その知らせは茂樹にとって喜ばしいものだった。凪がトラック泊地へと来てくれるというものだった。今回は湊は同行せず、日本に留まるということだったが、でも友人である凪と久しぶりに会えるというのは、これほど嬉しいことはない。
メールに対して返信し、うきうき気分で茂樹は提督としての業務をこなしていく。その様子を秘書艦である加賀は微笑を浮かべて見守っていた。
処理した書類を受け取りながら、「抑えきれていませんね」とつい口をついて出てしまう。ペンを走らせながら「ああ、すまんねえ、加賀さん」と、軽く謝罪すると、
「でも、こういう時期でも、会いに来てくれるってのは、嬉しいもんさ。誘った身ではあるけどね」
「良き友人というものは、何物にも代えがたいものです。今回の演習もまた、楽しいものになりそうですね」
「ああ、違いねえ」
凪率いる呉の艦隊との演習も久々だが、前回の時と違って青の力の修練も加わっている。お互いにより強くなった状態で、それぞれの艦娘の力を試せるのだ。それがトラックだけではなく、ラバウルやパラオの艦娘たちにとっても、良い経験になってくれるはず。
そう信じて疑わない茂樹と加賀であった。
数日の時が過ぎた。
夜も更けてきて、誰もが寝静まる時間帯。
トラック泊地では、夜の番をする艦娘たちが島の外を警戒しながら過ごしていた。
基地への襲撃を警戒し、交代制でトラック泊地を警備している。
いつ来るかもわからない。本当に来るのかもわからない。そんな中で、彼女たちは夜の浜辺を過ごしていた。
静かな夜だ。
空には月が浮かび、僅かな灯りだけが海と浜を照らすのみ。
基地の方は灯りが落とされており、基地へと続く道などに点々とある街灯だけが、トラック泊地内の微かな灯りだった。
穏やかな波の音がその場に流れ、何も起きる気配など微塵も感じさせない夜。
各所で配備されていた電探が周囲を警戒するために回転している。昼間と違い、夜となれば艦載機からの目はあまり利かない。そのため、この電探から発せられる反応が、異常を知らせる目と耳となる。
その範囲から更に向こう。
闇より深い底から、静かにその影が浮上する。
静寂の海に浮かび上がるその影は、滴り落ちる水滴を気にする素振りもなく、じっとその赤い瞳で標的を確認する。
ざっと様子を確認。何人かの人影が、トラック泊地の近くだけでなく、海にも出て電探を回している。まだこちらには気づいていないようで、何よりだ。
標的はこの艦娘か? それは否である。
艦娘を奇襲するだけでは意味がない。襲撃するのは、本命を撃ち放ってからだ。
電気は落とされているが、ぽつぽつと灯る街灯の位置関係と、月明かりに僅かに照らされて浮かぶ大きな影から、標的の位置を推測できる。
何よりこの身は転生体。積み重ねた前世の経験も加味すれば、これらの情報からでも標的を撃ち抜く確率はそれなりにある。あとは、己の技量を自ら信じて実行するだけだ。
「――さて、弾丸装填」
と、気だるげに手を挙げて指示を出せば、ゆっくりとそれは現れた。
闇の中で蠢く二つの頭を持つ魔物。それが備えた主砲が、しっかりと彼女の狙い通りの方角へと砲門を向ける。
遠方で異常に気付いたらしい艦娘がいたようで、連絡のために動いているようだが、それよりも早く彼女は動いた。溜め込んだエネルギーを解放するように、すっと相手へと差し伸べるかのように、手を伸ばす。
「主砲、一斉射」
命令は至極単純。
だが、それに応える音は盛大に。
放たれた弾丸は警報が鳴り響くトラック泊地へと容赦なく降り注いだ。
炎上するトラック基地に、次々と攻撃の手が降り注ぐ。
最初の攻撃だけで、司令部やドックは破壊されていた。警報はけたたましく基地全体へと鳴り響いているが、それを鳴らすものもまた、飛来してくる攻撃によって破壊されていく。
そんな中で、茂樹は何とか避難を進めていた。
秘書艦である加賀と共に、崩れ、燃え広がっている基地の中を降りていく。低い姿勢で鼻と口を押さえ、燃える煙を吸い込まないようにしながら、本当に来るとはと小さな焦りを感じていた。
(クソッたれ……! まさかこのタイミングとは、ついているのかついていねえのか)
遠くでまた砲弾が飛来し、爆発して基地が揺れ動く。思わず体勢を崩してしまいそうになるが、左側で支えてくれる加賀のおかげで転倒はしなかった。「大丈夫ですか?」と、不安げに、でもしっかりとした手で茂樹を支えてくれている。
そんな彼女に、「大丈夫だ。今は、とにかくあそこに急ごう」と促す。
この緊急事態での動きは、すでに艦娘たちに周知させている。それぞれのルートから、隠し通路を伝って、地下に作った避難シェルターへと隠れるのだ。
それだけでも、奇襲に対してトラック泊地の艦娘が脱落することを防ぐことはできる。警備に当たっている艦娘たちの犠牲はあるかもしれないが、そこは仕方がないと割り切るしかない。
口惜しいが、彼女たちまでは救うことはできない。それよりも基地で休んでいる艦娘たちが生き残り、反撃のための戦力を温存する必要があるためだ。
そして茂樹もまた避難しなければならない。反撃のための旗印までも失ってしまえば、文字通りトラック泊地は終わりを迎える。完全敗北として基地が陥落することになる。それだけは絶対に避けなければならないことだった。
