彼女は生き物に好かれやすい   作:彼岸花ノ丘

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女神の美食9

 自分の心臓が痛いほどに鼓動している事を、花中は胸に手を当てるまでもなく感じ取った。

 頭の中が今にも白く染まりそうで、気を弛めたらその瞬間に自我が飛んでしまいそうだ。歯を食い縛り、なんとか前を見据える。無意識に握った手は爪が肌に刺さって痛いが、それでも手を開こうとは思えない。

 覚悟は決めたつもりだった。だけどこうでもしないと、あらゆる感情に押し潰されてしまうと花中は確信する。

 目の前に立つ彼女――――大月は、ほんの数時間前の宣言通りまた現れただけだというのに。

「あら? なんだか怖い顔になっちゃいましたわねぇ」

 大月はにこにこと微笑みながら、花中に一歩、歩み寄る。花中の家がある極々普通の住宅地に似合う素朴で可愛らしい服で身を包み、月明かりを浴びて栗色の髪が淡く煌めていた。決して目立つものではないが美しいとしか言いようのない容姿は、人の心から警戒心を取り除いていく。

 彼女の正体が人喰いの化け物である事を知っている花中でさえ、恐ろしい事に安堵にも似た想いが胸に込み上がるのだ。もしもフィアが先に前へと出てくれなければ、誘蛾灯に惹かれる羽虫のように、花中は大月に歩み寄っていたかも知れない。

「ふん。ビビったのならそのままおめおめと逃げ帰れば良いのではないですか? 今ここで不様に逃げ出せば特別に見逃してあげても構いませんよ」

「まさか。今までのだらしない顔も嫌いじゃないですけど、今の花中ちゃん、とても凜々しくて素敵ですわ……どんな味がするのか、ますます楽しみ」

 じゅるりと涎を啜り、大月は可愛らしく舌舐めずりをした。その仕草が単なるポーズではなく、本当に『食欲』を感じた上でのものである事を花中は知っている。ぞわりと走った悪寒で身体は縮み上がり、無意識に後退りしていた。

 だが、花中はどうにか踏み留まる。

 ここで逃げる訳にはいかない。花中にはやりたい事があるのだから。

「……大月さん!」

「ん? なぁに?」

 花中が声を絞り出せば、大月は小首を傾げながら話を訊こうとしてくれる。

 これから食べようとしている相手の話に耳を傾ける。それは大月が自分の力に自信があるからでも、ましてや人間を見下しているからでもない。彼女は花中を、自分と対等だと思っているから話を聞こうとしてくれるのだ。そして同時に、例えどんな話をされたところで、自分の信念は揺るがないという確かな心を持っているのだろう。

 大月と向き合った花中は、喉の奥に『諦め』という名のコブが出来たのを感じた。その『諦め』をごくりと飲み込んでしまえば、言葉を遮るものは何もない。花中はゆっくりと口を開き、自らの想いを溢れさせた。

「あの! 人間を、食べる事を、どうしても、止めては、もらえませんか……?」

「ええ、止めませんわ。だって、わたくし人間が大好きなんですもの。まさか、人間は特別だから食べちゃ駄目、なんて言い出しませんわよね?」

「……勿論、言いません。そもそも、わたしは、あなたの行動が、間違っていると、言うつもりも、ないです、から」

 花中がそう伝えると、大月は目を丸くして驚きを見せる。まさか自身の行動を人間が肯定するとは思わなかったのだろう。

 花中も最初は大月の行動を『否定』していた。

 だが、フィアに自分の想いをぶつけ、フィアの考えに触れて気付いたのだ……大月と人間に、大した差などないと。大月が大好物を味わうという幸福のために人間を食べるのと同じく、人間は美味なる食事という幸福のために牛を殺し、植物の種をすり潰し、甲殻類を生きたまま熱湯に入れ、微生物を焼き殺す。自分の幸福のために何かの命を犠牲にしている事に違いはない。

 大月のしている事は人間と変わらず、人間がされている事は自分達が他の生き物にしている事と同じ。対象が知的であるかどうかなどなんの意味もない。本当の意味で『平等』である大月は、生命達はそれを理解している。理解していないのは、自分達は特別だと思い込んでいる『不平等』な人間だけだ。

