彼女は生き物に好かれやすい   作:彼岸花ノ丘

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亡き乙女に音色は届かない8

「ふふふふんふんふふーんふんふふんふふーん♪」

 上機嫌な鼻歌が、住宅地に響き渡る。

 時刻は午後六時半頃。子供達はお家に帰り、仕事を終えた大人達はまだ電車の中。町に人影はなく、家々から聞こえてくる物音も少ない。傾いた太陽は茜色に輝き、町には長く伸びた影が広がる。段々と夜の景色に近付いていた。

 もう、今日も終わり。人の世はこれから少しずつ眠りに付く。

 されど鼻歌混じりに歩く金髪碧眼の少女――――フィアは、未だ元気さを振りまいていた。あたかもこれから遊びに行くかのように、お楽しみはこれからだと言わんばかりに。

「ふふん身体の調子は好調快適。あの野良猫案外役に立ちますねぇ」

 機嫌の良さを隠さずに、フィアは独りごちる。腕を ― 尤も、その腕は作り物だが ― 回し、元気さをアピールする。足取りも軽やか。誰も居ない、誰ともすれ違わない町をフィアは爛々と進み……

 立ち止まった場所は、道路のど真ん中。車二台がすれ違える広さはある、なんの変哲もない住宅地の何処かだった。

「人気なーし気配なーし車なーし。人間がしない行動を人間に見られてはいけないと花中さんに言われてますからねぇ適当に追い払うにしてもうっかり怪我させたら花中さんに怒られてしまいますし」

 うきうきしながらフィアはその場にしゃがみ込む。彼女の足下にあるのは、古びたマンホールの蓋。

 マンホールの蓋は重い。それは車両が通過した際、十分な重さがないと反動により浮き上がって外れてしまうからだ。昨今は性能の向上により幾らか軽量化しているが、それでも四十キロはある。古びた蓋がそれより重いのは想像に難くない。

 更に盗難防止などの観点から、簡単に持ち去られたりしないよう、握れるような立派な取っ手は付いていない。整備などの理由から蓋を外す時は、指すら入らない穴に専用の道具を差し込んで行う。つまり素手でどうにか出来る代物ではない。

 ないのだが……フィアは非常識が具現化したかのような人外。

 ベタッと、フィアはパーの形に広げた手をマンホールの蓋に押し付け、

「よっと」

 そのまま手を上げればなんという事だろう。蓋はフィアの手に貼り付いて、一緒に持ち上がってしまった。表面張力か、それとも未知の物理現象か。それは当事者であるフィアにしか分からない……或いは当事者も全く分かっていないのかも知れない。

 いぜれにせよ呆気なく外した蓋を、フィアは音を立てないよう静かに、しかし道端のど真ん中という適当な場所に置く。

 蓋がなくなり、マンホールはぽっかりと大穴を覗かせる。昼ならば降り注ぐ陽光が最深部まで貫いただろうが、沈みかけの太陽は入り口すら満足に照らさず、むしろ伸ばした影を闇に上乗せしてくる。無間の底まで続いていそうな漆黒が、穴全体を満たしていた。

 が、フィアは闇を恐れない。恐れないどころか、ぴょんっと穴の真上に跳んだ。超常的な力を持つフィアだが、超能力者ではない。空中浮遊なんて出来ず、重力に引かれて穴の中へと落ちていく。

 それから殆ど間を開けず、どぽんっという音が鳴った。

 ……やがてその音を聞き付けたように、置きっぱなしにされたマンホールの蓋の傍に黒い霧が現れる。

 霧は徐々に濃さを増していき、しかし周囲には広まらず、丁度人間一人分の範囲に留まりながら、その密度だけを増加させていく。そして霧は具体的な輪郭を持ち、喪服姿の少女……ミリオンへと姿を変えた。具現化したミリオンは肩を竦め、面倒臭そうにため息を吐く。

「全く、面倒なタイミングで勘付いちゃうんだから。今後もこんな面倒があるのは嫌だし、いっそここで殺しちゃおうかしら?」

 物騒な事をぼやきつつミリオンは放置されたマンホールの蓋を、指先で軽々と摘まみ上げた。そして開きっぱなしになっているマンホールの上に乗せる。まるで、子供が散らかしっぱなしにした玩具を片付ける母親のように。

 それからしばし、ミリオンは腕を組んで考え込む。

「……ま、止めときましょうか。今のさかなちゃんは強いだろうし、苦労して倒してもそれではなちゃんに嫌われたら骨折り損だし」

 やがて出した結論は、一応は穏健なものだった。

「とはいえ時間稼ぎはしないと。折角面白くなってきたのに、台なしにされたら堪ったもんじゃないわ」

 独りごちた後、ミリオンはある場所へと視線を動かす。人間の目には、誰かの家の塀があるようにしか見えない。

 しかし町全体を覆い尽くすほどに巨大で、数えきれないほどに膨大な存在であるミリオンには、その壁の遥か彼方まで見えている。その遥か彼方で交わされている会話すらも聞こえている。

 彼女は『全て』を知っていた。

 知らないのは、これから起こる事だけ。

「尤も、楽しい結末になるかどうかはあの男次第だけど」

 嬉しさと期待を醸し出しながら、ミリオンはその姿を霧へと戻す。

 そして霧は意思を持って動き出し、一塊となって空を飛んだ。

 決戦の地となるであろう、蛍川に向かって――――

 

 

 

 宵闇が広がりつつある町の中を、一つの影が駆け抜ける。

 影は車よりも速く、しなやかに進んでいく。十字路でトラックと鉢合わせても軽々と躱し、ゴミや配管でごった返す路地裏の細道を水のようにするすると潜り抜ける。その影を偶然にも目撃した人間は少なくなかったが、瞬き一つの合間に影は彼方へと行ってしまい、誰もその軌跡を追えない。動画の撮影など、機器を取り出す前に頓挫していた。

 かくしてかなりの人数に気付かれながらも、誰にも存在を証明出来ない影は、やがて駅周辺の歓楽街に入り込む。そこから影は人目を避けるように路地裏を進み、周りに建ち並ぶビルよりも一回り大きく見える、とあるホテルの裏側で止まった。

「花中、此処で良いの?」

 そして影――――人の姿をした猫であるミィは、背中に向けてそう問い掛けた。

 ミィの背中に乗っていた、即ちミィにおんぶしてもらっていた花中は、何も答えない。

 ……何分目を回して、自我喪失状態だったので。

「おーい」

「げふっ」

 ミィは軽いビンタを放ち、人間にとっては殴られるような衝撃に花中は呻く。結果我を取り戻し、花中はハッと顔を上げた。

「あ、あれ? わたし……」

「もー、花中はほんと弱いなぁ。大分ゆっくりめのスピードだったのに気絶するなんて」

「え? えーっと……あ、いえ、それより、着いたの、ですか?」

 全部自分が悪いのだろうか? そう思わなくもないが、問答をしている場合ではない事を思い出す。尋ねればミィは「分かんないから訊いてんの」と答え、背中から下ろしてもらった花中は駆け足で路地裏から出る。

