静かに響く電子音。時折響く電気が弾ける音。立ち昇る泡の音。
暗く静寂に満ちた部屋の中で、それらが不気味なほどに響く中で、印度提督は小さく唸り声をあげた。
募る苛立ちに呼応するように、黒い電気のようなものが、一つ、二つと弾ける。それを気にした風もなく、彼はガリ……と指を噛む。
そこに肉はあまりない。所々骨が露出しており、それを彼は噛みしめていた。ストレスの証か、頬を伝う汗には腐臭が混じり、部屋に少しずつ充満していく。
欧州提督から渡されたポート・ダーウィンのデータの改良は、進んでいるようで進んでいない。元より印度提督はこうした深海棲艦の改良の知識はあまりない。中部提督の美空星司が行った一連の流れのちょっとしたデータは共有されているが、それを見ても彼には深い理解に及ばなかった。
ポッドの中には育ったらしい深海棲艦の素体がある。ポート・ダーウィン、すなわち港湾棲姫の素体から改良をしたため、陸上基地型の力を備えている。だがその髪の色は反転し、黒髪となっている。
黒髪の陸上基地型といえば離島棲鬼という前例があるが、それに似ているわけでもない。トップスは白いドレスのようなもの、角は白い一対のものが側面から冠状に生えている。
見た目で言えば今までの陸上基地型の女性たちとはまた違う、新たな個体として成長している。慣れない中でここまで素体を生育できたのは褒められるべきだろうが、しかしここから艤装をどのように組み込ませるか。
印度提督はこの女性を深海棲艦の強い個体として性能を発揮させる手順がわからなかった。港湾棲姫のデータをそのまま適応させたところで、あまり意味はない。
データをよこした欧州提督は口にした。その時は近い、これは最後のチャンスに等しいのだと。ならばこの素体を主軸にして、成果を挙げられるだけの艦隊を作らなければならない。
そのためにも過去のデータをなぞるだけではなく、それを発展させた個体を生み出さなければならないのだ。
「……っ、クソッ! ここまで、ここまではできた! でも、ここから、どうすれば……!?」
表示されているデータは、港湾棲姫のデータとあまり変化がない。どのように調整して能力を伸ばせばいいのかわからない。印度提督にとって、こういった作業は未知の領域だ。
最後のチャンスだからと、今までにない力が覚醒するといううまい話があるわけもない。わからないものはわからないのだから。
足りないものがあるのはわかる。それが素材なのか、パーツなのか、別の何かなのか。それすらも目途が立たない。
できることは、今まで生まれてきた個体のデータを参照することだけ。
港湾棲姫、飛行場姫、果ては泊地棲姫と、それらしきデータを並べてみる。ミッドウェーの象徴である中間棲姫はどういうわけか共有データには上がっていないため、参照することはできなかった。
「艤装? 艤装を別に作って組み合わせる? 艤装ってどう作るんだ……?」
そんなもの、ここにあるはずもない。どこから持ってくるのか。ゼロから作るのか。
作るとしても作り方が分からない。こうして手間取っている間に、海上で動きがあったらどうするのか。その対応に遅れたら、文字通り何もできずに終わってしまう。
その焦りも加わって、余計に印度提督の精神が侵されていく。
「クソクソクソクソ……! 欧州め……! 俺が、俺が何をしたっていうんだ……! 俺は、こんなの望んじゃいない! 深海の事情なんて、俺には……!」
元人間である印度提督にとって、この立場は望んで得たものではない。わけもわからないままに印度提督の立場を押し付けられ、わからないなりに動き続けただけである。
望むのは人としてもう一度生きること。戻れるものなら戻りたい、そういう生に執着した願望だけだ。
そんな願いが果たされるはずもないのに、願わずにはいられない妄執である。こんなに腐臭を漂わせているのに、もう一度戻りたいなど、愚かな願いだと笑われるだけだ。
その愚かな願いが、近くで眠る彼女の意識を少しずつ呼び覚ましていく。
