彼女は生き物に好かれやすい   作:彼岸花ノ丘

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余談参 忌まわしき名前

 大桐花中は、生き物が好きである。

 生物関係の学者である両親の影響……なのかはさておき、大抵の生き物になら愛情を向けられる。普通の女子が嫌うような昆虫やナメクジも平気で触れるし、犬や猫のみならずトカゲや草花が無闇に痛め付けられるのだって好かない。

 そのぐらいには生き物好きなので、飼育したり栽培したりもするが……一番好きなのは、野生での姿を眺める事だ。過酷な環境に適応し、天敵や獲物との競争で日々を必死に生きている姿は見ていて心が熱くなる。生を謳歌する姿というものは、どんな景色よりも美しいというのが花中の想いだ。

 そして海辺には、内陸の住宅地では見られない様々な生物が暮らしている。

 彼等の生き様を見ずに帰るなど、どうして出来ようものか。

「足下には気を付けてくださいね花中さん。転んだら大怪我してしまいますから」

「転んでも助けてあげるけど、手間はない方が良いしね」

 等々の想いを抱いていたところ、付き添いで来てくれた二匹の友達――――フィアとミィから、注意を促されてしまった。どうやら、弾んでいたのは胸だけではないらしい。傍目に分かるぐらい浮かれていたと気付かされ、ピンク色のワンピース型水着の裾を握り締めながら花中は顔を朱色に染めた。

 今、花中達は海に来ている。

 加奈子に誘われてやってきた海だが、その加奈子とは現在別行動の真っ最中。今頃加奈子は()()()()の砂浜で、晴海と一緒に遊んでいる筈だ。ミリオンはそんな二人を監督しながら、物思いに耽っているだろう。 

 対して花中とフィア達が居るのは、泳いだり遊んだりするには適さない岩場。住宅地は彼方に見えるだけで、街の喧騒は聞こえてこない。波の音と鳥の鳴き声だけが場を満たしている。無数の大きな岩が集まって環境を構築し、またどの岩もその表面は角張った凹凸になっているため平坦な場所など皆無。今の花中のようなサンダル姿で走れば転ぶのは避けられないだろうし、ましてや露出が多くて生地の薄い水着では大怪我に繋がりかねない。不適切な格好と言われても、花中には反論など出来ない。

 しかしながら花中は此処でわいわいと騒ぐつもりなどなかった。目的は生き物の観察……岩の隙間や凹みを覗き込み、生き物を探す事である。バタバタと動いたら生き物が逃げてしまうから、移動は穏やかなのが基本。ゆっくりと、足下を見ながら歩く分には、サンダルでも大丈夫だろう。仮に転んでも、人間では目視不可能な速さで動けるミィが助けてくれると言っている。気を付けはするが、恐れる必要はあるまい。

「あ。ところで、フィアちゃん。立花さん達の、様子は……」

「無論今でもちゃんと見てますよ。片手間ですけどね」

 それから念のために確認すれば、フィアから頼もしい答えが返る。この辺りは『遊泳禁止』の危険地帯。暢気に遊んでいられるのは、水を自在に操れるフィアが一帯を『監視』しているからに他ならない。片手間とは言っているが、水を自在に操る能力を持つ彼女にとって、海中の出来事を探るなど片手間以下の労力で十分。不安や懸念を挟み込む余地などない。

 憂いなし。ならば躊躇う理由もなし。

「うん。それじゃあ、行こうっ」

 花中は意気揚々と、岩場を歩き始めた。フィアとミィも、花中の歩みに合わせてゆっくり付いてくる。

「それで? どのような生き物を見付けるつもりなのです?」

「んっとね、可愛いのに、会いたいなぁ。ウミウシとか」

「ウミウシってナメクジみたいな生き物でしたよね? 良いですねぇ美味しそうです」

「あたしは魚が良いな。小腹が空いてきたし」

「……一応、言いますけど、食べるために、探す訳じゃ、ないですからね?」

 自分と明らかに目的が違う友人達に少なからず不安を覚えつつ、花中は目に映った、幅数十センチほどの潮溜まりに駆け寄る。

 今の時刻だとこの辺りの海域は、スマホで調べた情報曰く丁度干潮時らしい。岩場にはいくつかの潮溜まりが出来ており、逃げ遅れた生き物が潜んでいる事が期待出来る。花中は早速近付いた潮溜まりの前でしゃがみ、中を覗き見た。

