彼女は生き物に好かれやすい   作:彼岸花ノ丘

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女神の美食8

「はぁー今日は色々あって疲れましたぁー」

 家に帰るや否や、フィアは跳び込むようにリビングのソファーへと腰掛けた。ズドン、と女性の体重らしからぬ音をソファーは立てたが、フィアとて全重量を乗せた訳ではない。もしも全体重を乗せたら、今頃ソファーはぺらぺらに押し潰されている。傍目にはソファーがフィアをしっかり支えているように見える、絶妙な体勢の中腰を保っているのだ。

「……毎度思うんだけど、なんで何時もわざわざ座ってるような体勢でいんの? それ、全く楽になってないわよね」

 そんな無意味な体勢のフィアに、ミリオンが心底不思議そうに尋ねる。

 フィアは上機嫌な鼻息を鳴らしてから、一切疲れを感じさせない声で悠々と答えた。

「確かにどんな体勢でも大して楽にはなりませんが逆に疲れもしませんからね。ならば休んでいる気がする姿勢が一番『楽』なのですよ」

「そういうもんかしら」

「そういうもんですよ」

 堂々としたフィアの答えに、ミリオンは納得していない様子。とはいえミリオンに納得してもらいたいなどとは欠片も思っていないフィアは、ミリオンを嘲笑うような笑みを浮かべるばかり。ミリオンもさして理解したい訳ではないらしく、小さく肩を竦めるだけでそれ以上追求する事もなかった。

 まるで、何時もの光景。

 フィアもミリオンも、普段と変わらない調子でお喋りをする。何一つ憂いなどないかのように笑い、何一つ焦る事などないかのように時をだらだらと過ごす。

 しかし彼女達は忘れたのではない。

「それにしても随分と上機嫌ね。さっき、はなちゃんが食べられちゃいそうになったのに」

「ふふんアイツの正体がハッキリと分かりましたからね。もう何故嫌いだったのかを考えなくて済みます」

 こうして普通に話を交わす程度には、ミリオンだけでなくフィアも『大月』の事は覚えているのだ。

「考えなくて済むって……ほんと、さかなちゃんは頭を使うのが苦手なんだから」

「その分力が強いから良いのです。それに頭脳面は花中さんがカバーしてくれますからね! 私と花中さんのコンビが無敵なのはあなたが一番よく知っているでしょう?」

「はなちゃんがカバー、ねぇ」

 胸を張りながら他人を頼るフィアを前に、ミリオンはちらりと視線を逸らす。

「そのはなちゃんが今、ぐったりとしている事について何か意見はないのかしら?」

 そして呆れるように、そう尋ねた。

 ミリオンの話に出てきた花中は、リビングの真ん中でぽつんと立ち尽くしていた。ソファーに座るフィアの隣へ向かう事も、フィアと向き合っているミリオンの傍へ寄る事もしない。

 されどぼんやりしている訳でもない。その証に、俯いた顔は今にも泣き出しそうなものになっているのだから。

「花中さんどうしたのですか? 花中さん?」

 何時までも突っ立ったままの花中を心配したのか、フィアはソファーから立ち上がり、花中の顔を覗き込みに来る。目の前で手を振ったり、つんつんと頬を触ってきたりもしてきた。しかし花中はそれでも頑なに動かず、ついにフィアの方が音を上げる。肩を竦め、首を傾げながら花中の傍から一歩退いた。

