「おかえり。よく、無事で帰って来てくれた」
指揮艦へと戻ってきた長門達を、凪は安堵したように出迎えた。まず長門へと近づき、そっと手を差し出す。長門はその手を見下ろし、そっと握りしめた。
「おつかれさま。本当におつかれさま。よく戦ってくれた。ありがとう」
「……いや。それが私達、艦娘のやるべきことだ」
「ああ。でも、こうして無事に帰ってきたことこそ、ありがとうと言わせてくれ。誰一人、失う事はなかった。それが一番喜ぶべきことだよ」
「……そう、か」
長門はじっと凪の瞳を見つめながら返した。
凪は本当に長門達の身を案じている様子だった。その言葉に偽りはないだろうが、恐らくは先代の一件もあるからこそ、この言葉を言っているかもしれない。だが、その手と目が語る事は、確かに彼は本気でそう言っているのかもしれないという高い可能性だった。
今は、それを感じ取っただけでもいい。
それに、無事で帰って来たという事は、凪の言う通り喜ぶべきことなのは間違いないのだから。
「神通もありがとう。よく無事に帰って来てくれた」
「はい。……おつかれさまでした」
それから凪は一人ひとり声をかけ、握手をしていく。
握手をすることで確かに彼女達はここに帰って来たのだと、より実感するだろう。それから数分間、それは続き、最後に利根と握手を交わす。
「本当におつかれさま。さあ、入渠ドックへと向かい、ゆっくり休んで」
『はい』
敬礼をした長門達は備え付けの入渠ドックへと向かっていった。それを見送った凪は艦橋へと戻り、妖精達へと出発の命を出す。
戦いは終わった。いざ、呉鎮守府へと凱旋の時だ。
執務室へと戻った凪はすぐさま大本営、美空大将へと連絡を入れた。しばらくコールが続き、モニターに映し出されたのは美空大将ではなく、補佐を務めている淵上湊だった。
「はい」
「呉鎮守府の海藤です。美空大将殿にお取次ぎを」
「海藤先輩? ……わかったわ。少しお待ちを」
一礼して淵上が離れていく。
そうか、淵上が美空大将の補佐を務めているんだったか、と凪は思い出した。一年後輩だったが、彼女の存在は耳にしていたし、時々アカデミーで見かけた覚えがある。
女子学生にして、入学からトップクラスの成績を収め続ける実力者。それでいて外見的にも美少女と呼べるだけのもの。その才女っぷりは年頃の学生らに噂にならないわけはない。
中には恋人になろうとアタックを仕掛ける勇者がいたようだが、その全てが撃沈されてしまったようだ。その様子を一度東地と一緒に見かけたような気がする。凪としてはあまりその事にも彼女の経歴にも興味はなかったが、東地が撃沈する野郎を笑ってやろうぜ、と無理やり連れていかれたのだ。
そして見事に振られた場面を見たかと思うと、東地はげらげら笑って、
「まーた一人、撃沈だぁー! 記念すべき五十撃沈! どんだけ野郎どもを駆逐していくんだよあの才女様はよぉー! 俺達が撃沈すんのは深海棲艦だってのに、男どもを次々とやっちまうたぁ、おもしれぇことこの上ねえぜ。くっはははは!」
ペットボトルをぐいっといきながら、遠慮なくげらげら笑う東地に、一瞥くれた淵上は、何も言わずに去っていく。残されたのはフラれた事で空を仰ぎ見る男一人。だが、そんな彼を指さしながら笑い続ける東地に苛立ったのか、顔を真っ赤にして疾走してきた。
