「なんだこれぇ! めっちゃ美味いじゃん!」
ガツガツという文字が見えそうなぐらい、勢い良く星縄は肉を頬張る。上品さと無縁な、本能剥き出しの食べ方は、それだけ彼女が肉の味を満喫している証。一噛みするだけで溢れる肉汁は、きっと星縄の味覚をかつてないほど満足させているに違いない。
例えそれが怪物の肉だとしても、だ。
「気に入ってもらえて、何よりです。ちょっと、見た目の良くない生き物、ですけど」
「いや、もう全然なんでも良いよ。見た目なんて肉にしちゃえば関係ないし、こんなに美味しいし、というか今時食べ物で贅沢なんて言えないし。はぐ、んぐんぐ……うああ、美味ひぃぃ」
トレイを両手で抱えている花中は肉について説明したが、星縄は花中に目もくれず肉を頬張るばかり。食べ盛りの子供でも、『ムスペル事変』前では見せなかったであろう食べっぷりだ。邪魔しない方が良さそうだと、花中は口を笑みの形でぴたりと閉じた。
それから、辺りを見渡す。
花中と星縄が居る食堂では、大勢の人が食事をしていた。百人は収容出来そうな広さがある此処には今、この避難所で暮らす住民六十八人全員が集まっている。誰もが白饅頭の新鮮な生肉 ― 生食が問題ない事は
白饅頭はこの避難所での主食、というよりほぼ唯一の食糧だ。そのため晴海の親族など、ムスペル事変初期からこの避難所に住んでいる人達は二週間ずっと白饅頭ばかり食べている。それでもこれといった不平不満が出てこないのは、現状の厳しさを皆理解しているのもあるだろうが、それだけ白饅頭の肉が美味だという証明だろう。
もしもこれがただの牛肉なら、食事への飽きと先行きの不透明さから来るストレスで誰もが怒りやすくなり、くだらないきっかけで惨劇が……というのは冗談抜きにあり得た。二週間という時間、そして娯楽のない生活にはそれだけの危険性がある。フィアのお陰で、花中達は平穏な生活を送れているのだ。
「じー……」
「ところで花中ちゃん。フィアちゃんの視線が若干気になるので、止めてほしいのだけど」
「あ、あはは……無理です。わたしも、抱き締めるの、ちょっとだけ止めてと言って、これなので」
ちなみにそんな平和の功労者であるフィアは、花中に後ろから抱き付いたまま、星縄を嫌悪の眼差しで睨んでいた。
初対面の時から「なんか胡散臭いから嫌い」とフィアは言っていたが、どうやら今は初対面の時よりもっと嫌いになっているらしい。花中さんは渡しませんとばかりに、べったりとくっついている。大変動き辛い。抱き付かれるのは好きなので、花中的には不快でないのだが。
そんなフィアであるが、自分が捕らえた獲物を星縄に渡す事に異論は出していない。自分と花中の分が確保出来れば、『残り物』には興味がないのだ。
お陰で星縄は白饅頭の肉を堪能出来ている。二週間食べても大きな不満が出ないような肉だ。初めてこの肉を食べた星縄からすれば、その美味しさに大興奮するのも仕方ない事かも知れない。
ましてや、長い間飢えと渇きに苦しんでいたなら尚更だ。
「はぐ! が、ぐ、うぐ、うぅ……」
「美味しい! 美味しいよこれ!」
「あぐ、ぐ、んぐんぐ」
ちらりと花中が視線を向けた先には、失礼ながら『獣』のように見える激しさで白饅頭の肉を食べる十人組が居る。
つい先程避難所に受け入れられた十人の『新入り』達だ。余程空腹だったのだろう。誰もが目の前の肉を口へと詰め込み、涙と嗚咽を漏らしながら空腹を満たしている。彼等は子供も大人も酷くやつれていた。きっと長旅の間満足な食事を取れなかったに違いないし、旅立つ前の避難所でも最低限の食事しか口に出来なかったと思われる。
ムスペル達が現れる前まで、彼等はごく一般的な日本国民だった筈。深刻な飢えも渇きも知らない日々を過ごしてきただろう。それが突然、今日食べるものすら困る日々に放り込まれたのだ。知識も何もなく、耐え方も分からない日々はどれほど苦しかっただろうか。このまま飢えて死ぬのではないかという不安は、どれほど精神を蝕んだだろうか。