 一歩路地裏から出れば、そこは人々の往来激しい繁華街。路地裏から出てきた自分に向けられる好奇の眼差しに、花中は身体が熱くなるのを感じる。しかし反射的に逃げ出そうとする足を踏み留まらせ、その場で振り返るようにある方を見た。

 そうして見えたのはホテルの表側の姿と、玄関に掲げられている看板。煌々と照らされる看板の文字と、頭の中にある記憶の言葉を照合。ピタリと合致した事で花中は確信を持って頷く。

 此処が、奏哉が寝泊まりしているホテルだ。

「ねー、此処で合ってるの?」

「……はい」

 二度目のミィの質問に、今度はちゃんと答える花中。

 目的地は目の前。深呼吸をして気持ちを整えてから、花中はホテルの自動ドアを潜った。

 大きなホテルだけに、受付ホールはそこそこの広さがあった。何人かの宿泊客らしき人物が受付で手続きをしている。行き交う人々の数も少なくない。ただしあくまで受付なので、誰もが長居はしていなかった。

 そんな中ただ一つ、ホール中央付近に置かれているソファーに座ったまま動かない人影がある。

 その人影が、奏哉だった。

「に、に、二階堂さんっ」

 花中がか細い声で呼ぶと、気付いてくれた奏哉は花中の方へと振り返る。タキシードという目立つ格好だった昼間と違い、今の奏哉はポロシャツとジーパンという、成人男性の一般的な身形をしていた。

 一瞬他人のように見えて後退りする花中だったが、理性できっちりと識別し、小走りで奏哉の下へと向かう。奏哉も早歩きでこちらに近付いてきてくれた。

「大桐さん、どうしたんだい? 電話では、話したい事があるからホテルの受付に来てくれって言ってたけど……」

「それは……」

 そして傍までやってきた奏哉に閉口一番で問われ、花中は一瞬口を噤んだ。それどころか、逃げるように目を逸らす。

 時間がないのは分かっている。

 妖精さんが何を求めているのか、どんな言葉を奏哉から聞きたがっているのか……それを伝えるために花中は奏哉を呼び出し、此処に訪れた。それを伝えるだけなら、いくら話し下手な花中でも躊躇はしない。

 躊躇うのは、『何故』を伝えようとしているから。

 『何故』を伝えたなら……きっと、奏哉は傷付く。花中では癒やせないほど、もしかすると一生立ち直れないほど深く。

 いっそ真実は隠し、妖精さんが求めている言葉だけを伝えるか? それは不可能でもなければ、難しい事でもない。それどころか奏哉も傷付かず、妖精さんが望んだ通りの展開となるだろう。精々ミリオンが不機嫌になるだけだ。誰も悲しまないという『優しさ』からの甘言が、花中の口を強張らせる。

 それでも心は甘言に頷かない。

 どちらの選択が正しいのか。或いはどちらも間違いなのか。花中には分からない。分からないから、自分の信じる道を行くしかない。

 そして花中が信じたのは、痛みの先に、新しい幸せが待っているという事。自らが選択した未来にこそ、光が待っているという想い。

「二階堂さん。あなたが愛した、妖精さんは……」

 祈りを胸に、花中は『真実』を告げた。

 最初、花中の話を聞いた奏哉は目を丸くして、キョトンとした。それから瞳を震わせ、否定するように頭を振った。それでも花中は伝え続け――――

「嘘を吐くなっ!」

 奏哉の罵声が、ホール中に響いた。

 何も知らない人々のざわめきが、ホールの中を満たす。受付に居たホテルの従業員は花中達の方を覗き見ていて、警戒心を露わにしていた。

 何時もなら、花中は衆目の圧力に負けて逃げている。いや、奏哉に怒鳴られた時点で身を縮こまらせて、謝っていたに違いない。

 だけど、今の花中は臆さない。

「そう思いたいなら、それでも、構いません」

 それどころか奏哉の意思を尊重する。予想と異なる反応だったのか、自身の言葉が受け入れられたにも関わらず、奏哉は怯んだように後退りした。

「これは、あなたの問題です」

 そんな奏哉を、花中は言葉で更に突き飛ばす。

「あなたが、信じたくないなら、わたしは、何も、言いません。それで、誰が、不幸になるとか、本当の、幸せじゃ、ないとか……そういう、事は、わたしには、言えません。それを、押し付けるのは、わたしのエゴ、です」

「……それは」

「でも、せめて、逃げずに、選んでください。自分で、考えて、自分で、決めてください。そうでないと……」

 きっと、何時までも後悔するから。

 花中の放った言葉は、奏哉に届いたのか。奏哉は唇を噛み締め、顔を俯かせる。悩むように、迷うように、長い間。花中は奏哉を決して急かさず、彼が動き出すのをじっと待ち続ける。

 それから、どれぐらい経っただろうか。奏哉は静かに顔を上げ、

「僕は……」

 何かを言おうとして口を開いた、途端、花中は両手を前に突き出す。その『続き』を阻むために。

「それは、わたしに、言うべきでは、ありません」

「……ああ。そう、だね。この言葉は、君に聞かせるべきじゃない」

 奏哉の言葉に、花中は深く頷いた。奏哉の顔には自然と笑みが浮かび、目の当たりにした花中もそっと笑顔を返す。

 奏哉の覚悟は決まったようだ。なら、此処に長居する理由はない。

 いや、長居をする余裕はないと言うべきか。

 時間を確認する手間も惜しんだので正確性はないが、此処に到着してから五分は経っているだろう。たかが五分。されどミュータント達の非常識な能力を用いれば、()()()()は成し遂げてしまえる時間だ。

 妖精さんとてミュータントである筈なのだからそれなりに応戦出来るだろうが、今回はあまりにも相性が悪い。フィアに襲われた妖精さんが五分も持ち堪えられるか……急がねば、奏哉の決意が無駄になってしまう。

「それよりも、大事な、話がもう一つ。実は、妖精さんは、今、その命を、狙われています」

「なっ!? ど、どういう事だい!?」

「理由は、その、色々都合の、悪い事が、重なったと、しか……ですが、止める方法は、あります。そのためにも、二階堂さん、あなたが、妖精さんに、想いを伝えて、ほしいのです」

