夜は明け、朝がやってくる。
町を通り抜ける秋の風は涼やかで、空気は程よく冷えて心地良い。咲き誇るキンモクセイに惹かれた虫達が飛び交い、その虫を狙って小鳥達も動き出す。風の音、鳥の囀り、花の香り……どれもが爽やかな雰囲気を伴い、包み込むように町に満ちていた。
そして降り注ぐ陽光は眩しくも穏やかで、夢の世界から優しく意識を掬い上げてくれる。
「ぅ、にゅ……」
窓から入り込むそんな日射しを浴びて、花中は目を覚ました。
布団の中でもぞもぞと身を捩らせる。それから手を伸ばし、足を伸ばし、背筋を伸ばす。血の巡りが活性化し、段々と身体が温まってきた。瞼も自然と開き、意識の覚醒に伴って世界が彩りを取り戻す。
ゆっくりと身を起こした花中は、しばしそのままの態勢でぼんやり。目を擦ってから近くにある目覚まし時計を見たところ、時刻が十二時近くである事を示していた。既に朝とは言えず、殆どお昼である。今から身支度をしても、家を出られるのは二時近くになっているだろう。
学校がある平日だったなら、この瞬間花中は顔を真っ青にし、ショックのあまり失神していたかも知れない。しかし今日の花中は違う。昨日が土曜日である事を覚えているからだ。つまり今日は日曜日、学校がお休みの日である。
故に、いくら惰眠を貪っても遅刻にはならない。
「…………………………おやすみぃ」
あっさり眠気に負けた花中は、再び布団の中へと潜り込んだ
「なぁに二度寝しようとしてんのよ、この自堕落娘」
「みゅうっ!?」
が、それを戒める声、それと同時にお尻につねられたような痛みが走り、花中は跳び起きた。
「み、ミリオンさん……」
「おはよう。とても良い目覚めになったわね?」
振り向けば、ベッドの側にはミリオンが立っていた。確かにシャッキリと目は冴えた。とても二度寝なんて出来ないほどだ……お尻を力いっぱいつねられれば誰だってそうなるが。
お尻を擦りながら花中は起き上がり、ベッドの上で正座してミリオンと向き合う。目覚めは悪くないが機嫌は右肩下がり。ムスッと唇を尖らせる。
しかしながら直後にふと思い出し、花中は目をパチクリさせた。
そうだ。自分は昨日、野球をしていた筈だ。そして自分が打席に立った時
色々と込み上がってきた恥ずかしさで俯きつつも、感謝の念も覚え、花中はもじもじしてしまう。
「あ、す、すみません。わたし、昨日途中で倒れた、みたいで……」
「え? ああ、そういえばそうだったわね……あまりにもアホらしくて、忘れていたわ」
「ふぇ?」
「んーん、なんでもない。そんな事より、大事な話があるんだけど」
後半、何か酷く罵倒されたような気がしたが、ミリオンにはぐらかされてしまう。もやもやとした気持ちは残るが、大事な話があると言われてしまった。自分のこの疑問が大事かと問われると、花中にはYESと答えられない。顔をぷるぷると振って気持ちを一新し、ミリオンの話に耳を傾ける。
「はなちゃん、あのゴリラと最近会った記憶ってある?」
そしてミリオンが切り出したこの言葉で、花中はその身を強張らせた。
――――花中の頭の中を、思考が目まぐるしく駆け回る。
昨日出会ったあのゴリラは間違いなくミュータントだ。生物がミュータント化するには伝達脳波……それを発する花中との接近が必要になる。具体的にどれだけ近付く必要があるかは分からないが、フィアがミュータントとして覚醒した時、花中はフィアが暮らす池にどぼんと落ちている。それまでは普通の魚だったようなので、半径数メートル、広くても精々十数メートル程度が伝達脳波の効果範囲と考えて良いだろう。
では、自分はそれだけの『至近距離』にゴリラを捉えた事があっただろうか?
花中には、まるで身に覚えがなかった。ミリオン曰くミュータントの力が維持出来る期間は約五年との事であり、その五年間の出来事を完璧に覚えているかといえば無論否である。死角に潜んでいた存在を把握するような能力、或いは技術だって花中は持っていない。故に例えば『猫』なら、全く気付く事もなくすれ違い、何時の間にかミュータントを増やしていたとしてもおかしくはない。
しかしゴリラは体長二メートルを超える巨大生物である。もっといえば日本に野生個体は生息していない。日常生活の中で知らぬ間にすれ違うなど、あり得ない事態だ。日本でゴリラと接近するチャンスがあるとすれば動物園だけだろうが、花中はここ五年ほどの間、動物園に行った事はない。
一体何時、彼とすれ違ったのか? 何時、彼はミュータントになったのか?