……少しでもその心の傷が自分の料理で癒えたなら、花中としてはこれ以上ないほど嬉しい事だ。尤も、生肉を切って並べただけのものを料理と呼ぶのは、『料理人』として複雑な気持ちではあるが。刺身のように美味しさを保つ切り方があるなら兎も角、本当にただのぶつ切りなので。
「いやぁ、ほんと助かったよ。正直花中ちゃんに会えなかったら、途方に暮れるところだったからね。この調子じゃ自宅どころか、実家も潰れているだろうし」
新入り達を見ながら考え込んでいた花中に、星縄が声を掛けてくる。
花中は一度考えを頭の隅へと寄せ、星縄の方へと振り返った。星縄の前にある皿は空で、その星縄は口許を布切れで拭いている。満足してもらえたようだが……幸せいっぱいで肉を頬張っていた時と違い、今の星縄はかなり険しい表情を浮かべていた。
真面目な話をしたい。そんな星縄の気持ちが伝わり、花中も息を飲む。それに花中としても訊きたい事はあるのだ。話し掛けてくれた星縄に、花中は問う。
「そういえば、星縄さん、日本に居たのですか? てっきりわたしは、海外に居たのだと、ばっかり」
「いや、海外に居たよ。仕事の関係でイギリスの方にね」
「えっ? じゃあ、わざわざ日本に……でも、どうやって?」
「飛行機を使って、だよ。あの化け物達によって都市部は壊滅したけど、周りに建物がない滑走路なら意外と無事だったからね。同じく日本に帰ろうとしていた人達と協力して飛行機を動かして、なんとか日本まで戻ってこられたんだ。いやー、大変だったよ」
へらへらと笑いながら、さも大した事ではないかのように星縄は語る。
確かにムスペル達はわざわざ人間の都市やインフラを狙って出現した訳ではないので、マグマに飲まれなかった空港があっても不思議ではない。途絶える事の知らない巨大地震により、管制塔などは余さず潰れただろうが……空を飛んでいた『運行中』の機体は被害を免れた筈だ。ムスペル達が撤退して震災や噴火が止んだ後、地上に戻ってきた機体達を使えば、日本まで戻る事は可能だろう。
と、言葉にすれば簡単なように聞こえる。しかしそんな訳がない。
飛行経路などは機体に備え付けられたコンピュータが、自動的に導き出してくれるかも知れない。されど目的地に設定した空港が無事だとどうやって知る? 状況を知るには管制官のような人員との交信が必要だ。だが管制塔などの施設が倒壊していたら、そうした交信は不可能となる。人が居なくなっていても同様だ。空港の状態を予め知るのは難しいだろう。
しかし、じゃあ行って確かめよう、なんて訳にはいかない。飛行機に積める燃料には限りがあり、着陸が出来ないから離陸した空港にUターンするなんて事は、余程短距離でない限り出来ないのだ。着陸に適した場所が空港近くに都合良くあるとは限らないし、だからといって無理な着陸をすれば瓦礫などで機体が破損・爆散するかも知れない。
大体補給はどうする? ムスペル事変の最中ずっと運行中だった飛行機の場合、燃料をそれなりに消費している筈だ。次のフライトをするには何処かで補給する必要があるだろうが、ムスペル達による災禍で世界中が混沌としている中燃料は稀少……いや、奪い合いになっていてもおかしくない。最悪飛行機の燃料や機内食などの食糧を狙い、武装した一般人の襲撃が起こり得る。のんびり準備する暇すらないだろう。
無論これは日本ほどの惨状が世界でも起きているという前提の話だ。ミリオンに集めてもらった情報で『酷い』というのは花中も知っているが、これはかれこれ一週間ほど前の話である。他国では復興が順調に進み、自国の事で手いっぱいではあっても、燃料の確保などは難しくないという可能性もある。
「……正直、戻ってこられたのは奇跡だよ。イギリスだけじゃない。立ち寄ったどの国も、日本と同じか、日本以上に酷い有り様だったからね」
その可能性は、悲痛な感情を隠しきれていない星縄の言葉が否定する。どうやらどの国も悲惨な状態のようだ。それらの国々で燃料を補給するのは、相当の苦労があったに違いない。
