もしエルシィが勾留ビンを使えなかったら   作:天星

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イリスの歌姫の物語 たった1つの嘘

 私の話をしよう。

 

 私の名前は中川かのん。3月3日生まれの16歳。

 時間は……調べれば分かるかもしれないけど、分や秒は勘弁して欲しい。流石に記録に残ってないから。

 

 私の高校生活2年目、梅雨の季節の半ば頃。私は桂馬くんと出会った。

 最初は……お世辞にも良い出会いとは言えなかったな。

 

 桂馬くんったら、トップアイドルの私を見て『誰だお前』って言うんだよ。ヒドいよね。

 今だからこそ、現実に興味を持ってない桂馬くんがアイドルの顔なんて知ってる訳が無いって分かるけど、あの時はそんな事は全く分からなくて、ついスタンガンを使っちゃった。

 

 その直後だったね。携帯が鳴って、エルシィさんが降ってきたのは。

 

 そこから私たちの駆け魂狩りが始まった。

 最初は桂馬くんに全てを任せてしまって大丈夫なのかと不安に思ったものだけど……一見強引に見えるその手法はしっかりとした理論に裏付けられていて、1週間にも満たない時間で現実の女の子を恋に落としてしまった。

 

 その時からかな。恋愛とまではいかなくとも尊敬みたいな感情は間違いなくあったと断言できる。

 

 次の攻略が始まったのは、その週末明けの月曜日の夜だった。

 そう、私の攻略だ。

 完璧に事情を把握している私を攻略するという神業を桂馬くんは見事にやってのけた。

 私も私なりに『恋愛』をしようとして……見事に失敗して桂馬くんに軌道修正してもらった。

 

 歌を歌って、駆け魂が消滅するのを見届けた後、意識が遠のいた。

 ああ、全部忘れちゃうんだな。でも、きっと、いや、必ず取り戻してみせる。そう思った。

 

 

 

 次に私が目を覚ましたのは私の部屋……と言うか、桂馬くんの家の空き部屋だった。

 今もずっと住まわせてもらってるけど、麻里さんは器が広すぎないだろうか?

 ……話が逸れた。今は私の話だ。

 私は真っ先に自分の記憶がどれほど消えているのかを確認した。いや、しようとした。

 けど……それをしようとして私は愕然とした。

 

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 忘れているから思い出せないだけかとも思ったけど、攻略期間の一週間で下校時や登校時に桂馬くんとどんな会話をしたかとか、本来だったら明らかに消えているべき事を鮮明に思い出せた。

 デゼニーシーの事も鮮明に……いや、あの時は凄い勢いでアトラクションを回ってたからその一部はあんまり思い出せなかったけど、印象的だったものは全部覚えてた。

 勿論、桂馬くんとの最後の会話も。

 そして、その後の事も。

 

 それに気付いた私はベッドから飛び起きた。

 嬉しかったんだ。桂馬くんとの恋の記憶……思い出を忘れないでいれて。

 私は駆け出してその事を桂馬くんに伝えようとして……足を止めた。

 

 違う。これじゃダメだ。

 桂馬くんから教わった事だ。盲目的に人を好きになるという事、それは恋愛じゃない。

 ありのままの真実を伝えたら私たちの関係は攻略した者とされた者というだけになってしまう。

 それは私が望んだ関係じゃない。それはただ桂馬くんに負担を強いるだけの歪んだ関係だ。

 

 じゃあどうすればいいのか。

 

 ……残念ながら、その時の私にはどうすれば私が望むような関係になれるのか分からなかった。

 ただ……『記憶がある事だけは今は絶対に言わない方が良い』という事だけはよく理解できた。

 

 騙し通せるだろうか? あの桂馬くんを?

 ……分からない。けど、やるしかない。

 

 自分の中でルールを決めよう。

 嘘はたった1つだけ。嘘を重ねていくとどんどん膨れ上がって、信用されなくなるから。

 この1つだけの嘘は絶対に守り抜く。何があっても。

 

 そしてその日、私は桂馬くんに告げた。

 攻略期間に当たる1週間の記憶が曖昧だ、という事を。

 そして、それが私の耐え忍ぶ日々の始まりだった。

 

 

 

 

 

 転機が訪れたのは、ちひろさんを攻略してる時の事だった。

 桂馬くんったら、ちひろさんに暴論……と言うか正論をぶつけられて部屋に引きこもってしまったのだ。

 そこまでヘコむ事かなぁ……

 

 エルシィさんが呼び掛けたり燻り出そうとしてみても芳しい反応が得られないから私も挑戦してみた。

 とにかく会話からだと桂馬くんに挑戦状を叩きつけたのだ。

 これなら落とし神として無視はできまい……と思ったらヘコんでる癖に意外と慎重な反応を返してきた。

 『負けた方は勝った方の言うことを何でも1つ聞く』なんて適当に言ってみただけだったのにね。私から桂馬くんにそんなヒドい命令を下すつもりはなかったし、桂馬くんも私にヒドい命令を下すような事はしないはずだ。

 

 テキトーに大きく出すぎたが故に逆に警戒させてしまったのかもしれない。

 だから私は、大した事が無いように先に命令の内容を言ってみた。

 ちょっと前から地味に気になってた。他の女の子達は下の名前で呼ぶのに、私だけずっと『中川~、中川~』って名字呼びなんだもん。

 だから、私の事を名前で呼ぶようにって。

 

 そこから攻略の記憶にまで結びつけられた時は凄く焦ったよ。全く関係ないつもりだったから。

 でも、そのおかげで桂馬くんが頑なに私の名前を呼ばない理由が何となくだけど理解できた。

 その時、私の目標も決まったんだ。

 

 桂馬くんに何かのゲームで勝つ。そして名前を呼ばせる。

 

 それは、私が認められたという証だ。桂馬くんと対等になれたという証に他ならない

 その時になったら、記憶の事を打ち明けよう。そして改めて告白しよう。

 私は、ようやく桂馬くんに追いついたよって。

 

 

 

 ……まぁ、結局間に合わなくって、夢物語になっちゃったわけだけどさ。







 花菖蒲(Japanese water iris)の花言葉は『優しさ』『信頼』そして『忍耐』など。
 ある読者の方から姫様に関して『落とし神』みたいな称号は無いのかと訊ねられた時に核心を伝えすぎないようにボカしつつピッタリな称号を考えたらこうなりました。
 また、『Iris』という同じスペルで虹の女神イリスを現わします。

 『イリスの歌姫』

 こういう称号を考えるきっかけをくれた某読者さんには感謝です。
 この称号をどう評価するかは……読者の皆さんの判断に委ねます。

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