彼女は生き物に好かれやすい   作:彼岸花ノ丘

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【お詫び】
前回あとがきにて記した投稿予定の日付を間違えていました。
ご迷惑をお掛けして申し訳ありません。

……素で今日が20日だと思ってました。前回21日0時に投稿してるのに。


亡き乙女に音色は届かない3

 ここで少し、虫の話をしよう。

 カブトムシやクワガタムシが集まる事で有名なクヌギやコナラの木だが、これらには他にも様々な虫が集まる。例えばそれはカナブンだったり、スズメバチだったり、国蝶オオムラサキだったり……樹液に集まる虫だけで、何十種類も存在する。そして虫の餌とは、花の蜜や樹液だけではない。カミキリムシの幼虫のように生きた木の中身を食べたり、カマキリのように他の虫を食べたり……そして青々と茂る葉っぱを食べたり。

 クヌギやコナラの葉も数多の昆虫達が食料としており、その虫の一種にヤママユガという蛾の幼虫が存在する。

 その特徴を一言で申すなら、デカイ。物凄くデカイ。成虫がデカイので幼虫もデカイ。アゲハチョウの幼虫(緑色)を見たぐらいで「きゃー! 大きいイモムシーっ!」と悲鳴を上げるような虫嫌いが目の当たりにした場合、錯乱状態に陥る可能性があるぐらいデカイ。具体的にはサナギになる寸前の個体だと七センチ以上にもなる ― ちなみにアゲハチョウの幼虫は最大でも四センチ程度 ― ほどだ。手に乗せれば腹脚にある鋭い爪が刺さってチクチクとした痛みを覚えるほどの力を持ち、巨大な顎は堅いクヌギの葉を容易く噛み砕く。透き通った緑色の体色は中々綺麗だが、ボンレスハムの如くぶよりとした造形や人毛のような疎らな毛を生やしている姿は、冒涜的と言っても差し支えないだろう。

 そしてこんな怪物染みた存在ながら、実のところそんなに珍しい種ではない。むしろ時々大量発生していたりする、普通種だ。尤もクヌギなどの背の高い樹木の葉を食べるため、木を丸裸にするぐらい大発生していない限り、野生の幼虫は見付ける事すら難しいが。

 ……そう、本来は難しい。

 けれども匂いで大凡の居場所を把握し、水を操って易々と木に登れ、虱潰しに辺りを調べられるなら話は別。

「花中さんこんなに獲れましたよ!」

 雑木林の中で虫採りをする事僅か十分――――積もった落ち葉の上でズシンズシンと飛び跳ねるほど喜ぶフィアが持つ虫カゴの中は、巨大なヤママユガの幼虫がぎゅうぎゅう詰めになっていた。果たして一体何十匹捕まえたのか。すし詰めにされたイモムシ達が顎を噛み合わせ、ギチギチと苛立ちの声を上げている。

 普通の女子高生なら悲鳴と共に逃げ出してもおかしくない光景だが……そこは母が昆虫学者の花中。虫カゴの中身を見せつけられても左程気持ち悪いとは思わず、むしろイモムシ達に同情すらしていた。

 同情と言っても、フィアに食べられてしまう事に対して、ではない。花中達が居る此処はクヌギが多く生え、それなりの敷地面積を誇る雑木林。時折大量発生するような普通種である事を考慮すれば、たかが数十匹捕まえたところでヤママユガという種の存続に影響はないだろう。大体フィアは食べるためにイモムシを捕まえたのだから、それを咎めるというのもおかしな話。『野生動物』が獲物を捕まえる事の何が悪いというのか。 

 花中が同情するのは、彼等が収容された環境についてだ。何しろフィアの持っている虫カゴは縦横幅二十センチほどの小さな物。そんな小さな虫カゴに体長七センチ近い巨大イモムシが数十匹……すし詰めなんてレベルではない。仲間の重さに押し潰されると察しているのか、どの個体も他の個体を押し退けて上へ上へと登ろうとしているではないか。色んな意味で、地獄絵図。

