提督はただ一度唱和する   作:sosou

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26.男どもの嘘 艦娘の本音

 寝ている若菜を起こし、深海棲艦の空襲を避けるために移動するべきであることを伝えると、案の定口論になった。

 若菜の築いた拠点は、北見盆地への入口である常呂川と北見国道の両方を見据え、側面を山や川が阻むように考えられている。準備は不足しているが、ごく単純に数押ししてくるのであれば、深海棲艦を一時的に撃退することも可能だろう。艦娘の有効性が確認される前の戦訓に忠実な、教本そのままを再現したような布陣だ。新城も、その点については否定しない。

 問題は、艦娘の研究が終わっていないと言う理由で、教本の更新すら怠っている軍にある。発生初期とは違い、陸に侵攻せねばならないほど、深海棲艦は飢えてはいない。砲弾も艦載機も、無尽蔵に繰り出してくる。何より、艦娘との連携を考慮しないなどあり得ない。

 促成を基本として、前線指揮官にはただ戦場で勇敢であるべきと教える最大の理由は連絡手段の乏しさである。深海棲艦影響下では、通常の通信は通じない。砲兵としての運用は佐官以上になってから知るものとして、当てにならない艦娘の援護など頼むべきではないと、陸軍は頑なであった。

 流石に現場では修正を試みているが、そもそもからして小隊単位での訓練しか日常的に行われていないのだ。考課でむしろ不利になるような知識を、大真面目に実践する新城の方が軍人としては問題だ。

 若菜は新城の能力を認めてはいる。だが、正しいわけではないと言い聞かせている。彼が努力してきた人間だからだ。その自負があり、結果としての大尉である。その努力が無駄であった、役に立たなかったとは認められない。ましてや、間違っていたなどと。

 若菜に才能はないのだ。

 新城の言葉に理があることなど、今は何の役にも立たなかった。それに頷いてしまえば、自らの地位も名誉も不正なものになってしまう。新城の存在そのものが、若菜への攻撃だった。敵に対して寛容であることは、ただ愚かであるというだけでは終わらない。

 新城が焦れて来た頃、天幕の入口が捲り上げられた。二人がそちらを見るが何もない。戸惑う視界の下方で上下する潰れた舳先。何かと思えば龍驤で、彼女が飛んだ。自らの背丈と同じだけを浮かび上がり、足を揃えて若菜の顔面に足裏を叩き込む。若菜は対応できず、とっさに踏ん張ってしまった。故に龍驤は、蜻蛉をきって着地した。若菜の首が危険な方向に曲がり、寝床に倒れ込んだ。新城はこうした時にスカートの中身が見えない現象が、妖精さんの加護であることを確認した。

「悪い。寝坊した」

 龍驤が真面目な顔で、手を上げた。謝罪の意味だろうが、新城はつい、敬礼で返した。何食わぬ顔でそれを解く。心の内で生まれた葛藤は投げ捨てた。時間がない。

「山中へ移動します」

「わかった。直掩は?」

「下ろせますか?」

「舐めんなや。何とでもしたるわ」

 深海棲艦にしろ、艦娘にしろ、威力はともかくとして、装備は全て縮小されている。木々の間を飛ぶことなど、苦にもならない。また、生い茂る木々が砲煙を隠し、位置を容易に特定させない効果も期待出来た。少なくとも身動きの取り辛い雪原で砲火に晒されるよりは、随分と気が楽になる。

 特に航空機からの攻撃のほとんどを無効にしてしまえるのが大きい。中空から重量物を目標に向けて落下させるのは、非常に困難を伴うからだ。そのために航空機は激しい迎撃を掻い潜って、肉薄する必要に迫られる。水平面に対して直角に屹立する棒状の物体ともなれば、戦時中以上の消耗に苦しめられることになる。

 だが、その犠牲に見合う戦果を約束するのが航空機なのだ。木立に阻まれて近づけない航空機など恐れるに値しない。空を気にせず砲撃に専念できるとなれば、大艦巨砲主義を掲げる艦娘に有利だ。

