彼女は生き物に好かれやすい   作:彼岸花ノ丘

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異種混合草野球頂上決戦5

 太陽は完全に沈み、空では一番星が輝いていた。

 月が天上で輝くも、地上は夜の闇で満たされる。住宅地では街灯や家々の明かりが暗さを払うも、それらが届かない草野球場は底なしの暗黒に閉ざされていた。最早此処は人間の場所ではない、人間が居て良い場所ではない……意思を持たない、ただの『事象』に過ぎない筈の闇が、まるでそう語るかのように漂っている。

 そして闇の中に潜むのは四体の『怪物』達と――――その怪物達から数メートル離れた位置で集まる五人の男達。

「なぁ……やっぱり、おかしくないか?」

 その男達の中で今の今まで出番が全くなかった、眼鏡を掛けたインテリ風の男 ― 『インテリ』と呼ぼう ― が、仲間である男達に自身の率直な意見をひそひそ声で伝えた。

 大柄と優男、そしてリーダーの三人はそれぞれ顔を見合わせ、それからインテリの傍へと歩み寄る。赤ら顔ながら、三人とも眼差しは真剣。インテリはごくりと息を飲み、

「……そうかぁ?」

 リーダーから返ってきた能天気な答えに、彼は思わずずっこけた。大柄や優男もリーダーの言葉に異論はないのか、キョトンとしながら缶ビールを口にしていた。

「いやいやいや!? そうかも何もあんな出鱈目な球を投げてきたんだぞ!? なんとも思わないのか!?」

「あー、確かに。ありゃ凄かったな。きっとアレだ、中国武術の達人とかってやつだ。気とかオーラとかあるやつ」

「んな非科学的なもんある訳ないだろ! どう考えても人間業じゃない!」

 大声で否定するインテリだが、リーダー達は納得するどころか首を傾げる始末。

「……じゃあ、お前は『アイツ』がなんだって言うんだよ」

「それ、は――――」

 それどころか大柄が発したこの疑問を受けて、インテリは言葉を詰まらせてしまう。

 チラリと、インテリは対戦相手である『少女達』の方に視線を向ける。仲間の一人が倒れ、わいわいと騒ぐ中、一人……或いは一匹、明らかに浮いている姿がある。他が圧倒的な美少女揃いの中で、唯一身の丈二メートルぐらいあって、肩幅が並の男の倍はあって、全身毛むくじゃらの上にウホウホ言っている挙句、顔面の形が明らかに人間離れしている男……多分男。

 ゴリラである。

 ……インテリは頭を抱えた。あの球技は人間業じゃない。だとすればあの毛むくじゃらの男は『ただの人間ではない』と考えるのが妥当であろう。しかし、では何者かと問われると――――ゴリラという回答しか浮かばない。人間じゃない → では正体は……と思考をしたいのに、その思考にゴリラが割り込んでくるのだ。いや、もう絶対にお前ゴリラだろと言いたくなるぐらいには彼はゴリラっぽいのだが、ゴリラが魔球を投げてくる訳がない。ゴリラである筈がないのに、見た目がまんまゴリラの所為で考えが散ってしまう。

「なんだよ、答えられねーんじゃん」

「そんな事より、そろそろ本題に入ろうぜ。良い感じに暗くなってきたからな。へへ、楽しみだぜ……」

「いいや、まだ時間的に通行人が居てもおかしくない。もっと遅くなってから……それに実行するのは俺等の攻撃回である裏だ。バットがあれば、あの男を黙らせるのも楽だろ」

 沈黙するインテリを他所に、リーダー達は『今後』の打ち合わせをひそひそ声で始める。アルコールの影響で欲望が前面に出てきているのか。最早危険要素などないと考える姿は、獲ってもいないタヌキの皮算用する猟師と変わらない。

 彼等では駄目だ。酒に侵されていない、クリアな頭脳相手でなければ話にならない。

 そしてそのクリアな脳の存在に、インテリは心当たりがある。

 あるのだが……

「……………」

 インテリは頭を過ぎった『顔』の方へと振り向く。

「う、うぅ……は、腹が……痛い……! ま、またアイツらを相手すると思ったら、腹が……腹がぁぁぁ……!」

 そこでは脂汗を浮かべながら、身悶えするスポーツマンの姿があった。

 金髪少女達に打たれまくった事が、余程ショックだったらしい。当人曰く、中学時代もプレッシャーやらなんやらでよくお腹を壊していたとか。スポーツマンが野球に対しそれなりの想いがあるのはインテリも知っていたが、その所為でこんな姿を晒すとは。