 こんなストレス環境下では、どの個体も長生き出来ないだろう。そしてフィアの健康食嗜好からして、死んだ個体はそのまま捨てられる可能性が高い。殺される側からすればどんな形でも死には変わりないが、『糧』にならない死に方はあまりさせたくないのが花中の身勝手な美学である。

 花中は小さく、長いため息を吐いた後、蠢く虫カゴを視界に入れつつフィアと向き合う。笑顔のままキョトンと首を傾げるフィアを、花中は優しく窘めた。

「獲れたのは、良いけど、そんなにたくさん、ちゃんと、飼えないでしょ。そんな過密状態で、飼ったら、ストレスで、殆ど死んじゃうよ」

「? 別に良いじゃないですか。全部死んだらまた此処に来て捕まえれば良いんですよ。私の能力を用いればいくらでも採り放題ですし」

「そうやって、たくさん捕まえて、無駄に、いっぱい死なせたら……卵を産む、成虫も居なくなって、来年の幼虫が、産まれなく、なっちゃうよ?」

「むぐ……」

 花中の指摘に、フィアは苦々しい表示を浮かべて押し黙る。かわいそうだ云々と言っても『野生動物』であるフィアには理解出来ないだろうが、明確なデメリットがあると教えられたら話は違う。根こそぎ駆除したいならいざ知らず、フィアは美味しいイモムシをたくさん食べたいだけなのだ。数が減るのは本意ではない。

「……分かりました。今日の晩ごはんと明日の朝ごはんの分で二匹だけ持って帰って他は逃がす事にします」

 やがて、渋々といった様子ながらもそう告げると、フィアは意気消沈とした足取りで近くのクヌギの木へと向かう。そして自身の身体をぐにゃりと引き延ばし、蛇のように『身体』を巻き付けて大きなクヌギの木を登っていった。

 不愉快そうな割に、ちゃんと葉っぱのあるところまで連れて行くんだ。なんかフィアちゃん、イモムシを逃がす時に「大人になったらたくさん私のごはんを産むのですよー」とか言ってそう――――そう思うとなんだか急に微笑ましく思えて、花中は込み上がってくる笑いが口から漏れ出るのを抑えきれなかった。フィアにも悪気はないのだ。人と感性が違うだけで。

 と、笑うのは良いが、ふと一人になってしまったと気付く花中。逃がすだけとはいえ、木の上となれば適当に虫カゴをひっくり返す訳にもいくまい。捕まえた数十匹の殆どを一匹ずつ丁寧に葉に乗せていくとなれば、数分は掛かりそうである。しばしフィアは戻ってこないだろう。

 フィアの付き添いとして来た身。フィアが居なくなった途端、退屈が花中の心を満たした。

「……………なんか、ないかなぁ」

 暇潰しになんとなく辺りを見渡す花中だったが、面白そうなもの、特筆すべき点などは特に見当たらない。何しろ此処は、ただの雑木林なのだから。

 強いて言うなら、この時期の休日なのに子供の姿を全く見ない点だろうか。七月中旬はカブトムシ出現の最盛期。この雑木林でも問題なく大発生しているようで、近くにあった樹液が出ているクヌギを見れば、オスのカブトムシが二匹ほどたかっていた。どうにもこの甲虫王、図鑑などで夜行性と紹介されている割に昼間でも結構普通に見掛ける。そして重くて愚鈍だから捕まえるのに苦労せず、しかもクワガタムシと違って怪我をする心配も皆無。子供達にとって、色んな意味で最高の獲物の筈だ。

 その獲物がこうして無防備な姿を曝しているのに、花中は今日この雑木林で子供の姿を一度も見ていない。川辺に発生した幻覚キノコがあるため、親達に行くのを禁止されたのだろうか。

 それはそれで違和感がある。

 小さい頃の記憶が確かなら、小学生の頃、男子は結構『悪い事』をしていた気がする。親への反抗がカッコいいと思う年頃でもあるのだろう。果たしてこの近辺に暮らす虫好き小学生が全員、親の言う事を素直に聞く好青年なのか? 悪友に誘われても、キッパリと断って世間のルールを守る芯の強い子しか居ないなんてあり得るのか? 大体、幻覚キノコの大発生をこの町の住人は全員知っているのか?