 ……生き物の姿は、何処にもない。

 しかし此処で諦めてはいけない。小さな生き物達は、自分を襲うかも知れない大きな生き物の存在に敏感なのである。つまり、花中達がこの潮溜まりに近付いた際の『足音』を察知し、岩の隙間に隠れたり、じっとして周囲の景色に溶け込んだりしている可能性が高い。「居ないなぁ」と思ってすぐに離れてしまっては、小動物達の思うつぼである。

 出来るだけ物音を立てずにじっと待ち続け、動物達が安心して出てくるのを待つ。これが潮溜まりの生き物を観察する際のコツである。

「よぉーし一匹ゲットでーす。これがフナムシですか。どれ一口……ぐぅおえぇおろおっ!? なっなんですかこヴォェ!」

「こっちは魚捕まえたー。食べられるかな?」

 ……一緒に来たフィア達がわいわい騒いでいるので、待っていても出てこない気がするが。

 愛でるよりも食欲を優先する二匹に、花中は少し頬をむくれさせる。もう少し、学術的好奇心はないものなのか……とはいえ彼女達なりに楽しんでいるのは結構な事。窘めたりはせず、花中も自分の『遊び』をする事にした。

 さて、待っていても意味がなさそうなので、少しばかりアクティブになるとしよう。生き物達が物陰に隠れているのなら、その物陰を作っている石などをひっくり返すのが一番簡単な『探し方』だ。花中的には生き物のありのままの暮らしを見たかったが、出てきてくれそうにないのだから仕方ない。非力なのであまり大きな石は動かせないが……幸運にも、幅二十センチ程度の石がこの潮溜まりには存在していた。

「……良し」

 これぐらいなら自分でも動かせそうだと、早速花中はその石を両手で掴む。一般的な女子高生ならひょいっと持ち上げただろう石を、うんしょうんしょと頑張って退かした。

 そんな一苦労を経てから改めて潮溜まりを見れば、逃げ惑うエビや小魚などの姿が。思いの外たくさんの生き物が居て驚き、同じぐらいの嬉しさが込み上がる。

 小魚はハゼの仲間だろうか。エビの種類はよく分からない。この軟体動物はウミウシの仲間かな……等々、生き物の種類を特定していた。遊泳禁止区域のため人が滅多に訪れないからだろうか、この辺りには中々多様な種が生息しているらしい。小さな生き物が多様であれば、それらを餌とする大きな生き物も多様になる。彼等との出会いを予感し、花中の胸は一層高まっていく。

 そんなわくわく探索の最中、ふと一匹の可愛らしいカニを見付けた。

 体長は、五センチに満たないぐらいか。隠れ家を暴かれたにも拘わらずその動きは緩慢で、ずんぐりむっくりとした体型はお饅頭を彷彿とさせる。甲殻に突起や凹凸は見られず、つるんとした印象だ。

 特徴的な外見だけに、花中は一目でそのカニの種類に見当が付いた。

「あ、スベスベマンジュウガニだ」

 なので、その名をぽそりと独りごちる。

 スベスベマンジュウガニは、沖縄から千葉県にかけての太平洋沿岸に棲息するカニの一種だ。名前の由来は、そのものズバリすべすべしたマンジュウガニだから。小さくて可愛らしいカニだが、その身には人間を死に至らしめるほどの猛毒がある。尤も毒を飛ばすような器官はないので触るだけなら問題ないと言われており、ましてや陸から観察する分にはそこらのカニと『危険性』は変わらないのだが。

 その愛くるしい姿に魅了された花中は、早速スベスベマンジュウガニの観察を始める。花中(巨大生物)に見られている事と気付いていないのか、スベスベマンジュウガニはかさこそと動くと、近くを漂っていた海藻の欠片をハサミでキャッチ。口元に運び、美味しそうに食事を始めた。

 じっと休んでいる姿もまた普段の生態であるが、やはり『活動』しているところを見る方が楽しい。花中はますますスベスベマンジュウガニに夢中になる。

「花中さん先程から何を見ているのですか?」

 そうして意識が一点に向いていたので、花中は後ろから掛けられたフィアの声に少し驚いてしまった。振り向けば、すぐ傍にはフィアが立っている。お供していたミィは少し離れた場所で魚取りをしていて、こちらの声は届きそうにない。今花中は、ほぼフィアと二人きりの状態になっていた。

