10分間の休憩を挟んだ後、那珂が「お待たせしましたー!」と声を響かせる。
艦娘達の視線がステージに集中すると、「これより鎮守府対抗戦、最終戦を始めるよー!」と叫べば、一斉に拍手が響き渡った。
「最終種目は、これだぁー!」
手で示した先に、大淀が運んできたセットがお披露目される。
それは一つの台だった。二つのラインが引かれ、手で丁度握れそうな棒も二本立っている。凪は首を傾げてそれが何なのかを考えてみる。どこかで見たような気がするセットなのだが……、
「アームレスリング! 要は腕相撲だねー。力に自信がある人で戦う、正真正銘のガチンコ対決だぁー!」
「……それ、大丈夫なの? 馬力勝負にならない?」
「んー確かに馬力が大きい人が勝ちそうだけど、日頃の鍛錬次第で艦娘って変わってくるからね~。耐えきれるかの持久力とか、一気に相手を倒しちゃう瞬発力とか、その辺の駆け引きも関わるし、意外とわからないかもよ~?」
と、淵上の質問に那珂が答えた。
単に力勝負をするならば戦艦娘を出せばいいだろう。となれば呉鎮守府としては、決め手となるのが大和だろうか。しかし彼女をいきなり出すというのもどうかと凪は思ったりする。
でも大和と言えば生まれたばかりの頃に、長門と脱衣所で腕相撲してたっけか、と思い出してしまった。しかも素っ裸で。
そんな事を思い出していたせいで、小さな苦笑が浮かんでしまう。それに淵上に気づかれ「……変な笑いが出てますけど、突然どうしたんです? 気持ち悪いですよ?」とつっこまれる。
「いや、うん、ごめん。こっちからはそうだね……」
と、ちらりと隣の席に座っている神通を見る。
先程ダーツでは川内が代わりに出てしまった。もしそれで発散するはずだったものを今溜めているならば、ここで発散させてやるのがいいかもしれないのだが。そんな凪の視線に気づいたのか、「どうかいたしましたか?」と小首を傾げる。
「いや、神通行く?」
「そうですね……私はどちらかというと力というより技術ですからね。出ろと仰るのであれば出ますが……」
「そうか……。いや、さっき出なかったからさ、勝負好きなら一度は戦いたいのかな? と思ってね」
「お気づかいありがとうございます。でも、大丈夫ですよ。確かに一度は出たいとは考えましたが、また別の機会でも構いません。今回は他の誰かに譲りますよ」
「わかった。じゃあ重巡の誰か、いくかい?」
と、重巡達が集まっている方へと呼びかけてみる。力と言えば戦艦だが、重巡も悪くはない。すると「じゃあ私の出番かしらっ!?」と勢いよく足柄が立ち上がった。
「今までうずうずしてたのよねー。行ってもいいのよね?」
「あー……勝負好きなのに静かだと思ったわ……。うん、いいよ。発散しておいで」
「よしっ! さあ、佐世保からは誰が来るのかしら!?」
ぐっと左手で支えた右腕を曲げ、拳を握りしめて気合を示す足柄。台へと向かっていく様子を見つめながら、淵上は軽く佐世保の艦娘達を見回していく。あの足柄の相手に出来そうな娘といえば、と考えていると、とある艦娘が目に留まった。
「――羽黒、あなた行く?」
「……え? わ、私、ですか?」
「羽黒? え? マジで?」
羽黒と言えば、妙高型の末妹であり、かなり気弱で大人しい性格をしている。ということは史実では中々に活躍したのではないか、と思われるだろうが、実際その通りである。
例によって武勲艦が艦娘になった際に大人しくなってしまった艦娘の一人だ。
