彼女は生き物に好かれやすい   作:彼岸花ノ丘

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Birthdays7

「……やっと振りきれたか。思っていたよりも面倒だったが、それも終わりだな」

 街灯の明かりが届かない、鬱屈とした宵闇の満ちる路地を歩きながら『彼』は小さくそうぼやいた。見上げた空には星が散らばり、辺りがどれだけ暗いかを物語る。身体を解すように肩を回し、彼は更に路地の奥へと進んでいく。

 路地の奥はコンクリートで作られたビルばかりが建ち並ぶ、風情のない光景。その上進むほど建物の劣化が目立ち、人の気配は全く感じられない。最早不埒者すら寄り付かない、廃れた区画だった。

 やがて古びたビルの間に建つ、二階建てのプレハブ小屋が見えてくる。

 広さは小さな事務室ぐらいあるだろうか。十数人も入れば『賑やかさ』を感じられそうである。小屋に明かりは点いておらず、物音すらない小屋から人の気配は感じられない。建物の壁は至る所で塗装が剥げており、まだら模様のようになっている。夜中の暗さと相まって、一見廃屋なのではと疑いたくなる様相を晒していた。

 そんな小屋に近付いた『彼』は、あたかも自室に入るかのように躊躇なく扉のノブを回し、室内へ足を踏み入れる。明かりのない部屋は深夜の暗闇に閉ざされており、常人の目には置かれている物の輪郭すら映らない。されど『彼』の歩みに迷いはなく、見えない物が見えているかのように、ふらりふらりと軽やかに奥へと進んでいく。

「戻ったぞ」

 そして小屋の真ん中辺りまで達すると、ぶっきらぼうな言葉を発した。

 途端、部屋に明かりが灯される。部屋に置かれていたのは簡素なデスクが数台とその付属である椅子、加えて大きな『麻袋』が十数個。ロッカーなどもあるが、今にも扉が外れそうなぐらいボロボロ。コンクリートが剥き出しになっている床の上にあるのはそれぐらいで、非常に殺風景な部屋だった。奥には二階へと続く階段があるものの、その階段の作りも質素で、相撲取りほどの重量が足を掛ければ敢えなく潰れそうである。

 そんな中でも人というのは存外隠れられるものらしく、ロッカーから、机の下から、麻袋の影から……ぞろぞろと八人の人間が出てきた。

 現れた人間達はいずれも二十代前半、いや、十代後半ぐらいの若者だった。男も女も居たが、全員が派手で高圧的な ― ドクロマークがでかでかと描かれた服を着ていたり、髪を金髪に染めて刺々しくおっ立てていたり ― 格好で、如何にも不良らしい風体をしている。ただし顔に浮かべているのは人懐っこい笑顔で、安堵したようにも見える、些か気迫に欠けたものだったが。

「村田さん! おかえりなさい! 今回もやれましたか?」

「ああ、当然だろ」

「流石です!」

 物陰から出てきた連中の一人 ― 他の面子と比べれば『清潔』な格好をした、坊主頭の男 ― が駆け寄りながら声を掛けると、『彼』こと村田は事もなげに答えた。

「それより、お前らの方こそちゃんとやったんだよな?」

「ええ、抜かりなく。事務所にあったヤクは全て、しっかり持ち運んであります」

 村田に問われた坊主頭の男が顎を動かしながら答えると、髪を茶色く染めた若い男二人がいそいそと村田の傍までやってきた。彼等もまた他の面子と同じく派手な格好をしているが、その背中には大きなリュックサックが背負われていた。

 茶髪の男達はリュックからチャック付きの大きなビニール袋を幾つか取り出し、机の上に並べていく。総数にして二十袋、重さにして約三十キロほど。中身は、一見して小麦粉のようにも見える白い粉。