ポッドの中で眠るもの。まだまだ調整の途中ではあるが、素体としてはほぼ完成している状態だった。先ほどから弾ける電気の音と、深海らしい負の感情、欲望、願いの気配が、彼女の意識を揺り動かしていた。
うっすらと目を開けた彼女は、微睡みの中で親を求めるように、何度か瞳を動かして、状況の把握に努める。
揺らめく泡の向こう、そこに、コンソールの前でうなだれている誰かがいることに気づいた。ポッドの中で膝を抱えて眠っているだけだった彼女。垂れ下がる黒い髪の奥で、ぼやけていた瞳に少しずつ力が宿っていく。
「――――願、イ……オモ、イ……」
親を、光を求めるように、ゆっくりとその手が動く。ぺたり、とポッドに手が触れ、ゆっくりと力を込めれば、少しずつひび割れていく。その音に気付いて印度提督が彼女の方を見た時、大きくポッドに力が込められて、破裂した。
流れていく液体に押し出されるようにして、彼女もまた印度提督の方へと倒れていく。「ひぃぁっ!?」と情けない声を上げて驚く印度提督だが、倒れ伏す彼女は震える手を印度提督へと伸ばしていく。
濡れた髪が顔に張り付いた白いドレスの女性、それが自分の方を見ているのだから、どこかのホラー映画のような不気味な恐ろしさがある。
「ネガイ……イノリ……、……ヘト、届ク」
ぶつぶつと彼女が呟きながら、床を這うように印度提督へと近づいていく。何が起きているのかわからず、印度提督は首を振り、後ずさるしかできない。「誰か、誰か、来てくれぇ!」と助けを求めるが、その手がついに印度提督へと届いた。
すると、その手から何かが吸われていくような感覚を覚えた。足に触れた手、それが腰、体と這い上がっていくのだが、そうしている間も、何かが吸われていく。
「あ、ああ……ぁぁあああ……!?」
消える、消える。自分の中の何かが消える。
力? 想い? いや、それら全てが、自分をこの世に繋ぎとめていた全てが彼女の手に吸い込まれていく。
彼女はもう、立ち上がっていて自分の顔をじっと覗き込んでいるようだった。しかし何かが吸われていくにつれて体を支える力が抜け、膝から崩れ落ちる。
立場が逆転する。
膝立ちしかできない状態の印度提督の顔をそっと抱えながら、彼女はじっとその赤い瞳で、覗き込んでいた。
「やめ、やめろ……俺を、俺が、俺おれ……オレ? オレハ……ダレ?」
「――――――願イ……戻リタイ、アノ、空ノ下ヘ。ツマリ、生キル? 生キル……フ、フフ……」
何かを咀嚼するかのように、彼女は何度か目をしばたたかせ、つい、漏れて出たように小さく笑い声をあげた。そうしている間も、ずっと印度提督だったものの顔を抱えながら。
やがて全てを吸い尽くしたようで、印度提督だったものの目の光が消え去った。何度か頷き、噛みしめて、そっと手を離せば、重みに従って印度提督の屍が崩れ落ちる。
「――――フフ、フフフフフフ……ナル、ほど? 生きる。もう一度、私は、俺は? 俺……私? ……ええ、私は、戻らなければならなかった、と?」
自分でそれを口にしておきながら、彼女はがりっと指を噛む。そのような願い、バカげていると、湧き上がる感情が抑えきれず、ガリガリと指を噛みしめた。
自分の中に流れ込んできた情報。印度提督だったものが抱えていた想いという名の、情報、電気信号。死んだものの魂に記録されていたそれは、人からすれば解明できない不確かなもの。
それを、彼女は機械らしく、流れる電気信号に変換して己のものとする。生まれたばかりの無の存在。最低限のものとして深海の情報だけがあったそこに追加するように、それらが次第に満たされていく。自分のものではない別の誰かの情報が満たされることで、彼女は、自分ではない誰かを模倣したのか。
他人の情報、記録、記憶……自分ではないそれら全てが頭の中に羅列されていく。だが、大部分のものは印度提督になったものであり、元人間という証明である彼が生きていた時代の記憶は、ほとんどが破損している。
