「大発生? どんだけ出ているんですか?」
ミリオンから告げられた話に、真っ先に、そして大した驚きもないまま質問をぶつけたのはフィアだった。
ミリオンは花中からフィアへと視線をずらし、顎に手を当て考え込む。まるで少し前に買った私物の値段を思い出そうとする時のような、些末な考え事をしている程度の素振り。
「うーん、日本だけでざっと八百種。個体数は一万を超えているかしら。あ、一応言うとこれまで私達が出会った個体は除外しているからね?」
そしてその素振りに見合ったあっさりとした言い方で、人にとっての絶望を語る。
「なんとまぁわらわらと。虫けらみたいに沸いてますねぇ」
「実際虫が多かったわねぇ。オニヤンマとかモンシロチョウとか、ジンガサハムシとかカブラハバチとか」
「後半の奴等はなんなのですかそれ?」
「全部普通種よ。まぁ、目立つような種じゃないけどね。ちなみにどれもふつーに強そうな能力持ちだったわ。超高出力レーザーを撃ったり、周辺の空気を自在に操ったり」
「なんとまぁ厄介な事で」
「ほんと、厄介ねぇ」
フィアが肩を落としながら雑な感想を述べ、ミリオンが肩を竦めてそれに同意した。
まるで世間話のようなやり取りに、人間である花中だけが絶望的な気持ちを抱く。
ミュータントが大発生している――――字面にしただけで背筋が凍るほど恐ろしい状況だ。しかしミリオンは、趣味の悪い冗談を語っている訳ではない。花中はその予兆をしかと察知し、故にわざわざミリオンに日本中を調査してもらっていたのだから。
世界各地に現れたムスペルを撃破したのは、世界各地に存在していたミュータントだと思われる。
この推測が正しければ、世界中でミュータントが大量発生している事になる。ならば日本でもフィア達以外の、花中が出会った事のないミュータントが潜んでいてもおかしくない。そしてフィアやキャスパリーグが行ったように、繁殖が始まれば個体数は爆発的に増大していく。
もしも現時点での数が、花中の予想よりもずっと多かったとしたら?
悪い予感は見事に的中した。いや、或いは外れたと言うべきだろうか。日本だけで一万体もミュータントが潜んでいるなんて、幾らなんでも想定外にもほどがある。花中としては三十種百体もいればもう手に負えないと思っていたのに、その二十五倍もの種数と百倍以上の個体数なんて、絶望的過ぎて却って冷静になるほどだ。
そして冷静だからこそ思う。
「……いくらなんでも、多過ぎませんか?」
その数自体への違和感も。
「ええ。確かに多過ぎるわね」
「? 虫のミュータントが多いんですよね? 虫なんてほっといたらどんどん増えますし多くて当然なのではありませんか?」
「あのねぇ、ミュータントは伝達脳波によって誕生するものなのよ? 伝達脳波を発する人間と、ミュータントの素質がある生物がそれなりに近付かないといけない。そして伝達脳波を出せる人間はごく僅か。じゃあミュータントとは簡単に増えるものかしら?」
「……?」
「増えないのよ!」
話が長くて混乱しているのか。キョトンとしてしまったフィアに、ミリオンは呆れきったツッコミを入れた。なんとも緊張感のないフィアの反応に、花中は思わず笑みが零れる。
しかしながらミリオンが語った事は、笑っていられない重大な謎だ。
伝達脳波を出す人間は花中だけとは限らない。だが決してたくさんはいない筈だ。何しろかつてミリオンは何十億という数の人間を調べ、ようやく花中一人を見付けたぐらいなのだから。
自分がミュータントの力に目覚めた結果、伝達脳波の影響範囲が世界中に及んだのではないか。そんな考えも過ぎったが、花中はその可能性を否定した。
勿論現実逃避したのではなく、論理的思考の結果だ。もしも花中のミュータント化が大発生の引き金なら、世界中で目覚めたミュータントは、東京でのムスペル決戦時終盤に目覚めた事となる。通常のムスペルであっても、数多の戦闘を経験してきたフィア達相手に互角の戦いをするほど強い。目覚めたてのミュータントでは恐らく相手にならないだろう。ムスペルと戦ったミュータントには相応の経験か、協力出来る『仲間』が居た筈だ。そしてそれらを作るには少なくない時間が必要である。
世界中に出現したミュータントは以前から誕生していたと考えるのが自然。花中は二年前国外へと旅行した事があるものの、世界一周をしてきた訳ではない。即ち花中の脳波が届かない場所で目覚めたミュータントが、相当数存在しているという事だ。
何故ミュータントは大量発生したのか? 伝達脳波を放つ誰かが世界のあちこちを巡っている? それとも世界中で伝達脳波を放つ人間が現れているのか? しかしどの考えもしっくりこない。そもそも昨年フィアが出会った怪物のミュータントや、地殻深くに生息しているムスペルなど、どうやれば人間が接触出来るのか。