「あ、フィアちゃん。えっと、カニだよ」

「カニですか……川の甲殻類は食べた事がありますが海のはまだ未体験ですからね。どのような味か興味があります」

「絶対、食べちゃダメだよ。毒が、あるから」

「そうですか。では間違って食べないよう覚えておきたいのでどれがその毒ガニなのか教えていただけますか?」

 あくまで実用的な理由で興味を持つフィアに、花中はちょっと苦笑い。しかし言う事は至極尤もな話でもある。それに知ろうとする意欲には応えたい。

「ん。えっとね、この丸い子だよ。スベスベマンジュウガニって、いうの」

「スベスベマンジュウガニですか……この海藻を食べている?」

「そうそう、その子だよ」

 指差しでフィアに教える、と、食事に没頭していたスベスベマンジュウガニがぴたりと動きを止めた。

 震動とかで、驚かせてしまっただろうか?

 行動が止まってしまい残念に思う花中だったが、スベスベマンジュウガニはすぐに摂食を再開した。しかも先程よりも旺盛な食べっぷりのように見える。天敵かも知れない存在を察知しながらそれでも食事を続けるとは、余程食欲旺盛なのか、それともしばらく餌に有り付けていなくて空腹なのか。

 やがて、スベスベマンジュウガニは海藻をぺろりと平らげてしまう。海藻はそこそこ大きかったのに、中々の大食漢だ……感心する花中の目の前で、スベスベマンジュウガニはその身を縮こまらせるように手足を折り畳む。

 途端、背中側の甲殻にヒビが入った。

「えっ?」

 何が起きた? 花中はそんな気持ちが声に出ていた。

 唖然となる花中を他所に、膨れ上がったスベスベマンジュウガニの甲殻のヒビはどんどん広がっていく。ついには全身にヒビが行き渡ると、あまりにも呆気なく殻は崩壊。その内側から真っ白な新しい殻が露出する。そして吹き飛ばされるように、古い殻は全て剥がれてしまう。

 この光景は、ほんの十数秒間の出来事でしかない。そう、たったの十数秒だ。

 その十数秒で、目の前のスベスベマンジュウガニは『脱皮』を終えたのだ。

「あ、あり得ないっ……!?」

「花中さん? どうしたのです?」

 キョトンとするフィアと違い、花中は慄き、震え、後ずさる。

 甲殻類などの脱皮は、ただ窮屈になった殻を脱ぎ捨てるだけの行動ではない。消化器官や呼吸器官の外皮すら脱ぎ捨て、更新する行為だ。下手をすれば命に拘わる ― 失敗すれば内臓や呼吸器官がズタズタに引き裂かれるのだから ― 行為であり、数日間の準備を経てから、何時間も掛けて行われるものだ。

 今し方目の前で成し遂げてみせたような、あまりにも乱雑過ぎる方法で出来る訳がない。やったならその個体は間違いなく死んでいる。

 だが、目の前の現実は真逆。このとんでもない脱皮を行ったスベスベマンジュウガニは死にかけるどころか、まだまだ体力が有り余っているではないか。

 その証拠に、スベスベマンジュウガニは近くを泳いでいたエビを捕らえ、食べ始めたのだから。

「な、ぁ、まさ、か……!」

 脳裏を過ぎる予感。あたかもそれに応えるかの如く、エビを喰らうスベスベマンジュウガニは目視可能な早さで肥大化していく。最早成長という言葉は相応しくない。もっと別な、おぞましい表現こそが正しいと本能が訴える。

 しかしカニの周りにはもう、食べ物はない。潮溜まりには小魚やエビなどが何匹か泳いでいるが、いずれもすばしっこい動物だ。偶々スベスベマンジュウガニの横を通らない限り、その餌食になる事はない。故に巨大化はここで一旦は止まる。

 ――――そんな期待すら、奴は裏切る。

 スベスベマンジュウガニは、獲物を獲っていないにも拘わらず肥大が止まらなかった。目測ではあるが既に脱皮前の二倍……エビ一匹では到底質量が足りない大きさになっている。殻はバラバラと砕け散り、その直下には新しい殻が出来ていて、それが延々と止まらない。巨大化が、収まらない。

