折角の夏休みなんだし、どうせなら泊まりで行こうよ。
数日前に加奈子からこの提案をされた時、花中はとてつもない興奮を覚えた。あまりに興奮して、自分が全部準備すると言ってしまうぐらいには。夏休みを利用した友達との外泊……フレンドリー大好きな花中にとって、狂喜乱舞したくなるほどのイベントだった。
無論、その狂喜乱舞もののイベントをつまらぬ出来事で台無しにされては堪らない。ネットで周辺の旅館をくまなく調べ、企業のサイトのみならず口コミサイトや個人ブログも漁って情報収集。様々な要因も考慮し、厳選に厳選を重ね……一つの、小さな旅館を選び出した。
そこは築五十年と歴史のある和風旅館で、外観は趣を感じさせるものだった。海からも駅からも少し離れた、小高い丘の方に立っているため交通の便が悪いのが難点。しかしお陰で辺りは物静かで、マナーの悪い輩の騒音に悩まされる心配はない。案内された部屋からは夜景と海が一望出来、景観も最高。出された料理は美味で、接客も丁寧である。選んだ身である花中が鼻高々になるぐらい、満足のいくサービスを受けられた。
そして旅館の楽しみといえば、忘れてはならないものがある。
「ひゃっほぉー!」
加奈子が歓声を上げながら跳び込んだもの――――温泉だ。
旅館に辿り着き、料理を堪能した花中達は今、温泉に訪れていた。この旅館の温泉は天井がない所謂露天風呂で、見上げれば一面の夜空が満喫出来る……市街地の明かりによって掻き消されているので、流石に満天の星空ではないが。しかし一等星と月が煌々と輝く様は、十分に見惚れてしまう美しさがあった。
尤も、加奈子の暴走のせいでのんびり眺めている場合ではなくなったが。身体も洗わずに湯に浸かるとはマナー違反の極み。度し難い悪行である。
「こらぁ! ちゃんと身体を洗いなさ……!? タオル! タオル取れてる!?」
当然その様を目撃した晴海が黙っている筈もなく、加奈子を咎めようとしたが、怒号は一瞬で狼狽えた声に変わった。晴海が叫んでいるように、一枚のバスタオルが石造りの床に落ち、湯船に浮かぶ加奈子はすっぽんぽんだった。
しかし加奈子は全く気にも留めず、むしろキョトンとするばかり。
「良いじゃーん、お風呂は裸で入るもんだよー」
「ぐ、そ、それはそうだけど……」
挙句全裸の四肢を広げ湯船にぷかぷかと浮かせながら、加奈子は無垢に正論を振りかざした。これには晴海も二の句を告げない……話を逸らされている事に気付くまでのごく短い間だが。
「立花さんは何故あそこまで狼狽えているのです? タオルを落としただけだと思うのですが」
「さぁ? むしろ服を着てる方が変だと思うんだけど」
二人のやりとりを温泉の入り口付近から見ていたフィアとミィは、揃って首を傾げる。こちらは二匹とも全裸。タオルを持ってくるどころか、腕で隠そうともしていない。
二匹とも人間が裸を気にするという『知識』はあるので普段は
「あ、はは……」
そしてフィアの後ろに隠れて苦笑いを浮かべている花中は、晴海とフィア達の中間ぐらいの羞恥を覚えていた。
時間が良かったのか女性客が極端に少ないのか、現在この露天風呂に自分達以外の客の姿はない。人に肌を見せる事に小さくない抵抗があるとはいえ、友達しかいないなら幾分我慢出来る。むしろ文字通り裸の付き合いというのが、すごく仲良くしている感じがしてワクワクものだ。今はバスタオルを身体に巻いているが、何時でも外せるぐらいには、花中の恥ずかしさは心の隅に追いやられていた。
……これであと一人揃っていたなら、恥ずかしさなど彼方に忘れていたかも知れないのに。
「それにしてもミリオンの奴は今回も遅刻ですか。今日のアイツは色々たるんでませんかねぇ」
「なんか準備があるって言ってたよー」
「準備? ……準備ねぇ」
訝しげに呟くフィアだったが、花中にも気持ちは分かる。お風呂に入るのに、なんの準備が要るのかと訊きたくもなろう。
しかしミリオンの事情を知っていれば、その答えは明白。