尋ねていたら、彼は一体なんと答えたのか――――
「どうやら、覚えはないみたいね」
そのまま深い思考の海に泳ぎ出そうとした花中であったが、それを呼び戻したのは質問を投げ掛けてきたミリオン本人だった。結論付けた物言いを聞く限り、ミリオンにこれ以上花中を問い質すつもりはないのだろう。
「……はい」
花中に語れるのは自分の不完全な推論ではなく、確かな肯定の一言だけだった。
「OK。それならそうで構わないわ。分からない、というのも大事な情報なんだから」
「……一体、あのヒトは、どうやって……」
「幾つか思い当たりはするけどね。例えば動物園間を移動する際にあの子が乗せられた車と、はなちゃんがすれ違ったとか。もしくは、はなちゃん以外の伝達脳波を発する人間と接触したのか」
「えと、前者は兎も角、後者は、あり得ます、か?」
「あり得なくはないわよ。はなちゃんっていう実例が存在する以上、第二、第三の実例が現れてもおかしくないでしょ?」
ミリオンの推論に、花中は頷く事しか出来ない。伝達脳波を発する人間はごく少数であるが、世界に一人だけというルールもないのだ。実際夏に出会った奏哉という男性も、花中と同じ『体質』であった。漫画の主人公が持っているような、オンリーワンな能力ではないのである。
だが、希少である事もまた事実。
少なくともミリオン自身の調査により、六十億人の人間にこの『体質』は備わっていない事が分かっている。世界人口が七十億以上だとしても、残り十億人のうち果たして何人がこの『体質』を持っているのか。人種的な偏りが大きかったとしても、さして大きな数ではない筈だ。
それだけ希少な人間がこの小さな町に、過去も含めてだが三人も訪れた? 偶然という事も十分にあり得るが、些か出来過ぎてはいないか……花中は小さな違和感を覚える。
よもやミリオンがその違和感に気付いていないとも思えない。恐らく既に、彼女なりの調査を始めている事だろう。
――――であるならば、花中がわざわざ進言すべき内容などありはしない。
「……お任せ、しても、良いですか?」
「当然。これは私の『実益』に関わる話よ。するなと言われてもお断りね」
主語はなくとも疎通出来る意思を交わし、今後の方針について纏める。空気が張り詰め、静寂という名のピリピリとした雰囲気が花中の部屋の中に満ちた。
「あ、そうそう。言い忘れていた事が三つあったわ」
尤も、この空気もミリオンの暢気な声でさらりと押し流されてしまうのだが。
またしても考え込もうとしていた花中は目をパチクリさせ、今度は小さく首を傾げる。
「言い忘れていた、事?」
「ええ。こっちは本当に大した話じゃないわ。ただの世間話ね」
ひらひらと手を扇ぐミリオンは、随分と気が抜けている。近所のおばちゃんのような、お喋りしたいオーラを発していた。
花中もお喋りは大好きだ。真面目なのはここまでにして、自分も楽しもう。そう思った花中は四肢から力を抜き、身体がゆらゆらするぐらいリラックス
「いやねー、昨日遊んだ野球場なんだけど滅茶苦茶に壊しちゃったから、今すっごいニュースになってて。どんちゃん騒ぎで面白いわよー」
「へぇ……へぇ?」
していたので、ミリオンの発言を危うく流すところだった。
滅茶苦茶に壊しちゃった? 野球場を? 昨日遊んだ?