 しかし断じて小麦粉のような『安全』なものではない。その粉こそが『ヤク』……人の精神と命を脅かす薬物・ブレインハックなのだから。

 つまりは此処がブレインハックの元締めである『クリーチャーズ』の拠点であり、此処に居る若者達は構成員であって――――村田は、そのまとめ役なのだ。

 村田は並べられたビニール袋を見て、満足げに頷く。反面、坊主頭の男の方は些か不服そうな顔をしていた。

「しかし事務所を爆破するなんて……」

「足止めが必要だったからな。お陰で、ヤクは全部持ち出せただろう?」

「事務所の費用です。裏で取引しましたから、手に入れるのに三千万もしたんですよ? まだ一週間も使ってなかったのに……」

 余程惜しいと思っているのか、坊主頭の男は小さくないため息を吐く。されど村田の方は小馬鹿にした笑みを浮かべるだけ。大した問題ではないと言わんばかりだ。

 それでも坊主頭の男の表情が優れないと、村田は不意に彼の肩を抱き寄せた。突然の村田の行動に坊主頭の男はビクリと身体を震わせ、顔を強張らせたが、村田は気にも留めていない様子。にたりと笑みを見せながら、坊主頭の男の耳元で語る。

「三千万なんて端金だろ。此処に持ち込んだヤクを全部捌けば幾らになる? 商売はまだまだ続けるんだ、幾らでも損害は賄える。前向きに行こうじゃねぇか」

「は、はぁ。あ、いえ、村田さんがそう言うのでしたら、異論はありやせん。失礼しました」

「分かれば良いんだ、分かれば。俺は物分かりの良い奴は好きだぜ?」

 上機嫌に笑いながら、村田は坊主頭の男から離れる。坊主頭の男も自由になると、途端に安堵したような柔らかな笑みを浮かべた。

 にこやかな笑みを浮かべながら、二人は実に親しげに笑い合う。周りで見ていた仲間達もまるで笑いが伝染したかのように、年相応の明るい笑みを浮かべた。

「だから、懐にしまったブツはさっさと戻しな」

 ただし村田がこの一言を告げるまでの短い間だが。

 坊主頭の男は笑みを強張らせ、それから油の切れたオモチャのようなぎこちなさで自らの周りを見渡す。先程まで笑い合っていた仲間達に、もう笑みはない。冷めきった眼差しが四方八方から彼を射抜いていた。

 坊主頭の男は一気に顔を青くしながら、ズボンのポケットに手を突っ込む。それから躊躇うような、鈍い手付きで出した手には小さなビニール袋が握られていた。

 中身は白い粉。

 正確に言えば茶髪の男が取り出したビニール袋の中身と同じ、ブレインハックだった。量にして百グラムもないが、これだけで末端価格にして九百万は下らない。

 坊主頭の男は着服しようとしたのだ。そして村田はそれを見抜いたのである。推理も何もせず、まるで犯行の瞬間を()()()()かのように。

「よーし。さっきも言ったが、俺は物分かりの良い奴は好きだ。毎日金の成る木を見てりゃぁ、自分でも収穫したくなるよな……だから半殺しで勘弁してやる。ま、首から下が動かなくなるかも知れねぇが」

 村田から告げられた『処罰』の内容に、坊主頭の男はガタガタ震えながら腰砕けになる。されど裏切り者に同情は集まらない。がたいの良い男が二人出てきて、坊主頭の男の腕を掴み、部屋の隅まで引き摺っていった。

「んじゃ、事務作業は次からお前らが担当な。アイツの仕事は見ていたからやり方は分かるな?」

 そして村田は坊主頭の男の後任として、リュックを背負った茶髪の男達を任命した。茶髪の男達は驚いたように目を見開き、しかしすぐに背筋を伸ばしてこくりと二人同時に頷く。

