なに、あれ?
ハッキリと目の当たりにしたにも拘わらず、花中の第一印象は
遥か遠方、しかも対象物のない海上での目測なので正確性に欠けるが……『あれ』の大きさは三~四百メートルはあるだろうか。ゴルフボールをピンの上に乗せた時のシルエットにも似た、というより他に例えようがない奇怪な形状をしている。球体部分が全長の六割ほどを閉め、ピンの部分は四割ほどの比率だ。色彩は黒一色で、沈みかけとはいえ南国の陽光を浴びているのに艶一つ見られない。まるで星のない宇宙を眺めているような、底のない恐怖を与えてくる黒さだった。そしてその身は、僅かながら海面から浮遊している。
不気味なのは外見だけではない。生理的嫌悪を感じる音を常に鳴らしている。金属的ではないし、生物っぽさもない、あらゆる感性の外に位置する音だ。オノマトペで無理やりにでも表現するなら、ぐにょるぐにょる、だろうか。
こんな異質なモノ、そこに『有った』ならすぐにでも気付いただろう。つまりほんのついさっきまで……突如襲い掛かってきた『爆風』が起こるまで、こんなモノは海に存在していなかった筈だ。一体アレは何処からやってきた?
何をどう見ても、どう分析しても、花中の知識には『あれ』に関するものがない。もしかするとモサニマノーマではよく見られるモノなのか? そんな可能性が脳裏を過ぎりサナを横目で見るも、彼女も同じく呆気に取られている様子だ。
人間達には『あれ』が何かなど見当も付かない。
だけどフィア達なら、数十キロも離れていたアナシスを察知した野生の本能なら、人間には窺い知れない情報を得ている可能性がある。何か気付いた事がないか、花中は自分の前に立つフィアに話を訊こうとして
フィアの身体が、小さく震えている事に気付いた。
「……フィ」
「っ!」
何があったのか尋ねようと、フィアの名を呼ぼうとしたのも束の間。フィアは花中に掌を手を向けるや、大量の水を放出して花中とサナを包み込んだ。
危険が迫った時、何時も自分を守ってくれた水球か――――反射的にそのように考えたが、しかしそれは『半分』ほどしか当たっていなかった事を花中はすぐに知る。
息をするための、空間がない。
つまり空気がないのだ。何時もなら存在する筈のものがなく、強制的に
「野良猫ッ!」
「サナもちゃんと対応してるんだよね!?」
「ついでにやってます!」
「なら良い!」
困惑する人間達を余所に、フィアは怒鳴り散らすようにミィを呼ぶ。ミィはフィアの言いたい事を察しているのか素早く問い詰め、フィアが煩わしさを隠さずに答えた
瞬間、花中の身体に衝撃が走った。
臓器全体が引っ張られるような気持ち悪さ、流れる血の向きが変わるようなおぞましい感触。いずれも何度か覚えのあるものだった。そう、例えばフィアが自分を抱えて遠慮なく走った時のような……
幸いなのか、不幸なのか。動かせない眼球は瞬きすら出来なくなっていた。混乱を鎮め、意識を集中すれば、景色はちゃんと見えてくる筈。逃げたくて堪らない気持ちを胸の奥底に押し込み、花中はなんとか外界を見ようとした。
結果、凄まじい速さで海面が動いている光景を目の当たりにする。
なんだこれは、と考えようとした時、一段と大きな衝撃が花中の身を襲った。冷静になろうとしていた意識は再び取り乱し、景色がぐちゃぐちゃ見えなくなる。しかしそれっきり身体を襲う不快感はなくなり、動かなかった全身が自由を取り戻した。
そしてようやく、顔から水の感触がなくなる。息をするためのスペースが今頃になって作られたのだ。水球自体は解かれてないので身体は水に浸かった状態だが、息が出来ればもうそれで十分。
「ぷはっ! はぁ、は、けふっ、ふっ、ふっ……」
「んんんんんーっ!?」
待ち望んでいた酸素を吸い込み花中がどうにか落ち着きを取り戻す中、サナは未だジタバタと藻掻き苦しんでいた。彼女の顔周りの水も既に引いていたが、いきなり呼吸が出来なくなっていたのだ。混乱のあまり現状に気付いていなくても不思議ではなく、むしろすぐに息が出来た花中こそおかしいぐらいである。
「サナちゃん、落ち着いてっ。大丈夫だから」
「んんーっ!? んっ……んぶはぁっ!?」
花中に宥められて、ようやくサナも止めていた息を吹き返す。花中はサナの傍へと寄り添い、優しく背中を摩った。
同時に、抗議の眼差しをフィアに向ける。
フィアはしっかり花中達の傍に居た。見た限りでは、花中達を水球で包み込んだ時と変わらぬ佇まい。挙句あれだけの暴挙に出ながら花中達を一瞥すらせず、前を見据えるだけ。訳なくやったとは思わないが、謝りもしないとなればムッとくる。
一体自分達を無視して何を見ているのかと、花中はフィアの視線を追った。
