正直なところフィアは、この町についてはそこそこ詳しいつもりでいた。
ミュータント化によって花中と共有している知識の中には『地図』もあるので、花中が通っている学校や大桐家自宅の場所、本屋や映画館、商店街などの花中が知っている場所は大体把握している。それ以外にも自分が出向いたところは勿論覚えているので、散歩で寄り道した場所や虫がたくさん捕れる場所、自分が暮らしていた山などについても分かっている。もしかするとインドア派で臆病故あまり寄り道を好まない花中より、自分の方がこの町に詳しいのではと思えるほどだ。
無論通った道全てを覚えているほどの記憶力はない。そもそも寄り道し放題な散歩コースも、花中の家を中心にしたごく狭い範囲の話だ。その範囲を出たのは、精々海に行った時と海を渡った時ぐらいなもの。つまるところ活動面積そのものは非常に狭く、知り得る『情報量』は極めて少ない。
だからこの町で知らない場所があっても不思議なんてないし、フィアもこの町で知らない事などないとはこれっぽっちも思っていなかったが……
「流石にこんな身近にあったとは思いもしませんでしたねぇ」
感嘆ともぼやきとも取れる言葉を独りごちりながら、フィアは目の前にある建物を眺めた。
その建物は、極々普通のビルだった。
少なくともフィアの目にはそう映った。ほんの少しだけ赤味を増してきた陽光に照らされるビルは、高さと窓の数から推察するに五階建てぐらいだろうか。所謂雑居ビルで、備え付けられた看板には○○カンパニーだとかエステ××だとか、統一感のないラインナップが書かれている。隣に並ぶ他のビル達と比べて特筆すべき点もなく、紛れて、という訳ではないだろうが、あまり目立たない建物だった。
このビルが花中の家からほんの二~三キロ離れたところの大通りに建っていた事など、フィアは今の今まで知りもしなかった。否、知ったところで即効で忘れたに違いない。こんな建物、普段なら立ち入る理由などないのだから。
そう、普段であれば。
駅前ほどではないが人の行き交う歩道の真ん中に立ち、ビルを見上げながらすんすんとフィアは鼻を鳴らす。
人間程度の嗅覚では、特段違和感を覚えはしないだろう。だがフィアの優れた嗅覚ならば、目の前のビルから漂う甘ったるくて反吐が出るような悪臭をしかと捉えられる。無論その悪臭が危険なドラッグ……数十分前に出会った売人の男の一人が持っていた、本物の『ブレインハック』と同様のものである事も突き止めていた。
ならば此処こそが、警察でも手に負えない密売組織『クリーチャーズ』の拠点に違いない。
「……随分と遠回りをしてしまいましたねぇ」
ため息混じりの愚痴をこぼすと、フィアは肩を竦めた。フィアが『ブレインハック』の使用者である薬物中毒者を捕まえたのは、このビルからほんの数キロ離れた程度の駅前。自慢の嗅覚ならば十分探知可能な範囲だった。
最初から薬物中毒者の臭いを素直に辿っていれば、こんなビルなど簡単に見付けられただろうか? あの薬物中毒者の男は様々なドラッグを使っていたらしく、その身に纏う臭いは一種二種ではなかったので容易くはなかっただろう。されど物事をシンプルに考えるタイプであるフィアは、目的地までの距離が歩いて一時間掛からなかったという『事実』を重視する。
『回り道』をする事になったのは自分の判断ミスが原因だ。だからアイツの所為だと誰かを恨むなんて
ぶっちゃけ何かに八つ当たりしたい。
「丁度良いですね。捕まえようとすれば抵抗するでしょうからその時何発か殴っても正当防衛で花中さんに怒られる事もないでしょう」
花中への雑な言い訳を一つだけ考えれば、最早フィアに怖いものなどない。意気揚々とした足取りで、フィアはビル内へと突入した。
ビルの中は……ざっと見た限り普通だった。
入り口のすぐ傍には受付をしているのか、一人の中年男性が気怠そうに座っている。彼はフィアの存在に気付くと、一瞬鼻の下を伸ばし、それから逃げるように目を逸らした。人間ならば彼がフィアの美貌に見惚れ、それを誤魔化した事を察するだろう。フィアも魚であるが、自分の今の『容姿』が人間受けする事は自覚している。彼の反応の意味を理解したフィアは、自分の容姿を褒められたと思って上機嫌に鼻を鳴らした。
同時に、周囲の空気を吸って臭いを確認。