 実のところスポーツマンは下戸なので、彼の頭にアルコールは一滴も入っていない。入っていないが、あの『快速電車の中で強烈な便意を覚えたサラリーマン』のような苦悶の顔を見るに、まともな思考は残っていないだろう。彼も使えそうにない。

 まともなのは、自分だけ。

 その事実を改めて確認したインテリは、小さく頭を横に振ると背伸びを一つ。肩を回し、屈伸をして、身体を解していく。

「……次は自分が出よう」

「お前が? 運動が得意だった記憶はねぇが」

「運動が出来なくても、やれる事はあるよ」

 嘲笑うような大柄の言葉を軽く流すと、インテリは金属バットの置かれたホームベース目指して歩き出す。

 そう、例え運動は出来ずとも、頭を働かせる事は出来る。間近で見れば、何か『違和感』を捉える事が出来るかも知れない。あのゴリラだけでなく、ゴリラと共に行動している少女達についても。

 リーダー達は獲物としか見ていないからか、全く気にしていないが……あの女達も異様だ。ゴリラの起こした事態を、さも当たり前のように受け止めていた。彼女達にも『秘密』がある、と思うのは、決して疑心暗鬼ではないだろう。

 全てを解き明かさんとばかりにインテリは力強く歩み――――

「……とかなんとか、好き勝手言ってるわねぇ。それに面倒な輩も出てきたし」

 そんな彼の背中を見送りながら、数メートル離れた位置に居るミリオンはぼそりと呟いた。

 彼等としてはひそひそと、こちらに聞こえないように話したつもりなのだろう。実際彼等の声は小さく、人間ならその輪の中に入らねば会話の全容など見えなかったに違いない。

 だが相手が悪かった。微細物質の集合体故周囲に拡散しているミリオン、振動に対する感度がずば抜けている魚類のフィア、聴力に優れる動物といわれている猫のミィ……彼女達にとって、人間のひそひそ話など聞き耳を立てずとも一言一句逃さないのだ。尤も、人間に近いゴリラは全く聞こえていないのか首を傾げていたが。ベンチで横になっている花中に至っては未だ目を回して気絶している有り様で、彼等どころか傍に居るミリオン達の話すら聞こえていないだろう。

 話を聞いていたミィとフィアだけが、ミリオンの独り言に反応した。

「どーすんの? 花中には人間じゃないってバレないようにしろって言われてたけど」

「どうもこうも面倒事になる前に全員殺せば良いんじゃないですか? 花中さんが気絶している今ならなんとでも誤魔化せますし」

「ちょ、それは反対! なんでもかんでもすぐに殺そうとして、ほんと野蛮なんだから」

「ああん? ならどうすれば良いと? 代案もない癖にでしゃばるのはお上品ではなく考えなしと言うのですよ」

「なっ!? この……!」

「はいはい、いきなり仲間割れなんかしないの。あと殺すのは私も反対。全員行方不明にするのは簡単だけど、連中の家庭環境も知らずに処理するのは不味いわ。警察とか出てきたら、後々面倒でしょ。例え倒すのは簡単だとしてもね」

 険悪な雰囲気を事前に察知し、ミリオンがそれを戒める。フィアは舌打ち一つを残し、そっぽを向いた。ミィの方も不機嫌そうに口をへの字に曲げる。いきなりの不仲にゴリラは少しおろおろしていた。花中が離脱した途端チームワークがズタズタ状態。ミリオンが肩を竦めるのも仕方ないだろう

「とりあえず、もっと力を抑えていきましょ。どの道攻撃回で三点は取れるんだから、失点を二に抑える限り勝ちは確定。それに手加減しないと、人間なんて弱過ぎてつまらないでしょ?」

「……まぁ、人間を殺さないやり方なら、それで良いよ」

「……ふん。良いでしょう下手に怯えさせて逃げられては興醒めですし。あと花中さんを酷い目に合わせた仕返しもしないといけませんからね。私も異議なしです」

 人間の身の安全を保障しつつプライドを煽る物言いをするミリオンに、ミィとフィアは同意する。残すはゴリラの意見だが……

「ウホッ!」

「うん、手話よりもビシッと親指立ててくれる方が分かりやすくて良いわね……じゃあ、全員合意って事で。それなりに楽しむとしましょ」

 快諾してくれて、ミリオンは満足げに微笑みながら頷いた。

 話が終わるやフィアもゴリラもミィもそそくさと散っていき、それぞれが試合再開の準備をする。ミリオンも遅れて、試合の支度を始めた。

 ――――別段、信頼しきっていた訳ではない。

 ただ、それでも花中が事前に「騒ぎを起こすな」と念押ししているのだ。多少の『騒ぎ』は致し方ないとしても、よもや本気を出す事はあるまい。精々力加減を誤って、人間が数人怪我をする程度であろう。怪我人ではなく死人が出たら……面倒だが、その死体には『気化』してもらうとしよう。無論目撃者も含めて。

