彼女は生き物に好かれやすい   作:彼岸花ノ丘

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亡き乙女に音色は届かない2

 垂らした水を弾くほどに、艶やかで張りのある肉。

 一齧りすればその弾力ある肉からたくさんの肉汁が弾け、口の中を濃厚な風味とフレッシュな食感で満たしてくれる。喉を通って鼻に抜けていく香りは上品の一言に尽き、彼等が餌として食べている香草の影響を色濃く受けた結果なのだろう。しかもその餌は有機農法で育てられたものだけが使われている。

 安心、安全、美味。これ以上に魅力的な食材が他にあるだろうか? いいや、ありはしない!

 ……………と、いうような売り文句を花中は言われた。一番の友達であるフィアに。

「さぁさぁ花中さんも一緒に食べましょう♪」

 大桐家リビングにある四人掛けの大きなテーブルの席に座り、そう促してくるフィア。長袖で何重ものフリルで飾られたドレスという如何にも暑そうな身形をしているが、身形どころか彼女の『身体』自体が水で作った偽物。フィアが浮かべるのは暑さなど微塵も感じさせない、涼やかな笑みであった。

 そんな笑みを向けられて、対面の席に座る花中は逃げるように視線を壁の方へと逸らす。

 壁に掛けてあるカレンダーによれば本日は七月中旬、曜日は日曜日。梅雨が明けてからは痛いほどの快晴が続き、扇風機とエアコンが活躍する季節となった。花中も水玉模様が可愛らしい半袖ワンピースという涼しげな恰好をして、暑さ対策をしている。それでも理由もなく外出しようとは思えないぐらい、外の暑さは過酷だ。遠出する気はない。

 なので今日は早朝に自家菜園の様子を見て、その後積んでいた本を読み、それを消化したらぐでーっと和室で寝転んで……花中はのんびりとした余暇を家で過ごし、お昼を迎えた。身体は小さいが花中とて食べ盛りなお年頃。ちょっと身体を動かせば、それだけでお腹はぺこぺこだ。先月出会ったミィは野良猫らしく音信不通な野外暮らしをしていて、同居人であるミリオンは私用で外出中 ― とはいえ、いくつかの個体は花中の周囲を飛び回り、今も『監視』しているのだろうが ― 。今この家には実質花中とフィアしか居ないので、花中とフィアの都合でお昼を作り始めても問題はない。

 このようなシチュエーションで美味しい食べ物の話題。なんとフレンドリーで、友達っぽい話なのだろう。友達っぽい事が大好きな花中には、胸が張り裂けそうなぐらいの楽しさを感じていた。

「……え、遠慮しとこうかなー……」

 でも答えはNO。お断り。

 背中側で扇風機がフル回転で風を送ってくれているのに花中の額から汗が止まらないのは、網戸にしている窓から入り込む夏の日差しがリビング全体を暖めているから、ではなかった。

「えぇー? なんでですか? 食わず嫌いはいけませんよ?」

「食わず嫌い、というか、なんと、いうか……」

「だったら食べてみましょうよ。まろやかな味が癖になりますよ」

「ああ、うん。まろやか、だろうね……如何にも、まろやかっぽいし……」

 一生懸命おススメしてくるフィアから、あからさまに顔を逸らして花中は拒み続ける。しばし問答が続いたが、やがて折れたのはフィアの方。

「うーんこんなに美味しそうなのに……」

 至極残念そうにぼやきながらフィアは話題の食材を指で摘みあげる。

 そして摘み上げられた食材は、ぶにょりと蠢いた。

 丸々と太ったお芋のような容姿、緑色の身体に入る何本もの黒い筋と彩りのようなオレンジ色の斑紋、三センチオーバーの体長。色々な野菜を育てている方には割と馴染み深く、同時に憎たらしいだろう生き物。

 それはかなりの大物、もう何日かでサナギになったであろう……キアゲハの幼虫だった。

 何処で捕まえたのか? 花中の家の庭だ。最近花中は庭でパセリを育てているのだが、パセリはセリ科の植物。セリ科植物を食べるキアゲハの幼虫にとって餌である。料理にちょっと使ってみたいだけだからとそんなに沢山は種を蒔いていなかったのに、親キアゲハさんはお構いなしに複数産卵していったのだ。忙しさにかまけて手入れをしていなかった所為もあり、生まれた赤子達は無事にすくすくと成長。今では畑を壊滅させるほどの食欲(パワー)を持つ怪物へと変貌を遂げたのである。

 そんな悪逆非道(注:人間視点)な三匹の幼虫達は今、一匹はフィアが摘み上げ、二匹はテーブルの上のお茶碗に乗せられている。何故お茶碗に乗っているのか?

