彼女は生き物に好かれやすい   作:彼岸花ノ丘

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女神の美食4

 大桐花中はフレンドリーなのが大好きである。

 花中自身その事は自覚している。学校でクラスメート達を見ていても、彼女達は友達に抱き着かれて頬がふにゃふにゃになったりしていないし、手を繋いで蕩けるような笑みがこぼしたり、頭を撫でられて腑抜けになったりはしていない。自分ほど友情に耐性がない人間は、恐らくそういないだろう。

 そんな花中でも、初対面で、たった今二~三言葉を交わしただけの女性と友達になりたいとは思わなかった。

「……えっと、あの……今、なんて……?」

「ですから、あなたとお友達になりたいの」

 自分が何か聞き間違えたのだろうか? そんな『もしも』を考えていたが、大月と名乗った女性は花中の戸惑いなどお構いなしに、堂々と先程と同じ言葉を告げてみせた。

 初対面同士、相手の名前ぐらいしか知らない ― というか言い出した方は花中の名前すら知らない筈の ― 関係で友達になろうとする。

 ハッキリ言って、変だ。確かに花中にはほぼ初対面で、名前だけ伝え合って友達になった『妖精さん』という相手もいるが……彼女との関係は色々と山積みになっていた問題を解決するために結んだもので、友情というより腹芸の類である。要するにそれなりの理由があった訳で、理由もなしに見知らぬ人物と友達になろうとする人が『普通』という事はないだろう。行方不明者が頻発しているという噂がある現状、怪しい人物に近付くのは得策ではない……頻発していなくても得策ではないが。

 兎にも角にも、大月からのお願いにYesと答える理由はなく、むしろ離れた方が良い理由ばかり思い付く。可能な限り相手を刺激しないよう、花中は穏便なお断りの言葉を考える

「誰があなたみたいな怪しい輩と友達になるもんですか。さっさと帰ってくれませんか?」

 最中にフィアがズバッと言ってしまった。

 相手を不快にさせないよう、なんて気遣いが欠片も含まれていないフィアらしい物言い。あまりに容赦ない言い方に、大体同じ意見だった花中もギョッとなる。相手は『不審者』だ。もしかしたら逆上して暴れるかも知れない。性質の悪い事に今花中達が居るのは市街地のど真ん中で、ちらほらと市民が通っていく一般道。花中はフィアが守ってくれるが、周りの人達に危害が及ぶ可能性も……

 不安になる花中だったが、しかしその不安を振り払ったのは不安の元凶である筈の大月。

 何しろまるで叱られた子供のように、大月は落ち込み、項垂れていたのだから。

「……駄目、かしら?」

「駄目です。逆に何故大丈夫だと思ったんですか」

「だって、わたくしお友達の作り方ってよく分からなくて……友達は一人いますけど、あの子は顔を合わせてすぐ友達になろうって言ってきたから、こうするのが普通だと思って……」

「どんな奴ですかその友達とやらは」

 呆れ返るフィアに、大月は両手の人差し指同士をつんつんと合わせていじけてしまう。その仕草のなんと無邪気で愛くるしい事か。麗しい見た目とのギャップが、彼女の魅力を一層引き立てる。

 されど花中がドキリとしたのは、大月の魅力に当てられたからではない。

 友達の作り方が分からない……それは、かつての自分も同じだった。フィアから友達になろうと言ってくれなければ、今でも独りぼっちだっただろう。その後友達になった晴海や加奈子も、フィアの物怖じしない姿勢から学んでいなければ、友達になってほしいと頼む事は出来なかったに違いない。

 この大月という女性も、そのたった一人の友達から作り方を学んだとしたら、やり方が多少頓珍漢なのも仕方ないかも知れない……初対面である花中と友達になりたい理由は、やはり分からないが。

 ただ、突然のお願いに『理由』があったとなれば、猜疑心は少なからず薄れる。

 そして共感も抱けた。

「あ、あの……」

 おどおどと、花中は大月に呼び掛ける。大月は呼ばれるが早いか花中の方へと振り返り、キラキラと輝く瞳で花中を見つめてきた。無邪気で、子供のように愛らしい瞳だ。悪意はまるで感じ取れない。