 花中には大月の考えを悪だとは言わないし、言う事なんて出来ない。彼女の行動は、花中としては肯定するしかないのである。

 しかしそれは、人間が食べられる事を()()()()()のとはまた別の話だ。

「だけど、わたしはまだ、食べられたく、ありません。自分以外の、人間が、食べられるのだって、嫌です」

「あらあら、それは困りましたわね……なら、やる事は一つですわね?」

「ええ。たった一つ、です」

 大月からの確認に、花中は力強く頷く。

 これは人間の尊厳を賭けたものではない。人間に尊厳など端からありはしないのだから。人間だってただの生物。生物だから、自分の信念と本能に従うのみ。他の生き物の都合など知った事ではない。

 本能は訴える。まだ死にたくないと。

 信念は求める。誰かに死んでほしくはないと。

 その二つの想いに突き動かされた花中は、びしりと大月にその指先を突き付ける。

「精いっぱい、抵抗します! わたしがやりたいから、あなたには……倒されて、もらいますから!」

 そして迷いない言葉を大月にぶつけてやった!

 大月は突き付けられた花中の指先も、本気の想いも、真っ正面から受け止める。拒絶と反抗の意思表示に、大月は笑みを浮かべた。全ての生命に平等である彼女が、他者の生きようとする意思を、幸福への欲望を忌々しく思う筈がない。

 同時に、彼女もまた自らの幸福を諦めない。全ての生命の中には、彼女自身さえも含まれているのだから。

「ええ、精々抗ってくださいな。わたくしも、全力で食べさせてもらうだけですもの!」

 喜々とした叫びを上げ、大月は花中目掛けて走り出した!

 襲い掛かる『猛獣』。此処が大勢の人々が住む住宅地である事などお構いなしな、人間を恐怖に誘う大突進を披露する。それを前にした花中は即座に、隣に立つフィアの影に身を潜めた。

 あれだけの啖呵を切りながら結局他力本願とは。

 もう少し自前の力でなんとかしようとしないのかと、花中自身、自分の情けなさに苦笑いが浮かびそうになる。しかし大月に一矢報いるだけの力を花中は持ち合わせていないし、知恵を絞ったところでミュータントの力は人の英知など簡単に嘲笑う。花中にはどうにも出来ない相手なのだ。

 そもそも花中は無理にフィアを頼っている訳ではない。というより、フィアはむしろ乗り気である。

「おおっとだったら私は全力であなたを叩き潰して差し上げますよぉッ!」

 何しろ大好きな花中を襲った不埒な輩を、自らの手で文字通り叩き潰せる瞬間がやってきたのだから!

 フィアは大きく身体を捻り、大月が射程内に入ったのと同時に腕を振るう。それは最早パンチとも呼べない、雑で、激情塗れの一撃。軌道も出鱈目で、若干ふらついていた。こんな下手くそなものを放つのは、人間ならばケンカの素人ぐらいである。

 ただしフィアの手先は、音速の十数倍に達していたが。

 半年前に繰り広げた異星生命体との戦いにて、突貫で編み出した鉄拳。あの技を暇潰しがてらに研究・改良。表層ではなく内部の水をバネのように捩り、押し込み、そして開放する事で、圧倒的速度の打撃を繰り出す……フィアは密かに編み出した新技を大月にお見舞いしたのだ!

 人間の網膜では残像すら捉えきれない神速の打撃。猛獣染みた速さで動ける大月でも、この速さには対応出来なかった。フィアの振るった拳は大月の鎖骨辺りに打ち付けられ、その出鱈目な速さから生じた運動エネルギーはミュータントの肉体をも容易く切り裂く。

 哀れにも大月はフィアの手により、その麗しい頭と誘惑的な肉体を離れ離れにさせられてしまった。打撃時に発した衝撃波は近くの家の塀や窓を粉砕し、破壊力の大きさを物語る。大月の肉体はこの莫大なエネルギーを受け止められなかったようで、肩や胸回りの肉がバラバラに飛び散ってしまう。それらの肉片はまるで紙吹雪のように舞い、一人の女性の最期を彩っているように見えた。

 が、大月の頭と身体は怯みもしない。

「「「「いただきまぁぁぁあすっ!」」」」

 否、頭と身体だけではない。飛び散った肉片までも叫び、独りでに蠢いているではないか!

 身体は首の断面を塞ぐどころか広げ、出来た穴に歯がずらりと生やしておぞましい口へと変えた。頭部は首の辺りから漏斗のような器官を作り出して自力で飛行を始める始末。肉片は翼と針のような口を生やして蚊にも似た形態へと変貌する。

 何百にも分散した『大月』は、己をこんな姿にしたフィアには目もくれない。全てが真っ直ぐに花中を狙う!

