時は遡り、深海欧州艦隊がドイツとフランスから出撃してきた艦隊と交戦状態にある中、イタリアではアジアへと向かっている船と暗号通信を行っていた。前に秘密裏に出港していた船が、無事にスエズ運河を超え、いよいよアラビア海へと出ようという頃合いだと、通信が返ってくる。
欧州戦線が厳しい状態にある中、各国では海路はもう表立って国を行き来するには使えなくなっている。それは同時に、地中海を超えてアジア方面へと出ることも、大西洋を南下してアフリカ方面を回ることも、難しくなっているということだった。
幸いなことに、深海棲艦は陸路までは手が回らない。そのため欧州各国では陸路を使ってそれぞれ人や資源を回し、情報などをやり取りすることになっていた。
それによってドイツから陸路を伝い、イタリアへと渡った提督らがいた。彼らはイタリアの港からイタリアの提督と共に出港し、リンガ泊地を目指すこととした。
彼らの船出は欧州の深海棲艦らには気づかれていないようだった。彼らの目を欺くために、他の国々が協力して深海欧州艦隊へと抵抗を示し、気を引かせていたおかげだった。
第一の関門は突破できたといってもいいだろう。
そんな彼らの行く手を阻むのが、印度提督が抱える艦隊だ。紅海を抜け、アラビア海へと出てきた彼らの航海を邪魔するように、艦載機が飛来する。
「くっ、こっちにも深海棲艦が……! マルクス、リンガへ暗号を。ここからなら、少しでも精度の良い状態で送れるだろうからね」
「わかった。グラーフ隊、こちらからも対空の援護をしてあげて」
「承知した」
ドイツ人の女性提督がドイツ空母艦娘、グラーフ・ツェッペリンへと指示を出す。艦橋に設置している通信機を用いて暗号を打ち、リンガ泊地へとメッセージを送る。これがリンガ泊地へと途切れ途切れながらも届き、救援要請として受け取った瀬川が出撃することとなった。
グラーフ・ツェッペリン率いる艦隊と、イタリアの艦隊が迫ってくる艦載機を迎撃していく。日本やアメリカの空母らと比較すると、グラーフ・ツェッペリンやイタリア空母のアクィラは性能を比較すれば劣ってしまう。
また巡洋艦などの対空性能で見ても同様だった。二国が保有している装備面で見ても、対空性能は劣っている。
それを補完するために、両国は欧州の繋がりを活かし、イギリスの艦娘や装備を取り入れている。いや、正しくは欧州で艦娘を運用している国は、全て艦娘と装備に国境はなしとし、全てを織り交ぜて艦隊を作り上げていた。
事実、グラーフ・ツェッペリン率いる艦隊も、アクィラ率いる艦隊も、ドイツやイタリアの艦娘が主流というわけではなく、イギリスの艦娘が在籍しており、共に戦っている。
劣っている対空を補完するイギリス空母やイギリス巡洋艦が、どちらの艦隊にもいるところからも、それぞれの国はイギリスの艦娘に対して高い信頼をおいているのがわかる。
それはやはりかつての大戦の中でも、イギリスの海軍の強さは欧州でも際立っていたことに起因していた。元よりイギリスは海軍が強く、世界各地へと艦隊を派遣していた時代があった。
スペインとはその強さを争ったこともあるが、近代ではイギリスが優勢だったと言われており、イギリスに比肩する海軍といえばアメリカや日本とされていたほどだ。
それは艦娘の時代になっても変わることはなかった。その強さを頼るため、そしてともに欧州を守るために、欧州の国々が技術交換をする中でも、イギリスのレートの価値が高い中での取引となったほどだった。
深海の艦載機はイギリス艦娘の奮戦の甲斐あり、難なく迎撃することができたが、その様子を観察していたイタリアの提督が首を傾げる。
妙に手ごたえがないように思えたのだ。これは欧州で強力な深海艦隊を常々相手をしてきたことによる影響なのかと疑問を覚える。
(あまりにもあっけない。東の方はこちらと比較してマシだと聞いてはいたけれど、こんなもの?)
