年末が近いということもあり、少し肌寒い風が吹く日だった。凪と神通はコートを羽織り、呉の街を歩く。クリスマスシーズンのため街の所々は飾り付けられており、大きな店ではキャンペーンを知らせていた。
商店街を歩けば多くの人で賑わいを見せている。いくつかの店を見て回り、ウィンドウショッピングを楽しむ。商店街の人々は当然ながら凪と神通のことを知っており、店に訪れれば声をかけてくれる。
中には二人で歩いているからか、デートかと微笑ましそうに見守ったり、話しかけたりしてくれる。神通はそのたびに恥ずかしそうにしていたが、それ以上の冷やかしはなく、色々な商品を見て回った。
その中の一つ、服飾の店へと足を運ぶ。艦娘は基本的に艦娘に与えられた制服で生活する。とはいえ体を休める時などのプライベートではそうもいかない。大和たちが着ていたどてらのように寮などでは私服で過ごすこともよくあるため、いくつかの服飾の店はひいきになっている。
もうすぐクリスマスということもあり、ちょっとしたお得な価格で購入できるようになっている。となればプレゼントとして、神通の新しいものを買ってあげるのはどうだろうか。
服そのものをあげるのは重いかもしれないが、小物なら気軽にできるだろう。例えば、と軽く見回してみると、
「これは……」
リボンに使えそうな布がいくつか売られていた。神通はいつも髪にリボンを結んでいる。緑色のリボンをいつも使っているが、別の色のリボンをあげてみるのはどうだろうと考え、棚をチェックしてみる。
赤いリボンに紺のリボン。無地のものだけでなく、ストライプが入ったり、柄があったりするものもある。神通に似合いそうなのはどれだろうと考え、いくつかのリボンをピックアップしてみる。
川内型のイメージカラーの暖色のものか、あるいは寒色にしてみるか。色々見て回って考えたところ、赤の下地に、緑色のラインが入ったリボンを見つけた。川内型のカラーに近しい赤で、今使っている緑に近い色の二色タイプ。
今の神通のイメージに合うカラーになっていて、それほど印象が崩れない。それを手にしていると、店員が「プレゼントですか?」と声をかけてきた。
「ええ」
「先ほどからずっと考え続けていらっしゃいましたね。そちらになさいますか?」
「……はい。これを包んでいただけます?」
頷いた店員が神通に見つからないように案内し、会計を済ませてリボンをプレゼント用に包装してくれる。ちらちらと神通に気づかれないかと店内を見てみたが、離れたところで店員と何やらやり取りをしているのが見えた。
もしかすると神通をひきつけて時間稼ぎをしてくれているのだろうかと、包んでくれている店員を見てみると、くすりと笑って口元に指を当ててくれた。自分たちを知っているからこそ、こうした粋な計らいをしてくれる。ありがたいことだった。
「お待たせしました。良きクリスマスをお過ごしください」
「ありがとうございます」
「あ、そうそう。冬ですからね、乾燥にも気を付けてくださいね。手とか、唇とか、渇くことが多いですから」
「……まあ、そうですね」
暗にそういうことを意識させるようなことを言われ、凪は思わず目をそらしてしまう。初々しい反応に店員もくすりといたずらっぽく笑い、「今回はリボンにしたみたいですが、女性への贈り物の一つとして、この季節はバームとかクリームとか、そういうのもいいですよ」と提案してくれた。
「乾燥対策として?」
「ええ。彼女さんへの贈り物にもいいですし、そうでなくともお手軽に渡せるプレゼントですから、クリスマス会にもいいんじゃないでしょうか。特にバームって、ただ潤いを与えるだけじゃなくて、最近はいい香りをするものもあって、そちらも人気なんですよ」
「へえ……」
冬用のアイテムとして贈る、そういう風にすれば、親しい異性にもクリスマスプレゼントとして重く感じることはない。そう考えると、こちらもそう悪いものではないのだろう。でも神通へのプレゼントはもう購入した。この話は、ちょっとした情報として頭の片隅に置いておくことにする。
そっと迂回しつつ神通らの後ろを通り、入口の方へと移動して少し待つ。すると店員との話が終わり、一礼した神通がきょろきょろと辺りを見回し、凪を見つけて小走りで近寄ってきた。
「すみません、お待たせしてしまったでしょうか?」
