彼女は生き物に好かれやすい   作:彼岸花ノ丘

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Birthdays8

 部屋は一辺約十五メートルの正方形。机やロッカー、壁に立て掛けてある時計、その他多様な道具が置かれていたが、部屋の広さからすれば邪魔にはならない程度のもの。天井に何個か付いている豆電球の明かりは些か弱々しいが部屋を照らしており、足下に転がる小さな空き缶なども見える状態にある。故に部屋の四辺全ての壁にある大きな窓まで移動する事は、部屋の何処に居ても難しくはない。

 一見して、という前置きは必要だが。

 手を伸ばし、枠を掴んで横にスライドさせれば簡単に開く筈……人間の目にはそう映るだろう窓達には今、無数の『糸』が張り付いていた。人間の髪の毛など比較にならないほど細いその『糸』は、例え豆電球によって周囲が照らされていようと人間の目では確認不可能。されど気付かずに触ろうものなら『糸』は自動的にのたうち、人間の脆弱な肉体を細切れにする。つまり窓からの脱出は不可能だ。

 かといって一階へと降りるための階段にも『糸』は無数に配置してある。迂闊に足を踏み入れれば数多の『糸』に襲われ、四肢と頭が胴体と離ればなれになるのを避けられまい。此処からの脱出も、人間の身には不可能と言えよう。

 そして止めに、『糸』は部屋の内側にも蜘蛛の巣のように張ってある。部屋中隙間なくではないが ― それをするのは、圧縮・制御・維持等々の問題から酷く疲れるので ― 、仮に『糸』が見えれば鬱陶しさを覚えるぐらいの量はあった。

 未来予知を行えるモノであれば、『糸』に近付けば自身が切り刻まれるビジョンを見る。故に窓にも階段にも、部屋の隅へも移動出来ない。自らが無惨な死体になると分かって、そこに突っ込むようでは予知の意味などないのだから。

 故にこちらが真っ直ぐ突撃しても、村田は逃げ道が分からずに右往左往するばかりで避けられない……とフィアは期待していた。

 流石にそれは虫の良い発想だと、フィア自身も思っていたが。

「ふっ!」

 村田は小さく、余裕のある一声を出しただけで、時速百キロオーバーで突進したフィアを易々と回避してみせた。それも垂直に二メートル近い高さまで跳び上がり、身体をぐるんと捻らせながら。

 普通の人間ならば反応すら出来ぬ刹那で、こうも軽やかに回避運動を取れるとは。されどここまでの状況は予想通りであり、フィアも驚きや悔しさを覚えなかった。

 むしろ嬉しそうに笑みを浮かべる。

「ならばこれはどうです!」

 突進する己が肉体を床のコンクリートがひび割れるほどの脚力で止めるや、フィアは軽やかに反転。大きく腕を振り上げて宙を薙ぎ払う。

 同時にフィアの手から、無数の『糸』が吐き出された。

 総数三十本以上。一本一本の隙間は十センチとなく、人がこの隙間を通り抜ける事は出来ない。この『糸』で村田を雁字搦めにして捕縛する。それがフィアの思惑だった。

 即ちこの『糸』は不可視ではあっても、切断能力は有していない。

 空中で器用に身を捩った村田が、迫り来る『糸』を踏む事は可能だった。隙間に足先が嵌まらない、適切な角度で接した『糸』を村田は力いっぱい蹴り付け、弾丸のような速さで地面目掛け『飛行』する。そこで不様にも顔面から着地してくれれば良かったのに、村田は空中にて三回転。さながらハリウッド映画のヒーローが如く、脈動的な動きでフィアの攻撃を躱してみせた。

 だが、これでもフィアの笑みは崩れない。

 高速で飛行するかのような着地。急激な立ち位置の変化は、村田に大きな隙を作り出していた。着地の衝撃を和らげるためか彼は膝を大きく曲げ、それでもなお体幹を揺さぶる運動エネルギーの大きさに抗うように両腕を広げている。

 あの体勢からの機敏な回避は出来まい。直感的に見抜いたフィアは力強く一歩踏み出し、野球の投手を彷彿とさせるフォームで掲げた手を……その手の先から伸びる『糸』を村田に叩き付けんとした! 今度こそは止めとばかりに勢い付いた『糸』は真っ直ぐにしなり、

 ()()()天井付近にあった豆電球の一つを引っ掻いてしまう。

 無論豆電球如きで止まるほど、フィアの『糸』は柔ではない。むしろ電灯の方を弾き飛ばした――――が、それが厄介。何分今まで部屋を照らされていた明かりが消えただけでなく、落ちた電球が張り巡らせていた『糸』と接触して粉砕。凶器と化した欠片が粉塵となって辺りに散ってしまった。