現代の航空技術であれば、乗り換え時間を含めても丸一日とちょっとで地球の裏側まで行ける。にも拘わらず星縄がムスペル出現から二週間も経ってからこの避難所に現れたのは、それだけの苦労があったという事なのだろう。
そして世界中がそこまで酷い状況である理由は……
「やはり、何処の国でも、怪物が出ているのですか?」
花中が尋ねると、星縄は周りを見渡す。近くに人が居ない事を確かめると、身を乗り出し、ひそひそとした声で話す。
それだけで、花中は自分の嫌な予感が当たった事を理解した。
「ああ、本当に酷いもんだよ。新聞とかテレビで、怪物と呼ばれる生物が世界中に現れている事は知ってるよね? 今はもう、これまでの比じゃないよ……世界中のあちこちで、大量の、そして様々な種類の怪物が現れている。多分、ムスペルが現れた時の噴火とかで住処を追われたり、或いは天敵が減少した影響だろうね」
「……その、他の国の人達は……えっと、避難とかは……?」
「どの国も政府なんてろくに機能してないんだよ? 政府機関そのものが吹き飛んだ場所もあるぐらいだ。行政による指示なんて何処にも出ていない。市民は避難なんて出来ず、闇雲に逃げ回るだけさ」
「……軍隊とか、警察は……」
「どちらもまともに動いていない。むしろ下手に武器があるからか、武装勢力となって貴重な食糧の強奪とかしている有り様だよ。勿論奪われる側も抵抗するし、最悪その戦闘で貴重な食糧が吹き飛ぶ、なんて笑えない事にもなってたところがある。治安維持どころか悪化する一方。しかも最近は、見た目は普通の動植物なのに怪物より遙かに強い……間違いなくフィアちゃん達と同類の生物まで出て来る始末だ」
「……………」
「世界全てを見てきた訳じゃないけど、この二週間で相当数の人が亡くなっただろうね。多分もう生存者なんて十億人を切ってるんじゃないかな」
星縄は淡々とした語り口で、自らが見てきたものを語る。それは花中がミリオンから聞かされていたものと全く同じものであり、故に「世界中で怪物とミュータントが現れている」という予感が的中していると確信出来てしまう。
ムスペルの影響は地球全土に及んでいた。そしてその影響により、人類は文字通り存亡の危機に陥っている。花中が思っていた中で、最悪に近いシチュエーションだ。精神的なショックは大きく、心臓が締め付けられるような苦しさを覚え、息が乱れそうになる。
だけど、花中はなんとか落ち着きを保てた。
こんなのは想定内だ。大陸の方に行ってもらったミリオンが、二週間後に持ってくる予定だった情報である。予想より早く知る事にはなったが、分かっていた事に気絶するほどの衝撃は受けない。
敢えて思うところを挙げるなら、この情報を何時避難所の住人達に伝えるか、その伝え方をどうするのか、という悩みぐらいだ。助けがこないと知った時の絶望感は、自殺や暴動を起こしかねない。されど隠しておく事も、何時までも出来るものではないだろう。そして不意に現実を突き付けられたなら、衝撃はずっと大きなものとなる。慣らすという訳ではないが、予め覚悟させておかねば自暴自棄になって……
「思ったよりも落ち着いているね?」
考え込む花中に、星縄が尋ねるように声を掛けてくる。
思考の海を旅していた花中は、我に返るのと共に星縄の方へと振り向く。目をパチクリさせ、頭の中をリセットしてから星縄の問いに答えた。
「えっ、あ、はい。そう、ですね。その……ムスペルが、世界中に現れている事は、ニュースでやって、いましたし。それに、怪物の事も、前から起きていました、から、そうなっていても、おかしくないとは、思っていました」
「そうか。うん、そういう事なら話が早くて助かるよ。あまり時間もないからね」
「……助かる? 時間がない?」
星縄の言葉に花中が違和感を覚えていると、星縄はニヤリと、胡散臭い笑みを浮かべる。
その笑みは過去に何度も見てきたもの。だけど何故か、今日は何時もより一層胡散臭く見えた
「花中ちゃん、フィアちゃんを少し貸してくれないかい?」
が、脳裏を過ぎっていた考えは、星縄のこの一言で吹っ飛んでしまった。
フィアを貸してほしい?