「え? そ、それは構わないが、何故?」

「それは……話すと長くなって、しまい、ます。でも、今は、早くしないと、手遅れに、なって、しまいます。だから……」

「あ、ああ。そうだね。早くしないと、妖精さんが……!」

 妖精さんが余程心配なのだろう。奏哉は特段追求もなく、花中の話を信じてくれた。正直花中は安堵した。時間を取られるのもあるが、事情をちゃんと説明するには『友達』の厄介な性格云々について話す必要がある。時間的猶予がない今、混乱や疑心を招きかねない話題は避けたかった。

「急ぎましょう。『足』は用意、して、あります。こっちに」

「足?」

 訊き返してくる奏哉に、花中はホテルの玄関口へと駆ける事で答えとする。奏哉は一瞬の迷いの後、花中の後を追ってきた。元より足の遅い花中、すぐに追いつかれる。

 二人揃ってホテルを出れば、真っ先に見えたのは退屈そうに背伸びをしているミィの姿だった。

「んー……っと、やっと終わったの? 待ちくたびれたよ」

「すみません。あの、乗せる数が、倍に、なりましたが……」

「あー、乗り心地は悪くなるかもね。まぁ、それは我慢してよ」

 そう言うとミィは右腕を花中の方に伸ばしてきた。花中はすぐさま駆け寄り、伸ばされた腕に寄り掛かる。と、ミィは花中のお尻の方に素早く右腕を回すや、軽々と持ち上げ――――あっさりと、花中を自分の肩に乗せた。

「なっ!? か、彼女は……?」

「詳しい事は、今度、話します。それより、早くこちら、に」

 花中はミィの怪力に驚く奏哉を宥め、共に肩に乗るよう促す。奏哉は戸惑いながらも花中とは反対側、ミィの左腕に寄り掛かる。

 いくら細身とはいえ、奏哉は健康的な中肉中背の成人男性。体重は六~七十キロある筈。

 しかし体重数十トンのミィからすれば自重の千分の一前後でしかない。子供がカブトムシを摘まみ上げるが如く、奏哉もまた軽々とミィの肩に乗せられた。

「うわぁ!? な、なんて力……」

「あまり嘗めないでよ、人間」

 驚く奏哉に、ミィは奏哉に向けて誇るようにウィンク。そして今にも駆け出しそうな前傾姿勢へと移り、

「あ、そうだ。忘れてた」

 ふと、思い出したようにぼやく。

「あ、あの、忘れたって、何を……?」

「あー、いや、一応聞いとくべきかなーって思って」

 あまり悠長にしていられない。その焦りからわざわざ問い質した花中に対し、ミィはのんびりとした語りで前置きすると花中を乗せている方の腕を曲げ、立てている四本の指を見せてくる。

「特急、急行、準急、各停のどれにする? ちなみに花中を此処に運んできた速さは準急ね」

 そしてさらりと問い掛けてきたものだから、花中は答えに窮した。

 今、花中はとても急いでいる。

 早くしないとフィアが妖精さんを殺してしまうかも知れない。だから移動速度は速ければ速いほど良い……が、ミィは加減をしても十分に速い。いっそ速過ぎるぐらい。

 何より、命あっての物種と先人達は言い残している。

「……………各て」

「なんの事だかよく分からないけど特急で! 急がないと妖精さんが危ないんだよな!?」

 本能のまま発しようとした花中の言葉を遮ったのは、奏哉の至極真っ当な意見だった。花中が何か言おうとした事に気付いたのか、奏哉は花中の方へと振り向く。

 その顔は無垢な子供のように素直で、一切の迷いを感じさせない真摯さでいっぱい。瞳は何処までも透き通っていて、こちらの心の汚れを見透かすかのよう。

 そんなものを向けられて、保身ばかり考える穢れきった我を通せるか? 出来る訳がない。

「……舌を噛まないようにしましょうね」

「? あ、ああ。うん……?」

 花中の達観した言葉の意味を、奏哉はあまり理解していない様子。

 けれども花中はわざわざ説明する気にならなかった。どうせ間もなく身体で覚える羽目になるのだ。説明するより、その身を以て知った方が手っ取り早い。

「おっけー、特急ね。んじゃ、衝撃波が出ないギリギリラインのマッハ一ぐらいでいくけど、死なないように頑張ってよ?」

 尤も、途中でくたばっては学びようもないが。

 標準的な大気中の場合、音速は時速千二百キロ前後。旅客機でも出そうと思えば時速千キロぐらいは出るので、それより()()()()速いぐらい。

 さて、人間というものは全速力でかっ飛んでいる飛行機から生身で飛び出して、ケロッと生還出来るものなのか?

 その答えが暗転した意識の『先』にある事を期待しながら、花中は一瞬で白目を向くのだった。

 

 

 

 夕刻を過ぎ、蛍川は闇に包まれていた。

 元より雑木林と小川しかなく、人工の光がない世界である蛍川。側には住宅地が並んでいるが、街灯はいずれも住宅地の方を向いており、蛍川には殆ど光が届いていない。これは照らす意味がないというだけでなく、蛍川に生息するホタル達の生活を乱さないようにという自然保護の観点からも行われている。この静寂の闇は、人の協力があってこそ成り立つものなのだ。

 ……その静寂を破るように、大地が揺れる。

 最初は小石を動かす程度の小さな揺れで、しかしいくら時間が経とうと治まらない。むしろどんどん大きく、強く……容赦なくなっていく。雑木林の木々は風もないのにしなり、川の水面はちゃぷちゃぷと飛沫を上げる。家々からは新旧関係なく歪んだ音が鳴り始め、堪らず自宅から跳び出す者が後を絶たず。が、始まりとは比較にならないほど大きくなった揺れの中では、誰もまともに歩けない。皆一様に、近くの壁や電柱にしがみつくのが精いっぱい。

 そしてついには、道路にあるマンホールの蓋が一つ吹き飛んだ――――刹那、そのマンホールから大量の汚水が噴き上がる!