 未だ、大月が『怪しい人』なのは変わらない。だから心を許した訳ではない。

 だけどもしかしたら、本当に友達が欲しくて、だけど友達の作り方が分からないのなら……それを見過ごすなんて真似は、花中には出来ない。いや、したくない。自分のような寂しい想いをする人なんて、出てほしくはないのだから。

 だったら、自分がすべき事はひとつ。

「……わたしで、良ければ、友達になりますよ」

 花中が掠れるような声で告げた言葉に、大月とフィアは目を見開いて驚きを示した。直後、大月は花中に駆け寄ろうとして、フィアに捕まり動きを妨げられる。それでも大月の動きは止まらず、まるで幼子のようジタバタするばかり。とても嬉しそうな微笑みを見る限り、自分が捕まっている事に気付いていないのではないか。そうとしか思えないほど、大月の無我夢中ぶりは凄まじかった。

「ほんと!? わたくしと友達になってくださるの!?」

「あ、は、はひ!? えと、その、と、は、はい」

「ありがとう! ああ、どうしましょう!」

 猛然と迫り来る大月に怯む花中だったが、当の大月は正しく有頂天。今にも崩れそうなほど蕩けた赤い頬を両手で押さえ、幸せを目いっぱい表現してくる。

 ここまで喜んでもらえると、花中としても少なからず嬉しい。まだ大月の事は何も分からないが……今のところ悪い人のようには感じられない。

 なら、きっと大丈夫。

 これから待ち受けているのはきっと楽しい事ばかりだと思えた花中は、自然と笑みが零れるのだった。

 未だ大月の事を掴んだまま、訝しんだ眼差しを向けているフィアの姿に気付きつつも――――

 ……………

 ………

 …

「年上のお姉さんと友達になったぁ?」

 訝しげに訊き返してきたミリオンに、花中はおどおどしながら頷いた。

 フィアの案内の元、どうにかこうにか家に帰れた花中は、迷子になっていた時自分の身に起きた出来事……見知らぬ女性と友達になるという事態を、自宅リビングの中央に置かれたテーブルの席に着いて、くつろいでいたミリオンに報告した。

 ミリオンは信じられないと言いたげに、眉を顰めている。無論その「信じられない」は『疑念』ではなく『批難』の方であるが。

「はなちゃん。いくら友達中毒者(ジャンキー)だからって、知らない大人と友達になるのはどうかと思うわ」

「ミリオンさん、わたしの事、そう思ってたんですか……いくらわたしでも、知らない人に、友達になりましょうって、言われて、すんなり、はいとは、言いません」

「でも友達になったんでしょ、そのお姉さんとは。すんなりじゃなかったとしても」

「……なっちゃいましたけど」

 ミリオンのツッコミに、返す言葉がない花中はしゅんと項垂れる。

「まぁ、なっちゃったものはしょうがないか。そういう形で出来た友達が、揃いも揃ってろくでもないとは限らないし」

 あまりにも惨めに項垂れるものだからか、ミリオンは諦めたようにぼやいた。

「……はい」

「一応言っとくけど、限らないだけで、怪しいのには変わりないんだからね?」

「それは、分かっています」

「よろしい」

 花中の返事を聞き、ミリオンは満足げに頷く。リスクを分かっているならそれで良いようで、これ以上花中に何か言うつもりはないとばかりに片手をひらひらと振った。

「で? さっきからさかなちゃんはなんでふて腐れてる訳?」

 そうして花中との話に一区切り付けてから、フィアに声を掛ける。

 今の今まで会話に混ざらなかったフィアは、リビングのソファの背もたれにだらしなく全身を預けていた。唇を尖らせ、目は据わっていて……明らかに機嫌が悪い。とはいえ怒っているような不機嫌さではなかったが。ミリオンに呼ばれてもその態度は変わらず、目だけをミリオンに向けると、フィアは不愉快そうな鼻息を一つ吐いた。