「砲艦には三式を配分願います」

「対空か?」

「おそらく直上での格闘戦になります。それより、地上を優先して下さい。常呂川の向こうの制圧と狭隘部を狙点に定めます」

 砲の撃ち合いになれば数で劣ろうとも勝負にはなる。川を境にしているということは、そういうことだろう。龍驤は頷いた。

「旭川より連絡、ひぃっ!」

 天幕に吹雪が侵入した。転がっている若菜を見て、腰を抜かしそうになっている。時折痙攣しているが、血色はいい。死んではいない。だが、怯えた瞳が二人に向けられた。

「じゃ、うち療兵呼んでくるー」

 龍驤が逃げた。新城は吹雪に手を差し出す。吹雪は後ずさった。

「僕が受ける」

 吹雪は自分が間違っているかのように錯覚した。しかし、どうすればよいのかわからない。恐ろしいというよりも気持ちが悪い若菜から目をそらして、取りあえず、艤装の無線通話口を渡した。新城の視線がそれの繋がっている先を追っている。恥ずかしいので、さっさと押しつけた。

「新城です」

『・・・・・・若菜はどうした?』

「負傷されました。現在、治療中です」

 この人凄いなぁと吹雪は新城を見上げた。ちらりと振り向けば療兵が走っているところで、新城は一度も足元に顔を向けない。悪びれるところが一切ないのだ。真面目な少女が国事犯を仰ぎ見ているようなものだ。実に教育的だった。

『まさか殺してはおらんだろうな?』

「はい、いいえ。大隊長殿。まもなく復帰されるでしょう。ご用件は?」

『・・・・・・まあ、いい。貴様、どうすべきかはわかっているな?』

「これより身を隠し、能う限り抗戦いたします」

 兵の半分は疲労困憊していた。新城ですら辛いのだ。逃げようもない。だが、戦うことが出来るのか。冬の北海道で当てもなく彷徨うよりは多少はましな結果は得られるだろうが、焦熱であろうと凍結であろうと地獄であることに変わりはない。

 若菜が予定を消化してくれさえいれば、何もない平野などに拠点を築かなければ、益体もない思いが湧き上がる。大して変わらないだろう。だが、重要なことでもあるのだ。

「合流はどこになるのでしょう? 今晩のうちに夜襲を仕掛けない場合、状況はより深刻になります」

『中尉、中尉。貴様はわかっとらん。あれやこれやと考えたところで、予定通り事が進むとは限らん。味方は圧倒的に劣勢なのだ。身を隠したからと言って安心するな。全力を尽くせ』

 反発はあった。どうなるかわからないからこそ、事前に予定を定めておくべきだ。特に新城らは分断されている。今は連絡が取れるが、深海棲艦の進出に伴ってこれが不可能になることも考えられた。北海道は広い。指針がなければ迷うだけだ。

 だが、大隊長がいっているのはそういうことではなかった。戦車に乗って、砲弾を吐き出すのではなく、挽き潰すように戦い、そして生き残った男だ。これから何が起こるのか、彼以上に知る者はいまい。

 焦っているのだろうか。沖縄や南西諸島への派遣経験はあるが、本格的な深海棲艦との交戦は初めてだ。これよりは待ち受けて迎撃しなければならない。損害も出るだろう。楽観を捨てるべきではないが、悲観的な視点は常に維持する必要がある。その均衡が崩れれば、冷徹な判断も失われる。

 大隊長にしてみれば、若僧が逸っているように感じたのだろう。新城は素直に頷いた。

「心します」

『まあいい。可能ならば藻岩山辺りまで出る。こちらの攻撃を合図に尻に噛みつけ。先鋒の駆逐艦を叩き潰せれば、大型艦の進出まで余裕が出来るはずだ。奴らは艤装を仕舞えんから時間がかかる。上手くいけば、海軍の反撃が間に合うかも知れん』

 自らに言い聞かせるようでもあった。そして新城は察した。

 本隊の位置が先日から動いていない。連絡途絶による混乱があったのか、それとも別の要因によるものか。狭隘な地形は防御に向いているようにも思えるが、塹壕線を築く余裕などなかったはずだ。砲の投射能力や彼我の航空戦力を鑑みると、まとめて吹き飛ばしてくれと言っているようなものだ。

「大隊はどのように?」

『ありがたいことに反撃のため、温存して下さるそうだ』

 剣虎兵の本領は強襲にある。予備に置いて反撃の要とするのは間違った運用ではない。実際、釧路ではそうして戦線を支えつつ、遅滞戦闘を行った。旭川が同じことをしようとしているのは明らかだ。

 新城は何か言おうとした。しかし、何を言えばよいのかわからなくなった。結局、出てきたのは当たり障りのない言葉だった。

「ご武運をお祈りいたします」

『おう、皮肉か? まあいい。俺も祈っている。報国のためならばともかく、奴らの腹を満たすためになど死ねんからな』

 艦娘が現れて、日本は平和だった。しかし、再建は後回しにされた。やっと手をつけようとしたところで、その手段が侵攻だった。戦う態勢を得るために戦い、そして崩壊しようとしている。