今日のミリオンは『遺骨』持ちなのだ。骨の主成分はリン酸カルシウムだが、タンパク質であるコラーゲンも多分に含まれている。なので湿度管理や除菌などを適切に行わないと、大切な遺骨が腐敗してしまうかも知れない。そして不特定多数の人間が出入りする温泉は、生々しい話だが雑菌と水分と栄養分の大盤振る舞いだ。遺骨を守るために色々と仕込みをしているのだろう。
……と話せば皆納得はしてくれるだろうが、受け入れてくれるかは別問題。フィアとミィは気にしないだろうが、晴海と加奈子は分からない。いや、お風呂に人骨が浮かぶと考えれば、一悶着あると考える方が自然か。
わざわざ不快な騒動を招く必要はあるまい。そう思った花中は、敢えて口を噤んだ。
「まぁどーでも良いでしょうアイツの都合なんて。それより温泉に入る前には身体を洗うのですよね? 私知ってますよ!」
幸いフィアに追求する気はなく、それよりも早く花中との温泉を楽しみたいようだ。花中も温泉を楽しみたい気持ちは同じだ。滑りやすくなっている床を小走りで駆け抜け、シャワーヘッドの前へと陣取る。
一度は温泉に浸かった加奈子も、晴海に引っ張られて花中達の隣にやってくる。みんなで一緒に身体を洗うなんて、なんだか『家族』になったよう。自然と花中の口許には笑みが浮かび、にへへと楽しさがそのまま声に出てしまった。
無論、笑ってばかりでは身体は綺麗にならない。身体に巻いていたバスタオルを外し、まずは頭を洗おうと花中はシャンプーに手を伸ばす。
「おっと花中さん。私が髪と身体を洗ってさしあげましょう」
すると、フィアがそのような申し出をしてきた。
「え? 洗って、くれるの?」
「はい。どうですか?」
フィアの二度目の問い掛けに、花中は夢中で何度も頷く。髪や身体の洗いっこなんて、想定もしていなかった『友達っぽい』行為ではないか。断るなど、出来っこない。
ドキドキする胸を両手で押さえながら、花中はフィアに背を向けて座る。フィアはそっと後ろに立つと、花中の髪を撫でるように触った。まずは髪を洗うつもりなのか。優しい触り方に、花中は一層胸の鼓動が強くなるのを感じる。
どんな洗い方をしてくれるのかな。どんな感じに待てば良いのかな。終わったらフィアちゃんの髪を洗ってあげたいな――――
様々な想いを胸に、花中は暖かな気持ちを抱いた。
「それでは洗いますねー」
対してフィアは、あまりに能天気な声を出した。
自分とフィアの温度差に違和感を覚えた、のも束の間、花中の髪にどばどばと水が掛かる。完全な真水で、お湯じゃない。予想してなかった水温に花中は思わず跳び上がる。
予想外はこれで終わらない。真水が止まると今度はねっとりとした、シャンプーらしきものをどばどばと掛けられた。たくさんあった方が泡立ちは良くなるだろうが、この量では大半は髪で留まれず、身体に垂れてきてしまうだろう。明らかに多過ぎる。
しかしその事を伝えようとする前に、フィアが頭を鷲掴みにしてきた。なんだ、と戸惑う時間すらない。今度は頭皮にざわざわとした、小さな生き物が這いずり回るような感覚が走る。悪寒なんてものじゃない。正気を削られるような、名伏し難いおぞましき感触だ。悲鳴を上げなかったのは、単に理性の限界を超える異常事態に全身が強張り、声が出せなかったからに過ぎない。
頭皮を襲う感触は、やがて身体にも移動してくる。全身の毛穴一つ一つを穿り返されるような、言葉にしただけで身震いものの気持ち悪さだ。それは足先まできっちりと走ると、噓のように消えてしまう。
「はい終わりましたよー」
そしてフィアの、この宣告。
花中は目をパチクリさせながら、フィアの方を振り返る。嘘だと言ってくれと願いながら。
「……………あの、フィアちゃん? 今のは……」
「勿論髪と身体を洗ったのですよ。能力で」
「……能力で」
成程、フィアの能力なら水を操り、毛穴どころか細胞の隙間レベルで汚れを落とせるだろう。きっと今の自分の身体は隅々まで、埃一つない、生まれた時よりも無垢に違いない。