「(……一グループぐらいは、居ると思うんだけどなぁ……)」

 偶々自分達の近くには居ないだけなのか、それとも悪い事をしている自覚があるので自分の姿を見た途端逃げているのか。後者だとすれば探せば後ろ姿ぐらいは見付かるのではと、退屈のあまり無意味な意地を張って花中は辺りを見渡

「そこの君、少し良いかな」

「ぷへっ!?」

 そうとしたら不意に声を掛けられ、花中は跳び上がるほど驚いてしまった。

 恐る恐る振り返ると――――なんとそこには、大人の男が居たのであるッ!

 ……花中的には大人の男というだけでかなりのビックリポイントで、あまりじっくりと観察する余裕はなかった。流石にその男の年頃が二十代前半ぐらいなのとタキシードという雑木林には相応しくない服装なのは分かったが、そのタキシードが土でかなり汚れているとか、彼がなんだか泣きそうな顔をしているとか、薄汚れたバイオリンケースを持っているなどの『些細』な特徴は目に入ってこない。

 フィアが傍に居てくれたなら幾分平静を取り戻せただろうが、そのフィアは現在木の上でイモムシを解放中。男の人が怖くて、頼れる人が居らず心細くて、花中はじりじりと逃げるように後退りしてしまう。

 それでも微かに残った理性が、声を掛けられたのだから何か用があるのだろうと分析。この場から走り出そうとする足を押し留め、返事をするよう口先に命じた。

「あ、は、はい。あの……な、なん、でしょうか……?」

「ああ、あまり怖がらないで……訊きたい事があるんだ」

「き、き、訊きたい、事、ですか?」

「この辺りで女の子を見なかったかな。丁度君ぐらいの身長の子なんだけど……」

「あ、それ、ならさっき」

 蛍川の辺りで見ました。

 花中はうっかりそう言おうとした。突然の質問に、自分の見た女の子が幻覚である可能性を失念してしまったのだ。

 十中八九間違いであろう情報を伝える訳にはいかない。言い終わる前に、花中は自身の発言を撤回しようとした。

 しようとは、したのである。

「ほ、本当かッ!?」

 しかし改めて口を開く前に若い男は花中の、肩を掴んだ。

 瞬間、花中の混乱は頂点に!

「ひっ、ひぅぃう!?」

「その子の髪は赤かったか!? 瞳は青かったか!?」

「あ、あぅ、ふ、ふぇ、えぅ」

「何処で見掛けたんだ、いや、何処に行ったんだ!? 教えてくれ! どんな礼だってするから! なあっ!?」

「や、ぁ、い、いた、ひ、ひぅ!」

 迫りくる強張った顔、怒鳴るように太い声、肩の肉に食い込む爪先。

 ただでさえ男の人が怖くて堪らないのに、痛みと威圧感で花中の頭は真っ白に。恐怖に震え、目には涙を浮かべ、身体を縮こまらせる。口から出てくるのも嗚咽混じりの悲鳴だけ。

 どうしてこの人はこんなに怒ってるの? わたし、何か大変な事をしちゃったの?

 男が何を言っているのか、どんな気持ちをぶつけているのか、真っ白になった頭では何も分からない。意識を遠退かせたくても、怒声に叩き起こされ現世に呼び戻される。逃げたくとも爪が身体に食い込み、楔のように縛り付けてくる。何も、出来ない。

 ズドンッ! と身体を突き飛ばすような爆音と物理的衝撃が襲い掛かってこなければ、一体何時までこの途方もない恐怖を味わう事になったのだろう。

「……………」

「な、に……?」

 音と衝撃がした方に、男と、花中はゆっくりと振り返る。

 そこには、フィアが立っていた。

 二匹だけイモムシが入った虫カゴを首から下げ、その足元に小さなクレーターを作り上げ――――そして、殺意と憎悪に満ちた眼差しを男に向けている、フィアが。

「あ、あの、ふぃ、フィアちゃ」

 思わず花中は親友の名を呼ぼうとしたが、しかし言い切る前にフィアは歩き出す。ズシン、ズシンと、自身の人間離れした重量を隠さないフィアの歩みに不穏なものを感じたのか、男は花中から手を離して後退り。