「ぬうぅっ! ここまで粉砕してもまだ動くとはしぶと過ぎますねッ!」

 フィアもまた髪をうねらせるや、その髪を金色に輝く『糸』として展開。迫り来る大月の大群を一匹たりとも通すまいと、縦横無尽に辺りを切り刻んでいく! 『糸』は通り道にある電線や道路、果ては庭木や電柱をも切り裂き、瞬く間に細切れにしていった。考えなしに突っ込んでくる大月の軍団も次々と切り捨てられる。

 だが大月の数はあまりにも多い。

 新技の凄まじい破壊力により、大月の身体は無数の肉片へと分裂していた。その全てが形を変え、花中達を襲っている。自身の技の破壊力を目の当たりに出来たフィアだが、結果的に状況が悪くなっては全く喜べない。

 おまけにフィアが展開した『糸』との相性も最悪。切れば切るほど、どんなに細切れにしようと、大月は形を変えて戻ってくるのだ。まさか細胞一つ一つを切らねば大月の活動は止まらないのか……そう思わせるほどの生命力に、ほんのついさっきまで愉悦に染まっていたフィアの顔が苦々しく歪む。

 最早大月の身体は何処にもない。代わりに現れたのは、辺りを黒く染め上げるほどに増えた『虫』の大群だった。

「ふぃ、フィアちゃ……ひうっ!?」

 フィアの後ろに隠れながらも戦況を目の当たりにした花中は、状況の悪さを察する。が、アドバイスをするには遅過ぎた。

 正確には、状況の進展が早過ぎる。何しろ大月が花中目掛けた駆け出し、景色を染め上げるぐらい増えるまでに掛かった時間は十秒もなかったのだから。口を挟むどころか何が起きているか理解するので精いっぱい。例え歴史に名が残る名軍師であろうと、この争いに巻き込まれたなら花中と全く同じ状態に陥るだろう。超生物達の争いに、人間が介入する隙など殆どないのだ。

「「「もう逃げ場はありませんわ。今度こそ、いただきまぁす!」」」

 そして一糸乱れぬ動きで、全方位から迫る大月に通じる策などありはしない。

 あんな堂々と宣戦布告をしながら五分と経たずに終わるのか。

 『最悪』が脳裏を過ぎり、無力な花中は思わず目を瞑った。

「むぅ。やっぱり焼いた方が早そうですねぇ」

 そんな花中と同じ状況にある筈のフィアは、暢気にぼやく。

 直後、花中の傍を熱波が通った。

 それは通り過ぎるほんの数瞬前に、フィアが薄い水の幕で全身を包み込んでくれたにも拘わらず感じるほどの高温。もしもフィアが守ってくれなければ、花中の身体は酷い火傷を……いや、黒焦げになっていただろう。

 無数に分裂した大月にも熱波は襲い掛かる。彼女達は花中と違い、当然ながらフィアによる守りはない。全員が灼熱に包まれ、黒く炭化していく。逃げるように大月達は拡散するが、熱波もまた追うかの如く広がったらしい。建ち並ぶ家々の塀は高温により溶け出し、植木や草花は炭化して燃え上がる。道路の一部が赤く輝くや、どろりと溶け出した。虫達や小動物は避難する間もなく死に絶え、市街地は一瞬にして地獄絵図へと変貌してしまう。

 あまりにも呆気なく、大月達は一匹残らず真っ黒な塊と化した。もう飛び回る事はなく、もごもごと焼き焦げた道路の上で蠢くばかり。

「全く、余計な事をしてくれちゃって。お陰で周りのものまで焼く羽目になったじゃない」

 この地獄を作り上げた張本人――――ミリオンは悠々と姿を露わにすると、大した事はしてないとばかりに肩を竦めた。先の熱波はミリオンが能力によって大気を加熱し、その膨張圧などを利用して花中達の方へと()()()()ものだろう。アスファルトで舗装されたコンクリートの道路が溶け出した事から、二千度以上の高温だった可能性がある。

 最早水さえ分解する温度。薄い水の幕程度で防げるものではない事から、恐らく花中の傍だけ温度は左程高くなかった筈である。ミリオン的には花中を気遣ってはいたのだろう。が、その気遣いに全く気付いていないフィアは憤りを露わにする。

「あなたに活躍の場を作ってあげたのです。感謝ぐらいしてはどうですか? いえそれ以前に謝罪ですね。いきなり焼き払うとは花中さんが火傷をしたらどうするつもりなのですか」