 最低でも一年は食糧不足に喘ぐことになる。生産を担う将家は大幅な譲歩を迫られ、その保護下にある農奴はさらに困窮する。

 最大消費者である艦娘は無慈悲に、容赦なく削減されるだろう。幸いにも徴兵提督という生け贄がある。無理なく行えるはずだ。海軍は信頼を失墜し、陸軍はここで失った人員を将家と綱引きしながら補充せねばならない。限られた工業資源を、復興との兼ね合いで奪い合いながらだ。

 政府、官僚からは幾人もの首が飛び、後始末に奔走することになるだろう。それらはすべて税金として、国民の生活への負担となる。

 もしこの状況で利益を得る存在があるとすれば、唯一つ。艦娘や深海棲艦が祭祀的、霊的な存在であることで存在感を増した、皇家の方々だけだろう。

 彼らは少しずつ影響力を増しながら、かつてからあった無形の尊崇を、次第に曖昧な期待へと変えていっている。理念すら失って権利や義務から無自覚になった国民が、国土も故郷も失ったのだ。それらをまとめて日本人として規定するのに、皇族という存在は便利でありすぎた。

 どうやら生き残ったとしても、厄介事の種は尽きないらしい。退屈とは無縁でいられるだろう。ちらりと吹雪を見下ろす。可愛らしくも無邪気に首を傾げる彼女らにすべてを託してしまえたら、どんなにか楽だろう。

 必要であれば、いかなる手段をも選択する。誇りのために死ぬなど心底莫迦らしいと思う。それが果たすべき責任であると信じてさえいる。生き残ることこそが勝利だ。

 だが、恥を捨てて生きることは出来ない。どれほど汚泥に塗れようと、失われることのない尊さが人間にはあると、新城は信じている。ただの獣にまで堕ちた人間は、まさに獣である剣牙虎に比ぶべくもなく醜悪だ。

 新城は無線口を持ったまま、矜持を取り戻したであろう上官に向けて敬礼した。本人の見た目とは裏腹な、あまりの美しさに、吹雪が瞠目した。

「お手並み、しかと拝見させていただきます」

『だから貴様は生意気だというのだ。莫迦め』

 まあいいといつもの口癖に笑いを含ませて、大隊長は通信を切った。敬礼のために虚空を向いていた眼光が吹雪を貫く。怯んだ彼女は、差し出された無線口に手を伸ばせなかった。新城はちょっと眉を潜め、さらに突き出す。

「怖くはないですか?」

 吹雪から見て、新城は普通に見えた。明らかに不利な戦場である。援軍が来たとしても、陸地の彼らが助かる見込みは非常に少ない。むしろ、時間稼ぎのための捨て駒であろう。

 旭川が身を晒すのも、そこに勝算があるのではなく、後ろへ通さぬために敢えて目標となるつもりなのだ。若菜もそうしようとしている。他に方法を知らないからだ。彼らは懸命に努力していた。

 彼女は艦娘だ。人のような見かけをしているが、船である。死ぬこと、壊れることに忌避感はない。誰かの役に立ち、戦いの中で果てるのであれば文句などない。彼女は初期艦制度前に生まれ、いわゆる捨て艦戦法と呼ばれる戦術の順番待ちをしていた。

 絶望的な戦況と逼迫した資源の中で、貴重な戦列艦のために盾となる。そのために生まれ、そのために飢餓に喘ぐ国民を尻目に飯を食べた。先立つ僚艦の出発を羨み、言祝ぎ、いつか自分もと夢を見た。そこに何の矛盾もない。

 耐えられなかったのは人間だった。明るく、無邪気に、曇りなき誠心でもって自分を喚び出した提督に敬礼を捧げ、抜錨する数多の幼い少女たち。二度と帰って来るはずのない彼女らと、何度も何度も工廠で再会する毎日。その全てが、心から自分に好意と信頼を向けて、再び水底に還っていく。精神が病めば病むほど、艦娘たちはそれを支えようと奮起する。戦火でもって。