「どうしたんですかね花中さん。さっきから元気がないようですが」

「色々あんのよ、人間だから」

「色々ねぇ」

 ミリオンの雑な説明に、フィアは首を傾げてあまり分かっていない様子。分かろうともしていないだろう。

「……ねぇ、フィアちゃん」

 そんなフィアの名を、花中はぽそりと呼んだ。

 呼ばれたフィアはすぐに花中の方へと振り返る。ようやく喋ってくれた事が嬉しいのか、フィアは眩い笑みを浮かべて花中の前へと躍り出た。

「はい! なんですか花中さん!」

「……フィアちゃんは……大月さんの事、どう、思っているの」

「? どう思うとは?」

 元気よく返事をしたフィアだったが、花中からの問い掛けに首を傾げてしまう。

 そのフィアの姿を見て、花中は自らの服を握り締める。さながら、癇癪を抑えるように。

「大月さんは、今、野放しなんだよ」

「そうですね逃げちゃいましたから」

「大月さんは……人間を食べるんだよ」

「ああそういえば好物だと言ってましたね。だとすると今頃誰かを食べてるかも知れません」

「だったら! このまま放っておいたら……!」

 花中は段々と、感情を昂ぶらせていく。その顔に悲しみだけでなく、焦りや憤怒も滲ませていく。声は荒くなり、理性によるコントロールが出来ていない。

 しかしフィアはその想いに同調するどころか、困ったように眉を顰めるだけ。

「それがなんだというのです?」

 そして本当に不思議そうに、花中の意図を尋ねてきた。

 そう、いくら物忘れが激しいフィアでも、自分が体験した()()()の出来事を完全に忘れはしない。だから彼女達はしっかりと『彼女』――――大月が野放しになっている現状を把握していた。そして大月が人間を好んで襲い、食べる事だって覚えている。

 しかし、フィア達にとってはどうでも良いのだ。

 大月が何百もの人間を喰い荒そうと、食べられた人間達に明るい未来があったとしても、食べられた人間の家族が底のない悲しみに沈もうと……自分達と関わり合いがないのなら、それで構わないのだ。野生動物である彼女達が抱く他者への関心など、その程度である。

 そんな事は付き合いも長くなってきた花中には分かっている。分かっているが……

「……ねぇ、フィアちゃん」

「はい。なんですか?」

「大月さんの事は、倒す、つもりなんだよ、ね」

「ええ勿論。花中さんを食べようとする不埒者ですからね」

「なら、その大月さんを、今すぐ止めに、いったり」

「……あー花中さんの言いたい事は分かりました。花中さんは人間でその上お優しいですから大月の奴が他の人間を食べる前になんとかしたいのですね?」

 込み上がる衝動のまま頼もうとすると、フィアに抱いていた気持ちを見透かされた。一瞬ドキリと心臓が跳ね、花中は声を詰まらせる。フィアとの付き合いが長くなったという事は、フィアにとっても花中との付き合いが長くなってきたという事。人間味のある思考が身に付いた訳ではないが、親しい花中の気持ちぐらいなら『予想』出来るようになったのだろう。

 その上で、

「残念ながらそのお願いを聞くつもりはありません。この私の力なら大月を潰すぐらい簡単ですが私が単身探し回っている間にアイツが花中さんを襲うかも知れませんしかといって花中さんを連れ回った場合死角から襲われる可能性がありますからね。この家で防御を固めるのが最善かと思うのですが」

 フィアは花中の頼みを、きっちりと断った。

 花中を守りたいフィアからすれば、花中以外の人間のために動く理由などないのだ。ましてや花中が危険になるかも知れないと思えば、その提案は受け入れられまい。無論、同じく花中が最優先保護対象であるミリオンが、花中の意見の後押しをしてくれる筈もない。

 何より、花中にはフィア達を説き伏せるだけの『道理』を持っていない。人間のために危険な戦いをしてくれなど、花中(人間)が頼んだところでただの身勝手だ。

 だから、

「っ!」

 沸き上がる感情に突き動かされ、花中は走り出した。

 そしてリビングを跳び出し玄関へと向かうと、靴の踵を踏み潰して履き、そのまま外へと出てしまう。

「あっ。花中さんこんな時間に何処に行かれるのですか? いえそもそも外は危険です大月の奴が近くに居るかも知れませんからー」

 リビングから跳び出した花中を、フィアは能天気に呼び止める。花中はそれでも走るのを止めないが……

「ですから花中さん何処に行かれるのですか」

 その気になれば時速二百キロ以上で動けるフィアが、花中を見失うほどの遅れを取る訳もない。家の玄関から三メートルも離れないうちに花中はあっさりと追い付かれ、同世代と比べても華奢な腕を掴まれてしまった。