外と比べて『ブレインハック』の匂いは格段に強くなった。単に距離を縮めただけではここまで臭いは強くならない。発生源が近くにあり、淀み、溜まっている状況……この建物内に『ブレインハック』が多量に積まれているのは間違いない。とはいえすぐ近くにはないようだ。少なくとも受付の男はドラッグを持っていないだろう。薬について何か知っているかも、とも思うフィアであったが、既に『ブレインハック』の在処は突き止めた。今更尋問など面倒以外の何物でもない。
自分が命拾いしていた事など知る由もない男の前を横切り、フィアはビルの奥へ、そこにある階段から上を目指す。小さな電灯があるだけの薄暗い階段は、目が良くないフィアにとっては足下も満足に見えない環境。しかし嗅覚ほどではないにしろ優秀な触覚と聴覚を誇るフィアにとって、視覚の不足など大したハンデではない。なんの迷いもなく、普通の人間と同じ歩みで階段を上っていく。
フィアが歩みを止めたのは、四階部分の踊り場に来てから。
臭いの来る方角が、上から横向きに変わったためだ。臭いを素直に辿ってきたフィアは踊り場から四階廊下へと出る。廊下をしばらく真っ直ぐ進み、今度はとある扉の前で立ち止まった。
「ふむ。此処からですね」
そしてこの扉の奥に、『ブレインハック』があると断定する。
一見してただの事務所の入り口にしか見えないだとか、違法薬物売買の拠点がこんな町中にあるなんてとか、そのような常識的反論は浮かびもしない。自分の鼻は『此処』がそうだと言っているのだ。一体何を疑う必要があるのか。
この先に『ブレインハック』、ひいてはその売り手である『クリーチャーズ』……警察でも手を焼いている犯罪者達が潜んでいるに違いない。
彼等を捕まえて警察に突き出せば、きっと懸賞金をもらえる筈だ。一体幾らもらえるのだろう? 警察署の壁に貼り付けられていた紙には百万とか三百万とか書かれていた気がする。花中がスーパーで買い物をする時は大体五千円ぐらい持っていたので何時もの買い物の何百倍も色んなものが買えるのか……
獲らぬタヌキの皮算用をするフィアの口から、むふふふふと可愛らしい笑いが漏れ出た。ウキウキワクワク状態のフィアは、ドアノブを握るや辛抱堪らんとばかりにすぐさま回した
のと同時に、カチリと音が鳴る。
「ん?」
フィアの卓越した聴力はその音を聞き逃さない、が、その後一秒と経たずに閃光が放たれた時フィアはドアの前から動いていなかった。
そして目の前にある扉にヒビが入り――――
次の瞬間、扉の奥から『光』が放たれた。
光はビル内部だけでなくビルの外にも放たれ、多くの人が行き交う道路を眩く照らした。尤も、そんなのはほんの一瞬の出来事。瞬きする間もなく光は消え、直後鼓膜を破りそうなほどの轟音を伴ってビルから炎が噴き出した。
炎の勢いは凄まじく、最も脆弱な窓をぶち破るだけでは足りず、周りのサッシ、サッシの周りのコンクリートをも砕く。放たれた衝撃波の威力もかなりのもので、ビル近くの通行人を何人も転ばせた。降り注ぐガラス片やコンクリートの塊は動けない通行人達に容赦なく降り注ぎ、残忍に傷付けていく。
多くの人々が、何が起きたか分からなかっただろう。惨劇が止み、のろのろと立ち上がった人々の大半は、血で汚れたその顔をキョトンとさせていたのだから。しかし段々と現実を理解していき、やがて恐怖が浮かんでくる。
「い……いやあぁぁぁぁ!?」
やがて誰かの上げた叫びが、きっかけとなった。
悲鳴により、自身の身に起きた事が『不幸』だと気付いた人々は一瞬でパニックに陥った。怪我した人に気付き人混みを掻き分けて向かう人、スマホ越しに助けを求める人、他者を押し退け自分だけでも逃げようとする人……理性で隠していた本性が露わになり、辺りは喧噪に満たされる。
これでも外はまだマシだ。爆発が起きたビルの中では、外以上の惨劇が起きていた。爆発地点の直上直下真横の部屋は、部分的にだが天井や床、壁が吹き飛び、少なくない人間が致命的な大怪我を負った。それ以外の場所でも爆発によって生じた揺れで巨大なロッカーが倒れるなどして、何人もの人間が悲惨な事態に見舞われている。外の人間は悲鳴を上げ、逃げ惑えるだけまだまだ元気と言えよう。ビル内の人間は、悲鳴すら上げられない者が数えきれないほどいるのだから。
壁越しでもこの被害状況なのだ。爆発した部屋のドアの前に立っていた人間が無事でいられる訳がない。