 が、逃げる事あたわず。男がおどおどしている間に距離を詰めたフィアはなんの躊躇もなくその男の頭を鷲掴みにし、

 ポーンっ、と投げた。

 まるでゴミを投げ捨てるような動きで、ざっと三メートルほどの高さまで。

「う、うわあぁあああぁごふっ!?」

 空中でバタバタともがいていた男だが、当然抵抗にもならず呆気なく墜落。腐葉土が厚く積もっていて柔らかい土に背中から落ちたとはいえ、三メートルもの高さともなれば衝撃は相当のもの。男は寝転がったまま、死に際の獣のような呻き声を上げて痛みに悶えた。

「花中さん大丈夫ですか? まさか少し目を放していた隙に変質者が現れるとは予想もしていませんでした怪我をしたり変な液体を掛けられたりとかしていませんよね?」

 そんな男には目もくれず、フィアは花中の心配ばかり。偽物だが感情に直結している瞳を潤ませ、不安げな表情を浮かべている。花中がやや戸惑いつつ小さく頷くと、フィアは心底安堵した息を吐いた。不安そうだった顔も、すぐに朗らかな笑みへと変わる。

「どうしますか? あの変態に『止め』を刺しておきましょうか? 液体状になるまで磨り潰した後川に流しておけば人間なんかには見付けられないと思いますけど」

 ただし出てきた言葉に、朗らかさなど欠片一つもなかったが。尤も、フィアとしてはなんの悪意もない、何時も通りの野性的な考え方を口にしただけ。花中もほんの少し頬が引き攣っただけで、何時も通りの穏健な答えを返す。

「え、えと、そういうのは、止めて……それより、早く、此処から離れたい、かな……」

「分かりました。全くこんな雑木林にもいたいけな美少女を狙う変態が居るとは油断も隙もあったもんじゃありませんね」

「う、うん……」

 愚痴るフィアに手を引かれ、花中は足早にこの場から立ち去ろうとする。

 けれども顔は、名残惜しむように自分が居た場所を振り向いていた。

 面識がない人にいきなり掴み掛かり、こちらの事などお構いなしに大声をぶつけてくる……その行動が変質者かそうじゃないかと言われたら、高確率で変質者だろう。殺すのはダメだと思いフィアを止めたが、警察に突き出すぐらいはしておいた方が良かったかも知れない。もしかしたら自分達が去った後、同じ事を他の人にする可能性はあるのだから。

 でも、

「ま、待って……話、だけ、でも……!」

 痛みに悶えながら、必死にこちらに手を伸ばしている彼が『悪い人』だとは、花中にはちょっと思えなかった――――

 

 

 

「これだけ離れればもう十分でしょう」

 フィアに手を引かれる事早五分。花中とフィアは雑木林と外の境界線、蛍川と住宅地が見える場所までやってきた。

 花中の鈍足に合わせての移動なのであの男との距離は左程開いていないだろうが、頭を掴んで投げ飛ばされた揚句、三メートルもの高さから落ちたのだ。下手をすれば死んでいてもおかしくない扱い。一応男は生きていたが、すぐには復帰出来ないだろう。事実花中が見ていた間、男は立ち上がる事すら出来ていなかった。フィアが言うように、これだけ離れたならあの男は花中達を見失った筈である。