「へ、へい」

「が、頑張ります」

「仕事に支障が出ない程度にやってくれりゃ良いさ。ああ、それからこの後ちょっと付き合ってもらうぞ。俺の『信用』を裏切ったらどうなるか、しっかり教育しとかねぇとな」

 笑う村田に、茶髪の男達は引き攣った笑みを浮かべる。裏切りは許さずとも、『惨劇』までは見たくないのだろう。

 かくして裏切り者を見付け出し、制裁を下すと決めた村田。組織の規律を守った事に満足したかのように頷き、村田は部屋の奥にある階段目指して歩き出した。

 が、その歩みはほんの数歩進んだだけで止まる。

 直後村田の顔色がみるみる青ざめていった。

「なん……っ!?」

 村田は驚きを言葉にする――――よりも早く、素早くその場から跳び退いた。突然の、それでいて奇怪な行動であったが、仲間達は誰一人として驚きを見せない。

 何故なら『驚き』を覚える寸前、建物の壁が突如として()()()()()のだから。

「な、なんだぁっ!?」

「ひいっ!? しゅ、襲げ、いでっ!?」

 突然の出来事に、若者達は揃って慌てふためく。右往左往した挙句机に足をぶつける者、腰を抜かしてひっくり返る者、目に涙を浮かべながら立ち尽くす者……何一つ統率感がなく、さながら壊された巣から飛び出すアリのようであった。

 それでも誰もがあたふたするばかりで建物の外に出ようとしないのは、吹き飛んだ壁が粉塵となって部屋中に充満し、視界を遮っているため。一メートル先すらまともに見えない状況で、身動きなど取れる筈もない。動かずにはいられないが、動かない事が最も安全だと本能的に察し、その場に留まり続けていた。

 ただ一人、此処に残っていたら『半身不随』になるであろう人物を除いて。

「っ!」

 坊主頭の男は立ち上がるや、煙の中を駆け出した。自分を捕らえていた男二人は突然の出来事に驚いて手を離しており、また部屋を満たす粉塵によってこの行動に気付いていない筈だ。裏切り者を逃がしたとして彼等にも『制裁』があるだろうが、男の知った事ではない。

 机にぶつかる事、何かしらの小物に蹴躓く事を恐れず、男は扉があった方へと走り続け――――

「あ。駄目ですよ逃げたら」

 きっとあと少しで出口、と思えた刹那、能天気な『少女』の声が聞こえた。

 それも束の間坊主頭の男の顔面に、ストレートパンチでも飛んできたかのような衝撃が走る! 鼻の骨が折れるほどの打撃力に、男の身体は後ろにすっ飛ぶ……筈が、ぐるりと何かに巻き付かれ、前へと引き寄せられた。意識が飛びかけている彼に抗おうなんて考えはなく、されるがまま引っ張られる。

 やがて彼が何かに捕まると、まるで見計らったかのように室内を満たしていた粉塵が薄れ始めた。

 続いて姿を現す『襲撃者』。

 金髪碧眼、麗しくもあどけない少女の出で立ち、無駄に自信満々な笑み。黄金の髪は風もないのに靡き、粉塵に晒された華麗なドレスには埃一つ付いていない。

 粉塵の中から現れたのはフィアだった。

 突然の来訪者の出現に、室内に居たメンバーは最初唖然としながらフィアを眺めていた。しかしフィアの足下に『水触手』で身体を縛られた坊主頭の男が横たわっている姿を見て、フィアが自分達に『用』がある事を悟る。

 加えてフィアの背後には、フィアの身体よりもずっと大きな穴を開けた壁がある。

 フィアこそがこの突飛な事態を起こした襲撃者である事は、問い詰めるまでもなく明らかだった。

「っんだテメェ!?」

 恰幅の良い ― 体重が百キロ近くありそうな ― 男はフィアを『敵』だと認識したのだろう。懐から大きなサバイバルナイフを取り出し、フィア目掛けて突撃してくる。ナイフの刃渡りは推定二十センチ。一突きで人の心臓を貫くのに足る、恐ろしい凶器だ。

 尤もフィアからすればそんな殺人道具も、おままごと用プラスチック製包丁と大差ない。ガシッと素手で刃を握り締めれば、それだけで恰幅の良い男の勇ましい突撃は止まってしまう。

 見た目可憐な美少女に、それも素手でサバイバルナイフを受け止められ、突撃してきた男は困惑を通り越して呆けていた。フィアはそんな男ににっこりと微笑みながら、開いている片手を掲げる。

