深き海の底で音が幾度も響き渡る。鈍く響く発砲音、次いで聞こえてくる着弾音。狙いすました砲撃を前に、軽やかな動きで回避し続ける彼女を前に、その人物は苦虫を噛みしめたかのような顔を浮かべてしまう。
射撃の精度は以前に比べて上昇したと自負している。艦娘として行動し続けた時の経験は死んでおらず、堕ちた今でも発揮できている。変化した艤装でも、変わらない感覚で扱えるようになり、更に磨きをかけたつもりだった。
それでも彼女に有効打を与えられない。まるで自分がどこを狙って撃っているかを見切っているかのように、北方提督である三笠は回避し続けるのだ。時折、「ダメだな」と呟き、ここだぞ、と狙うべき場所を示してくるのだが、どうにもそれが煽ってきているようにしか感じられない。
彼女としてはもっとよく狙え、と指導しているつもりなのだろうが、敵である彼女にあからさまな指導を受けるなど、彼女、熊野にとってはどうにも苛立ちを募らせるものだった。
それによって頭に血が上り、少し狙いがぶれてしまうのだが、それすらも三笠は見抜いているようで、ため息をつかせてしまう。
「いったん落ち着こうか、熊野よ。少し、頭を冷やせ」
と、一気に距離を詰めて主砲を構える手を取り、熊野の額へと掌を当てて打ち放った。急に襲い掛かる頭への衝撃に、熊野は悲鳴を上げる間もなく、意識を飛ばされてしまった。
目が覚めた熊野は、自分がまた負けたことを悟る。あれから日々、三笠に師事してきた。深海側の艤装についても教えてもらうだけでなく、赤の力に関する力も教わった。深海が持ちうる力の使い方とのことだが、これは艦娘にも備わっている力だとも教えられた。
二つの相反する属性ではあるが、その力の源は似たようなものだ。故に堕ちた存在と言えども、熊野でも扱える技術だということで、仕込まれたものだが、それでも中らなければ意味はない。
小型とはいえ、戦艦があれだけ俊敏に動けるなど信じられないものだ。自分たちよりも古い時代の戦艦だ。出せる速度も全然違っているはずなのに、どうしてあれだけ動けるのだと疑問に思う。
その目が三笠の足に向けられているのを察したのか、三笠は「我の速さが気になるか?」と問いかけてきた。
「汝はどうにもわかりやすい。素直な性格をしている」
どうしてわかったのか、と言おうとしたが、先んじてそう言われては口を閉ざしてしまう。その指が目を示しているものだから、目は口程に物を言うとでも言外に語っているかのようだった。
「深海の力をこのように工夫をすれば、加速、減速と自在に操れる。戦艦特有の足の遅さは、これで賄える。特に我は元は汝らより旧式故な。備えられているモノの世代が違う。故にその差は、こういった技術で賄うしかない」
「……トイウコトハ、色々ナ面デ力ヲ使ッタ上デ、アレダケノ実力デ競リ勝ッテイルト?」
「古き存在でも、やり方次第で新しい世代にも勝れる。それを証明し続けたからこそ、今の我の立場があるというものだ。……それ故に悩ましくもある。力をつけすぎたが故に、戦場で散るという我が望みは遠ざかっていくばかりよ。適度にやって終わりを迎えておれば、こうも悩まずに済んだのだがな」
しかしそれは三笠を構成する要素の一つである、かの提督の欠片が許さなかったのだろう。戦場で手を抜くなど、祖国を守るために強大な艦隊と戦った、かの雄姿を見せた誇りが許さない。
祖国を害する存在と成り果てようとも、彼女の中にあるその誇りだけは穢すわけにはいかなかった。最期まで全力で戦い抜き、討たれる。それこそが、三笠が望む終わりの形である。
「攻撃、防御、そして補助。いくつもの使い道がある。汝はもう力の扱いは出来ている。後はそれをどれに回し、我を落とせるかを考えれば良い」
そう言われる熊野の手には、赤く光るもやが浮かんでいる。深海の力である赤き光は彼女の意思に応えるように手から腕、体へと巡っていく。その力に呼応するように、彼女の額から伸びる片角も、亀裂に沿うように赤く光っている。
一部の深海棲艦特有の生えた角。左側だけ少しずつ肥大している彼女の角は、より長く伸びて、先端が少し湾曲し始めていた。