「きゃあぁあああ!?」

「なんだっ!? なんだよあれ!?」

「この地震のせいか!?」

「に、逃げろ! 早く!」

 外に出ていた人間達が悲鳴を上げ、逃げ惑う。揺れは未だ治まっておらず、まともに動けないのに、誰もが這ってでもその場から離れようとしている。

 しかしそれも無理ない行動。汚水は洪水を想起させるほどの轟音を響かせ、あろう事か周辺のコンクリートを粉砕して『穴』を押し広げているのだ。巻き込まれたなら人間など簡単に粉砕されてしまう。その水が茶色く、腐臭を漂わせている事など最早どうでも良い。圧倒的な死を纏う事象から、自分の命を、大切な人の命を守るのに誰もが必死だった。

 故に、誰一人として気付かない。

 溢れ出した濁流が、低い方へと流れていかない事に。噴き上がった水は殆ど飛び散らず、留まるように大きな塊となっていく事に。

 そしてその大きな塊の一部に、顔のような紋様がある事に。

【オマタセシマシタァ♪】

 ましてや瀑布の如く鳴り響く轟音に混じる、喜々とした声が聞き取れる筈もなく。

 噴き上がった水が『巨人』の形を取った瞬間、目撃した全ての人々が言葉を失った。

 『巨人』と言ったが、それは人というにはあまりに不格好な姿をしている。頭部らしき場所は鼻や目の輪郭だけ。腕にあるのは熊のように太くて不器用そうな指。足に至っては見当たらず、下半身はナメクジのように潰れている。背丈は二階建ての家と同じぐらい高く、肩幅は道路よりも広い。

 そんな『巨人』は首を伸ばし、腕をコンクリートの道路に突き立てながら、身体を引き摺るようにして蛍川の方へと動き出した。進む度に道路はゴリゴリと音を奏で、道幅よりも広い図体は住宅の塀を押し退け壊していく。逃げ惑う人間が居てもお構いなしで直進し、危うく轢き殺されるところだった者も少なからずいた。頭に電線が引っ掛かっても行動は変わらず、ブチリと音を立てて切れた高圧電線が火花を散らし、人間を即死させるほどの電流を『巨人』に食らわせる。しかし『巨人』は怯みもせず、歩みは止まらない。

 いよいよ『巨人』は道路を渡り切り、草の茂る土手へと侵入。草花が根を張る柔らかな土は突き立てられた『巨人』の腕を支えきれず、土砂崩れの如くあっけなく崩落し

 唐突に、爆ぜた。

 『巨人』の不格好な頭が、その背後に立ち並ぶ家の屋根と共に。

【ゴ、ボァ……!】

 ()()()()()()()()()()()()()()。だが、呻きを聞き届けた『相手』は手心など加えてくれない。

 頭の次は腕が、胴体が、次々に弾け飛ぶ。おまけとばかりに『巨人』の背後にある住宅の壁や屋根も、破裂するかのように砕けていく。破壊は一軒二軒に留まらない。『巨人』の近くにある何十軒もの家々が、人々の生活の場が、呆気なく失われていった。

【オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!】

 それほどの攻撃を受けながらも、『巨人』は未だ倒れない。失った頭を生やし、壊れた腕を元に戻し、崩れた胴体をブクブクと膨らませる。そして今も受ける猛攻など気にも留めないとばかりに、更に一歩蛍川へと近付いた。

 瞬間、『巨人』の全身が一瞬にして爆散する!

 最早巨人は跡形も残っていない。頭も腕も胴体も、全てが瞬く間に雫へと還る。しかも被害はそれだけに留まらない。『巨人』の背後にあった家々は奥深くの数十件まで切れ目が走り、建物上部がずり落ちる。更に切れ目から火の手が上がり、黒煙がいくつも昇り始めた。家に籠って水や地震から逃れようとしていた人々も、その家が崩れ、燃えてしまっては堪らない。巣を壊されたアリのようにわらわらと、人間が家から飛び出す。辺りはまたしても叫喚が満ちる。

「大方予想通りの結果と言うべきでしょうか」

 その中に、清流の如く静けさを纏った声が紛れ込んでいた。

 噴き上がった水によって蓋が吹き飛んだ、かつてマンホールだった大穴からどぷんっと音が鳴る。

 大穴の中は淵ギリギリまで茶色い水が上がり、その水が不自然に盛り上がる。盛り上がった水は茶色かった自らの色を変貌させ、白と、肌色と、金色を映し出す。そして意思を持つようにうねり、変形し、『人の形』に近付いていく。

 最終的にそれは先の出来損ないの『巨人』など及びも付かない、紛う事なき金髪碧眼の美少女……フィアへとその形を変化させた。

「やはり炎による攻撃はしてきませんでしたねぇ」

 姿を現したフィアは、クスクスと笑いながら蛍川に向けて話し掛ける。川の方から返答は、ない。

 それでも構わず、フィアは穴から蛍川目指して歩き出し、話を続ける。

 自身が見ている先に己を傷付けた憎きモノ、『妖精さん』が居ると知っているがために。

「あなたの行動はしっかりと観察させていただきました。おっと攻撃なんてして手間を増やさないでくださいよ。取り込んだ光を屈折させ遠方まで届ける事で私にもこの場の景色は見えています。早い話私は今そちらに居ませんのでこの『身体』を粉微塵に吹き飛ばそうと全くの徒労に終わるという事です」

 早口で、長々と前置きをするフィア。一通り話し終えると、さて、と軽く間を挟む。その際、フィアの口角は歪な三日月を描いた。

「炎による攻撃をしてこなかった件についてですが……出来る訳がなありませんよねぇ? あの炎に攻撃力はないのですから。あなたの能力で攻撃するには今みたいにやるしかない。頑張れば石を飛ばすぐらいは出来るでしょうけどあまりに効率が悪い。危機が迫ったなら直接ぶちかました方が手っ取り早くて確実です」

 ぐらりと、またしても大地が揺れる。

「何故それを知っていると思いましたか? 簡単な話です。あなたの能力は既にバレているのですよ対策も済んでいますあなたに勝ち目はないああだからと言って降伏を勧めている訳ではありませんよ」

 大地の揺れは収まらない。再び時間と共に、それでいて先程よりも急速に大きくなっていく。

 その揺れの中でフィアは足を止め、邪悪一色の笑みを浮かべた。

「だって降伏を許したらあなたを叩き潰せないじゃないですか」

 直後、道路に空いた大穴から『第二ラウンド』を告げる水煙が噴き上がる。水煙は霧のように周辺を飲み込み、フィアの姿をも覆い隠す。

 次いで水煙の中から、一体の巨大な怪物が跳び出した!

 怪物の大きさは、五メートルはあるだろうか。今度の怪物は先の巨人とは違い、汚水の塊らしい茶褐色ではなく、周りの景色が映るほどの、白銀に煌めく『身体』を持っていた。ただし美しいのは体色のみ。頭は死んだ魚のようにおぞましく、身体はヒキカエルのように醜悪。下半身は相変わらずのナメクジ型、いや、一層でっぷりとした肥満体型になっている。頭部にある目玉はあからさまに節穴で、口の切れ目すら入っていない。弾力があるのか、動きに合わせて全身がブルンと不気味に震えていた。

 怪物は水煙から跳び出した勢いのまま、激しく着地。アスファルトで舗装された道路を粉々に粉砕し、大地を揺らして脆くなっていた家々を崩してしまう。

 しかし怪物――――フィアは人間の営みの崩壊になんの興味も抱かない。

 今の彼女には、外敵以外見えていないのだから。

【よくも先日はこの私の身体に傷を付けてくれましたねぇぇぇぇぇ! 謝ろうが命乞いをしようが許してやりません! 最早あなたを足先からじわじわとすり潰しその肉体を血とひき肉のスープに変えてやらねばこの怒りは収まらない!】

 怨嗟の叫びを上げ、『フィア』は動き出した! その姿は巨人の時と違い、後ろ足を失ったカエルが這いずるように惨め。しかし前脚で大地を掴み、のたうちながら進む姿に弱々しさはない。狂気と冒涜を周囲に振りまき、目撃者の正気を削る容姿で爆走する。一瞬で巨人の最高速度を超え、災害が如く勢いで頭から土手を乗り越えて

 そして再び爆ぜる……ただし今度はフィアの周りにある家々だけが。

 フィアの『身体』は砕けなかった。とはいえ原形を留めている訳でもない。まるでゴムボールのように、怪物と化したフィアの顔面は押し潰されて変形していたのだ。

 その変形した顔面のど真ん中で、()()()()()が弾けている!