「雑魚なんですからあまり調子に乗らない方が良いですよ? 今の私かなーり機嫌が悪いので手加減失敗するかも知れませんし」

 そして脅しの一言を優しい声色で告げる。

 本当に優しかったなら、ここで恰幅の良い男の反応を待つだろう。が、フィアは優しく見えるだけである。恰幅の良い男が瞬きした瞬間、フィアは構えた拳で彼の分厚い腹を殴り付けた。

 男の身体はあまりの衝撃の強さで波打ち、刹那百キロ近い体躯がボールのようにすっ飛ぶ。直線上には細身の女が居たが、突然の、それでいて非常識な事態で彼女は足を止めていた。殴り飛ばされた男も空中で方向転換など出来る筈もなく、仲間の女を巻き込んで部屋の壁に叩き付けられる。速度と質量だけで見れば、交通事故にも匹敵する大惨事。恰幅の良い男と細身の女は、呻き声を小さく上げた後にぐったりとしてしまう。

 仲間に『暴力』を振るわれた瞬間を目の当たりにした若者達だったが、誰一人として動こうとしなかった。無理もない。百キロ近い人間を易々と殴り飛ばすほどの怪力を持っている相手に立ち向かう術など、ただの人間である彼等が持ち合わせている訳がないのだから。

 しかし彼等の選択は愚行である。

「ああそうそうあなた達も逃げようとしない事です。とりあえず全員ボコボコにするつもりですから下手に逃げると加減を間違えるかもなので」

 目を付けられる前にさっさと逃げていれば、怪我をせずに済んだかも知れないのに。

 されど逃げなかった、逃げられなかった彼等は苛立ったフィアの餌食となる。発した警告の意味を理解する暇すら与えず、フィアは若者達に肉薄。一人を殴り、一人を投げ飛ばし、一人を床に何度も叩き付け……何色もの悲鳴が小さなプレハブ小屋に鳴り響く。その悲鳴も段々と小さくなり、静寂が満たす頃には動ける者はいなくなっていた。

 かくして『クリーチャーズ』のメンバーは全員ダウン。警察どころか反社会的組織をも打ち負かした化け物達が、呆気なく壊滅した瞬間だった。

 ……ただ一人、彼等のまとめ役である村田を除いて。

「ちっ。まさかこんな形で来るとは……」

 忌々しげにぼやきながら、一人二階へと逃げていた村田は抜き足差し足、音も立てずに歩く。仲間達の上げる悲鳴がいくら聞こえても脇目も振らず、豆電球が照らす部屋を進むだけ。

 やがて部屋に付けられた窓の傍まで来ると、ゆっくりとその窓に手を伸ばし、

 寸でのところで、ピタリと止めた。

「ふむふむ成程成程。そういう事ですか」

 そんな村田に、ギシギシとしならせながら階段を上ってきたフィアが声を掛ける。

 村田はゆっくりとフィアの方に振り向く。纏う雰囲気に余裕は何処にもない。悔しそうに歯噛みし、あからさまな敵意の眼差しを向けてくる。並の人間ならばその恐ろしさで足が竦み、のろのろと後退りしてしまうだろう。

 無論この程度の威嚇で怯むフィアではない。何より、どれだけ威嚇されようと逃す訳にはいかない。

 村田こそが、フィアと何度も追い駆けっこを繰り広げた『クリーチャーズ』のメンバー……散々おちょくってくれた、あの忌々しい人間なのだから。

 フィアは肩を竦めながら階段を上り切り、村田と同じ高さまで上がる。ようやくその顔を真っ正面からハッキリと拝める事が出来た。豆電球のお陰もあり、フィアの脆弱な視力でも問題なく顔立ちを拝める。尤も、見えたところでなんとも思わないが。纏う臭いだけで村田が追い駆けていた『奴』である事は分かるのだ。今更顔が見えたところで、大した情報ではない。