報告によれば事あるごとに「ごめんなさい!」と謝り、幼い顔立ちをした瞳に涙が浮かぶという気弱さだ。そういう性格なのか、男性が苦手なのか……こういう娘の扱いに不慣れな人からすれば、どう接していいのか分からない艦娘である。その点女性提督である淵上は同性なので、特に問題なく付き合っているらしい。それは羽黒を秘書艦にしてから一度も変更されていないという点でもうかがえるだろう。
「あなたの力を見せてあげなさい」
「は、はい……わかりました」
そして指名された羽黒は拒否する言葉を発さず、頷いて立ち上がっている。
足柄の対面に立って何度か深呼吸を繰り返してぐいっと袖をまくった。
「呉鎮からは足柄ちゃん、佐世鎮からは羽黒ちゃん! 妙高姉妹の対決となったよ~! これは面白い戦いになりそうだね!」
「手加減しないわよ、羽黒?」
「……上等です。私も、全力でいかせていただきます、足柄姉さん」
羽黒相手なら負けられない、と不敵に笑いながら足柄も袖をまくる。その目は完全に獲物を狩る者の目をしている。だが羽黒もその視線を受け止め、じっと睨み返すだけの気迫でこの場に立っている。
そこにいるのは気弱とされている羽黒ではない。戦う者へと切り替わった一人の艦娘だ。なるほど、あの気迫を纏えるならば、確かに彼女は武勲艦であると認めさせてしまう。
何も知らない人が見れば、ごくりと息を呑んでしまいそうになるだけのぴりぴりとした空気が二人を中心に渦巻いているのだ。気弱で大人しい女性が発しているのだよ、と説明しても信じられないだろう。でも、現実である。
「では両者、構えて!」
がしっと右手が組み合い、左手は供えられている棒へと添えられる。那珂が右手を押さえ、両者の目を確認し「始め!」と告げた瞬間、その手は――動かなかった。
しかし二人とも力を入れて相手の手を倒そうとしている。その力が均衡しているのだ。
「ふっ、く……!」
「んん……!」
二人にそれぞれの鎮守府の艦娘達から声援がかけられる。呉鎮守府からは妙高が「足柄ー! 負けてはなりませんよー!」と背中に声を響かせ、佐世保からは那智が「羽黒! 耐えるんだ! きっと足柄は隙を見せるぞー!」と酒瓶を手に助言している。
淵上は「瓶は置きなさいよ、瓶は……」とぽつりと漏らしてしまった。
そんな中で均衡は静かに崩れていく。
じりじりと羽黒の手が台に近付いていっているのだ。足柄が押し始めたのである。
優位に立てているからか、にやりと犬歯がちらりと見えるくらい笑みを浮かべ始める足柄。対して羽黒は何とかして耐えるために更に力を入れ、それによって顔が紅潮し始めた。更に目にはうっすらと涙が浮かび始めている。
見る人が見れば、困惑しそうな表情を今羽黒はしている。
じわりと汗が滲み、赤くなる頬、目には涙。まるでいじめているかのような気持ちにさせられてしまう。それを間近で見ている足柄からすれば、たまったものではない。
姉から見てもこの妹は可愛い。そんな可愛い彼女に涙目で力んでいる表情を見せられては力が抜けるというもの。
「――っ!!」
それを感じ取れないほど羽黒もバカではない。これを好機と見て一気に盛り返した。「し、しま……っ!?」と足柄が力を入れなおすが、耐え切れずに手が台についてしまい、「ああぁぁぁ!?」と悔しげに叫び声をあげる。
「そこまで! 勝者、羽黒ちゃん!」
「や、やりました! やりましたよ、司令官さん!」
「ん。よくやったわ。おめでとう、羽黒」
ぎゅっと両手を胸の前で握りしめながら喜びの声をあげる羽黒に、淵上も微笑を浮かべて拍手を送った。一方足柄は一度台を叩いてまた悔しげに呻いている。「あんな、あんな表情を目の前にしたら力も抜けるってのよぉ~……ずるいわ、羽黒ぉ……!」とむせび泣いている。
そんな彼女に「え? そ、そう言われても……」と羽黒が困惑した。
(まさか、それを狙ったか、淵上さん……?)