 勿論お茶碗というのは食べ物を乗せるための物なので――――食すためである。

「まぁいらないなら私が独り占め出来ますのでそれはそれで構いませんけどね。いただきまーす」

 躊躇なく、というより嬉しそうにフィアはキアゲハの幼虫を口の中にポイっと放り込む。そして一噛みもせずにごっくんと喉を鳴らした。

 それからややあってから、赤らめた頬を両手で押さえながら光悦とした表情を浮かべる。そこだけ切り取れば幼児がサクランボを食べて幸せいっぱいの笑みを浮かべているような、無垢で愛らしいものだった。

 その様子を見せつけられた花中は、ちょっと顔色を青くしていたが。

「……食わず嫌いと、言うか……わたしは、人間で、フィアちゃんは、魚だし……」

「そうは言いますけど人間社会にも昆虫食はあるそうじゃないですか。イナゴとかザザムシとか蜂とか食べているそうですしだったらこんなに丸々太ったイモムシもいけると思うのですけどねぇ」

 テーブルの席に踏ん反り返りながら、フィアはまた一匹キアゲハの幼虫を口の中に放り込む。やっている事は魚が虫を食べるという至極真っ当な食物連鎖なのに、人の姿をしているというだけで不自然極まりない光景に見えるのは自分が文明社会に染まり突け上がっている人間だからだろうか……

 言ったところで「そりゃそうでしょう」とフィアに言われるのがオチだと思ったので、花中は思い付いた言葉を飲み込んで苦笑いを浮かべるだけにしておいた。

「ん~♪ やっぱりチョウの幼虫は格別ですね~いくらでも食べられます♪」

 花中を余所に、フィアは幸せそうにイモムシを口の中に入れていく。最後の生き残りとなった幼虫は一生懸命逃げようとしていたが、圧倒的な捕食者の前では無駄な足掻き。フィアは逃げ出そうとしていた一匹を捕まえ、飲み込み、堪能し……あっという間に三匹を腹の中に収めてしまった。

 よもや一気に三匹全部を食べてしまうとは思わず、花中はちょっと呆れ顔に。

「……ちょっと、食べ過ぎじゃない?」

「え? そうですかね?」

 花中の問いに、フィアは小首を傾げる。

 どうやら当人に自覚はないらしいが……一般的に考え、キアゲハほどの大きさのイモムシを、体長三十センチ程度の魚が一回の食事で三匹も食べるというのはあまりにも量が多い。変温動物であるという点も考慮すれば、一日一匹で十分ではなかろうか。一般的な野生動物なら常に食料が足りているとは限らないので限界まで食べておくのも生存戦略だが、フィアの場合能力のお陰で毎日たくさんの虫を捕まえて満腹感を味わっている。どう考えても食べ過ぎだ。

 が、フィアは普通の生き物ではない。

 フィアは人間風の『身体』を形成するために一日中大量の、数百リットルもの水を操っている。科学的に考えれば能力を使っている間は相応のエネルギーを消費している筈だ。エネルギーを補給するためだとすれば暴食レベルの食欲も必然なのかも知れない……尤も、一日中数百リットルの水を操るのに必要なカロリーがイモムシたった三匹分なのかという逆な疑問も生じるが。

「(ミュータントの能力って、単純に知能が上がったから使えるんじゃなくて、物凄く効率的な仕組みをがあるのかも……)」

 結局のところ研究なんて殆どされていない新生物の必要カロリー量など分からない以上、食べ過ぎかどうかはフィアが判断するしかない。それに、友達が美味しい物をたくさん食べて嬉しそうな姿というのは、見ているだけでこっちも嬉しくなる。

 あまり気にせず、フィアちゃんの好きなようにさせよう。

「……むぅ」

「?」

 そう思っていたところ、何故かフィアが唸るような声を出し、可愛らしくも難しい表情を浮かべ始めた。なんか嫌な事があったのかな? と覗き込むように様子を窺う花中だったが、よくよく見ると怒っているような顔でもない。どちらかというと……悩んでいる顔だ。

