駆逐艦『雷』は、優しい少女だ。敵だった筈の船に乗っていた乗員を助けた、優しい少女だ。
彼女は沈んだ後、何も無い空間をただ落ちていた。寂しい、寒い、寂しい、辛い、寂しい、死にたい。何も無く、何も無く。時折聞こえる呪詛のようなものを耳を塞いで聞かないことにし、何年も、何十年もその空間を漂っていた。
「暁……響……電……会いたいよぉ……」
呟いても誰にも届かない。胎児のように体を丸め、ただただその空間を漂う。
電はこの空間を受け入れ、心地良いと思い落ち続けた。だが、雷はこの空間を拒否し、漂い、暖かさを求めた。この孤独な空間で精神を知らない内に擦り減らし平常を保った電とは違い、雷は狂いそうなほどこの何も無い世界を漂い続けた。
それがもう何年目か分からなくなった時、雷の体は何かに引き寄せられた。引き寄せられる方を見れば、そこには穴。全てを飲み込むような穴があった。
「―――――――!!」
言葉すら飲まれ、ただ飲まれる。足掻こうが何をしようが飲まれる。そして、何も出来ずに飲まれた時……光を見た。
瞼を開ければ、そこには青空。自分の体が海に浮かんでいるのだと、人の体で大の字に浮かんでいるのだと。そう判断するのには多少の時間が必要だった。
「……私、生き返ったの?」
生を実感した。自分の鼓動を、視界を、感覚を。全てを察した。その時。
視界に、線が産まれた。
「え、な、なに?」
狼狽える。空に線が浮かび上がり、紫電が走っているようにも見える。気がつけば、全ての風景に線が走っている。そして、自分の体にも、駆逐艦だった頃の名残なのか分からない、自分の背中に引っ付く装備にも。
これを見て、雷は自分が艦娘と言う、駆逐艦の力を持った少女になったのだと理解したが、それよりもこの線が謎だった。
線を見ているだけで吐き気が、頭痛が走る。
恐る恐る、自身の艤装に触れる。紫電が走るが、線に触れ、なぞる。その瞬間、さらに激しい頭痛と全身を貫く痛みが走った。
「イ゛ッ……ァ……」
悲鳴を出せず、頭の中がチカチカして真っ白になるような感覚がする。その痛みの発生源は、艤装。主砲のある場所。
焦点の合わない目でそこを見れば、なぞった場所から先が無い。そして、海の底を見るようにすれば、沈みゆく己の主砲。
痛みが思考をメチャクチャにしていく中、雷は察した。これは、死んだと。殺したと。この線は、死、その物だと。
「死、の線……?」
知覚した瞬間、さらに頭が痛くなる。死だ、死が見えている。この線全てが死だ。
怖い。怖い。この眼が、この世界が。死にあふれたこの世界が。
「あ、居たわ!!」
「あれは……雷か」
その時、初めて聞くはずなのに聞きなれた声が聞こえた。
この声は、暁と響。姉だ。姉二人だ。だが、見たくない。見てはならない。生きている者に映るこの線は。本能が発する。警告する。見てはならない。見たら後悔すると。
だが、見てしまった。もしもにかけて。あの二人には死の線が見えないのではと思い。
しかして、その線は……見えてしまった。
「ぁ……」
「雷!やっと会えた!」
「これで四人揃った事になるね……ん?ちょっと待って暁」
二人は既に手を伸ばせば、手を取ってくれる位の距離にいる。だが、手を伸ばせない。
線が走り、二人の体が別れていく。線に添って別れ、断面が見え、死に、死に、世界が死に、生き物が死に、姉が死に。
死が支配する。心の全てを支配する。同時に、本能が言う。殺せ、殺せと。殺人衝動が生まれる。怖い。怖い。見たくない。
「その眼、電と同じ!」
「え!?って事は、雷にも!?」
目の前に手のひらを置く。見たくない。見たくないから。
「ッ!?暁、退いて!!」
ぐちゃっ
****
「……司令官、雷の容体は?」
「両目の失明は免れた。緑内障ギリギリだったが、圧迫による一時的な失明に収まった。だが……」
「治ったら、また自分で潰しちゃうかもしれないと」
医務室の前。提督、暁、響は扉の前で医務室の中に聞こえないよう話していた。
雷は、己の手のひらで両目を潰した。だが、その前に暁と響は青く、不気味に輝く両眼を見た。
電と全く同じ眼だった。死を見る、人の身に過ぎた眼。
その視界がどうだったのかは分からない。だが、己の手で潰してしまうほど、辛い光景だったのだろう。
「……正直、電の視界なんてせいぜい線が浮かび上がってる程度にしか思わなかった。けど……」
「まさか、自分で目を潰すレベルなんて……」