――――いや、そうじゃないでしょ。
思った事をそのまま口走りそうになり、しかし自身の『人間的』な発想をフィアが理解するとは思えない。なんと言えば納得してくれるのか。いや、そもそもフィアの事、身体を洗う事をそのまま『身体を綺麗にする』としか思ってないに違いない。
そうじゃない。友達同士でやる身体の洗いっことは、こういう事じゃないと思う。もっと、こう、きゃっきゃうふふみたいな……
「あ、えと、あ、ありがと……こ、今度は、わたしが、フィアちゃんの、身体を、洗って」
「それには及びません。こちらの『身体』の表層部分を綺麗にしておくぐらい造作もないですからね。湯船を汚す心配はありませんよ!」
それを行動で伝えようにも、フィアの能力は正に無敵。まるで付け入る隙がない。
違う。
違うのに、そうじゃないのに。
言いたい事は山ほどある。あるのに上手く言葉に出来ない事が悔しくて、悔しさは段々怒りに変わって。
「~~~っ! ぅ~! んぅーっ!」
「え? え? 何故叩くのです? え?」
身体を洗ってくれたお礼に、花中は頬を膨らませながらフィアをポカポカと叩くのだった。
「何やってんのよ二人とも。洗い終わったなら、さっさとお風呂に入りましょうよ」
尤も、花中の気持ちは花中にしか分からない。晴海に窘められ、花中は渋々フィアへの抗議を取り下げる。
先行する晴海達の後を追う形で、花中とフィアは浴槽の下へと向かう。ミィも後から続き、全員揃うと花中達人間はそこで身体に巻いていたバスタオルを畳んで浴槽の縁に置いておく。
「あ、ふぅぅ~……っ」
そしてお湯に浸かれば、込み上がる気持ち良さに花中は思わず声が出た。天然温泉ではないが、ほんのりと香りがするのは入浴剤が入っているのか。お湯の温度は高めで、身体に熱が浸み込んでくるのが分かる。それが極上の快楽を生み、極楽極楽、と思わず言いたくなる気分だ。さっきまでの怒りなど、一瞬で消え去ってしまう。
「う、にゃぁ~……」
ミィも花中と同じく声を上げており、表情がとろとろになっている。フィアは声こそ出さなかったが、花中を見て頬を緩ませていた。
「ん、んんん……くぅぅ……」
「そおいっ! ……あふぁ~」
花中達に続き晴海と加奈子も湯船に浸かる。加奈子は懲りずに元気よく跳び込んでいたが、お湯の温かさに負けたのかすぐに目尻が下がる。
花中、フィア、ミィ、晴海、加奈子……三人と二匹が一つの湯船に浸かり、種の違いを問わずみんながリラックスしていた。
「あー……気持ちいいわぁ……気持ちよくて、眠くなってきたかも」
「今日はたくさん遊んで、疲れたからにゃー……」
「皆さんよく眠れますね。私からすると高温の水などただの拷問にしか思えないのですが」
「そりゃ、アンタは淡水魚だし……」
だらだらとした会話も、温泉の温かさで蕩けていく脳には丁度良いテンポだ。花中は会話に混じらなかったが、耳を傾けるだけでゆったりとした気持ちになっていく。
そうしていると少しずつだが、眠気が強くなってきた。溺れたりする危険があるので好ましくないが……フィアが居るのできっと助けてくれるだろうという安心感が理性の働きを阻害する。段々と身体が湯船に沈んでいき、口からぶくぶく泡を出せるまで花中は身体を傾かせた
「それにしても晴ちゃん、結構おっぱい大きいよね」
タイミングで、加奈子からそんな発言が出てきた。
「ごぶっ!? ぶ、ぼ、おごぼっ!?」
「?! 花中さん!?」
あまりにも唐突な発言に驚いた、拍子に体勢を崩した花中は思いっきり溺れてしまう。気付いたフィアが水を操り、すぐに水面から顔を出してくれなければどうなっていたか。
いや、そんな事はどうでもいい。
おっぱい。
それは乳房の呼び名の一つ。主に女性に対して使われるもので、これを話題にするというのは即ち身体を話のネタにするという事。勿論いじめや悪口の意図なんて加奈子にはないだろう。ないのに、そういう話を振ったというのが、なんというか……
すごく、友達っぽい!