 ミリオンはそう考えていた。しかし彼女は、騒ぎが起こるとすれば対戦相手(人間達)に『原因』があるという前提条件を無意識に設定していた。

 彼女達は基本身勝手である。例えその騒ぎが世間を、人を、『仲間』を傷付けるものだとしても、自分が楽しければそれを許容出来てしまうほどに。社会性を持つ人間には耐えられない、『仲間』同士のケンカを娯楽として平然と消費出来る。つまるところ自身ですら見誤るほどに――――彼女達には、チームワークというものが欠けているのだ。

 だからこそ、あんな『結末』を迎える訳で。

「よーし次もボコボコにしてやりますよー!」

「ウホホーッ!」

「いってらっしゃーい」

「程々にしなさいよー」

 その事を誰一匹として自覚していないのだから、あの『結果』を避けられる筈もないのだった……

 ……………

 ………

 …

 さて、その後の展開について軽く纏めよう。

 ミリオンの提言通り、フィア達は自身の力をセーブし、試合に臨んだ。打席では容赦なく打ち続けるが、ホームラン量産程度であれば『人間離れ』ぐらいの技でしかなく、『人間じゃない』確証にはつながらない。インテリの疑心の眼差しは変わらなかったが、他の男達の方はさして気にしていない様子だった。ちなみにスポーツマンは毎度真面目に空振りしてくれるゴリラに、野球少年らしい清々しい微笑みと眼差しを向けるようになっていた。

 そうして迎えた六回裏――――点数は十八対四と大差が付いていた。無論、十八点を取ったのはフィア達の方である。

「ふふーん余裕ですねぇ」

 ベンチでふんぞり返りながら、フィアは点差の大きさに満足する。ミリオンやミィも笑顔を浮かべており、試合を心から楽しんでいた。

「ウホゥ。ウホ」

 それは今回も空振り三振してしまったゴリラも同じで、得点ゼロにも拘わらず彼は暢気に笑いながらベンチに戻ってきた。フィア達は明るく彼を出迎える。骨格的にバットを振るのが難しいのか、彼だけ未だにヒットを一本も打てていない。しかし代わりにフィア達が毎度ホームランを量産しているのだ。咎める必要など何処にもない。

 何より、彼の『本業』はバッターではない。

「うぅぅ……は、腹がまた痛くぅぅ……!」

「いや、お前さっきまでゴリラ相手に普通に投げてただろ」

「彼は別だ。毎度三振してくれるから、あの人と対峙している時は心が安らぐ」

「お、おぅ。まぁ、なんだ、休んでおけ。色んな意味で……そろそろ頃合いだしな」

 色んな意味で心に深い傷を負ったスポーツマンが自軍のベンチに戻ると、入れ替わるようにリーダーがグラウンドに出てくる。そんな彼の後を追うように、フィアとゴリラもグラウンドに向かう。

 リーダーが立つのはバッターボックス。フィアはそのリーダーの後ろでしゃがみ、ピッチャーとしてグラブを構えた。

 そしてゴリラが向かうのは、ピッチャーが立つべきマウンド。

 これこそ彼の『本業』だ。無論フィアやミィにもボールは投げられるが、投球こそが能力である彼ほど向いてはいない。力加減を誤る可能性もある。ゴリラにピッチャーを任されるのは必然で、実際彼は打たれたら一点というルールの中たった四失点で抑えている優秀なピッチャーだった。

 ――――そう、()()()()

「ウホッ!」

 バッターとキャッチャーの準備が終わったのを見計らい、ゴリラは力強いフォームでボールを投げる。放たれたボールは正に剛速球と呼ぶに相応しい速さを誇り、リーダーはバットを振るうも空振り。ボールは耳障りの良い音を立ててフィアのグラブに収まった。

 フィアはボールを投げ返し、ゴリラはそれを軽々とキャッチ。ふふん、と自慢げな鼻息を鳴らしながらフィアはリーダーに嫌味ったらしい眼差しを送る……リーダーはフィアに見向きもしていないので、フィアの嫌味をあっさりスルー。ふて腐れるようにフィアは唇を尖らせる。