「……どうか、したの?」

「え? ああすみません。ただ折角のイモムシももうお終いなのかと思うとなんだか物足りない気持ちになりまして」

 尋ねてみれば、フィアはすらすらと答えてくれた。お腹はいっぱいなんですけどね、と最後に付け足された言葉も聞いて、花中は何度も深く頷く。庭に居たイモムシは見付けた限りでは三匹。フィアの水触手でくまなく探していたので、見付けた三匹で全部だろう……その貴重な三匹をフィアは一日で平らげてしまった。つまり菜園を荒らしていたキアゲハは既に全滅しており、明日の分はない。花中も小さい頃、好物のカボチャの煮物が出された時はお腹いっぱいになるまで食べ、幸せを満喫しながらももっと食べたいという強欲ぶりを発揮したものだ。もっと食べたいというフィアの気持ちはよく分かる。

 とはいえ、キアゲハだって野生動物。定期的に卵を産みにきてくれる訳ではないし、卵がフィアの満足出来るサイズまで育つのに夏でも一月近く掛かる。一度食い尽した以上、しばしの間キアゲハはおあずけだ。そして大桐家の庭にある『イモムシの付きやすい植物』は、今のところパセリぐらいしかない。

「んー、家の庭には、もう、イモムシは、いないかな……あ、でも、バッタとかは、結構、見たよ」

「バッタ系は味は悪くないんですけど全体的に繊維質で食べにくいんですよ。お通じは良くなるので多少は食べた方が良いんでしょうけど」

「えっと、じゃあ、蚊は? フィアちゃんの、能力なら、たくさん、捕まえられるんじゃ、ないかな」

「蚊の成虫は味気ないし食感もモソモソしていてあまり好きじゃないんです。でも幼虫は結構好きでして……そうです! バケツに水を張って養殖すれば!」

「……近所の人に、怒られちゃうよ」

 いくら友達の笑顔のためとはいえ、衛生害虫を大量発生させるという近所迷惑をする訳にはいかない。しかも蚊は世界で一番 ― 無論直接ではなく、伝染病という間接的な方法でだが ― 人間を殺していると言われている生物である。もし大量に養殖した結果ミュータントの素質のあるモノが生まれたら? その生まれた個体が逃げ出し、世代交代を重ねて同じく素質ある子供達が大発生したら? ……いくらなんでも「庭で食材として育てていた生物に滅ぼされました」という展開は、自称万物の霊長としてあまりに恥ずかし過ぎる。

 どうやら大桐家の庭では好みの昆虫(食材)は手に入りそうにない――――花中との問答の末その結論に達したフィアは大きなため息を漏らした。

「何処かに美味しい虫がたくさん住んでいる場所はないですかねぇ。嫌いではありませんけどこれからしばらくバッタばかりと思うと気が滅入りますよ」

「えと、釣り餌とかなら、たくさん用意出来ると、思うけど……あとは、公園とか、畑とか、かな」

「人工飼料はちょっと遠慮したいですね食いつきを良くするために何か悪い物が入っているような気がして食指が湧かないんです。公園は良い案だと思うのですけど一週間ぐらい前にチラシみたいなのが来ていませんでしたっけ? なんかチャドクガの幼虫が大発生したから駆除するために薬を撒くとかなんとか」

「あ、そう、言えば……」

「全体を万遍なくという事はないでしょうけど風や雨で薬の成分は広がる筈です。一ヶ月はあそこに棲む虫は食べたくないですね。畑も何時農薬を使ったか分からないので遠慮したいです」

「うーん……」

 いくつか提案してみても中々フィアは気に入ってくれず、花中は悩ましさで顔を顰める。いっそフィアの故郷である泥落山はどうかと思ったが、あそこは学校からなら兎も角、花中の家からだと少々遠い道のり。いや、フィアならあっという間に行けるだろうが、高速で移動する姿を誰かに見られでもしたらまた都市伝説が広まってしまう。出来る事なら、そういう不要な危険は冒してほしくない。

 家から近くて、絶対農薬を使っていなくて、たくさんの虫が住み着いている場所。そこがフィアのみならず花中にとっても望ましい『食の楽園』だ。

 果たしてそんな都合の良い場所があるのか?