ちらりと淵上の方を見ながら凪はそう思案する。だとすると狙い通りの勝ちの拾い方という事になる。やってくれたな、と称賛せねばならない。
「まあまあ、落ち着きなさいな足柄。どういう要素があったにせよ、負けは負けよ。ほら、おとなしく帰りますよ。おめでとう、羽黒。いい戦いでしたよ」
長女である妙高が足柄を回収しに向かい、羽黒の健闘も称えて会釈した。いそいそと帰る中でも足柄は悔しさを隠しきれていない。勝負好きだが、ああして感情を豊かに見せるのもまた足柄のいいところだろう。
妙高がついているからフォローは何とかなるだろう、と任せておくことにする。
問題は、呉鎮守府にはもう後がないという事。
「これで佐世鎮がケーキにリーチをかけた状態だね! この勝負で決着がついてしまうのか!? 二回戦のプレイヤー、出てこいやぁ!」
ここは出し惜しみをしている暇はない。大和を出すのか? という空気になる中、「――私が出よう」と立ち上がった艦娘がいた。自然と視線が彼女、長門へと向けられる。
「あら、長門が出るの?」
「うむ。少し興が乗った。それに後がないという状況ならば、私が止めるべきであろう」
「ふうん、こういうのはやらない性質だと思っていたけれど、それは楽しみね。でも長門? 私以外に負けるなんてこと、許さないわよ? やるからには勝ってもらわなきゃ」
「ふん、お前の気持ちはどうでもいいが、負けるつもりはさらさらない。誰が来ようとも私は勝つ。その気概は一時も忘れたつもりはない」
指を鳴らしながら大和に背を向け、その気持ちを表すかのような真剣な表情で勝負の舞台へと上がる。腕を組んで仁王立ちする様はまさに武人が立ちはだかっているかの如く。今の彼女を倒せる艦娘が佐世保にいるのか? と佐世保の艦娘達がざわつきだした。
「大和ではなく長門か……。そっちもそっちでこちらとしては強敵ね。でも後がないのだからなりふりかまってはいられないでしょうね」
「そうだね。……出たのは本人の意思だけどね」
よほど間宮のケーキが食べたいんだろうな、と思いながら凪は酒を飲みほした。彼女がかなりの甘党だというのはほとんど知られている。だからこそ自分の手で敗北に向かおうとする状況を止めに立ち上がったんだろう。
でもそれが佐世保へと圧力をかける事になっている。それだけ長門という壁は厚く頑強だ。それを崩せるとしたら同じ戦艦だろう。
霧島が出るか? と凪は予測する。しかし先程ダーツで勝負を決めたばかり。また出るのか? という事になるだろうが、他に出るとしたら金剛?
「……扶桑。あなたが行くといいわ」
「え……私、ですか?」
羽黒と同じく、まさか自分が指名されるとは思っていなかった扶桑が、困惑しながら自分を指さしている。うん、と頷いた淵上はどうぞと長門の方へと促し、短く逡巡した扶桑は頷いて立ち上がった。
これには呉の山城も「え? 佐世保の姉さまが?」と困惑し始める。
「ど、どうしたら……どっちを応援したら……」
「いや、普通に長門を応援すべきだろう、山城。うちはもう後がないんだぞ」
「しかし、姉さまが負けるところなんて見たくないわ……。所属している鎮守府が違えども、扶桑姉さまは姉さまですもの。ああ、どうしたら……悩ましいわ」
「味方であるはずの艦娘に応援されないとは、長門も不幸だな」
艦娘としての山城はかなり扶桑にべったりな性格をしている。呉鎮守府に扶桑がいないので、日常的にその様子を見る事はないが、しかし扶桑の建造はまだかしら? みたいな事は時々口にしているので、その空気は感じられる。
そしてその性格は他の艦娘達にも共有されているので、山城がこうなのは日向も理解しているので、これ以上のツッコミはない。が、山城の口癖をぽつりと漏らすだけに留めた。
「ふむ、扶桑か。悪くない相手だ。よろしく頼むぞ」
「はい、お手柔らかに、お願いします……」
たおやかに一礼する扶桑に握手を求めると、そっとそれに応えてくれる。那珂が「二回戦は呉鎮守府からは長門さん! 佐世鎮からは扶桑さんとなりましたー!」と選手紹介をする。
「戦艦同士の戦い、これはすごいことになりそうな予感だねー! では二人とも、位置について!」