「いや、そんなには。話盛り上がっていた?」
「ええ、これからの季節に合いそうなものを色々紹介されてしまいまして……。こういうのが似合いますよ、といくつか見せられてしまいました」
そうして時間を引き延ばし続けていたんだろうな、と凪は店員たちのコンビネーションに改めて感謝した。鞄に入れたプレゼントは然るべき時に渡すことにして、今はウィンドウショッピングを続けることにした。
次は食べ歩きでもしようかと、飲食に関係する店を見て回る。どれかをチョイスして、公園でゆったりとした時間を過ごすことを提案した。神通もそれに同意し、どれを食べようかと見て回ったところ、公園で移動販売車が来ているという話を耳にする。
いったい何が来ているのかと聞くと、珍しいことにピザの移動販売車だそうだ。きちんと車にピザを焼ける窯を搭載したもののようで、頻繁には現れないため、公園などに来た際には、話題になるそうだ。
「へえ、行ってみる?」
頷いた神通と共に、公園へと行くと、確かに一角で人がそれなりに集まっていた。移動販売車からはいい匂いが漂っており、ピザの香ばしい香りが近づいていくと、鼻腔をくすぐってくる。
少し待つと、並んでいた客の注文の品が出来上がり、満足そうな顔をして客が離れていく。そして凪と神通の番が来たところで、「いらっしゃい、何にしましょう?」と店員の男がにこやかに声をかけてくる。
「色々あるね。……あ、サイズもそう大きいものじゃないんですね」
「ええ。なので、女性でも一枚普通に食べられるものになっています。……あ、よく見たらあなたは艦娘でしょうか? 呉の?」
「あ、はい」
「となるとあなたはその提督さんですか? これはこれは、お疲れ様です。休日でいらっしゃいます?」
「そんなところです」
「ならいいタイミングですね。ぜひとも、うちのピザを召し上がっていただきたい。一枚サービスでもいたしましょうか?」
「いやいや、お構いなく。神通、何か食べてみたいものはあるかい?」
ピザのラインナップは定番のものが揃っている。サイズが普通よりも小さめだからか、値段も手ごろなものだ。これが移動販売車で売りに来てくれるのだから、評判になるのも頷ける。
飲み物もお茶にコーヒー、紅茶と揃っているため、一緒に頼むのもいいだろう。少し考えて、定番のマルゲリータとハムとチーズの二種類に、紅茶を頼むことにした。二種類にしたのはそれぞれを一つとし、半分にすることで、二つの味を楽しめるようにという計らいだった。
窯を用意しているだけあって、一から作る本格的なもののようで、その分時間はかかる。だがその分、ピザができていく過程が見えるようになっているため、出来上がりに期待が持てるのも、移動販売車ならではのメリットかもしれない。
やがて出来上がった品物を受け取り、近くのベンチに移動していただくことにする。アツアツのピザを一ピース、かぶりついてみれば、ハムの旨味とチーズのとろけるところと、外側のカリカリの部分が楽しめて、とても美味しい。出来立てというのもまた美味しさに拍車をかけているだろう。
「ピザ久しぶりに食べたけど、美味いなこれ」
「ですね。良い巡り合わせです。……あと、すみません。お金を出させてしまって」
「気にしなくてもいいさ、今日くらいは俺が出すよ。せっかくの……だしね。だから、気にせず食べてくれ」
「はい、いただきますね。……あ、この紅茶も美味しい」
公園でゆったりと時間を過ごす。肌寒い季節だが、日差しの下で近くにある噴水の水の音を聞き、誰かと一緒に軽食を摘みつつ、なんでもないような話をする。こんな穏やかな時間はどれくらいぶりだろうか。
思えばずっと仕事にまつわることしかしていない。穏やかな日常は、ミッドウェー海戦の後から過ごした記憶がほとんどなかった。だからこそ、そろそろこうした時間を過ごそうと神通を誘えたのは良い機会だった。
やがてピザを食べ終え、紅茶を飲み進めながら、ベンチに背中を預けて公園を眺める。子供は元気なもので、噴水近くで遊びまわっている。その近くには母親らしい人が雑談をしていた。
こういう平和な時間があるのはいいことだ。世界は深海棲艦の脅威に晒されているが、しかしいつでもピリピリした空気の中で過ごしていいはずがない。ついには本土襲撃の危機も訪れたが、それを守り切ることができた。