逆から読んでも前から読んでも、解釈出来る意味はただ一つ。だらだらと脂汗が出てくる。しかしここは冷静にならねばならない。滅茶苦茶に壊した、という言葉は確かに恐ろしさを漂わせるが、曖昧で具体性の欠片もなく、どうとでも受け取れる。大袈裟に言っているだけかも知れない。
「ちなみにこれ、今日の新聞。『市街地で大陥没。住宅地の一部にも影響が』ですって」
「おぼふっ!?」
等と思いたかったが、ミリオンが取り出した新聞が現実を突き付けてきたので、花中は呻きを上げてしまった。よくよく考えたら、こういう時ミリオンは大袈裟な話などした事がなかった。
ミリオンがそっと差し出してきた新聞を震える手で受け取り、記事の内容を確認。曰く、市民の憩いの場である草野球場が一夜にして崩落。市街地でも電柱が傾く、道路のアスファルトが歪むなどの影響が出ており、市民生活によって支障が出ている。泥落山の『噴火予兆』もあり、政府は調査団を派遣するとかなんとか。
どんちゃん騒ぎなんて可愛いもんじゃない大騒動に、花中の顔が真っ青に染まるのにさして時間は掛からなかった。ひょいっとミリオンが新聞を取り上げても顔色は元に戻らない。
幸い、かは分からないが、『政府』が動いている。今頃総理大臣は青筋を立てているか、はたまた頭を抱えているか、或いはほくそ笑んでいるか。なんにせよ隠蔽に奔走してくれている筈だと信じる他ない。ひとまずミリオン達の正体は表沙汰にならないと期待し、この問題は棚上げしておく。
しかし花中の顔色は中々戻らない。
何分、ミリオンの『世間話』はまだあと二つも残っているのだから。
「……とりあえず、この件については、あとで、詳しく、訊かせてください……それで、他の話は……?」
「もう、そんな暗い顔しないで良いのよ。悪い話はこれでおしまいなんだし。次は笑える話だから安心して」
「悪い話って、自覚してるのでしたら、こうなる前に、止めてくださいよ……」
ジト目で睨む花中だったが、ミリオンは怯みもせず自らの懐に手を突っ込む。それから一台の、ノートパソコンを取り出した。何処にしまっていたのか、なんて訊くだけ野暮。そして話を逸らさないでと文句を言っても聞いてくれないのは今更。花中は精いっぱいの抗議としてわざとらしくため息を吐きながら、ミリオンからパソコンを受け取る。
……受け取ってから思ったが、何故ミリオンはパソコンを渡してきたのか? 外観からして、このパソコンは花中の私物。オレンジ色のランプが点いていたので、今はスタンバイ状態だ。花中は普段使わない時は電源を落とす派のため、ミリオンがわざわざスタンバイにしたものと推測出来る。なら、起動すれば何か分かるかも知れない。
ミリオンから特に指示もないがとりあえず花中はパソコンを起動し、ログインしてみる。と、ネットの画面が表示されていた。どうやらニュース関係の記事らしい。花中は早速その記事に目を通す。
その目がパチリと開かれるのに、一秒と必要なかった。目を見開いたまま、花中はパソコンを食い入るように見る。その画面に映る文字を一気に読み進める。
「ぷふっ」
やがて、花中の口から笑い声が漏れ出た。
「ほらね、言ったとおりでしょ」
「むぅ……こんなので、誤魔化されませんからね」
「誤魔化す気なんてないわよ。ただちょーっと良い話をしただけよ、偶々このタイミングで」
悪びれるどころか満足げなミリオンに、花中は唇を尖らせる……ものの、長続きしない。青ざめた顔は血色を取り戻し、頬が緩んで笑みが戻ってしまう。
そして視線は自分の手にあるパソコンの方へ、引き寄せられるように向く。
画面に書かれていた見出しは『親の心子知らず』。
表示されていた写真には、
その写真の中で大人のゴリラは頭を掻き、もう片方の手には野球ボールが握られていた。対する子供の方は、足下に子供用のオモチャのバットが無造作に捨てられており、手には草が握り締められている。記事曰く、大人がバットを渡したが、子供はそれを躊躇いなくポイ捨て。今はこっちが良いと言わんばかりに草を振り回す遊びを始めたらしい。
つまるところ大人は野球をしたいのに、子供は全然違う遊びを始めた――――ように見えるとの事。よもや、本当に『野球で遊びたかった』なんて、記事を書いた人物は想像だにしていないだろう。そもそもにして、記事の本題は行方不明になっていたゴリラが何時の間にか戻ってきた事なのだから。
きっと、この記事の真相に気付いた『人間』は花中だけだろう。だから花中だけが、この記事で笑いが抑えきれなかった。
「ぷくく……く……」
「もう。はなちゃんったら、ちょっと笑い過ぎなんじゃない?」
「だ、だって……子供のために、オモチャを持って行って、なのに、捨てられるって……」
まるで、子育てを頑張る新人お父さんみたいじゃないか。
そう思ったら、もう花中の頭の中から不安や心配は抜け落ちてしまった。もう真剣に悩んだり、注意するなんて出来っこない。