「……………あ」

 半分諦め気味に考えていた花中だったが、ぽつりと、不意に声を漏らした。

「? どうかしましたか花中さん」

「……あった」

「え?」

「家の近くで、絶対に薬を使ってなくて、たくさん虫がいる、ところ」

「おおっ! それは一体何処なのでしょうか?」

 フィアがわくわくした素振りで尋ねてきたが、花中は無言で席を立つと台所の方に向かう。

 台所に入った花中は冷蔵庫へと近付き、側面部分に貼っておいた一枚の紙を手に取る。それは六月の初めぐらいに家に届き、何時か友達と一緒に行きたいと思ったイベントのお知らせ……尤も、友達が出来た後も ― 自分の命を狙われたりで ― 忙しく、結局イベント期間中には行けなかった。

 それでも小さい頃、親に連れられて一度だけ行ったから、どんなイベントなのかは知っている。そしてどんな場所であるかも。

 あそこなら、きっとたくさんの虫が居るに違いない。

「花中さんそのチラシは?」

 しぱらくチラシを眺めていたところ、フィアも台所に入ってきた。なんて説明しようかな、と逡巡した後、まずはこれを読んでもらおうと花中はチラシをフィアに渡す事にした。

 『ホタル鑑賞会のお知らせ』。

 二週間前に終了したその鑑賞会が開かれた川辺こそが心当たりの場所だとは、首を傾げたフィアには伝わらなかったようだ。やはり、ちゃんと説明する必要がある。

 それはそれで構わない、と花中は思った。

 何しろお腹いっぱいになったフィアと違い、花中はまだお昼を食べていない。

 お昼を食べながら、午後の予定を話し合う――――如何にも友達っぽいシチュエーションに、花中は嬉しそうな笑い声が漏れ出てしまうのだった。

 

 

 

 蛍川(ほたるがわ)、と地元民に呼ばれている川がある。

 この呼び方は正式な名称ではなく通称なのだが、近隣地域ではその呼び名の方が通りが良いので、以降蛍川と呼ぶ事にする。蛍川は幅一メートル未満、深さも数十センチほどしかない小川で、名前の通りホタルがたくさん生息している……と胸を張って言えたのはほんの五十年ぐらい前まで。高度経済成長に行われた環境破壊や河川の汚染により、一時期ホタルの姿は殆ど見られなくなったそうだ。

 それではいけない、蛍川という呼び名があるのにホタルが棲んでいないなんて恥ずかしい事じゃないか――――時代が移り、環境意識の高まりと共に近隣住人からそういった声が上がるようになった、らしい。やがて『町にホタルを呼び戻す会』という保護団体が発足され、二十年ほど前から活動している……とかなんとか。何分当事者でなく、小耳に挟んだ程度の話なので真偽は定かではない。とりあえずそういう活動をしている団体がある、というのだけ分かってくれれば十分だ。

 さて、ここからが本題。

 生物の保護というのは、養殖して野外に放てば良い、というものではない。卵を産み付ける場所となる水際のコケ類、幼虫の餌となる貝類が生息出来る水質、その貝類の食べ物である落ち葉などの有機物、サナギになる時に潜る柔らかな土、成虫が繁殖相手を求めて活動する場所となる森や草むら……生息環境を整えなければ、いくらホタルを養殖して外に放してもすぐにみんな死んでしまう。人間が砂漠のど真ん中に裸で放り出されては生きていけないのと同じだ。

 質の悪い環境保護団体だとそういう意味のない活動をする事もあるようだが、この町の保護団体は大切な事を分かっていた。ホタルが生活出来るようコンクリートで固められた岸辺を土に戻し、近くの雑木林を保護するよう行政に訴えた。水底のゴミやヘドロを掃除して水質改善を行いつつも、カワニナの餌となる落ち葉などの有機物は適度に残した。結果、現在ホタルの数は ― 全盛期と比べてどうかは分からないが ― 観賞会を開けるぐらいには回復している。

 環境の変化に敏感で、絶滅も危惧されている希少なホタルがたくさん棲めるようになったのだ。ホタル以外の虫にとっても棲みやすい環境に違いない。事実()()は小学生の頃親に連れられて観賞会に来た事があるが、ホタル以外にもたくさんの虫が飛んでいたのを今でも思い出せる。保護活動が現在も続いているのなら幼い頃と同じ、いや、あの時よりももっと自然豊かな環境となっている筈だ。

「と、いう訳で……やってきたよ、蛍川っ」

「やってきましたねー蛍川」

 そんな感じの説明を自宅にてフィアにした花中は、納得してくれたフィアと共に件の蛍川に来ていた。フィアも花中も家に居た時と同じ格好で、花中は肩に掛けるタイプのポーチを持ってきている。