あれから襲撃の危機は一度も起きていないのは幸いだ。呉鎮守府をはじめとして、改めて国を守るために目を光らせ続け、深海棲艦の脅威から街を、国を守り続ける。その信頼を預けられているからこそ、ああして子供たちが遊びまわれる日常が存在している。
穏やかな休日ではあるが、あの光景を見れば、少し気持ちが引き締まる。子供たちが安心して遊べる日常を、本当の意味で取り戻す。そのために自分たちは戦うのだ。
そんな風に考えていると、神通が微笑を浮かべて自分を見ていることに気づいた。
「何かな?」
「いえ、守らなければならない。その気持ちを新たにする。良いことだと思いますよ」
「はは、顔に出ていたかな」
「最初期のあなたでしたら、そのような気の引き締めはなさらなかったでしょう。あなたが変わっていく様を、近くで支え、見守り続けてきた身としては、喜ぶべきことです。人は守るべき存在がいて強くなれる。あなたもまた、その志を持てる人だと実感する喜びもあります」
だからこそ、と神通は心の中で呟く。自分は凪を慕ったのだと。
穏やかな表情を見せる横顔を見て、凪もまた何となく彼女の気持ちを感じ取った。言葉にしなくとも、今はもう気持ちは通じ合っている。
渡すなら今だろう。あの店で購入したものを、凪は静かに取り出した。
「神通、これを受け取ってくれないかな?」
「これは……」
綺麗に包まれたそれを見て、神通も察する。街だけではなく、店でもクリスマスという雰囲気を感じ取っていたのだから、このプレゼントも凪のその気持ちが込められているのだ。
静々と受け取り、「開けてもよろしいでしょうか?」と訊き、凪はそれに頷く。開けられたそれから取り出されたのは、凪が選んだリボン。それを見て神通は息を呑む。
いつ購入したのか、リボンの柄を見てわかったのだ。先ほど足を運んだ店で見たような記憶があった。やけに店員におすすめを紹介されていたとは思っていたが、凪がこれを選ぶ時間を取っていたのかもしれない。
自分たちのことは呉の街の人たちに知られている。そんなちょっとした気を回されながら、このクリスマスプレゼントを用意してくれたことに、神通は一滴の涙を流した。
「ありがとうございます。大切にしますね」
「うん、そうしてくれると嬉しい」
「……すみません。私からは何もなくて」
「気にしなくてもいいよ。むしろ俺としても今までこうした時間をなかなか作ってやれなかったことに、申し訳なさもあったからね。こうして一緒に過ごせる時間を楽しんでもらう。それだけで十分だよ」
そうは言うが、神通の性格的に受け取ってばかりというのも忍びない。リボンを包んだ箱を鞄にしまいながら、神通はどんなお礼をするべきかとこっそり考えながら、「わかりました。では、この後はどうしましょうか?」と次のことを提案する。
昼食もとったことだし、このまま公園でまったりと過ごすのもいいが、それは少々落ち着きが過ぎる。ある意味忙しい日々を主に過ごしている二人にとって、こうした時間が大切なのかもしれないが、デートとしては味気ないかもしれない。
でもゆっくりとした時間を過ごすのも嫌いではない。そのため、近くの映画館でもどうかと、凪は提案し、神通もそれに了承した。
実に穏やかな時間だった。
映画館では新しい映画は近年あまり出ていない。撮影する暇がそんなにないというのが主な理由だ。そのため映画は過去の名作などを上映しているのが通例となっていた。
今日はファンタジーの名作映画をチョイスした。かつて人気のあった映画というだけあり、リバイバル上映でも客の入りが良い。
内容はさすが名作と言われただけある面白さ。2時間少しにぎゅっと詰め込んだ内容に、ドキドキハラハラ、時にロマンスと、王道の内容に心を躍らせた。家で視聴するよりも、こうしたスクリーンという良環境で見られるというのも、より楽しみに拍車をかけてくれる。
鑑賞が終わり、満足感と高揚感、そして充実感を噛みしめて映画館を後にする。程よい時間になったので喫茶店へと足を運び、映画の感想などを話しながらお茶にする。
一日の中で、こんなにゆっくり過ごすのも久々ということもあり、昼の公園の時よりも穏やかな時間を過ごせている。かつての自分が今の自分を見たら何を思うだろう。一人の女性相手にこんな風に過ごしているなんて、想像もできないことに違いない。