「……」
悔しそうに、情けなさそうに呟く暁と響に、提督はかける言葉が無かった。君達のせいじゃない、負い目を感じることなんて無い。どれも、この状況には合わない言葉だった。
死を見る眼。それが、どれだけ辛いのかは分からない。それを持つ者以外は。だから、軽く見ていた。軽く見過ぎていた。たかが線が見える程度で、と。
「……司令官、電と雷の目、どうにかならないの?」
「それは……」
言葉に詰まる。あんな眼、今まで聞いた事も無い。現代医学で治るかどうかすらも分からない。
分からないことだらけだ。だから、ごめんと呟いてしまった。
「この眼は到底治療できる物じゃないのです」
カツンカツンと杖を付く音が聞こえ、声が聞こえた。電の声だ。
声のした方を向けば、電が目隠しをしたまま歩いてきていた。提督達がどこに居るのか分からないため、距離は大分離れている。
「どういう事だ?」
「私の今の眼は、他の艦娘の物です。何度も移植手術をしました」
艦娘の傷は大抵が高速修復材で治る。それが、眼球の移植後でも、目はキッチリと神経と繋がり、視力を得る。
電は何度も何度も眼球移植の手術を繰り返した。この眼を知る、一部の人間の手により。だが、電の眼は治っていない。
「じゃあ、その眼は一生治らないのか?」
ショックを受け、口に手を当てる暁と、目を見開いている響の代わりに提督が電に尋ねる。
「いいえ、治ります。治す方法は見つけました」
「な、治るの!?教えて、電!」
暁が電に向かって思わず叫ぶ。治るのなら、是非とも治してほしい。雷のために。妹のために。
「簡単な話なのです。頭をこじ開けて脳ミソの『死を見る』機能を焼き切るなり切り取るなりすればいいのです」
自分の頭に人差し指を当て、さも簡単な事と言わんばかりに方法を口にする。
電が口にした方法は、とてもじゃないが安全とは言えないし、人道的とも言えない。それに、やったとしてもぶっつけ本番、どこを切除、もしくは焼き切ればいいのか分からない、方法とは言えない方法だった。
「私の頭には一つ、明らかに他とは違う死の線があるのです。それは、病気や体の不調の時に浮き出る、病気や不調の死の線に酷似しているのです。だから、この眼……死を見る眼は脳をどうにかすれば何とかなるのです。まぁ、死の線が見えるのは私の頭だけで、雷ちゃんには見えなかったのです」
これは、一年間近く眼と付き合ってきた電だからこそ言える言葉だ。どこをどうやれば、どのように死ぬか。それを分かっているからこそ堂々と言える。
だが、そんな事不可能だ。ここの設備でも、大本営の設備でも。それを分かって電は言っている。方法を教えてと言われたから。
「……そうそう、雷ちゃんの両手両足、縛っておいた方がいいですよ?私は最初、同じように目を潰したあと……自殺、しかけましたから」
その瞬間、医務室から雷の、悲鳴にも近い叫び声が響いてきた。
「雷!!」
暁が医務室のドアを叩き開けると、雷が目を抑えながらベッドの上で蹲っていた。その近くには、偶々置いてあったペン。
ペンの先を包帯の上から突き刺した。暁はすぐに何が起きたのか理解した。
「なっ……すぐにドッグへ連れて行く!響、高速修復材を用意してくれ!倉庫に積んである!!」
「分かった!」
響が走り、提督が蹲る雷を抱き上げる。包帯には血は滲んでいなかったが、それでも思いっ切り突き刺したのだけは分かった。失明していなくても後遺症が残る可能性がある。
そして、提督の行動。高速修復材を用意したのは正しかった。まだ失明して、もしくは失明しかけて数分も経っていないなら、高速修復材で後遺症もなく治る範囲内だ。すぐに提督は暁と共にドッグへと向かった。
「……雷ちゃんの眼を、『殺せた』なら……」
電は呟き、フラフラと何処かへ去っていった。この眼は、本当に殺す事しか出来ないのか。そう、思いながら。
死を直接見るその眼は、優しい少女達には必要が無く、辛いものです。それが、人を殺す事を……殺すという行為を望んでいない、殺人衝動が完全に芽生えていない少女にとっては
そして、その眼がどんな物なのか、その光景を見ているだけでどうなってしまうのか、そんなのは他人には分かりません。分かるのは唯一、同じ眼を持つ同類だけ。雷の同類は、眼と殺人衝動を受け入れ、心が擦り切れた電だけ。そんな彼女が雷に出来ることは何なのか
説得する事なのか、それとも『殺して』あげることなのか