追って、その顔から血の気を失せさせる。
フィアの視線の先には、『島』があった。あったが、赤茶色でゴツゴツとした、火山島。モサニマノーマではない……
そのミスナムギーが、遥か彼方に見えた。地平線の彼方に消えるほどではないが、沿岸部は見えなくなっている。体長数百メートルはあるアナシスと『あれ』の姿もすっかり小さくなり、辛うじて輪郭が分かる程度。よくよく辺りを見渡せば、此処は大海原のど真ん中ではないか。恐らく、島から数キロは離れている。
つまり花中達は、あの深くとも短い混乱の中で数キロも移動した事になる。
置かれた状況から導き出した事実により、花中は全容を察した。フィアによって水球に包み込まれた花中達は、ミィに投げ飛ばされたのだ。普段フィアが纏っている水量となると重量数百キロ~数トンはあるが、ミィの怪力ならば少し重たいボールのようなものだろう。数キロ彼方に数秒で辿り着く速さ……音速以上の速さで投げる事が出来ても不思議はない。とはいえこんな馬鹿げた速さに人間は適応していないのだ。徐々に加速したならまだしも、投げるという形では初速こそがトップスピード。瞬間的には強力な慣性が襲い掛かり、最悪、いや、確実に死に至るだろう。
そこでフィアは対策をした。花中達の皮膚を破り、水と血液を接触。能力によって血液中の水分を支配下に置き、体液によって細胞全体を補強する。これにより、Gに耐えられる身体に『改造』したのだ。証拠は最初に痛みを感じた腕。よくよく見てみれば、腕には小さな穴が開き、血が滲んでいた。注射針で刺されたぐらいの小さな穴だが……傷には違いない。
ショックだった。確かに酷い目に遭わされた事は一度や二度ではないが、どれもわざとではなかった。フィアは何時だって自分を大切にしてくれた。だけど今回は、明らかに『意図』を持って傷を付けられたのだ。悲しくない訳がない。
同時に、それ以上の恐怖を覚える。
フィアをそこまで過敏に反応させた、『あれ』の存在に。
「……フィアちゃん、どうしたの……?」
「どうもこうもありませんよなんなんですかねアレは。ヤバいですなんだか分かりませんけど近付くのも不味い気がします」
訊けば、フィアは捲し立てるような早口で答える。しかし根拠は示さず、話したのは己の感覚についてのみ。
それを『なんとなく』と言うのなら従うのも癪だが……『野生の勘』となれば話は違う。少なくとも本能的な感覚において、フィアが花中より遙かに優れているのは事実なのだから。
「――――ょぉおおっせいっ!」
ごくりと息を飲む花中だったが、その音は突如として起こった巨大な水柱と爆音によって掻き消された。攻撃か、と思ったのは一瞬。フィアが危険を察知して此処まで退避したのだ。『彼女』達が何時までもぼんやりとあの場に留まっている筈もない。
水柱が収まると、そこには水面に立つミィの姿があった。恐らく此処まで
「ちょっとこれは不味いわねぇ……」
次いでミリオンが虚空から姿を現した。ふわふわと宙に浮かびながら、島の方をじっと眺めている。
全員、無事に集まれた。その事実に花中は安堵する
「ちょ、ちょっとなんなの!? ねぇ、何があったの!?」
間もなく、サナが癇癪を起こした。
いや、彼女の反応は実に正しい。いきなり溺れそうになり、強烈なGを叩き込まれ、大海原のど真ん中に移動させられたのだ。混乱して当然であり、誰だって説明を求めるだろう。実際花中も慣れてはいるが、気持ちとしてはサナと一緒である。
「お、落ち着いて、サナちゃん。わたしにも、分からなくて……あの、簡単にで、良いので、誰か説明を」
「っ! 来るわっ!」
しかし
フィア達が見据える先……ミスナムギーの近くに、ただ一体残っていたアナシスが動き出す。しかし遠くて彼女の行動の詳細は分からない。
そう思いながら花中が目を細めていると水球表面が大きく揺らめき、アナシス達周辺の拡大映像が映し出された。フィアが能力で水分子を並び替え、望遠レンズのように機能させたのだろう。
お陰で数キロ以上離れていながら、アナシスの動きがハッキリと確認出来る。アナシスは巨体でありながら小さな蛇と変わらぬ素早さで『あれ』に接近しており
次の瞬間、アナシスの尾が『あれ』にくっついていた。
「え?」
花中は呆気に取られる。何故なら花中の目は、アナシスの尾が『あれ』目掛けて振り上げられた瞬間を捉えていなかったからだ。まるでその瞬間のコマだけ切り取ったような、不自然な光景だった。
尤も、呆けていられたのはほんの一瞬だけ。
覚えた違和感を『言葉』として理解する暇もなく、花中達を守っている筈の水球が崩壊するほどの、途方もない衝撃が襲い掛かったのだから!
