彼女は生き物に好かれやすい   作:彼岸花ノ丘

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Birthdays3

「は~んざ~いしゃ~は~んざ~いしゃ~ど~こにか~くれたわ~るいやつぅ~」

 理性だとかプライドだとか羞恥心だとか、大人になるにつれ自らを縛るようになるものを全て投棄して空っぽにした頭に、童心だけを詰め込んだような歌声が駅前の大通りに響き渡る。

 透き通った純真無垢な声色は、美声という称賛すら生ぬるい。道を埋め尽くすほどにいる通行人達は、その歌声を耳にするや引き寄せられるように足を止め、感動で滲んだ顔を振り返らせる。そして煌びやかなドレスと黄金の髪、宝石の如く美しい瞳と彫刻のように麗しい顔立ちを目の当たりにし、誰もが魅惑されるのだ……が、奏でられている歌は美声であるのと同時に音痴でもある。一瞬感じたときめきがものの数秒で失われ、感動が抜けきった人々の顔に残るのは怪訝さだけだった。

 付け加えると、犯罪者を見付けたがっているような歌詞も人々の心を戸惑わせる。集まる視線が称賛なのは最初だけで、後はずっと猜疑と不信に満ちたもの。

 されど歌声の主――――フィアは気にしなかった。フナである彼女は社会への協調性など持ち合わせていない。面識すらない他者になんと思われようと、あれこれ悩むような感性ではないのだ。そもそもこの歌は誰かに聴かせたくて歌っている訳ではなく、歌いたいから歌っているのである。褒められて悪い気はしないが、嫌がられて不快には思わない。

 なのでフィアは数多の衆目などお構いなしに歌い続け、更に大勢の人々を戸惑わせる。

「おう、嬢ちゃん。随分とご機嫌だな……」

 ついには後ろを歩いていた見ず知らずの中年男性が、話し掛けてくる有り様だ。

 フィアは上機嫌なステップを混ぜながらくるりと身を翻し、男性の方を振り向く。浮かべている笑みは正しく美少女のそれ。一般的な『嗜好』の持ち主であろう男性は、照れたように視線を逸らした。

 当然、魚であるフィアが男性の心境を察する事はない。察したところで抱く感情に違いなどない。フィアは歌声と同じぐらい眩くて麗しい声で男の問いに答える。

「ええ! 実は先程悩みがスッキリと解決しまして!」

「そりゃ何より……つーか、なんだその歌は」

「この歌ですか? 勿論犯罪者を捜す歌ですが」

「いやいや、探してどーするんだよ?」

「どーするも何も決まっているではないですか」

 中年男性の至極真っ当な疑問に、フィアは鼻息を荒くしながら自慢気に胸を張る。

「ボコボコにした後警察に引き渡すのですよ!」

 そして大変正直に、自分の目的を打ち明けた。

 ……これが、例えば五歳ぐらいの男の子が言った事なら、正義を愛する純朴さと無知からくる身の程知らずぶりに愛らしさの一つでも感じて「そりゃあ頼もしいな!」の一言ぐらいは男性の口から出たかも知れない。

 が、フィアが現在形作っている姿は金髪碧眼の美少女。少女とはいうが、大人びた高校生ぐらいの容姿である。時代や国次第では一人前の大人として扱われ、現代日本でも子供と大人の狭間に位置すると認識される世代。ハッキリ言ってしまえば、ちょっとは大人っぽい考えを持ってないと『変』なお年頃だ。

「お、おう。その、頑張れ、よ……?」

「ふふん言われずともそのつもりです。では私は急いでますのでそろそろ行きますね」

 あからさまに引き攣った笑みと共に送られた声援に、されどフィアは好感しか感じずに受け取る。再開した歩みは、先程までと同じく上機嫌だった。

 そんなフィアの姿を見ていた数十もの人々は誰もが怪訝そうな表情を浮かべ……その中の十数人は、心底()()()()()視線を送る。 

 大勢の中で一人二人がそのような視線を送るのなら、さして不自然ではなかろう。機嫌が悪い時にウザいほどに元気な『子供』を見れば悪態だって吐きたくなるし、延々と珍妙な歌を聴かされたなら苛立ちもする。しかしフィアはほんの一瞬すれ違うだけの、ちょっと変な奴というだけ。あまり我慢強くない少数の人がそんな態度を取るのは仕方ないにしても、通行人の何割ともなれば異質な雰囲気と言えよう。