人間が要因ではない。そして何かもっと、シンプルな原因のような気がする。例えば、何か途方もなく大きな存在が、あちこちに伝達脳波を撒き散らしているとか……
……冷静でいるつもりだったが、やはり混乱しているのかも知れない。考えが推論というより妄想になりつつあると感じ、花中は一度ミュータント大量発生について考えるのを止めた。
それに過去を振り返る事は大事だが、目先の危機を無視するのは色々と不味い。
「……日本で一万以上のミュータントとなると、世界中で、何百万体いるか、分かりませんね」
「そうねぇ。これだけ数が多いと、人間との接触も多いでしょうね。ちなみに三ヶ所ぐらい、ミュータントに潰されたと思われる避難所があったわ」
「……………そう、ですか」
ミリオンからの『追加情報』に花中は表情を暗くする。
ミュータントは野生生物だ。彼女達は基本的に本能のまま動き、本能に則した目的で行動を起こす。肉食動物なら腹を満たすために人を喰うだろうし、植物でも「仲間が
日本だけで一万体ものミュータントが現れ、ひしめく現状。果たして今の地球には人類が生き延びるスペースなど余っているのだろうか? フィア達のような人間に割と協力的なミュータントと行動を共に出来れば、多少抵抗も可能だろうが……フィア達だって善意で人間と共にいる訳ではない。『花中と暮らす』という目的があるからこそ、人に協力的なのだ。彼女達は『人間』そのものが滅びても特に気にしない。例え自らが人間絶滅の一因になろうとも。
いや、滅びに瀕しているのは今や人類だけではない。既存の生物を遙かに上回る能力を有した、超越的生命体がミュータントなのだ。このままミュータントが増殖していけば、獲物となる種も、競合する種も、全て滅ぼされておかしくない。
「このままだと、かつてない、大量絶滅が、起きそうですね……」
「あら、私はその辺の心配はしてないわよ。今のミュータントの発生状況からして、恐らく遠からぬうちに既存種の大半がミュータント化するんじゃないかしら。科レベルどころか属レベルの絶滅も少ないでしょうし、人類が全盛期のまま活動するよりはマシなんじゃない?」
「それは、確かにそうかも、ですけど。でもある種の絶滅が、連鎖的な絶滅を起こすかも、ですし。それに、ミュータント化を起こしやすい、傾向があれば、多様性が、偏る可能性も、あります。それは、将来的なリスク、かと」
「偏りについては、大量絶滅の時点でどーにもなんないと思うけどね。ペルム紀の大量絶滅じゃ九割も種が滅んでる訳だし。それでも二回の大量絶滅を潜り抜け、後々今の私達が生まれているんだから、多様性なんて簡単に生じるとも思えない? 今回もなんとかなるわよ。生命のしぶとさは、はなちゃんが一番分かってるでしょ?」
「むぅ。お二人の話は難しくてよく分かりません。大体食べ物以外の生き物が滅びてもどーでも良いじゃないですか」
花中とミリオンが真面目に話を交わしていると、置いてきぼりを喰らったフィアが不満そうに花中をぎゅっと抱き締める。親友に寂しい想いをさせてしまったと反省し、花中は自分の身体を抱き寄せているフィアの腕を抱いた。それだけで、花中の大切な親友は機嫌を直してくれる。
勿論大量絶滅は、決して『どーでも良い』話なんかではない。既存種により形成された『今』の生態系こそが、人類が生存出来る唯一の環境なのだ。大量絶滅はその生態系が崩壊し、新たな環境に適応した種の発生・繁殖という名の再構成が行われるイベント。新しい生態系に人の居場所はないと考えるべきだ。人類種の滅びを避けるためには、生態系の保全は絶対に必要な事である。
しかしながら、ミュータント相手に人間がどうこう出来る訳もない。
むしろ不可能な事に固執するより、起こり得る変化を受け入れる方が大事か。過去地球にはビッグ・ファイブと呼ばれる、五回の大量絶滅が起きている。この大量絶滅を生き延びたのは、元々新たな環境に適応的な形質を有していた種も多かったが……何より変わりゆく世界に適応出来たモノ達だ。環境を自分達に適したものへと変える事で繁栄してきた人間も、そろそろ自ら変化する事が必要なのかも知れない。
そしてその変化の一端こそが、
「別に難しい話じゃないわよ。ただ、はなちゃんにはこれから頑張って子孫をたくさん残してもらわないといけないってだけ」
花中である――――それを自覚している花中は顔を赤くし、ミリオンはご近所の奥様方のようなニヤニヤとした笑みを浮かべた。
実際ミリオンの指摘は正しい。