訳がないが、今回ドアの前に居たのは『魚』である。
「……煤塗れになってしまいましたか」
全身煤で真っ黒になりつつも、全くの無傷であるフィアは暢気にぼやいた。妙な音がしてから爆発まで一秒未満……随分
ドアは消え失せた。唯一残った掌のドアノブを握り潰すと、フィアは爆発した部屋の中へと押し入る。中は未だ煙が充満しており、殆ど前が見えない。パチパチと弾けるような音もしているので、火の手が上がっているのだろう。時間を置いても煙は晴れそうにないので、フィアは『身体』から何本かの『糸』を伸ばし、直に触って内部を調べようとする。
が、すぐに取り止めた。
――――気配がする。
扉さえも吹き飛ばすほどの大爆発に晒された室内に、なんらかの気配が。
「……この爆発を耐え凌ぐとはただの人間ではありませんね?」
フィアは部屋の奥に向けて呼び掛けてみる。
フィアの目にはよく見えなかったが、煙の奥底で黒い影がふわりと動いた。
「いいや、ただの人間さ。ちょっとばかし運が良いだけの」
そして影は、フィアの呼び掛けに飄々と答える。
声は若い男のようだった。煙の中から漂ってくる人間の体臭もそれを裏付ける。煙は相変わらず濃いままで、その姿を窺い知る事は出来ないが……しかしフィアにはどうでも良い事。
『ブレインハック』の臭いが充満するこの場所にいるのだ。無関係な輩である筈がない。アイツこそが薬物の『元締め』だ。
なんの疑問もなくそう思い込んだフィアにとって、目の前の人間がどんな相手かなど興味すらない。さくっと捕まえて、警察に突き出してお金がもらえればなんだって良いのだから。
むしろフィアが気にしたのは、『雰囲気』の方だ。
人間社会で暮らし始めてから約九ヶ月。今まで色んな人間を見てきたが、どの人間にも『力』など感じられなかった。実際ただの人間などフィアからすれば有象無象であり、針すら持たない羽虫と大差ないほど無力なのだから正しい感覚であろう。
されどこの人間からは何かしらの『力』を感じるのだ。具体的にどんな力かは分からないが、
それに、発している臭いへの違和感。
人間の臭いだけじゃない。別のものが混ざっている。花中の家でもよく嗅いだ臭いだ。これは……
色々な考えが過ぎったものの、フィアはそれらを全て頭の隅へと乱雑に追いやった。確かに普通の人間とは何かが違うようだが、その違いはほんの僅かな、産毛が生えてるかどうか程度だ。『力』を感じるとはいったが、あくまでただの人間と比べればの話である。そこらの人間が脆弱なショウジョウバエだとしたら、目の前の人間は精々コガネムシぐらいだ。大怪獣である
取っ捕まえる事に、なんら問題はなかった。
「その命運もここまでですねぇ。大人しく捕まれば一発二発殴るだけで勘弁してあげますよ!」
フィアは自分勝手な要求を突き付けながら、人間ではとても反応出来ない速度で駆けた
直後、その身体がガクンと傾く。
理由は簡単。フィアの足下の床が、音を立てて崩れたのだから。
「ぬむ? おおっと」
人間ならば死すらあり得る危機だが、しかしフィアは全く慌てず、反射的に腕を伸ばして残った床に手を掛ける。落ちてくる瓦礫など、直撃を受けたところでダメージにはならない。崩落した床は脆くなっていたが、掛けた『手』から水を浸透させて補強した。フィアにとってこの程度のトラブルは脅威になり得ない。悠々と片手で自重を持ち上げ、部屋に戻った。
尤も、先程まであった気配はとうに失せていたが。床に開いた穴から新鮮な空気が流れ込んで僅かながら視界は晴れたが、やはり『人間』の姿は何処にも見られない。どうやら穴に落ちた隙を突かれて逃げられてしまったようだ。
「本当に運だけは良いみたいですねぇ……ん?」
自身の失態への苛立ちから悪態を吐くフィアだったが、ふと目の前にある物に関心を寄せた。
それは部屋の中央に、金属製の本棚や机が集まっている姿だった。
歩み寄って観察してみたところ、それらはただ闇雲に積まれている訳ではなく、まるで絡み合うように互いを支え合っている状態である事が分かった。でなければ、中央に人一人入れそうな隙間など維持出来まい。その隙間に顔を寄せてみたところ、本棚や机の間から人間の臭いが感じ取れた。かなり濃い臭いである。恐らく、ついさっきまでそこに人間が居たのだろう。
煙の奥に潜んでいた人間はこの本棚や机の隙間に居たのか? だが一体何のために?
