暁美ほむらに現身を。 作:深冬
少年の人生は、無意味で無価値で無駄なモノになってしまった。
きっかけは現代に生きる者ならば平等に訪れる可能性があるなんてことのないただの交通事故。自動車と衝突して、撥ねられ、宙を舞った。自動車が存在する世界ならば誰にだって起きうる非情で唐突な絶望だ。
だが少年は運が良かった方なのだろう。もしも運が悪ければ命を落としてしまう可能性だってあり得た。それだけにたかだか左手が麻痺してしまう程度の後遺症で済んだのは少年が幸運だったからに違いない。
――死ぬよりマシだ。生きていることに意味がある。生きていることこそ幸福なのだ。
この世は残酷だ。この世界は残酷だ。この日本は残酷だ。
なによりも生きることが尊ばれ、死は憎むべきものにされている。
勿論、自分でない他者を殺すのは裁かれなければならないだろう。死を望まぬ者に死を与える。それは嫌悪されるべきだ。
しかし死を望む者が自らの死を選択することは、果たして間違っているのだろうか。
生物は皆、生存本能を持っている。人間だって例外ではない。
だけれども人間は本能の他に、自らを律する理性も持っているはずだ。
悪いことだとわかっていればやらない。間違ったことなら間違えない。それこそが理性のはずだ。本能に抗い律することこそが、人間にのみ与えられた理性と呼ばれる意思なのである。
犯罪を行えば法律によって裁かれる。欲望実現によって得られる利益と欲望実現によって与えられる不利益。後者の比重が重いからこそ、人間は犯罪を行わない。
人間はリスクを感じるからこそ、他者を殺すことは普通ならあり得ないし、盗みだって働かない。
では、自殺は悪いことなのだろうか。
自ら進んで死を選択した人間に対し、世の評論家気取りのコメンテーターは『逃げ』だと断じる。いじめが原因であれば警察を頼るべきだったとか、もっと他にやりようがあったはずだ。そう言って自殺した人間を可哀想だと憐みの視線を向ける。
何故逃げてはいけないのだろうか。
生きることよりも死んだ方がマシだと思ったからこそ、自殺という選択肢を取ったはずなのに……。
生き地獄を味わうぐらいなら、いっそ死んだ方がマシだ。
少年――上条恭介の心境はまさにそれだった。
左手の麻痺。もしも恭介が音楽家でなければその程度の怪我で生き延びられたことを神に感謝していただろう。
だがしかし、恭介は音楽家だった。演奏家だった。ヴァイオリニストだった。それも天才……いや、努力できる天才ヴァイオリニストだった。
幼少の頃よりヴァイオリニストとしての才能を開花させ、しかもヴァイオリンが好きで努力すら苦痛と思わない、まさにヴァイオリンを演奏するためだけに生まれてきたような少年だった。
恭介自身も自覚していた。僕はヴァイオリンを演奏するために生まれてきたんだ、と。
だからこそ、信じられなかった。己の左手は脳が要求するレベルで自在に動いてくれない。回復したとしても、よしんば日常生活を不自由に過ごさない程度。ヴァイオリンを弾くために必要な繊細な動きまで絶対に回復しない。
担当の医者に無慈悲な宣告を受けた時、絶望した。
こんなことあるはずがない。あっていいわけがない。
恭介はヴァイオリンが好きで、それに負けないぐらい才能があった。音楽の神様が存在するとしたら祝福を与えてくれていたはずだ。
「神は、死んだのか……」
ベッドの上で零れたのは、どこかで聞いたことがあるような言葉。神は死んだ。これほどまでに恭介の心境を表している言葉はなかった。もっとも本来の意味ではなく、文字通り神が死んだとよく誤解されている意味ではあるけれど。
恭介にとっての音楽の神様は死んだ。
確かに恭介の中に存在して、祝福してくれていたはずの神様は文字通り死んだ。もう二度とヴァイオリンを演奏することはできない。