「ごふっ!?」
「げふっ! けほっ!? ごほっ」
自分達を包み込んでいる水球が吹き飛ぶのとほぼ同時に伝わってきた衝撃を受けて、花中とサナが上げたのは悲鳴ではなく呻き。まるで全身を巨大な鈍器で殴られたかのような、他に説明しようがない痛みに襲われる。
しばらく咳が止まらなかったが、なんとか自分で身体を擦り、花中は痛みを抑える。それから何が起きたのか、酩酊するように揺れる思考を必死に巡らせ……思い付いた自身の考えに戦慄する。
花中達は先程まで、フィアが展開してくれた水球に守られていたのだ。水球は平時ですら、銃弾どころかロケットランチャーすら平然と防ぐ強度を誇る。ましてや今のように海の上でなら、フィアは無尽蔵の水を掻き集める事が出来る。現れた『あれ』への警戒度からして一切手加減なしの、恐らくは今までで一番頑強な水球だったに違いない。にも拘わらず水球は呆気なく破壊され、花中達は強烈な衝撃に襲われた。もしも衝撃の大半を肩代わりしてくれたであろう水球がなければ、人間程度の強度では跡形もなく消し飛んでいただろう。
これほどの衝撃の発生源は何処か? 考えるまでもなく、アナシスしかいない。ではアナシスは何をしたのか?
答えはとてもシンプル。アナシスは『あれ』目掛け、尾を叩き付けるという方法で攻撃したのだ。ただし、花中の目には見えぬほどの速さで。
通常大きい物体は、小型かつ相同な物体と比べ動きがスローモーションに見える。しかしこれは動きが遅い事を意味しない。身体が大きくなると歩幅などのスケールも併せて巨大化するため、スピードの増加が巨大化比率以下だとどうしてもゆっくりに見えてしまうのだ。仮にアナシスの体長を一千メートルと仮定し、自身の体長ほどの距離を三秒で移動した場合、その動きは酷くゆっくりに見えるだろう。しかし同時にその速度は、音速に匹敵する事になる。
いくら花中の動体視力とはいえ、アナシスほどのサイズで目視不可能の速さとなれば音速の数十倍……いや、数百倍は必要かも知れない。その圧倒的なスピードと質量より生じたエネルギーは、遥か数キロ彼方に避難していた花中達さえも吹き飛ばすパワーを持っていたのだ。フィア達の予想は正しかったといえよう。こんな怪物、戦ったところで勝てる訳がない。
では、『あれ』は?
おぞましい破壊力を誇った尾を真っ向から叩き付けられ、未だ平然と棒立ちする『あれ』ならば?