軽く肩を回した長門が構えると、扶桑もぎゅっと手を握り締めて長門を見据える。先程までは儚さを感じさせる和風美人、といった雰囲気だった扶桑だが、今は表情を引き締め凛々しさを感じさせるものに切り替わっている。
白魚のような手が長門の手を取り、その上に那珂の手が置かれる。
「始めッ!」
『――――ッ!!』
開始を告げた刹那、二人同時に力が入る。だがその勝負は長門有利で始まった。負けられぬ、という想いから生まれたパワーが扶桑の手を台へと近づける。しかし扶桑もそれを堪える。必死に耐えて勝負を続けさせるのだ。
「おおっと! 長門さん攻める! やっぱりパワーでは長門さんが有利かぁ!? しかし扶桑さん耐える! こういう勝負には似合わなそうな見た目や雰囲気だけど、そんなの関係ねぇ! これが戦艦の意地だとここは耐えている!!」
汗を流しながら扶桑が耐え、そして長門も更に力を入れて扶桑を倒さんとする。じわじわと扶桑の手が台に近づいていくが、まだ扶桑は耐える。なかなか根性があるではないか、と長門が笑みを浮かべ、一息ついて力を入れなおそうとした。
そこを待ってたとばかりに今度は扶桑が攻めに転じる。ぐいっとその手が開始地点まで持ち上げられていく。「ん、んん……やるではないか……!」と長門が耐えてそれ以上は倒させまいとする。
「これはいい戦いだぁー! 扶桑さんが何とか勝負を均衡まで戻したけれど、今の攻防でどちらも結構体力使ったんじゃあないかな? となると若干扶桑さん不利かなぁ? でもまだ勝負はわかりません!」
佐世保の艦娘達が一斉に扶桑を応援している。
呉の艦娘達も負けてなるものかと長門を応援しており、ライバルを自称している大和は応援していないが、揺るぎない眼差しで長門の背中を見つめていた。口には出さないが、彼女もまた心の中で応援しているのだろう。
凪もじっと見守っていたのだが、不意にちりっと痛みを感じた。ん? と思っていると、ちりちりと胃が痛み始め、そっと手をお腹に当ててしまう。その様子に神通も気づいたらしく「大丈夫ですか?」と背中に手をまわしてくれる。
「ん、ああ……大丈夫。そんなに強い痛みじゃないから」
「……食べすぎですか? 海藤先輩」
「いや、そんなに食べたつもりはないんだけどね……」
「胃薬をお持ちしましょうか?」
「……そこまでではないよ。少し落ち着いてきたし、軽めの痛みみたいだしね」
クリスマスパーティだから、といい料理が並んでいるために自分でもわからない内に食べ過ぎたのかもしれない。それに紅茶や酒もいつも以上に飲んでいるのも影響している可能性もある。
でもそれだけなんだろうか? と自分でもよくわからない疑問を感じていると、ん? と舞台に別の存在を見つけた。
「あれ? いつからあそこに?」
と何気なくそれを示してみる。
にゃーんと小さく鳴いたそれは、昨日見かけた白い子猫だ。長門と扶桑の対決している台の近くにいつの間にか現れている。実況している那珂の対面、観客側にひょっこり現れ、じっと長門と扶桑を見上げているのだ。まるで自分も観客の一人だ、とでも言うかのように。
「なんだかお客さんが一人……一匹増えてるね? ちょっと、そこの猫ちゃん誰か回収してー」
と那珂が子猫の回収を頼むと、戦っている長門の視線もつられて子猫へと向けられる。すると子猫も自分が見られている事に気づいて視線を合わせた。その何とも言えない味のある表情に、長門も息を呑み(か、かわいい……!)と感じてしまった。
木曾が「ほら、こっちに来るんだ」と子猫を抱き上げようとすると、するりとその手から逃げてくる。しかも長門の足元へと逃げてきたものだから「……っ!」と長門が反応してしまい、思わず力が抜けた。
「……すみません……!」
と扶桑が謝りながら、ぐいっと一気に長門を倒しにかかる。「――はっ、ふんっ!」それに気づいた長門も慌てて力を入れ直し、それをギリギリ耐える。
足元を通り過ぎた子猫は実況をしていた那珂の近くまで逃げてきたため、小さく唸った那珂が屈んで首根っこを掴まえようとしたが、やはり逃げられる。子猫だけになかなかすばしっこい。
しかしこれ以上二人の戦いの邪魔をさせるわけにはいかない。どうしたものかと思っていると、高速でその場に入り込んだ小さな影がいた。それは逃げている子猫をがしっと掴み、取り押さえてしまった。