……まさかこの場所で爆風をやり過ごしていた?
「いやいやないですね」
脳裏を過ぎった考えを、フィアはバサリと切り捨てる。確かに積まれた本棚や机の内側……恐らくそこに『奴』が居座っていたであろう場所には損傷が見られない。空間の外側を囲う本棚や机はへこみ、砕け、傷だらけにも拘わらず。これだけ綺麗なら、しょーもないぐらい貧弱な花中 ― 注:フィアが常日頃から抱いているイメージである。一応 ― でも無傷で先の爆風をやり過ごせるだろう。
が、いくらなんでも無策過ぎる。
そもそもこの本棚や机、人間が運ぶには少しばかり辛そうな大きさである。仲間が居たとしても、こんな意味不明なオブジェクトを数人掛かりで作ったのか? 爆風で吹き飛んだならまだしも……いや、そもそも最初から積み上げていたなら爆風の衝撃で崩れるのでは――――
「まぁどうでも良いでしょう」
花中ならここで思考の大海原へと旅立つところ、フィアはあっさり戻ってきた。基本、物事を深く考えるのは苦手なのである。
それに今更そんな事がなんだと言うのか。
フィアは鼻を鳴らし、辺りの空気を吸い込む。
焦げ臭さの中に隠れるように潜む、男の臭い。その臭いの流れから察するに、『奴』は窓 ― がかつてあったであろう大穴 ― から飛び降りたようだ。恐らく今頃、大通りをそそくさと逃げているに違いない。
「ふん。姿をくらませた程度でこの私から逃げ切れると思わない事です!」
居場所の見当を付けたフィアは、なんの躊躇もなく窓だった場所に駆け寄り、跳躍。
ビル四階の窓ともなれば、地上からの高さは約十メートルに達する。例え足から着地しても人間では死の危険がある高さだ。されどフィアの『身体能力』を以てすれば、十メートルと言わず百メートル、千メートルの高さからでも問題ない。
ズシン、と物々しい音と共にコンクリート製の道路を粉砕し、フィアは難なく着地。はてさて目当ての人間は何処だと、辺りを見渡す。
と、自分が飛び降りたビルの側に停まっている軽トラックが目に入った。そのトラックは丁度フィアが飛び降りた窓の真下付近で停車しており、荷台には何故か山盛りの布団が剥き出し状態で積まれている。
部屋の中に居た奴はこの布団の上に落ち、無事飛び降りを成功させたのか。しかし都合良くこんなものが窓の下にあるものか? まるで予め用意していたかのような……
「……何か変ですね。捕まえたらちょっと問い詰めてみるとしますかっ」
気にはなる、が優先順位は高くない。抱いた疑問は脳裏の片隅にぎゅうぎゅうと押し寄せ、フィアは追跡を再開する。
ビルが爆発した時の混乱がまだ続いているようで、ビルの周りでは喧噪が支配し、何十、いや百以上もの人々が悲鳴を上げながら走り回っている。警察や消防も到着したが、パニック状態の人々が助けを求めて我先に群がり、却って混乱に拍車を掛けていた。
誰も彼もが駆け回り、これでは誰が逃げ惑っている筈の『奴』なのか、目で見てもよく分からない。
だが、フィアは躊躇わない。
臭いという名の道しるべがあるのに、どうして迷う必要があるのか!
「逃がしませんよ!」
爆走する雄牛が如く、フィアは臭いのする方目掛け猛然と走り出す! 目の前にパニック状態の一般人がいる? だからどうした。
邪魔者は全て蹴散らすのみ!