ヴァイオリンを愛しているからこそ、半端な音を奏でたくない。そんな想いが恭介にはあった。
「クソッ……どうして僕の左手は思い通り動いてくれないんだ」
自らの膝に左手を打ち付ける。何度も何度も、動け動けと言葉を漏らしながら。
やがて動きは止まる。
涙が頬を伝う。止め処なく溢れ出てくる。打ち付けた左手が痛むのか、絶望した心がチクチクと痛むのか。傍から窺い知ることはできない。
でも、きっと答えはその両方で――それを感じ取れる存在は近くにいた。
鹿目まどかは泣いていた。堪え切れなかった。
扉一つ向こうでは、好意を寄せている少年が絶望に身を打ちひしがれている。
当然だ。上条恭介という少年は、幼馴染に音楽バカと評されるほどヴァイオリンを愛していた。だけど、もう彼はヴァイオリンを演奏することはできないのだ。
偶然だった。まどかが病院を訪れたのは本当に偶然だった。
いつもなら恭介のお見舞いにはさやかと仁美の三人で、あるいはどちらかと一緒に来ていた。好きな相手と二人っきりで何を話していいのかわからない、という乙女心がそうさせていた。
だから今日こそは、と強く意気込み一人でお見舞いにやってきた。
魔法少女になって幾ばくか。魔女を討滅する生活を送り、誰かの役に立っていることを実感して、自分自身にようやく自信を持つことができた。
まどかの願いは、自分に自信を持ちたいというただそれだけの――純粋で強い想い。
願いを実感することができて、ようやく一人でお見舞いに来る勇気を持つことができた。
だというのに、これはどういうことだろう。
初めは何の冗談だと目を耳を五感を全て疑った。
もう上条くんの笑顔に会えない……?
大好きな人の笑顔。小学校の頃から好きだった。
さやかと出会って、彼女の後ろに着いてまわった小学生時代。自然とさやかと幼馴染であった恭介とも接点ができた。
勉強も運動も出来て、クラスの中心人物だった。さらにヴァイオリニストとしても世間に注目されていた。
そんな完璧な恭介に、不完全なまどかが憧れないはずがなかった。
自分にないものを求め勝手に憧れた。そして憧れが恋に変化したのはいつ頃からだっただろうか。小学校を卒業するまでにはきっと恋をしていた。
公園のベンチ。肌寒くなってきた10月の夕暮れ、まどかは一人寂しく腰かけていた。
俯いて地面を見ている。オレンジ色の夕焼けが、地面に影絵を作りだしていた。
「ははっ……、恋をする資格なんてなかったんだね」
自嘲気味に漏れた擦れた笑い声。
鹿目まどかは他人に恋をする資格などなかった。
好きな人よりも自分を優先した。奇跡や魔法があると知ったのにも関わらず、自分の浅ましい欲望を願った。
好きな人に告白する勇気を持つために、自分に自信を持ちたい。
なんと浅ましいことか。
目の前で好きな人が苦しんでいた。交通事故で身体に異常が残るかもしれない不安と戦っていた。
だというのにどうしてわたしは自分なんかを優先したのだろう。
恭介の身体を治すことを願えば良かった。まどかは後悔していた。
「こんなところにいたら風邪ひいちまうぞ」
俯く視線の先、オレンジ色の地面に黒い影が差す。
釣られてまどかが顔を上げると目の前には一人の少女がいた。冬だと言うのに寒そうな短パンを履き、長い赤髪を尻尾のように後ろで括り、勝気な瞳がちっぽけなまどかの姿を映している。
「これでも食べて元気だしな」
赤髪の少女は手に持ったポッキーを箱ごとまどかに押しつけると、まどかの隣にどしんと腰掛けた。
脳内は唐突な状況に混乱していたが、律儀なまどかはひとまずポッキーのお礼を言う。
「あ、ありがとうございます」
同い年程度の少女からの突然の贈り物。いつものまどかならば「あ、いえ、そんな……」と一度は断りつつも結局頂くことになるのだが、それさえもできないほど少女は強引にポッキーを渡してきた。