 辺りが暗くなったのは、元々視力が弱いフィアにとっては今更大した問題ではない。しかし粉塵となり周囲に散ったガラス片の方は無視出来なかった。センサー用の『糸』に粉塵が触れ、うざったい程の雑音(ノイズ)を伝えてきたからである。

 人間的な感覚で例えるなら、殴ろうとして振り上げた手をべたべたと触られるようなもの。不快感にフィアは顔を顰め、一瞬その身をぶるりと震わせてしまった。無論即座に闘争心で身体の震えを抑え込み、攻撃を続けようとするが……フィア達野生動物からすれば、これは明確な『隙』である。村田は既に移動しており、フィアの『糸』は虚しく床を叩くだけ。

「ふぅ、危ない危ない」

 ガラス片の粉塵が晴れた時、村田は安堵したようなわざとらしい一言を漏らした。服の擦れる音から察するに、冷や汗を拭うような仕草付きで。

 フィアが声を頼りに振り向いた先は、フィアの右斜め後方。天井にある豆電球は一つではなかったが、無数にある訳でもない。村田の立つ場所は濃厚な闇に満たされ、フィアの目では辛うじて輪郭が判断出来る程度にしか彼の姿を捉えられなかった。

 フィアは腕を組んだ体勢で村田らしき影と向き合い、不機嫌さを隠さない鼻息を吐く。

 呆れるほどに人間離れした身体能力だ。

 回避するための道筋が見えるのは、予知能力があるのだから不思議ではない。しかしそこを通れるのはまた別の問題だ。九ヶ月もの間人間社会で暮らし、日々人間を見ていたフィアから言わせれば、人間の反応速度で自分の攻撃に対処出来るとは到底思えない。優れた力、獣染みた運動神経、迷いが見えない冷静さ……あらゆる点が、フィアの知る人間の『基準』を逸脱していた。野生の獣に近いと考えた方が良い。

 これは厄介そうだと、フィアは肩を竦める。

 対する村田は、そんなフィアの考えを見通すかのように、余裕ぶった眼差しを向けてきた。例え暗くてハッキリとは見えずとも、野生の本能で視線の『色』ぐらいは分かる。()()()な目付きにフィアは顔を顰めるが、村田が態度を改める気配はない。それがますますフィアの気持ちを逆撫でする。

「……正しく虫けらですね。ちょこまか飛び回るしか能がないところが特に」

「その虫けら一匹捕まえられないお前は、とんだマヌケだな」

「あまり調子に乗らないでくれますか? あなたは逃げ回る事しか出来ないのですから」

「なら、少しは反撃してみるか」

 ニタリとした笑みを浮かべた、瞬間、村田は懐から素早く黒い塊を二つ取り出した。

 それは所謂拳銃、銃に詳しい者ならばベレッタと呼ばれるものと分かる一品。一発で人の命を奪える凶器だ。

 ただしフィアにとっては文字通り豆鉄砲と大差ない、武器という言葉すら似付かわしくない小道具である。コイツも結局これに頼るのかと、呆れを通り越して憐れみすら覚えた。が、そのような甘い考えを抱いたのは刹那の時でしかない。

 フィアの野生の本能は、村田の銃が僅かだがフィアから()()()方角を狙っていたのを見逃さなかったのだから。

 どうせろくでもない事を企んでいるに違いない。即座にそのような判断を下したフィアの警戒心を嘲笑うように、村田の二丁拳銃は火を噴いた。

 撃ち出される太さ九ミリの弾丸二つ。人間ならば容易く致命傷を与えるその金属の塊は、その一つがフィアの顔面すれすれを掠める軌道で飛んでいく

「ふんっ!」

 のを、フィアは見逃さなかった。

 正確にはフィアの手により張り巡らせた『糸』が、であるが。村田の『狼藉』を予感したフィアは周囲に無数の『糸』を展開。通った際の空気の振動を感知し、弾丸の軌道を特定する。

 そして殆ど反射的に繰り出した拳を、掠めようとする弾丸に叩き付けた!