【 * * * * * * !】
『あれ』の咆哮、なのだろうか。
突如として
「ちっ! この距離でも駄目です耐えきれません! もっと離れます!」
しかし野生の本能を失っていないフィア達は違う。水球が破壊された事からこの距離でも危険と判断し、更に距離を取る事を決断。ミリオンは全身を霧散させ、ミィはその場から跳躍。フィアは能力により水球を作り直すと海上を滑るように高速で走り、花中とサナを引き連れて更なる後退を始める。
前進したのは、アナシスただ一匹。
【■■■■■■■■■■■■■■■■■■!】
アナシスもまた、雄叫びを上げた。それは『あれ』が奏でた音とは全く異なる、生命の力に満ちた咆哮。最早何キロ、十何キロ離れたか分からないのに、その叫びは退化した筈の花中の本能を揺さぶり、全身を芯から震え上がらせる。きっと大蛇を前にした子ネズミの気持ちというのはこんな感じなのだと、花中は心の底から思った。
尤もヘビの方は子ネズミなど眼中にない。自らの尾の一撃を平然と耐えた、自身と対等の ― 或いは凌駕するやも知れぬ ― 存在を目の当たりにしているのだ。アナシスは続けざまに二度目の咆哮を上げたが、花中はその声に焦りにも似た感情が含まれているのを感じ取った。
同時に、はしゃぐような喜びも。
やがてアナシス達の姿は水平線に消えた、が、間髪入れずに水球の表面が揺らめく。そして映し出されたのは、アナシス達の拡大された姿。ふと花中が頭上を見上げれば、水球のてっぺんから細長いモノが伸びているのが確認出来た。恐らく伸ばした水触手の先から外の景色を取り込む事で、水平線の向こう側を映し出せるのだろう。
故に遥か彼方へと逃げながらも、花中達がアナシス達の戦いを見届けるのに支障はなかった。
アナシスはその身をメキメキと膨らませ、大きく仰け反らせた――――のも束の間、目視不可能な速さで『あれ』に頭突きをお見舞いした! 尾の一撃には不動で耐えた『あれ』も此度の打撃は堪えたらしく、ぐらりと巨体をよろめかした。
否、むしろよろめいただけ、と言うべきか。
『あれ』の背後から何千メートルもの高さになる水柱が、何キロにも渡って噴き上がった。恐らくはアナシスの頭突きの余波が『あれ』を突き抜け、向こう側にある海を引っ掻き回したのだろう……言葉にしてみたが、あまりにも出鱈目過ぎる。人間が同じ光景を作ろうとしたら、果たして爆薬が何百万トン必要になるのか想像も付かない。
並の生物なら跡形も残らぬ一撃を与え、しかしアナシスは手を緩めない。二撃、三撃、四撃目を放ち、頭突きによって『あれ』を高々と打ち抜く上げる!
哀れ、『あれ』はそのまま転倒する……かと思いきや、『あれ』はゴルフピンのようだった部位を裂き、節足動物を彷彿とさせる細長い足へと変化。それは身体の比率からすればまるで蟻のように細い脚であり、数百メートルもの巨体をしっかりと支えられるとはとても思えない……そんな花中の常識を嘲笑うように、『あれ』はどっしりと構えた体勢で着水。何かしらの力場が発生しているのか、足先の海面を大きく歪ませながら『あれ』は浮遊状態を維持していた。
そして体勢を立て直すや、『あれ』は高くジャンプ。
巨体に見合わぬアクロバティックな動きで、アナシスの顔面に回し蹴りを喰らわせる! 格闘家が放つような素早く軽快な動きは、しかし花中の目に映る程度の『鈍足』。あくまで小手先の反撃なのか、アナシスは身動ぎすらしない。
いや、小手先どころか、まだ攻撃は始まっていなかった。
『あれ』は素早く、四本の足をアナシスの身体に巻き付けたのだ。節足動物のように見えた足は、実は軟体動物だったのかと思わせるほど柔軟に曲がり、アナシスの頭部に絡み付く。そしてその図体を浮遊させたまま、
持ち上がり、『あれ』に引っ張られたアナシスは、超音速で顔面を海水に叩き付けられた! その衝撃の大きさたるや、水煙がキノコ雲のように舞い上がるほど。世界が揺れ、衝撃波が辺り一帯に撒き散らされる。
されどアナシスもこの程度では怯まない。『あれ』が僅かに見せた隙を逃さず、長大な自らの身体をしならせて『あれ』に巻き付いたのだ。そして全身が膨れ上がるほどの力で締め上げる! この力の大きさには『あれ』も不味いと判断したのか、巨体を激しく動かし、アナシスを振り払わんと暴れた。巻き付いたアナシスはまるで絡まった糸くずのように振り回され、その余波が海面に巨大な津波を生み出していく。ついにはアナシスは振り払われ、恐るべき……恐らく音速の数十倍以上の……速さで数キロにも渡って吹っ飛ばされた。海に落ちたアナシスは自身よりも巨大な水柱と大津波を起こし、周囲の環境を破壊していく。