それとほぼ同時に、堪えていた長門も力尽きる。
その手は台へとしっかりとついてしまっていた。汗を流し、荒い息をつく二人をじっと見ていた那珂が震える声で「し、試合終了―――!」と叫ぶ。
「ちょっとしたアクシデントがあったけど、ここで試合終了だぁー! 勝者、扶桑さん! これにより、第一回鎮守府対抗戦の勝者は、佐世鎮に決定だああぁぁぁ!!」
「はぁ……はぁ……くっ、不覚……! 心を乱されてしまったのが敗因か……!」
「すみません……このような形で勝ってしまって……」
「なに、気にするな。あれに気を取られてしまった私の不甲斐なさによるものだ。勝負に何が起こるかはわからない。揺らがずに続けていればまだわからなかっただろうからな。私のこれからの課題とする事にしよう。……また、機会があればぜひ相手してもらいたいものだな、扶桑」
「……私で、よろしければ……」
微笑を浮かべて二人は握手しあう。お互いの健闘を称え合う、よい関係が築けたといえよう。佐世保の艦娘達が歓喜に沸き、呉の艦娘達も残念に思う者がいるが、それでもこれまでの戦いを称えるように拍手を送っている。なんだか山城が「姉さま……さすがです」と涙しているようだが、日向は少し気にした後スルーする事にしたようだ。
「……長門―、何負けているのかしら~? 私以外に負けるなんて、残念ですよ?」
「それはすまんな、大和。しかしこれが勝負というものだ。勝つときもあれば負ける時もある。そういうものだろう」
「私としては、私以外に負ける貴様を見たくはなかったのだけれど」
「それはすまんな。だが別に私は、お前を喜ばせるために戦いに出ているわけでもないのでな。……そう絡むな。酔っているのか? だったら休むことを勧めるぞ? 酔っ払いに構う趣味はない」
「つれないわねー、私はこんなにも長門の事を気に掛けているというのに。……そういえば、あの猫はどうなったんです?」
と、大和が足元の方を見やる。そこには力なくぶら下げられている子猫と、その両手を掴んで得意げにしている小人の少女がいた。
若葉マークが描かれている白い帽子をかぶり、セーラー服を着込んだ出で立ちだ。茶髪には短いおさげがあり、黄色いリボンで結ばれている。
そしてその表情。
なんだろうか。子猫が子猫なら、少女も少女だ。ぶらーんと猫をぶら下げながらじっと長門と大和を見上げている。何とも言えない笑みを浮かべて。
「……だれ、これ?」
「しらん。妖精のようだが見たことがないな……。どこから紛れ込んだのか、新たに生まれてしまったのか……何分、私達も妖精の全てを知っているわけではないからな。提督、この妖精は?」
「いやー、俺も昨日猫の方を見かけたばかりだからねー……。そっちの女の子の方は俺も初めてかな。……佐世保の方から紛れ込んできた?」
「いいえ、あたしも見た覚えはないですね」
ということは佐世保鎮守府から来たわけではないらしい。ではこの呉鎮守府で生まれてしまったのか、あるいはまた別のどこからか。
可能性としては大本営だ。
任務達成報酬や、ソロモン海への戦闘参加の際に呉鎮守府の守りを依頼する際に船がやってくる。そこに紛れ込んでいた、という可能性も捨てきれない。
そう推察するのだが、それよりもこの妖精本人に訊いてみた方がいいかもしれない。
「君はどこから?」
「…………」
それにセーラー服の妖精少女は首を傾げた。言葉は通じているとするならば、妖精自身にもわからない、ということなのだろうか。「何故ここに?」と尋ねても反対側に首を傾げる。ますます謎が深まる。
「……その猫は?」
とぶら下げている子猫を指させば、何を思ったか右手で子猫をぶんぶん振り回し始めた。その行動に凪だけでなく長門達もびくっと体を震わせて驚く。ひとしきり振り回すと、まるでヌンチャクを腰元に当てるかのように、子猫を腰元に当てて左手を前に出し、親指を立てた。しかもその表情はどこか得意げで、それでいて先程以上に謎めいた微笑を浮かべている。
もしかすると、笑うのが下手なのか? そう思えるくらい、邪悪さを感じさせる笑みなのだ。
「…………」