 花中の家から蛍川までは、花中のおっとりとした歩みでも十分も掛からない。川は住宅地のすぐ傍、自然と人工物の境界線のように存在する小さな土手を越え、数メートルほど続く草地を抜けた先で流れている。花中達が立っている土手の上からだと生い茂る草に阻まれてあまりよく見えないが、サラサラとした静かな水音は耳に届いている。そして対岸には成虫のホタルの棲み家として保護された、クヌギやコナラなどブナ科樹木が主体の雑木林が広がっていた。

 花中達の目的地は、その雑木林だ。

 川はホタルの幼虫が棲んでいるので荒らしてはいけないし、環境保護のため周囲の草地も許可なしでは草一本引き抜く事すら ― あくまで表向きは、ではあるが ― 禁止されている。しかし奥の雑木林への出入りは自由。ホタル以外の昆虫なら採取しても問題はなく、夏休みが近くなると子供達がよく採りに来ている。彼等の狙いは降り積もった分厚い腐葉土をたらふく食べて大きく育ち、クヌギの甘い樹液を求めて集まるカブトムシやクワガタムシだ。

 そんな子供達は興味を持たないだろうが、クヌギやコナラにはガの幼虫もたくさん住み着いている。本来クヌギのような背の高い木に付いているイモムシを採るのは恐ろしく労力を必要とするところだが、フィアには水を自在に操る能力がある。山を丸ごと一つ支配するという神の所行に比べれば、樹上のイモムシを数匹捕まえるなど児戯にも等しい。

 恐らくフィアの目には、木漏れ日で満たされた雑木林がビュッフェ形式の食べ放題店に見えている事だろう。

「いやーワクワクしますねー♪」

 花中が横目でチラリと見てみれば、フィアは目をキラキラと輝かせながら眩しい笑顔を浮かべていた。手には大桐家の物置で長年放置されていたプラスチック製の虫カゴが握られており、身長百七十センチ以上のドレス服姿金髪美少女という点に目を瞑れば虫採りに来た子供そのもの。今にも雑木林目掛け駆け出しそうだ。

 あまり我慢させるのもかわいそうだと、花中はそろそろ雑木林に入る事にする。とはいえそこは運動音痴な花中。一メートルもないような川幅でも跳び越えられる自信なんてない。フィアなら花中を抱えたまま一メートルといわず何十メートルも余裕で跳べるので渡るだけならどうとでもなるのだが、向こう岸に渡りたいからおんぶしてといきなり頼むのは、なんというか怠惰な感じがしてよろしくない。

 何処か川幅の狭いところか、橋の掛かっている場所はないものか。花中は辺りを見渡して期待するものがないか探した――――丁度そんな時だった。

「おーいっ!」

 不意に、遠くから声を掛けられたのは。

 小心者で人見知りな花中は、ビクリと身体が跳ねてしまう。なんだろう、と思い声がした方へと振り向けば、土手の上に二つの人影が見えた。人影は小走りで自分達の方に向かっており……やがて、青い作業着とマスクを身に付けた三十代ぐらいの男性二人だと分かるぐらい近付いてくる。

 大人の、しかも男性。

 男の人が苦手な花中は、思わずフィアの後ろに隠れてしまった。フィアも突然現れた見知らぬ人間に警戒心を抱いているのか、花中を隠すように自ら一歩前へと出る。

 そうこうしているうちに男二人は花中達のすぐ傍までやってきて、

「あー、えーっと、その、え、えくすきゅーずみー?」

 何故か一人が、片言の英語で話し掛けてきた。

 ……どうやら、外国人と間違われたらしい。

 確かに花中は銀髪で赤目で色白、フィアは金髪碧眼でグラマラスな美少女。挙句近くに日本人っぽい人が居なければ、英語で話し掛けるのが妥当なコミュニケーション方法なのかも知れない。花中に関しては祖父がヨーロッパ系なので一応クォーターではあるのだし。

 それでも生まれも育ちの国籍も日本である花中には男性達が滑稽に見えてしまい、ちょっと吹き出してしまった。お陰で緊張も解れたので、キョトンとした様子のフィアに代わり、同じくキョトンとしている男達に教えてあげる事にする。

「あの、わたし達、日本人です。日本語で、大丈夫、ですよ」

「え? あ、そ、そうだったのですか? これは、その、失礼……」

「ん、んんっ。えー、その……自分達は市役所の職員なのですが、少しお時間頂けますか?」

 誤魔化すように男の一人が咳払いをしたが、顔が赤くなっていたので照れ隠しなのは明白。ますます、花中の緊張は解れた。

 それにしても、市役所の職員、つまり公務員が自分達に一体どんな話があるのだろうか? 花中には見当も付かない。幸いにして用事はあるが急ぎではないので、気になる事を確認する余裕はあった。