 それよりもフィアが気にしたのは村田の『行動』だ。

「おやぁ? 窓を開けて逃げないのですか? 精々二階なんですからあなたの身体能力なら易々と飛び降りる事が出来ると思うのですが」

「……何をしやがった? 窓に何を仕掛けた?」

「ふふふふふ。そうですよねぇそう訊きますよねぇ。ここまで思った通りだと笑いが止まりませんね」

 言葉通り延々とくすくす笑い続けるフィアに、村田は一層苛立った表情を浮かべた。今にも跳び掛かってきそうなほど殺気を放ち、敵意を向けている事はフィアにもよく分かる。

 それでもフィアは嗤うのを止めない。

「あなた未来を予知しているのでしょう?」

 止めぬまま、唐突にそう尋ねた。

 『彼』は何も言わない。動揺も見せない。まるで、その言葉が出てくる事は分かっていたと言わんばかりに。

 されど冷めきった眼差しが、彼から怒りさえも失せた事を教えてくれた。

「おかしいと思ったのですよ。一度や二度ならまだしも人間風情がこの私の攻撃を躱すなどあり得ません」

 フィアは淡々と自分の考えを明かしていく。

 もし未来が予知出来るのなら、フィアが繰り出した数々の攻撃を躱すなど造作もないだろう。何しろ『見えて』いるのだ。むしろ躱せない方がおかしいと言っても良い。

 そして自身の行動の『結末』が分かるのなら、様々な『ご都合主義』だって起こせる。何処に物を投げ付ければ建設途中のビルが崩れるか、どの速さで走れば『追跡者』に走行中のトラックをぶつけられるか、何処を走れば『追跡者』の投げた木が電線に引っ掛かるか、『追跡者』が突っ込んだ時土砂崩れが起きるのは何処なのか……自分だけが知っていて、相手だけが知らない状況なのだ。誘導するなど思いのまま、タネさえバレなければ延々と相手を玩べる。

 『どうやってその事象を起こしたか』という論理的思考では、未来を予知するという能力を見抜くのは難しいだろう。フィアのように『どうすればその事象を起こせるか』……結論から探そうとするタイプであればこそ、見抜ける力だった。

「ふん。長々と喋っていたが、結局勝ち目がないという事に変わりはないだろう? さっさと諦めたらどうなんだ?」

 フィアの話を聞き届けた『彼』は、未だ強気な姿勢を崩さない。するとフィアはくすくすと、少女らしく『彼』を嘲笑った。

 彼が言う事は尤もな話だ。

 事実フィアは追い駆けっこの最中、一方的に弄ばれた。タネと仕掛けは分かったが、それで『彼』の予知が消えてなくなる訳ではない。つまり状況的には、追い駆けっこを繰り広げていた時と何一つ変わっていないのだ。普通に考えれば同じ展開が繰り返されるだけである。

 それでもフィアは嘲笑う。『彼』が何も知らない事を、何も()()()()()()()事を。

 『彼』はフィアに笑われると、そっぽを向くように俯いた。が、フィアは『彼』の態度など気にせず話し出す。

「ええ確かにあなたの力は一見して厄介この上ない。ですが本当に無敵だったらこの状況はあり得ないんですよ」

「……五月蝿い」

「だって未来が予知出来るのですよ? 私だったらここまで追い詰められる前になんとかします。だって面倒じゃないですか自分を捕まえようとする奴との追い駆けっこなんて」

「五月蝿い、五月蝿い……!」

「なのにあなたはこの未来を避けなかった。付け加えれば私が此処を奇襲するにも拘わらず仲間を逃がしていなかった。初めて私と会った時にはさっさと逃がしていたのに。一体何故? 実は避けられなかったからなんじゃないですか?」

「五月蝿い五月蝿い五月蝿い」

 フィアが語る間、『彼』は何やらぶつぶつと呟いている。フィアの聴力であれば無論『彼』の言葉を聞き逃しはしない。聞き逃さないが、五月蝿いと言われているだけだ。

 フィアは話したいから話しているだけ。『彼』がどれだけ拒もうと、そんな事は話を止める理由にはならない。

「あなたの未来予知って欠点があるのではないですか? 具体的には『射程距離』があるとか」

「五月蝿いっ! 黙れえええええっ!」

 ついにフィアが核心に迫ると村田は拒絶の言葉を絶叫した。

 やはり、と感じたフィアは上機嫌な鼻息を吐く。

 もし村田が完璧に未来を予知出来るとすれば、先程語ったように自分(フィア)との遭遇自体を避けるのが普通。予知をすればフィアが人間なら即死するほどの攻撃を平然と耐え、人間を簡単に殺せるほどの力を持っている事も分かる筈である。いくら予知能力があるとはいえ、そんな怪物をおちょくっても百害あって一利なしというやつだ。