「別にふて腐れている訳ではありませんいくらアイツが胡散臭いと言っても花中さんが全然聞いてくれないのでどうしたものかと思っただけです」

「なんだ、要は拗ねてる訳ね」

「拗ねているんじゃありません」

「なら、ちゃんと説得しなさいよ。胡散臭いと思う理由、あるんでしょ?」

「ありますけど……」

 ミリオンに問われ、フィアはますますムスッとした表情を浮かべる。それからしばし、考え込むように黙ってしまった。すぐに反論が出てこないところが、信憑性を薄れさせていく。

「……なんか嗅いだ事のある臭いがしたんですよアイツから」

 やがて開いた口から出てきた言葉も、なんだか曖昧なもの。

 他者を納得させるほどの説得力はなく、ミリオンはキョトンとしてしまった。

「何よそれ、嗅いだ事のある臭いって」

「それが分かったらとっくに言っています。ああもうっなんでしたかねぇ……思い出せれば一発で説得出来る自信があるのにぃ……!」

「普段はなちゃん以外無関心だからそーなんのよ。もう少し世の中について色々興味を持った方が良いわよ」

「うぐぎぎぎぎ……!」

 ミリオンの『お説教』に言い返せず、フィアは歯ぎしりするばかり。歯なんて本当はないのにわざわざ音を立てるとは、余程悔しいようだ。

 しかし花中には、フィアが負け惜しみを言っているとも思えない。遠く離れた公園に潜む猫の臭いを探知したり、大桐家の場所を探り当てたり、違法薬物を追跡したり……フィアの『嗅覚』は、理性と論理を重んじる花中には到底為し得ない事を幾度となくやってみせた。人間(花中)には感じ取れないほど微かな、されど疑うに足る何かしらの『臭い』を感じ取ったとしてもおかしくはない。

 ミリオンもフィアとはそこそこ長い付き合いだ。フィアの嗅覚が凄まじく優秀である事を、度々目の当たりにしてきている。例え明確な説明は出来ずとも、鼻で笑って無視も出来ないだろう。ミリオンは小さなため息を吐きながらも、フィアを嘲笑うような真似はしなかった。むしろ顎に手を当て、何か考え込むような仕草を取る。

 やがて何かを閃いたのか、ミリオンは大きな頷きをした。

「はなちゃん。そういえばなんだけど、そのお姉さんとは次何時会うかの約束とかしたのかしら?」

「え? あ、はい。えと、一応、明日、また会いましょうって。明日も、休みですし」

「そう。それならやっぱ保護者の『ご挨拶』は必要よね?」

 にっこりと微笑むミリオンを見て、花中は彼女の言いたい事を察した。

 断ったところで、ミリオンは()()()()と付いてくるだろう。ならば答えは実質一つしかない。幸い、という訳ではないが、大月の連絡先は既に聞いている。今回の約束ではフィアも同行する事になっているので、今のうちに話しておけば『一人』追加するぐらいは可能な筈だ。

「……分かりました。あとで、電話して、確認してみます」

「良し、それじゃあこの話は一旦お終いね」

 花中の返事を満足げに聞き、ミリオンはぱちんと手を叩いてから有無を言わさない力強さで告げる。花中としては異論などなく、むしろ大月との友達付き合いを許してもらえてホッとしている状態。フィアは未だ不服そうな顔をしていたが、反論しようにも当人すら確証がない不信感を言葉に出来る訳もなく、悔しそうに唇を噛み締めるばかり。

 沈黙は肯定となり、ミリオンが言う通りこの話はこれで一旦終わりとなった。

 さて。

 喧々囂々の……なんて事はないが、割と長い話が終わった。スーパーを出た時間は三時過ぎだったが、そこから迷子になったり大月と遭遇したりで帰宅時間はかなり遅くなっている。