やがて津波は、十数キロは離れた位置に居た花中達に襲い掛かった。
もしフィアが水を操る能力を持っていなければ、この時点で全員海の藻屑になっていたかも知れない。いや、その前に激戦の余波で粉々に吹き飛んでいたに違いない。
「いやはや全くとんでもないケンカですねぇ」
フィアがそう思うのも至極真っ当で、花中は無意識にこくんと頷いていた。
フィアが展開した水球は今では十メートル近いサイズとなっており、中には花中とサナだけでなく、ミィとミリオンも避難していた。とはいえ水球が大きくなったのはミリオン達も避難させるためではない。フィア曰く密度が異なる水を何層も重ねる構造にすると耐衝撃性が増すそうで、単純な高密度水球よりも強度に優れるらしい。反面どうしても巨大化してしまい、動きも遅くなるので、こんな時以外には使い道がないとの話だが。
つまりそこまでしないと、たかが十数キロ離れただけでは彼女達の戦いに巻き込まれる事を意味していた。
今までミュータントの力は幾度となく見てきた花中であるが、ここまで圧倒的なものは初めてだ。いや、考えもしなかった、という方が正しい。確かにフィア達が最強クラスだという保障など何処にもなかったが……いくらなんでもアナシス達は強過ぎる。フィア達がまるで虫けら扱いではないか。これでは人間どころか、フィア達にも彼女達への干渉など出来ないだろう。何も出来ず、見守るしかない事が歯痒くて仕方ない。
それでも
故郷がすぐ近くにあるサナと比べれば、ずっと。
「サナちゃん、大丈夫……?」
「…………あ、う、うん……大丈夫! じゃ、ないけど……」
花中が声を掛けると、サナは気丈に振る舞おうとするも、すぐに項垂れてしまう。顔色は真っ青で、今にも倒れそうだ。
幸いにしてアナシスと『あれ』の立ち位置、そしてミスナムギーが盾のように存在する事で、遠く離れたモサニマノーマにはまだ重大な影響は及んでいないと思われる。だが、それも何時まで続くか……何時故郷が壊れてしまうか分からない中で、冷静になれと言う方が酷だ。
むしろ、ヒステリーを起こしていない事が不思議なぐらいである。
「……でも、私、信じてるから」
そんな花中の疑問に答えるように、サナがぽつりと呟いた。
「信じてる?」
「うん。だって、あの方はミスナムギーの神様なんだよ! 神様が、あんなよく分かんない奴に負ける訳ない!」
自信満々なサナの答えに、花中は目をパチクリさせる。それからサナに向けていた視線を、アナシスが戦っている『あれ』へと移した。
そして『疑念』を抱く。
アナシスの強さについて、ではない。強過ぎるとは思うが、それだけだ。生き物の『強さ』など、種によって大きく異なるのは当たり前の事。クジラと蟻のどちらが『強い』かなど、議論するまでもない話である。だからアナシスがフィア達より圧倒的に強くても、不条理だとは思うが違和感などは覚えない。
疑問の対象はアナシスと互角に戦っている『あれ』の方だ。
『あれ』はなんだ? 仮に何かしらのミュータントだとしても、『あれ』に似た生物など花中にはとんと思い付かない。無論フィアのようにあの外観は容れ物でしかなく、元の生物とは似ても似つかぬ姿という可能性はあるが……
疑問は他にもある。三百メートルはあろうかという巨体だ。アナシスのようにマグマ内に潜んでいたなら兎も角、『あれ』は一体今まで何処に潜んでいたのか? 巨大な水柱を吹き上げて出現した事から、海中からと考えるのが自然と思いたい。
だが、直前にフィアとアナシスが取った行動が脳裏を過ぎる。
彼女達は空を見ていた。魚であるフィアは鳥が天敵故か頭上の気配を察するのが得意だとフィア自身が語っており、ヘビもワシやタカなどの猛禽類が天敵である事を思えば同様の本能が備わっていても不思議ではない。そんな二匹が警戒していたのだから、空には何かが居たのだろう。
その何かが『あれ』である可能性は十分にある。『あれ』がもし空から降ってきたモノだとしたら、その正体は……
「むっ……」
考え込もうとした花中の意識を、フィアの緊迫した声が呼び戻す。
我に返り顔を上げたところ、水球には新たな局面が映し出されていた。先程まで格闘していたアナシスと『あれ』は距離を開け、互いに ― 『あれ』に顔など見当たらないが ― 向き合っている。双方、身体に目立った傷はない。あれほどの激戦を繰り広げながら無傷という事実に、花中にはもう驚愕以外の感想など浮かばなかった。
とはいえ、互角の状況という訳でもないらしい。