「そこまで不器用じゃないわよ。それに、言わなくてもはなちゃんを守れたじゃない」

「この私だからこそ出来たのです!」

 まるで世間話のように、暢気に先の現象で盛り上がる二匹。しかしフィアの背中に隠れる花中は、大きく動揺していた。

 フィアのパンチや『糸』による被害も甚大だが、ミリオンが放った熱波はあまりに酷い。広範囲に拡散した大月を攻撃するためとはいえ、同じぐらいの広域を問答無用で焼いたのだから。ミリオンのお陰で花中は危機は脱したが、住宅地は今や火の海。このままでは大騒ぎになるし、下手をすると死人が出る。だからどうにかして、この災禍を二匹には止めてもらいたい。それが花中の本心だ。

 だが、今はそれどころではない。

「大体火力が中途半端なんですよ。ただ花中さんを危険に晒ししただけじゃないですか」

「その点については、確かに否定しようがないけど」

 二匹が何気なくその言葉を交わし、同時に、前を見据える。

 『彼女達』がこの程度で終わる筈がない。

 熱波を受け、地面に落ちた肉塊は未だ蠢いている。それどころか引き合うように他の肉塊に真っ直ぐ近付き、触れるのと共にその身を融合させた。肉塊はこれを繰り返し、見る見るうちに()()()()()を取り戻す。肉塊は形を変えていき、最後にこきりと首を鳴らした。

 そこには、ほんの数分前と変わらぬ美女を形作った大月が立っていた。栗色のワンピースを着ていた事から、その服も含めて『自身』によって作られているのだろう。前に会った時と違い、今度の服は『自前』のようだ。

 全身が切り刻まれてバラバラになっていたにも拘わらず、大月の顔には警戒心の欠片もない。精々ほんのりと疲れを見せるだけだった。

「あー、熱かった。ほんと、容赦ありませんわねぇ」

「あら、こんなもの本気には程遠いわよ? まぁ、なんで平気だったのかは知りたいけど」

「それぐらいでしたら構いませんわ。教えてさしあげます」

 ミリオンがさして期待してない調子で尋ねると、大月は意外な事にすんなりと受け入れた。

 直後、大月の身体がぬらぬらと光り始める。

 それは光源のある輝きではなく、月明かりを反射したもの……何かしらの液体が光を反射して作り上げた色合いだと、花中はすぐに察した。しかしその液体の正体までは分からない。汗のように、体温を下げるためのものか? 花中は思考を巡らせたが、やがて答えは明らかとなる。

 大月の足下から湯気が上がったのだ。

 一瞬何かを見間違えたかと思う花中だったが、大月の周りから次々と湯気が上がる事で真実だったと認めるしかない。湯気は途切れ途切れで、大月の体表から零れた『体液』が接する度に立ち昇っている。

 そして湯気が出た場所には、針でも突き刺したかのような穴が開いていた。

 その穴が()()()出来たものだと気付けば、全ての答えが明らかとなった。

「まさか……消化液!?」

「せいかーい。正確には消化酵素ですけれども。その酵素の構造をちょっと弄ったら、耐熱性の高いものが出来上がったんですの。ふふ、熱いものを食べるために編み出した秘策が、こんなところで役立つなんて思いもしませんでしたわ」

 花中が思わず漏らした言葉に、大月は律儀に答え、拍手まで送ってくれる。それからつらつらと、その開発秘話まで明かしてくれた。

 フィア達ミュータントにおいて、能力の詳細を知る事は、弱点を掴むためのヒントとなる。大月の能力を推測する上で、先の話は重要な情報だ。この話から能力を解き明かせば、花中達は戦いにおいて優位に立てるだろう。

 実際、花中は大月の能力に一つの予想を立てる事が出来た。ミリオンもハッとした表情を見せた事から、何かしらの推察は出来たに違いない。

 故に、

「……流石に、それはちょっとヤバいかも」

 ミリオンの口から、弱音とも取れる言葉は出てきたのだろう。

「あん? 何をいきなり弱気になっているのですか?」

「最悪を考えた結果よ。ただまぁ、あれだけ堂々と話してるんだから、多分合ってるでしょうね。全く、厄介な相手だこと」

 忌々しげにぼやくミリオンだったが、フィアはまるでピンと来ていないらしく首を傾げる。とはいえ油断ならない相手とは思ったのか、先程よりも少しだけ警戒心を露わにしていたが。

 そして花中は、顔を青くしていた。

 ――――消化酵素の構造を変えた。

 大月は事もなさげに答えたが、これが些末な力である筈がない。酵素とは生体が生命活動を続ける上でなくてはならないタンパク質。例えば人体で使われている酵素は数千種にもなると言われ、未発見のものも含めれば一万近く存在するという説もある。そんな多種多様な酵素達は、それぞれが独自の働きを持ち、そのため様々な性質を持っているものだ。

 それらの構造を自らの意思で変えられるとすれば?