 花中がちらりと壁に掛けてある時計を見てみれば、夕飯の支度をするのに丁度良い時刻を指していた。

「……じゅるり」

「あら。食べ盛りのはなちゃんには、今回の話はちょっと長過ぎたかしら?」

「ふぇ!? あ、や、い、今のは条件反射で……」

 思わず出てきた涎を啜った瞬間を、ミリオンに聞かれた花中は顔を真っ赤に染める。相変わらずソファーに寄り掛かっているフィアも、先程までの不機嫌ぷりは何処へやら。愛でるような眼差しで花中を見ていた。

 幼稚園児じゃあるまいし、幼稚な反応をしてしまったものだ。自己嫌悪と恥ずかしさで花中は段々縮こまっていくが、頭の中が真っ白になる事もない。

 何故なら今日の花中は『肉食モード』。これから冷蔵庫を開けて買い立てほやほやのステーキ肉を取り出し、繊細な味付けと大胆な火力調整によって最高の一品に仕立て上げねばならない。この本能に直結した欲望の前では、世間体など些末なものである。

 リビングを離れ、キッチンへと向かう足取りは軽やか。恥ずかしさでくしゃくしゃになっていた顔には、普段の花中らしからぬ獰猛な ― 大体イタズラを仕掛けた小学校低学年の男子ぐらいな感じの ― 笑みが浮かんでくる。話が終わった今、最早花中を止めるものはない。

 冷蔵庫に大切に保管していた牛ステーキ肉を取り出し、またしても出てくる涎を、今度は静かに飲み込む。一旦牛ステーキ肉をまな板の上に置いたら、今度はガス台の状態をチェック。火力の強弱は何時も通り、調整時の変化も何時も通り。これなら最高の調理が可能だ。

 ステーキソースの用意良し、塩コショウなどの下味要員も準備良し。今になってGOサインを躊躇う理由など何処にもない。

 コンロの火を付け、フライパンをじっくりと加熱する。

 それから特筆するほどもない、シンプルな調理を黙々と進める事約十五分。夕刻を過ぎ、晩ご飯時を迎えた頃。

「ついに、出来たぁっ!」

 待ちに待った牛ステーキをお皿に乗せるや、花中は無意識のうちに喜びが声となって出ていた。小走りしそうになる足を、絶対に転ばないためにゆっくりと運び、既にテーブルに着いているミリオンの向かい側にそっとステーキ入りの皿を置く。

 ここまでくれば失敗なんてもう起こらない。ナイフとフォークを食器棚から取り出し、小皿にステーキソースを入れれば何時でも食べられる。

 されど、ここで肉を頬張るのはまだ早い。

 最高のディナーは、それを共に楽しむ『人』が居てこそ成り立つものだ。

「フィアちゃん、一緒に、ごはん食べよ。明日は、えと……ちゃんと、わたしも、気を付けるから。ね?」

 未だソファに寄り掛かっているフィアに、花中は恐る恐る声を掛けた。

 花中の愛らしい姿を見て少なからず機嫌は直ったが、まだまだ怪しい人間と友達になろうとした花中への不満があり、一瞬の躊躇いを見せる……なんてのは人間的な反応だ。基本過去は振り返らず、割と刹那的な感情で突っ走るのが野生動物であるフィアの基本方針。

「全く仕方ありませんねぇ。花中さんからのお誘いを断る訳にはいきませんものね!」

 殆ど即断即決で、フィアは素直に自分の欲望に従った。

 「どっちも単純ねぇ、まるで姉妹みたい」とのミリオンの独り言に花中だけが首を傾げる中、フィアはキッチンに出向き、冷蔵庫を開ける。冷蔵庫から一つのタッパーを取り出すと、次は食器棚から自分のお茶碗を持ち出し、タッパーの横へと置いた。