「おう、やんのかコラァ! いいぜぇ! フラれた野郎なんぞに負ける気なんてしねえっての!」
「ほどほどにしとけよー……」
殴り合いに発展する二人からそっと距離を取りながら、凪は関わらないようにしたのだった。こういう面倒事には極力関わりたがらないのが凪なのだ。無理やり連れてこられても、こういう気配を察知するとさっと離れることで回避していく。
だがそんな中でちらりと、興味なさげに去っていく淵上の後姿を見届ける。こういう若者らしい事から離れる彼女は、果たして何を楽しみにして生きているのだろうか、と何となく思ったのだった。
凪にとってアカデミーはただの通過点。家が海軍に関わる家系だったから、仕方なく通っているだけ。しかし提督にならない程度にそれなりに手を抜き、卒業を迎えるだけ。その先は何も考えずに、ただ作業が出来る開発整備に関わる第三課あたりにでも務めるかな、とこの時から考えていた。
機械弄りは元より、東地から教えられたパソコンでのネット巡り、そしてゲーム……時間つぶしのやり方はアカデミーで増えたのが良かった。特に東地という友人がいたからこそ、それなりにアカデミーで過ごす時間は楽しみがあったのは、凪にとってはとてもありがたかった。
でも、彼女はどうだろうか。
何か、楽しい事があるのだろうか。
「……まあ、いいか」
待っている間、そんな事を思い返していたが、所詮は他人の事だ、と考えるのをやめた。そしてモニターに美空大将が入り込み、「待たせたわね」と微笑を浮かべる。凪が立ち上がり、敬礼をすると、手を出して座るように告げた。
「ご報告します。本日ヒトヨンマルマル、高知県沖の島において泊地棲鬼の出現を確認。これを撃滅してまいりました」
どのようにして泊地棲鬼を発見し、撃沈させたのか。一から十まで説明する中で、美空は煙管を吹かしながら静かに耳を傾けていた。
途中お茶を入れた淵上がモニターに入ってくるが、特に気にする事もなく報告を続ける。やがて報告を終えると、美空は煙を静かに吐き出し、灰皿へと置いてじっと凪を見つめた。
「――ご苦労。よく勝利を収めたわね」
静かに、ねぎらいの言葉をかけてくれた。ありがとうございます、とまた立ち上がって一礼すると、また微笑を浮かべて手で示してきた。
「でも他の者達は、あまり評価はしないでしょうけどね」
「やはり、完全体ではないから、でしょうか?」
「その通り。奇襲をしかけ、まだ力を十全に出していない状態での勝利よりも、万全の状態である敵を撃滅してこそ高い戦果を得られる。戦果にしか目がない奴らからすれば、そちらの方が旨味がある、という事よ」
やれやれと言わんばかりに首を振る美空は、また煙管を咥えて手を振る。だが、とその視線は凪をしっかり見据えていた。
「鎮守府着任から半月、戦力もあまり整っていないが故に、勝てる方法を模索し、それを実行に移した。そして見事勝利を収めた。私は、そちらを評価する。……私の目に狂いはなかったという事を、貴様は証明してみせた。誇りなさい、海藤。貴様は、その戦力でやれるという事を示したのだから」
「……はい、ありがとうございます。美空大将殿」
「故に、私は貴様に褒美をくれてやる。何が望みかしら? 言ってごらんなさい」
褒美。その言葉に凪は自然と無言になる。
何を求めればいいのだろうか。
定番の金か? 提督の場合は資源を求めるのだろうか?
それとも艦娘を求めるのか? あるいは装備?