と小さく唸るが、それも数秒。
「そんなもの、かな。欧州から出てきた自分たちを見に来ただけってこともあるだろうからね。こっからが本番と備えればいいか」
「のんきなものですね。初めての遠征と、欧州戦線から離れたことで気が緩みすぎではないでしょうか? しゃんとしてください」
「そう固いこと言わないでよ~。綺麗な顔が台無しだ。ピリピリした顔だと、幸運の女神さまが逃げてしまうってもんだよ、マルクス」
「残念だけれどブランディ、そういうのは好みません。グラーフ、念のため周辺の偵察を出してください。警戒は怠らずに」
「んー、さすが、つれないねえ」
ブランディと呼ばれたイタリアの提督は苦笑を浮かべて肩を竦める。
生真面目なドイツ人らしいマルクスと、少しナンパな雰囲気があるイタリア人らしいブランディ。
この二人が日本を目指して密かにイタリアから出港した提督たちであった。
派遣された艦載機が落とされていく中で、情報を送り届けてきた艦載機が混じっていた。届いた情報を確認したアッドゥは、頃合いかと考える。片方の指揮艦から何らかの電気信号が発せられたという反応も見られたため、恐らくはリンガ泊地にでも助けを求めたのだろうと推測する。
欧州から来た指揮艦は、リンガ艦隊が出迎えた上で護衛する。そういう役割を担っていたことを、アッドゥは自分の中に取り込んだ印度提督の記憶から把握している。
今回もまたリンガ泊地から艦隊が出向いてくるだろう。
その前にコロンボ基地から少数ではあるが、艦娘が助力に上がる可能性もある。
だがどちらにせよ、ここでアッドゥが動くことはない。そのまま二隻の指揮艦には東進してもらうことにする。
そしてアッドゥ環礁の北へと到達したところで、こちら側に来てもらうことを想定する。
本来ならばこの拠点の位置を知られない状態で、進軍を阻むように襲撃を仕掛けて仕留めるところだろうが、そのようなことはしない。
最早アッドゥに、深海側の事情を酌み取った行動を取る気はさらさらない。
(欧州の意図は読み取れる。この私に埋め込んだ情報と、
どうして欧州提督が印度提督にデータを渡してチャンスを与えたのか。
それはアッドゥのような新しい器を作り上げさせたうえで、喰わせるためだった。つまり印度提督の死は、その時点で確定したようなものだ。
口では生き延びるチャンスを与えておきながら、死刑宣告をしたのである。
(生まれた私を艦隊に加えさせ、手駒として保有しつつ成長させ、
この素体の更なる成長を促して器の拡張を期待するも良し。成長しないならしないで、一つの例として経過を見守ってデータの収集を行うも良し。どちらにしても欧州提督にとっては、損をすることはない。
もしも成長した場合は、彼女が想定していた計画が進行していただろう。その場合はどうなるのか。
(私というコアは抜き取って成長した
深海棲艦にとって魂はコアにある。人間から堕ちた存在にはそれはない。魂という不確かなもの全てがなくなればそれまでであり、またそれを抜き取って別の体に移すようなこともできない。
蘇った際に与えられた体から離れることは絶対にない。
しかし深海棲艦は違う。体が大きく破損したとしても、コアが生き残っていればそれを保護し、別の体へと移し替えることができる。その例は今までにいくつもある。
アッドゥも恐らくはコアを抜き取って別に移せるだろう。別の魂が入れられる空きを作るために。
(本来の私なら、その役目を理解し、大人しく受け入れていた。……フフフ、でも残念ねえ欧州。生憎と、
計画通りに事が進めばこんなことにはならなかったろうに、歯車が狂ったのはどこからだったのか。
トライ&エラーこそ開発の常ではあるが、このエラーは致命的といえる。よりにもよって悪い方向へと無垢な魂が染まりすぎた。印度提督のストレスを限界突破させすぎたのが要因だろう。アッドゥに喰わせるためとはいえ、あまりにも追い込みすぎたのである。
ストレスに苛まれ、窮地に追い込まれた人間が何をするのか。
人間ではなく、また弱者ではなく強者として今日まで在り続けた欧州提督に、そのような思考を読むことなど出来はしない。普通はやらないことをやってしまう可能性があるのが、追い込まれた人間というものだ。