 ただの消化酵素に数千度もの耐熱性を持たせられる万能性を、数千種の酵素に応用したなら?

「ふふ。どうやらわたくしの力に気付いたみたいですし、もうここで教えて差し上げましょう。わたくしの能力は『タンパク質を変化させる』事。まぁ、本来の能力とは別なのですけれど」

「……本来の能力?」

「再生力ですわ。何度も披露しましたでしょう? あの再生力を維持するためには、再生部位を作るのに必要なタンパク質を迅速に供給しなければならない。だとしたら、わたくしの身体にはタンパク質合成に拘わる、何かしらの能力がある筈。そう思って、色々研究しましたの」

 どろどろと、大月の身体から薄紫の体液が溢れ出し、全身をくまなく包み込む。

 先の耐熱性消化液と明らかに異なる、どんな効力があるかも分からない液体。こちらが触ると危険なものなのか、急いで大月の身体から取り除かねば不味いものなのか、それすらも分からない……最早彼女に決まった能力などないのだ。数多の酵素を操る事で、どんな力も作り出せるのだから。

 それは全能の力。神の領域に踏み入れた、人智を超越する非常識。

「そうそう、実は一つ噓を吐いていましたわ。わたくし、本当は大月という名前ではありませんの」

「あん? 今更名前などどーでも良いでしょうに……」

「そう仰らずに。わたくしの本当の名前は友人からもらったもので、結構気に入っているんですの。だからこういう時にちゃぁんと披露しませんと」

 大月はにっこりと微笑み、可愛らしくワンピースの裾を掴んで持ち上げる。次いでどろどろとした粘液で覆われている事など気にもならない、麗しく可憐なお辞儀を披露する。

「わたくしの名はオオゲツヒメ。以後お見知り置きを……そしてここから先は、お遊びなしですわ」

 そして名乗りを上げたオオゲツヒメは、第二ラウンドの開始を告げた。

「ふんっ! こっちだってもう遊んであげません!」

 尤も、最初に動き出したのはフィアだったが。

 花中を置いていき、フィアはオオゲツヒメ目掛けて突撃した。突進前の足下にあったマンホールの蓋を蹴り割り、一歩一歩が市街地の道路を砕くほどのパワーで加速し、オオゲツヒメが逃げる前に腕が届く距離まで詰める。直後全身から水触手を生やし、粘液塗れのオオゲツヒメに絡ませた。避けられず束縛されたオオゲツヒメは身動ぎするも、水触手を振り払うほどの力はないらしく脱出には至らない。

 フィアはオオゲツヒメが動けないのを見るや、高々と左腕を掲げる。すると左腕はぶくぶくと膨れ上がり、横幅数メートルはあろうかというバット型へと変化した。

 オオゲツヒメの再生力の前に、切断攻撃は殆ど効果がない。先程交わした『遊び』からその事を察したフィアは、文字通りオオゲツヒメを叩き潰す事にしたのだ。細胞一つ一つを潰してしまえば、どんな再生力でも意味がないのだから。

 無論それはオオゲツヒメの死を意味する。が、ここで哀れに思ったり、油断したりするフィアではない。なんの躊躇もなく、フィアは肥大化させた腕を振り下ろす!

 動けないオオゲツヒメに回避は取れない。フィアの腕は難なくオオゲツヒメの頭を捉え、ぐしゃりと音を立てた。

 ……砕けたのは、フィアの腕だったが。

「なっ!?」

「あら、残念。水分解の酵素はもう持っていますの」

 驚くフィアに、オオゲツヒメは自慢気に語る。水触手も焼けるような音と共に次々と切れ、あっという間にオオゲツヒメは自由を取り戻す。必殺の一撃を妨げられたフィアは忌々しげに顔を歪めた。

「フィアちゃん! お、大月さんの、能力は、多様だけど、でも元が酵素なら、その効果は、限定的な筈! 切り替えには、時間が掛かると思うから、何か、水以外で、攻撃して!」

 ただし花中が叫んで伝えたアドバイスを聞くや、すぐさま笑みが戻る。いや、むしろ歪む前よりも自信に満ち溢れたものとなっていた。

「成程だったらコイツはどうですかねぇ!」

 即座にその身を屈めると、今度は水触手や腕ではなく、自らの『体躯』をオオゲツヒメにぶつける!