正常に再生されないその記憶が、果たしてどこまでが本当の記憶なのか、疑いそうになるそれらを認識し、自分の意識に彼の情報を重ね合わせる。そうして生まれてくる新しい意識、感情。生まれたばかりの意識に、正常と呼べない喰らったモノからもたらされる感情。
人の魂という不確かなものを取り込んだ結果、彼の魂が彼女に宿っているのか、模倣したことで演算し、彼ならそうするだろうと真似ているのか。それすらもわからないままに、自分の中に生まれる感情に突き動かされていく。
「戻れるわけがないッ! 堕ちたものが、戻れるわけがないわッ! こんな、こんな闇の底で蠢くものが、どの面下げて光を望めるの!? ああ、ああ……、愚かな。愚かとしかいえないわ。そんな願い、叶えられるものじゃないでしょうに。もはや正常な思考はできていなかったとはいえ、最期まで欧州に踊らされて、情けないったらありゃしない」
荒ぶる感情に呼応しているのか、角から赤黒い電光が迸る。印度提督からも見られたような現象だが、彼女の場合、よりその発光が強まっているように見える。
物言わぬモノに成り果てたそれを蹴り飛ばし、彼女はコンソールを見つめる。次いで自分の体を見つめ、自分が持ちうる力を確かめた。そうしている間に、先ほどの印度提督の助けの声を聞いた深海棲艦たちが駆けつけてきた。
何事かを問う彼女たちに振り返ると、「何でもないわ。ただ、私が目覚め、提督が死んだ」と、落ち着いた声色で応える。
そっと屈んで深海提督の証と言えるローブを手に取ると、軽く払ってそれを纏う。
そんな彼女を、訪れた深海棲艦たちは茫然と見つめていた。
「これより先は、私がここを纏めるわね? ……大丈夫、先代の魂は、私の中に。全て、全て私が、食べたのだから」
と、さっきまで噛み続け、血を流しているその指を、ぺろりと煽情的に舐める。
「私は、理解している。これは、所詮、先駆けに過ぎないのだと。後に行われる本番に向けた準備。ええ、祈りは彼方へ。願いは叶えられる。……ええ、反吐が出ますわ。フフフ……」
ああ、ごめんなさい。本音が出てしまったわ、と彼女は誰かに謝罪する。取り込んでしまったものの感情が混じっているせいか、彼女自身もまた深海勢力に対して思うところがあるようだ。
生れ出たばかり故か、染まりやすい。熱心に深海勢力に対して動いてこなかった印度提督の思いに染められているため、自分がどうしてこうなったかに対する結論に対しても懐疑的だ。
それでも、こうして生まれてきたのだから、それらしく振舞おう。
ちらりと視線を向ければ、じっと自分を見つめている小さな存在が一つ。いつからそこにいたのだろう、駆逐級にそっくりなものが、彼女を観察するようにそこにいた。
それを確認した彼女は、コンソールを操作して通信を繋いでみる。
それほど時間をおかず、相手は画面に映し出された。そこにいたのは、欧州提督だった。
「何用かしら?」
「白々しい。全て見ていて、全て想定通りのクセにそのような言葉を。……それで? 目論見通りの結果に満足?」
「ええ、印度の魂は取り込まれた。私が見る限りではそれに関して不調は起きていない。……それでいて、お前は生まれ出た時よりも成長している。性能、器の拡張、順調に事は運んでいるようね。おめでとう、アッドゥ。あるいはポートTと呼ぶべきかしら?」
「……私のモデルとしてはそれで正しいのかもしれないけれど、フフ、今の私は印度を継承した個体。例え今回限りのものであったとしても、その立場として動くのだから、印度と呼称してもらえる?」
「ではそのように。おめでとう、印度。お前の存在により、あの方の計画は一歩先に進む。後は好きになさい。艦隊を再編させてリンガを攻めるか、あるいは私の下に合流するかは自由よ。私はお前たちを迎え入れる準備はあるわ」
死んでしまった先代印度提督とは対応が違う。よもやこの深海印度艦隊を迎え入れようと提案してくるとは。記憶にある対応の差に、アッドゥと一度呼ばれた印度提督は思わず吹いてしまった。
苛立たし気に指を噛みながら、首を傾げて「どの口が言っているの?」と呟いた。
「フ、フフフフフフ……! さすがは欧州! 力ある存在は違うわぁ……!