 そして開けたタッパーから、白い塊を取り出してころんとお茶碗の中に移す。

 フィアが取り出したのは見る人が見れば一発で分かるもの……カブトムシの幼虫だった。それも大きさ十センチに迫る、かなりのビッグサイズ。

 言うまでもなく、この幼虫は食べるためにフィアが捕まえてきたものだ。満面の笑みを浮かべながら、フィアはお茶碗とその中でじっとしているカブトムシの幼虫を持ってきて、花中のすぐ隣の席に座る。当然幼虫入りお茶碗はテーブルの上に置かれ、花中の目にも入った。

 普通ならば食欲の失せる光景だが……かれこれ、もう十ヶ月にもなる同居生活。三百回以上見てきた景色に、今更何を思うというのか。

 にっこりと無理なく花中は笑みを浮かべ、にっこりとフィアは自然に笑い返す。

「「いただきまーす♪」」

 花中とフィアの声は自然と重なり、一人と一匹は一緒に食事を始めた。フィアはカブトムシの幼虫に頭から咥え、ぶちりと真ん中辺りで噛み千切る。とろとろとした肉汁を吸い、一滴たりとも零さぬようにしているその顔は、子供のように無垢な笑顔に満ちていた。花中の正面の椅子に座るミリオンは食べ物の摂取をしないので、何も置いていないが……少しだけ、部屋の気温が下がり始めた気がした。

 花中もいよいよ実食だ。

 手に持ったフォークをステーキに突き刺し、ナイフで小さく切り分ける。手頃なサイズになったところで小皿に入れたステーキソースに浸け、ぱくりと口の中へと放り込んだ。舌に乗せた瞬間、肉の旨味が口いっぱいに広がっていく。噛めば更に肉汁が溢れ出し、例えようのない幸福が洪水のように襲い掛かった。

 理性はたった一発でノックダウン。本能に取り憑かれた花中はパクリパクリと肉を頬張る。ステーキソースの塩味が肉の旨味を一層引き立て、食欲の赴くまま白いご飯を無意識に食らっていた。横に居るフィアとの談笑や、正面のミリオンとのお喋りも合わされば、時間なんてあっという間に過ぎていく。

 気付けば、百グラムもあったお肉は花中のお腹の中に収まっていた。

「お腹いっぱい……けぷ」

 花中は小さなげっぷが出ようとしている口を手で押さえる。何時もなら食べないような量をドカッと食べたからか、少しお腹が重たい。

 だが、心はこれ以上ないほど喜んでいる。

 食べたいものを、食べたい時に、食べられたのだ。世界では今日の食べ物に困っている人々が大勢いる中、好きなものを食べられる自分がどれだけ幸福なのかは考えるまでもない。ましてやこの肉を買ったお金は、両親が自分の生活費として銀行に振り込んでくれているもの。つまり与えられたものである。

 この幸せに感謝をせねばならない。

「……ごちそうさまでした」

 湧き上がる気持ちに従って、花中は自然とその言葉を口にしていた。傍ではフィアも「ごちそーさまでーす」と言っている。彼女は感性的に食への感謝などしていない ― 何分好きでもない『命』に興味などなく、ましてや『死』を特別視しない野生生物なのだから ― だろうが……例え形だけだとしても、人の文化を模倣してくれると思うと少し嬉しい。

 或いは人間とは価値観が違い過ぎるミュータントとの付き合いが長くなったからこそ、そう思えるのかも知れないが。

「はふぅ。お腹いっぱいになったら眠くなってきましたね……明日は気張らないといけませんし早めに寝るとしますか」

 食事を終えたフィアは目許を擦りながら立ち上がると、のろのろとリビングを出て行く。眠いと言っていたので、何時もの寝床である花中の部屋 ― 正確には、そこにあるベッドの傍 ― へと向かったのだろう。

 花中の方も、普段より明らかな重労働を強いられた胃に血が集まり、脳への血流が減ったからだろうか。幸福感に満ちていた頭が、段々と朦朧としてきた。このまま椅子に寄り掛かっていたら、あっという間に夢の世界へ出発してしまいそうだ。

 それはそれで欲望を満たせて良いのだが、花中はまだお風呂に入っていない。夏ほど暑くないとはいえ、陽気な日差しの中を何十分も歩いていたのだ。感じられない程度ではあっても汗を掻いた筈。埃やらなんやらで服は、その服と触れている地肌は汚れているだろう。