アナシスが息切れしているのに対し、『あれ』は直立不動を維持していたからだ。息切れも何も口すら見当たらない『あれ』に人間の常識が何処まで通じるか分からないが、スタミナの消耗は微塵も感じられない。アナシスは『あれ』に、体力面では差を付けられたようだ。
ここで何かしらの策をお見舞いしなければ、逆転は難しそうである……花中のそんな予想を、アナシスもしていたのだろうか。
アナシスの周囲が、不意にゆらゆらと蜃気楼のように揺らめく。
アナシスの身体が浸かっている海水部分から、多量の湯気が立ち昇り始めた。沸騰しているのか、海面が踊るかの如く荒ぶっている。アナシスの全身から膨大な熱量が発生している証だ。
そしてアナシスがゆっくりと開いた口の奥では、紅蓮の閃光が煌めいていた。
光に見惚れた花中は、アナシスが口から小さな ― あくまでアナシスの巨大な頭と比べて、ではあるが ― 火球が吐き出された瞬間を目撃する。火球の速さは凄まじく、数キロは離れていた『あれ』に一秒と掛からず着弾。
その瞬間、爆炎が『あれ』を飲み込んだ。
最早、巨大という言葉すら陳腐になるほどの炎だった。轟音を響かせながら、炎は一直線に何キロ……否、何十キロも伸びていく。紅蓮の煌めきは高度数万メートルまで行ったのではと思わせるほど高く舞い上がり、航空機でも巻き込まれてしまうほどの広範囲を焼き払った。多量の海水が気化したのか白煙も噴き上がり、炎と共に海を駆ける。まるで世界が巨人に掴まれているのかと思うほどの巨大地震が起こり、海原は巨大な津波となって四方へと散っていく。
これだけの事象を起こしたのだ。そのエネルギー量は凄まじく、十数キロも離れ、おまけに多重防壁のように展開していたフィアの水球さえも激しく揺さぶる。花中達は爆炎の進行方向とは九十度ほどずれた位置に居るにも拘わらず、だ。直線上に居たなら、百キロ彼方でも安全ではないかも知れない。
最早、化け物なんて言葉では推し量れない威力。この力に相応しい呼び名は――――
「……ア、アゲス! アーゲス!」
花中はアナシスへの称賛を考え始め、隣に居るサナは両手を挙げて大喜び。余程興奮しているのか、日本語ではなくモサニマノーマの言葉で花中に話し掛けてくる。意味は分からない、が、理解は出来る。確かにこれは『すごい』としか言いようがない。
「……なんて事」
「これは……」
当然、ミリオンやミィが零した言葉もアナシスに向けたもの
そう、花中は
「いやはやなんとも……『あれ』一体何で出来てるんですかね」
驚愕に満ちた、フィアのこの言葉を聞くまでは。
爆炎が、晴れていく。
紅蓮と白濁の色は徐々に失せ、世界が透き通ってくる。するとその奥底から、『漆黒』が顔を覗かせた。
あり得ない。その言葉を、花中は言い出す事が出来なかった。
『あれ』は、なんら変わらぬ姿で現れた。巨大な球体部分にはひび割れなどなく、相対的にか細く貧弱に見える脚部にも傷一つ付いていない。全身の漆黒はくすんですらおらず、何事もなかったかのよう。悠然と立ち続け、嘲笑うように不動を貫く。
端的に言えば、『あれ』は先の天変地異級の爆炎をまともに喰らいながら、まるで堪えていなかった。
これにはアナシスも驚いたのだろうか。ずるり、とその巨体を後退りさせる。
しかし『あれ』はそのままアナシスが逃げる事を許さない。
『あれ』の球体部分表面に、幾つもの切れ目が走る。やはりダメージがあったのか? 花中の希望的観測は、その切れ目が等間隔であり、尚且つ真っ直ぐに伸びている事から否定された。切れ目は奥から白い輝きを漏らしており、その姿を遠く離れた花中達にもハッキリと示す。
やがて切れ目は大きくなり、『あれ』の球体部分がパックリと割れた。それは一見して花が咲くようであり、美しさと、神秘を人間の胸に沸き立たせる。
そして自らの内側に潜めていた――――太陽を、剥き出しにした。
そうとしか例えようがなかった。巨大な球体部分が花のように開いたところ、露出された内側には白色に光り輝く火の玉だけがあったのだ。火の玉は球体部分より一回り小さかったが、それでも全長の半分近い大きさ、百五十メートル以上あるように見える。火の玉はまるでそれ自体が力場を発しているかのように浮遊しており、『あれ』の基部とは接触していない。ギラギラとした輝きは周囲を明るく照らし、夕暮れに染まっていた筈の世界を昼間のように変貌させた。時折プロミネンス……太陽から噴き出す紅蓮の炎に似た噴出があり、周囲の空気を蜃気楼のように歪めている。これを太陽と言わず、なんと言えば良いのか。
いや、呼び名など気にしている場合ではあるまい。
『あれ』は何故、自らの内側を露出させたのか?