つまり、フィアに何かを手助けしてほしいという事だろうか? 確かに星縄はかれこれ一年以上前に起きた『マグナ・フロス事件』の際、フィアが人間ではない事、その力が人智の及ばぬものである事を知った。何か達したい目的があるのなら、フィアの力を借りたいと思うのはごく自然な考えかも知れない。
しかしだからこそ、フィアの性格もある程度は理解した筈だ。
フィアを貸してほしい、という事はそれなりの期間連れて回るつもりなのだろう。フィアは
「ああん? なんであなたの手伝いなんてしなければならないのですか。お断りですよ」
予想通りフィアは、星縄が理由を話すよりも前に拒否した。
断られた星縄は、しかし予想はしていたのだろう。胡散臭い笑みを崩さず、フィアと視線を向き合わせる。
「ははっ、予想通りの答えだね。とはいえ簡単に諦めるつもりもないけれど」
「ふん。諦めないのは勝手ですが無駄な努力じゃないですかね。そもそも私に何を頼むつもりなのですか?」
「うん。ちょっとした人助けをね」
「人助けぇ……?」
心底面倒臭そうに、全くなんの興味もないと訴えるような言い方で反応するフィア。
しかし人間である花中は、星縄の語る『人助け』に関心を抱く。無意識にその身を乗り出す。
「世界中で生き延びている人達を、この地に集めたいと思っているんだ」
そして星縄の告げた内容に、ドキンっと心臓が跳ねた。
「あん? どういう事です?」
「うん。これは単純に、食べ物があるこの場所に困ってる人を集める……というだけの話じゃない。人手を集めれば、それぞれの得手不得手に合わせて分業化を進める事が可能になる。そして分業化は社会を発展させるための必要条件だ。専門知識や技術というものは、色んな仕事をやりながら磨けるものじゃないからね」
「……つまり?」
「これは人類が次の時代を生き延びるための、その前準備という訳さ」
星縄が説明した『計画』に、フィアは興味すらないのか眉を顰めるだけ。
しかし花中は違う。
星縄が語るように ― 今は崩壊したが ― 現代社会を維持するためには大量の労働力が必要だ。製品の生産を行う生産者、製品を流通させる販売者、製品を運搬する労働者、運搬に必要なインフラを整備する技術者、技術者を養成する教育者……他にも色々な職業の専門家が必要となる。この避難所に居る六十八人なんて人数では到底足りない。この数では原始的な村社会が限界だろう。
原始的な村程度の技術力では、ただのイノシシ一頭倒すのも一苦労。安全に戦うためには銃ぐらい欲しいところだが、銃を作るにはやはりある程度の生産力……社会を構成する人の数が必要だ。この生産力がない状況でもしもイノシシが生活拠点を襲撃してきたら、ノウハウなんて数千年前に廃れてしまった石器で戦いを挑まねばならない。上手く立ち回れば怪我人を出さずに倒せるかも知れないが、下手をすれば致命的な怪我を負う人も出るだろう。
加えて冷酷な見方ではあるが、怪我や病気などで人材の『損失』が出た場合、少人数だとその穴を埋められない。万一その損失人員が食糧生産に携わる者だったなら、社会そのものが崩壊する遠因となる。
イノシシ相手にすら、コミュニティ崩壊の危機があるのだ。ましてや怪物やミュータント相手なら……小さなコミュニティでは、彼等がちょっと横を通り過ぎたで消滅・離散しかねない。そして社会性動物である人間は、自然界を一人では生き抜けない。孤立すれば待っているのは死だ。
そうして一つ一つの集落が潰されていけば……人間は何も出来ずに滅びるだろう。
人口を増やし、社会の『体力』と『パワー』を付けておく。そうする事で怪物から逃げる程度の、最低でもただの野生動物から身を守る程度の生産力を維持する。これが星縄の目的という訳だ。
そのために必要なのは人口。
分散している『
尤も、フィアからすればなんの興味も湧かない『つまらない話』でしかない。
「はぁそうですか。でも人間が滅ぶとか生き延びるとか私には関係ありませんし」
星縄の話を聞かされても、フィアの返答が変わる事はなかった。
花中からお願いすれば、フィアは星縄の手伝いをしてくれるだろうか? いや、それだけでは難しい。しかし自分も同行すると伝えれば、間違いなくフィアも来てくれる筈だ。
「あ、えと、わたしも、星縄さんと一緒に」
「いや、花中ちゃんは此処に残っていてほしい」