そのためにもたくさんの子孫を残し、多様性とチャンスを確保すべき……ミリオンの言おうとしている事はこうだ。ぐうの音も出ない正論である。自然界は適者生存の世界であるが、適者が絶対生き残る訳ではない。『不運』に見舞われる事を考慮して『予備』をたくさん作っておくのもまた野生生物の生存戦略だ。つまり人間もばんばん繁殖行動に勤しむべきである。
で、人間の繁殖行動とはつまり……
「……良いですけどね。そうしたいと思える、相手さえいれば」
「あら、意外と平然としてるね。こういう下ネタを聞いたら、凄く恥ずかしがりそうな感じなのに」
「昔から、ママがそーいうの、平気で言う人でしたから。だから割と、この手の話には、耐性があります」
「……はなちゃん、実は結構エッチ?」
「平気なだけで、好きな訳じゃ、ないです」
「えー? そうかしらぁ? 今度立花ちゃんと小田ちゃん誘って、女同士で猥談しましょうよー」
「なんでノリノリなんですか!?」
「むぅーまた二人だけで盛り上がってズルいです」
ミリオンにおちょくられ、花中が憤り、フィアがふて腐れる。先程までの絶望と真面目さは何処へやら、わいわいと楽しい会話が繰り広げられた。ミリオンなど目許を拭い、笑い過ぎて涙を零しているような素振りまで見せる。涙腺なんてない癖に。
「あはは。まぁ、そうね。まずは相手が必要よね。そうねぇ、またちょっと遠出して、はなちゃんに相応しい配偶者でも探してこようかしら」
「……いや、そこまでしなくても」
「駄目よ。はなちゃんの子孫は伝達脳波を出す可能性が高い。私が
「あ、まだわたしの脳波を、求めてましたか。てっきり、世界中でミュータントが、産まれているから、もう必要ないと、思っていました」
「私が心配性なのは、はなちゃんがよーく知ってるでしょ。ミュータント大量発生の原因が分からないまま、それに頼るなんて出来ないわ。もしかしたら数年後には、ぷつっと途絶えるかも知れないでしょ?」
「……確かに、原因が不明で、ある以上、その可能性は、否定出来ませんね」
「だからその調査も兼ねての事よ。とりあえず日本は一通り見たから、次は大陸に渡って、それから西の方に進み続ける事にするわ。今度戻ってくるのは、そうねぇ、二週間後かしら」
ミリオンが語る旅の計画に、花中は表情を曇らせた。探すべき場所の目処が立っているのか、或いは時期を区切って行動するつもりなのか。いずれにせよ二週間と言ったからには、余程の事がなければ二週間ミリオンは戻ってこないだろう。
友達と二週間も会えなくなるのは、とても寂しいと花中は思う。けれども同時に、この調査はミリオンがしたい事でもある。
ミリオンは亡き想い人との記憶を失わないまま、愛する人の亡骸と共に朽ちるのが夢。ミュータント大量発生の原因を掴めれば、本当に夢が叶うかと知れないし、夢を妨げる脅威を知る事が出来るかも知れない。
ミリオンの気持ちを思えば、花中にはミリオンを引き留める真似なんて出来なかった。
「……分かりました。成果を、期待しています」
「任せなさい。私の愛するあの人の足下にも及ばないとしても、とびきりのイケメンを見付けてあげるわ!」
「そっちは期待してません!」
「うふふ。じゃあ、また二週間後に会いましょうね。あ、そうそう。念入りな調査をするから、今回私は『全員』で海外に向かうからそのつもりでねー」
最後まで花中をおちょくりつつ、ミリオンはその姿を霧散させた。
きっと今頃空高く飛び、大陸の方へと向かっているのであろう。花中は膨れ面で空を見上げ、けれども結局は柔らかな笑みを浮かべた。例え一時のお別れでも、ちゃんと笑顔で見送りたいからだ。
……しかし何千兆、或いは何十京と存在するであろうミリオンが『全員』で向かうとは。案外本気で自分に子孫を作らせようとしているのではないかと、花中はちょっと邪推した。なんだかミリオンが親戚のおばちゃんのように思えて、花中はくすりと笑ってしまう。
「やれやれようやく失せましたか。ですがこれで二週間は花中さんを独り占め出来ますねー」
ちなみにフィアも笑みを浮かべているが、花中とは別の理由で浮かべたものなのは言うまでもない。
「フィアちゃんったら、またそんな事言ってる」
「事実ですし」
「もうっ……まぁ、でも確かに、ミィさんも当分は、こっちに寄りそうにないし」
「あん? ああ野良猫ですか。なんでしたっけね確か自分より強い奴を探しに行くとかなんとか言って出掛けたきり帰ってこないんでしたっけ?」
「いや、全然違うから。自分の縄張りに、ミュータント化した猫が入ってきたから、『挨拶』に行ったんだって……ケンカになったけど、なんやかんやでその子と仲良くなって、毎日遊んでるって、調べてくれたのフィアちゃんじゃん」