 そしてリーダーがバットを構え直してから、ゴリラは二投目を放つ。此度も先と同じぐらいの剛速球であり、

 しかし今度のリーダーのバットは、空振りでは終わらなかった。

「ふんっ!」

 気迫の入った掛け声と、それに相応しい強力なスイング。パワフルな一撃は見事剛速球をど真ん中に捉える。

 結果、ボールは空高く打ち上がった。

「あー……」

「あら残念。次は頑張りなさーい」

「まだ一点だよー」

 フィアは残念そうな声を上げ、ミィとミリオンはゴリラに声援を送る。されど一点、たかが一点。十四点差が十三点差になっただけである。敗北には程遠い。

 ゴリラもそれは分かっているのか、自身の頬を叩いて気持ちを切り替えるような仕草を見せる。バッターボックスに次の打者である大柄が立った時には ― 類人猿だけあって表情は割と分かりやすい ― 平静を取り戻していた。

 そしてゴリラは手に持ったボールをきゅっと握り締め――――その手を、すぐに緩めた。

 確かに、(ゴリラ)は優れた投球能力を持っている。

 しかしあまりにも出鱈目な球を投げてしまうと、自身が人間でないと見破られてしまう。そのため彼は相当の手加減を強いられていた。手加減というのは難しい。人間対人間でも加減を間違え、難し過ぎたり、簡単過ぎたりしてしまう。ましてや人間を遥かに凌駕した力を持つゴリラにとって、例えほんの僅かな力の差でも人間には大きな違いとなる。

 結果、ゴリラの球には振れ幅があった。それこそたまに、人間である男達にもチャンスを掴める程度の時も。

「ウホッ!」

 ゴリラはそれなりに力のこもった投球を繰り出す。ボールの速さはかなりのもので、プロの野球選手に匹敵するものだ。

 とはいえ、如何にプロでも人間レベル。つまり人間でも目視出来、人間でも対応出来、何より既知の物理法則をひっくり返さない。そして何度も何度も似たような球を見ていれば、目だって慣れてくる。

「ふんぬぅっ!」

 故に初球にして、大柄が振るったバットに捉えられてしまった。金属バット特有の甲高い音と共に、ボールは夜空高くへと飛んでいく。

 今まではなんやかんや一回一点以下で抑えていたゴリラだが、ここにきて集中力が切れたのだろうか。この回だけで二点も取られてしまった。

「あらら、また打たれちゃったわねぇ」

「んー、まだ点差は十点以上あるけど、良くない流れだなぁ」

 幸先の悪い展開に、比較的温和で大人しいミリオンやミィさえもベンチ席から不安混じりの感想を漏らすのだ。

「ちょっ何をしているのですか! 真面目にやりなさいっ!」

「ウホッ!? ホウオウホウ……」

 極めて感情的で怒りっぽいフィアは怒りを露わにし、ゴリラは怯えるように身を縮こまらせた。一応ゴリラはその後手話と鳴き声で「そうは言うけど、やっぱり加減が難しいんだよぅ」的な説明をしたが、フィアには通じない。仮に通じたところで、ガルルと魚の癖に犬のような唸りを上げて威嚇するフィアを見れば釈明が無駄に終わるのは明らかだ。

 あまりにも一方的な怒りに、さしものゴリラも唇を尖らせる。暗闇の中での態度に、目の悪いフィアは気付いていないが、怒りが収まらないのか目付きは鋭くなる一方。

「ほらー、ケンカなんかしてないで集中しなさーい」

 ミリオンに咎められ、ようやく二匹は矛を収めた。二匹は同時に大きな深呼吸で気持ちを鎮め、しかし荒れた足取りで自身のポジションに戻る。

 二匹のケンカが一応終わると、大柄が去り空席となったバッターボックスに優男が入る。この回で失態を重ねるゴリラに向けてか、彼はニヤニヤとした笑みを浮かべていた。

 フィアと違い、ゴリラの方は暗闇を見通せる視力を持っていた。彼の意図を察し、ゴリラは折角冷静さを取り戻した顔が再びムスッとしたものになってしまう。怒りを静めようとしてかゴリラは大きく深呼吸を一回。

 それから力いっぱいボールを投げた!

 が、ボールはまるで錆び付いたレールの上を走るように、ガタガタと不安定な動きをする。

 不自然な動きは飛距離を伸ばすほどにあからさまとなり――――バチンッ! と破裂音を鳴らすや、ボールは脱線したとしか言いようがない、とんでもない大カーブを描いた。恐らく苛立ちから、ゴリラは能力の制御を誤ってしまったのだろう。

「ぬ――――ちっ!」

 咄嗟に腕を伸ばすフィアだが、暴走したボールには届かない。いや、文字通り腕を()()()()届いただろうが、それをしたら人間でない事がバレてしまう。

 咄嗟に思い留まった結果、ボールはフィアの背後にあるフェンスにぶつかった。キャッチャーがボールを取れなかった場合も一点……これも相手の得点になる。

 ついに三失点。自分達の活躍が無に帰してしまう数値だ。

「へへ、ありがとな」

 ましてやバッターである優男に帰り際煽られたなら?