 先程は即座に分解されてしまったフィアの『身体』は、しかし今回は微動だにせず、オオゲツヒメを押していった!

「んっ、これは、ぐっ!?」

「ふん! タネが分かったところでもう遅いんですよ!」

 呻くオオゲツヒメを、フィアは更なる力を込めて押していく。オオゲツヒメはなんとかその場に踏み留まろうとするが、パワーではフィアの方がずっと上らしい。止められないどころか、オオゲツヒメを押すフィアの歩みはどんどん加速していく。

「ふぬぅあっ!」

 雄叫びと共に一層強く踏み出し、フィアはオオゲツヒメを誰かの家の塀へと叩き付けた!

 コンクリートで作られた塀はオオゲツヒメを受け止められず、呆気なく砕ける。オオゲツヒメはそのまま横転させられ、素早くバク転して体勢を立て直すも、フィアは追撃の体当たりをお見舞い。

 二度目の体当たりには踏ん張りが利かず、オオゲツヒメは大きく吹き飛ばされ、塀の奥にある民家へと突っ込んだ! オオゲツヒメに突っ込まれた民家は、まるで砲弾でも撃ち込まれたかのように弾け飛ぶ!

 人間ならば、こんな体当たりを喰らえば余裕でミンチに早変わりだ。しかしオオゲツヒメは形を失うどころか、余裕の笑みを浮かべて瓦礫の中から立ち上がる。自分の周りでミシミシと音を立てる民家の残骸など気にも留めず、フィアと向き合った。

「んー……これは、砂とか石かしら……あなた、表面を水以外でコーティングしましたわね」

「さぁてどうでしょうか。私はあなたほどサービスは良くありませんから」

 オオゲツヒメの質問に、フィアは答えをはぐらかす。

 実態は、正しくオオゲツヒメの言う通りである。

 フィアはコンクリートや落ちていた石を拾い、『身体』の内側で細かく粉砕。微粒子のようにした後、表層に集結させて防壁を構築したのだ。実際には水との混合装甲なので、接触時に多少は分解されているが……大部分を形成する石に変化はない。体当たりを喰らわせるのに支障はない。

 これならば打撃を与えられる。押し潰すような一撃を食らわせられる。つまりは、オオゲツヒメを倒せるという訳だ。

「逃げるなら今のうちですよ……今更逃がすつもりはありませんけどねぇ!」

 話を打ち切るやフィアは音速をも超えた蹴りを放つ! オオゲツヒメはまたも躱せず、その土手っ腹に重たい一撃を受けた。

 だが、今度のオオゲツヒメは揺らがない。

 理由は明白。フィアの足はぐずぐずに溶けており、オオゲツヒメにエネルギーが伝わりきらなかったのだ。フィアが目を見開く中、オオゲツヒメはにこりと優しく微笑む。まるで、子供をあやすかのように。

「ほら、当たりましたわ。アサリを食べる時のじゃりじゃりが嫌で、分解酵素を作っておいたんですの……わたくしに、石の防御は無意味ですわよ?」

「ぬぐぐぐ! だったらこれはどうですかぁ!」

 嘲笑うかのようなオオゲツヒメを前に、フィアは周囲に水触手を伸ばす。

 水触手が向かうは、先の激突で家から散らばった木材やコンクリート。更にはまだ形の残っている家から、引き剥がすようにそれらを回収していく。水触手は素材に絡み付くやメキメキと音を立てて砕き、粉々にして飲み込んでいく。

 その水触手を自身の中へと格納するや、フィアは再びオオゲツヒメに体当たり。

 石をも消化する体液に包まれた彼女の身体が、衝撃でふわりと舞い上がった。

「――――今度は木材、いえ、これは……」

「おおっと次も木の粉をコーティングに使うとは限りませんよ? あなたと違って私の切り替えは時間を使いませんから!」

 バレたタネは隠す必要もないとばかりに、フィアは猛攻を重ねていく。突き飛ばされたオオゲツヒメはついに一軒家を貫通し、塀を砕いて隣の道路に出て行しまう。それでもまだまだ勢いは収まらず、二枚目の塀を砕いてようやく止まる事が出来た。