「……いきなり何言ってんのよ。大桐さん、驚いて溺れかけてるじゃん」
「えぇー、それ私のせい? 胸の大きさについてなんて、一緒にお風呂に入った時にする話としてはお約束でしょ」
「お約束かもだけどさぁ」
近寄る加奈子から逃げるように、晴海は加奈子から離れる。バスタオルは湯船の縁に置いてあるので今の晴海は全裸。触ろうと思えば触れてしまう生まれたままの身体を守るように、晴海は自分の身体を抱きしめながら加奈子に警戒感を向ける。
「そもそも、胸に関してはアンタの方が大きいじゃない」
そして晴海はビシッと加奈子の胸元を指差した。
晴海の胸は、決して小さくはない。一人一人測った訳ではないので断言こそ出来ないが、制服越しのスタイルで判断する限りクラスメートの中では平均的なサイズであろう。今も隠すために押し付けている腕によって、立派な膨らみを作り出している。
しかし加奈子と比べれば、小ぶりと言わざるを得ない。驚くように両腕を広げた加奈子は、その動きによって自らの胸をぽよんと揺らしていた。揺れていた。犬のように無邪気で、子供のように純粋な顔立ちとは不釣り合いな、発育の良いわがままボディを隠しもしていなかった。
「おー、そうかもー。でも大きいとさ、面倒も多いよねぇ。最近また大きくなって、ブラ買い換えなきゃいけなかったし」
「自慢かいっ! ……ま、まぁ、あたしも最近買い換えようかなって、思ってたから。育ち盛りだから! ほんと大きくなると面倒よね!」
「アレ多分嘘ですよね」
「嘘じゃないかにゃあ」
「そこの動物二匹! ちゃんと聞こえてるわよ! 嘘じゃないんだから! ほらっ!」
「いや見せられても元のサイズを知りませんし」
「大体大きくても面倒なんじゃなかったの? なんで自慢気な訳?」
意地になっているのか、恥を捨てて自分の胸を見せる晴海。が、フィアもミィも相手にしない。胸の大きさに拘る動物など人間ぐらいなので、人間ではない二匹には晴海が何を言いたいのか、さっぱり分からないのだろう。
それでも晴海は大きく見せようとしてか胸を張り、その傍では加奈子がミィの胸に興味を持っていたり。二人と二匹はお喋りだけでなく濃密なスキンシップも始めた
中で、ぽつんと取り残された花中一人。
忘れ去られている訳ではない。フィアとミィはまるで気にしていないが、加奈子や晴海は時折チラッと花中の方を見ている。見ているが、そのまま視線を逸らしてしまう。こちらに声を掛けてこない。それでいてそうした行動が、二人が自分を無視するためにしている訳でない事も花中は薄々感じ取っている。
単純に、話に入れ辛いのだ。
花中の胸が小さいので。
「……………」
無言のまま花中は友人達を眺める。
晴海のは揺れるほどではないが年相応にある。
加奈子のは動く度にぽよんぽよんと揺れている。
フィアのは作り物だがぷるるんとたわわに揺れ動いている。
ミィのは加奈子よりも小さいが、膨らんではいる。
対して、
……ちょっと両手で寄せてみたが、膨らみにすらなってくれない。
「何してるの、はなちゃん?」
「わひゃ、あっ!? ごぶっ!?」
等としていたところで不意に声を掛けられ、驚き、跳び退き、花中は顔面からお湯にダイブしてしまった。四肢をばたつかせながらどうにかこうにか起き上がり、息吐く間もなく振り返る。
一体何時現れたのか、花中の傍にはミリオンが居た。バスタオルを身体に巻いたまま入浴しており、現在入浴中のメンツでは一番ガードが堅い。
さらっとマナー違反だが……今の花中にそこを気にする余裕はない。もっと、個人的に大事な話がある。
「み、みり、ミリオンさん!? い、何時からそこに!?」
「んー? そうねぇ、はなちゃんが自分の胸に手を当てたところから、かしら?」
「そ、そう、ですか……」
狼狽を隠せないまま訊いてしまったが、返答曰く一部始終を見ていた訳ではないそうで、花中は安堵のため息を漏らす。