深海棲艦に堕ちて以降、少しずつ伸びてきていたその片角が、熊野にとって自分がより深海側に傾いてきている証に感じられた。しかしどういうわけか意識は艦娘の熊野のままで、それが目の前にいる三笠と同じ道を辿っているようでもある。
三笠としても、未だに精神まで堕ちていないのは珍しいことだと以前言っていたが、今もなお精神が侵されているような自覚はなかった。
安心していいのかはわからない。しかし精神が堕ちていないなら、それはそれでいい。艦娘として目の前の脅威である三笠を仕留めることに、一層集中できると考えれば、悪い話ではない。
この目的意識を強く持っていれば、自分は深海に屈しているわけではないと自覚できるのだから。仮にこれを失った時が、本当の意味で熊野が深海に敗北し、屈した証となる。
そうなっていないのだから、自分は完全敗北はしていない。この日々も、三笠を討ち倒すために必要なこと。甘んじて受けよう、と考えられるようにはなった。
どれだけ辛酸を舐めようと、この昏い海の底で、自分は戦い続けるまでだ。
それが熊野が今もなお、こうして生きている理由である。
「――ハァッ!」
早速教えられたことを実践する。頭はこの数分で冷えた。不意打ち気味だろうと、三笠を仕留めるために、熊野は赤き力を纏った手で三笠の背後から強襲を仕掛ける。
しかし背を向けていたはずの三笠はそれに気づいていたかのように体を逸らし、熊野の足を払って投げ飛ばす。
「悪くはない。しかし、殺気が透けて見える。少しは隠せ」
やれやれと嘆息しながら注意するのだが、投げ飛ばされている熊野の手に主砲が構えられ、宙で反転しながら狙いを定めている。それにハッとした時には、引き金は引かれ、弾が三笠の体へと着弾した。
一発、二発と着弾するそれを受けてよろめく三笠。主砲の反動で少し飛ぶ距離が増えた熊野も、何とか滑りながら着地し、三笠を見やる。
立ち上る煙の中で、三笠は特に動じた様子もなく、一歩、また一歩と進み出てきた。
どこか嬉しそうに頷きながら、「良い射撃だ。多少は効いた。多少はな?」と、小首を傾げてみせた。
小柄な女性が体から煙を立ち昇らせ、更に血を流しているのに、笑って近づいてくるのだ。余裕のある出で立ちをしていることも加味して、それだけで凄みを感じさせる。
「力を込めた今の射撃。中ればこのようなものかと、体で感じさせてもらった。着実に力は成長しているようで何より。しかし、まだ足りない。そうだな……」
と、おもむろに腰に佩いている軍刀に手をかけ、抜いてみせる。その黒い刀身にそっと手を添えると、すっと彼女の赤の力が纏われていった。
「今の汝の力でいえば、このくらいか。だが、我に致命傷を与えるのであれば、このくらいはやらねばならん」
と、目安を教えるかのように重ね掛けをする。その赤の濃さは、先ほどまでとは比べ物にならない。深紅の光は重苦しく、彼女がもたらす重圧を示しているかのようだ。刀に纏われている力だというのに、息苦しさを感じさせた。
その重い空気を軽く刀を振って霧散させた三笠は、「そら、そこで止まっているようでは目的は果たせまい。来るがいい」と、戦いの続行を告げた。
重い空気に圧された熊野は、口に溜まった唾を飲み込み、移動しながら主砲と副砲を放つ。先ほどは移動して弾を回避していた三笠だったが、今度はその場から動かず、体を逸らしたり、手にした刀で捌いたりすることで、有効弾をなくしている。
ウラナスカ島での戦いでも、刀を振るって弾を斬る、逸らすといった防御手段を取っていた。これまでの訓練でも、時折この手段を見せている。動かなくてもこれで自らの身を守れるし、中ったとしても戦艦特有の防御の高さが防ぎきる。
だからこそ赤の力で威力を底上げが必須となるのだが、未熟な熊野ではそれを抜き切れない。より洗練されたものでなければ、刀の守りを貫通出来ないのだ。
それはわかっている。わかってはいるが、その壁があまりにも厚い。
戦艦は海に浮かぶ要塞と例えられるが、彼女も同様だ。
小さく、旧式の戦艦とはいえ、彼女の洗練された力によって具現化したそれは、まさしく要塞。堅牢な守りに破壊力抜群の砲門。その両方を兼ね備えた小さくも堅牢な要塞を粉砕するイメージが全く湧いてこない。
(ソレデモ、ダトシテモ、私ハ折レルワケニハ、イカナイノデスワ……!)