それをも取り込んだアッドゥだからこそ、欧州提督が予想だにしない動きをする。
これから始まるのは、そういう事件なのだ。
中部の拠点でも、事は進められていた。深海長門のために調整された艤装も完成し、運用テストも済んだため、これで深海長門が完成といえる段階に達した。一つの懸念材料があるとはいえ、前線に出しても問題のない状態だ。
深海中部艦隊の戦力も揃っており、先日は北方から新しい量産型として鈴谷が配信された。
あの北方提督からアトランタだけでなく、鈴谷も配信されるなんて、と驚きを隠せないが、使えるものは使っていく。それにこの鈴谷は最新の量産型らしく性能は高水準にまとまっている。
近日想定されている戦いでデビューさせるには申し分ないものだろう。
「調子はどうかな、長門?」
「悪くはない。わたしとしても、この艤装は良いと考える。……最初こそ使い心地はどうかと思ったが、武器は使いようだ。この感覚も、手の馴染みも、慣らしていけば問題はなくなる。役に立たぬガラクタにはならぬだろうよ」
「それはよかった。君は次の作戦の要になる。期待しているよ」
濁ったような光を放つ目が、じっと深海長門を見据える。彼の言う作戦は深海長門も把握している。だが深海長門はそれだけには留まらない。この先起こりうるであろう出来事もまた想定していた。
星司が放つ闇の気配は留まるところを知らない。彼の抱えたストレスは、あれから少しも癒されていない。ただコツコツと作戦のために作業を進めているだけであり、沸き立つ闇の気配は、この工廠に留まらず、上へと流れていっている。
かの実験によって沈められた船たちの元へと。
(得られたものはたくさんあった。もう十分だろう。問題はどのように切り抜けるか、そしてその後どうするかだが……)
と、深海長門が思案し、ちらりと近くにいるアンノウンへと目を向ける。
相変わらず子供のような顔に気味の悪い笑みを張り付けた少女だ。何かと自分を監視しているかのような気配もするが、そうしたくなるのもわからなくはない。
元はといえば艦娘の長門が転生した存在だ。不穏な種も抱えているため、離反するか否かを監視したくなる気持ちはわかる。そしてそれを請け負うのが、このアンノウンが適任だということも。
深海中部艦隊の中でも高い戦闘力を保有する彼女なら、難なく自分を止めてみせるだろうが、それは以前までの話だろう。調整を終えた今の深海長門を、果たして止められるのだろうか。
そんなことを考えていると、「キッヒヒヒヒ、やる気かあ?」と、こっそりと問いかけてきた。すっと近づいてきて、下から睨め上げるように視線を向けてくる様に、深海長門も目を細める。
その場から離れ、工廠に用意されているベッドへと近づくと、アンノウンもそれについてくる。まるで二人して星司から離れて、陰で話すかのように。
「作戦のやる気はあるとも。それがあれの望みなのだからな」
「ああ、それについては結構なことさあ。でも、それだけじゃあない気もするけどね? ボクの目から見ればさ」
「さて、何のことか。わたしとしては、あの気配に対して、お前からは何もないのかと逆に問いたい気持ちでいっぱいだ」
「気配?」
「とぼけるな。深海のものならわからないはずもない。あの負の気配……いや、それには留まらない闇の気配だ。お前ほどの個体なら、見逃すはずもない」
そう言い切ると、どこか楽しそうにアンノウンは目を細める。楽しいおもちゃを前にするかのようなうきうきとしたような雰囲気すら漂わせていた。
「わたしという生まれたての存在すら気になるものを、お前が何もしないというのもどうかと思うが?」
「何もしないって、あれを前にして何をしろってんだあ? 何もしないさ。あれはあれでいいんだからさ。深海のものとして、存分に垂れ流せばいい。それが、ボクたちにとっていい結果をもたらすもんさあ。逆にあれがどうしても気になるってんなら、それはお前が元艦娘だからだよ」
と、アンノウンははっきり言う。
「光に属する存在だったからこそ、気になって仕方がないだけさあ! 実に、実に簡単な話ってね。うん、それで話は終わり?」
「…………で? そのいい結果とやらはただ深海を強くするだけじゃあないだろう? 次に進ませる、その種か?」