「やだ! 離して!」

 絶対に振り解けない拘束から逃れようと、花中はジタバタと暴れる。しかしフィアは花中の腕を決して離さず……やがて花中の体力が尽きた。

 息を切らし、走ろうとしなくなった花中をフィアはじっと見つめる。

「花中さん何かお悩みがあったりするのですか?」

 それからフィアは、花中にそう尋ねた。

 花中は咄嗟に唇を噛んでしまう。言葉を抑え込むような仕草が、フィアへの答えとなった。

「悩み事があるのなら聞くぐらいは出来ますよ。解決方法を聞かれても答えられるかは分かりませんが」

「……………」

「まぁ言いたくないのなら言わなくても結構ですが」

 フィアは淡々と逃げ道を用意してくれる。掴んでいた手を離し、花中を自由にしてくれた。

 花中は逃げず、その場で黙り、立ち尽くす。

 フィアはそんな花中に言葉を投げ掛けるでもなく、目で訴える事もしない。何も言わなくても良いし、何か言っても構わない。無関心故に、花中のあらゆる選択を許してくれる心の『広さ』が見えてくる。

 ――――その心の広さが、花中の気持ちを揺さぶる。

 フィアに話しても仕方ない事だから、話さなかった。だけどその『仕方ない』事を一人の胸に留めるのはしんどくて、辛くて……何を言っても気にしないのなら、この胸の苦しさを打ち明けてしまいたい。フィアならきっとこの想いを真っ向から受けても、何時もと変わらずに応えてくれるに違いないと信じられる。

 例えそれが重さを分かち合う行為ではなく、重さを投げ捨てるだけの行為だとしても。

「……わたしの、所為だから」

 だから花中は、フィアに自分の胸に渦巻くものをぶつけてしまう。

 フィアは目をパチクリさせながら、花中の口許を見つめる。その言葉の意味を探るように。

「花中さんの所為? なんの話ですか?」

「……ミュータントが、わたしの脳波で、目覚めるのは、覚えてる?」

「んー? あーそういえばそんな話もあったような。花中さんがいたから私はこうしてお喋りが出来るようになったんでしたっけ?」

 明らかにうろ覚え状態のフィア。自らの自我に関わる事柄を忘れかけていた彼女に、『らしさ』を感じて花中は少しだけ安堵した。

 緩んだ心は、口も綻ばせる。

「なら、大月さんは、わたしがいたから、ミュータントになったようなもの、だから」

 気付けば花中は、己の『罪』を打ち明けていた。さながら他愛無い話をするかのように。

 フィアは花中が明かした『罪』を聞いて、しばしキョトンとしていた。やがて理解したのか手をポンと叩いたが、すぐに首を傾げる。

「……それがなんなのですか?」

 思った通り、無理解を示すフィア。

 そのフィアに向けて、花中は昂った感情のまま叫んだ。

「だって! わたしがいたから、わたしなんかがいたから! 人間を食べる、怪物が、生まれたんだよ!?」

「まぁそうかも知れませんね。ですが」

「わたしがいたから、大月さんが生まれて……たくさんの人が、食べられて……死んじゃって……! わたしが、わたしが……!」

 フィアの言葉を遮ってまで叫ぶ花中だったが、ついに涙が零れ、喉奥から込み上がった嗚咽の所為で声が途切れてしまう。

 それでも、叫ばずにはいられない。

 ミュータントは自分の脳波によって覚醒し、目覚める。しかし脳波が届く距離は存外広く、『対象』が暮らしている池に落ちる程度の接近で十分。知らぬ間に『猫』がミュータントとして目覚め、『カニ』のミュータントと不意の遭遇をした事もあった。自分があちこち歩き回るだけで、否、家に引きこもっていたとしても近くを何かしらの生物が横切ったなら、ミュータントが生まれて、野放しになる可能性がある。

 そんな事はとっくに分かっていた。分かっていたのに何もしていなかった。

 故に人間にとって危険な存在が生まれ、人を食い荒らすのを防げなかった。そして花中にはこの怪物を止める手立てなどない。花中どころか、人類文明が総力を結集しても止められるかどうかだ。ミュータントとはそれほどまでに不条理で、圧倒的で、出鱈目な生命体なのだから。

 自分が人の世界を終わらせようとしている。取り返しなど付かない。責任など取れない。止め処ない罪悪感で胸が張り裂けそうで、嗚咽と涙は止まるどころかどんどん勢い付く。最早泣きじゃくる事しか出来なくて、花中は俯き、ただただ泣くばかり。

 その姿を見て、何かを思ったのか。

 フィアは花中を、無言のまま抱き締め、頭を撫でてきた。優しい手付き。けれども思いやりや同情、共感の想いは感じられない。ただただ、泣かないでほしいという気持ちだけが伝わってくる。