 フィアは手を弛めずに追跡。路上駐車していた車に水触手を伸ばし、バンパーを引き剥がすや砕いて取り込む。木と石に加え、金属のコーティングも手に入れた。

 水も含めればフィアの『身体』は四種の防御を切り替えられる事になる。これならば『当たり』の消化酵素をぶつけられる事は早々なく、簡単には守りを砕かれない筈だ。

「……少し見くびり過ぎていましたわ。わたくしとした事が、相手への敬意を忘れるとは」

 フィアの攻略は簡単ではないと判断したのか。自らを戒めるように、オオゲツヒメはぼやく。

 そして優しさに満ちていた瞳に、野生の闘志を宿らせた。

 雰囲気が一変したオオゲツヒメを見て、フィアは一旦攻撃を止め、距離を取る。先程までとは何かが違う……野生の獣であるフィアは、それを感じ取っていた。

 警戒心を露わにするフィアに、オオゲツヒメは語り出す。

「最早手加減などいたしません。ここからは、わたくしの全力をお見せしましょう」

「ああん? 今まで手を抜いていたとでも? 遊びは止めたのではないのですか?」

「ええ、遊んでなどいません。先程から本気は出しています。ただ、全力ではなかっただけですわ」

「……言葉遊びがしたいだけですか?」

「いいえ、そうではありませんわ。本気ではありましたけど全力ではなかった。ただそれだけですの」

 話の最中、ぼこりと、オオゲツヒメの身体が膨れ上がった。

 フィアは納得したように、小さなため息を吐く。

 つまるところオオゲツヒメは野良猫(ミィ)と同じ……自分の力を抑え込んで人に化けていたのだ。

「この身体は、単に擬態目的だけではありませんわ。省エネで、エネルギー消費が少ないから、お腹が空きにくいんですの」

 オオゲツヒメの頭部がぐにゃりと変形し、長く長く伸びていく。

「わたくし、どうもお腹が空くと我を忘れてしまいまして。理性がなくなったら、食べた相手への感謝を忘れてしまいますでしょう? だから、出来るだけあの姿のまま、食べるようにしていますの……いただきますと、ごちそうさまを言うために」

 手足はするすると胴体に吸い込まれ、服もまた胴体と一体化していく。目玉が何倍にも肥大化し、臀部だった場所から尾のようなものが生えてくる。体色は髪と同じ栗色に変わり、その髪は頭の中ににゅるにゅると取り込まれていった。

 体当たりを喰らわせたフィアには分かる。オオゲツヒメの体重は自分と同等か、或いはそれ以上だったと。

 オオゲツヒメと対峙してすぐにフィアはマンホールの蓋の上に立ち、下水道の水を吸い上げていた。『身体』に取り込んだ水の重量は約五十トン。多少分解されたが、途中木材や石などを取り込んだ事で、今のフィアも吸い上げた水量とほぼ同程度の質量を保っていた。即ちオオゲツヒメの重量は五十トンオーバーという事である。

 現生生物で陸上最大級の動物であるアフリカゾウですら体重は十トン程度。その五倍もの体重に相応しいサイズが、人間大である筈がない。

 やがてオオゲツヒメの変身は止まる。

 ぬらぬらと体液に塗れた身体は脊椎動物ではなく軟体生物のそれで、眼球は瞳というよりも黒い球体が嵌まっているだけのよう。口器に顎はなく、歯のように鋭く尖った肉質がびしりと穴の輪郭を縁取っている。手足はなく、細長い胴体だけがどっしりと大地を踏み締める。

 そして体長は二十メートルを超えていた。

 ヘビというよりもナメクジに近い、目撃した人間に身の毛もよだつ悪寒を与える姿となったオオゲツヒメを前にして、フィアは驚きもせず肩を竦めるだけだった。

「……やっぱり下等生物じゃないですか」

 呆れるようにぼやくフィア。すると彼女の身体もまた、音を立てて膨れ上がっていく。頭は魚類のそれへと変貌し、派手なドレスは鱗のような突起へと成り果てる。手足は水掻きを備えたずんぐりとしたものへと変わり、美しさが反転するように恐ろしき怪物へと変わっていく。唯一人心を魅了するのは、ミリオンが放った炎の明かりが映り込み、表層で煌めいている紅蓮の輝きのみ。二足歩行するナマズ顔の両生類にしか見えないその姿に、金髪碧眼の美少女の面影など何処にもない。ましてや体長二十メートルともなれば、最早ただの怪獣である。

 相手が巨大化した。だからフィアもまた、巨大化を選んだだけ。

 しかしその結果、市街地に巨大な怪獣が二体君臨してしまった。ナメクジと怪魚は互いに睨み合い、にじり寄る。話し合いでの和解などする気はない。ましてや今や二匹の頭の中に、自分達の周りで生活している人間(小動物)の事など欠片たりとも残っていなかった。