「――――」
その言葉に、アンノウンはにっこりと笑う。表面上は。
深海長門も問いかけたまま、アンノウンの出方を窺っていた。
ゆらりと、アンノウンの長い尻尾が動いている。ゆらり、ゆらりと、静かな空気の中で、まるで獣のように、何の気なしにゆらゆらさせている。
それを見ながら、「――哀れなものだな、あの提督も」と呟くと、「――ああ、哀れさ」とアンノウンは同意した。その顔には、先ほどまでの笑顔はない。
今まで見せたことがないような、真顔だった。何の感情も篭っていない、貼り付けたような笑顔もどこにもないものだった。
「本当に、哀れでさあ、普通なら見てられないもんさ。でも、付き合うしかないよねえ。ボクらはあの人に作られた兵器だからさあ。持ち主がいる限りは、どこまでも一緒ってやつよ。例え行きつく先が終わりでもさ?」
「生み出された兵器だから、追従すると? 自分の終わりを変えるようなことはしないと?」
「それは意思や感情の話かあ? ボクらにそれを求めると? はっ、あの人みたいなことを言う! キッヒヒヒヒ! ボクもさあ、そんなものは必要ないって思ってるんだよねえ!」
「…………」
「いやなに、一時はそれも悪くはないかもしれないって思ったことはあるよ?」
でも、とアンノウンは目を細めながら、それを子供のようで、でもどこか歪んだ笑みで否定する。手を軽く広げ、肩を竦め、そしてそんなものに意味はないのだと立ててはいけない指を立てる。
「でもそれは人の話さあ! ボクたち兵器に意思も感情もそんなにいらねえってね。使う奴の意思に従って、役割を遂行すればいい。そしてボクの役割ってやつは、敵を殲滅すること。わかりやすい兵器の使い方の結晶! 歪な組み合わせの兵器だからこそ、わかりやすい役割がお似合いさ!」
だから、とアンノウンはベッドに座る深海長門の肩を軽く叩く。「妙な探りはやめておくんだ」と警告を入れる。
「余計な知識は兵器の質を下げるってね。思考を乱すノイズはいらない。そこから生まれるバグもいらない。そんなものは邪魔なんだよ。艦娘からこっちに堕ちてきたんだからさ、ボクとしても、またお前を殺したくはないんだよ。わかってくれるよね?」
「――ああ、もちろんだともアンノウン」
と、そっと置かれた手を払いのける。逆にアンノウンの肩に手を置いて、深海長門は出来る限りの笑みを浮かべてみせる。
「わたしとしても、お前に前世の借りは返したくはないと考えている。今はおとなしく、次の作戦に向けての準備を進めておこう。どうやらわたしは重要な役割を担うようだからな? 慎重に事を進めていくことにするとも」
だが、その笑みは穏やかそうに見えて、じわりと何かを瞳や腹に忍ばせるような笑みだった。
お互いに表面上では笑っていても、真の意味で笑いあえていない。
冷たい気配がお互いの中で渦を巻く中、アンノウンもまたそっと深海長門の手を払って「それでいい」と頷いてみせる。
「いやあ、楽しみだね! いよいよ人のいる拠点が消えようって時だ! こっち側も大きく勢力図を塗り替える段階ってやつだねえ。ワクワクするよな、キッヒヒヒヒ!」
と、話を終えることを示すように、笑い声を上げながら歩き去っていく。
その背中を見送りながら、深海長門もまた表面上では笑みを浮かべながらも、決して油断をしていなかった。
去っていくアンノウンの尻尾が、ゆらゆらしながらも、じっと深海長門を見つめている気がしたから。
(最早ここには居られない。中部にも、アンノウンにも付き合っていられるものか。わたしは、わたしのために動くまでだ。何も成し得ないまま、三度目の命は捨てられん。そのためにも)
ぎゅっと胸の前で手を握り締める。そこにある僅かな力を感じながら、深海長門は唇を噛みしめる。
ずっと自分の中で違和感を放ち続けるそれ。居心地の悪さを感じさせるそれこそが、一番の懸念材料といってもいい。
(これをどうにかすることから始めなければならない。でなければ、真の意味でわたしは、わたしとして生きられないだろう)
段取りを考えねばならない。
深海の誰もが触れられないものならば、一体誰がこれを取り除いてくれるのかを想定する。そこから、深海長門にとっての真の始まりを迎えるために。