ところが花中の提案は、星縄当人によって拒否されてしまった。予想外の返答に花中は戸惑い、思わず後退り……フィアが抱き付いていなければ、三歩は後退しただろう。
「えっ、あ……な、なん、で……」
「この避難所のまとめ役の、岡田さんだったかな? 彼から話を聞いたよ。花中ちゃんは今、この避難所の台所を任されているんだよね?」
「は、はい。一応……で、でも、それは他の人に任せても」
「いや、あまりそれは良くない。少なくとも今はね」
「……今は?」
星縄の言葉に違和感を覚え、花中は思わず怪訝な気持ちが顔に出してしまう。すると星縄は辺りを見渡し、次いで自らの口許を片手で隠すようにしながら花中に顔を寄せてきた。
どうやらあまり周りの人達に聞かれたくない話らしい。ごくりと息を飲み、花中の方からも星縄に顔を近付けた。星縄は花中の耳許に己の口を寄せる。
「どうやら、食事に対する不満が溜まっているようだからね」
次いで花中としては、聞き捨てならない情報を伝えてきた。
「……えっ。えっ!?」
「落ち着いて。不満といっても小さな、流石にちょっと飽きてきたなって程度だよ。此処に来た時、誰かがそんな話をしているのを偶々聞いちゃってね」
「そう、なのですか……でも、わたし、そんな話は聞いた事が……」
「いや、花中ちゃんだからじゃないかな。花中ちゃん、小さくて可愛いからね。こんな子が一生懸命作ってくれたものに不満を言いたくなかったとか、大人げないとか、そんな心理が働いたんじゃないかな?」
「な、成程……」
星縄の言う事には一理あると、花中は得心がいった。思い返すとまとめ役である岡田など、避難住民の『初期メンバー』には自分が一応十七歳である事は伝えたが、積極的に年齢について言い広めてはいない。後からやってきた人達が自分の年齢を誤解している、というのは実にあり得そうな話だ。
『子供』の作った料理にケチを付ける、というのは実にやり難い。しかもその『子供』の周りに親らしき姿がないとなれば尚更である。不満があっても口には出さない、というより出せなくなるだろう。
不満を胸に押し留めておくというのが、良い事だとは思わない。しかし改善の見通しが立たない中で口に出しても、苛立ちが周りに広がるだけ。なら言葉に出させないでおく、というのが現状取れる最善手か。花中はそのための『抑止力』という訳だ。
しかしそれではフィアは自分の傍から離れず、星縄の手伝いはしてくれないだろう。
ふんっ、と鼻息を荒くしているフィアに、星縄に協力しようという気持ちは欠片も見られない。人類再興のチャンスを逃すのは惜しいどころの話ではないが、フィアのやる気がないのだからどうにも出来ない事だ。
フィアの力は借りられそうにない……そんな諦めの気持ちが花中の胸を満たした。
まるで、その心の内を見透かすように。
「それにこれは、玲奈さんと旦那さんを助け出す事にもつながるんだ」
花中の心臓を握り締めるかのような一言を、星縄は告げた。
――――考えないようにしていた、という訳ではない。
単純に諦めていた。国外の何処かで仕事をしていた両親の無事を確かめる術は、花中にはないのだから。正直なところ活性化した怪物に襲われて……という可能性も考えていた。仮に無事だったとしても、現代社会が崩壊した今となっては帰国する術がない。
両親との今生の別れ。
例え死んではいなくとも、そうなるだろうと考えていたのに。
「ほ、星縄さん!? あの、それはどういう……!?」
「花中さん?」
花中の『突然』の行動に、フィアは目をパチクリさせるのみ。花中を離しはしなかったが、窮屈に押さえ付けもしない。
大きく身を乗り出す花中に、星縄は視線を合わせてからこう話を続けた。
「偶然だったよ。玲奈さん達の居場所が分かったのは、ね。どうやら二人ともインドネシア諸島に居るらしい」
「インドネシア諸島……日本からなら、そこまで遠くない……」
「そうだね。飛行機が使えれば、二~三日もあれば連れて帰れただろう」
「な、なら、そうです! あの、星縄さんが、日本に戻るために使った、飛行機があれば……!」
「それは難しい。問題が二つある。一つはその飛行機にはもう、殆ど燃料が残っていない点。素人目だけど、片道分すら怪しいんじゃないかな」
「じゃ、じゃあ、燃料さえあれば!」
「問題は二つ。そう言っただろう?」
興奮している花中を窘めるためか、星縄は見せ付けるように指を二本立てた。