「で、浮かない顔してどうしたんだ? 顔も付き合わせたこともねぇ赤の他人のあたしでよかったら話を聞くぜ?」
ニシシ、と赤髪の少女はまどかの気も知らないでそんなことを提案してきた。
だけれどもまどかはその優しさが嬉しかった。無遠慮に踏み込んできてくれるというのは、それだけで落ち込んでいるときにはありがたい。
まどかはポッキーを一本取り出して見つめる。
「失敗しちゃったんです」
「失敗?」
「はい、失敗しちゃったんです。もっと良い選択肢があったはずなのに、馬鹿なわたしはそれに気がつかなくて。その結果、傷つく人がいて……」
恭介の身体を治すべきだった。
そのようにキュゥべえに願い、その通りに願いは叶えられ、胸を張って魔法少女として誇りを持つべきだった。
つまるところ魔法少女とは見知らぬ他人を助けるために存在しているのだ。魔女や使い魔を討伐することで、人々を危険から遠ざける。
きっとそれは誰かを助けるための行動で、魔法少女とはそうあるべきなのだ。
だというのに、魔法少女になるために願った奇跡が自分のための奇跡だというのは頂けない。他の魔法少女たちは知らないが、まどかはベッドの上で絶望している恭介の姿を見て後悔したのだ。
「自分勝手だったんです。なにも知らなかったわたしは自分のために行動して、目の前で困っている人を助けられなかった」
「それの何がダメなんだ? 自分が思った通りに行動して何が悪い。結果がどうとかじゃねー。自分がどうしたか、それから何を学んだかってのが大事なんじゃねぇのか」
「でも……失敗してからじゃ遅いんです。あの時はああすればよかった、この時はこうすればよかったなんて後悔しても事態は何も解決しない。好転してはくれない。だけどわたしは後悔することしかできなくて、果てしなく無力なんです」
さやかちゃんならこんなことにはならなかったんだろうな。
まどかは青髪の親友の顔を思い浮かべた。
美樹さやかという少女なら、もしもまどかと同じ立ち位置にいれば上条恭介の身体を治す奇跡を願っただろう。彼女は周囲の輪から一歩ほど後方にいることが多いがなんだかんだ面倒見がいい。
しかも怪我を治す対象が幼馴染ならば尚更だ。美樹さやかと上条恭介の関係はまどかや仁美が知り会うずっと前からのものだ。優しい彼女は当たり前にその奇跡を願うだろう。
まどかはそのように思うし、きっとそうだろうという確信のような感情を抱いていた。
「だったら後悔してる場合じゃねーだろうが。ウジウジ悩んでいても仕方がねぇ。アンタが何を後悔してるかしらねぇが、これだけは言える。後悔なんてするもんじゃない。あたしはそう思うし、そう感じたね」
赤髪の少女はまどかにあげたはずのお菓子箱から一本ポッキーを取り出してガシリと噛み砕いた。
「ま、あたしの言葉なんて野暮でしかないから、これ以上何かをいうのはやめておくよ。だけどあたしは自分勝手に行動することを否定しない。いいじゃん、好き勝手生きれば」
「好き勝手行動した果てに誰かの涙があったとしてもですか?」
「ああ、他人のために後悔してたらキリがない。自分勝手に行動して、自分だけのために後悔するのが一番なのさ」
遠くの空を見つめながら赤髪の少女は言った。
「ま、あたしの言葉を聞くかどうかもアンタの自分勝手さ」
*****
「お疲れ様です、巴さん」
「ふふ、ありがとう」
夜。見滝原市の住民の大半が寝静まった頃、巴マミは暁美ほむらを連れだって人気のない林の中に居た。
つい先ほどまで、ここでマミは兎のような俊敏な魔女と戦いを繰り広げ、たいした怪我を負うこともなく無事勝利をおさめていた。
「どうぞ、飲み物です」