「うわぁ!?」
「きゃあっ!?」
「な、なん、げふっ!?」
罪なき一般人達が、次々とフィアに突き飛ばされて転んでいく。やがて大勢の人間が猛然と駆けるフィアに気付き、慌てて道を開けた。
しかしそのような心遣い、フィアには無用。
臭いの方向が変化した――――人間の数万倍とも謳われる嗅覚は、微かな軌道の変化さえも捕捉する。作られた道を無視して方向転換するフィアに、偶然真っ正面に見据えられた人々はまるで自分が狙われたような錯覚を覚えたに違いない。誰もが恐怖で顔を引き攣らせ、その身を強張らせる。
哀れ、人間達はフィアに軽々と吹き飛ばされ……たりしない。フィアとてわざわざ人間を蹴散らしたい訳ではないのだ。というより心底邪魔に思うからこそ、蹴散らすなんて真似は面倒以外の何ものでもないのである。
ましてや臭いの向かう先に狭い路地裏があるのなら、間違いなくその先に『奴』が居るのなら、ショートカットしない理由がない。
勢いよく膝を曲げ、フィアは強靱な『脚力』を以て大地を蹴る! 数百キロはあろうかという己が質量などなんのその。三メートル以上の高さまで跳躍し、戸惑う人々の頭上を越えていった。
そして大きなビルの間を通る、狭苦しい路地裏の入り口で着地。
「間違いない……此処ですね!」
目の前の薄暗い道から『臭い』が来ていると確信し、フィアは迷いなく突入していった。
目が良くないフィアにとって、街灯のない路地裏に満ちる薄暗さは、人間にとっての夜の暗闇と大差ない。何かが落ちていても回避という選択肢はなく、故に一切の躊躇なくフィアは駆ける。道端に捨てられた空き缶を彼方に蹴飛ばし、放置された自転車を倒して踏み潰し、飛び出した配管を粉砕しながら突撃し続ける!
狭い道だけに最速を出せてはいないが、それでも時速百キロ近い猛スピードだ。自動車にすら追い付ける速さで、ちんたら走る人間に追い付けない筈もない。
視界を覆うどんよりとした闇の中で蠢く影を見付けた時、フィアはそれが目当ての『奴』だと欠片たりとも疑わなかった。
「みぃーつーけーまーしーたぁーよぉぉぉぉぉぉ!」
「おっ。マジで来やがったか」
フィアの喜々とした唸り声を聞いたであろう『奴』の声は、さして驚いた様子もなかった。距離を詰められた『奴』は急激に速度を増し、人間離れした速さにまで加速する。
中々の身体能力であるが、しかしフィアの速力を振り切れるものではない。
「ふっはははははははっ! 諦めなさいっ!」
段々と近付いてくる『奴』の影目掛け、フィアは腕をゆっくり腕を伸ばした
のと同時に『奴』の影が揺らめく。
何かしたのか? 一瞬疑問を抱くフィアであるが、『奴』からは本能的な危機感など何も感じられない。頭の中の疑問は一瞬にして蒸発し、フィアは構わず『奴』を捕まえようとする。
悪寒はそんな時に、真横からやってきた。
「あん? ……ぬぅ!?」
突然『身体』に圧し掛かる、巨大質量の感覚。同時にガランガランと激しい音が鳴り響き、フィアの優れた聴覚をいたずらに刺激する。何かが自分目掛け雪崩れ込んでいるようだが、視力が弱いフィアには何が起きているのかいまいち分からない。
尤も普通の視力を持った人間なら分かったかといえば、そんな事もないだろう。
何しろフィアに押し寄せていたのは、無数の鉄骨や鉄パイプ。
路地裏に並ぶ建物の中に、建設途中の建物があった。その建物が突如として崩落し、偶々横を走っていたフィア目掛けて雪崩れ込んだのである! 一本だけでも人を死に至らしめる大きさの金属達が、何十何百と襲い掛かってきたのだ。人間がこの金属の濁流に飲まれたならば、抗う間もなく四肢を引き千切られ、頭と胴は潰され、一瞬にして物言わぬ肉塊へと変えられてしまうだろう。
フィアにとっても、流石にここまでの質量は無視して通れるものではない。
「うっだぁ! 鬱陶しいっ!」
咆哮を上げ、フィアは渾身の力で腕を振るう! 人間にとっては破滅的な濁流も、圧倒的な怪力を受けては木の葉のように吹き飛ばされる!