 きっとフィアは、自分が泣いていたから、ただそれだけの理由であやそうとしている。

 それを感じ取った花中は、フィアの胸に顔を埋め、泣いた。

 顔が埋もれているから、泣いて乱れた呼吸では息がし辛い。苦しいし、段々頭が熱くなってくる。それでも花中は離れようとしない。離れたくなくて、回した腕に力がこもってしまう。

 ……一体、どれだけの時間が流れただろうか。計っていないので知りようもないが、何時間も続けていたような気がする。或いは数分の出来事だった、そんな感覚も頭の片隅で燻っていた。

 間違いないのは、数分だろうと数時間だろうと、フィアは何も言わずに抱き締めていてくれた事。

「大丈夫ですか花中さん。泣き足りないならまだまだ私の胸を使ってくれても良いのですが」

 涙が止まり、顔を上げてみれば、フィアは甘やかすように優しい言葉を掛けてくれる。

 じゃあ、もう少しだけ……湧き上がる甘えの気持ちにギリギリ気付けた花中は、顔を真っ赤にしながら首を横に振る。それから突き飛ばすように両腕を伸ばして、フィアから離れた。

 優しくしてくれたのに乱暴なお返しをしてしまったと、後悔しながら花中はフィアを横目でちらりと見る。尤も花中の脆弱な腕力で押せるほど、フィアの身体は華奢ではない。花中と目が合ったフィアは、何をされたのかすら気付いてないように微笑むだけだった。

 すっかり火照ってしまった身体と理性を冷ますように、花中は大きく深呼吸。冴えてきた頭で言葉を絞り出し、泣き腫らした目を擦りながらフィアに「ありがとう」とお礼を伝えた。

「その……ごめんね。いきなり、走り出したり、泣き出したり、して」

「いえいえお構いなく。ああもう泣くのは良いのでしたらそろそろ私が話をしてもよろしいでしょうか?」

「話? ……あー」

 フィアから訊かれ、そういえば自分がフィアの話を遮っていた事を今更ながら思い出す。感情が昂ぶっていたとはいえ、中々失礼な事をしてしまった。

 勿論、散々泣いてスッキリした今、フィアの話を抑え付けてまで訴えたい事などない。

「うん、大丈夫だよ。えと、ごめんね、話の邪魔、しちゃって」

「いえいえお気になさらずに。それで先程話そうとしていたものですが私には花中さんが何を悩んでいるのかよく分からないという事でして」

「……そっか」

 思った通りの答えに、花中は肩を落とす。

 何故肩を落とした? 責められなくて安堵したから? 理解してもらえなくて失望したから?

 恐らくは両方の気持ちが、胸の内側で噴き出している。胸がいっぱいで苦しい。

 だけど少しだけ、軽くはなった。

 責任感を投げ捨てただけなのは承知している。無関心を示されて、自分の罪が『大した事』ではないと思い込めただけだろう。だけどそれで罪悪感が軽くなったなら、この重さなら、自分だけでも抱えていられる。

 もうこれで十分……きゅっと自分の胸倉を掴み、花中は小さく頷いた。

「だって花中さんアイツとは()()()じゃないですか」

 フィアがそんな事を言わなければ、きっとこのまま抱え込めただろうに。

「……え?」

「大月の誕生に関わった? そんなのがなんだというのですか。花中さんはアイツに何かを唆した訳ではないのでしょう?」

「だ、だって! わたしがいたから、大月さんが、ミュータントになって……!」

「だからそれがなんだというのです? 人を襲うと決めたのは大月であり大月から身を守れなかった人間が食べられた。一体何処に花中さんの意思があるというのですか?」

 フィアの『率直』な疑問に、花中は言葉を詰まらせる。納得した、のではない。実際()()()()であるが故に、論理的な反論が思い付かないだけ。

 今の花中は理性よりも感情が強い。沸き立つ激情が弾けてしまえば、相手の意見が『正論』かどうかなどどうでも良かった。

「わ、わたしがいなければ! 大月さんが、ミュータントになる事は、なかったんだよ!? そうでしょ!?」

「どうですかね? 花中さん以外にもなんちゃら脳波を出す人はいるみたいですが」

「だとしても、この町では、わたしだけだもん! わたしが、この町の人を、殺したようなものなの!」

「……………花中さん」

 フィアは淡々と、宥めるように声を掛けてくるが、花中の耳には届かない。否、耳に入っても、のたうち回る激情がその言葉を拒む。

 批難してくれた方が嬉しいのに。

 『悪い事』をしたのだから叱って欲しいのに。

 仕方ない? 責任なんてない? 納得出来ない。全部自分が悪いのだ。自分がこの災厄の元凶なのだ。

 だって、そうじゃないと……

 悲しみと後悔はどんどん花中の胸に堪り、淀み、心を押し潰そうとする。慰めや励ましは、悲しみと後悔を育むだけ。花中の小さな心は既に隙間がないぐらい罪悪感に埋め尽くされ、吐き出さないと破れてしまいそうだった。