そのうちの一本をゆっくりと折り、残る一本を花中に突き付けながら星縄は冷静な声で告げる。
「現在、インドネシア諸島には多数の怪物が出現している。特に飛行能力を有する種の存在により、航空機は接近すら困難な状況なんだ」
「怪、物……」
「言うまでもないけど、今のインドネシアにこれらの怪物を追い払う力はない。まぁ、全盛期の人類が核兵器含めた全戦力を投じても無理だったと思うけどね」
「……………」
「この状況のインドネシアに飛行機で突っ込むのは、自殺行為にしかならないと思わないかい?」
星縄からの問い掛けに、花中は何も答えられなかった。
ちゃんと考えれば、自力でも予想出来た事ばかり。
しかし星縄から伝えられただけで、花中の精神は打ちのめされてしまった。身体から力が抜け、フィアが支えてくれなければ、きっとそのまま崩れ落ちてしまっただろう。
されど花中は自力で立ち上がる前に、顔を見上げてフィアの目を見る。
フィアは花中と目を合わせた瞬間、困ったような表情を浮かべた。口許もへの字に曲げて、明らかに不快感を覚えている様子。
フィアも花中との付き合いは長い。花中がフィアの考えをある程度は読めるように、フィアもまた花中の考えはある程度分かるのだ。
「……あー花中さん。もしかしなくてもですが私にコイツの手伝いをしてほしいと思っていませんか?」
思っている事をそのまま言い当てたフィアに、花中は無言のままこくりと頷く。
怪物が跋扈する地。星縄が言うように、人類では例え全盛期時の全戦力を投じても、呆気なく返り討ちにされただろう。ましてや飛行機一つ飛ばすのに苦労しているようでは、その地に足を踏み入れる事すら叶うまい。
けれどもフィア達ミュータントの力なら、怪物に何千万と襲い掛かられても撃退出来る。フィアならば怪物に満ちた大地から人命を助け出せるのだ。
そしてその人命の中に、自分の両親がいてくれたなら……
花中は頷いた頭を上げ、フィアの顔を見つめる。希望と願望を込めた眼差しと共に。
フィアの返事は、心底面倒臭そうなため息だった。
「全く人間というのは本当に面倒臭い。肉親なんて結局他人じゃないですか。わざわざ助ける意味が分かりません」
「そうだけど、でも……」
「そもそもまだ生きてるか分からないのでしょう? 怪物だらけの場所でただの人間が何時までも生きているとは思えませんね」
「玲奈さんのしぶとさなら、生きていても驚きはしないけど……正直、可能性が低い事は否定出来ないね」
臆面もなく語るフィアの意見に、星縄も同意する。
花中は反射的に何かを言おうとして口を動かすが、出てくるのは吐息のように擦れた声だけ。フィア達の言い分は至極尤もで、それを否定する何かを花中は持ち合わせていないのだ。
だから、
「だけど、人間というのは少しでも可能性があったら諦めきれないものだよ」
花中の気持ちよりも先に、星縄の人間らしい意見が告げられた。
そう、諦めきれない。
例えそれがどれだけちっぽけでも、夢物語でも……可能性があると知ってしまったら、それを無視なんて出来ない。
人間は、呆れるほど『非合理的』な生物種なのだから。
「お願いフィアちゃん! 帰ってきたら、なんでもお願い、聞くから……だから……パパとママを助けに……」
しがみついて頼み込む花中。フィアは眉間に皺を寄せたままだが……しばらくして大きな、あからさまなため息を吐く。
「……帰ってきてからはずーっと一緒に添い寝してください。あと私の好きな時にぎゅーって抱き締めるのと匂いを嗅がせてもらうのとご飯をあーんで食べさせてくれるのを一月はやってくださいよ。他にもまだまだやってほしい事はありますがとりあえず今思い付くのはこんなものですかね」
それからつらつらと、脈絡のない言葉をフィアは発した。
最初花中はその意味が分からず、ポカンとしてしまう。けれども呆けていられたのは短い間だけ。
気付いた次の瞬間、花中はフィアの身体に飛び付いていたのだから。
「ふぃ、フィアちゃん!? それって、それって……!」
「んふふ。なんでもお願いを聞いてくれるのでしたら話は別です。これで今まで以上に花中さんを可愛がれますねぇ」
「えっ」
これまで以上があるの? 思うがまま抱き付いたり匂い嗅いだりしてるとしか思えなかったんだけど? あれ以上濃密なスキンシップされると身体も心も色んな意味で耐えられそうにないんだけど?