 短気なフィアの矛先は、味方兼投手であるゴリラに向けられた。

「こ……んの類人猿! 何をしているのですか!」

「ゥ……」

 フィアの罵りに、流石に今回は自分が悪いと思っているのかゴリラは押し黙る。しかしグラブを嵌めていない方の手はプルプルと震え、人間のように唇を噛んでいた。

 ゴリラは温和な動物と言われている。

 されど同時に神経質なところもあり、ストレスに弱いとも言われている。繁殖期には苛立ちのあまりオスがメスを殺してしまう、という本末転倒な事態が起きる事もあるらしい。彼は人間の知性を得た事でそういった『野生』をいくらかコントロールしているが、それでも基本的な性質が変化した訳ではない。

 つまるところ彼は大人しい割に我慢強さに欠けており、

「結果を出せないなら不要ですよ。しっしっ」

 フィアからしたらじゃれ合い程度のこの煽りでも、相当なストレスだったりする訳で。

 ――――プツン、とゴリラの頭の中でその音は鳴った。鳴ったが、それは彼自身にしか聞こえない音。誰も彼の脳内で起きた物質的変化を感知出来ない。

 ましてや、先程までの憤りをすっかり失った笑みを浮かべれば考えなど読める筈もなく。

「ウホ、ホホホホホ。オホホオホホ」

「え?」

 何かを伝えるようにミリオンに向けて吠えると、彼は駆け足でマウンドを離れてしまう。既に次のバッターとしてスポーツマンが出てきていたが、ゴリラは気に留めた素振りもない。近くのフェンスに身を隠し、しゃがみこんでごそごそと何かをしていた。

 突然の行動に、何をしているんだ? と誰もが首を傾げる。しかし何をすれば良いのかも分からず、誰もが棒立ちしたまま。何事もなく一分ほど経つとゴリラは立ち上がるという形で誰よりも先に動き、駆け足でマウンドに戻ってくる。そして事情を説明する素振りすら見せぬまま、素早い動きで投球フォームを取った。不意打ちに近い行動に、バッターボックスに立つスポーツマンは慌ててバットを握り直し、フィアも即座にグラブを構える

 丁度、その瞬間だった。

 ――――仮に、フィアがここで『それ』に気付かなければ、未来は大きく変わったに違いない。

 しかしフィアは気付いた。ゴリラが直後に投げてきたボールが()()()()()()()事に、彼が『ボール』を投げるコンマ数秒ほど前に。

 気付けた理由は視覚ではない。星が輝く夜空の下、脆弱な視力しか持たないフィアにボールの姿など見えていない。スポーツマンの剛速球が打てたのはボールが通る事で生じる空気の流れを感知し、目星を付けてバットを振っているだけなのだから。

 触覚でもない。水で出来た『糸』を伸ばしてボールに触れる事は可能だが、わざわざ材質を確かめる必要などないのだからそんな七面倒な事はしていない。

 気付けた理由は、嗅覚。異質な臭いが、フィアの鼻を刺激したのだ。

 ……ゴリラは神経質な動物だ。例え動物園育ちでもそれは変わらず、ぎゃーぎゃーと騒ぐ観客を前にすればきっちりキレる。無論、通常ゴリラと人間の間には大きな『壁』 ― ガラスだったり、溝だったり ― が存在するため、どれだけ苛ついてもゴリラには人間を直接殴る事が出来ない。

 故にゴリラは知略を巡らせる。

 殴りに行けないのなら、投げれば良い。投げられる物がないのなら、()()()良い。そうして動物園のゴリラは一つの技を編み出した。

 話を戻して、現在フィアのグローブに迫るのは――――異臭を放つ緑黄色の物体。そう、これは動物園のゴリラが編み出した、人類を恐怖に陥れる最強最悪の一撃。

 糞投げ、である。

「っどぅおおおおおおおおおおお!?」

 自身に迫る物体の正体を察し、フィアは絶叫を上げながら身を捩らせる!

 別段、糞そのものに抵抗がある訳ではない。確かに不衛生だという知識はあるが、人間のような『精神的』不快感は持ち合わせていない。何しろ野生生活時代には周りの魚や動物が糞を垂れ流し、それが無数に漂っている水中で暮らしていたのだ。細菌などによってすぐ分解されるとしても、毎日投入されるのだから浮遊密度は変わらない。呼吸をすれば必然それらは水と共に体内へと吸い込まれる。だからフィアは、例え全身糞塗れになろうと今更気にもしない。そんなものは、かつての生活と比べればなんて事もないのだから。

 しかしフィアには耐えられない。

 だって、あの糞――――物凄く臭いのだから!