 そういう意味では安心出来たので、花中はホッと安堵の息を吐く。

 対してフィアは、不機嫌そうに鼻息を荒くしていた。

「ああ全く不愉快ですねぇあの男。花中さんに狼藉を働こうとは不埒な輩です」

「えと、狼藉を、働くかは、分からないかと……」

「いや他にないでしょう。男が女に接近する理由なんて繁殖目的以外に何があるというのですか?」

「……まぁ、魚の場合は、そうだよね。人間にも、そういう人は、いるだろう、けど。でもわたし、こんな子供体型、だし、そういう風には、見られないと、思うけど……」

「ふふふふふ。何時もは聡明な花中さんですが男女の事なら私に一日の長があるようですねぇ」

 何故か自慢げに胸を張るフィア。魚の男女関係と哺乳類の男女関係では生存戦略レベルで差異があるんじゃないかなーとか、一日の長があるって言っても繁殖期を経験したとか本能的に知っているとかその程度じゃないのかなーとか、花中にも色々思うところがない訳ではない。

 が、確かに大桐花中、十五年ちょっとの人生の中で恋愛らしい恋愛などした事がない。異性である男性は怖くて恋心なんて抱けないし、かといって同性愛者でもない。挙句一月前まで友達すら居なかったので恋バナすら聞いた事がない有り様。こんな自分と比べたら、植物ですら恋愛に一日の長がありそうである。ここは大人しく、フィアの話を拝聴する事にした。

「えっと……どういう、事?」

「此処が何処だか思い出してください。子供しか遊びに来ないような場所じゃないですか。そして花中さんは自負するほどに子供体型。つまり……」

「つまり?」

「あの男は未成熟な子供にしか興奮出来ないという生殖能力に致命的欠落を持つ真正のロリコン野郎だったのです! そのため一見あどけなく未成熟で高校生どころか中学生にすら見えない花中さんがターゲットになったのですよっ!」

 どやっ! という効果音が聞こえそうなぐらい自信満々な笑みと共に、フィアはそう断じてみせた。

 ……状況証拠だけの推理でよくそこまで自信を持てるものだとか、そりゃ自分から言った事だけど思いっきり失礼な事を言うね等のツッコミはさて置き、中々どうして筋が通っている。タキシード姿という雑木林で動くのに適さない格好のあの男が、この雑木林の管理人という可能性は皆無だろうし、ましてや虫取りや森林浴に来ているとは思えない。むしろ子供達に乱暴をしようとしており、怪しまれないようサラリーマン風の恰好をして近付いた……という考えが妥当な気はする。

 しかしながら、花中にはどうもすんなりとは納得出来ない。

 あの男性は花中の肩を痛いほどに掴んできた。その理由は、間違いなく花中を逃がさないためだろう。しかし、逃がすまいとはしていたが、連れ去ろうとはしていなかった……ような気がする。記憶が曖昧で、断言は出来ないが。

 それにフィアに投げ飛ばされても、あの男は花中に手を伸ばしてきた。待ってくれとも言っていたように聞こえたので、未だ花中の事を諦めていなかった、と受け取れる。性欲は人間の三大欲求の一つではあるが、命という欲求の根源を脅かされても尚求める事が出来るものなのだろうか。寿命一年でワンシーズンしか繁殖のチャンスがないカマキリならいざ知らず、年中無休で繁殖可能かつ数十年の命を持つ人間に。

 どうにも不自然な点があり過ぎる。男性恐怖症気味なため頭が真っ白になっていた自分でも違和感を覚えるぐらいに。

「花中さん? どうかしましたか?」

「あ、ううん。なんでも、ないよ」

 しかしフィアに尋ねられても、花中はその考えを打ち明けなかった。何しろあの時は頭が真っ白で、確かな記憶が殆ど残っていない。こんな状態で巡らせた考えなど、思い込みや妄想と大差ないのだから。

 それよりも、念のため警察に通報しておいた方が良いかも知れない。もしあの男がフィアの予想通り変質者だったなら、また小さな女の子を襲うかも知れないのだ。花中の一報があれば警戒を周囲に促せるし、万一事件が起きた時、警察の対応もいくらか素早くなる筈である。