 明日は『友達』と会うのだ。汚い身体で行く訳にはいくまい。

「……んしょ。お風呂、入っちゃいますね」

「はーい。ごゆっくり」

 椅子から立ち上がり、テレビを見始めたミリオンに伝えてから花中は風呂場……へ行こうとする足を慌てて止めて、いそいそと和室に向かう。パジャマを持って行かねば、風呂から出た後バスタオル一枚で歩き回らねばならないところだった。同性 ― 少なくとも精神的には間違いなく ― の友達しかいないとはいえ、裸を見られるのは少し恥ずかしい。

 何時もなら忘れたりしないのに、やはり頭に血が足りていないのかも知れない。お風呂に入ったらすぐに寝て、ちゃんと身体を休めようと花中は強く意識する。

 何しろ明日は得体の知れない『友人』と、半日は一緒に過ごさねばならないのだから。

 

 

 

 そうして迎えた翌日、日曜日。

 空は雲一つない快晴で、太陽が眩く煌めいていた。春の日差しは程々に柔らかく、ぽかぽかとした熱が気持ち良くて延々と浴びたくなる。風は仄かに吹いていて、草木が優しい音色を奏でていた。

 正しく今日は絶好のお出掛け日和。

 『友達』に誘われずとも、なんの気なしに散歩に出掛けていたかも知れない。インドア派な花中でもそう思うぐらい、素敵な陽気だ。そしてそう思っているのは花中だけではない。花中が今居る鉄道駅 ― 近所に三つある中で中間ぐらいの大きさを誇る場所だ ― 周辺に、溢れるほどではないにしても、行き交う人の姿が何時までも途切れないのがその証左だろう。

 今日は楽しく遊べそうだと、今から期待が膨らむ。

「……どうせだったら花中さんと二人きりで遊びたかったのに」

 だからこそ、一緒にやってきたフィアなんかはふて腐れているのだが。

「ちょっとー、何時まで根に持ってんのよ」

「何時までも根に持ちます。ええい一体何が変だと思ったのかそれさえ分かれば……」

「昨日からそれしか言ってないわねぇ」

 ミリオンに窘められてもフィアの態度は改められず、ミリオンは諦めたように肩を竦めた。花中なんかは、フィアに申し訳なさを覚えて苦笑いしか出来ない。

 恐らくちょっとした事で喜びはしても、フィア自身が何かしらの形で納得するまで今日はずっと不機嫌なままだろう。花中が何かを言ったところで、フィアの不機嫌ぶりはどうにもなるまい。自分の決断が原因だけに無責任だとは思うが、花中としても諦める他なかった。

 むしろ今は、これからやってくる『友達』について考えるべきか。

 花中達が駅前にやってきたのは、自発的ではなく、大月に誘われたからである。つまりこれから花中は大月と遊び、フィアとミリオンはその見張りをする訳だ。

 大月とは友達になったが、花中はまだ彼女がどんな人物なのかをよく知らない。もしかしたらフィアが警戒している通りの、危険人物だという可能性も否定出来ないのである。フィアとミリオンの『護衛』を抜けられる人間など想像も付かないが……警戒しておいて損はあるまい。

 一応服装にもその辺りの気は遣っている。上は半袖のブラウス、下は膝丈スカート。最低限の ― つまりは傍から見て『失礼』に思われない程度の ― お洒落はしつつ、いざとなったら走れるよう身軽な格好にしておいたのだ。ミュータント級と称されるほど運動音痴な花中にどこまで活かせるかは不明だが、やらないよりはマシな筈である。多分、きっと、恐らく。

「花中ちゃーん! みなさーん!」

 そうして気持ちを引き締めていたところ、ついに『彼女』の声が聞こえてきた。

 声がした方へと花中が振り返ったところ、彼女……大月が、まだまだ小さくしか見えないほど遠い場所で手を振っている姿が見えた。余程大声を出したのだろう、周囲に居た通行人達も自然と大月に視線を向けている。恥ずかしがり屋な花中としては注目を浴びるというだけで体温が上がり、頬がほんのりとだが赤くなってしまう。