「う、うう……うく、うぇう……」

 ついには言葉が嗚咽に飲まれ、花中はその場に蹲る。

 フィアはそんな花中を、背中から優しく抱き締めた。

 肌に感じる、柔らかな温度。それは体温ではなく水を圧縮した事で生じた熱量だと分かっていても、心の中にじんわりと広がっていくのを感じる。呼吸は少しずつだが静まり、鼓動もゆっくりになっていく。

 気付けば涙は止まり、嗚咽は止んでいた。先程までと変わりないのは、真っ赤に腫れ上がった眼ぐらいだろう。

「少しは落ち着きましたか」

「……うん」

「そうですか。それでまだ自分が悪いと思っていますか?」

「……………うん」

 囁くようなフィアの言葉に、花中は正直に答える。

 吐き出しても、吐き出しても、罪悪感は消えてくれない。全ての元凶は自分だという考えが胸で燻り、今にも燃え上がろうとしている。きっとこの想いは何時までも残り、ふとした時に脳裏を過ぎり、苛み続けるのだろう。

 この予感を、花中は口にしなかった。されどフィアはお見通しだと言わんばかりに、小さくないため息を花中の耳元で吐く。

 そしてぽそりと呟くのだ。

「あまり思い上がらないでほしいものですね。花中さんといえども所詮人間なのですから」

 あまりにも冷たい、背筋が凍るほどの言葉を。

 驚きのあまり花中は思わず飛び跳ね、フィアの方へと振り返る。フィアは最初キョトンとしていたが、ややあって「おっと」と、如何にも失言したとばかりの声を漏らす。

 しかしそこに悪意は何一つ感じられない。太っている人に太っていると指摘してしまった事に今更気付いたような、その程度の感情しか見えなかった。

「すみません花中さん。思わず本音が出てしまいました」

「ほ、本音って……」

「だってそうでしょう? さっきから自分が悪い自分が悪いって。じゃあ訊きますけど花中さんに一体何が出来たのですか? どうすれば大月がミュータントになるのを防げたというのです?」

「そ、それは、その、家に、引きこもる、とか……」

「大月が何処に棲んでいたかも知らないのに? もしかしたら花中さんの家に棲んでいた奴なのかも知れませんよ?」

「だ、だったら、だったら……」

 次の案を言おうとする花中だったが、その口は空回りするばかり。意味ある言葉を出してはくれない。

 当然だ。案などないのだから。

 自分がいくら引きこもったところで、小さな生き物達の行動は制限など出来ない。出来っこない。アリやハエのような見えるサイズの虫達どころか、ノミやダニ、カビやウイルスなどはどうやっても防げないのだから。