 落ち着ける場所(自分の家)に帰ったら、警察に通報しておこうと花中は考えるようになった。

「……そろそろ、帰ろうか。フィアちゃんの用事は、済んだし、幻覚キノコの事も、ある、し」

「ああそういえばそんなのもありましたっけ。そうですね長居は無用でしょう」

 花中がそう伝えれば、フィアは天を仰ぎながら同意してくれた。

 二人は一緒に雑木林を抜けて、住宅地の方へと向かう。目の前に幅一メートルもない蛍川と草の茂る土手が広がる。先の住宅地へと帰るには、こちらに渡った時のように川を跳び越えるのが一番手っ取り早い。それにこの辺りは花中が幻覚らしきものを見てしまった場所でもある。悠長にしているとまた幻覚を見てしまうかも知れない。

 ここは迷わず一直線、さっさと通り過ぎてしまうのが得策だ。そしてそうなれば今回もフィアに抱えてもらうのがベストだろう。特に言葉は交わさなかったが、自然と花中はフィアの近くに寄り、フィアはそんな花中を無言で抱え上げた。

「えと、それじゃあ、お願いね」

「合点です。まぁ流石に二度も落ちる事はないと思いますが……というかよくよく考えたら跳び越える必要がないのですよね。私元々全身が水ですし」

「あ、そういえば、そう、だね」

 言われて気付き、花中はポンっと手を叩く。川を渡る時は出来るだけ水に浸からないよう跳び越える、というのが人間である花中の常識だが、フィアには当て嵌まらない。『身体』自体が水で出来ているのだから元々濡れているようなもので、かつ水に浸かって何か支障がある訳でもないのだ。わざわざ跳び越えようとして、迂闊にもすっ転ぶような真似をする必要はない。

 勿論人に見られると些か面倒になりそうな行為ではあるが、ざっと見渡したところ人の姿は影も形もない。ささっと渡ってしまえば大丈夫だろう。

「それじゃあ、そのまま歩いて、渡ろっか」

「ですね」

 花中も同意し、フィアはすたすたと川へと向かう。色んな意味で『濡れる』事はないので、フィアは躊躇なく川岸まで突き進み――――

 不意に、その足取りが止まった。しかし、どうしたの? と花中は尋ねない。

 何しろ突如として、音もなく……目の前に巨大な炎が、壁のように噴き上がったのだから。

「っ!?」

「ひゃあっ!?」

 花中が炎に驚いて声を出した時、フィアは既に後ろへと跳び退いていた。距離にして三メートルほど。雑木林の中へと逆戻りだ。

 しかしそれほど距離を取ったにも関わらず、熱さが花中の肌を焼く。

 チリチリとした痛みが肌に走り、身体が芯から温められて汗が滲み出てくる。どうやら炎は蛍川から噴き出しているようで、高さは五メートル近く、幅も二十メートル以上広がっていた。これほど巨大な炎を見るのは花中としては初めてだったが、こんなにも燃え盛っているのなら熱さが此処まで届くのも頷ける。

 問題は、どうして炎が突如として噴き上がったのか。

 自然発火にしろ、何かしらの人為的装置な原因にしろ、一瞬にして二十メートルもの範囲が燃え盛るなど普通ではない。ガソリンなどの燃料を使えば再現出来そうだが、しかしそういったものが燃えた時に出る異臭は感じられず、パチパチと弾けるような音も聞こえない。静かに燃えるものといえば、カセットコンロなどで使うガス……気体か。蛍川一帯に天然ガスが埋蔵されていた、なんて話は聞いた事もないのだが。

 訳が分からない……しかし一つだけ言えるのは、燃え盛る火をこのままにしておく訳にはいかないという事。炎が噴き出ている蛍川のすぐ側には草むらが広がり、隣接する形で住宅が並んでいる。炎が人の住む場所へと伝わる道筋があるのだ。放置すれば歴史に残る大火となってしまうかも知れない。

 幸いな事に花中の傍には、水を自在に操れる頼もしい友が居る。

「フィアちゃん、あの、あの炎を、消し――――」

 花中は早速フィアに炎を消してくれと頼もうとして、

「花中さんこれは危ないです!」

「え、ひゃあっ!?」

 フィアがそう言ったのと共に、花中は投げ捨てるように放り出されてしまった。が、着地する筈の地面から大量の水が噴き出し、花中をキャッチ。突然の水に驚く花中を余所に水は花中にぐるんと巻き、一瞬にして花中を飲み込んで大きな水球へと変化した。