「……はなちゃんぐらい小さいと、そもそも体質的に脂肪が付きにくい感じだと思うわ。マッサージとかより、食事や生活環境を改善して女性ホルモンの分泌を増やした方が良いわね」
が、ミリオンから優しいかつ的確なアドバイスが飛んできたので、花中は口元まで湯船に沈めてぶくぶくと泡を立てた。恥ずかしくて、そのまま潜ってしまいたい気分である。
「……今日は、ありがとね」
ふと、ミリオンがそう呟くまで、花中は顔を上げる事が出来なかった。
「……えと、なんのお礼、でしょうか……?」
「海、連れてきてくれた事」
「え? そんな事、ですか?」
あまりにも拍子抜けする理由でのお礼に、花中は思わず訊き返してしまう。花中の傍から離れたくない都合、花中と一緒でないとミリオンは海には行けなかっただろうが……しかし花中だって海には行きたかったのだ。わざわざお礼を言われるような事ではない。
むしろ提案されたなら、喜々として賛同したのに。
「そんなに、行きたかったの、なら、言ってくれれば」
「そうなんだけど、基本的に誘われていくばかりだったからね。誘うのに慣れてないのよ」
「……好きな人に、ですか?」
「ええ。好きな人に」
穏やかに答えるミリオンに、花中は目を向けずに天を仰ぐ。海沿いの町明かりに照らされてしまい、大きな月を除けば、一番星が疎らに見えるだけの寂しい夜空に思えた。
「だから今日の事は、すっごく感謝しているの。私を此処まで連れてきてくれて、本当にありがとう」
「いえ、そんな……それに、言い出しっぺは、わたしじゃなくて、小田さん達、ですし……」
「勿論、後で二人にもお礼を言っておくわ。でも今は、はなちゃんにお礼を言いたいの」
にっこりと、心から喜んでいるような笑み。
赤く色付いた頬と合わさり、ミリオンは恋慕する乙女の顔を見せた。あまりの可愛さに、思わず花中もドキリとしてしまう。同時にその笑みが
会話が途切れ、ミリオンも花中も口を開かなくなる。だけどその沈黙に居心地の悪さは感じない。バシャバシャとフィア達が遊ぶ音を聞きながら、花中はミリオンと一緒にお湯の暖かさを堪能し――――
その最中に、ぼちゃん、と大きめの水音が聞こえた。
「……?」
なんだろうと、反射的に花中は音がした方向に意識が向く。とはいえフィア達がはしゃいでいる時に聞こえてきた音だ。大方水の掛け合いでも始めたのだろう。
そう思いながら振り返った先で見たのは、バシャバシャと、湯船の一部が独りでに水飛沫を上げている光景だった。
……一瞬、本当にそう見えた。しかしフィアが操っているならば兎も角、なんの外力もなしに水がひとりでに跳ねるなどあり得ない。フィアが操るにしても、こんな『無駄』な動きをする理由がない。恐らくは水飛沫の中心に何かが居る筈だと、花中は一点を凝視する。
予想通り、水飛沫の中心には動くモノが居た。
カラスだ。
理由は分からないが、カラスが湯船に落ちてきたようだ。丘に上がろうとしてか藻掻いているが、どうにも動きが弱々しい。上がる水飛沫は徐々に少なくなり、姿もゆっくりとお湯に飲まれている。
きっとあの子はこのまま沈み、二度と浮き上がれないだろう。
「た、大変っ!」
「え? あっ、はなちゃん待ちなさい!」
危ないから、というミリオンの言葉には耳を貸さず、花中はカラスの下に駆け寄る。確かに鳥とはいえ暴れる獣。伸ばした手を噛まれたり、引っ掻かれたりするかも知れない。病気を移される事もあるだろう。
それでも、見捨てる気にはなれない。カラスは花中が近寄ると一層激しく藻掻いたが、やはりどうにも動きが弱々しい。花中がその身体を優しく掴むと抵抗するように身を捩らせるものの、か弱い花中の手すら振りきれない。幸か不幸か、救出は難しくなかった。