「おおぁっ!」

 嗅覚に優れるが故の必死さの甲斐もあって、フィアはボールの完全回避に成功。投げられた糞はフェンスにぶつかるとぺしゃりと音を立て、辺りに飛び散った。

 ちなみに、ゴリラはほぼ完全な草食動物であり、動物園でも主に植物を餌として与えられている。故にゴリラの糞は草の臭いが強い程度の ― 人によっては良い匂いと評する場合もあるような ― 代物である。が、フィアにとってこの系統の臭いは初めてで、例えるなら『生まれて初めて納豆に出会った外国人』の心境に近い。後退りし、おぞましい廃棄物を目の当たりにしたかのような嫌悪と恐怖を顔に滲ませた。

 尤も、フィアが恐れ慄いたのはほんの数瞬。その顔は見る見る赤くなり、表情は憤怒で塗り潰される。

 間違いなくこの投球は、あのゴリラがフィアに宛てたものだ。散々馬鹿にした事への反撃として。ここでちょっとやり過ぎたと反省するのが人格者なのであろうが……生憎フィアは野生の獣である。

「猿風情が……この私にケンカを売るとは良い度胸ですねぇ……!」

 マウンドへと振り向き、怒りを露わにするフィア。されどそこに居るゴリラは今や怯みもせず、腹を抱えてケタケタと笑うばかり。イタズラに成功した子供のように楽しそうだ。

 そしてアレを見ろとばかりに、フィアの近くを指差した。

 なんだ、と反射的にフィアはゴリラの指先が示す場所を見遣る。と、そこにはバッターボックスから動かないスポーツマンの姿が。彼はバットを握り締めたまま、フィアの顔を見て困ったような表情を浮かべていた。

 フィアはハッとなる。

 この試合のルールは非常にシンプル。投げられたボールを打てれば一点、打てなければアウト――――ただし投げたボールをキャッチャーがちゃんと受け止めたなら。

 自分はゴリラが投げた()()()を、避けてしまった。つまりこれは、相手に点を与える行為なのだ。

「なっ!? アレはその……むぐ……うぎぐぐぐ」

 咄嗟に反発しようとして、しかしフィアはぐっと口を噤む。避けてしまったのは確かであり、ここで反論しても言い訳にしかならない。

 ……実際のところ、アレはボールじゃないから得点は無効、と主張すれば通っただろうが、そこまで頭が回らないのがフィアである。味方であるミィやミリオンもけらけらくすくすと笑うばかりで、フォローするどころか楽しむ始末。敵チームはなんやかんや自軍の得点なので指摘する筈もない。失態は得点となり、スポーツマンは些か不本意そうにその場を後にした。

 歯ぎしりをするフィアだったが、ゴリラは遠く離れたフィアにも届くぐらい失礼な大笑いを漏らしている。目が悪いフィアには、宵闇の中のゴリラが今握っているものを識別出来ないが……あれだけ上機嫌なのだ。間違いなく『二投目』が来る。いや、フィアが前言を撤回するまで続けるつもりに違いない。

 嘗めた真似を、とフィアは内心吐き捨てる。とはいえあの糞の塊をそのまま受けるのは論外だし、さして数は多くないと思って避け続けるのも逃げ回るようで癪だ。謝る、という考えなど端から頭にない。なんとかしてアイツをギャフンと言わせなければ……

 そうこう考えている間に、バッターボックスには次の打者であるインテリがやってきた。ピッチャーとのケンカを見ていて、勝利を確信したのだろうか。彼は一瞬フィアの顔を見ると、嘲るような笑みを向けてきた。

 どいつもこいつも私を馬鹿にして――――フィアの上限が低い怒りゲージは一気に上昇。このまま誰でも良いから一発殴ってやろうかと反射的に『能力』を使おうとして

 ハッと、目を見開く。

「おおそうです。あの手があるじゃありませんか」

 そしてポンッと手を叩いた時、フィアの声には先程までの苛立ちがすっかり消えていた。

 あまりにも露骨な変化だったが、しかし数メートルは離れているゴリラはその姿に気付かなかったのか、或いは気付いた時にはもう止められなかったのか。握り締めた『ボール』を、彼はフィア目掛け真っ直ぐ投げていた。

 投げられた物の正体を知っているインテリは、バットを振ろうともしない。これから起こる事態を予想し、静観を貫くつもりなのだろう。迫り来る『ボール』すら目に入っているか怪しい。