 その水球は卵のような楕円形をしており、内部には肺呼吸である花中が窒息しなうよう大きな空洞が用意されていた。以前ミリオンと戦った時に使った水球の改良版と言ったところか。足元の水はぷよんとこちらを弾き、尻餅を撞いていてもお尻が濡れるような感覚はない。水の壁は非常に分厚いようで、揺らめく炎の色が青みの混ざった紫色になっていた。

 それだけ分厚い水に守られているので当然だが、炎の熱さも感じなくなった。もう肌にチリチリとした痛みは走っていない。そういう意味では、ありがたい事は違いない。

「ふぅ。これで安心です」

 けれども汗を拭うような仕草をして心底安堵するフィアを見ると、炎の熱さから守るだけなのにちょっと過保護過ぎじゃないかなぁ、と花中は思った。

「えっと……あ、ありがとう……」

「いえいえ。有毒ガスを吸ってしまったら後が大変ですからね」

「ああ、そっち、か……」

 放火や自殺を除いた火災による死者のうち、一番多いのは当然ながら火傷なのだが、それとほぼ同数の犠牲者を出しているのが有毒ガスによる中毒や窒息だと言われている。あれだけ激しく燃えている火災だ、一酸化炭素や二酸化炭素、その他諸々も大量に放出されているだろう。密閉空間ではないので幾分危険性は薄れているだろうが、用心に越した事はない。

「えっと、じゃあ、今度こそ」

「そうですね今度こそ帰りましょうか」

「うん、帰……らないよ!?」

 しかしいくらなんでも、この業火をほったらかしにするのは駄目だろう。

 なのにフィアときたら、不思議そうに首を傾げているではないか。

「え? 帰らないのですか? どうしてです?」

「ど、どうしても何も、大変な事に、なってるんだよ! なんとか、しないと!」

「なんとかと言われましてもねー……じゃあとりあえず蓋でもしてみますか。多分水底に穴でも空いているでしょうし」

 渋々、と言った様子でフィアは燃え盛る業火に手を翳す。その動きに合わせフィアの足元からは数本の水触手が生え、そのまま業火の方へと向かった。

 それが起きたのはそんな、フィアが業火をどうにかしようとした時。

 不意に、フィアの胸部が――――ぶくりと膨れ上がった。

「え?」

 突然の出来事に、花中には何が起きたか分からない。

 分からないうちに、全てが終わる。

 フィアの胸部の膨張は止まらず、勢いよく弾けた。さながら花火のように華やかで、そして儚く。破裂の威力は凄まじく、胸だけではなくフィアの全身が余波で吹き飛んでバラバラになる。花中は分厚い水の塊に守られ無事だったが、その水の塊が崩れ落ちるように壊れ、全身がずぶ濡れになってしまう。

「ごぶっ」

 直後、地面から呻き声が聞こえた。

 それを境に、辺りは静かになった。炎も消えた。

 けれども花中は、その場で震えるばかり。

 地面に転がり、ぴくりとも動かない『剥き身』の友人を見てしまったのだから。

「ふぃ、フィアちゃ……!?」

 声を上げ、花中は動かない友達に駆け寄る。

 何が起きたのかは分からない。だが真っ白になる頭に残ったほんの僅かな理性の訴えで、『身体』が弾けた際の衝撃によってフィアは吹き飛ばされ、地面に叩きつけられたのだと察する。

 だけど、そこから先が考えられない。

 人を遥かに凌駕するパワーを発揮する『身体』が砕けるほどの衝撃を、生身の部分が受けたらどうなるか……考えて分からない訳がない。けれども脳が思考を放棄している。本能的予感を拒絶し、論理的結論から逃げている。現実から目を逸らし、停滞した混沌に留まろうとしてしまう。

 だって、こんなの、『おかしい』――――

「はなちゃんっ!」

 僅かな理性すらも手放し、虚空に消えようとしていた花中の意識を現実に引き戻したのは、聞き慣れた、そして狼狽した様子の声。

 その声が聞こえた方に花中が振り向こうとした瞬間、漆黒の竜巻が周囲に吹き荒れる!