 人間では決して出せない超音速の鉄拳は、高々秒速九百メートルの弾丸とは比較にならないエネルギーを纏う。真っ向からぶち当たった弾丸はひしゃげ、一部粉々になりながらもその運動方向(ベクトル)を反転。

 跳ね返された弾丸は射手である村田目掛け、銃口から放たれた時以上の速さで飛んでいく! 哀れ、銃で撃たれたら死ぬ事もある人間の村田は、

 握った銃をほんの少しだけ傾けた。

 その動きを見逃さなかったフィアだったが、されど気付いた時にはもう遅い。飛んでいった弾丸は銃にぶつかると、甲高い音を奏でながら跳ねた。

 跳弾だ。無論全身を分厚い水で完全に覆っているフィアに、跳弾によって背後から撃ち抜こうとしても無駄である。しかし問題はそんな事ではない……問題は、フィアの目では弾丸が見えないという事。反射神経こそ弾速にも対応可能でも、その目は薄暗い場所の『小物』を捉えるには向いていない。『糸』を用いたセンサーは空気の振動を探知する都合、弾丸が近くを通ってくれねば反応してくれない代物だ。跳ね回る弾丸をフィアは見失ってしまう。

 故に、跳ねた弾の一つが豆電球を撃ち抜くのを防げない。頭上から降り注ぐガラス片が弾丸の所在を教えてくれたが最早後の祭り。また少し、部屋が暗くなる。

 そして『糸』にもフィアにも当たらなかったもう一発は、壁に掛けてあった時計の留め具にでも当たったらしい。金属が弾けるような音と共に時計は落ち、自らの部品と埃を撒き散らす。舞い上がった埃が張り巡らせた『糸』に纏わり付き、フィアの脳にどうでも良い雑音を発してきた。

「ちっ……目眩ましですか。小賢しい」

 村田の狙いを察し、フィアは忌々しげにぼやく。そのフィアのぼやきに「正解だ」とでも答えているのか、村田の銃が再度火を噴いた。

 銃弾が自分目掛けて飛んでくるならまだしも、全く『頓珍漢』な方向に行くとなればいくらフィアでも止められない。弾丸は壁や床で跳ね返り、次々と室内のものを壊していく。残っていた最後の豆電球も壊され、部屋の中に真夜中の暗さが戻ってしまう。

 それでもまだ足りないとばかりに、村田は銃を撃っている。立て掛けられていたものが倒れ、朦々と舞った粉塵が部屋を満たした。この状態では『糸』で周囲の気配を探る事も難しい。おまけに変な、それでいて強烈な悪臭も漂い始めた。何かしらの薬品がぶちまけられたのだろうか。これでは鼻も使いたくない。

 視覚、嗅覚、触覚……次々と封じられる五感。村田の狙いが自分(フィア)の感覚器への妨害なのは明白だった。無論その妨害は単なる嫌がらせではあるまい。恐らく『逃げる』ための下準備だろう。

 あれだけの啖呵を切りながら、おめおめと逃げるのか? 『予知』という圧倒的な力を持ちながら、結局戦うのではなく逃げようというのか? 人間ならばそう思うかも知れない。しかしフィアの本能は、現状を正確に分析していた。

 予知など自分にとってなんの脅威でもない。

 そんなフィアの考えは、強がりでもなければ過信でもない。というのも予知能力を持った程度では人間がフィアに、いや、ミュータントに勝つ事など不可能だからである。

 例えば野良猫(ミィ)ならば、人間の神経伝達速度を凌駕した超音速行動によって予知による回避すら許さない。仮に予知によって前もって回避したところで、その動作を見て、考えて、軌道修正出来てしまうのがミィである。基本的な速さが違い過ぎるために予知などなんの役にも立たない。

 ミリオンならば、目視不能レベルの拡散状態で体内に易々と忍び込み、内側から破壊するだろう。予知など関係ない。逃げる事も防ぐ事も耐える事も許さない、理不尽な攻撃が可能だ。

 そしてフィアは、その身を包む完全無欠の『水』があらゆる攻撃を防ぐ。銃弾? 鉄骨? そんなものがなんだと言うのか、分子レベルで制御された防壁に、文字通り原子一つ通るほどの穴すらない。建物の崩落を誘発する方法が『予知』出来たところで、方法すらない壁を破る事は不可能なのだ。

 即ち村田にはフィアを倒せない――――その事実を最も理解しているのは、他ならぬ村田自身である。絶え間なく見ている『未来』のイメージが、その事実をしつこいぐらい突き付けている筈なのだから。

 彼の勝利条件は『逃げ果せる』事だけである。そして性質の悪い事に、彼を捕まえて警察に突き出したいフィアとしては、村田の勝利条件はそっくりそのまま敗北条件となってしまう。仮にここで逃げられたとしても、匂いを辿ればまた追えるだろうが……予知を暴いてしまった事で村田の警戒心は大きく高まっている筈。捕まえるのは今まで以上に困難だろう。何より、時刻的に『今日』が花中の誕生日だ。追い駆けっこをしている暇なんてない。何がなんでも奴の目論見を許す訳にはいかなかった。

 しかし奴は、一体どうやってこの危機的状況を切り抜けるつもりなのか?