ここで折れて目的を見失えば、自分はきっと深海に身も心も堕とされる。それだけは何としてでも避けなければならない。屈してしまえば、この第三の生が全くの無意味に成り果てる。そんなことはあってはならないのだ。
動かずに重い一撃を放つのみと、熊野は足を止める。赤の力を自分が扱える力、そのままを込めてやる。
赤の力の訓練であると同時に、運が良ければそのまま三笠を貫くだろうという万が一の希望。後者にはそこまで期待はしないまでも、今の自分が出せる全力をぶつければ、希望の種は芽吹くだろう。
そんな熊野の決意を感じ取ったのか、三笠も微笑を浮かべて構える。彼女の目には主砲に集まる熊野の赤の力がよく視えている。
先ほど見せた刀に纏わせた赤の力の動き、それを熊野はよく真似ている。力の込め方、纏わせ方は何度も見せた。こうしてやればいい、と手本になりそうなことはいくらでもしてみせた。
後は落ち着いて、自分にできることを、真似ながら高めればいい。それが三笠の教え方である。自分はいくらでも手本を見せるし、受け止めてやる。それがやがて自分を殺すことになろうとも、それはそれで構わないのだから。
「さあ、撃ってみろ。あるいは、この身に届くやもしれん」
「言ワレズトモ、届ケテサシアゲマシテヨ!」
十分に詰め込まれた力を解放した砲撃は、赤い流星の尾を引いて三笠へと迫っていく。
向かってくるそれを前に、三笠はほう、と感嘆の息をついた。それは確かに今の熊野が出せる全力の一撃なのだろう。自分への致命傷にはならずとも、いくらかの装甲を削り取り、内部を露出させるには至れるものだった。
やればできるじゃないかと、褒めてあげたい気持ちにさせる一撃を前に、物は試しと三笠は刀を構え、先ほどと同じように斬ろうとした。
だが予想に反し、軍刀は瞬時に弾を斬れなかった。その回転が滑らかに刃を通ることを阻んでいた。ガリガリと不協和音を響かせて、弾は刀を弾き返すように推進力を失わない。
(やりおる。我が刃に対抗もするか。少し焚き付けすぎたか? 嬉しいことをしてくれる)
こうも喰らいついてくれるなら、相手のし甲斐がある。若者の成長の速さを感じされるものほど、三笠にとって嬉しいことはない。思わず力も篭ってしまうものだった。
だから、少々やりすぎた。
その弾を完全に切り伏せるために力を込め、それは目論見通り切り裂かれ、二つに分かれて三笠の両側面へと流れていった。その際に腕が裂かれてしまったが、その程度では動じるものではなかった。
しかし斬ると同時に刀から風が放たれ、それは熊野へと迫っていき、その体を斬ってしまった。何が起きたのかは熊野だけではなく、三笠も一瞬わからなかった。
少しの間をおいて、「いかんっ!? そこの者ら、手を貸せ!」と同じように訓練をしていたリ級らを呼びつける。
斬られた熊野も、体だけでなく口からも吐血し、苦悶に顔を歪める。その体を抱き上げる三笠とリ級。体から流れる血が、二人の手に付着していく。
「すまん、少々やりすぎた。すぐにポッドへと連れていく。空きはあるな?」
と、通信を繋いだ三笠が確認を取る。そのために熊野から視線を外した中で、熊野は痛みの中で何かを感じ取っていた。
痛みの奥、体の奥から何かが動く感覚があった。斬られた傷は腹から縦に一文字。流れる血も深海に堕ちたことで、濁った色合いをしている。艦娘の時とは違うのだとより感じさせるものだった。
(何……? 何カ、ガ……私ノ中ニ……?)
自分ではない何かが、体の奥で息づいているかのようだった。リ級の手で治療ポッドへと運ばれていく。その移動している間、熊野は濁った視界の中で、自分たち以外の何かの気配を感じ取っていた。
間違いない、それは外にいるのではない。自分の中にいるのだと。
開かれた部屋の中にある治療ポッド。そこへと熊野を入れて治療をするはずだったが、その前に、それは生れ落ちる。
「ウ、グ……ァ……」
痛みに悶える熊野の声の中に、困惑の色が含まれたかと思った刹那、それは熊野の傷の中から生えてきた。白く長い蛇のようなもの。いや、あるいはウツボと呼ぶべきだろうか。それが二匹、この世へと生誕の産声を上げるかのように不気味な音を響かせた。
それによってまき散らされる腹部からの血を、熊野の体を運んでいたリ級が受けてしまう。
先んじて治療ポッドを操作していた三笠も、驚きの表情を浮かべながらその様子を見ているしかできなかった。何が起きているのか、三笠自身にも理解できていなかった。
熊野の苦痛の声と、喚くような二匹のウツボの声、そして血を受けて困惑しているリ級の声が、その部屋に響いている。
そして、異変はこれだけに収まらなかった。血を濡れていたリ級もまた、困惑したように自分の体を見つめていた。やがて彼女もまた腹を押さえて苦痛の声を上げ始める。床に身を伏せ、苦痛を耐えるかのように体を折り曲げるのだが、震えるその体から、何かが引き裂かれるかのような音が響き始めた。