 ましてやフィアの存在など意識に昇っている筈もなく。

「えいっ」

 だから、何時の間にか自身の背後に回っていたフィアの行動に、彼は最後まで気付けなかった。

 フィアがした事は、ゴリラに対する行いではない。彼女は能力によって水で出来た『糸』を作ると、あろう事かインテリの全身にその『糸』を巻き付けたのだ。インテリが身体の違和感に気付いた時にはもう手遅れ。フィアが能力で『糸』を引っ張れば、その身は強制的に動かされる。

 完全な操り人形となったインテリは、自らの意思に反してバットを振るい、飛んできた『ボール』を叩き潰した! 無論『ボール』は柔らかな糞である。金属バットのフルスイングに耐えられる強度など持ち合わせていない。

「え? ぎゃ、あばかばあっ!?」

 必然、糞は粉々に砕け散り――――四方に飛び散った糞が、インテリの全身を汚した。口や目にも入り、鼻の中にも欠片が飛び込む。いくら人間的にそこまで悪臭でないとはいえ、物には限度がある。そして人間は、『糞』という存在に多大な精神的不快感を抱くもの。嫌悪は増幅され、本来なら耐えられる筈の臭いに耐えられなくなる。

 悶え苦しむインテリの姿に、リーダー含めた男達も唖然となり目を丸くした。あのボールが糞であり、打てばこうなる事は明白なのだ。彼の取った行動は、マヌケを通り越して異常の域に達していた。

「ふははははーっ! だーれが謝ってやるものですか! 貴様のその汚らしい糞など通用しませんよ! 諦めて普通のボールを投げる事ですね! まぁあなたでは普通のボールを投げたところで失点を重ねるだけでしょうが!」

 そしてフィアはそんなインテリや男達に目もくれず、ゴリラを大声で挑発した。ゴリラは悔しそうに地団駄を踏み、自分だって絶対に謝るものかと言っているとしか思えない咆哮を上げながら、ゴリラの威嚇行動であるドラミングでポコポコと胸を鳴らす。

 どちらも全く退く気がないのは明らかだ。いや、それどころかこの勝負がなんなのかも失念している様子。何がなんでも相手に恥を掻かせ、負けを認めた方が負けというルール無用 ― というより何も考えていない ― の勝負になっている。これでは子供のケンカも同然だ。

「……ねぇ、ミリオン。あれは流石にどうなの?」

 そんな二匹を見て、ベンチ席の傍でしゃがむミィはミリオンに尋ねる。

 ミィの言いたい事はミリオンにも分かる。

 どう考えても、この状況は不味い。面白がって止めずにいたが……どちらも自制が不可能なレベルで興奮してしまった。フィアに至ってはついに人の身体に手を出した。肉体的損傷こそないが、『危害』という意味では加えられたと言って良い。

 ここで止めなければ、フィア達がますますヒートアップするのは目に見えている。ヒートアップすれば、最早人間の身の安全は保障出来ない。いや、人間どころか周囲の土地をも破壊しかねない。大事になり、存在が公になってしまう可能性も高くなる。ならば答えは明白だ。二匹をなんとか宥め、止めるしかない。

 ――――と、花中なら判断するだろう。

 が、ミリオンは人間にとって残念な事に、人間の事など全く気にしない『物質』。無論彼女にとっても大事になってしまうのは面倒だが、事を大きくしない方法は、何も狼藉者を鎮めるだけではない。

「……さかなちゃーん、やるなら徹底的にやりなさーい。そんなんじゃ嘗められっぱなしよー」

 ミリオンが選んだ方法は、フィアを煽る事。

「ああん!? そんな事言われるまでもありません! ほら次のバッターは誰ですかええい貴様は邪魔です!」

 フィアは感情を爆発させながら、その手を大きく振り上げる。

 すると倒れ伏すインテリの身体はふわりと舞い上がり、彼の仲間が待機するベンチ席へとすっ飛んだ。正確にはフィアが不可視の『糸』でインテリの身体を持ち上げ、放り投げただけなのだが……人間達の目には仲間の一人がいきなり空中浮遊したようにしか映らない。誰もが予測しなかった事態故誰一人として動けず、吹っ飛んできたインテリはリーダーと激突。痛みと人一人分の重みで双方共に身動きが取れなくなる。

 いや、それだけなら被害としてはまだマシだろう。

 恐らく手前に居たとかそんな理由で、フィアが次のバッターとして選んだ大柄と比べれば。

「ぐふぇ!? え、う、うわぁぁぁぁ!?」

 足に見えない『糸』が巻き付き、引っ張られた大柄は呆気なく仰向けに倒れる。されど痛みに悶える暇はなく、重さ百キロに迫りそうな巨躯は大地を滑走。バッターボックスまで連れ去られる。