 おかしい。こんなのは、エネルギー保存の法則に反している。いくら『彼女達』が非常識とはいえ、科学の根幹……いや、万物の根幹を破壊する事など出来る筈がない。

「……花中さん下がりましょう」

 いよいよフィアもスベスベマンジュウガニの『正体』を察したのか。フィアの意見に従い、花中はゆっくりと後退りする。

 その際、奴の『からくり』に気付いた。

 潮溜まりの水位が急激に下がっていたのだ。ごくり、ごくりと、巨大な生き物が口でも付けているかのように。

 そうして減った水を補うかのように、スベスベマンジュウガニは巨大化していく。つまり、奴は海水を資源として利用していたのだ。無論、このような『生態』を通常のスベスベマンジュウガニが持ち合わせている訳がない。

 考えられる可能性はただ一つ。

 ミュータント……人智を獲得し、超越的能力を得た存在に間違いない!

 花中が結論を出す最中も、スベスベマンジュウガニの『食事』は終わらない。潮溜まりに居た魚やエビ、自身が脱ぎ捨てた殻は水位が減るのと共にスベスベマンジュウガニの口元へと集まり、獲物となってしまう。肥大化は留まる事を知らず、奴の食事は加速度的にその量を増やしていく。

 ついには潮溜まりは消失し、そこには体長数十センチにもなる巨大ガニだけが鎮座していた。しかしカニはまだまだ足りないと思っているのか、窪みと化した潮溜まりから這い出て、隣の潮溜まりへと移動を始める。

 何故そこまで大きくなろうとするのかは分からないが、流石にこれ以上は見逃せない。

「あまり図に乗るんじゃありませんよ!」

 花中ですら危機感を覚えたのだ。より本能的なフィアが、花中の後手に回るなどあり得ない。

 花中が止める間もなく、フィアはその手を大きく振るう。一見して何も起こらない行動は、しかしあらゆる物を切断する狂気の糸が放たれた証である。

 虚空を切り裂きながら無音で迫る糸は、容赦なくスベスベマンジュウガニの甲殻に傷を付けた! 殻の一部が砕け、小さな欠片が宙に舞い上がる!

 が、それだけ。

 スベスベマンジュウガニは少し怯んだ後、何事もなかったかのように歩みを再開したのだ。カニの顔からその行動がやせ我慢かどうかは分からないが、さしたるダメージは負っていないだろう。

 何故奴はダメージを受けていない? フィアの攻撃には、人間相手なら細切れに出来るほどの威力がある。あのカニの甲殻はそれを容易く凌ぐほどの強度があるのか?

「フィアちゃん、どうし……」

 何があったか尋ねようとする花中だったが、その言葉は思わず途切れてしまう。

 フィアが、驚愕したように目を見開いていたからだ。確かにフィアは自信家であり、自慢の一撃が防がれたなら驚きはするだろう。だが、同時にフィアは激情家でもある。攻撃が防がれたと理解すれば、見る見る憤怒が表に出てくる……そういう性格である事を花中は知っている。

 そのフィアが、何時までも驚愕しているのだ。何か、奇妙な感覚を覚えたのだと察するのは難しくなかった。

「……花中さんちょーっと尋ねたいのですが」

 戸惑う花中に、今度はフィアが尋ねてくる。花中が恐る恐る頷けば、フィアもまた恐る恐る口を開く。

「私の繰り出した『糸』が消えたのですが……どういう事でしょうか?」

 そして、摩訶不思議な言葉を告げた。

「……消え、た?」

「ええ忽然と消えましたよ。奴の肉には到達した筈なのですがあまり深くまで切り込めてはいません。しかも何をされたのかさっぱりです」

 本気で困惑した様子のフィアに、花中は答えを返せない。だが、戸惑いで頭を塗り潰しもしない。

 フィアの『糸』が消えた。その原因は、あのスベスベマンジュウガニの能力以外にあり得ない。ミュータントであるなら、その能力は生態から推測出来る可能性がある。持てる知識を総動員し、花中は思考を巡らせる。

 まず思い浮かんだ特徴は、スベスベマンジュウガニは有毒のカニである事。

 ならば目の前の個体の能力は、毒を操る事? 毒と薬は表裏一体という。体内の毒素を上手く薬効として働かせ、それで急速な成長力を得て、甲殻の強化も……

 花中は首を横に振る。違う。それで自身の身体的特徴は説明出来ても、フィアが操っていた『糸』が消失した原理には結び付かない。

 そもそもスベスベマンジュウガニの毒は、貝やゴカイなど獲物としている小動物達から由来と言われている。体内で物質の合成などは行っているかも知れないが、元を辿れば餌の小動物、もしくは小動物が餌としている細菌類から――――