 焦る必要はない。窓や階段には既に『糸』が設置してある。暗闇の中だろうが粉塵渦巻く中だろうが接触したものをなんでもかんでも切り裂く無差別兵器であり、出口を塞いでいる状況は変わらないのだ。されどのんびりもしていられない。未だ無駄な銃撃を止めず、うろうろと練り歩く村田に、まさかなんの作戦もない筈がないのだから。

 果たして奴は何を企んでいる? 何を狙っている? 粉塵が未だ晴れない中更に『糸』を繰り出し、鼻が少し痛いのも我慢して周囲の臭いを嗅ぎ続ける。足音と跳弾に耳を傾け、些末な変化も逃さない。視覚と味覚以外を研ぎ澄まし、数多の情報を取り込み続け――――

 ついに変化を察知した。

 ただし『糸』でも鼻でも耳でもなく、足下からだが。

「なんです? 揺れ……!?」

 自身の発した言葉で全てを察するフィア。察したが、一手遅い。

 微かに感じた程度の揺れは、次の瞬間には大地震が如く規模となったのだから!

「なっ!? こんな時に地震……!?」

「はっはっはっ! 気付かなかったのか!」

 最早隠す必要もないとばかりに、上機嫌に笑う村田。彼の態度が全てを物語っていた。

 まさか作戦がない筈もない――――その()()()だ。

 村田は何も狙ってなどいなかった。彼の様々な行動には布石どころか意味すらなく、ただ待っていただけなのだ……この建物が崩れるほどの地震を。

 なんと小賢しい狙いに、フィアは思わず歯噛みしながら睨み付ける。しかし今は苛立ちを覚える暇すら惜しい。

 建物を襲う揺れの規模はかなりのもの。そして未だに止まない、止む気配がない。震度という人間が用いる尺度には詳しくないので正確な値は出せないが……ミシミシと壁や床が音を鳴らし、歪んだ天井から粉塵が落ちてくる状況は明らかに危険だろう。

 恐らくこのままでは建物の倒壊は確実。フィアからすればこんなちっぽけな建物の倒壊に巻き込まれてもなんともない、が、建物が壊れたなら壁に無数の穴が開く事になる。フィアが張り巡らせている『糸』はあくまで今この瞬間にある出口だけを塞いでいる状況だ。新しく大穴が空けば、村田はそこから逃げ出せる。

 村田の思惑を阻止する方法は二つ。一つは穴が出来そうな場所を予め塞ぐ事であり、もう一つは建物が壊れる事自体を防ぐ事。

 本能的にフィアが選んだのは、より野蛮で力尽くの方法……能力で、無理やりにでも倒壊を防ぐ方だ!

「この私を嘗めるんじゃありませんよォッ!」

 フィアは全身から無数の『糸』を展開し、建物全体にくまなく伸ばしていく! 一本一本は人の目にも見えない細さだが、いずれも水を超高密度で固めたもの。何十何百と這わせれば、内側に向けて流れ込もうとするコンクリートの壁を支えるなど造作もない。

 見事建物の倒壊を食い止め、フィアはしてやったり……などと笑みを浮かべる余裕はなかった。

 揺れは収まるどころか、ますます激しさを増している。ただの地震がこんな揺れ方をするとは ― 大地震など経験した事もないが、本能か花中の知識からか『知って』はいる ― 思えない。何が起きているのか感覚器をフル稼働させたところフィアは()()()()()()も、事態の進行はフィアの思考よりも早かった。

 建物全体が傾き始めたのである。

 間違いない。大地が揺れているのではなく、地面が陥没し、その穴にこの建物は落ちているのだ! 最悪の状況だった事が現実という形で立証され、フィアは一層悔しさで唇を噛み締める。

 そう、最悪なのだ。ただの揺れによって壊れるのを防ぐ事すら、かなり強引な力技でなんとかしていたのだ。天井を支え、傾く柱を支え……『内側』に向かう力を押し留めていただけ。壁の一部が『外側』に倒れそうになった時には反対側の壁を押し、コンクリート伝いに引っ張って力の向きを変えていたのである。例えるなら、重しの乗った天秤の反対側を指で押さえて無理やり均衡を保つようなもの。

 だが建物の土台自体が崩れては、この方法では瓦解を止められない。掛かる力は一方向ではなく複数。こうなると向き合った壁が同時に『外側』へと倒れそうになる事もあり得て、押して引っ張れる箇所がなくなってしまうからだ。