【だから言ったでしょうあなたの能力は既に把握していると! 対策も済んだと!】

 誇らしげなフィアの咆哮。その声は弾けている光が鳴らす轟音に溶け込み、蛍川にはノイズ混じりで送られている事だろう。

 虹色の輝きはそれ自体が力を持ってフィアの顔を潰し、しかし変形によって受け流された結果四方八方へと飛び散る。散った光はフィアの背後に広がる住宅地を直撃し、無秩序に家々を貫き、破壊していく。

 それでもフィアの顔面は壊れない。全ての光を、人間の営みなど毛ほども気にせず受け流すがために。

【あなたの能力は応用力のみならず直接的な破壊力にも優れている! いやはや全く以て素晴らしい能力です! この私以外が相手なら敵なしと言っても過言ではないでしょう! しかしですねぇ】

 フィアは余裕を崩さず、光の濁流も気に留めず、ゆっくりと腕を持ち上げる。拡散した光の一部がその腕に当たるも、フィアが作り出した『身体』は柔軟に歪むだけ。巨人の剛腕と違い、不格好な細腕は千切れない。

 ついに巨人では辿り着けなかった領域に踏み込んだ。瞬間、フィアの顔面で弾けていた光が消え

 ズドンッ! という打撃音と共に、一層強力な光がフィアの顔面で弾けた! 最早太陽の神秘性すらも凌駕する七色の輝きは、神の一撃と呼ぶに相応しい。

 しかし、それでもまだ、化け物(フィア)の顔は壊れない!

【相性が悪かった! 打撃を受け流すための柔らかさだけではその攻撃に含まれる熱に耐えられない! 熱を受け流すための性質があっても生半可な硬さでは打撃の衝撃に耐えられない! しかし私にはそれを用意出来る! 私はあなた方にとって天敵と言える存在でしょう! ああ最初からそうでしたかね!? 所詮あなたは私からすれば獲物の一つに過ぎない!】

 フィアは歩み続ける。光の爆発などお構いなしに、町の破壊など意に留めず、ただただ蛍川へと突き進む。

【だから美味しく頂いてあげますよ】

 そしてあと一歩まで迫った蛍川に、その銀色の手をゆっくり伸ばした

 刹那の事だった。

「残念、そうはいかないわ」

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()のは。

【っ!?】

 不意打ちに加え、『眼前』に迫るという圧迫感からか。フィアは咄嗟に、自身よりも小さい、()()()()()少女を避けるように身を仰け反らせてしまう。

 すると、その動作を目の当たりにした少女はニヤリと口元を歪めた。

【あ。しまっ】

 その笑みでフィアも少女の目論見に気付くも既に手遅れ。

 何しろ、未だ光の爆発は終わっていない。

 フィアは光の爆発に対し、常に頭から立ち向かっていた。それは自らが作り上げた『身体』に対する自信の表れ、などではない。『身体』が魚類の頭とカエルの胴体という流線形……迫りくるエネルギーを受け流すのに適した形態であり、その機能を百パーセント活かせるのが真っ正面だったからだ。

 では、身を仰け反らせた結果、頭ではなく腹に攻撃を受けるようになったなら?

 柔らかな身体は多少の衝撃ならば流してくれる、が、大き過ぎる力は処理しきれない。どれだけ泳ぎの上手い魚でも流れに対し腹を向ければ、清流にすら抗えず押し流される。

 フィアの身体もまた同様。いや、光の爆発による勢いは水流どころではない。

 フィアの身体は光の爆発によって、大きく吹き飛ばされた! 蹴飛ばされたボールを彷彿とさせる真っ直ぐな軌道で撃ち出され、土手に叩き付けられる。フィアを受け止めさせられた土手は原形を留めぬほどに砕け、側を走る道路も弾け、黒色土とコンクリート片が共に爆風の如く舞い上がった。まるで小惑星でも落ちたかのような光景から生まれたのは、やはり小惑星が衝突した跡のようなもの。抉れ飛んだ土手と道路の姿はクレーターと言っても差し支えない。常識的な生物ならば、先の一撃でお陀仏だ。

 その様子を眺めながら黒い和服を着た少女――――川から跳び出したミリオンは悠々と ― というより綿毛のようにふわふわと降下しながら ― 岸辺に着地。

「……まぁ、『入れ物』を攻撃してもねぇ」

 悩ましげに眉間に皺を寄せながらミリオンはぼやき、

【おのれおのれオノレオノレオノレエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエッ!】

 土手に叩きつけられたフィアは『中身』の入っていない身体を震わせ、雷鳴以上におぞましい咆哮を上げた。轟く叫びは町中に響き渡り、世界ごと揺さぶる。周囲の家々の窓ガラスが独りでに割れ、土手の一部がずるりと流れ崩れる。

【何故あなたが此処に居るどうしてこの私の邪魔をするああああああそこに隠れる羽虫以上に腹立たしいいいやそいつについても最早喰うにも値しないどちらもまとめて砕き潰して肉塊にし打ち捨て腐敗した汚物に変えてくれるッ!】

 邪悪な叫びに呼応するかのように、フィアと怪物が現れた元・マンホールから大量の汚水が噴き上がった。水は重力を無視してフィアの元へと流れ、その水を吸い上げてフィアの身体はぶくぶくと肥大化していく。

 やがてフィアは先の数倍はある、身の丈十五メートル近い巨物へと変貌。

【三度目はないと知りなさい!】

 巨体を『射出』としか言えない猛スピードで動かし、一気に川まで突撃しようとする!