それらが頭によぎった。
他の者達ならば立場や昇格を求めるだろうが、凪の中にはそんなものはなかった。そんなものに執着する心など、彼の中には存在しなかったのだから。
やがて一分が経った頃、凪は静かにこう言った。
「整備室、なんてどうでしょう?」
「……む?」
「……は?」
美空だけでなく、モニターに映っていない淵上まで呆けたような声を漏らしてしまう。
そんな中で凪は慌てた様に、何故これを求めているのかを説明し始めた。
「いや、ご存じの通り、私はここに来る前は第三課の下っ端で働いていたじゃないですか。それで、なんと言いますかですね、久しぶりに機械弄りがしたくなってですね。うちの工廠に色々設備や区画を増やして私が触れる物を置きたいな~なんて思いまして」
「…………くっ」
しばらく呆然と凪の言葉を聞いていた美空は、小さく体を震わせ、堪え切れないように笑い声を漏らしてしまった。
「あっはははははは! 聞いたか、湊。こいつ、趣味のための場所をこの私に求めてきたぞ! 金でも立場でも、艦娘でもない! 趣味のための場所ときたもんだ! これが笑わずにいられようか! あっははははは!!」
「お、落ち着いてください大将殿。外に響きます」
慌てて淵上が美空をなだめようと近づいてきた。いつも仏頂面をしている彼女だったが、この時ばかりはさすがに困り顔になっている。しばらく笑い続けていた美空は、こぼれ出た涙をぬぐい、茶を少し口に含む。
「……はぁー、いいだろう。それくらいくれてやる。存分に私を久しぶりに笑わせてくれたのだ。色々手配してやろう」
「ありがとうございます。……それと、申し訳ありません。このような望みで」
「構わん。前にも言ったはずだ。私は、貴様に期待をしている。そして貴様は、すぐさまこのような結果を示したのだ。その褒美をくれてやらんといかん。貴様をそんなところに放り込んだ責任というものがあるからな」
灰を灰皿に落とすと、煙管の先端をびしっと凪に向けてきた。
その表情はどこか楽しげなものが浮かんでいる。まるでおもちゃを前にした子供のようであり、しかしその瞳には強者が見せる様な燃える炎がちらついている。
「それに海藤、前に約束した通り、貴様には新たな艦娘をくれてやろう。つい最近、構築に成功したデータだ。受け取るがいい」
カタカタとキーボードを叩くと、すぐさまパソコンにメールが届いた。それを開いてみると、艦娘のデータが表示される。そこにはこう書いてあった。
航空母艦、翔鶴、瑞鶴。
軽巡洋艦、鬼怒、阿武隈。
これらが届いたという事は、工廠の建造において彼女達が出るかもしれない、という事である。
「よろしいのですか?」
「ああ。貴様の艦隊には軽空母がいても空母がいないのだろう? ……よくもまあ、祥鳳だけで泊地棲鬼と戦ったものだと、ある意味私は感心する。そんな貴様の艦隊をより強固なものにする空母。五航戦ではあるが、今の貴様にとっては十分に過ぎた存在だろう? 確実に入手する方法も、望むならばくれてやるが、どうする?」
確かに空母という存在は必要だ。将来的には千歳も軽空母になるが、それでも正規空母という存在は艦隊運用には大きな存在といえる。戦艦と並び立つ大型艦。それが一人いるだけでも違う。
断る理由など、どこにもなかった。
新たなメールが届き、それを工廠へと送る。これで妖精達に命じれば、確実に五航戦が入手できる。この上ない報酬と言えるものだった。
「さて、ここからは将来的な話をしようか、海藤」
「といいますと?」
「南方についてだ」
その単語に、凪は顔を引き締める。それはこの鎮守府、いや長門と神通にとっては縁深いものなのだから。
「ソロモン海域が静かにざわついている。トラック泊地、ラバウル基地から偵察は向かっているが、どうも怪しい。そして佐世保の越智もまた、それに目をつけているという話よ」
「佐世保? ……二年前の卒業生でしたか。なんでまた佐世保から」
「呉の先代とは何かと戦果争いをしていたようでね、戦死する原因となった南方に興味を持ったらしいわ」
「ああ……つまり、南方を倒す事で自分が先代より優れていると示したいと」
競い合っていた相手が死んだ原因を討ち倒す事で、完全なる勝利を刻む。考えられない事ではない。となれば、佐世保の越智が南方を倒してくれれば、凪達としては関わらなくて済むだろう。