見たところ外傷はないが、病気で弱っているのだろうか? なんとかしてあげたいが……カラスとはいえ野生動物である。本来なら溺れるところを助けるのも、自然に介入するという意味ではNGだろう。今回は自分達が入っている温泉での出来事なので湯船から救出するのは言い訳が立つとしても、病院で治療を受けさせるのは介入のし過ぎだ。酷なようだが、外に帰すまでが出来る事だとラインを引いていた。
とはいえ普通にそれをやるとなると、一度旅館の中に戻り、それから外に出る必要がある。この旅館はペット可であるが ― 一応フィア達は動物なので気分的にそういう場所を選んだ ― 、ゴミ漁りの常連であるカラスを人の生活空間に持ち込むのは好ましくない。無論、この露天風呂の隅に置くのも同じ理由で却下だ。
ここは友達の力を借りて、露天風呂の囲いを
「フィアちゃん、この子を外の茂みに、帰してほしいの、だけど」
花中は早速、暢気に遊んでいるであろう一番の友達に頼もうとした。
丁度、そんな時だった。
ばしゃん、ばしゃんと、二回の水音が聞こえたのは。
「……え?」
「あ。花中さんなんか立花さんが倒れてしまったのですが……」
「ちょ、加奈子!? どうしたの!?」
ポカンとした花中の耳に、落ち着き払っているが困った様子のフィアと動揺しきったミィの声が入ってくる。が、理解が出来ない。
どうして晴海と加奈子が、湯船にうつ伏せで倒れている? 何故彼女達は顔を水面に浸けているのに、何時までも自力で立ち上がろうとしない?
「はなちゃん、しっかりなさい」
止まっていた理性を揺さぶったのは、冷静ながらも力強いミリオンの声だった。
我に返った花中は、何はともあれこのままにしておくべきではないと即座に思い至る。人は、水の中では呼吸が出来ないのだから。
「と、兎に角、二人をお湯から、出して! このままじゃ、お、溺れちゃう!」
「ああそうですね」
花中の指示に応え、フィアが水を操って晴海達を湯船から出してくれた。石造りの床に寝かされた二人は、微かに胸が動いている。自力で息はしているようだ。
まだ、最悪の事態にはなっていない。
安堵しそうになる、が、そういう訳にもいかないと花中は気を引き締める。確かに晴海も加奈子も呼吸はしているが、胸の動きは荒く、それでいて浅い。素人の直感だが、危険な状態に思えた。
「立花さん! 小田さん!」
湯船から上がり、花中は急ぎ寝かされた二人の下へと駆け寄った。抱えていたカラスは濡れた床にそっと置き、まずは人間の看病を優先する。
先程まで温泉に入っていたのに、晴海も加奈子も顔色が真っ青だ。何度か名前を呼んでみたがハッキリとした反応はなく、時折呻くのが精々。肩を掴んで軽く揺すってみたが、意識が回復する気配はない。触った限りでは体温は高い……が、今の今までお湯に浸かっていたのだから当たり前だ。なんの参考にもならない。
「一体どうして……何があったの……?」
「ふーむそういえば声が聞こえたと言っていたような」
「え?」
理由を考えていたところ、ふとフィアが独りごちる。全く脈絡のない言葉に、花中は思わず振り向いてしまった。
「えっと、フィアちゃん、今なんて……?」
「倒れそうになる前に二人とも気分を悪そうにしていまして。どうしたのかと尋ねたところなんか声が聞こえたとかなんとか言ったのです。余程意識が朦朧としていたのですかね?」
やれやれ、と言いたげにフィアは肩を竦めた。
声が聞こえた、という言葉の意味は花中にも分からないが……どうやら気分を悪くしてからほんの二~三言交わしただけで、晴海達は倒れたようだ。かなり急速に症状が悪化したと思われる。医療知識がないので何が起きたかはさっぱり分からないが、倒れるのと同時に症状の悪化も止まったと考えるのは楽観が過ぎるだろう。悠長にしている余裕はなさそうだ。すぐにでも医者に見せた方が良い。
「フィアちゃんは、二人を部屋に、運んで! ミリオンさんは、旅館の人に、救急車を呼んでもらうように、伝えてください! ミィさんは脱衣所で、荷物の番を!」