 対するミリオン。肩を竦め、クスクスと失笑。

「ほんっと、さかなちゃんは単純ねぇ……二度ある事は三度あるって諺、知らないかしら?」

 それから淡々と、嘲笑いながら問う。

 するとどうだろう。ミリオンの頭上で、フィアはその動きを止めた。

 守護霊であるかのように突如としてミリオンの背後に出現した、身の丈十五メートルもの()()()()()()()()()()()()()()()漆黒の巨人に阻まれて。

【ぐぬぅうっ!?】

 巨人と正面衝突し、フィアの口から驚きと不快感を滲ませた声が発せられる。漆黒の巨人は真正面からフィアに向かい、体当たりでその巨体を吹き飛ばしたのだ。大質量同士の激突は凄まじいエネルギーを生じさせ、周囲に小規模ながら地震染みた振動を走らせる。

 しかしフィアの『身体』に中身は入っていない。自分と同等の巨漢がぶつかろうと『本体』にダメージは届かず、判断力も鈍らない。フィアは即座に腕を変形。カエルのように不格好で貧相なものから屈強な類人猿的腕部に変化させ、進路を阻む漆黒の巨人へと跳び掛かりながら振り下ろす!

 されど巨人もまた腕を伸ばし、やってきたフィアの腕を掴んで受け止めた! フィアはもう片方の腕も振り上げるが、それもまた漆黒の巨人は受け止める。

 両腕を塞がれた二体の巨物。

 しかし人外である彼女達に、腕は二本までという常識など通用しない。巨人の脇腹からずるりと太い腕が現れ、フィアもまた同様に腕を生やして対抗する。

 幾度かそれを繰り返し、互いに四本の腕を新たに生やした、合計六本の腕でがっちりと掴み合う。双方共に人智を圧倒する怪力で対等に押し合っており、力を緩めればその瞬間押し返されてしまうだろう。

 どちらも身動ぎすら迂闊に出来ない拮抗状態に陥ってしまった。しかし『不利』なのはフィアの方。跳び掛かったところを受け止められたフィアは、立ち上がった姿勢で巨人と対峙している。そのため弛んだ腹を巨人越しに『蛍川』に向けてしまっていた。巨人を投げ飛ばせばその瞬間蛍側から『光の爆発』による攻撃が行われ、吹っ飛ばされてしまうだろう。つまりどうやっても、フィアは目指す蛍川に近寄れない。

【この……こんな時間稼ぎで……!】

「あら、どちらが時間稼ぎなのかしら?」

 ミリオンが余裕の口振りで尋ねるや、巨人……無数のミリオンが集まって出来ているであろう人型の塊が、ゆらりと蠢く。それから巨人の腹部付近に、独りでに大穴が空いた。

 大穴の先に見えるのは、蛍川だ。

「あの子の能力は見破ったのよね? なら、私のした事の意味は分かるでしょう? ……『通路』を開いたわ。この穴からあなたの土手っ腹を狙える」

【……………】

「力を受け流すのに適した流線型だから、正面から立ち向かう分にはあの子の攻撃を受けても前進出来た。でも、私が居る限りこうして取っ組み合いに持ち込まれる。これじゃあ流線型の身体を活かせない。私とあの子が居る限り、あなたは此処から先には進めない」

【……………】

「分かったら帰ってくれない? 疲れる事はしたくないんだけど」

 ミリオンからの勧告に、フィアは何も答えない。

 ……否。小さく、クツクツと声が零れている。

 それは悔しそうな言葉ではない。恥辱に塗れた嗚咽でもない。もっと楽しげで、優越感に浸りきった――――

【クククカカカカカカカカカカ!】

 おぞましい、笑い声だった。

【その程度の事を私が想定していないと本気でお思いなのですか? 先程やられた事をいくらか手を変えただけでまた引っ掛かると? ええ引っ掛かりますよ。全く忌々しいコンビですねぇ】

 ですが……そう言葉を区切るやフィアの背後、ボロボロになった住宅地から半透明な触手が生えた。それも一本二本ではない、何十、何百もの数。

 その全てが先端を蛍川に向けている光景を前にして、ミリオンは顔を顰めた。

【形に拘らなければいくらでも手はあるんですよぉ! 一点集中ではなく拡散させる! 当然あなたも出来るでしょうがその点については私の方が得意! どういう経緯であなたがそいつと協力したのかなんて知りませんし興味もありませんがその正体ぐらいはご存知なのでしょう!? だったら私が操る水の一部でも川に到達したらどうなるか想像出来ますよねぇ!?】

 煽るようなフィアの物言いに、ミリオンは言い返さず、むしろぐっと唇を噛み締める。

 フィアの予想通りであるなら、自身の操る水の一部でも蛍川に着けばその時点で勝利が確定する。

 その予想が正しい事を、ミリオンの顔が物語っていた。ミリオンは全力で、川に突き進もうとするフィアを止めようとするだろう。しかし一ヶ所でもフィアの操る水と川が繋がれば、その瞬間にフィアは川の水を全て支配下に置ける。宣言したように形に拘らなければ、地面に水を浸透させ、ひっそりと川に近寄るという方法だって使えるのだ。他にも手はいくらでもある。

 確かにミリオンは反則的に強い。フィアもそれは認める。

 しかし此度の防衛・侵攻においては、フィアの方が圧倒的に『得意』なのだ。それはきっと、ミリオンも分かっていたに違いない。

「……分かっていたけどこりゃ無理だわ。今回は私の負けね」

 分かっていたからこそ、あっさりとミリオンは白旗を上げる。勝てない勝負に拘るつもりはないと言わんばかりに。

 期待していた言葉に、フィアはその魚顔にニタニタと笑みを浮かべた。が、さして間を置かず眉間に皺を寄せる。

 負けを認めたにも関わらず、『自分』を食い止めているミリオンの手は何時までも離れないのだから。

【……何を企んでいるのです? 今更この状況を変えられるとでも思っているのですか?】

「まさか。私にはどうにもならないわよ。大体どうにかするのは私じゃないし」

【は? 一体何を言って……】

 ミリオンの真意を問い詰めようとしてか、フィアは更なる言葉を投げ掛けようとした

 その、直後の事だった。

「フィ――――――――――――ア――――――――――――ッ!」

 何処からか、フィアの名を呼ぶ声が辺りに響き渡ったのは。

【っ!? 今度は一体なんですか!?】

 ギョロリと、フィアは眼球もどきを声がした方に向ける。

 その視線の先にある土手の一部で、大量の土石が舞い上がった。

 あたかも木の葉のように土が舞い上がる光景は、巨大なエネルギーが『放出』された証。そのエネルギー放出地帯のど真ん中に、小さな影がある。

 やがて土石は重力に引かれて落下。遮る物がなくなり、土石に隠れていた影……ミィの姿がハッキリと見通せるようになった。

「ふぅー……間に合った、のかな?」

【野良猫!? 何故あなたが此処に……!】

「花中に此処に来るよう頼まれてね。で、まぁ、あたしとしちゃあ別にアンタと敵対するつもりなんてないけど、頼まれた事以外しないってのも薄情な感じじゃん? つー訳だから、とりあえずこれでも食らっと、けっ!」