確かに先の野球で、たくさんの物が壊れたようだ。迷惑を被った人も数多く居るに違いない。ちゃんと怒らねばならない事態であり、二度と起こしてはならない。だけどこうして楽しそうな親子の写真を見ていると、先日の野球が酷いものだとはどうしても思えなかった。
ちゃんと話して、今度こそ周りに迷惑を掛けないようにしよう。その時は『彼』にもこっそり脱走してもらい、みんなで遊ぼう……自分は最後まで参加出来なかった、野球で。
ひっそりと込み上がる想いを胸に、花中は何時までも笑みを浮かべ続けた――――
「……ところで、言い忘れていた話って、三つ、ですよね? 最後の一つは?」
かった。浮かべ続けたかったが、しかしミリオンの話はまだ終わっていない。
花中から話を促され、ミリオンは「あぁ」と無意識な返答と共にポンっと手を叩いた。どうやら自分で言い出しておきながら、すっかり忘れていたらしい。ならば、先のゴリラ以上にどうでも良い話なのだろう。花中はリラックスしたまま、ミリオンが話し始めるのを待つ。
「花中さーん起きてますかぁ?」
そうしていたところ、ノックなしに部屋の扉を開けるモノ――――フィアがやってきた。
「あ、フィアちゃん。おはょ……」
起きてからはまだ顔を合わせていなかった友人に、花中は挨拶をしようとする。が、その言葉の末尾は掠れるように消えてしまった。
というのも今日のフィアは何時ものドレス姿ではなく、半袖長ズボンというラフで動きやすそうな格好だったからだ。そしてその手には、プラスチック製と思われる安っぽいバットが握られている。
まるで、これから野球に行くかのよう。
無論その恰好がおかしいという訳ではない。しかしフィアは普段、ドレスなどの華美な服飾を好んでいた。何時もらしからぬ見た目に違和感を覚え、花中は少し驚いてしまったのである。
同時に、特に根拠もないが……嫌な予感もした。
「……えと、フィアちゃん。その格好は……?」
「ん? どうです何時もと違って格好いいでしょう? 庭で野球の練習をしていたのです」
「あ、うん。カッコいいね……練習?」
「ええ。昨日はあのゴリラと引き分けになってしまいましたが今度こそコテンパンにしないと気が済みませんからね。次こそ倒せるように練習を重ねていたのです」
「? えと、ゴリラさん、味方だったよね……?」
訊けばすらすらと出てくるフィアの答えに、花中は首を傾げる。何故味方と戦ったのか、さっぱり分からない。というか自分達は怖いお兄さん達と試合していた筈で、彼等はどうなったのだろうか?
疑問ばかり浮かんでくるが、花中は追求しなかった。なんというか、訊けば自分の頭が痛くなるような予感がしたので。
「それよりも一つご相談がありまして」
だからフィアの方から話を変えてくれた事は、願ったり叶ったりであった。
「相談? わたしで出来る事なら、良いよ」
「おお助かります。いやはや実はですね……」
花中が快諾すると、フィアは満面の笑みを浮かべる。
「ボールを打ったらお隣さんの家の壁をぶち抜いてしまいましてどうしたら良いですかね?」
それから平然と反省の色を微塵も見せる事なく、悩みを打ち明けた。
ぶち抜いた。
ぶち抜いた。
ぶち抜いた。
フィアの語る言葉の一つが頭の中で反響。その響きがまるで金縛りのように花中の身体を縛り付け、動きを封じる。
そして数秒経って、どうにか動けるようになった花中はギギギとミリオンの方を振り向く。花中と目が合ったミリオンは肩を竦めるだけで、こちらも悪びれた素振りもなし。
「……話そうとはしたわよ。さかなちゃんが庭で野球やってるんだけど、止めた方が良くないかって。ほんの今さっき」
弁明の言葉にも、申し訳なさを見い出す事は出来なかった。
いや、めっちゃ大事な話じゃないですか。なんで最初にこの話してくれないんですか――――抗議の声を、花中は必死に抑え込む。そんな無駄話をしている暇はない。少なくとも今は。
「あ、あの、フィアちゃん? ぶ、ぶち抜いたって、その、どんな、感じに……?」
「んー穴は大きくありませんよ精々十センチぐらいですから。それと二~三軒ほど貫通しているだけみたいです。まぁ大した被害ではないですね」
何が精々なのか、何がだけなのか、何処が大した被害ではないのか。フィアへのツッコミを呑み込む度に、花中は自分の口から引き攣った笑いが出てくるのを抑えきれない。話を聞けば何か閃くかと思ったが、脳裏にそのような気配は微塵もない。
やっぱり、もう野球は懲り懲りだ。
そんな事を思いながら、花中は頭を抱えたまま逃げるようにベッドに顔を埋めるのだった……
幾つかの謎を残しつつ、本章は完結です。
箸休め回のつもりで書いていましたが、お休み出来ましたでしょうか?
次章は何時も以上の激戦ですので体力持っていかれますよ!(ぇ
次回は間もなく投稿致します。