【――――ッ!】
花中が思案を始めた時、『あれ』と対峙していたアナシスは既に行動を起こしていた。急速な動きでとぐろを巻きながら、ぶくりと頭部近くの肉体を膨らませたのである。屈強な身体を幾重にも束ね、球体のようなシルエットを取った体勢は間違いなく防御一辺倒……反撃や回避を想定していない、攻撃的抵抗を諦めたものだ。
対する『あれ』は、内側の太陽の煌めきを一層強めている。どんどんどんどん……このまま見続けたら、こっちの目が潰れると思わせるほどに。
「これは……不味い!」
花中が悪寒で震え上がったのと同時に、フィアが狼狽した叫びを上げた。
直後フィアは人の姿を溶かし、海面がうねりを上げる。無数の水がフィアの操る水球へと集まり、水球は急激に肥大化。多層構造を更に増やしたのか、周りの景色が滲み、殆ど見えなくなる。
突然のフィアの行動に、しかし花中には狼狽える暇もない。
次はミィが正体である巨大な猫の姿へと変化し、花中とサナの前へと移動。更にミリオンも黒い霧へと変貌し、花中達の正面で広がる。
まるで、フィア、ミリオン、ミィの三体が自ら壁となるかのよう。
三体の意図は、花中にはすぐに分かった。分かったが、最早その行動を問い質す事も、感謝する事も出来ない。
花中が口を開く前に、『あれ』の中の太陽は爆発したのだから。
「――――ぇ」
遅れて開いた花中の口から出たのは、間の抜けた声一つ。
フィアが、ミリオンが、ミィが、みんなが壁となってくれたのに。巨大な閃光は彼女達の脇を潜り抜けたほんの微かな分だけで、花中の視界を真っ白に染め上げた。眩しさで咄嗟に顔を両手で覆ってしまうが、視界は白一色のまま。薄目を開ける事すらとても出来そうにない。もし無理やりにでも開けたなら、そのまま網膜を焼かれ、二度と色鮮やかな世界が見えなくなる。そう予感させるものだった。
発光現象は、果たしてどれだけ続いたのか? 時計で正確に測ったなら、十秒と経っていない事を知れただろう。しかし感覚的には、まるで何分も続いたかのような圧倒的事象。やがて光の強さは急速に衰え、南国の日射し程度の明るさに戻っても、花中はしばらく目を開けられなかった。
とはいえ、何時までも目を瞑ってはいられない。何が起きたか気にもなる。恐る恐る、ゆっくりと花中は瞼を上げて
その目は、すぐに見開かれた。
フィアもミリオンもミィも、防御態勢を解いていた。故に目の前の景色がよく見える。
終末的な景色が。
海が二つに割れ、海水が割れ目に向かって滝のように流れ込んでいる。割れ目は幅数百メートル、距離は……分からない。地平線の彼方まで割れ、何処までも続いていた。割れ目の周囲では霧のようなものが立ち込めており、それが沸騰した海水が発する湯気だとは、すぐには気付けなかった。この地獄絵図を眺めるように立つ『あれ』は、開いていた球体部分を閉じ、剥き出しにしていた太陽を格納する。
そして割れた海の中心に、真っ黒になったアナシスの姿があった。
目を閉じるまで確かにあった、暗緑色は何処にもない。焼け跡に転がる木々のように、かつての色合いは面影すら残っていなかった。光が発せられる前と同じく丸まった姿こそ保っていたが、呼吸するような動き、痛みに震えるような動き、気持ち悪さで揺らめく動き……生気を感じさせる、あらゆる動作が確認出来ない。
恐らく、炭化している。
何があったのかは想像でしかないが……『あれ』は何かしらの発光現象を起こした。それは海を切り裂くほどのエネルギーを持っており、攻撃を予期したアナシスは防御態勢を取ったが……力及ばず、炭化してしまった。
つまりアナシスは、敗北したのだ。
「セゥ……セゥ、セゥ、セゥセゥセゥ……アノヴラーオ! モーソ・アナシス ギベャアボ アノヴラーオ!?」
サナが、悲鳴染みた声で喚く。頭を抱え、彼女は水球の中で蹲ってしまった。
花中はサナに手を伸ばそうとし、しかし寸前で引っ込める。
信仰の対象が敗れた。これがどれほどショックなのかは、無信仰である花中には分からない。どのような声を掛ければ良いかなど想像も付かない。今はそっとしておく事しか出来ないと、唇を噛む。