「(……待って、まさか。そんな……!?)」

 脳裏を過ぎる一つの考え。あり得ない、と理性が反射的に否定するも、その『あり得ない』を尽く成し遂げたのがミュータントである。今更常識に縛られては答えなど出せない。

 花中は無意識に、閃いた可能性を言葉にしようと口を開け、

 不意に襲い掛かる暴風に、それを妨げられた。

「きゃっ!?」

「野良猫!?」

「ふん、さっきから見てれば面倒な事になってじゃん! 悩んでる暇があったら、あたしを頼りなよ!」

 暴風の発生源は、花中達の横を通り過ぎたミィだった。暢気に遊んでいた時のような、弛んだ雰囲気は今の彼女には存在しない。地球上で広く繁栄し、数多の生物種を絶滅の危機に追いやった『捕食者(プレデター)』の眼光がスベスベマンジュウガニを捉える。

「アンタに恨みはないけど、これ以上デカくなられても困るから……ちょっと動けなくさせるよっ!」

 瞬きする間もない超高速でスベスベマンジュウガニに肉薄するや、躊躇なくミィは破滅的威力を秘めた足を振り下ろした! ミィの足はカニの甲殻を易々と破壊し、その柔らかな肉に食い込んだ

 刹那、ミィは花中の傍に立っていた。

「……え? あ……っ!?」

 どうしたのか? 抱いた疑問のままミィを眺めて、花中は気付いてしまった。

 ミィの足が、一部だけだが抉れていたのだ。肉が露出し、ぐずぐずと赤黒い体液が染み出している。

 持ち前の『身体能力』を活かし、その傷は見る見る塞がっていくが……ミィの顔に、捕食者の獰猛さは既に残っていなかった。むしろ外敵を前にして警戒心を露わにする、ゾウやヌーのような雰囲気に近い。

「……野良猫。どうでしたか?」

「どうもこうもないよ……()()()()。そうとしか言えないね」

「結構。花中さんは先程結論を出していたみたいですし答え合わせには十分じゃないですかね?」

 フィアがチラリと、横目で花中を見てくる。

 一番の友達を自認するだけはある――――全く以てその通り。ミィのお陰で『答え合わせ』は完璧に出来た。

 奴の能力は『吸収』。

 自身に接触した物質を取り込む能力で間違いない……それが、花中の出した結論だった。フィアの『糸』が消失したように感じられたのは、奴の肉体に触れた部分が取り込まれた結果だろう。ミィの足が抉れたのも同様の力が原因とすれば納得が行く。恐らく筋肉のみならず消化器官や気門など、能力は体内の至る所で機能している。その力を応用し脱皮という行為の簡略化、つまり臓器などの古い外皮は吸収してしまう事で、高速脱皮を可能にしたのだろう。

 弱点があるとすれば、脱皮時に外殻は脱ぎ捨てていたので、外殻近くの肉には能力が発揮出来ない……と思われる点か。しかしそんなのは表層の話でしかない。致命的一撃となるような深々と突き刺さる攻撃は、衝撃が伝わる前に吸収され、スベスベマンジュウガニの肉体の材料となってしまうだろう。

 奴に物理攻撃は通用しない、という事になる。まだ可能性の話だが……共有すべき情報の筈だ。伝える事に花中は躊躇など覚えもしなかった。

「……多分、触れた物を、吸収する、能力だと思う。甲殻に、その能力はなさそう、だけど、筋肉に触れたら、ダメ」

「成程。だったら吸収しきれないほどの質量で……とも思いましたが失敗したらそれこそ取り返しの付かない事態になりそうですねぇ」

 面倒だ、と言いたげにフィアはぼやく。ミィも同意するように肩を竦めた。二匹とも、勝ち目がないとは思っていないようだが、楽観視している訳でもない様子。予期せぬ強敵の出現を受け、フィアとミィは花中の前に静かに出てくる。花中も友達の邪魔にならないよう、ゆっくりと後ろに下がった。

 花中達が話している間も、スベスベマンジュウガニは『食事』を止めていなかった。幾つもの潮溜まりを食い尽くした奴は、今や二メートル近い怪物に成長している。ここで食事は一旦止めたようで、ノシノシと花中達の方に歩み寄り始めた。