 しかし現実には、フィアと村田は遭遇した。『最悪』の未来を避けなかった以上、何かしらの欠点があるとしか思えない。

 一番に浮かんだ可能性は『時間』に限度がある事。数秒か数十秒かは分からないが、あまり遠い未来は予知出来ないのだとすれば、フィアの襲撃を事前に防げないのも頷ける。

 そしてもう一つは『距離』に限度がある可能性。遥か彼方の対象は予知に含まれず、ある程度接近しないと予知出来ないのなら、これまた追ってくるフィアを躱せない理由になる。

 果たしてどちらの可能性が正しいのか? 或いはどちらもなのか? 生憎そこをこれまでの情報から突き止めるのは、フィアの単純な頭脳には難しい問題だった。なのでフィアは実際に確かめる事とした。

 方法は実にシンプル。臭いから村田の後を追い、その姿を発見してもしばし野放しにしておく。フィアが姿を見せず、振りいったと誤解した村田がアジトに戻ったのを確認してから、フィアはどんどん遠くに――――距離にしてざっと三百メートルほど彼方のビルまで移動。

 そこから勢いよく跳び、アジトを奇襲した。

 跳んだ、と言葉にすれば本当に簡単な話である。尤もその跳躍をするために足をバネの如く畳み込み、一気に開放するという人外らしい方法を用いたが。結果初速は時速三千六百キロ……秒速九百七十メートル以上もの超音速に到達。三百メートルなんて距離は〇・三秒で通り越し、一瞬で村田の元まで辿り着けた。

 もしも村田が数十秒先の未来を予知出来るのなら、フィアの此度の奇襲は失敗に終わっただろう。数十秒あればメンバーを逃がすなり、覚悟させるなりは出来る筈なのだから。だが、そうはなっていなかった。メンバーは右往左往するばかりで、まともに逃げ出せていない。今も窓の周囲に『糸』を張り巡らせており、触れれば指先を切り落とせるようにしていたが、あとほんの少しの距離まで村田は手を伸ばしていた。本当に未来予知が出来るなら、罠に手など伸ばすまい。

 恐らく村田の予知の欠点は『距離』だ。それも明確な線引きがあるのではなく、対象の存在感的なものが小さければ小さいほど近付かねばならぬタイプの。

 見破ってしまえば隙だらけの欠点まみれ。故に村田は図星を突かれて焦っている……最初はそう思い小馬鹿にした笑みを浮かべていたフィアだったが、ふと違和感を覚えた。

 確かに村田は明らかに平静を失っている。されどその原因はどうやらフィアではないらしい。

 何しろ村田の目は、フィアを全く見ていなかったからだ。

「五月蝿い五月蝿い五月蝿いッ! さっきから喧しいんだよ! 逃げろ逃げろって、ああっ!? 虫けらの癖に俺様に逆らうんじゃねェ!」

 腕を振り回しながら、錯乱したように意味不明な言葉の羅列を喚き散らす。一体誰に向けて叫んでいるのか、一体何に苛立ちを覚えているのか。

 フィアには、凡そ見当が付いていた。

 だからこそ村田の態度に呆れてフィアは肩を竦める。

「……やっぱり所詮人間ですねぇ」

「あぁん!?」

「所詮人間と言ったのです。自分の立場が分かっていないなんていやはや全くここまで無自覚だと滑稽過ぎて最早笑えないですよ。ぶっちゃけ哀れです」

 キッパリとした口調でフィアは侮蔑の言葉を伝えた。あからさまに馬鹿にされ村田は額に青筋を浮かべるが……ややあってから小さなため息を漏らすと、自身の髪を掻き上げ、如何にも平静を取り戻したかのような涼しい顔を浮かべる。