「ほらさっさと立ちなさい! バッターが居ないと試合が再開出来ませんからねぇ!」

 当然、大柄の身に起きた『異様』の原因であるフィアが戸惑う筈もなく、むしろ今にも泣きそうなぐらい顔を引き攣らせた大柄に檄を飛ばす。

 今やフィアは試合の流れなど気にも留めていない。自分を馬鹿にした相手をギャフンと言わせたいだけ。そして対決するにはバッターが立っていなければならない……あのピッチャー(ゴリラ)をボコボコにしたいのだから。

 だから放置すれば、フィアは必ず人間を巻き込む。そして彼女は人間を大事に扱わない。巻き込まれた人間は酷い目に遭うだろう。一人残らずに。

 つまるところ、それこそがミリオンの狙い。止められないのなら止めなければ良い――――口を噤むほどに、思い出した瞬間失神するほどの恐怖を植え付ければ、()()()()()()()()()。無論超常の力を持つフィアとゴリラが争えば、人間達が怪我をする可能性もゼロではない。しかし、そんな事はミリオンにとってどうでも良い話。

 願わくば、このまま人間達をボコボコにしてほしい。

 とはいえ男達とて、ただではやられてはくれない。いや、散々見せられた異様な光景により、彼等もようやく気付いた筈だ。

 ――――コイツら、人間じゃない。

 ――――それどころか、このままじゃ自分の身が危ない!

「ひ、ひぃいいいいいっ!?」

「あっ、オイッ!?」

 真っ先に恐怖に耐えかねのは、優男だった。リーダーの制止を振り切り、彼は一人グラウンドを飛び出そうとする。

 自分の事しか頭にない今のフィアだけなら、優男の行為を見逃したに違いない。

「あら、駄目じゃない」

 しかしミリオンは、許してくれなかった。

 逃げようとした優男は、ピタリと身動きを止めた。さながら全身をコンクリート漬けにされ、固まったかのように。原因はミリオンが微細な自身を男の体内に忍び込ませ、筋肉内から拘束しているから。走っている体勢で突然全身が固まれば、受け身も取れずに倒れ伏すのが必然。激しく地面に身体を打ち付け、痛みで呻き声を上げる……が、優男は駆け出した姿勢のまま微動だにしない。一見して間抜けな姿だが、それが彼の身に起きた異質さを物語る。

「ごめんなさいね。でも逃げられると、こちらとしても困っちゃうの。ほら、気付いただろうけど私達……人間じゃないから。あまり周りに言い触らされると面倒なのは分かるでしょ?」

 混沌の渦中に放り込まれ男達は呆然としていたが、ミリオンは全くのお構いなし。それどころか自身の『正体』について明かす始末。

「え? それ言っちゃうの?」

「まぁ、ここまでやったらもう手遅れだろうし。下手に誤魔化すより開き直った方が、被害は小さくなるものよ」

「そーいうもんかなぁ」

「何かご不満かしら?」

 怪訝そうにしているミィに、ミリオンは訊き返す。

 ミィはミリオンやフィアと違い、人間好きだ。別段殺すつもりはないが、多少は酷い目に遭わせる事もあり得る……というより、現在進行形でフィアが酷い目に遭わせている。

 それを止めようともしないミリオンに、ミィが反発する事は十分に考えられる事だ。

「んーん、べっつにー」

 故にいくらか警戒していたので、ミィの答えを聞いた時にミリオンは拍子抜けしてしまった。

「……あら、意外。てっきり怒ると思ったのに」

「んー、そりゃあ、何もしてない人間虐めるんだったら怒るけど、でもコイツら、悪い奴みたいだからねー」

「ああ、そういえば猫ちゃん、悪い人間には容赦なかったわね」

「そゆことー。それにそもそも……」

「そもそも?」

「今更止められないっしょ。つーか、止めたら逆ギレされそう」

 確かにねぇ……ぼやくように言葉を漏らして、ミリオンは同意する。止める気がなかったので考えもしなかったが、ミィの話は至極尤もだ。フィアなら、止めようとした自分達を攻撃するぐらい平然とやってみせるに違いない。

 つまるところ、彼女達にはチームワークはおろか、その前身たる仲間意識すらない訳で。

「そういう事だから、ごめんなさいね。何かあっても多分助けてあげられないから、死なないよう気張っておいた方が良いわよ?」

 さながらお迎えに来た天使のように安らかな笑顔で、ミリオンは震え上がる男達に死刑宣告を下すのだった。




2019/3/3
一話が長過ぎたので分割しました

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