「……ふっ」
何を突っ込めばいいのだろう。少女妖精がまた笑みを浮かべて両手で猫をぶら下げる。
わからない、この妖精は一体何なのだろう。
「とりあえず、鎮守府に置いておいたらいいんじゃないですかね?」
「……この妖精を?」
「船と猫って昔から縁があるものですからね。ネズミ取りとして猫を乗船させて一緒に旅をしていたくらいですし。でもどうやらその猫は一癖あるかもしれないですから、その猫を監視する妖精としてそれも一緒に置いておく、という感じで」
「なるほど……」
一癖あるのは猫だけでなく少女の方も、と言いたいが、飲み込んでおくことにする。
それに色々謎な妖精がまた増えた、と考えれば心境的に楽かもしれない。妖精自身は今まで人間に対して害をなしたことはない。
艦娘と共にこの世界に現れ、艦娘がそうであるように妖精もまた人間達に対して敵意をあらわにすることはなかった。
扱い方を間違えなければ、この妖精も静かに暮らしてくれるだろう。
「それにしても猫か……」
「ん? 何か猫に思い入れが?」
「いえ、あたしではなく、セージさんがですね。あの人、猫二匹飼ってましたから」
「そうなんだ。どんな猫だったんだい?」
「黒猫のオスカーと白猫のアンドーでしたか。結構可愛がっていたと聞きましたよ。昔一緒に写っている写真が送られてきたことがありますし。……護衛船にも連れて行って、ネズミ取りを任せていたとも聞きましたね」
「…………ドイツのあの猫? それともベル○ら?」
「さあ? 由来は聞いていませんが、たぶんオスカーの方はそうじゃないですかね? 確かオスカーの方が先にセージさんのとこに居た気がしますから」
子猫を見下ろしながら遠い目をする淵上。
もしかすると護衛船に乗った猫は、美空星司の最期の時も……と推察してしまう。流石にドイツのオスカーのように猫が生き残った、ということはないのだろう。主人と共に、海に眠っているのかもしれない。
淵上がそっと指を出せば、少女妖精はそのまま猫をぶら下げたまま待機している。軽く喉をいじってやれば、子猫はごろごろと音を鳴らしている。少女妖精が捕まえているせいで、逃げることが出来ないために大人しくしているのだろうか。
凪もそっと頭を撫でてやるのだが、なぜかいやそうに頭を振っている。
「嫌われているんですかね」
「……まあ、いいさ。とりあえずこの子らは置いておくということで。じゃ、待たせて悪かったね。勝者に報酬を」
「おっとぉ、そうだったね。あ、丁度間宮さんが持ってきてくれたよ! 勝者である佐世鎮には、間宮さん特製のクリスマスケーキを食べられるよー!」
カートを押しながら間宮がやってきているようだが、その姿は三段重ねになっているクリスマスケーキによって隠されている。それくらい大きく、豪勢な出来栄えになっている。
当然それを見た佐世保の艦娘達は歓喜に盛り上がっている。対して呉鎮守府の艦娘達はあれを食べられないのか、と消沈してしまっている。
「それでは皆さん、お召し上がりください」
「やったー! ケーキだー!」
「うま、うまぁー!?」
先に駆逐達がケーキを切り分け、頬張っていく。その甘さと美味しさに頬が緩み、表情がとろけている。すぐそこに美味しいものがあるのに食べられない悲しみ。
だがもう一人の間宮がもう一つケーキを持って来ていた。それは特製のケーキと比べると豪華さは劣るが、それでもクリスマスケーキであることには変わりない。
「で、こっちが敗者に振舞われるケーキだねー。材料とか色々グレートが落ちているけど、こっちもクリスマスケーキなのは変わらないよー。ということでここからはケーキを食べる時間! 那珂ちゃんもいただきまーす!」
対抗戦が終わったので、那珂も司会ではなくただの艦娘としてクリスマスケーキを食べに向かった。呉の艦娘達も普通のクリスマスケーキをいただくために集まっていく。
確かにグレートは落ちている。しかし、それでも間宮が作ったケーキだ。それだけでも価値のある甘味である事には違いない。普通のケーキ屋に並ぶ、いやもしくはそれ以上の味が口の中へと広がっていくのだ。
笑顔でそれをいただく艦娘達は、当然ながらきらきらとした粒子が立ち上っている。うお、まぶしっ!? と凪と淵上が一瞬視界を防ぐために手で庇ってしまうくらい、光が舞っていた。