 十数秒と崩壊を食い止めただけでも御の字。人間には為し得ない、超越的な技なのは変わりない。されど完全に抑える事は叶わず。

 左右の壁に掛かった力により天井が、さながら卵を割るかのように裂けてしまった。

「っ!」

「その反応は、既に見えてるぜ」

 即座に開いた穴に『糸』を伸ばしたフィアだが、ここで村田が動き出す。

 天井はフィアが『糸』によって支えていたが、集中力の問題で全体にくまなく『糸』を敷き詰めていた訳ではない。むしろ面積的には僅かなもので、割れた天井の瓦礫が続々と落ちてくる。

 村田は人間離れした身体能力を活かし、この瓦礫の上に跳び乗ったのだ。予知を用いているのだろう、繰り返す跳躍に殆ど間はなく、難なくその身を高く登らせていく。フィアも逃すまいと手を打とうとするが、建物の崩壊に意識を取られ対応が間に合わない。

「はっはっはっ! 俺の勝ちだぁ!」

 高笑いを上げながら、村田はついにフィアが作り上げた『監獄』の外……建物の屋根の上に到達した。最早この場に村田の行動を縛る『糸』はない。

 崩壊を続ける屋根に平静と立ちながら、彼は意気揚々と前を見据えて

「は?」

 唖然とした声を漏らした。

 足場は今も崩れている。このまま立っていたら、何時崩落に巻き込まれるか分かったものではない。いや、何時までも留まっていたら、下に居る『怪物』に追い付かれる……例え予知がなくても分かる危機が迫る中、しかしそれでも村田はその場で立ち尽くしていた。捨てられた子犬のようにカタカタと身体を震わせ、酸欠に陥った金魚のように口をパクパクとさせるばかり。走るどころか歩きもしない。ただただその場に留まり続ける。

 やがて、建物を襲う揺れは収まる。建物は壁が大きく崩れ、物理学的にどうして形を保てているのか分からないぐらいボロボロになっていた。

 その崩落を能力で食い止めているフィアが、崩れ落ちて出来た屋根の大穴からゆっくりと身を乗り出す。足下から多量の水を出して身体を持ち上げる様は、まるで浮遊するかのよう。先程までの焦りは何処へやら、今はもう余裕の笑みを浮かべていた。

「……おんやぁ? どうしましたかぁ?」

 ねっとりと、嫌みったらしく、フィアは村田に呼び掛ける。ついにフィアが迫ってきたというのに、それでも村田は逃げ出さない。精々油が切れたオモチャのようなぎこちない動きで、背後に迫ったフィアの方へと振り返るだけ。

「て、めぇ……なん……だよアレは……!?」

 ようやく出てきた言葉も明らかに動揺していて、粗暴な言い回しに反して気迫はまるで感じられなかった。

 当然、ただでさえ自信満々なフィアがこんなしょぼくれた脅しに怯む筈もない。むしろくすくすと楽しそうに笑い、村田の感情を逆撫でする。

 ただしフィアには、村田を馬鹿にするつもりなどこれっぽっちもない。彼女が笑っているのは、嬉しいからである。何しろ自分の『策』が良い感じに決まったのだから……あれを策と呼べるなら、と前置きはすべきだろうが。

 未来予知で攻撃が察知される。優れた身体能力で尽く躱される。

 このような敵を倒すにはどうすれば良いのか? フィアが導き出した答えはとてもシンプルだ。察知したところで意味がない、身体能力など役に立たない圧倒的に大きな力で叩き潰す――――強引かつ出鱈目な、力によるごり押し。

 フィアは村田の予知の『範囲外』である周囲三百メートルよりも離れた位置に、高さ五十メートルを超える巨大な水の壁をおっ立てて包囲したのである。

 水壁は隠れる事もなく市街地のど真ん中に存在し、地上の建物を容赦なく呑み込んでいた。目撃者がどれだけ出ているか? 被害はどれほど大きいか? 想像も付かない。

 というより、フィアはそんな事など何も考えていなかったが。

「むふん。どうですビビりましたか? 総量百万トンの水で作った壁は圧巻でしょう? いやはや操る量だけならまだまだ余裕がありますけどひっそり静かにとなると流石に疲れますねぇ。こーいう細かい作業は苦手なんですよ」

「ひ、百……!? あ、あれは、お前が作ったのか!?」

「その通り。私がこのアジトに乗り込んだ頃から準備をしていました。とはいえ実は一つやらかしてしまいまして。あれだけの水を集めるために近くの上下水道から水を引っ張ってたのですけどこれが思ったより少なくて。なのでちょっと地下水に手を付けてしまいました」