 台風の如くパワーを伴って突如出現した漆黒の竜巻は、花中を中心に据えて密度を増すように少しずつ色を濃くしていく。内側にも風は吹き、花中は咄嗟に、未だ動かないフィアを抱きかかえて守ろうとする。

 そして黒に阻まれて外が殆ど見えなくなった時、竜巻の内側に一人の女性が()()()()()

 当然ながらその人物は人間ではなく、ウイルスという目には見えない微小存在の集合体……ミリオンだった。黒い、ワンピースとも呼べない布切れ一枚という出で立ちは、衣服をちんたら考えてはいられなかったという焦りの表れか。

「み、ミリオンさん……!」

「ごめんなさい、ちょっと余所見をしていたわ。はなちゃんは怪我してない?」

「わ、わたしは、でも」

「なら良いわ。安心なさい。今すぐこの辺り一帯を調べ尽くして、危険な奴は全部焼き払」

 言うが早いか、先程まで炎が立ち上っていた方へとミリオンは手を指し向け

 しかし花中は、それを阻むようにミリオンの服の裾を掴んだ。服と言っても、それもまた『自身』の集合体。ミリオンはすぐに花中の方へと振り向き、戸惑い気味の表情を見せる。

「はなちゃん? どうし」

「お願い! フィアちゃんを、助けて!」

 そして尋ねようとするミリオンの言葉を遮り、フィアを片手で抱えたまま花中はそう叫んだ。

「……そう言われても、此処に居る筈の奴を野放しには出来ないわ。今のうちに片付けないと」

「だって、だってこのままじゃフィアちゃんが……やだ、そんなのやだぁ……!」

 目に浮かべた涙を零しながら、花中はミリオンに懇願する。ミリオンは最初顔を顰め、露骨に不快そうな態度を見せたが……花中が一歩も退かずにいると、呆れたようにため息を漏らす。

「ちょっと、さかなちゃんを診せて」

 やがて根負けしたように、ミリオンは花中の望む言葉を言ってくれた。

 ミリオンに言われ、花中は抱えているフィアを両手に乗せてミリオンに見せる。ミリオンはフィアに手を翳すと、目を細め、考え込むような沈黙を挟む。

「……肋骨が折れている。筋肉が切れて内出血も酷い。内臓も少し傷付いてる。だけどまだ脈はある。今は気を失っているだけね」

 やがてすらすらと、詳細な診断を下した。

「ほ、本当ですか! フィアちゃんは、まだ生きて、いるんですね!?」

「一応ね。でも手当てなしで回復出来るほど浅くもないし、そもそもさかなちゃんってエラ呼吸だからこのままじゃ息出来なくて死んじゃうわ。今は撤退しましょう。『犯人』は野放しだけどそれで良い?」

「は、はいっ! 急いで、くださいっ!」

「じゃあ一旦下流まで下がって、そこで水を汲んでから家に帰りましょうか……ああ、それからそこに居るだろう誰かさん。もし私達についてきて止めを刺そうなんて考えていたら、今度はちゃんと殺すからそのつもりで。はなちゃんが『優しい子』で命拾いしたわね」

 ミリオンがそう言うや、再び周囲に黒い竜巻――――無数のミリオンが集まり、暴風を起こした。無数のミリオンは花中とフィアを包み込むと、そのまま花中達を乗せてふわりと浮かび上がり、蛍川の下流域へと飛び立つ。

 そしてミリオン達が分子一つ分も残らずこの場を去った時、一帯には小川のせせらぎと雑木林の葉の擦れ合う音が聞こえるだけの、自然の静けさが戻った。

 まるで、おかしな事など、何も起きていなかったかのように。




マジックマッシュルームとか出した時点で、私の年齢が予想されそうです。
今の高校生ってマジックマッシュルームって呼び名知ってるのかな……

次回投稿は8/24(水)の予定です。

……曜日を書いておけば誤記対策になるかな(もっとちゃんと見直しなさい

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