 普段であれば、だが。

 これには一応の理由があった。そしてその『理由』を生み出した根源は遡る事三ヶ月前……去年の十二月末日、世界を滅ぼしかけた『怪物』達である。

 星の外から訪れた外来種と、地球に潜んでいた生物の決戦。彼女等の生存競争は、下手をすれば星さえも砕きかねないものだった。人の手に負えない生命体の出現に、社会の混乱を恐れた為政者達は彼女等の存在を隠そうとしたが……それは叶わなかった。当然だ。世界中の人工衛星が余波だけで何十機と叩き落とされ、数十兆ドル相当の電子機器がお釈迦となり、星をも貫く高エネルギーによって至る所の海洋生態系が崩壊し、誘発された噴火や地震で幾つもの国に甚大な被害が出たのだから。最早どんな虚偽のストーリーを描いたところで、納得出来るものなどありはしない。開き直って原因不明を主張すれば、市民と野党は政府の無能さを罵り、更なる混迷を招き入れる。

 八方塞がりの状況。『何処か』の国が音を上げ、本当の事を喋ってしまうのは時間の問題だった。

 あまりにも非常識な発表。しかしながら充実した証拠の数々。真実が明るみに出た途端、為政者達の懸念通り混乱は加速した。地球の、或いは宇宙の頂点に立つと信じていた自分達が、二番以下の力しか持っていなかったのだから。頂点を奪い返そうと闘志に満ちる者、現実を受け入れられず政府の陰謀を声高に主張する者、心の安寧を求めて怪しげな宗教に入信する者、自暴自棄になってテロを行う者……人心は今まで以上にバラバラとなり、社会の混迷は異星生命体襲来から三ヶ月が過ぎた今でも未だ治まっていない。いや、むしろ悪くなっている有り様だ。特にキリスト教によって人間の『尊さ』を信じていた西洋諸国での混乱が大きく、世界の先頭に立ってる力を持った国が尽く荒んでいた。世界情勢が良くなる兆しはなかった。

 そんな中日本は、存外平和な方だった。元々の宗教観 ― 日本人は自分を無宗教と称すが、『お天道様が見ている』などの考え方は正しく『宗教観』である ― からして人間が世界の頂点とは、大半の日本人はあまり思ってなかった。故に人間を遥かに凌駕する怪物が現れても、西洋諸国ほどの混乱は起きなかったのである。とはいえそれはあくまで比較の問題。市民の中には政府の陰謀を唱えて暴動紛いの行為を働く輩が現れ、超常の生物を神と崇める宗教も多数生まれた。政界は今まで以上の罵声と困惑が満ち、まともな政策議論が出来ない状態にある。おまけにグローバル化した経済は他国の混乱の影響をもろに受け、輸入品、特に食料品の価格が大きく高騰していた。大神政権になってから右肩上がりを続けていた国内経済は初の下落を迎え、まだまだ底が見えていない。

 今、人の世界はどん底に向かって落ちている。人々はそれを確かに感じ取っていた。社会がどうなるのか……政治的にも、そして『怪物』の活動的な意味でも……まるで分からない。希望など持てる筈もなく、皆の気持ちが沈んでいた。

 そんな中能天気にはしゃぐ、そろそろ大人の仲間入りをしてほしい『子供』が現れたら……何時も以上に、手厳しい対応になってしまうのは仕方ない事だろう。

「ふんふふんふふ~ん♪ ふふんふ~♪」

 尤も当人は他者の感情など汲まない『怪物』であり、視線に乗せられた想いに気付きながらも変わらずご機嫌に駅前通りを練り歩くのだが。

 ――――さて。

 フィアはこれだけたくさんの人が居れば、犯罪者の一人二人は見付かるだろうと考えていた。直感的に下した判断であり、根拠など何もない。実際、あちらこちらに人目がある駅前の大通りで犯罪行為を働く者は多くないだろう。

 しかし『起こり得ない』なんて事はなく。

「きゃあっ! ど、泥棒っ!」

 歩いていたフィアの耳に、そんな叫びが届いた。

 どの人間よりも素早く声がした方へと振り向いたところ、数十メートルほど離れた位置で若い女性が寝そべっていた……いや、転んでいたと言うべきか。彼女は真っ直ぐ手を伸ばし、困惑しきった表情を浮かべている。

 そして彼女の伸ばした手の先には、フィアの方へと駆けてくる男の姿があった。

 がたいは良いが身長はそこそこの、三十代ぐらいの男だった。髪はボサボサで、炎をイメージしたような柄のダウンジャケットを着ている。片手はバッグを大事そうに抱えていたが、明らかにそのバッグは女物。十中八九彼の所有物ではない。女性の叫び声と合わせて考えたところ、彼が転んだ女性から荷物を強奪した、所謂ひったくり犯と呼ばれる輩であるとフィアは判断した。