 やがて花中達から二メートルほどの距離まで詰めると、スベスベマンジュウガニはおもむろに自身の短いハサミを振り上げる。何をする気か、一人と二匹の間に緊張が走り――――

 スベスベマンジュウガニは、そのハサミを足下の岩に突き立てた。

 そしてそのまま、ハサミでガリガリと岩の表面を削り始める。

「……えっと……?」

 てっきり攻撃でもしてくると思っていた花中は、呆気に取られてしまう。恐怖や不安を上回った好奇心に従いハサミの先を見れば、少々角張ってはいたが……日本語が記されていた。

 ミュータントなのだから、人間が使う言語については理解があるのだろう。しかし発声能力は得られなかった、という事か。だから文字でコミュニケーションを図る……実に合理的な判断だが、だとすると、このスベスベマンジュウガニは『岩に傷を付けられる怪力』を得るためだけにここまで巨大化したというのか。

 そこまでして伝えたい事とは一体なんなのか。

 花中はスベスベマンジュウガニが記す文字に夢中になる。隠れよう、という意思は失っていないが、無意識に身を乗り出し、一番大事な部位である筈の頭だけをフィア達よりも前に出してしまう。

 しばらくしてスベスベマンジュウガニがハサミを止めた時、そこにはこう記されていた。

 「スベスベマンジュウガニとはなんだ。失礼じゃないか」と。

「……は?」

 意味が分からずポカンとする花中に、スベスベマンジュウガニは話の続きを書いて伝える。

 曰く、スベスベマンジュウガニという呼び名は可愛くない。

 自分は立派なレディだ。これでも同種のカニ的には小悪魔系女子で、繁殖期には雄など掃いて捨てるほど集まる。それでも現状に満足せず、自分磨きに勤しむ淑女でもある。

 そのような自分に、なんだスベスベマンジュウガニとは。全然可愛くない名前じゃないか。そもそもこちらはそのような名前を承諾した覚えはないし、確かに言葉は通じないがしかし他の動物への敬意があればスベスベマンジュウガニなんて妙ちくりんな名前を付ける筈がなくだとしたらやはり

「花中さん。私もう帰っていいですか?」

「あたしもそろそろ遊びたいんだけど」

「……一人で、この子の相手するの、大変そうだから、やだ」

「さいですか」

「ちぇー」

 延々と自身の意見を書き連ねるスベスベマンジュウガニに飽きたフィアとミィを小声で引き留めてから、花中は隠しきれないため息を漏らす。

 要するに、『彼女』は種の呼び名が気に食わないらしい。

 確かに生き物の名前には、結構酷いものも多い。例えばアホウドリは有名どころだし、メクラチビゴミムシなどは差別的な名前として改名議論が起こる程だ。その点で考えるとスベスベマンジュウガニは、呼ぶ方からすれば可愛くて愛嬌のある名前だと思うが、呼ばれる身からすれば侮蔑に聞こえるというのは分からなくもない。花中だって「あなたすべすべしたお饅頭さんみたいね」なんて言われたらちょっと複雑な気持ちになる。いや、それを訴えるために巨大化までする心理は流石に分からないが……嫌な事は人それぞれ。彼女にとっては、余程我慢ならないのだろう。

 ……彼女が何をして欲しいのか、花中が大体察した頃になってようやくスベスベマンジュウガニの手は止まった。つらつらと長ったらしい文章の大半を無視して、花中は末尾にだけ目を向ける。

 結論として、自分に相応しい名前を考え、これからはそう呼ぶようにとの事。無論その名前が良いものかはこちらで審査する、らしい。

「……ちなみに、拒否したり、閃かなかった、場合は?」

 花中が尋ねると、スベスベマンジュウガニはしばし考え込み、それからガリガリと岩に小さな文字を刻む。今度の文章はあまり感情が籠もっていないようで、大変シンプルに纏まっている。

 一言、「体内の毒素をガスとして放出し、この辺り一帯の人間を死滅させて抗議の意志を示す」と書いてあるだけだ。

「(って、めちゃくちゃ大事になってるぅぅぅぅぅ!?)」

 よもや命名云々で町が一つ滅ぶかも知れないとは。さっきまでの呆れムードから一転、強襲する責任感に押し潰されそうになる。

「くだらない悩みですねぇ。人間になんと呼ばれようとどーでも良いと思うのですが。それに分かりやすくて良いじゃないですかツルツルダイフクガニなんて」

 一方人間などどうでも良いフィアは、率直な意見をスベスベマンジュウガニに伝えていた。相手の気持ちをまるで汲んでいない。おまけに先程教えたばかりの名前がもう曖昧になっている。