 まともな者はまともではなくなり、まともでない者だけが戦い続けた。

 だから、吹雪は知っている。人間は死を恐れ、忌避する。自分自身のことではなくともだ。優しかった提督が狂っていく様は、あの当時に生きていた艦娘たち全てを変えた。

「大隊長は士官だ。そして僕もだ」

「悲しくないですか?」

 不機嫌そうに歪んだ男の顔には見覚えがあった。視線を受けた新城は無線口を押しつけると、吹雪の口を塞ぐように頭を押さえつける。

「さあ、もう行け。僕たちは戦争をしているのだ」

 突き放すような口調だった。吹雪は二、三歩後退り、ぴょこんと頭を下げると脱兎のように走り出した。療兵がわざとらしいかけ声とともに若菜を担ぐ。

 にやにやとしたその横顔を、じっと新城が睨みつけた。

 

 

                      §

 

 

 生き残ってしまった。やっと最近思うことのなくなった感慨を、釧路駐在艦天龍は抱いた。彼女一人のために与えられた雪上車の荷台にしつらえた寝床の中、まんじりともせず夜明けを待っている。

 深海棲艦迎撃のため、陸別経由で移動する部隊に、彼女はいた。

 艦娘はそれほど気にしないが、寒さを感じないわけではない。暖房はなくとも、密閉された場所で寝袋に包まれるのは贅沢という他ない。そこらに転がった缶詰は、人気の鶏飯。上官が功績の代わりに兵から奪い、兵は勲章を投げ捨てて抵抗するという曰く付きの一品だった。

 たかが軽巡、たかが駐在艦には過ぎた待遇だ。陸軍にも多少は道理を弁えた人間がいるらしい。

 彼女は釧路防衛戦の折、陸軍と深海棲艦の間に立ちはだかって戦った。あり合わせの武装で水平射を繰り返し、弾薬を消耗した後は手にした剣型艤装を振り回し、食いつかれているのか食いついているのかわからない状態で、陸軍の前装型小銃の斉射を複数回受けた。彼女の真似をした駆逐艦は尽く鉄屑となり、彼女はその手前で救出された。

 失敗したと思う。駆逐艦なんぞ突っ込ませても、大した時間稼ぎにもなりはしない。生かしておけば、もっと役に立っただろうに、深海棲艦の餌にしてしまった。そして、その僅かな時間のために、少しばかり発育のいい自分は生き残った。手足どころか、腹まで食いちぎられたが、便利なもので修復材をぶっかけて元通りだ。おかげで、ずいぶんといい思いをしている。

 もう、死んでも構わないだろうに。

 彼女の提督は、とっくの昔に死んだ。僚艦も残っていない。彼女だけが取り残された。戦力が揃い、もういいだろうというのが、提督が彼女に告げた最後の言葉だ。何を勘違いしたのか、艦娘である自分に穏やかな余生を与えたつもりらしい。

 胸ぐらを掴んで殴り飛ばし、止めようとした大型艦を執務室に積み上げ、剣を突き立て脅したが駄目だった。自分でもわかってはいた。今でさえ、そこらの空母や戦艦に負けるつもりはない。それでも、艦娘の本懐とは火力なのだ。鎮守府に残っても、彼女の居場所は前線にない。

 ならば、駐在艦はうってつけとも言える。主戦線でないにしろ、国土防衛の要であり、深海棲艦と海産資源を奪い合う最前線だ。それは規模こそ小さくとも、彼女の望む戦場であるはずだ。

 事実、漁船を護衛し、その成果を狙う深海棲艦との攻防は、装備の乏しさも相まってなかなかに厳しい。そして、釧路防衛戦。彼女は主力であり続けている。

「そういうこっちゃないんだよ。そういうこっちゃ」

 もういない提督に毒づく。結局、揃えるべきは戦力ではなく頭数であった。提督の死と、現状が証明している。軽巡の中でも、とりわけ非力な彼女をして負けないと確信出来る戦略級の艦娘たちが、今の主力である。あれなら彼女に最後まで怯えていた苦労性な三女でも、片手間に制圧出来るだろう。情けないとも思うが、これが戦争なのだとも思う。寂しいことだ。

 うっすらと外が明るくなるのをよそに、寝転がったまま煙草に火をつける。混ぜ物なしの葉屑を詰めた紙巻き。ニコチンはともかく、タールが強すぎて美味くはない。だが、気軽に手に入る嗜好品はこれぐらいしかない。

 煙草は非常に強い植物だ。戦災によって空いた土地を、すぐさま畑や水田に出来るわけではない。食糧が足らないからといって、芋ばかり植えても保存や輸送に不利な作物であるため、余れば酒になるだけだ。