 しかし何よりも目を惹くのは、彼の『目付き』。

 血走っている……そんな表現すら生ぬるく思えるほどに、異様な目付きをしていた。充血した目は化け物としか例えようがないほど赤く染まり、瞳孔が激しく揺れ動いて焦点が定まっていない。よくよく見れば口元から涎を零し、今にも食い千切りそうなほどに唇を噛んでいるではないか。人間的な理性を一切感じさせず、さながらその姿は手負いの獣のよう。あまりのおぞましさからか、彼の姿を目の当たりにするや女子供のみならず男達すら道の端へと逃げていく。

 残ったのは、ぽつんと大通りのど真ん中に立つフィアだけだ。

「ぐ、るあああああああああ!」

 フィアの近くまでやってきた男は獣のような叫びを上げながら、バッグを持っていない方の手を振り回す。その行動を目撃した通行人達が、一斉に悲鳴を上げた。

 彼の手にあったのは、本物のナイフだったからだ。

 刃渡りはざっと十五センチ以上。『正当な理由』なしでは携帯が法律で禁じられているサイズであり、十分な殺傷能力を有する凶器である。障害が残る傷を容易に作れるだけでなく、命を奪う事も可能な代物だ。あまり目が良くないフィアにはその手にあるものが何かは分からなかったが、彼がその手に武器のようなものを掴んでいる事はすぐに察した。

「ほい」

 なのでとりあえずそれを壊してしまおうと、フィアは『素手』で迫り来るナイフの刃を掴んだ。

 人間なら肌を切られ、骨に達するような傷が出来るところだが、ひったくり犯にとって不幸な事にフィアは人間ではない。ナイフはバキンッと音を立て、繊細なガラス細工のように割れてしまった。

 普通なら、このあり得ない事態を前にしたら身を強張らせ、どれほど荒事に慣れた達人であっても僅かながら動けなくなってしまうだろう。

「がぁ!」

 ところがこのひったくりは、一瞬の怯みもなく大きく腕を振り上げた。まるで先の光景が()()()()()()()()かのような反応に、さしものフィアも「おや」と一言漏らす程度には驚いた。が、それだけ。人間社会生活も長くなったとはいえ彼女は生粋の野生動物であり、この程度の『予想外』に戸惑いはしない。

「ていっ」

 フィアとしては本当に軽く、男の頭にチョップを一発。

「べごすっ!?」

 しかし人間にとってはメガトン級の一撃に、そこそこな肉体しか持っていないひったくり犯が堪え切れる筈もなかった。叩き付けるような勢いで彼は倒れ、道路と情熱的なキスをお披露目。最初はもがき、やがてピクピクと痙攣するようになって、ついには動かなくなる。そこからは待てど暮らせどひったくり犯は動かず、起き上がる気配もない。

 あまりにも起き上がらない男の姿を目の当たりにし、一部始終を見ていた通行人達がひそひそと何かを話し始めた。フィアが自慢の聴力で聞き取った情報曰く、ひょっとして死んだんじゃ? との事。確かにこうも動かないと死んでいるかも知れないとフィアも思い始める。加減はしたつもりだが失敗して頭の中身をぐちゃぐちゃにしてしまったのだろうか? 別段この人間が死んだところでフィアはなんとも思わないが、この事がバレたら花中に嫌われてしまうかも知れない。

 フィアはしゃがみ込み、耳を澄ます。呼吸は……している。息をしているという事は、生きているという事。

 フィアはホッとした。そして笑みを浮かべた。

 何しろ探し求めていた犯罪者が、こんなにも早く見付かったのだから。

「なんだ生きてるじゃないですかそれじゃあ早速警察に行きましょう」

 フィアはひったくり犯の足を掴むと、何一つ遠慮なくずるずると引き摺る。あまりにも雑な扱いに周りの人間達が呆気に取られるが、元より衆目など意識の外にあるフィア。気にも留めず、上機嫌な歩みは止まらない。

 そのまま衆目を集めたまま、フィアは犯罪者を引き連れて大通りを去――――

 る前にてくてくとUターン。それから適当に、近くに居た一人の青年に歩み寄る。気絶しているとはいえ異常さを見せていた犯罪者、その犯罪者をチョップ一発で黙らせた美少女。青年は顔を引き攣らせ、一歩二歩と後退りする。

「このバッグは要らないのであげますね」

 尤もフィアは青年の気持ちなどお構いなし。ひったくり犯からバッグを取り上げ、青年に向けて放り投げた。

 つい、といった様子で投げられたバックを受け止めた青年はポカンとしていたが、フィアは青年に背を向けるとすたすたと歩き出す。フィアにとってひったくり犯が奪ったバッグの事などどうでも良い。被害者からの感謝もいらないし、青年の気持ちなど頭の片隅にもない。ただ、引き摺る時にバッグが邪魔臭いと思ったので『あげた』だけである。フィアは犯罪者を警察に突き出し、賞金をもらえればそれで良いのだから。