魔法少女装束から見滝原中学校の制服に戻ったマミにほむらが手にしていたペットボトルを渡す。
久方ぶりの水分補給は戦闘行為でカラカラだった喉に潤いをもたらす。
「いつもこうして魔女と戦っているんですか?」
「ええ、そうよ。私たち魔法少女の使命は一人でも多くの人の命を守ること。そのために魔女や使い魔と戦っているの」
「大変で、だけどすごい大切なことですね」
ほむらは身に染みて実感していた。自らも魔女に殺される一歩手前のところだったのだ。もしもあの時、魔法少女であるマミが駆けつけてくれていなかったら……。
考えただけでもゾッとする。
決してほむらは死にたいとは思っていない。自分なんて生まれてこなければよかったのにと思うことはあっても、自殺願望者というわけではないのだ。
死は恐ろしい。
きっと痛いのだ。老衰で人生を全うする以外は、たいてい痛みを伴いながら死んで行く。
事故死だって病死だって自殺だって、きっと痛いはずだ。
痛みなんて感じたくない。それも死ぬほど痛いのなんて真っ平ごめんである。
だから死は恐ろしいものなのだ。
「私のような人たちをもっと助けてあげてください」
痛みがわかるからこそ、誰にも苦痛なんて感じてほしくないとほむらは思う。
そんなことを思っているから、うまく他人との関係に踏み込むことができないわけだが。
「もちろんよ。私……いえ、私たち魔法少女に任せなさい。見滝原市の安全は私たちが守るから」
マミは固く拳を握りしめる。信念を強く保つため、弱音を吐くわけにはいかない。
「私たち……って、ここには巴さんの他にも魔法少女がいるんですか?」
「いるわよ。私を含め4人――いえ、3人ね。他の子たちも結構強いのよ?」
「そうなんですか」
「ほら、この前話したワルプルギスの夜を倒すため協力することになってるの。一人はこの前契約したばっかりの子で、もう一人がその子の面倒を見てあげて、今は戦力アップを図ってるところなのよ」
ワルプルギスの夜については、マミと一緒に行動するようになってすぐにほむらは聞かされていた。
もうすぐ見滝原市に超弩級の大型魔女が来るかもしれない。そしてもしも襲来すれば、見滝原市が壊滅するほどの被害を受けるかもしれない。
はじめて聞いた時はどこか非現実的で、ほむらは信じ切れなかった。
だが、今は違う。人々を襲う魔女という存在を見てきた。それに遠くに視線を向けながら辛そうに語るマミの表情を見れば、嘘でないことは一目瞭然だ。
「……でしたら、私に構っている余裕なんてないですよね」
私なんて邪魔なんだ、とほむらの表情に影が差す。
「そんなことないわ!」
マミは慌てて声を張り上げて否定する。
「暁美さんがいてくれるからこそ私は私のまま戦えるの。だからそんなこと言わないで。それに暁美さん、あなたには魔法少女の戦いを見ていて欲しいの。人々は知らないけれど、たしかに見滝原市の安全を守っている存在がいてくれているんだって、あなたには見届けて欲しいの」
ワルプルギスの夜には勝てないかもしれない。
青黄桃の三色の魔法少女が力を合わせても彼の魔女には届くイメージをマミは思い浮かべることができなかった。
勝てないということは、死ぬことである。魔女との戦闘は命がけのものであり、負けとは死を意味するのだ。
だからほむらには知っていてもらいたかった。
たとえ負けることになっても、死ぬことになっても、一生懸命人々を守るために命をかけた少女たちがいてくれたのだ、と。
「……わかりました。私は巴さんの隣にいていいんですよね?」
「そうよ。お願いだから暁美さんには私のそばにいて欲しいの」
もう誰にもそばから離れて欲しくない。マミは強くそう思っている。
出会い、そして関係を築いた相手と繋がりが断ちきれることを何よりも恐れていた。
佐倉さん……、と声にならない呟きを漏らした。