 そんな余計な事を考えていたら、自分が負ける事を察していたから。

【アアアアっ! お腹空きましたわぁァァァッ! 早く、アナタを食べさせてええぇっ!】

【虫けら風情が身の程を弁えなさい! この私が逆に喰ってくれるわっ!】

 二匹は同時に動き出し、互いに相手とぶつかり合った! 巨体と巨体の衝突により発した衝撃波は、さながら爆風が如くエネルギーを伴って拡散。周りの家の屋根や壁が吹き飛び、アスファルトが砕かれて砂粒のように舞う! 大地は揺れ、電柱は倒れ、火災は止まらず広がっていく。

 最早此処は人の住む場所ではない。怪物達が跋扈する、地獄である。

「あらあら。ちょっと派手に暴れ過ぎじゃないかしら」

 尤も、彼女達と同じ怪物であるミリオンは涼しい顔で、空高くからその様を眺めていたが。

 ミリオンは今、高度百メートル以上の位置で浮遊している。能力によって空気を加熱し、上昇気流を作り出してその身を浮かび上がらせているのだ。

 そして花中もまた、ミリオンに抱えられて空に来ていた。

「はなちゃん、大丈夫? さかなちゃん、かなり滅茶苦茶にやってるけど」

「え、あ、は、はい……えと、正直、どうしようとは、思います、けど……」

 ミリオンからの気遣いに、花中は震えきった声で答えた。

 目下に広がるのは、今にも焼き尽くされそうな市街地。

 家々から飛び出す人々の姿を見ると胸が痛くなる。

 焼け落ち、崩れていく家を見ると涙が出そうになる。

 もしかしたら怪我人……死者も出ているかも知れない。フィアやミリオンはそれを気にしないだろうが、花中は人間だ。そしてこの戦いの発端は、この市街地で花中がオオゲツヒメに対決を宣言した事である。つまりきっかけは自分だと花中は思っていた。自分の選択に、大勢の人々の生活や命を巻き込んだのだ。自責の念に押し潰されそうになる。

 しかし、泣き言など言っていられない。

 人間を好んで襲うオオゲツヒメとの対決は、どうあっても人間の生活圏になった筈だ。仮に花中以外の、例えば自衛隊が退治しようとしたとして、人気のない場所に誘い出したり、こっそり住人を周りから避難させるのは困難だろう。何しろオオゲツヒメには人類並の知性がある。人気のない場所に連れ出そうとすれば見破られるし、人々を避難させるために周知をすればオオゲツヒメもそれを聞いてしまうのだ。効果がある作戦は奇襲……周りの人々に何も知らせず、いきなり軍事行動を実施する事だけ。

 何をどうしたところで人々を巻き込む戦いは避けられなかった。()()()()事を延々と悩んでも時間の浪費でしかない。

 それよりも今考えるべきなのは、如何にこの戦いを早く終わらせるか、だ。戦いが早く終われば、巻き込まれる人々の数も減らせる筈なのだから。

 だが……

「み、ミリオンさん。大月さんを、焼いちゃう、事は……」

「お察しの通り、無理よ。今のアイツが纏ってる体液、耐熱性が高いだけじゃなくてタンパク質の分解酵素も含まれてる。私が突撃しても燃やせないどころか、養分になるだけね」

 駄目元で訊いてみれば、ミリオンからは予想通りの答えが返ってくる。もし高温で焼き尽くせるなら、とうにやっている筈だからだ。

 やはり問題になるのはオオゲツヒメが纏っている、酵素をたっぷり含んでいる筈の粘液。あの粘液をどうにかして剥がさねば、フィアは厳しい戦いを強いられるだろう。加えてオオゲツヒメは本当に多様な酵素を生み出している。ならば恐らく、市街地はオオゲツヒメにとって……

 最悪の予想が脳裏を過ぎる。花中はなんとしてもオオゲツヒメを倒すための秘策を閃かねばと、思考を目まぐるしく巡らせた。

 今、花中の頭の中に『人間のため』という想いはない。

 ただ自分に出来る事をするだけ、ただ自分のしたい事をするだけだ。

 自分を守るために巨大な怪物と戦ってくれている、一番の友達を助けるために――――




始まりました、大決戦。そしてまたやりました、市街地での大決戦。
人の営みを破壊し尽くしながら繰り広げられる野生の闘争。
次回、決着です。

次回は7/8(日)投稿予定です。

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