「それでは私はこれで」

 最後にそれだけ言い残し、フィアは今度こそ大通りから去り――――

 ……………

 ………

 …

「すいませーん犯罪者を捕まえたのですがコイツ一人幾らで買い取ってくれますかぁ?」

 適当に歩いていて見付けた駅近く交番に立ち寄り、フィアはその中に向けて無邪気に呼び掛けた。

 交番に居たのは二人の警察官。一人は二十代ぐらいの青年で、もう一人は五十代ぐらいの男性。単純に考えて、青年の方が下っ端で、初老の男性の方が上司か。実務作業をしていたのかデスクに着いていた二人はフィアの方へと振り向き、そしてフィアがその手に掴んでいるひったくり犯の姿を見て顔を顰めた。

 男性からの目配せを受け、青年がフィアの応対を始める。

「……えーっと……犯罪者って、その手に掴んでいる?」

「他に居るように見えますか?」

「居ないように見えるから訊いたんだけどなぁ……」

 青年は頭を掻きながら席から立ち、フィアに歩み寄る。それからひったくり犯の顔を立ったまま覗き込んだ。

 出会い頭の時はフィアすら一目置くほどの狂気を見せていた男は、今ではすっかり大人しくなっていた。ただし静かになった訳ではなく、指を噛みながらぼそぼそと何かを呟いている。交番探しの道中でも同じく呟いていたのでフィアはその声に耳を傾けたりしたが、言っていたのは悪魔がどうたら予言がどうたらと訳の分からない事ばかり。そもそもぼそぼそ声で、いまいち聞き取り辛い。魚類の優れた聴力を以てしてもそんな有り様なのだ。人間である青年警察官には、例え顔を近付けても有意義な言葉は聞こえていない様子である。

 ただ、ひったくり犯の顔が恐怖で歪んでいる事は見れば明らか。

 青年警察官はフィアに懐疑の眼差しを向けてきた。

「あー……その、暴力とかは振るって……いないよね?」

「むむむ失敬な。頭を軽く叩いただけですよ」

「叩いただけ、ねぇ……というか犯罪者って言ってるけど、どんな犯罪をしていたんだい?」

「泥棒呼ばわりされているのを聞きましたから泥棒だと思いますよ。女の人から荷物を奪っていたみたいですし」

「思いますよって……被害者は君じゃないのか? 具体的にどんな被害があったんだい?」

 あまりにも曖昧で雑な回答に、青年警察官は呆れ顔を浮かべながら問い詰めてくる。予期せぬ質問攻めに、段々とフィアは機嫌を悪くしていった。警察というのは犯罪者を捕まえる組織だった筈。なのに被害者が誰だとか、被害がなんなのかだとか、どうしてそんな『どうでも良い』事を気にするのかさっぱり分からない。

 犯罪者を連れてくればそれでOKだと加奈子は言っていたのに、何故こんな面倒臭い事になっている? 考えてみてもよく分からず、フィアは不貞腐れるように唇を尖らせた。

「すみません、ちょっと私にも彼を見させてもらえませんか?」

 そんなフィアと青年の間に、初老の男性警察官が割って入ってくる。

 どうぞ、と一言フィアが許すと男性警察官はひったくり犯の傍にしゃがみ込んで、先程からぼそぼそと呟いていた男の顔に耳を近付けた。男性警察官はしばし押し黙り、それからじっくりと男の顔を観察……やがて、小さくないため息を吐きながら首を横に振る。

「……篠田、お前後で反省文な」

 そして無慈悲に告げられる青年警察官 ― 篠田という名前らしい ― への罰。

 突然のお仕置き宣言に青年は一瞬目を丸くし、それから仰け反るほどに驚いた。

「ぅええっ!? え、なんでですかぁ!?」

「なんでも何も、こんな分かりやすい『犯罪者』を見逃す馬鹿が居るか! こっちにきてコイツの声をもっとちゃんと聞いてみろ! それから顔をもっとよく見るんだ」

「は、はい!?」

 先輩からの説教を受けて青年は慌ただしくしゃがみ、改めてひったくり犯の言葉に耳を傾ける。最初は困惑の表情を浮かべていた青年だったが、突然ハッとしたように目を見開く。ひったくり犯の顔もまじまじと見て、考え込むように自身の顎を触る。

「……ヤク中、ですか?」

 最後にぽつりと、導き出した答えを口にした。

 初老の男性警察官はこくりと、静かに頷く。

「確証はない。が、雰囲気は正しく典型的なやつだ。恐らくコイツも『ブレインハック』だな……実際こうして疑いを持たれているのに、弁明どころか反応すらない辺り、こっちの声なんか全く聞こえていないんだろう」