「話、ですか?」

「実は最近この辺りにマジックマッシュルームが多数生えているらしく、注意を促しているのです」

 尋ねてみたところ、職員の一人がそう答える。

 尤もその答えに、花中のみならずフィアも一緒に首を傾げてしまったが。

「まじっくまっしゅるーむ? 花中さんご存知ですか?」

「うーん……名前は、聞いた事、ある……ぐらい。なんか、食べると、幻覚を見るとか、なんとか」

 花中の簡単な説明に、フィアは「へぇー」と感嘆の声を漏らす。それから続きを待つようにフィアの目は耀いていたが……花中にこれ以上の知識はない。生憎、麻薬にはそこまで興味はないのだ。

「そのマジックマッシュルームの影響からか、最近この蛍川では立ち入った人々に幻覚症状が現れるという被害が多発しているのです」

 とはいえ、市職員のこの話には少し違和感を覚えたが。

「……あの……キノコが生えて、いるだけ、で、幻覚って、見る、もの、なのでしょう、か……?」

「生えているだけならそういう事はないと聞いています。しかし枯れた株が風化などで粉末状になり、風に乗って飛び散ったそれらを吸ってしまえばあり得る……との話です」

「話って……」

「自分達も専門家ではないので……ただそれ以外に原因がないのも確かですし、何より先日もこの辺りでバーベキューをしていた若い男女数名が錯乱状態に陥り、結果大きな怪我や火傷をしています。被害者が出ている以上、確かな話でしょう」

「はぁ。そうなの、ですか……」

 煮え切らない返事をしてしまう花中。あまり納得出来ない答えだった、が、専門家じゃないと言っている彼等にこれ以上詰め寄るのも意地悪というものだ。それに子供達が遊びに来るような場所に幻覚キノコがたくさん生えている状況は、やはり好ましくない。注意喚起自体に問題はないだろう。

「あそこに看板があるので一度読んでください。キノコの写真だけでなく、被害の訴えが多い場所も書かれていますので」

 市職員はそう言うと、自身がやってきた方角を指差した。指が向いている先十メートルほどの位置に、確かに看板らしき白い物がある。遠目なので分かり辛いが、他に適当な物は見当たらないので、あれがそうなのだろうと花中は思った。

「他に何か質問等はありますか?」

「あ、えと……特には……」

「では、私達はこれで。何かありましたら市役所に一報ください」

 話を終えると市役所の職員達は手を振り、足早にこの場から立ち去った。彼等はこのまま蛍川周辺の巡回を行い、他の人達にも注意を促すのだろう。フィアは手を振り返し、遅れて花中も小さく手を振って二人を見送る。

 そうして二人の姿が遠くなってから、花中は先程示された看板の方へと小走りで向かった。フィアも花中の後ろをついてくる。

 先程職員達が示していたそれは、言っていた通り看板だった。カブトムシを採りに来た子供向けにか、如何にも悪者風の顔が付け足されたキノコのイラスト ― と、ちゃんとした写真 ― が載せてある。書かれている文字もひらがなが多く、漢字には読み仮名が振ってあった。気持ち悪くなったり怖いものを見たらキノコのせいかも? という子供でも分かるような言い回しが目立つのも特徴だ。

 さて、花中としてはどの辺りで幻覚が多いかが知りたい。食べるつもりなど毛頭ないが、不用意に立ち入って幻覚を見る危険を冒す必要などないし……自分達が被害者となった結果キノコ達が『悪者』にされてしまうのは、花中としては気持ちの良い話ではなかった。

 尤も読み進めたところ、あまり意味のない心配だった。

 どうにも被害は蛍川全域で確認されているようで、雑木林への安全な侵入経路というのはなかったのだ。花中達が居る辺りは被害報告が少ない訳ではないが、格別多くもない。わざわざ移動してもリスクは大して減らないし、むしろ川沿いを歩いて時間を掛ける方が危険かも知れない。

 だったらサクッと『最短距離』で目的地まで進むのが一番安全だろう。

「(……わたし、ちょっとフィアちゃんに似てきたかも)」

「? 急にニヤニヤしてどうかしましたか?」

「あ、ううん。なんでもない、よ」

 二ヶ月前の自分ならきっとこの看板一つで家まで逃げ帰っていただろうなって思ったら、ちょっと笑えてきただけだから――――その言葉を胸の奥にそっとしまうと、花中は川の向こうにある目的地を見遣った。