 戸惑いを見せるフィアに追い打ちを掛けるように、ミィは腕を振り上げ『何か』を投げる! 『何か』はミリオンと組み合っているフィアから少し離れた場所目掛け、高さ十数メートルの放物線を描いており、脅威になるとは思えないものだったが……されど、フィアの逆鱗に触れるには十分。

【腹立たしい腹立たしい腹立たしい! 何故にこうも邪魔者ばかりがくるのです! あなたにはそれなりの恩があるとはいえ邪魔立てするなら容赦は……】

 ところが怒りを爆発させたフィアは、半端なところでカチンと固まる。

 フィアは見てしまった。なんとなく、ミィが投げ飛ばしたものを。

 フィアはフナである。濁った水底で暮らす故に、視力はさして発達していない。だからパッと見ではミィが投げ飛ばしたモノの正体など分からない。

 それでも色と形と大きさぐらいは分かる。そして人間並の知能がある故に、想像だって出来てしまう。

 だからフィアは気付けたのだ。

 あらぬ方向に飛んでいくモノが、日本人らしからぬ銀髪と高校生っぽくない小柄な体躯をした少女……

 即ち花中であると。

【かかかかかかか花中さああああああああんっ!?】

 フィアの狼狽しきった叫びに花中は何も答えない、答えられる訳がない。今の花中は投げ飛ばされた勢いで、空中をぐるんぐるんと高速で大回転している。一般的な人間でも意識を保てるかどうかの状況、一般よりずっと脆弱な花中なら言わずもがな。白眼を向き、口からは出てはいけないモノがオロロロロロと溢れていた。

 無論、今の花中にまともな着地は期待出来ない。大体にして十数メートルの高さから落ちているのだ。普通の人間なら……

 そんな当然の帰結を、フィアは考えない。

 考える前に、花中を助けるべく動き出していたのだから。

【っ!】

「おっと」

 ミリオンとの取っ組み合いをあっさりと止め、フィアは巨大な『身体』を液体(ただの水)に戻して崩れ落ちる。相手が居なくなった巨人のミリオンは勢い余ってよろめくが、土手で控えていた水は隙を突くような真似をしない。

 むしろ全ての水が土手から離れ、このままでは花中が墜落するであろう場所に集結。そこは争いの余波で全壊した家の敷地内だったが、さながら机の上のゴミを薙いで一掃するように、水達は崩れ落ちた家の一部や壊れていない塀などをまとめて押し退ける。外側にある未だ無事な家々が流れてきた瓦礫によって押し潰されたが、フィアの『片付け』は止まらない。

 そして水は巨大な魚の頭を形作り、落っこちてきた花中を、バクンッ、と飲み込んでしまった。

「ありゃ、ほんとに食らっちゃった。ま、良いか」

 その様を見て、花中を投げ飛ばした張本猫はのほほんと独りごちる。

 次いでミィは、自身の足下に転がる一人の男……目を回して気絶している奏哉の腹を軽く足蹴にした。ミィからすれば優しく小突いた程度だろうが、奏哉の口からは肺の中身を全て吐き出したような咳が飛び出る。咳は一回では終わらず何度も何度も出てきて、ようやく止まった頃に、奏哉は意識的に顔を上げた。

「あ、あれ? 此処は……」

「ほら、目的地に着いたよ。早くしないとアイツにアンタの好きな人、食われちゃうよ?」

「え? アイツ……って、な、な……!?」

 ミィが指差した場所、花中を丸呑みにしたフィアを見て、奏哉は腰を抜かしたのかその場にへたりこむ。が、ミィはそんな奏哉の服の背中側を掴み、

「話し合いが出来るぐらいの時間は稼いであげる。だから、安心して行ってこーい」

 なんの躊躇もなく、蛍川の方へと投げた。

「わ、うわ、わぁあああ!?」

 情けない悲鳴を上げながら、奏哉は空を舞う。花中よりは優しい投げ方だったので空中大回転こそ免れていたが、しかし人間は空を飛べない。ジタバタと手足を動かしても体勢は立て直せない。

「どべっ!?」

 結果、着地は顎からという不様なものに。

 しかし痛みに呻くよりも前に、彼は跳びはねるように顔を上げた。

 燃えるように赤い髪を携え

 海よりも透き通った青い瞳を持ち

 春の草花よりも鮮やかな緑色の服を着た少女。

 出会えなかったのはほんの一日。だけど何十年も会えなかった肉親と再会したように、奏哉の瞳からは一筋の涙がこぼれる。

 彼の前には蛍川の水面の上に立つ――――『妖精さん』の姿があった。

「妖精、さん……!」

 焦がれていた人との対面に、奏哉は落下の痛みなど感じさせない笑顔を花咲かせる。しかし笑顔はすぐに終わり、立ち上がった時には真剣な眼差しで妖精さんを見た。妖精さんも、青く透き通った眼差しで奏哉を見つめ返してくる。

 そんな奏哉に、何時の間にか傍まで寄ってきたミリオンが声を掛ける。

「良かったわね、愛しの人に出会えて」

「君は、確か図書館で会った……」

「はなちゃんから『本当』の事は聞いたのでしょう? そして此処に来たのなら、もう気持ちは固まったのよね?」

「……ああ」

「なら、私から言う事はないわ。そうね、精々あなたの選択が私好みである事を望む、ぐらいかしら」

 それで満足したのか、ミリオンは奏哉から顔を逸らした。

 直後、爆音と衝撃波が奏哉達を襲う。奏哉は目を丸くし、ミリオンは親しげな微笑みを浮かべる。

 爆音の発信源には大きなクレーターが。

 そしてクレーターの中心には、仁王立ちするミィが居た。

「やっほー、ミリオン。おひさー」

「おひさ。元気してる?」

「まぁまぁかな。そっちは、ウィルスだから体調も何もないか」

「あら、そんな事ないわよ? 私だって胸が苦しくなる時はあるんだから。それこそ愛しいあの人の事を想えば、何時だって」

「惚気かい」

 ミィとミリオン。親しげな会話を交わす二人だったが、どちらも相手の顔を見向きもしない。

 代わりに二人の視線を釘付けにしていたのは蛍川とは反対側。土手の向こうに広がる荒れ果ててしまった住宅地にて、花中を丸呑みにした後ぶくりぶくりと膨らみ続けていた『フィア』だった。

 今や彼女は、十メートルという値すらも足りないほどに肥大化していた。見た目も先程までとは大きく異なる。魚の顔に肉食獣も真っ青になるだろう巨大な牙を生やした、『怪獣』のような形態だ。周囲には水で出来た触手が何十本ものたうち、時折八つ当たりのつもりなのか、半壊で済んでいた住宅を薙ぎ払っている。