「た、確かに……いくらなんでも、おかしいですよね……」

「勿論、例えば精神に疾患があるだとか、なんらかの洗脳を受けた、という可能性は否定出来ない。が、なんにせよ詳しく調べるべき相手なのは間違いない。お前はそんな奴を思いっきり見逃すところだった訳だ。それも警戒するようにと連日連絡が来てるにも拘わらず。だから反省文な」

「ふぐぅ」

 ぐうの音も出ない、と言わんげな呻きを上げて青年は項垂れる。初老の男性はやれやれと言いたげに肩を竦めた。

 そして一匹、ぽつんと首を傾げるフィア。

 話は全部しっかりと聞いていたが……二人が何を言っているのか、よく分からない。

「すみませんがなんの話をしているのですか? 結局コイツは逮捕するのですかしないのですか?」

「おっと、申し訳ありません。恐らく逮捕はする事になります。ただし窃盗犯ではなく、違法薬物を私用した罪で、という事になるとは思いますが」

「違法薬物? ああなんか使っちゃいけない薬でしたっけ?」

 フィアが尋ねると、初老の警察官は褒めるような笑みを浮かべながら頷いた。

 違法薬物と呼ばれる薬については、フィアも知識だけは有している。一瞬の気持ち良さと引き換えに、頭がずっとおかしくなる……程度の曖昧かつ大雑把な理解だが。どちらにせよ得られるメリットと支払うコストが釣り合っていないとしか思えず、フィアには全く興味のない代物だった。

 当然身内にこの危険な薬物の使用者などおらず、このひったくり犯が初めて出会った薬物中毒者。こちらの行動が見えていないかのような素振りでしたが頭がおかしくなっていたのですね……と、彼が襲い掛かってきた時の事を思い出して得心がいく。確かにあのようにおかしくなるのなら、違法な薬を使っては駄目だと言われるのも納得だ。むしろ何故この男はそんな薬を使ったのか、ますます理解出来ない。

「容疑を固めるためには検査が必要ですが、あの様子なら間違いないでしょう。完全に理性が抜けてしまっていますから……いや、よく確保してくれました。もしかすると、錯乱して街中で刃物を振り回すなどの凶行をしていたかも知れません」

「振り回してましたよ? というか私切り付けられましたし。まぁあんなちゃちな刃物でこの私を殺そうなんて土台無理な話ですけどね」

「……本当に、よく確保してくれましたよ」

 胸を張りながら語るフィアに、初老の警察官は乾いた笑いを漏らす。何故そんな引き攣った笑い方なのか、フィアは不思議がって首を傾げた。

「ともあれ、まずは取り調べと検査をしないとな。篠田、俺はコイツを奥に連れていって、検査キットで調べる。この調子なら、そのうち小便ぐらい漏らすだろう。お前は彼女から詳細な話を聞いておいてくれ」

「……了解です」

 初老の警察官は青年に指示を出し、ひったくり犯兼薬物中毒者を連れて交番の奥へと向かう。青年警察官は頭を掻きながら交番内に戻るとキャビネットから紙を取り出し、それをデスクの上に置いた。

「いや、ごめんな。さっきは色々疑っちゃって。ちょっと詳しい話を聞きたいから、時間もらえるかな? 取り調べとかじゃなくて、簡単な聞き込みのようなもので済むから」

 先の態度について謝りながら、青年は椅子を二つ用意。片方の椅子に座ると、もう片方の椅子に座るようフィアは促した。

 椅子は所謂パイプ椅子。どっしりと体重を乗せたらきっと壊れてしまうだろう……そんな事を考えながら、フィアは青年の求めに応じて椅子に座った。ただし椅子に体重は掛けず、人間で言うところの『空気椅子』の体勢を維持している。尤も、フィアにとってこの『身体』は容れ物であり、空気椅子だろうがごろ寝だろうが、能力を使って形作っている時点で労力にさしたる差はないのだが。