 ……いや、一つだけ手はある。

 自殺だ。

 命さえ絶ってしまえば、花中の脳波も止まる。脳波が止まればミュータントの素質がある生物が近くを通っても、ミュータントとして目覚める事はない筈。

 自分の死こそ、人類にとって救済となる。自らの命を惜しみ、人の世を破滅させてなんになるのか。自分の命と引き換えに、世界を守るべきではないのか。

 ……独りぼっちだった頃なら、この選択肢も選べたかも知れない。自分が無価値だと思っていたあの時なら、それで人の役に立てるならと思えたかも知れない。

 だけど、今は選べない。

 今は自分の事を好きだと言ってくれる友達がいる。自分に生きていてほしいと言ってくれる友達がいるのだ。死ねと言われても、絶対に死んでやらない。

 今の自分は、まだ友達と一緒にいたい。

 しかしそれは……大月に食べられてしまった人達も同じ筈。

「だったら、わたしは、どうしたら……」

 みんなの未来を台なしにしたくない、自分も未来を迎えたい。矛盾した想いに挟まれた花中は俯いてしまい、

「どうもこうもないでしょう。自分のしたい事をすれば良いのです」

 フィアがその言葉で意識を引っ張り上げてくれなければ、きっと何時までも俯いていたに違いなかった。

「自分の、好きに……?」

「そうです。花中さんはやりたい事をやれば良いのです。ああ勿論花中さんの身に危険が及ぶような事は許しませんよ? 私も好きにやらせていただきますから」

「で、でも、わたしに、好きにする権利、なんて」

「だから思い上がるなと言っているではないですか。花中さんが何をしたところで人間の社会を変えられる訳ないでしょう?」

「そ、それは、そうだけど」

 ズバズバと本当の事を言われ、花中は上手く言い返せない。

 その言い淀みを見逃してくれるほど、フィアは思いやりの心を持っていない。

 まるで花中の心の隙間を突くように、フィアは今にもキスしそうな近さまで花中に顔を近付けてくる。大きくて、なんの迷いもない瞳に自分の卑屈な顔が映り、花中は一瞬心臓が大きく波打ったのを感じた。思わず身動ぎして後退りしそうになるが、フィアの手が肩を掴んでいたがために一歩たりとも下がれない。

 だから、

「そもそも何が出来るとか責任がどうとかだって()()()()()じゃないですか。ならどうしてそれを変に遠回しな言葉で誤魔化すのですか?」

 花中は真正面からその言葉を受け止めてしまう。

 花中は大きく目を見開いた。喘ぐように口を空回りさせ、身体を小刻みに震わせてしまう。

 そして最後は、吹き出すように笑みが零れた。

「そっか、そっか……」

「花中さん?」

 急な微笑みを怪訝に思ったのか、フィアが顔を覗き込んでくる。だけど今度の花中は逃げない。

 ああ、その通りだ。

 責任を果たしたい、人のために何かをしたい……フィアが言うように、それすらも自分のやりたい事ではないか。自分のやりたい事なのに、責任だとか世界のためだとか、難しい言葉で『本能』を隠しているだけ。

 そうした事が出来る人間は凄いと、言いたいがための綺麗事だ。

「うん、そっか。そうだよね……人間だって、生き物だもんね」

 溢れた涙を拭えば、顔を伝うものはもう出てこない。思い詰めていた顔には、晴々とした笑みが戻る。

 もう、悩むのは止めだ。

 責任を感じたところで何も出来ないし、何も取り戻せない。何か出来るのではないか、何かを変えられるのではないか、人間として何をすべきか……その全てが驕りである。

 自分には何も出来ない。何も変えられない。ちっぽけな小娘に過ぎない自分に、出来る事などありはしない。

 だから、やりたい事をやろう。

 人類のためではなければ、食べられてしまった人達の想いを継ぐためでもない。自分が嫌だから、自分が望んでいないから、やりたいと思った事をする。

 他の生き物達のように、自分の想いに従う。人間だって生き物なのだから、そうしたって良い筈だ。

 あらゆるものに平等だった『彼女』なら、きっと……

「何やら納得した様子ですが何をするか決めましたか?」

「うん。今、決めたよ」

 フィアに問われ、花中は力強く頷く。そして自らが出した答えを告げるべく口を開き、

「あら、是非わたくしにもそのお話を聞かせてくれませんこと?」

 不意に割り込んできた麗しい声が、花中の意思を妨げた。

 ぞわりと、背筋に走る悪寒。

 花中はその顔を真っ青にし、ガタガタと震えてしまう。その声には覚えがある。いや、忘れる訳がない。先程まで自分の心を苦しめた『元凶』なのだから。

 ぎゅっと、唇を噛み締める。今にも破れそうなほど鼓動する胸を片手で押さえ、深く息を吐く。

 そしてフィアがもう片方の手を握ってくれれば、もう怖くない。

 花中はゆっくりと、声がした方へと振り返る。

 栗色の髪。

 優しい笑み。

 おっとりとした風貌。

 全てが別れた時から変わっていない。切り刻まれた事などなかったかのように、彼女はそこに立っていた。

 だから、花中は向き合う。

「また会えましたね、大月さん」

 自分の『決意』を、大月にぶつけるために――――




覚悟を決めた花中の前に現れた大月。次回、決戦です。
戦うのはフィアですけどね!(オイ)

次回は7/1(日)投稿予定です


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