 目指すは対岸の雑木林。自分の脚力では数十センチの川幅を跳び越えられる自信はないが、フィアにお願いすれば一発だ。怠惰な感じがして初めは拒んでいたが、状況が状況なのでこの方法を選ぶとしよう。

「フィアちゃん、ここから、向こうの雑木林に、真っ直ぐ行こう。川を跳んで、渡りたいから、だから、えと……抱っこ、してくれる?」

「それぐらいでしたらお安いご用ですよ」

 言うが早いか、フィアは早速花中をお姫様抱っこの形で抱え上げる。果たして何度目のお姫様抱っこか。誰かに見られると恥ずかしいが、しかし誰にも見られていないのなら別に良いやと、開き直れるぐらいには慣れてしまった。

「ありがとう、フィアちゃん。じゃあ、お願い」

「りょーかいでーす」

 花中が頼むと、すぐさまフィアは小川目指して軽やかに駆け出した。

 軽やかと言ったが、スピードは自転車で疾走するぐらいには速い。数メートル程度しか続いていない草むらをあっという間に突っ切り、川岸から数十センチほどの位置に辿り着くやフィアは軽く膝を曲げて――――ジャンプ。

 フィアの跳躍は柔らかで、花中の身体はふわりとした浮遊感と共に空を()()

 チラリと下を見れば今は軽々と川の真上まで来ていた。この様子だと着地場所は対岸から数十センチ先ぐらい。花中はギュッとフィアの身体にしがみついて間もなくやってくる衝撃に備えた、途端身体が上向きに引っ張られる感覚に襲われる。段々と高度は下がり、やがてフィアの足が大地に触れて、

 ずるんっ、という音と共に、花中は自分の身体が傾くような感覚を覚えた。

 ……あれ? これ不味くない? と思った時にはもう遅く。

「どぉぅんっ!?」

「ぎゃぷっ!?」

 思いっきりずっこけたフィアと一緒に、花中もまた川の中に落ちてしまった。体勢としては尻餅を撞くように、であったが、フィアの総重量は平時ですら数百キロを超えている。着水と同時に小川の水が全て吹き飛びそうなほどの水飛沫を上げた。近くを泳いでいたのだろう小魚達が驚いて何十匹と跳ね、慌てた様子で逃げて行く。

「……あれ?」

 尻餅を撞いた姿勢のまま、フィアは顎に手を当てて不思議がる。フィアは元々『身体』が水で出来ているので、水に沈んだところで何がどうなる訳ではない。衣服も、水にどっぷり浸かっているのに全く()()()()()()状態だ。

 だが、花中はただの人間。川に落ちれば当然濡れる……如何に倒れたフィアの膝の上に乗っかる形になっていようとも。その上高く上がった水飛沫のど真ん中に居たとなれば、最早濡れていない場所の方が少ないぐらい。花中の全身はフィアと違いずぶ濡れとなっていた。

 花中は顔を上げ、疲れ果てたジト目でフィアを見つめながら口を開く。

「……あの、フィアちゃん? わたし、川を渡ろうって、言った、よね?」

「ええ確かに言いましたね」

「なんで、川に、落ちてるの?」

「さぁ? なんででしょう?」

 本当に分からないと言いたげに首を傾げるフィアを見て、花中もまた首を傾げた。

 問題なく向こう岸に渡れると思ったのに……自分の感覚とのズレに、花中は少し考え込む。踏み込みが足りなかったようには思えないし、フィアの力から考えて不可能どころか容易な行動だった筈。はて、何か近くに原因があったりするのかと花中は辺りを見渡し

 ふと、それが目に映った。

「(女の子……?)」

 それは蛍川の岸辺に佇む、一人の少女であった。

 少女が居るのは、花中達から二十メートルぐらい離れた場所。遠いので正確には分からないが、身長は花中と同じかやや小さく、あどけない雰囲気の顔立ちも考慮すると年頃は十歳、小学校三年生ぐらいに見えた。新緑のように鮮やかな緑色のワンピースを着ており、襟には陽光で光り輝く真っ白なリボンが付いている。そんな派手な衣服に負けないぐらい目を惹くのが、胸元辺りまで伸びている焔の如く赤い髪。そして海よりも深く透き通った青色の瞳がこちらを真っ直ぐ捉えていた。