 優雅に腰掛けた美少女フィアを見て、青年警察官は生唾を飲む。それから目を逸らし、ペンを握り締め、帽子を被り直す。

「えと、じゃあまず住所と名前」

「ところでさっきのアイツは犯罪者という事で間違いないのですよね? いくらで買い取ってくれるのですか?」

 続いてお決まりの質問をしようとしたが、空気を読まないフィアの言葉がそれを遮った。青年警察官は突然の質問に、キョトンとするように目を丸くする。

「……はい?」

「ですから賞金ですよ賞金。犯罪者を捕まえたら賞金が貰えるのですよね?」

「賞金? えーっと……ああ、懸賞金の事かな?」

「名前なんてなんでも良いんですけど。私が知りたいのは幾らもらえるのかの方です」

 わくわくしながら尋ねるフィアを見て、青年は苦笑い。悩むように顎を擦り、しばらく黙りこくってしまう。

「申し訳ないけど、あの男じゃ懸賞金は出ないんだよ」

 やがて幼子を諭すようにゆっくりと語った内容は、フィアの期待を裏切るものだった。

 フィアからすれば全く予想外の回答。怒ったり苛立ったりするよりも、困惑の方が大きい。開いた口から出てきた言葉も、純粋な疑問の感情で染まっていた。

「えぇー? なんでですかぁ?」

「懸賞金は特定の犯罪者にしか掛かってないからね。具体的な基準はないけど、殺人事件などの重大犯罪で、尚且つ警察が逮捕に苦労している奴だけが対象なんだ」

 例えばあそこに貼ってある連中とか、と言って青年警察官はすっと何処かを指差す。

 示された方向を追えば、そこは何枚もの紙が貼られた交番内の壁だった。目があまり良くないフィアは席から立ち上がり、近くまで寄って紙に何が書かれているのか確かめる。

 リアルな似顔絵と、『この顔にピンと来たら110番!』と書かれた一文。強盗殺人だとか連続殺人だとかの犯罪の名称。そして下の方にデカデカと書かれた、二百万円や三百万円といった文字。

 壁に貼られていた紙はどれもがこのような形式で書かれており、これが懸賞金を掛けられた犯罪者の『リスト』なのだとフィアは理解した。同時に、大きく落胆する。犯罪者などいくらでも見付けられるし、捕まえる事も簡単だ。しかし『特定の人物』となれば話は違う。連中が自分の活動圏に居なければ、見付けられない事はフィアでも分かる。

 無論相手は所詮人間だ。時間を掛ければ捕まえられるとは思うのだが……花中の誕生日は明日。()()()()()捕まえられる普通の犯罪者で賞金がもらえないと困る。

「うぅー……なんとか普通の犯罪者から賞金をもらう事は出来ないのでしょうか」

「難しいと思うよ。今回の薬物中毒者にしても多分感謝状ぐらいじゃないかな……まぁ、元締めを捕まえたとかなら、金一封ぐらいは出るかも知れないけど」

「元締め?」

 青年警察官の言葉で気になるところがあったので、フィアはオウム返しで訊き返す。と、青年警察官はしまったと言わんばかりに顔を顰め、口を噤んでしまった。

 どうしたのだろうか? フィアは首を傾げながら、しかし考えても分からないので青年が話し出すのをじっと待つ。

 やがて青年警察官は、小さなため息を吐いた。それからそそくさと席から立ち上がり、フィアの近くに寄ってくる。

「実はここだけの話……最近、この町で違法薬物の売買が活発化しているんだよ」

 まるで内緒話をするかのようにひそひそと、青年警察官はそのような話を切り出した。

「確かにこの町でも、昔から薬物中毒者や業者は居る。とはいえ摘発数は全国的に見ても高くはなく……まぁ、要するに『普通』だったんだ。だけどどうもここ最近、中毒者が急増しているんだよ」

「急増と言いますけどどの程度なのです?」

「大体十倍だね。他の交番では検挙者がかなり出ていたけど、この辺はまだだったからすっかり油断してたよ……はぁ」

 反省文について思い出したのか、青年警察官は項垂れる。とはいえ話はまだ途中だ。彼は首を軽く振った後、お喋りの続きを始める。

「で、どうしてこうなっているのか、なんだけど……どうやら新しい元締めが、新しい商品を持って現れたらしい」

「? そんな事が原因なのですか? 犯罪者なんて毎日誰か逮捕されてるのに次のがすぐ現れているようですからそんなのはよく起こってる話に思えるのですが」

「確かに、新規の組織が現れるなんてのは良くある話だよ。でも今回の奴等は違う。あまりにも後先考えていないんだ」

「……犯罪者などみんな後先考えていないのでは?」

「程度の問題だよ。そいつらが売ってる薬物が、恐ろしく危険なんだ」

 青年警察官はそう言って、『薬物』について説明を始めた。

 ブレインハック。

 とある海外マフィアが開発したとされるその薬物は、熱狂的愛好家がいる一方、世界的にはマイナーな違法薬物である。というのも脳への作用があまりにも強く、際限なく高まる多幸感というとびきりの『快楽』の代償として、恐るべき死亡率を誇るからだ。薬物中毒者の中でも「あれを使うのは死の間際だけ」と言われ、一説には死亡率が生存率を倍以上上回っているとも言われるほど危険な代物らしい。