色々な考えが過ぎる花中であったが、フィアが「ふふん」と上機嫌に笑ったので冗談ではないらしい。ひょっとして自分は割と大変な安請け合いをしてしまったのでは……無我夢中で言い放った事に、今更ながらちょっと後悔する。
しかし撤回しようなんて露ほども思わない。
折角巡ってきた、家族を助け出せるかも知れないチャンス。それを棒に振るような真似など出来る訳がない。大体自分はフレンドリーな事が大好きなのだ。こんな『美味しい話』は早々ない。
「う、うん! なんでも聞いちゃうよ!」
「ふふん約束ですよ? という訳でこの私があなたの手伝いをしてあげる事になりました。感謝するのですよ?」
「ああ、助かるよ。とはいえあまり長期間、フィアちゃんがこの避難所に居ないという状況は好ましくないだろう。出来れば三日以内に戻りたいけど……」
「んーインドネシアって何処にあるんですかね?」
「東京から見れば、南西の方角に約五千キロ進んだ先だね」
「なんだそんな近くですか。その程度の距離なら到着に二時間と掛かりませんね」
質問に答えたフィアに、星縄は驚いたように目を見開く。しかしその驚きに怯えなどはなく、純粋に強大な味方が出来た事を喜ぶようだった。
「素晴らしい! それなら半日も経たずに目的を遂行出来そうだ……これなら岡田さんにわざわざ許可を取る必要はないか、いや、むしろ変に不安にさせないためにも黙っておくべきか……?」
「ああん? 何故私があなたに付いていく事に誰かの許可が必要なのです? 私のやる事は私が決めます」
「……ははっ、成程ね。良し、それなら準備が出来次第出発したい。用意してもらえるかな?」
フィアの意見を聞き、星縄は席から立ち上がる。彼女の足下にはリュックサックが置かれていて、それをこの場で背負った。星縄は何時でも出られる、という事らしい。
筋を通すのならば、避難所の代表者である岡田にこの事を話しておくべきだろう。現状、フィアはこの避難所で唯一怪物に対抗出来る『戦力』なのだ。万一に備えて、不必要な外出は控えてもらうか、それが出来ないならせめて不在を知っておきたい……それが代表者としての考えだろう。
しかし星縄が懸念したように、フィアが怪物だらけの危険な ― フィアにとってはそれほどでもない ― 地へと向かうと知れば、彼は不安を覚える筈。安定しているとはいえ、決して豊かではないこの避難所に不安のタネを蒔くのは得策ではない。
それに花中としては……一秒でも、瞬き一回でも、早く行ってほしい。この僅かな遅延が、父と母の生死を分けるかも知れないのだから。
「私も何時でもOKですよ。花中さんの匂いはもう十分堪能しましたし」
フィアもまた何時でも出られるようだ。抱き付いていた花中を離し、自慢げに胸を張る。
「良し、それなら早速行くとしよう。数秒遅くて助けられなかった、なんてなったら目をも当てられないからね」
「間に合うかどうかなんて私達が気にする問題ですかねぇ」
「当然。人間的には極めて重要な問題さ……じゃあ、花中ちゃん。行ってくるよ」
フィアとの軽口を一通り叩き合うと、星縄は花中に出立の言葉を告げる。
花中が勢いもあってすぐに頷くと、星縄は早足で食堂の出口へと向かった。フィアも星縄の後を追い、一人と一匹は食堂の外へと出ていった。
フィア達の姿が見えなくなっても、花中はしばし食堂の出入口を見つめていたが……やがて首を横に振り、ぺちんと自らの頬を叩く。
考え込んでいても仕方ない。いくら此処で不安になったところで、それでフィア達が無事両親を連れ帰ってきてくれるようになる訳ではないのだから。
それよりももっと前向きに、建設的な事を考えよう。
フィア達が両親を連れ帰ってきたら、当然お祝いをしないといけない。しかしこの避難所にある主な食材は白饅頭の肉の一択。美味しさを思えば十分ご馳走になるだろうが……普段から食べているものを『ご馳走』として出すのは、なんというかこちらの気が引ける。