「地下水って……まさ、か、さっきの揺れは」

「はい私が原因です。ちょーっと地下水を勢い良く吸い上げ過ぎたみたいで地盤沈下を起こしてしまったようでして……あなた()()()()()()のですかぁ?」

 ケラケラと笑いながら、フィアはおちょくるように問い詰める。掴んだ幸運が相手の掌の上だったと知り、村田は一層顔を引き攣らせた。

 否、彼を()()()()のはそれだけが原因ではない。

 日本の一般家庭の水使用量は、一人当たり一日二百五十~三百リットル。仮に三百リットルとした場合、フィアが持ち出した水は三百万人以上の人々が一日に必要とする水とほぼ同量だ。東京都全域での一日平均水使用量の二十五パーセントに相当すると言い換えても良い。村田はここまで詳細な知識は持ち合わせていなかったが、百万トンという水量が如何に膨大であるかは分かる。深夜とはいえフィアがアジトを襲撃してからここまでの時間……数分か十数分の間にこれほどの水を動かせば、社会に混乱をもたらすのは避けられない。恐らく今頃病院や警察、消防などの組織はてんやわんやだろう。『犠牲者』だって出ているかも知れない。

 当然このような事態の再発を防止せねばならない。人間の調査が入り、徹底的に原因を究明するに決まっている。そうなればきっと、フィアの存在が明らかとなる筈だ。

 そして社会がこのような『危険生物』を、野放しに出来る訳がない。異星生命体の襲来により、人々は生命が文明にとってどれほど危険であるのかを知ってしまったのだから。

「お前馬鹿か!? こんな、こんなに水を持ってきて、騒ぎになったら……」

「なったらなんだと言うのです? 常識なんていう自分達の思い込みを信じて疑わない人間如きには私がしたなんて分かりませんよ。仮に分かったところで別に困りませんし」

「はぁっ!? 困らないって、警察、いや、自衛隊が」

「ですから困らないと言っているのです。人間なんて雑魚なんですから何万人来ようと捻り潰してやりますよ」

 平然と答えるフィアに、村田はパクパクと口を空回りさせる。その滑稽な姿を見てフィアはまたゲラゲラと無邪気に笑い、村田を馬鹿にした。

 やはり所詮『人間』である。

 自分の力に溺れる一方、本気で人間を敵に回すのは不味いと無意識に思っているのだろう。でなければ、同業者は殺す癖に、国家権力の一つである警察から逃げる訳がない。未来予知という圧倒的な力を得ながら、それでも尚人間に負ける可能性を考えているのだ。本当に凄い力を手にしたならそんな事考える訳がない……自分(フィア)のように。

 尤も『あっち』は自分と同じ考えかも知れないが。

「さぁて今からあそこにある水の壁をきゅっと引き寄せてあなたをぶっ潰そうと思うのですが何か遺言とかはありますか? ああ殺すつもりはありませんよでもほらもしかしたら加減を間違うかも知れないので念のために」

 色々考えつつもまずは目当ての輩を確保しようと、フィアは開いた掌を村田に見せる。フィアの考えを言葉で理解したのか、それとも『高さ五十メートルの水塊が四方八方隙間なく押し寄せ、自分を丸呑みにする』光景を見てしまったのか。村田の顔は今や情けなさを通り越して滑稽なぐらい引き攣っていた。だらだらと冷や汗を流し、認めたくない『未来』を前にして青ざめている。口は餌を前にした雛鳥よりも必死にパクつき、何かを言おうとしている様子だ。

 その『言いたい事』は喉が震えて中々出てこなかったが、ごくりと息を飲んだ拍子に少しは回復したのか。今度はべらべらと饒舌に語り始めた。

「ま、待て! その、話し合おう! そうだ、お前は何が目的なんだ!? 欲しいものがあるならなんでも渡す! 薬か!? それとも金か!?」

 村田は尻餅を撞き、後退りしながら命乞いをしてくる。

 フィアは村田からの問いに、ふむ、と頷きながら答えた。

「目的が何かと言ったらまぁお金ですね。あなたを警察に突き出して賞金をもらうつもりです」

「な、なら金は俺が幾らでも出してやる! 幾らだ!? 百万か! 二百万……いや、い、一千万! 一千万出そう! どうだ!」

「ほほーう。一千万ですか。それはかなりの大金ですね」

 村田の必死な提案に、フィアは少し考え込む。

 悪くない提案である。フィアはお金を『合法的』に稼ぐ手段として犯罪者の確保を選んだのであり、お金がもらえるなら村田(犯罪者)に拘る必要はないのだ。

 無論村田を野放しにすれば、彼は再び違法薬物の売買で利益を上げるだろう。精神を破壊する薬により、何百何千もの人間の人生が狂わされる……それぐらいはフィアにも予想が付く。が、別に人間が死のうが破滅しようがどうでも良い。そんなのは薬を使う人間の自業自得であり、薬物中毒者に殺される人間など興味すらないのだから。