 この危険性は『利用者』のみならず、『販売元』にとってもデメリットでしかなかった。薬物の売人というのは、何も薬物を蔓延させて世界を滅ぼしたいのではない。薬物を売って、大金を得たいのだ。『ブレインハック』は確かに高額で売れるが、そんなのは金という名の果実を実らせる木を切り倒して材木にするようなもの。おまけにその木の果実を狙っていた『競合店』の怒りを買ってしまう。

 折角の金の成る木を切り倒した挙句、周りの怒りを買ってしまう。こんなものをやたら滅多に売りまくるのは後先考えない『馬鹿』だけだ。

「……その新参者がとびきりの馬鹿なのはよく分かりました。でしたらすぐに捕まえられるんじゃないですか? もしくは他の犯罪者の怒りを買ってとっくに殺されてるのでは?」

 薬と組織について教わり、フィアは自分の考えを伝える。調子に乗ると後で痛い目を見るのは、何も人間社会だけの話ではない。自然界でも派手に動けば天敵に見付かりやすくなり、捕まる可能性が高まる。縄張りの中で餌を食い荒らせば、同種にも目を付けられて襲われるだろう。

 話を聞く限り、その『犯罪者』は随分派手に獲物を食い散らかしているらしい。ならば警察という天敵、或いは同業者に目を付けられているのではないか? 野生動物的観点からフィアはそう思ったのだ。

 フィアの感想に、青年警察官はこくんと頷いた。肯定の意思表示。しかしその顔は、さながら思った通り『罠』に嵌まった事を喜ぶイタズラ小僧のようだった。

「確かに、普通ならその通りだ。ところが不思議な事に、連中の逮捕は叶っていない。証拠があって、何処の誰が犯人かも分かっているにも拘わらず」

「……はい?」

「ちなみに『ブレインハック』の流通量は今も増加傾向のままだから、人知れず敵対組織に襲われて壊滅している可能性もなさそうだね。そして薬物の流通経路などから、そいつが今もこの町に居る事は間違いない」

 つまりその『馬鹿』な輩は、警察や同業者から目を付けられているにも拘わらず、それでもこの町で好き勝手やっている。

 そうとしか取れない話に、フィアは軽く混乱する。花中は常々日本の警察は優秀だと言っていた。なのに未だ『馬鹿』を捕まえられていないとは、一体どういう事なのか。犯罪者達も何故その『馬鹿』を野放しにしているのか理解に苦しむ。

 花中なら彼の話から、何かが分かるのだろうか? 考える事が苦手なフィアは、意見を訊ける大親友が傍に居ない現状に少し苛立つ。

 そんなフィアの顔を自分への反感と受け取ったのか。「おっと、意地悪した訳じゃないんだ。ここからが少し興味深いところでね」と弁明を挟み、青年警察官は話を続けた。 

「なんでも何度か署の連中が逮捕しようとしたけど、その度に逃げられているらしいんだ」

「……それはつまり最近の警察はマヌケという事ですか?」

「普通はそう思うよね。まぁ、だからそいつらの事を中々マスコミに発表出来ず、公開捜査が出来ない有り様らしいけど……っと、それは置いといて。実際現場の怠慢があるんじゃないかと一時は思われていたみたいだけど、どうも違うんだよ」

 警察とて治安維持組織としてのプライドがある。何より犯罪者を野放しにしていては、日本の治安が大きく損なわれてしまう。警察は薬物の売人逮捕にどんどん人員を投入していった。

 だが、成果はまるで上がらず。

 ある時は緻密な捜査により拠点を突き止めるも、逮捕状を取っている間に逃げられてしまう。

 ある時は何十もの警察官を導入して拠点を包囲するも、まるでこちらの手を読むかのように潜り抜けられてしまう。

 ある時は潜入捜査官を送り込むも、二日と経たずに連絡が取れなくなり、三日目に変死体が発見される――――

「ここまでの話は全部噂だよ。特に最後のやつなんか、三ヶ月前に確認されたばかりの組織に危険な潜入調査をやるなんてとても思えないし……本当に、今の警察が無能なだけかも知れない。間違いないのはそういう奴……ヤバい薬物を売っている、警察すら手に負えない『犯罪者』が野放しである事だけだね」

 だからそいつを捕まえたら、流石に金一封ぐらいは出るんじゃないかなって話さ……最後にそう結んで、青年警察官は話を終える。フィアに向けるその眼差しは、感想を伺っているようだった。