「……はは、それじゃあ俺達もいただきますか」
「そうですね。では、そちらよりも美味しいケーキとやらをごちになります」
「おう、どうぞどうぞ」
凪と淵上もまた鎮守府の一員。クリスマスケーキを食べる権利はある。
そしてあまりにも大きなケーキのため、鎮守府の妖精達もまたケーキを食べようと集まってきた。
日が暮れていく中、またあちこちで談笑が始まる。
メインの料理をあらかた食べ終えれば、デザートが待っているのがパーティの常。笑顔が咲く会場を見回しながら、凪はこの平穏な日常を噛みしめる。
クリスマスということは、今年もあと一週間で終わるのだ。
今年は凪にとって激動の一年だったと言える。だからこそこの落ち着いた時間、平和な時間と言うのがいかに大切なものなのかが実感できてきた。
そして守らねばならない人が生まれるというものを知った。
彼にとっての世界が広がったのだ。
「お疲れ、長門」
「……ん、ああ。提督か。すまんな、負けてしまった」
「いいさ。そういう時もある。どうだい? 久しぶりの甘いものは」
「とても良いものだ。あちらのケーキも惜しいが、しかしさすがは間宮。これでぐれーととやらを落としているというのだから。うん、美味い」
普段は凛々しい長門も間宮のお菓子の前では一人の女の子となる。そのギャップもいいものだ、と感じられるほどに凪も女性に慣れてきている。
そんな長門を優しい微笑で見つめていると、「む? なんだ? そんなに食べるところを見つめないでほしいものだが」と、少し長門が照れてしまった。
「いや、ごめん。……今年も終わるんだな、とふと思ってね」
「む? ああ、そうだな。早いものだ」
「ほんとに。君と出会った春からあっという間だったように思えるよ」
自然と二人であの日の事を思い返してしまう。
執務室で顔を合わせた、あの日の事を。
片や乗り気ではなかった新米提督。
片や仲間を大勢喪った艦娘。
そんな二人が出会った当初は厚い壁があったのだ。
「いやー、君はアカデミーで習った通りの印象だったね。こんな凛々しい人と本当にこれからやっていけるんだろうか、って不安だったよ」
「それはすまないな。私としても、まさか人付き合いの苦手な提督が来るとは思わなかった」
「ははは……でも、今では君と過ごせて良かったと思っている。君と言う存在は頼もしくあり、それでいて時に女性らしいところが見えるいい人だと思っているよ」
「……突然なんだ、提督? らしくもない」
「いやなに、クリスマスだし、もうすぐ今年も終わるからね。酒も入っているし、少々口が軽くなっているかもしれない」
そう言って気恥ずかしさに苦笑を浮かべてしまう。長門も少し顔が赤くなり、視線を外してケーキをぱくついてしまっている。そんな長門を示すように「そうして褒めれば普通に赤くなるところとか、甘いものが好きなところとか」と指摘してやれば、「か、勘弁してくれ……!」と止めにきた。
その手から逃げるように後ろに下がり、さっと机に置いてあるグラスを二つ取り、伸ばした手に一つを持たせてやる。
「まあ、なんだ……。今年はありがとう、というのと、来年もよろしく、という事を言いたいわけですよ、はい。……ちょっとばかし改まって言うのが恥ずかしくてね。ごめんね、さらりとこういうのが言えなくて」
「…………ん、そうだな。全く、提督のそういうとこには少し参っているよ」
やれやれ、と長門は首を振る。「少しは女性に慣れてきている、というのは良い事だが、会話に関してはまだまだといったところだな」とケーキを机に置き、置いてあるジュースの瓶に手を伸ばした。
凪のグラスにそっと注ぎ、自分のグラスにも同じように注ぐ。
「でも、それがあなたなのだと理解している。そのままのあなたでも構わないし、もう少し慣れても構わない。佐世保の提督を相手にすればもっと慣れてくるんじゃないか?」
「そうだね。あの娘のおかげで更に経験値は稼いでいる気はするよ」
「ふふ、ならいい。では改めて、来年も私達を導いてほしい。私も全力であなたを支えよう」
「ん、来年もよろしく。長門」