 よって商品作物として煙草の生産は増した。元が専売のようなものだったため、急場に向いたという事情もある。とにかく、当時は難民を労働力に変えるためにあらゆる努力が払われた。そして、それらは経済力のある者たちの手に渡った。例えば、艦娘だ。

 煙草を呑めないなど軟弱の証とすら思うのに、これが嫌悪と憎しみの果てに根絶されようとしていたなど、天龍には信じられない。提督が顔歪めるたび、天龍はそれを嗤った。激しく儚い戦場にも、日常はあった。

 日が登ろうとしている。天龍は起き上がり、雪上車を出た。

「おはようございます、駐在艦殿」

「おう」

「おはようございます!!」

 姫扱いとまではいかないが、兵たちの態度まで丁重である。車から出てすぐ声がかかったのも、気を利かせた兵が歩哨をしていたからである。駐在艦唯一の生き残りである彼女は、この軍でたった一人の女性だった。不埒な考えを持った輩が互いを牽制する意味で置いたのだが、天龍にはこそばゆいばかりだった。そこらの男よりも立派な物を掲げる彼女に、その手の危機感はなかった。

 もう、いつ死んでもいいからだ。

 両手で後頭部を支え、空を見上げて無造作に歩く。紫煙と吐息が混じり合って、盛大に白く立ち上った。彼女の後ろに、歩哨の兵が続いた。それを見て、撤退の準備をしていた者たちが手を止め、銃を取った。そして、歩き出す。

 次々とそれは増えていった。秩序もなく、纏まりもなく、ただ人数が膨れあがっていった。誰もそれを止めず、ある者は見送り、または殊更に無視した。

 彼らは撤退するのだ。深海棲艦の空爆が予測される状況で、手を止めるどころか、それを放棄して艦娘の尻を追いかけるなど許されることではない。だが、天龍に続く者たちは、それが何よりも楽しいのだと言わんばかりの表情で、足を進めた。

 現状は厳しい。だが、勝てる。一つ鎮守府が機能不全に陥っているとはいえ、日本には八百個もの艦隊があり、北海道を除けば、深海棲艦戦力は三百に満たない。その北海道とて、数の大部分を占めるのは駆逐艦である。南方を倍の戦力で各個撃破し、北は地形を利用し、包囲して殲滅する。

 単純な作戦だ。如何に艦娘の存在があったとしても、所詮は海洋国家一つ滅ぼせないような獣の集団である。勝利を疑う理由がなかった。

 逆に言えば、彼女たちが獣であることが事態をややこしくしている。対話が出来ないために、侵攻してくるのであれば、これを殲滅する他ないのだ。また、軍隊ではないため、簡単に離散集合する彼女らを広大な太平洋上で捕捉、追撃しなければならない。そして、海上から一掃したとしても、海底を移動されれば海岸付近までその存在を察知出来ない。

 また、国内事情にも振り回されていた。先の敗戦による混乱で、近海の哨戒と防衛を担当するはずの徴兵提督たちが機能不全に陥った。このため、外洋航路の安全確保を任務としていた呉と佐世保は、集結を待たずに迎撃を行わねばならなくなった。駐在艦もいたが、不遇を囲う彼女らだけでは当然賄えるはずもなく、むしろ本来の任務である漁業支援が行えなくなったことによる食糧事情の悪化により、陸軍までもが分散配置を強いられた。横須賀は捜索や拘束に用いるべき水雷戦隊を余所に貸し出して、主力艦隊のみでこれらを誘引、撃滅しなければならなかった。大湊はそれら全ての厄介を取り繕おうとして、北からの侵攻を許した。

 これらは、陸軍が頼りになるのであれば発生しなかったか、若しくは軽減された状況である。海岸付近に存在する人間など、復興も進まぬこのご時世に漁業を営むような強か者だけなのだ。陸軍の作った避難要領など、そもそも一顧だにする価値のないものである。むしろ上陸させて、陸と海から挟撃したほうが面倒が少ない。そのための空き地なのだから。

 しかし、陸軍は闇雲に突撃して乱戦を発生させるだけで、深海棲艦を押し留めるということをしない。結果、内陸に入り込んだ深海棲艦が人々の生活を脅かすことになる。乱戦である以上、海上からの支援といっても限定されたものになり、追撃と捜索でしっちゃかめっちゃかになる。何せ、この乱戦によって迷子になったり、逃げ出した兵が、武装した匪賊と化して全国に散らばるのも、既定路線なのだ。