提督としての成長だけではなく、人として成長してきていることを実感する。仮のシステムでとはいえ、女性とそういう関係になっていることもまた、凪としては驚かされることであり、クリスマスデートもあり得ないものだった。
どう過ごせばいいのかもわからないようなものだったけれど、今のところいい感じに進められている。初デートとしては大きな失敗をしていない、むしろ成功といってもいいだろう。
初デートから失敗したらどうしようと少し不安だったが、凪は紅茶を飲みながら今日のことを振り返りつつ、ふと利根たちのこともつられて思い出してきた。
彼女は男として仕掛けていくだけの気概を見せろと言っていたが、仕掛けるにしてもタイミングというものがあるだろう。いや、そもそも初デートで本当に仕掛けていいのか? 助言をした利根の口ぶりからして、彼女の考えというよりは何かを参考にしたか、誰かに言わされた感が否めなかった。
助言はありがたく受け取りはしたものの、神通相手にそれを実行して良いものか。わからない、初めてだからこそ本当にやっていいのかわからない。
話の途中で小さくうんうんと唸ってしまう凪を見て、神通も少し首を傾げるも、深く踏み入ることはない。ああした反応は小さな悩みについて考えているものであり、本当に困った時は相談する人だということを神通は知っている。
でもこうした控えめな性格だからこそ、神通から何かをすることはなかったし、凪も同様だからこそ何も起きない。
お互いが控えめだからこうしてデートの機会を持ち掛けられたというのに、この穏やかな雰囲気でいい感じに過ごすだけで良くなっている。
なら、これでいいんじゃないだろうか。
それ以上を望むのは初デートにしては求めすぎている。服装を褒めてもらい、リボンも貰った。それで十分ではないか。
時間は十分ある。進むにしても、ゆっくりと進んでいけばいい。神通はそう思うのだった。
鎮守府に戻った二人。最初こそ神通が一歩引いた形で歩いていたが、せめてこれくらいはしておかなければならないと、喫茶店の後で凪は神通の手を取った。最初こそ驚いた神通だったが、「そうして一歩引く形は神通らしいけれど、今は横に並ぶのはどうかな?」と提案し、神通もこくりと頷いた。
小さな仕掛けだが、凪としては手を繋ぐのを自分から提案するだけでも大きな一歩と言える。知らず体温が上がり、手に汗をかいてしまいそうだった。それを知られるのも少し怖いものがある。
神通からは何も言われなかった。繋いだ手の柔らかさや、自分とは違う体温を感じ取るので精一杯だった。こんな子供じみた反応をしてしまうあたり、自分は本当に経験不足だと思い知らされた。
夕暮れの呉の町並みを少し歩き回り、戻ってきた二人を出迎えたのはやはり利根と川内だった。お帰りと声をかけてきた二人は、手を繋いでいるのを見て、どこか嬉しそうに頷いている。
「ふむ、どうやら良いデートだったと見えるが?」
「まあ、それなりには」
「神通は?」
「ええ、私としてもいい一日だったと感じていますよ」
「善き哉。吾輩らは少々神通に用がある故、提督は先に戻っているがよい」
「……あまり困らせるんじゃないよ?」
「まあまあ、気にしない気にしない」
凪が建物へと入っていく後ろで、神通は利根と川内に近くのベンチへと移動していく。デートで何があったのかを話す神通に、相槌を打っていく利根と川内だったが、二人が聞きたかったような大きなことがなかったことに、二人そろって首を傾げた。
「え? 手を繋いだだけ?」
「ええ、ですが十分でしょう、姉さん。それほど大きなことは求めませんよ。あの人のことを考えれば、これだけでも頑張った方でしょう。それに、色々と悩んでいらしたようですし……」
思い返した神通は、手を繋ぐ前に喫茶店で考え事をしていたのは、手を繋いだりそれよりも更に進んだ一手を打つかどうかを考えたりしていたのだろうと推測した。考えた末に勇気を出して一歩を踏み出した、それだけでも神通は嬉しいことだった。
彼女が満足しているならと思えども、利根はやはりそうなるかと、あらかじめ予測を立てていた通りの流れになることに、小さくため息をつかざるを得なかった。
「やはりお主らは相性がいいのか悪いのか、といった感じじゃの」
「相性ですか?」