 恥ずかしいところを見られて、花中は朱色に染まった顔を俯かせる。

「? 花中さんどうかしましたか?」

 その時フィアから声が。花中はハッとして顔を上げる。

 どうやらフィアはあの少女の存在に気付いていないらしい。

「あ、う、うん。あそこに、女の子が……」

 花中はそう言いながら女の子を指差し、フィアはその指先が示す先に顔を向けた。

 そして、花中は瞬きをした。

 人間だから当然だ。瞬きぐらいする。

 ところが瞼を開いた時、そこに居た少女は、姿を消していた。

「――――えっ!?」

 慌てて辺りを見渡す、が、赤い髪も緑の服も、いくら探しても見付からない。忽然と……否、そんな言葉では表現出来ないぐらい、なんの予兆も痕跡もなく少女は消えてしまった。

 傍にある雑木林の中に身を隠した? いや、蛍川が雑木林の側を流れていると言っても、少なからず歩かねば立ち入れない。花中には目視不可能な速度で動き回れる友人がいるが……だとしても余波はこちらに吹き付けてくるし、足跡だって残る。痕跡一つ残さず消えるなどあり得ない。

「……驚いているところ申し訳ありませんがその女の子とやらは一体何処に居るのでしょうか? 私には花中さんの指先が指し示しているのは虚空のようにしか思えないのですが」

 挙句フィアには、()()()()()()()()()()()()()()()()が見えていなかったらしく。

 今のは一体? まさか幽霊……と普段なら真っ先に恐怖の予感で慄くところだが、今日の花中は違った。

 もしかすると、ここにきて幻覚キノコの効果が出てきたのかも知れない。

 幻覚にしては妙に生々しかったが、医学的に言えば幻覚とは、なんらかの原因によって感覚器が誤作動を起こしている状態である。つまり幻覚を見ている当人の目にはちゃんとした『映像』が映っている訳であり、生々しいのも当然というもの。基本的に現実と幻覚の区別は付かないものなのだ。

 此処も一応は幻覚キノコが発生している場所。もしかしたらいくらか欠片を吸い込んでしまい、なんらかの影響が出始めているのかも知れない。そしてフィアは生身ではなく、『入れ物』を通して外界と接している。仮に表面に枯死したキノコの欠片が付着し、幻覚成分が染み入ったとしても、身体を構成する何百リットルもの水によって希釈され、いっぺんにではなく少しずつしか体内には入ってこない。勿論人間と魚は全く異なる進化を辿ってきた事で、神経系や免疫の仕組みに大きな違いが生じている。なので一概には言えないが、フィアは花中より遥かに優れた『薬物耐性』を持っていると考えて良いだろう。

 恐らくあの少女は自分だけが見た幻覚なのだと、花中は結論付けた。

 幸い気分の不調などはないので、病院に駆け込む必要はないだろう。さっさと目的を果たし、退散すれば大丈夫。万一があってもフィアが傍に居る。怖がる必要はない。

「ううん、なんでもない。それより、何時までも、水に、浸かっていたら、風邪、引いちゃうから、上がって、雑木林に行こ?」

「ああそうですね。私とした事が花中さんの体調を失念していました……うーんしかしどうして落ちてしまったのか。私のミスなんでしょうけど……なんかキツネにつままれたような……」

「気にしてないから、そんな、悩まなくても、良いよ?」

 花中はそう言うとフィアから退き、自分の足で立ち上がる。既に全身濡れ鼠といった惨状だが、自分でも言っていたように花中はあまり気にしていない。いくら濡れようと水はフィアが吸い取ってくれるし、先代の携帯電話を水没させてしまった経験からスマホは防水加工された製品を使用している。

 そうなると被害は濡れた事による不快感と風邪の心配ぐらいなものだが、夏の盛りを迎えた今日この頃、むしろ心地よい涼しさで体調が回復したような想いだ。それに服を着たまま水に浸かる行為が悪い事をしているようで、小さな背徳感がちょっと楽しい。

「ほら、フィアちゃん。早く行こうよ。早くしないと、晩ごはん、捕まえられないよ?」

 込み上がってくるワクワクを胸に、花中は未だ唸っているフィアの手を掴んで雑木林の方へと引っ張るのだった。




ファースト・フレンズ4にて晴海とフィアが初めて遭遇した際、フィアが地面から何かを拾い、口に運んでいたのを覚えていますでしょうか?

あれ、実は地面を歩いていた虫を食べているシーンでした。
多分クモとかミミズの類です。アリは酸っぱく、ダンゴムシは臭いので、フィアの好みではありません(誰も得しない設定)


次回は8/20中に投稿予定です。

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