 しかし本来ならそのまま俯いてしまう顔は、此度はずっと前を見据えたまま。

 服装にはあまり頓着しないタイプなのだろうか。昨日と色違いのワンピースの上にカーディガンを羽織った、比較的シンプルな格好だった。されど飾り気のない衣服は素朴な彼女によく似合っていて、むしろ純朴な魅力を引き立てている。笑顔はまるで花畑のように明るく穏やかで、見る者の心に安らぎを与えてくれるだろう。

 その無邪気で優しい微笑みに、他者を害する意思があるとは思えない。いや、ないに決まっている――――相手が『不審者』である事など呆気なく頭から抜け落ち、花中は全身から力の抜け切った無防備な体勢を晒してしまう。小さかった大月は気付けばすぐ傍まで来ていて、花中が我に返ったのは色々と後になってからだった。

「おはようございます。ふふ、今日も花中ちゃんは可愛いですわね」

「ふぇ? ……あ、へ? あ、い、いえ、そんな……あ、えと、おはようございます……」

「事実を語るのは良いですけどあまり気安く近付かないでくれませんか? 花中さんはすっかり腑抜けていますけど私はまだあなたの事は信用していませんからね」

「ええ、承知していますわ。是非、わたくしの事をしっかりと見張ってくださいませ。きっとあなたとも仲良くなれますわ」

 何事もないかのように花中を褒め、フィアの警戒心を受けてもなんのその。その明るさとおっとり加減は、昨日出会ったばかりの頃の彼女となんら変わりないように見える。

 それは初対面であるミリオンに対しても同じらしく。

「はじめまして。わたくし、大月と申します」

「これはどうもご丁寧に。私の事はミリオンとお呼びください」

「ミリオンさん、ですわね。外国の方ですの?」

「ええ。産まれと育ちはヨーロッパの方でして。日本には一年ほど前から暮らしています」

「まぁまぁ! あちらには旅行で何度か行きましたわ。もしかしたらあなた様の故郷にも行ったかも知れませんわね」

「ですね。詳しくお話を伺いたいところです」

 ミリオンは大月と表面上は親しげに、されど明らかに探りを入れるための会話を交わしていた。ミリオンも考えはフィアと同じで、大月を信用などしていないのだ。ただ、ミリオンはフィアよりも『人間的』な考えをしているだけである。

 ……先行きは不安だが、初対面同士の自己紹介は無事に終わり花中は安堵の息を吐く。

「それで? 今日は何処に行くつもりなのですか?」

「うふふ。実は花中ちゃんと一緒に行きたいところがあるんですの。あ、勿論皆様も是非ご一緒してほしいですわ」

「……言われなくてもついていくつもりです。あとあからさまに怪しい場所には花中さんを行かせませんよ」

 警戒心を隠さないフィアに、大月はやはり優雅さを崩さない。勿体ぶるように、楽しむように、言葉を発する口を思わせぶりに開閉するばかりでフィアの質問に中々答えなかった。

 しかしその遊びも、当人が言い出したくては長く続かない。大月は両腕を広げると、ワクワクを抑えきれないとばかりに語ってみせた。

 ――――次の瞬間、花中は後悔する事になる。昨日の自分が、あまりにも迂闊だったと。

 何故ならば、

「この駅の近くに美味しいステーキを食べられるお店があるんですの! 一緒に美味しいランチを楽しみましょう!」

 昨日のうちに晩ごはんはステーキだと伝えていれば、別の場所に誘ってもらえたかも知れないのだから……




花中は臆病者ですが、割と何時も隙だらけです。
むしろこれでも一年前よりは人を疑っているぐらい。
フィアと友達になる前なら、きっとほいほい大月に付いていってますね。

次回は6/3(日)投稿予定です。

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