 花中までもグサリとくる言葉に、スベスベマンジュウガニが怒らぬ筈もない。ハサミを振り回して彼女は怒りをアピールしていた。フィアは困惑したように頭を掻くだけで、何故スベスベマンジュウガニがそこまで怒るのか分からない様子。

「ちょっとフィア! あんまりコイツを怒らせないでよ。毒を撒かれたらどうすんの?」

 血の気が引いていた花中の代わりにフィアを窘めたのは、人間の事を好いてくれているミィだった。

「別にどうも? 花中さんが無事なら問題ありませんし花中を毒から守るぐらいなら簡単ですから」

「それだって、そうならないに越した事はないじゃん! あと近くには晴海と加奈子が居るんだよ!?」

「まぁそれはその通りですけど」

「それにアンタは人がバタバタ死んでも気にせず遊べるんだろうけど、花中はそうもいかない事ぐらい分かるでしょ?」

「……それもその通りですけど」

 ミィの指摘を受けて、フィアは後ろに居る花中の方へと振り返る。

 ……自分としてはなんだって構わないので花中が決めて良いと、フィアはその眼差しで訴えているようだった。そうとなれば答えは決まっている。フィアと違って、花中は人間社会の危機を見逃せないのだから。

「……分かりました。わたしで良ければ、あなたの名前を、考えたいと、思います」

 花中が承諾の意思を示すと、スベスベマンジュウガニは嬉しそうに身体を揺する。巨体が動く度に地面の岩が微かに揺れていたが、子供のような感情の表現に花中は思わず笑みを浮かべる。彼女としてはちゃんとした名前が欲しいだけなのだ。

「良し、それじゃあ……」

 早速、花中は思い浮かんだ言葉を伝え――――

 

 

 

 ……町の方から、カラスの鳴き声が聞こえてきた。

 あれからどれだけ時間が経っただろうか。沈みかけた太陽の光は弱々しく、夏とはいえ水着姿ではちょっと肌寒くなってきた。辺りも薄暗くなり、岩場を歩く危険性は大いに増している。何より潮だって満ち始めているので、そろそろこの辺り一帯は水底へと変貌するだろう。

 流石に、もう帰りたい。帰りたいが、帰れない。

 何分スベスベマンジュウガニは、未だ自分の呼び名に納得していないもので。

「ま、マルガリータとか、どうですか……?」

 最早スベスベマンジュウガニとは縁もゆかりもない、お洒落なお酒の名前をそのまま伝える花中。スベスベマンジュウガニはハサミを組み、少し考えてから「もっとカッコいいのが良い」と注文を付けてくる。

 この名前もダメだった。

 あれから、果たして幾つの名前を考えただろうか。真っ当なネタはとっくのとうに切れており、今はフィーリングやら思い付きやら閃きやら、そんなのに頼って捻り出す始末。先程挙げたマルガリータのように、なんか語感の良いっぽいやつをつらつら並べているだけだ。どれかは気に入ってくれるだろうという、下手な鉄砲数撃ちゃ当たるの精神。想いも何もあったもんじゃない。

「花中さーんまだ終わりませんかぁ? もう私そろそろ帰りたいんですけどー」

「あたしも同じー。なんかもう、なんだって良くなーい?」

 ちなみに友人達は早々に飽きて、そこらでぐでぐでと寝転がっていた。最初は二匹仲良く遊んでいたが、それすら飽きたようで先程からブーイングしか言ってない。

 花中だって、もう帰りたい。安請け合いをした訳ではない……というより脅されたのだから仕方ないのだが、しかしまさかここまで長丁場になるとは思いもしなかった。人間好きなミィすら面倒さが人間への好感度を上回って ― 或いは毒を撒く前に『仕留め』ちゃえば良いやと開き直ったのか ― 匙を投げてしまっている。

 それでも花中が諦めないのは、町に暮らす人々を守るため――――だけではない。

 むしろ今では、そんな考えはすっかり薄れていた。無論人命を諦めたりはしていないが、どうにもスベスベマンジュウガニの言葉には悪意がなくて、実感が湧かないのである。そもそも彼女は体内の毒素を外に放出出来るのか? そこまでの毒を蓄積出来たのか? あの身体は、殆ど海水で出来ている筈なのだが……