「……さっきから聞いていれば、調子付いているのはどっちだ?」

 ようやく発したまともな言葉も、あたかも余裕があるかのよう。

 先程までの取り乱しぶりは演技だとでも言うのか? 村田の急変にフィアは眉を顰めた。

「どういう意味です?」

「そのままだ。確かに、俺の予知には射程がある。人間程度の大きさなら半径三十メートル程度の動きを察知するのが限度。時間も長くて数分、目まぐるしく状況が変化する場合、精々一秒から三秒程度だ」

 警察や敵対組織の襲撃を察知するだけなら、これでも十分だがな……村田はそう言いながら肩を竦める。適当な荷物を一つ抱えて逃げるのなら、数分先が見えれば十分という訳か。フィアが最初に村田と出会ったあのビルでも、フィアがのんびりとビル内に足を踏み入れたがために数分先まで予知出来、その間に仲間達と薬を逃がせたのだろう。

 逆に言えば、先のフィアの奇襲は予知出来ていなかったという事を打ち明けたも同然。

 だからこそ不可解。ちょっとした奇襲一つ破れないと見抜かれ、周囲を『糸』という危険物が張り巡らされて、どうして未だコイツは諦めようとしないのか。

「分かんねぇか? つまり、この予知は至近距離なら完璧なんだよ……丁度テメェと俺ぐらいの距離なら特にな!」

 首を傾げていたフィアに村田は宣告するが早いか、猛然と駆けてきた!

 唐突な接近であったが、されど野生動物であるフィアを動揺させるには足らず。淡々と村田の動きを観察し、村田が跳び蹴りをお見舞いしてきた瞬間、素早く片手を振り上げた

 のに併せるかの如く、村田は身体を捻って蹴りの軌道を変化させる!

 あまりにも軽やかな『変化球』に、フィアは「おや?」と一言漏らすだけ。蹴りへの対応もせず、変化した村田の蹴りを顔面に受けてしまった。フィアに一撃与えた村田はアクロバティックな空中回転をしながら離脱し、華麗に着地。それ見た事かと言わんばかりに鼻を鳴らした。

 フィアの本体はあくまで魚である。だから村田に蹴られた顔もただの作り物。例え破壊されても痛くも痒くもないし、ちょっとしか人間離れしていない村田の身体能力ではそこまでの威力はない。精々、村田の靴裏の土が頬をほんのり汚しただけ。

 しかしフィアの、人間如き何万人来ようが蹴散らせると疑いもしない高慢ちきなプライドを傷付けるには、十分な威力を持っていた。

「……ふぅん。意外とすばしっこい。正しく虫けらですね」

「お褒めにあずかり光栄だ。だがこんなもんで満足するなよ? 飽きるまでお代わりをくれてやるから、遠慮せず受け取ってくれ」

 あくまで余裕ぶった態度で、しかし実際は腸が煮えくり返っているフィアに、村田は軽やかに煽り返す。どうやらここまで追い詰めても、簡単には捕まってくれないらしい。いや、むしろ逃げる気はなく、返り討ちにするつもりか。

 諦めの悪い村田に、フィアは大きなため息を吐く……のと同時に、にたりと笑みを零した。

 正直まだイライラしている。

 未来予知なんて()()()()方法で散々弄ばれたのだ。下の階で雑魚共を気絶させるついでに虐めたが無関係な人間に八つ当たりをしても気持ちはさっぱり晴れない。やはり自分を弄んだ当人にギャフンと言わせねば。

 そのまたとない機会が巡ってきたのだ。これを喜ばずにどうする。

「良い度胸です……あなたがその気ならこっちとしては願ったり叶ったりですよ! さぁさっさと予知してみなさい! 今にもあなたが泣き喚く光景が見えますからねぇ!」

 立ち向かう人間を前にしたフィアは、猛々しい咆哮と共に猛然と走り出すのであった。




さぁ、ついに真正面から対決です。
未来予知といえば強敵のお約束ですが……

次回は3/18(日)投稿予定です

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