何より今は誰かに構っている余裕などない。花中は気持ちを切り換え、『あれ』へと視線を移した。
アナシスを打ち倒した『あれ』……実力は未知数だが、アナシス以上の戦闘能力を有しているのは間違いない。アナシスにすら、フィア達の誰もが勝てる訳ないと思っていた。花中も先の戦いぶりを見る限り、フィア達がアナシスに勝てるとは思えない。自分が作戦を考えたところで焼け石に水。フィア達が『あれ』に勝つ事もまた、相性や弱点云々を抜きにすれば不可能と考えるのが妥当だ。
そんな『あれ』が、もしも自分達に関心を持ったなら。
過ぎる可能性に震え上がる花中だったが、『あれ』は全く何処吹く風。四つに分かれていた脚を一本に束ねて再びピンの上に乗ったゴルフボールのような姿になると、今度はその身を水平に傾ける。普通ならばそのまま倒れてしまうような動きは、しかし正体不明の力場が発生しているらしく、『あれ』は海水から数十メートルほどの高さで浮遊していた。
そして巨体故ゆっくりに見える、恐らく秒速数百メートルほどの猛スピードで、『あれ』は海の彼方を目指して進み始めた。その姿が地平線の先へと消えるまでには一分以上掛かったが、今まで繰り広げていた行いを思えば、あまりにも呆気ない退場である。
花中達が自らの安全を実感するには、それから更に時間を置く必要があった。
「ふぅ……いやはやどうにか死なずに済みましたねぇ」
「ほんと、一時はどうなるかと思ったわ……」
「もぉー、だからさっさと帰ろうって言ったじゃん」
フィア達がわいわいと話し始めて、花中はようやく安堵の息を吐く。無論、あの出鱈目な存在は完全なる野放し状態だが……手立てなど思い付かない。目的や正体が分からない今、『あれ』については放置するしかないだろう。
そもそも、なんだか分からない『あれ』にかまけている暇などない。
「さてと。あんまり考えたくない気持ちは分かるけど……見に行かない訳にもいかないわよね?」
同意を求めるようなミリオンからの問い掛けに、花中は無言のまま、小さく頷いた。次いでサナの方と横目で見てから、覚悟を決めて自分の正面を見つめた。
しばらく前を見続けていた花中はやがて項垂れ、小さく首を横に振る。そのまましばし動かずにいたが……ゆっくりとだが頭を上げ、振りかぶり、フィアの方へと向けた。視線に気付いたフィアも振り向き、自然と花中と見つめ合う格好になる。
「どうしましたか花中さん? 何かご用でしょうか?」
「……うん。あのね、フィアちゃん。モサニマノーマに、戻りたいから、連れて行ってくれる? 出来れば、急いで」
「合点です。その程度の事でしたら朝飯前ですよ」
花中が頼むとフィアはすぐに水球を絞り、ミリオンとミィ、そしてサナを外に閉め出す。ミリオンがサナをキャッチしなければ、そのままサナは大海原にほっぽり出されていただろう。しかしフィアは全くお構いなし。悪びれるどころか、何事もなかったかのように花中だけを乗せてそそくさと海を走り始める。後ろを振り返ればミリオンとミィは肩を竦めるだけで追い駆けてはこず、放り出されたサナの応対をしていた。
友人達を無下にするフィアの何時も通りな態度に、何時もの花中なら頬を膨らませていただろう。されど今の花中に、そんな余裕はない。サナを置いてきぼりにした事も……今この瞬間に限れば、その判断が悪いと叱る事など出来ない。
視界には入っていた。だけど意識を外し、
『神の島』であったミスナムギー……そこは今、無残な姿を晒している。島の大部分を占めていた山体が崩落し、火山らしい美しくも荘厳な姿を失っていた。原因は間違いなく、『あれ』が放った光の余波。アナシスすら倒すほどの力に、ミュータントに遠く及ばない『大自然』では耐えきれなかったのだろう。恐らく力の大部分はミスムナギーをぶち抜いたと思われる。
なら、今までミスナムギーに守られていたモサニマノーマは――――
渦巻く不安を抑えるように自分の胸に手を当てながら、花中はサナの故郷を見据えるのだった……
本作は能力バトル小説です。
……能力バトル小説です(意地でも曲げない)
まぁ、アナシスの巨体も能力の産物ですので。大怪獣の激突ってワクワクしますよね(本性)
次回は10/22(日)投稿予定です