 こんなものに頼ろうと思うのが間違いではあるが、政治的な立場だけは、完全に壊滅してしまった海軍よりも高い。ぎりぎりで国家の滅亡を押し留めたのが、陸軍の功績であることに疑いもなかったし、何であれそれは法的に裏付けられた暴力だ。そしてそんなものが、重要策源地である南方に派遣されてしまうということの危機感は大きい。

 五将家は、信頼出来る貴重な実効戦力が手元からなくなることを。政府はそれによって、現地の政情が不安定化することを。海軍はその後始末を押しつけられることを。

 つまり、新たに戦線を増やすかのごとき、北方海域打通作戦そのものが必要なかったのだ。

 五将家という政治勢力を含めずとも、国家の重荷となっている陸軍だが、それだけに誇りは失われず、それに縋っていた。しかし、所属する兵たちはどうだろう。

 深海棲艦発生から、二十五年である。四半世紀、人生の半分以上、青春の全てを捧げた古兵というものは存在する。彼ら自身が、現状の陸軍に忸怩たるものを抱えながら、それでもただ所属し続けた生粋の兵がいるのだ。

 彼らは商売女しか知らない。生活に困れば基本的人権を保持したまま農奴になってしまえる国で、末端の兵が味わえる女とはどのようなものか。提督に身を転じたかつての同僚や、腐りきった上層部がいい思いをしているのを傍目にして何を思ったか。

 それでも彼らは陸軍に残り続けた。逃げ出して、匪賊となり、誰かを襲って欲を満たすことも出来ただろう。全てを諦めて深海棲艦の腹を満たしても、誰にも咎められる謂われはない。上司に媚びて、汚職に関わることも、彼らほどの古参ならば難しくはなかったはずだ。

 そんな栄達も望まず、贅沢からは遠く、幸福と縁のない人生を送る彼らの前に、天龍は現れた。

 のこのこついて行かないはずがない。

 もう、いつ死んでもいいのだ。だが、ただで死ぬのは許せないのだ。人生が台無しになっているのだ。その全てを戦いに捧げたのだ。

 つまるところ、彼らは絶望しているのだった。しかし、何一つとして納得など出来ないでいる。

 深海棲艦も、艦娘も、とりわけ妖精さんにしたところで、あまりにも非現実的に過ぎる現実だった。その意味で、紛れもなく彼らは負け犬だった。適応出来ないどころか、それを拒んでさえいるからだ。

 天龍は艦娘であったが、いい女だった。掛け値なしに、魅力的であった。

 この期に及んで、釧路と帯広は網走への救援を中止しようとしている。空爆の危険があり、積雪の困難があり、釧路に未だ潜伏する深海棲艦の脅威があり、沖合いでは大湊の艦隊が展開している。

 釧路はその成り立ちから、非常に豊富な水源と、これらを利用するための水路が多く張り巡らされている。ここに深海棲艦が残存していた場合、帯広を空けてしまえば司令部のある札幌が危険にさらされ、沖合いの艦娘の背後を脅かす恐れがある。

 理屈としては理解は出来るが、直接の脅威である網走に上陸している深海棲艦と、それに抗戦する味方を放置する理由に足るかと言えば、疑問の余地などない。求められているのは早期解決である。損害など考慮に値しなかった。

 加えて、主力である艦娘は手軽に建造が可能で、回復は容易である。陸軍はお荷物だ。減らして差し障りない。

 後顧の憂いを断つというなら、諸共吹き飛ばしてもいいのだ。

 もちろん、それは絶望した者たちだけの理屈だ。例え、それで国が滅びようと、捨て石にならねばならない理由も義務もない。国を守ることは確かに彼らの任務だが、それが不可能であれば、降伏する権利ぐらい認められているのが普通の軍隊だ。深海棲艦が相手ではそれすらも不可能であるからこそ、他の方法を模索する。まったく、合理的な判断だ。戦略的な敗北は最高司令部の責任であって、それを戦術的にひっくり返せないからと言って責められる謂われはない。そういった愛国心を非難してきた国なのだから、倫理的にも問題ない。

 だから、天龍が、「俺一人でも行くぜ」と言ったとき、彼らは歓喜したのだ。

 それはある種の共感であり、仲間意識ではあったが決定的にずれてもいた。

 祭りに向かう子供のようにはしゃぐ男たちを引き連れながら、天龍は何となくそのことを理解していたが、黙っていた。

 天龍は本当に、いい女だった。

 


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