 何処までフィアの感情が反映された姿かは分からないが、相当な憤りを持って造られた事は明らかだ。

 ただしミィ達に今にも跳び掛かってくるような、危うい気配はなかったが。

「……攻撃してこないんだ。結構意外」

【ふんっ。今は花中さんの介抱が先です。あなた方の相手は片手間で出来ますが花中さんを蔑ろには出来ません。大体この状況でそいつを潰すのは些か面倒そうですし】

 ミィからの問いに、フィアは雷雲を想起させる野太い声で不機嫌さを露わにしながら答える。フィアは自信過剰であり、基本的に他者を見下しがちだが、一度戦った相手の力量を過小評価したりはしない。ミィが参加した事で、蛍川の守りは一層堅固なものとなった。安全圏から水を操っているためフィアがやられる事はないし、ミリオンとミィの防御を破る事も可能だろう。だが、そのための労力は計り知れない。

 別段、フィアは正義感を持って妖精さんに攻撃を仕掛けた訳ではないのだ。感情を上回るほどに面倒臭くなってしまえば、執着などしない。

【それになんだか見覚えのある人間が居ますが恐らく花中さんの手引きなのでしょう? 私は花中さんの邪魔をするつもりはありません。配慮するつもりはありませんが上手くいきそうな事を妨げるのも不本意なのです。ですから今は退くとしましょう。決着は今晩辺りにでも】

 それだけ言い残すや、どぽんっと巨体に見合わない静かな音を立て、フィアの形は崩れて水へと戻った。水はゆったりと流れていき、全てが道路に空いた大穴……フィアによって破壊されたマンホールの中へと落ちる。

 宣言通り、フィアは完全に退いたようだった。

「……じゃ、私達も帰りましょうか。一旦ね」

「んー? まぁ、あたしは人間の色恋にはそこまで興味ないし、それで良いよ」

 一先ずは驚異が去り、ミリオンは黒い霧となって姿を消す。続くようにミィは誰にも目視出来ない速さで立ち去る。

 残されたのは、奏哉と妖精さんの二人だけ。

 『驚異(フィア)』が居なくなり、ようやく話せるようになったと思ったのか。川の上に佇んでいた妖精さんは、足を動かさず、音も立てずに奏哉の目の前までやってくる。

 そうして、手を伸ばせば互いに抱き合えるほどに近付いた場所で妖精さんは立ち止まり、奏哉の顔をじっと見つめてきた。

 奏哉からの言葉を、待つように。

「……やっと、君が僕に言わせたかった言葉が分かったよ」

 奏哉は目を閉じ、思いに耽る。

 瞼の裏に映る長年の思い出。積年の想いに、奏哉の目尻が仄かに湿る。

「君と出会って、十年ぐらい経ったかな。あの日から今日に繋がっていたんだ。何年も、もう何年も君を待たせてしまっていたんだね」

 目尻に溜まった涙を拭い、改めて奏哉が目を開けば、妖精さんは変わらず奏哉を見つめていた。

 奏哉は見つめてくる彼女に微笑みを返す。

「だから今、此処で答えるよ。僕からの言葉を」

 そして奏哉は、告げる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ごめんなさい。あなたとは、結婚出来ません」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 聞き間違いようがないほどに、ハッキリとした撤回の言葉を。

「散々求婚しておいて、虫の良い話だとは思う。でもこれが、今の僕の正直な気持ちなんだ。言わなきゃいけない言葉なんだ。本当に、申し訳ない」

 深々と頭を下げ、謝罪の言葉を伝える。されどその強い口調には、明確で、強固な意志が籠もっている。

 何があろうと、もうこの気持ちだけは変えまいという想い。

 人の気持ちを踏み躙るのみならず、反省すらしてないと取られかねない答え方。妖精さんもこれには表情を変え、糾弾しようとしてか口を開く。しかし開いた口からは声どころか音もせず、ただ、そういう『素振り』をしただけ。奏哉が顔色を変えずに頭を下げ続けていると、やがて妖精さんの顔は無表情に戻り、落胆したのか肩を落とす。

 そして諦めたようにその姿を消した。ブツリと、電源を落とされたテレビ映像が如く。奏哉だけを残して。

「……うん、これで良い」

 ポツリと、奏哉は独りごちる。

 しばらくその場に立ち尽くす奏哉だったが、遠くからサイレンの音が聞こえてきた。ハッとした奏哉が耳を傾けてみたところ、パトカーだけでなく、救急車や消防車の音も混じっている事が分かった。

 フィアと妖精さんとミリオンの『ケンカ』によって、住宅地の一角は完全に崩落した。三体ともわざわざ狙いはしなかったが、余波に巻き込まれた人間も少なくない。挙句妖精さんの攻撃によって火が付いた家もあり、黒煙が所々から立ち昇っているではないか。警察・病院・消防が駆け付けるのは当然だ。

 もし訪れた彼等が奏哉を見付けたなら、一見して健全かつ『事態』を経験したであろう奏哉を問い詰めてくるに違いない。起きた事をありのまま話すにしても誤魔化すにしても、面倒になる事は明らかだ。最悪疑惑を向けられるかも知れない。

 ゆっくりと感傷に浸る暇はなかった。

 目元を拭ったのは一回。その一回で、奏哉は爽やかに、吹っ切れた笑みを浮かべる。

「妖精さん、君を好きになれて良かった。これからも、愛しているのは君だけだ。今まで、ありがとう」

 そして『妖精さん』が消えた川に向けて、感謝の言葉を伝えた。

 『妖精さん』からの返事を待たず、奏哉は蛍川に背を向けて駆け出す。逃げるようでも、振り切るようでもなく……目指すように。

 蛍川の周りで、サイレンが鳴り響く。

 全てが終わった事に未だ気付かぬ喧しい音楽が、虚しく世界に鳴り響いていた。




Q:これ、誰が悪役なんだっけ?

A:その問いにはお答えできません。何しろそもそも悪役を設定していないのですから。青少年が極悪非道な敵と拳で殴り合っている時、足元に居るアリにとってはどっちが悪役かなんて知ったこっちゃないのです。
まぁ、家を壊された人間からしたら堪ったもんじゃないでしょうけどね。


Q:前回鬱憤を晴らすようにフィアが暴れると言っていたけど、晴れたの?

A:晴らすように暴れるとは言いましたが、晴れるとは言ってな(粛清



さて、次回にて本章は最終回となります。
妖精さんの正体とは? 能力とは? その目的は?
そして好き放題に散りばめた伏線をワタクシ彼岸花は回収出来るのか ← 一番の見所
いろんな意味でお楽しみに……してもらえたら、嬉しいです。ハイ。

次回は9/4(日)投稿予定です。

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