鉄骨達の幾つかは、フィアの前を走る『奴』の方へと飛んでいく。巨大な金属の塊が、自動車すら追い抜く速さで吹っ飛んでいるのだ。衝突すれば人間などひとたまりもない。
実際当たりたくはなかったのだろう。『奴』はひょいひょいと、飛んでくる金属達を躱していった。
前を向いたまま、後ろを振り向くような動きをせずに。
「(……人間にしては随分と勘が鋭いですねぇ)」
目は良くないが、感覚的に『奴』の動きを捉えていたフィアは違和感を覚える。されど考えている暇はない。
先の鉄筋雪崩はフィアになんらダメージを与えなかったが、一瞬だが動きを阻まれ、お陰で『奴』との距離が開いてしまった。おまけに随分長く走った事で、いよいよ行く先に光――――路地裏の出口が見えてきているではないか。広い場所に出て人混みの中にでも入られたら、またしても見失いかねない。
このまま逃がしてなるものか。瞬時に判断したフィアは足下から大量の水を噴射し、その推進力を以て急加速! 瞬く間にトップスピードまで持っていき、『奴』との距離を一気に詰める! その姿は正しく砲弾のよう。放置自転車もはみ出たパイプも、フィアは粉々に吹き飛ばしながら前進し続ける! 『奴』は既に限界なのか、いくらフィアが迫ろうと逃げ足を速める事はない。
『奴』はついに路地裏を脱して表通りに出てしまうが、フィアとの距離は最早数秒もあれば追い着ける程度しか開いていなかった。もしかしたらこの出口の先に子供達が歩いているかも知れない……そんな考えをフィアは抱かない。抱いたところで自分の行動を止めはしない。スピードを落とさずに自分もまた表通りへと跳び出し、光で掠れる『奴』の背中へと手を伸ばした
瞬間、真横から
先の鉄塊雪崩をも凌駕する一撃。フィアの数百キロはあろうかという『身体』を揺さぶり、破壊せんとするほどの威力。
衝撃の正体は、大型トラックだった。
路地裏の出口は、一般道に続いていたのだ。左右を見ずに突き進んだフィアは車道まで出てしまい、トラックは時速六十キロもの速さで『普通』に走っていたが故に判断が間に合わず、両者は激突してしまったのである。ぐしゃりと生々しい音が辺りに鳴り響き、偶然にもその瞬間を目の当たりにした数名の通行人の顔が青くなる。凄惨で悲劇的な交通事故。犠牲者の生存は絶望的だ。
ただし目撃者の認識とは異なり、この場合の犠牲者とはトラック本体の事を指す。トラックは所謂十トントラックと呼ばれる類の大型車であり、確かにフィアよりも重量はある。だがフィアの力は重さと全く釣り合いが取れていない。こんな『ちっぽけ』なトラック風情に倒されるほど柔ではないのだ。
「うっがあああっ! さっきからなんですか邪魔臭い!」
それでも歩みは阻まれたので、フィアはすっかり怒り心頭。キレたフィアは衝突によりバンパーがぐしゃぐしゃに潰れたトラックを両腕で掴むや、どこぞの野良猫兄妹ほどではないにしろ馬鹿力を発揮して持ち上げ、ポイッと投げ捨ててしまう。
哀れ、投げられたトラックはコンクリートの道路と正面衝突し、いよいよ完全に大破してしまった。トラックの運転席から一人の運転手が這い出すと、逃げろ逃げろと通行人達に向けて叫びながら、傷だらけの身体で走り出す。通行人達も訳を察し、慌ててトラックから離れる。
それから間もなく、破損したエンジンから漏れたガソリンが引火。
巨大な爆炎を上げ、トラックは粉微塵に吹き飛んだ。十数メートル先まで逃げた人々が転ぶほどの大きな衝撃だった。
そしてその爆風を至近距離で受けたフィアは……わなわなと震えていた。
『奴』の姿が見付からない。
あとちょっとのところまで追い詰めた『奴』の姿は、何処にもなかった。
「……ぬぐ。うぐぎぎぎぎ……!」
逃げられた。
突き付けられる『現実』に、フィアは歯ぎしりをして苛立ちを露わにする。臭いで『奴』の逃げた方角は即座に突き止めるが、通行人が多く、どいつが『奴』なのかさっぱり分からない。
間もなく陽は沈み、町を照らすのは街灯と建物の明かりだけとなるだろう。視力の弱いフィアにとって、人よりも色濃い闇が満たす時間だ。臭いで大まかな場所は把握出来るし、『糸』を使えば正確な距離も測れるが、肉眼で見えるならそれに越した事はない。
早く『奴』を、『クリーチャーズ』のメンバーを捕まえて賞金をもらわないと、花中への誕生日プレゼントが買えないのに。
「ええいっちょこまかと小賢しい! 捕まえたら絶対ボコボコにしてやりますからねーっ!」
物騒な言葉を叫びながら、フィアは再び臭いを目指して駆ける。
されど、結局それはただ闇雲に追い駆けているだけで。
自身の追跡がこの後何度も失敗する事など、今のフィアは考えてもいないのだった……