 だから村田をこのまま逃がしても、フィア的には何も困らない。

「うーむ成程それはそれで良い話ですね」

 フィアは顎を擦りながら、肯定的な答えを返した。

 途端、村田は子供のように人懐っこい笑みを浮かべる。

「だ、だろ! だから……」

「じゃあ予知してみてください」

「……え?」

「ですから予知してみてください。わざわざ答えなくてもあなたなら分かるでしょう?」

 フィアの言いたい事がよく分からなかったか。村田はしばし呆けたように固まっていた。されどしばらくして、その目に涙を浮かべ、ズボンの股間部分をぐっしょりと濡らす。

 よく分からなかったから、きっとフィアの言う通り予知したのだろう。予知をしたから、見えてしまったのだ。

 押し寄せる大量の水が、自分を丸呑みにするビジョンが。

 そうして身動きが取れなくなった自分に降り注ぐ、岩をも砕くフィアの鉄拳が。

「確かにあなたからお金をもらうのも悪くはないでしょう。ですが逆にあなたからもらわねばならない理由もありませんからね。ぶっちゃけあなたには色々やられてムカついているのでちょっとボコらせなさい」

 そして告げられる、フィアの底なしに身勝手な動機。

 村田は裂けんばかりに口を大きく開けて、

 押し寄せる洪水の大合唱が、彼のちっぽけな叫びを飲み干してしまうのだった。

 

 

 

「……えと……つまり?」

「つまりこの私がこの町に巣くう巨悪を打ち倒したのですよ! むふんっ!」

 パジャマ姿の花中に、フィアは胸を張りながら自慢した。

 時間は午前三時半。星明かりしか届いていない地上は真っ暗闇に包まれ、街灯なしでは足下すら満足に見えない状態にある。前日の昼間に蓄えた熱は放射冷却で粗方宇宙に逃げており、かなり寒い。そもそもこの時間、大半の人間は寝ている。しかも良い感じに深い眠りに入っている頃合いだ。

 このような時間に、花中は外に呼び出された。おまけに現在なんだか色々な『目撃情報』がネット上を飛び交っている。曰く、廃ビルが並ぶ区画で大規模な地盤沈下が起きたとか、巨大な津波が町中に突如現れたとか、○○市全域で原因不明の断水が発生したとか……絶対、目の前で楽しそうにしている友達(フィア)が何かやらかしている。

 花中はそんな理由から口元をひくつかせていたが、フィアは全く感知していない。何故なら花中はその事について語らなかったから。

 花中は町の平和を守っているお巡りさんに呼び出され、地域の安全を守る拠点である交番に居るのだ。迂闊な事は言えないのである。

「いやー、なんというかごめんなぁ。この子が麻薬組織のメンバーを捕まえたって言って、本当に捕まえてきたものだからさ。それでまぁ、住所とか名前が必要になったけど、そーいうのよく分からないから一緒に住んでる人を呼んでほしいって言われて」

「あ、はい。その、すみません。この子、色々複雑な事情がありまして……」

 花中を呼び付けた若い警察官――――『あの交番』でクリーチャーズの情報をフィアに話してしまった篠田は、申し訳なさそうに謝りながら花中に事情を話した。花中の方もお互い様だとばかりに機嫌を悪くする事もなく、ぺこぺこと頭を下げる。

 フィアはそんな二人の姿を不思議に思う。花中は悪い事をしてないのに何故謝るのか。篠田の方も、花中を呼んでくれと頼んだのは自分なのに何故申し訳なさそうなのか。

 人間達の支離滅裂な言動に、事の元凶であるフィアは暢気に首を傾げた。いや、変なのは花中達だけではない。フィア達から少し離れた位置……そこに居る数名の警察官達 ― なんでも本庁から派遣された応援の人達らしい ― も戸惑った様子だ。警察官達の足下には伸びた犯罪者『クリーチャーズ』のメンバーが転がっている。探し求めていた輩を引き渡されたのだから素直に喜べば良いのにどうして困ったような顔をしているのか。

 全く人間とは不可解な生き物だ。人間の考え方など特に興味もないので、フィアはさらっとそう思うだけだった。

 それよりも、である。

「まぁ、とりあえず君の名前と住所、それと連絡先は書いてくれたし、これで大丈夫。聴取を進める中で時々話を訊きに行くと思うけど、あとお願いするのはそれぐらいの筈だよ」