軽くグラスを掲げ「乾杯」と唱和して合わせる。ぐいっとグラスを傾けて飲み干すと、自然と視線が合い、どちらともなく微笑が浮かんだ。
そんな二人に「二人だけで乾杯ですか? ちょっと妬けますね」と声がかかる。そちらを見れば、神通がケーキとグラスを手に苦笑を浮かべていた。
「む、神通か。どうした」
「いえ、ケーキを受け取っているとお二人の姿が見えましてね。何だか二人だけの空間、というものを感じていたので、そっとしておいたのですが……仕方ありませんね。長門さんは秘書艦ですからね」
「いや、そんな事は気にせずに声をかけてくれて良かったのだが。それに肩書きこそないが、神通こそ提督のもう一人の秘書艦のようなものではないか」
「そうですか?」
長門は呉の艦隊全体の指揮権を持ち、南方棲戦姫や戦艦棲姫との戦闘の際には前線に出て艦隊を鼓舞する立場にあった。それは秘書艦という立場が、その鎮守府における艦娘達のリーダーであるためだ。
鎮守府での訓練では全体の内容を確認し、淀みなく行われているかのチェックをする。体調を崩している者がいないか、訓練はどのくらい進んでいるのか、あるいは自分が指揮して訓練を行うか。
艦娘全員の上に立つ者として、日々動いてくれている。
神通はその中で、水雷組の長としての立場がある。長門は戦艦組の長でもあり、他には空母組の長として現在は祥鳳がついている。つまり立場の序列でいえば神通と祥鳳は同列でナンバー2となる。
だが実質的には祥鳳より神通の方が上だろう。
呉鎮守府において長門と同じく先代から引き継がれた艦娘。練度……レベル的には長門よりも上になっている。そのため神通が本当の意味での呉鎮守府のナンバー2だ。
そして凪のお世話をしているという事で、長門よりも最近は一緒にいる時間が多い。宴会の際には自然と凪の隣に座り、酌をしているのが普通になってしまっている。
後は凪の体調管理もしている。昨日の一件でも、普段から凪を見ているからこそ、休むように進言できたのだ。
鎮守府運営や艦隊での秘書艦が長門であり、凪個人での秘書艦は神通。
そう捉えている艦娘もいるらしい。
「まあ、そうだねえ……。ほんとに神通には頭が上がらないよ」
「そんな、私は普通に提督を支えているだけですよ。それはあの日、あなたに申し上げた言葉のまま、変わらぬ心で仕えているだけです」
「あの日の言葉?」
「……ああ、あれか」
長門が首を傾げ、凪もどれだと考えてすぐに思い浮かんだ。
それは恐らく、凪が倒れ看病してもらった際に神通が告げた言葉なのだろう。
『あなたのために、この身を捧げ、あなたの兵器となり深海棲艦と戦いましょう』
その言葉に偽りはなかった。神通にとっての誓いの言葉。騎士の如く膝をつき、礼をとって口にした言葉の通り、戦闘となれば水雷戦隊らしく勇敢に立ち向かい、戦場を駆け抜けてくれた。
そしてプライベートではその身を捧げて凪を神通は支えてくれていた。神通との距離が縮まったのはまさにあの日以降といってもいいのだから。
本当に、感謝してもしきれない。
だからこそ、あの日美空大将のあの言葉によって浮かんだ数人の姿がこの二人だったとしても、仕方のない事なのだ。それだけ距離が近い存在なのだから。
「じゃあ改めて三人で乾杯しようか」
とジュースの瓶をとりながらちらりと視線を巡らせる。二人以外、もう一人浮かんだ姿を探してみると、どうやら他の艦娘達と一緒にケーキを食べているようだった。
なら邪魔をするのも悪いので、そっとしておく。
さっきは長門だったが、今度は凪が二人のグラスにジュースを注ぎ、「ではこれからもよろしく。乾杯」とグラスを合わせる。
あの日の壁はもうない。
崩れた壁の先に繋がり、強く結ばれた絆はもう解ける事はないだろう。
来年も、良い年になりますように。
このクリスマスの日、凪はそう願わずにはいられなかった。
いよいよ来週から秋イベとなりましたね。
タイトルも明らかになったということで、増々イベが始まるんだと実感してきます。
……で、モチーフ的に2年の眠りの果てに目覚めるのですかね?
いや、改では出たらしいですけど、本家では出なかったじゃないですか。
空母水鬼さんが。
ここで出なかったら、もう空気どころじゃないですよ……。