 フィア的には、至極どうでも良い話だ。件の犯罪者 ― 或いは組織 ― が野放しになれば、薬物汚染はどんどん広まり、薬物による犯罪が増加してこの町の治安が悪くなっていく……そのぐらいの事はフィアにも分かる。しかしフィアは別に人間社会が混乱しても大して困らないし、治安が悪化して暴漢がそこらを徘徊するようになっても、コバエのように払い除けられるだけの力がある。心配なのは花中の身だけだが、薬物が蔓延したところで聡明な彼女が手を付けるとは思えない。悪漢の千人万人から守る事だって自分なら楽勝だ。

 少なくともフィアが考える限り、自分が困る事はない。だからそいつ等が野放しでも全く構わない。

 だが……捕まえたらお金になるとなれば話は別。フィアは今、とてもお金が欲しいのだから。

 そして『何処に居るのか分からない』輩ではなく、この町に確実に居るのであれば――――

「いやぁ、話が長くなっちゃったね。もうねー、これ誰かに話したくて話したくて仕方なかったからついやっちゃったよ。あ、これ僕が話したって事は秘密ね? 噂とはいえ警察の秘密を話したなんて先輩に知られたら、また反省文を書かされちゃうからさ」

 話したい事を終えて、余程上機嫌なのか。ぺらぺらと喋りながら青年警察官はデスクに戻り、ペンを持って、調書を取る準備をする。

「……あれ?」

 そして、彼は首を傾げた。

 何故なら彼が見た先には、ほんのついさっきまで居たフィアの姿は何処にもなかったのだから。

「あれ? え? ???」

「ふぅー……やれやれだ……ん? どうしたんだ、篠田」

 困惑して青年警察官が辺りをキョロキョロしていると、交番の奥から、薬物中毒者を連れて行った男性警察官が戻ってきた。青年は先輩の存在に気付くと、困惑しながら振り返る。

「あ、先輩。随分と早く戻ってきましたね。アイツはどうしたんですか?」

「手錠してから仮眠用のスーツで簀巻きにしといた。あと、途中で小便漏らしたから検査は問題なく出来たわ。後で消臭剤ばらまかなきゃ今日は仮眠取れねぇけどな」

「うへぇ……」

「ところで、捕まえてきてくれたあの女性はどうした?」

「あ、それがなんですけど、少し目を離した隙に居なくなってしまって……」

「何?」

 男性警察官は交番の外に出て見渡すが、そこにもフィアの姿はない。探すのをすぐに諦めた彼は、頭を掻きながら交番内に戻る。

「ふーむ、確かに何処にも居ないな……まぁ、時間を取られたり、自分のプライベートを記録されるのは嫌だって人も少なくないからな。聴取を嫌って逃げる人というのは、そんなに珍しくもない」

「はぁ、そうなのですか……えと、どうすれば良いですかね?」

「どうもしなくて良いぞ。正直に書いとけ。取り繕った噓を吐いても、後々面倒になるだけだからな。それに名前ぐらいは聞き出せただろ?」

「いや、実は名前も聞けてなくて」

「……何?」

 先程までにこやかだった先輩警察官の顔が強張る。

 先輩の機嫌を損ねた事に気付く後輩だったが、後の祭だった。

「おい。俺が容疑者を奥に連れて行って、戻ってくるまでに何分掛かったと思う?」

「え? えーっと……十分、ぐらい?」

「そうだな。じゃあ十分としよう。お前、その間何をしてた?」

「な、何をって、その、聴取」

「名前も聞き出せず、様子も書き込まなかったその紙切れが十分間の成果なのか? 仮に途中で彼女が居なくなったのなら、何故すぐ俺に報告しなかった?」

 先輩からの追求に、青年はそろそろと目を逸らす。

 最早、口を開かずとも答えているも同然だった。

「お前、今の今まで何をしていたんだ? まさか口説いたり、いらぬお喋りをしたりなんてしてないよな?」

「あ、ははは……まっさかぁ……」

「じゃあ、なんでこうなったのか答えてみろ」

「……………」

「反省文、もう一枚追加だな」

「げぶぅっ!?」

 青年の悲鳴が交番内にこだまする。

 篠田信一郎、二十六歳。

 まだまだ若者気分の抜けない彼はこの後、二枚もの反省文という難敵との戦いを強いられる。

 自分の迂闊な言動がこの町の命運を左右していた事など、思いもせずに――――




違法薬物、ダメ、絶対。
という訳で本章では薬物が全面的に出てきます。歯止めが掛からない薬物汚染にフィアはどう立ち向かうのか、動物から見た人間社会の問題点とは。斬新な切り口で現代人を見る、社会派小説です!

噓です。対抗策は毎度お馴染み暴力です。人間社会の問題? 人間がみんなフィアみたいな生き方をしたら間違いなく社会が破綻するので、彼女の意見を真に受けてはいけません(ぇー)

次回は2/18(日)投稿予定です

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