迷っている場合ではないと、花中はすぐに行動を始める。全員に役割を振り分け、自分はフィアと共に部屋へと向かおうとした
「■■■■■」
「? フィアちゃん、今……」
「野良猫何か言いましたか?」
「ミリオン、なんか言った?」
「なぁに、はなちゃん」
「「「「……え?」」」」
最中にフィアが何か言った……そう思ったのも束の間、フィアのみならずミィやミリオンが同じような質問をし、誰もが呆気に取られる。
チラリと晴海達の方を見てみる花中だったが、二人は相変わらず意識がない様子。うなされて何かを呟いた、ようにも思えない。周りを見渡してみたが、自分達以外の姿はやはり何処にも見られない。
これでは
「……花中さん。なんかすごーく嫌な予感がしているのですが」
フィアも、いや、恐らくミィやミリオンも感じた、全身を駆け巡る悪寒。脳裏を過ぎる不安。目に浮かぶ結末……いずれも一つの『光景』につながる。つながるが、対策が全く思い付かない。フィア達も野生の警戒心を剥き出しにして周囲を探っているが、誰も動き出せずにいる。
花中が立ち尽くしている間も、その『声』は段々と明瞭になっていく。『声』だと思っていたものが、送信されてきたデータを表示するような、情報として解析された結果だと察する。それも脳ではなく、全身の感覚で、だ。『声』は明瞭になるにつれ、頭の中で言葉になっていく。さながら、輪郭すらおぼろげになるほど遠かった怪物が、少しずつ歩み寄ってくるように。
やがて花中は、その『声』をハッキリと聞き届けた。
今すぐ死ね
「がっ!? あ、っ……!?」
そしてそれは花中だけでは終わらない。
「ごふ……!?」
「に、ぅ……」
フィアは自らの『身体』をどろりと溶かし、本体をギリギリ包み込む程度の小さな水球を作って転がる。ミィも力なく倒れ、自重で石造りの床を叩き割ってしまう。
なんらかの攻撃か?
直感的に『理性』で予想する花中だったが、『本能』がその考えを即座に切り捨てる。聞こえた声は確かに物騒なものだったが、敵意や殺意をまるで感じなかった。例えるなら事務的な指示に近い、淡々とした語り。
絶命しろという命令を出してくるなど、傲慢なんて言葉すら物足りない不遜さだ。しかし本能が薄々、その権限を認めている。でなければ今、自分はこうして倒れていないという確信が花中にはある。
「ぐっぬぅぅぅ……これは一体……!」
「なんだか、分かんないけど……ちょっと、ヤバい、かも……」
一瞬で声も出せないほどに衰弱した花中と違い、フィアとミィにはなんとか立ち上がろうとする気力は残っていた。流石は超生命体であるミュータント、と褒めたいところだが、その気力も徐々に失われているようだ。花中と同じ状態になるのに、そう時間は掛かるまい。
今までに出会った事のない、経験のない力だ。
抗う以前に抵抗の意志すら見せられない……それほどの力の差を感じる。絶望的存在を予感し、心が震え上がってしまう。しかしそれでも、ナニモノが成した行いなのかを知らずにはいられない。自称知的生命体としての意地を張り、花中は今となっては唯一動かせる肉体の一部……眼球で世界を一望する。
そして、見付けた。
一番星しかなかった漆黒の夜空を覆い尽くす、オーロラのように巨大な輝きがある事を。
あの輝きが『ナニモノ』かの正体か、或いは能力が発現したものか、はたまた全く関係ない代物か。証拠なんてものは何もなく、断言なんて出来ない。だけど直感的に、アレが
――――考察もここまでだ。最早目を開け続ける事すら難しい。
遠退く意識の中で、花中は最後に、自分達の行く末を任せた。
未だ平然としている、ミリオンに……
温泉回(パーティ壊滅)
日常シーンでも容赦なく攻撃を仕掛けてくるのが本作の敵です。自然界は厳しいからね!
次回は3/12(日)投稿予定です。