気持ちの問題と言われればその通り。大体状況が状況なのだから、そこまで無茶な催しは出来ない。今、なんらかの方法がなれば諦めるところだ。
されど今この時に限れば、『なんらかの方法』がある。
ミリオンが持ってきてくれた野菜だ。あれを用いた料理なら『おもてなし』と呼べるものになるだろう。とはいえ野菜が稀少品となった現在、花中が勝手に使い道を決めるのは実に良くない。
いや、そもそもこの食堂に来た本来の目的は、その野菜の使い道をどうするか皆で相談するためで――――
「おーぎーりさぁーんっ」
「ぴゃっ!?」
等と考え込んでいたら、不意に背後から抱き締められた。驚きのあまり花中は飛び跳ね、わたわたしながら後ろを振り返る。
抱き付いてきたのは加奈子だった。加奈子の更に後ろには晴海が居て、目の当たりにした友人のスキンシップ行為に肩を竦めている。
「お、小田さん、立花さん……えと、どうしました、か?」
「んー、なんか大桐さん考え込んでるみたいだったから、つい?」
「そ、そうですか……」
「で、実際どうなの? なんか困り事でもあった?」
「困り事と言いますか……えーっと……」
未だちょっと動揺していたためか花中は一瞬ありのまま答えようとして、しかしフィアと星縄の事を今話して良いものかと迷う。
とはいえ一度迷いを見せてしまえば、考え込んでいた事は明白となるのだ。晴海と加奈子が澄んだ目で花中の話を待っている。これを誤魔化すのは、人を騙すのが苦手な花中には辛い。
「……あ、そうです! あの、立花さん。ミリオンさんが持ってきた、野菜について、何か、皆さんと話しましたか?」
そこで花中は、話そうとしていたもう一つの方の質問をぶつけた。
一瞬キョトンとしたように目を瞬かせた晴海は、されどすぐ納得したようにポンッと手を叩く。
「ああ、そうそう。そういやその話をまだしてなかったわよね。大桐さんの知り合いが来て、すっかり忘れちゃってたわ」
「え? なんか野菜とか言ってたけど、なんの話?」
「ミリオンがね、野菜を持ってきてくれたのよ。量は……全員で分け合うには少ないけど」
「おー、野菜かぁ。野菜はあんまり好きじゃないけど、でも二週間肉ばかりだと流石に飽きてくるもんねー」
「そうねぇ。美味しいのは間違いないけど、焼く煮る生ってレパートリーだけだし。あたしも正直飽きてるし、他の人達も飽きたーって言ってるし」
花中が野菜の話題を振ったところ、加奈子と晴海はその話で大いに盛り上がる。やはり彼女達、そして他の避難所の住人達も同じく白饅頭の肉に飽きていたようだ。
そして花中は、こてんと首を傾げた。
――――それってわたしに話して良い事なの?
「あの……皆さん、食事に不満が……?」
「え? いや、不満ってほど不満じゃないけど」
「毎日同じ肉ばかり食べてたら、そりゃ偶には他のものを食べたくなるでしょ? みんなよく話してるわよ。まぁ、最近言われ始めた事だし、大桐さんの耳にはまだ入ってないかもだけど」
花中が問うと、何を訊いているんだろうと言いたげに晴海達は答える。隠し事をしやうとしている素振りや、「しまった」という想いは感じられない。
確かに『彼女』の言い分は、あくまで推論だった。だから間違っていたとしても、それが違和感と呼べるものにはならない。
違和感になるのは、あたかも『彼女』がこの事を、皆の食への不満を重大事項であるかのように伝えた一点。思えばちょっと盗み聞きしたからといって、あんな過剰に警戒するものだろうか? この避難所の空気なんて、ろくに知らない筈なのに。
なんだ? 何がおかしい?
花中が違和感を覚え、そんな花中の姿に同じく違和感を覚えたのであろう晴海と加奈子が訝しげな眼差しを向けてきた
丁度、そんな時だった。
遠く離れた場所から、爆発音と大地の振動がやってきたのは……
分断は基本(ネタバレ発言)
次回は明日投稿予定です。