長門としてはかつての仲間の仇を討てないという事になるだろうが、今の凪達の戦力ではどうする事も出来ない。このまま呉鎮守府としては何事もなく、平穏に過ごしたいところだ。
しかし美空は煙管を吹かして凪へと流し目を送って来た。
「今はまだ、南方は何事もないわ。戦いに勝ちこそはしたものの、南方としても多少なりとも負傷をし、深海棲艦の数を減らされている。でも、南方の力は静かに、ソロモン海域を覆い始めているのは確か。いずれ南方が出現する兆しが出た場合、佐世保は動くでしょう。それは間違いない。その中で――」
「美空大将殿?」
「――いいわ。励みなさい、海藤。今はただ、貴様の艦娘らを労いなさい。今日はご苦労であった。ゆっくり休みなさい」
何かを言いそうになっていたが、それを飲み込んだようだった。しかし何となくその言葉は推測できる。
となると、今回の五航戦を与えるという事も何となく邪推できる。
五航戦を迎え入れ、他にも様々な艦娘を新たに加え、育てていけ。そうして次の戦いの準備を整えろ。
次の戦い、それは南方での大規模な戦い。
先代呉提督が果たせなかった勝利を果たしてみせろ。
関わらないように、と凪が考えようが美空大将が命じればそれに異を唱えることは出来ない。所詮凪は美空大将の下につく立ち位置なのだから。
「はい。では失礼します」
「それと海藤」
「……はい?」
もはや恒例なのだろうか。それともわざとやっているのだろうか。
そんな事を考えながら次の言葉を待ってみる。
「後日、時間はあるかしら? 空いている日があれば教えてもらいたいのだけど」
「……といいますと?」
「食事、共にどうかしら?」
「……え? 私と、ですか?」
「そうよ」
意外そうな顔で問い返してしまうのもしかたがないだろう。相手は大将、そして凪は提督に就任したばかりで、それ以前となるとただの下っ端の作業員でしかない。
立場が離れすぎているのに、まさかわざわざ食事の誘いを受けるなど誰が想像するだろうか。つい「会食ですか?」と訊いてしまうのも無理ない事だろう。
「いいえ、ただのプライベートよ。立場など関係なしに、プライベートの食事でもどうか、と言っている」
「なぜ、私などを」
「今回の件の労いもあるし、それに、貴様は食事に気が回らないのでしょう? これを機に、いいものを食わせてやろう、という心遣いも入っているつもりよ。良い食事は良い体を作る。自然な事でしょう?」
「はぁ……わかりました。そこまでおっしゃるのであれば……」
「よろしい。ではまた連絡してきなさい」
そう言って電話を切っていった。
つかれた、と凪は椅子の背もたれにぐでっと体を預けてしまう。そうして天井を見上げながら思う事はこうだろう。
「……だから、おかんかよ」
ちゃんと寝ているのかと訊いてきたり、食事はちゃんととっているのかと訊いてきたり……どこの心配性の母親かと突っ込みたくなる。
だがそれを帳消しにしかねない、裏の様子も匂わせる。
本気で南方戦線に送り込もうという気があるのならば、先代提督と同じ轍を踏まないようにしなければならない。さもなくば、長門や神通に申し訳が立たない。あるいは、離反を受ける可能性だってある。
「はぁ……めんどくさい」
思わず漏れて出た本心。ああして敬語を使い、相手にする程度ならばまだいい。それくらいの事は普通に出来る。だが凪にとって誰の思惑に乗せられて動かされる、という事に対しては父親の件もあって嫌悪感が湧きでてくる。
人の悪意ほど、めんどくさいことはない。出世争いほど、人の欲望が丸出しになるものはない。そんなものに関わりたい人の気がしれない。
それが凪という人物だった。だから報酬に立場など求める気などなれない。
そしてどうやら南方戦線は、今度は佐世保の越智提督の思惑が絡んでくるようだ。それに巻き込まれるというのだろうか。そう考えると憂鬱だった。
しかしやるしかあるまい。
それを乗り越えれば、今度こそ静かに日々を過ごせるだろう。今はそう信じるしかないのだった。
「……く、ぐ、ふ……」
いよいよもって積もりに積もったものが襲い掛かってきたようだ。苦い表情を浮かべて立ち上がり、執務室を後にする。廊下を静かに駆けていき、トイレへと入っていく様子を、そっと神通は見つめていた。