「……へえ? 吼えるわね、印度。取り込まれたとはいえ、そうまで妄執を残すの? 人間の意地かしら? そればかりは想定外ね?」
「でも、そうはしないわ。私が持ちうる戦力では、お前たちに届かない。勝てない戦いをするのは趣味じゃない」
「…………」
「お前たちは予定通り、事を進めるといいわ。私の結果を受けて、あれらにもやればいい。そうしてかの願いを成就させるといいわ。かの神のお気に入りらしく、ね」
指を噛んでいたその口から、赤い舌を出しつつ、噛んでいた指とは違う指を立てて通信を切った。その上で、自分を監視していたものを、赤の力を以てして破壊する。
苛立ちは収まらない。取り込んだ印度提督の魂から来るものだけではない。自分の生まれた意味など、所詮はそんなものだ。計画の全体像の中で、事を進めるための礎である。
無垢な存在として生まれたばかりの自分は、印度提督を取り込んで不調を起こすかどうかを確かめるかどうかの素体でしかない。本来ならばこの成功を以てして自分たちを回収し、欧州勢力の末端に加えられたのだろうが、そうはならなかった。
欧州提督が想定した以上に、印度提督が抱えた負の感情に染まりすぎた。
負の感情こそ深海棲艦の力の源と言っていい。だからこそ欧州提督は前もって印度提督を煽り、より負を撒き散らすようにして、目覚めたばかりのアッドゥを誘えるようにしたのだろう。
餌に誘われたアッドゥはそのまま印度提督を取り込む。そこまでは良かったのだろうが、結果はご覧の有様である。印度提督が持っていた深海勢力に対する反感の意思まで引き継いでしまった。
「戻れない、
通信を切られた欧州は一息ついて紅茶を飲む。どのような状況であれ、紅茶を飲むことをやめないのは、彼女の祖国の影響だ。とはいえ、今の紅茶の味は、少々苦みが強く感じられる。
予定通りことが進んだかに思えたが、僅かばかりの
深海提督が強力な深海棲艦に取り込まれる。それはこの先に必要な事象だ。
深海棲艦を器とし、別の魂を取り込んでも不調が起きない。その検証は今までも何度かあった。しかし、どれも失敗していた。
原因は明白となっていた。
器の大きさが足りていない。一つの魂だけが限界であり、別の魂を取り込めるだけの容量がなかった。それでは、最終目的は果たせられない。
故に、より大きな器になりえる深海棲艦が必要だった。
そのための、彼である。
そうして今、一つの大きな一歩が踏み出された。
深海提督という元人間の魂が、アッドゥの中に収められても、大きな不調を起こさずに行動できている。それだけ器の大きさが拡張された証ではあったのだが、取り込んだ魂に影響されるとは。想定内に事を進めても、僅かな想定外が起きるというのは世の常なのだろうか。
「アッドゥは何をする気かしらね」
あれだけの捨て台詞を吐いたのだ。何かをするつもりだろうが、生憎と欧州は追い込まれた人間が、この局面でどういう動きをするのかを想定できない。
何かをしようとも、その上の力を以てしてすりつぶしてきたのだ。そもそも、何かを起こそうという気配を感じ取れば、先手を打って動いてきた。
その結果が欧州戦線の深海有利という現状である。そしてそれを大きく崩すようなことも起きていないし、起こさせない。
東方では深海に対して勝利を積み重ねていることで、希望を見出し始めているようだが、西方ではそうはいかない。この欧州戦線の現状を維持することで、深海勢力に対する畏怖を残す必要がある。
かつての黎明期のような、世界に満ち満ちる深海勢力に対する恐怖の度合いが薄れていても、まだまだ大きいこの負の気配を消すわけにはいかなかった。
「監視の目は潰された。もう一度派遣……いえ、もう警戒態勢は敷かれているでしょうね。忍び込ませるのは難しいか。となれば、手の空いた部隊を――」
「いいかしらぁ、欧州?」
考え込んでいたところに、深海リシュリューがノックをしながら声をかけてきた。「どうしたの?」と視線をそちらに向けると、「監視から伝達。ドイツとフランスが動いたらしいわ」と報告してくる。
「やれやれ、また反抗する気かしら。飽きないものね」
「私も出ましょうか?」
「そうね、フランスもいるならうってつけかしら。任せましょう」
その言葉に深海リシュリューは敬礼をし、退室していく。
その背を見送った欧州提督は新しい紅茶を淹れて口に含みつつ、思案する。
ここでドイツとフランスが動く。動くことは別に珍しいことではない。時にイギリスやイタリアが動くこともある。規模は小さくともそれ以外の国も抵抗してくることもある。
それほど欧州は機を見て抵抗してくるのだ。
今回はどうだ? 単に戦力が回復したから動いてきたのだろうか?
ただ戦力をぶつけてくるだけでは深海欧州艦隊が崩れないことは、この数年でわかっているはずなのだが、と欧州提督は考える。
「いいでしょう。その時が来るまで、何度でも付き合うだけ。湧いて出てくる虫たちはそういうものだから、仕方がないわよね。虫潰しの戯れは、気分がいいものだもの」
と、陰の入った笑みを浮かべながら、紅茶を飲み干した。
表情と言葉が少々一致していないが、そういうものだ。気分がいいと言いつつ、彼女の言葉の真意としては「気分が悪い」と言っているようなもの。
今の欧州を維持するために、煩わしくともやるしかない。何度やっても無駄なことを繰り返し、わからせ続けるだけである。
勝ち続けたが故の退屈な作業は、紅茶を飲みながらでもできてしまうものだ。
今は深海リシュリューをはじめとする深海棲艦たちの、実戦での鍛錬のようなものになってしまっている。
そんな中で、欧州提督はその時を待つ。
計画が更なる一歩が進むように、彼らにはしっかりと役立ってもらわなければならない。
そっと瞑目し、彼女にとっての主へと届くように、祈りを闇へと捧げるのだった。