 あの脅しは、本当に単なる脅し……つまり『ハッタリ』なのではないか。

 一度その考えを抱いてしまったら、恐怖などすっかり失せてしまった。故に今の花中にあるのは純粋なら善意……不本意な名前を付けられた事への同情でしかない。

 その同情だけをモチベーションにして、こうしてスベスベマンジュウガニの前に立っているのだ。しかし同情はモチベーションにはなっても、想像力(イマジネーション)を生んではくれない。既にネタ切れ状態の花中は中々口を開けずにいた。

 そんな花中に向けてか、スベスベマンジュウガニが岩に何かを書き始める。

 ……もしこれが応援だったなら、もう一踏ん張りと気合も入っただろう。諦めだったら、弱音を吐くなと喝を入れただろう。

 では、「ねぇ、そろそろちゃんと考えてくれない?」……なんて、書かれていたら?

 ――――ぶちりと、花中の堪忍袋の緒がついに音を立てた。

「……アテルガティス、というのは……どう、でしょう? あの、女神、という意味の単語、なのですけど……」

 ゆらゆらと身体を揺らしながら、虚ろな眼で花中は告げる。

 本当に、ただの思い付きだった。いや、思い付きどころではない。限界に達した怒りから、つい、()()()()()を発してしまっただけ。却下され次第、溜まりに溜まった怒りを爆発させる気でいた。

 が、どうした事か。スベスベマンジュウガニはすぐには返事を返さない。それどころかしばし考え込むように動きを止め、口ずさむかのように節足動物らしい口器をわしゃわしゃと動かし、ハサミを組み、こくこくと頷く。

 それから不意に、足下の岩場にハサミで傷を付け始めた。その『筆』は今まで以上に力強く、野太く、深い文字を刻んでいく。岩石に刻まれたのは、たった一つの単語だけ。

 Good、との事だった。

「……へ? え? き、気に入ったの、です、か?」

 恐る恐る花中が尋ねると、スベスベマンジュウガニことアテルガティスはこくこくと頷く。それから「今度からそう呼ぶように」との一言を岩に書き残すと、さっさと満足げな足取りで移動。

 岸壁からダイナミックに飛び降り、海へと帰っていった。

 あまりにも呆気なく帰られ、ポツンと残される花中達。空を見上げればすっかり茜色。浜辺で遊んでいる人間やウィルスの友人達も、帰り支度を始めているかも知れない。

 彼女達が楽しんでいた時間、自分がしていた事はなんだったのか?

 あんな『適当』な名前で終われたのに、じゃあ今までの時間は……

「あ、やっと終わった? お疲れー」

「お疲れ様です花中さん」

 途方に暮れる花中に、友人達が労いの言葉を掛けてくれた。嬉しいような、そう思うのなら最後まで手伝ってほしかったような。複雑な想いに、花中は肩を落として苦笑いを浮かべる。

「しっかし『女神』ねぇ……全然女神っぽくないと思うんだけど」

「同感です。花中さんアテルガティスって『本当』はどんな意味なのですか?」

「……女神だよ。でも、スベスベマンジュウガニの学名の、属名の方も、同じ単語。要するに、マンジュウガニ属を、ラテン語読みした、だけ」

「つまり?」

「……マンジュウガニって呼んだだけ。なんかもう、面倒臭くなっちゃって」

「……………」

「……………」

「……………」

「……んじゃー、帰ろっか」

「……帰りましょうか」

「……帰ろう」

 とぼとぼと、一人と二匹は肩を落として歩き出す。お疲れ気味な友人に挟まれながら、それ以上に疲れた花中はこう思った。

 今度海外暮らしをしている親に出す手紙には、生き物の名前は愛情を込めて付けてほしいと書いておこう、と。




メクラチビゴミムシ「名前なんかより生息地守れよ、絶滅しそうなんだけど」
アホウドリ「乱獲はんたーい」

お久しぶりです。生き物の飼育大好きな彼岸花です。ちなみに昔、羽化したモンシロチョウを外に放したところ、二秒後飛来してきた鳥に食べられてしまった経験があります。自然界ってきーびしー!

次章は6/25(日)投稿予定です。
コンセプトは日常系……日常破壊系の間違いじゃないか? というツッコミは受け付けません(ぉぃ)
ではまた来週ぅー

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