そうして食い破るかのように、それもまた生れ落ちる。
リ級の腹から生えてくるのは黒いもの。ウツボのようにしっかりとした肉付きではなく、駆逐級のような顔つきに不完全さを感じさせるような肉が数メートルにわたって、リ級の腹から伸びているようだった。それが熊野のウツボのように二つ、艤装を備えて生まれてきた。
苦痛に歪むリ級の顔。その頭にあった黒髪は、白く変色して右側へとより長く伸び、サイドテールのようになっている。パキ、パキと肌を覆い隠すように甲殻のようなものが首周りを覆っていき、右目を隠すようにして眼帯のようにも形成されていく。
そこにいたのはもうリ級と呼ばれるような存在ではなかった。まるで熊野の血を受けて進化したかのようにも思える変化である。
「何が、起きたと云うんだ……」
これらの変化を三笠は知らない。想定もしていなかった出来事だ。
ふらつきながらも、治療ポッドから離れて熊野へと駆け寄る。大丈夫かと、声をかけていくと、
「――そう、騒がないでくださいまし。聞こえておりましてよ」
先ほどまでとは違う、はっきりとした声色で、彼女は応えた。
苦痛に顔を歪め、頭を押さえながらも、三笠の手によって抱き起される。重いため息をついた熊野は、じっと自分の体を見下ろし、そして伸びる白いウツボを見やる。
それで理解する。
どうやら自分は危機的状況に陥ることで、より深海側に傾いたのだと。
だというのに精神は艦娘の熊野のまま。やはり目の前にいる三笠と同じ道を辿っているのだと理解した。
心は正常なのに、体はより敵対する存在へと傾いていく。このような恐怖を三笠は感じていたのかと、より我が身を通して理解することになろうとは。確かにさっさと死にたくなるのもわかる。
自分が自分でなくなっていく。もしかするとこの心も、いつかは本当に堕ちてしまうのではないかと、常に頭のどこかで感じてしまう。
生き地獄とはこのことなのだろうか。
それをより実感することになろうとは。
「そう、私、ここまで進みましたのね」
「……すまない。我としても想定の範囲外だ。よもや我が手によって汝をより堕とすとは」
「謝罪の必要はありませんわ。確かにより進んだのは事実でしょう。……巻き添えを受けたものもいるようですが、まあいいでしょう」
ちらりとリ級だったものを見ながら、熊野は一息つく。
「でも、より堕ちたことで、力も増加した様子。これなら、あなたとの約束も果たせる目途が立ったとも言えましょう」
そう言って、熊野は立ち上がり、そっとウツボの艤装を撫でる。そのウツボの顔の先端には、重巡の主砲が二門生えている。これが熊野にとっての新たな艤装の形であることに違いはなかった。
黒と白の二色だった髪は白一色に統一され、その目も金色へと変色。そんな瞳で三笠を見据え、
「この姿を以てしてあなたを討ち倒せば、借りは全て返せるでしょう? 私、折れている暇はありませんの。折れてしまえば何もかも屈することになる。そんなこと、私の性分ではありませんわ。早速お相手いただけるかしら? どこまでも喰らいつきますわ。あなたを倒すその時まで」
「…………ふっ、本当に強き女よ、汝は」
本来ならばもっと三笠を責めていいはずだ。どれだけ罵詈雑言を浴びせても仕方のないことだというのに、こう言い切るとは。胸の痛みを感じながら、三笠はその熊野の言葉と在り方に、感謝の意を送らずにはいられない。
敵同士ではある。こうして師事はしているが、命を狙われている立場なのは変わりない。
それでも三笠は熊野のことを良き存在であると認めているし、彼女の性格全てを慈しんでいる。そして今、彼女の性格に救われている。その真っすぐな在り方は、深海に堕ちた側としては、とても眩しい。
他の深海棲艦にとってこの性格は不愉快に感じられるだろう。
しかし三笠にとってはそうではないのだ。昏い海の底でも、熊野や北方棲姫のような性格は、彼女にとって陽の光を思い出させる暖かさを感じさせる。
「よかろう。少しの休みをとる。その間に、それについて少しでも把握しておけ。そっちの……鈴谷か。鈴谷、痛みはまだあるか?」
進化によって倒れ、苦痛を堪えていたリ級だったもの、鈴谷と呼ばれていたものは、三笠の呼びかけに何とか応えている様子だった。何度か言葉を交わし、とりあえず治療ポッドに入れつつ、変化した体の調子を確かめることになったらしい。
その様子を眺めていた熊野は、進化したリ級は鈴谷だったのか、と密かに思わずにはいられなかった。ここで鈴谷と妙な縁を結ぶことになるとは、これもまた何かの運命なのだろうか。
そんなことを思いつつ、体を巡る力と、ふよふよと浮いている二つの艤装について意識を巡らせるのだった。