 花中にお礼を伝える篠田。『クリーチャーズ』のメンバーを拘束していた他の警察官達も、ぞろぞろと帰ろうとする。

 彼等をこのまま帰してはならない。フィアは駆け足で、花中と話していた篠田の傍へと駆け寄った。

 そもそもフィアにとって『クリーチャーズ』の壊滅などどうでも良いのである。一瞬怒りで忘れかけていたが、あくまで花中への誕生日プレゼント、それを買うためのお金を手に入れるために犯罪者を捕まえただけだ。

 だから訊かねばならない。

「すみません。一つ訊きたい事があるのですが」

 篠田の裾を引っ張り、フィアは能天気に呼び止める。篠田はすぐに振り返り、犯罪組織壊滅という偉業を成し遂げたフィアに笑みを返した。

「うん、なんだい?」

「コイツらを捕まえたら賞金をもらえるってあなた言ってましたよね?」

「え? ……あ、あー、金一封の事? まぁ、多分もらえるよ。うん」

「ではそのお金は何時頃もらえるのですか? あなたはお金を持ってなさそうですから今すぐ寄越せとは言いませんけど今日の何時ぐらいになりますかね?」

「ふぃ、フィアちゃん!?」

 あまりにも不躾な事を、それでいて無邪気に尋ねるフィアに、花中は慌ててその口を一度止めようとする。

 されど篠田は、フィアがお金目当てで犯罪者を捕まえようとしている事を既に知っている身。一瞬キョトンとしつつも、彼は快活に笑った。

「はっはっ、流石に今日は無理だよ。捕まえた君にこれを言うのは心苦しいけど、まだ彼等は容疑者であって、犯罪者じゃないんだ。彼等が懐にしまっていた物が本当に違法薬物なのかも確認しないといけないし。まぁ、個人的には確定だとは思うけど、そういった手続きを済ませて、初めて『あなたの協力のお陰で犯人を逮捕出来ました』と言える訳さ」

「えっ……では一体何時……?」

「うーん。会計とかの問題もあるから、そこまで遅くはならないと思うけど、一週間後ぐらいじゃないかなぁ」

「いっ……!?」

 警察官から教えられた内容に、フィアは顔を一気に青くした。

 お金の受け渡しなんて花中の買い物風景ぐらいしか知らず、てっきりポンッと渡してもらえるものだと思っていた。まさかそんなに時間が掛かるとは思っておらず、故に『犯罪者を捕まえる』以外にお金を稼ぐ方法など考えていない。

 つまり、このままでは花中へのプレゼントが買えない。

「他に質問はないかな? それじゃあ、失礼するよ」

 唖然とするフィアを残し、篠田はそそくさとこの場を後にしてしまう。慌ててフィアは手を伸ばしたが、しかし捕まえたところでどうすれば良いのか。

 フィアの手は篠田を捕まえられず、他の警察官達もすんなりとパトカーに乗り込み、『クリーチャーズ』と共に去ってしまった。残されたフィアは呆然としながら、パトカーが突入した夜の闇を見つめ続ける。

「……どうしたの? フィアちゃん?」

 尤も、花中に名前を呼ばれた瞬間ビクリと飛び跳ね、我を取り戻したが。

「えっ!? どどどうもしませんけど!?」

「えと、何か悩みがある、なら、話ぐらいは、聞けると、思うけど……」

「うぅぅぅ……」

 どうやら自分が悩んでいる事を見抜き、声を掛けてきたらしい。それ自体は構わないのだが、悩みの『原因』こそが花中な訳で。

 どうせならもう正直に全部話してしまおうか、ともフィアは考える。考えるのだが……何故か口が上手く動かない。

 誕生日プレゼントを買うためのお金がない、そのお金を手に入れようとしたけど上手くいかなかった、だから誕生日プレゼントは買えない。どれも本当の事だ。本当の事だから、きっと花中はガッカリする。ミリオン曰く、人間は誕生日パーティーにプレゼントをもらうものだと思っているようなのだから。

 落ち込む花中は好きじゃない。好きじゃないから見たくない。

「なんでもないです! 私ちょっとまだやる事がありますのでこれにて失敬!」

 だからフィアはきっぱり誤魔化すや、追求される前に猛然とこの場を後にした。自動車の何倍も速い、とんでもないスピードで。

 そんな自分の背中を不思議そうに、そして寂しそうに見つめている、花中の目に気付かぬまま……




はい、予想通り大失敗です(2話目で懸念済み)。
花中の誕生日はちゃんと祝えるのか!? 次回に続く。

あ、ついでに村田の力についても明かされます。

次回は3/25(日)投稿予定です。

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