「提督もお主も受け身じゃから、お互い踏み込まずにずるずると事を長引かせおる。穏やかな日常を愛するという面では、良いのかもしれんが……それでは遠慮して口に出さず、溜め込み続けるという危惧がある。あの控えめな提督には、尻を叩いたり引っ張っていったりする輩がお似合いかもしれんの」
「……そう言われれば否定はできませんね」
「そして、実際そういう人は提督の近くにいるんだよねえ……」
三人の頭に浮かぶ女性。彼女なら、きっと凪にとって良きパートナーになるのは間違いないだろう。神通としてもそれを考えていたものだ。特に問題視することではない。
でもそれではせっかくケッコンカッコカリをした神通が、身を引くことになるのではないか。そうなる前に、一回くらいはデートをしてみて、どのように過ごすのかを確かめつつ、それらしい一日を過ごしてもらいたい。
そう考えた二人がけしかけたのだが、結果はこの通りだ。それほど悪い結果ではない。むしろいい感じに終わっている。でも、やはりお互い踏み込まず、手を繋ぐだけに留められた。初キスくらいはしとけよと川内は思ってしまうくらいにもどかしいものだった。
「神通からも仕掛けなかったわけ?」
「しませんよ。姉さんはがっつきすぎです。心配してくれるのはありがたいことですが、こういうのは私たちがタイミングを計るものでしょう」
「そうしてずるずる先延ばしにしたら、もしもの時どうすんのさ。あの時済ませておけばよかったって、後悔しないの? 私はそれが心配なんだよ」
「……その時はその時ですよ」
いつ死ぬかがわからないのが艦娘だ。それに夏に長門が轟沈したばかりというのもある。呉で建造された艦娘たちにとっては初の轟沈だったが、神通にとっては長門だけではなく、先代の最後の戦いでも、多数の轟沈艦娘を背負ってきている。
いつ、自分もそれに続くかはわからない。だから今のうちにやるべきことはやっておけという川内の心配もわかる。
でも神通は一度に多くを求めない。戦場では苛烈に攻め立てる神通だが、日常は穏やかさを好む。だからこそ今日の穏やかな時間を思い返し、噛みしめるだけでも幸福感に包まれていた。
一度に多くを手にしてしまえば、やがてそれに満足できずにもっと、もっとと求めるだろう。それでは感情が追い付かず、飢えるだけだ。その状態で戦場に臨むなど、あってはならないことである。
だから少しずつ進んでいけばいい。次の楽しみとして生きていくことで、絶対に生き残るというモチベーションに繋げればいい。そう神通は語る。
「そう、それなら仕方ないか。じゃあそれ以上は何も言わないでおくよ」
「そうしてください」
「神通はそのままでいいとして、提督が仮にイケイケのタイプにイメチェンするってのはあり得る?」
「ないのう。あの提督が行動的、積極的になるなぞ、想像もつかんわい。何せ怒ったところすら見せんからのう。積極的なのはモノづくりのときだけよ」
ツッコミとかはする凪だが、本気で怒ったところはない。去年の夏の作戦でも同行していた茂樹が越智に激怒していたが、凪はそのようなことはなかった。苛立ちはしていたが、虫の知らせによる腹痛に苦しんでいたことの方が印象深い。
そんな凪が激怒することはあるのだろうか?
あるとするならば、それはどんな時だろうか。
「……すぐには想像できないかもしれませんけれど、あの人が怒るとすればそれは――」
そんな中で、神通はどこか確信めいたように、呟くのだ。
「――恐らく、誰かが傷つく、もしくは誰かが死ぬところに立ち会う時ですよ」
だからこそ、と神通は手を握り締める。「そのようなことは起こしてはいけません、絶対に」と、固く誓うのだ。怒り慣れていないあの人を激昂させるような事態を引き起こしてなるものか。
利根と川内もまた、その仮定の未来を想像する。怒り慣れていない凪が、今までに見せたことがないような形相で激昂するシチュエーションを。
はっきりとした光景はイメージできない。艦娘の誰かが死ぬ光景、それだけでも苦しいが、それを前にしている凪を想像するのも心苦しいものだった。
なら、そうならないように尽力するだけだ。色々いじりはしたが、穏やかで自分の趣味のこととなると一直線な凪を二人は好ましく思っている。
故にそのような事態は引きこさせない。そう決心するのだった。