戦わなければならないが、それを表に出してはいけない。それをぐっとこらえながら、今はとにかく生き残ることだけを優先しなければならない。その歯がゆさに、茂樹は唇を噛む。
敵の攻撃の手は止まることを知らない。文字通りトラック泊地の基地を全壊させるつもりで、砲撃が続行されている。
そんな中で一階まで降りてきた茂樹は、もうすぐ隠し通路へと差し掛かろうとしたとき、嫌な気配を感じ取った。
それは咄嗟のことだった。
自分を支えてくれている加賀を、突き飛ばしてしまったのだ。その行動に加賀は意味が分からないといった表情を浮かべて茂樹へと振り返っている。
そんな光景がやけにスローモーションに感じられた中で、茂樹の背後の上部で激しい爆発が発生し、二階の床が崩れ落ちていった。
それを見た加賀の口から、聞いたこともないような悲鳴が響き渡る。その声すらも、あちこちで響く爆発音と、今はもう数を減らしていた警報に呑み込まれていった。
「十分撃ち込んだね、長門。どうだい、基地は?」
「もう、ほぼ全てが炎上している。基地そのものも形を留めていない。人がいれば、間違いなく崩落、炎上に巻き込まれて死んでいるだろうよ」
「そう見るかい。だとしても、油断はできないよ。アンノウン、そっちはどうかな?」
その声は艦載機から発せられたものではなかった。
星司の体は、この暗い海の上に立っている。いや、正しくは彼が乗っているバイクが、この海の上に留まっていた。彼はそのシートの上に座りながら、アンノウンへと視線を向けていた。
「キッヒヒヒヒ、ボクとしても同意見かなあ。あれで生きていたら人間じゃないよ」
長門、アンノウン、そして霧島をはじめとする戦艦棲姫などが、何度も何度も砲弾を撃ち込んでトラック泊地を破壊しつくしたのだ。恐らく中にいた艦娘たちも崩落に呑み込まれていっただろう。そう思わずにはいられない惨状である。
浜で警戒していた艦娘たちも、夜襲によって沈められていった。最初こそ抵抗していたが、すぐに先陣を切っていった深海南方艦隊の水雷戦隊と、深海吹雪によって蹴散らされていった。
しかし彼女たちは上陸できない。できたとしても、海からそう遠くまで離れられない。
そのため崩壊している基地へと近づき、被害状況を確認することができないでいた。
そのため彼女たちが今回やるべきことは、港で警備を行っている艦娘たちの撃破だ。深海長門が砲撃を開始した後、連絡や迎撃のために動き出す彼女たちの前に現れ、速やかに対処に当たること。
そうすることで、トラック艦隊にとっての最初の犠牲者となってもらうと同時に、こちら側の戦力を僅かでも生き残りへと届かせないようにするのだ。
「報告します。警備にあたっていた艦娘、全てを撃沈。ここから確認できる限りで、他に艦娘は存在しません」
「ご苦労様、吹雪。僕もそっちへ行こう」
島の奥へと上陸できそうにないことは、深海へと堕ちた星司自身も同様だろうと、何となく感じていた。こうして海の上に上がるのも、心のどこかで忌避感があった。
海の上に立つ、それは死んでしまった自分がやることではない。だから移動も全て海底で行ってきたが、こうして上がってみてわかったことがある。
日の当たるところに、自分は居たくなかったのではないかと。
夜なら問題ないのかというとそうでもない。胸がざわついて仕方がない。
原因はやはり、自分は死んでいる身だからだ。一度命を失った存在が、再び日の当たるところ、すなわち空が見えるところへと上がってきていいはずがないと、心の中で制限をかけていた。
見上げる空には、闇を照らす優しい月明かり。太陽のように強い光ではないけれど、闇を往く命あるものたちを、暖かく包み込むような淡い光が、世界を照らしている。
かつての自分なら、いい月夜だと思っていたのだろうが、今の星司にとって、そのような思いは胸にはない。
ああ、自分はもう、人でなしだ。
この体も、思いもそうだ。そして、今夜起こした行動もまた、人でなしを助長する。
でも、だからどうしたというのだろう?
自分はやらなきゃいけないことがある。
平穏な日々を取り戻すのだ。こんな戦いをさっさと終わらせて、元の静かな暮らしを取り戻すのだ。
かつて自分が持っていたもの。ただひたすら好きなことをし続けられる
そのことを考えると、どうにも最近頭にノイズが走るような気がするが、そんなことはどうでもいいと横に流す。
「さあ、行こうか。作戦を次の段階へと進める。潜水部隊は島の周囲に展開を。万が一逃げ出すような艦娘がいれば、連絡と攻撃。一人たりとも逃がさないようにして。日が昇れば、トラック島を中心に周囲の警戒を行う。ラバウル、パラオが動いてきたら、迎撃へ。それまでは、各自休息を」
そう指示を出せば、アンノウンたちが了承の返事をする。移動し始める彼らの後ろからついていきながら、深海長門は静かに目を細める。
作戦は開始された。だが、彼女にとっての作戦はまだ息を潜めている段階だ。
動き出すのはまだまだ先になるだろう。果たして彼女の目論見通りに事が進むかどうかは、まさに神のみぞ知るといったところだろうか。