやつれた様にも見える男は、頷く。
「一体誰をだ?私の見た限り、他にモノになりそうな人間はニューメキシコにはいなかったが」
「いや、彼処で見つけた訳ではない。今から紹介する教官が連れてきたんだ」
「……何だと?」
ウィン・Dが動きを止める、短く切られた真鍮色の髪が揺れる。男は振り返ってその表情を見る、あぁ、怒ってるなアレは。
「ふざけているのか?アレを通さずにリンクスになるだと?」
「本人は至って本気だったよ。無茶苦茶な課程だったが、一月で養成施設のカリキュラムを終わらせた。それに……」
「それに?」
「……AMS適性検査において、その新しい候補生はセロ並の結果を叩き出した。」
「……天才ということか?」
「紛れも無く……な。流石にあの結果は驚いた。全く、最初は何を妄言をと思っていたが……」
何事かをブツブツ唱えながら、男は再び歩き始めた。ウィン・Dも付いて行く。
「で、その二人は?」
「そこのトレーニングルームにいる。……前の教官みたいな態度は取るなよ」
「無能じゃなかったらな」
男はその言葉を聞くと苦笑を浮かべ、まぁ、頑張れよと去っていく。ウィン・Dは一度扉を睨むと、一歩前に進んだ。自動扉が彼女の姿を感知し、扉が開く。
「ウィン・D・ファンション候補生、入室します」
そこには、異様な光景が広がっていた。
「958、959、960、ペースが落ちてる。終わりが近いらしいからって手を抜くな。」
赤い首輪を付けたは少年が、足でもって鉄棒にぶら下がり、滝の様な汗を流しながら腹筋を行っていた。
スーツに身を包んだ女は、その様子を見ながら淡々と数字を数えている。
と、入ってきたウィン・Dに気づいたのか、顔をチラリと上げる。
「あぁ、お前が例のもう一人か」
女は立ち上がり、ウィン・Dに近づいた。背は、170のウィン・Dと同じくらいだろう。
「…………言っておくが、前任者のような甘い指導をするつもりは毛頭無い。貴重なリンクス候補生だからって、使えなきゃ意味は無いんだからな」
「こちらも最初からそのつもりです。厳しいご指導を期待しております、教官殿。」
「ふん、口の達者さだけは一人前らしい」
と、後ろで腹筋を続けていた少年が叫んだ。
「おいセレン!1000回終わったぞ!!」
「ほう?私が見ていない間にペースを倍にしてか?追加、100回だ。やっていない20もキチンとやれよ」
「クソが……!」
少年は唾を吐き捨て、再び腹筋を続ける。
「さて、ウィン・D・ファンション候補生。貴様も指導するというのは私にとって本意ではなかったが、条件として出された以上容赦はしない。こいつと一緒にこれから卒業まで人生において最悪の時を過ごしてもらう事になる。私を甘い女だと思うなよ?」
そして、目の前の女は口元だけで笑みを浮かべた。その表情を見て、ウィン・Dは自身の身体が少しばかり震えたことを感じた。
「セレン・ヘイズだ。この名前を一生忘れられないものにしてやる。戦場で出会うどんなリンクスよりも、地獄の獄卒共よりも恐ろしい存在だったとなと」
なんでこのSSは登場人物がどんどんと歪んでゆくんだ。