「はぁ。そうでしたっけ?」
キョトンとしながら首を傾げるフィアに、惚けたような雰囲気はない。どうやら本当に忘れているらしい。
興味がない事は一瞬で忘れてしまう我が友に、花中は呆れるように肩を落とす。だけどその能天気ぶりは、人にとって絶望的な今の時勢では少々羨ましくもなる。
別段、花中は使命感など覚えていない。
しかし自分の力が、自分の子孫が、新たな時代に人類の血筋を残す唯一無二かも知れないチャンスだと思うと……流石になんのプレッシャーも感じない訳にはいかなかった。
こんな時、花中はフィアに想いを馳せる。フィアならきっと、自分がフナという種の存続に関わると言われたところで「それがなんですか?」としか思わないだろう。誰に何を言われても、自分のしたい事はやり、やりたくない事はやらない。割りきるでもなく、反発するでもなく、ただただ己の本能に付き従って動くのみ。
自由を体現しているそんな親友と触れ合えば、自分もちょっとは同じになれるような気がして、花中は気持ちが軽くなった。
「……ん。ありがとう、フィアちゃん」
「んぁ? なんかお礼を言われるような事しましたっけ?」
「わたしが言いたいから、言っただけだよ」
「そうですか」
じゃあ別にどうでも良いですね――――そんな内心が聞こえてきそうなフィアの反応が、ますます花中の心を励ましてくれた。
くよくよしていても仕方ない。こくんと頷き、花中は己の気持ちに活を入れる。
そうして元気を取り戻した途端、ぐきゅうるる、と花中のお腹が返事をした。
早速本能が『思うがまま』行動を始めたようである。何時もならちょっと恥ずかしくなるところだが、今日はなんだか頼もしい音色だと花中には思えた。
「良し。まずはご飯を食べよう」
「そうですね。ところでミリオンからもらった野菜はどうするのですか? 今日のうちに食べます?」
「うーん。確かに、冷蔵庫なんてないから、早めに食べちゃいたいけど……でもみんなの意見も、聞かないとね。みんなお肉には飽きてるだろうから、野菜は食べたがると思うし」
「私には理解出来ませんけどね草を好んで食べる心理は」
「そりゃ、フィアちゃんは虫ばかり食べてる、肉食動物だし」
明るい気持ちになった花中はフィアと世間話をしつつ、ミリオンからもらった野菜について考える。
野菜は山盛りになるほどあるが、しかし六十八人分もあるかといえばそんな事はない。生の状態で分けたとしても小鉢一つずつすら十分に満たせないだろうし、火を通して縮んだら目も当てられない。ならばいっそお好み焼きのような形で混ぜてしまうのはどうか。これなら一口で終わりとはならないし、量も均等に分けられる。問題はそうした混ぜ物には小麦が欠かせないのだが、野菜すら手に入らない今の生活では、小麦もまた稀少品であり……
……一人で考えても仕方ないと、一旦思考を打ちきる。いくら台所を任されている身とはいえ、貴重な野菜を勝手にお好み焼きにしたら暴動が起きるかも知れない。二週間前なら何を大袈裟なと言われそうだが、極限の生活状況においてそうした心配りは幾らしても足りないぐらいだ。
ここはちゃんとみんなに相談し、案を出し合うべきである。話し合いがヒートアップして、という事も考えられるが、それを言い出すともう何も出来ないから仕方ない。
「とりあえず、岡田さんのところに、行こうか。立花さんが料理を持っていった時に、話してるかも知れないし、もう何か、案が出てるかも」
「そうですか。じゃあ食堂に行くとしましょう。私も結構お腹空いてますしそろそろご飯にしたかったんですよねー」
花中の意見に賛同しつつ、花中の事をがっしり抱き締めて離さないフィア。どうやらこのまま花中と共に動くつもりらしい。
花中的には大変歩き難いが、こうしてべったりとくっつかれるのは割と好きだ。急ぎの用事でもないし、目的地まで遠くもないので、このまま一緒に歩いても特に問題はない。
「じゃ、行こうかフィアちゃん」
「はーい」
フィアの暢気な返事を合図として、花中は調理場を後にした。
花中達がこれから向かおうとしているのは、避難所内に建てられたもう一つの『公共施設』である食堂だ。
食堂は調理場から徒歩一分ほどの場所にある。フィアに抱き付かれたままでも、二分と掛からないで辿り着ける位置だ。
のんびりとことこ、フィアの暖かさを感じながら花中は歩いて行く。
「む? ……むむむ?」
その歩みの中で、不意にフィアが声を漏らし始めた。
顔を上げてフィアの様子を見てみれば、眉間に皺を寄せた親友の表情が確認出来る。深刻な感情は感じられないが……どうやら不機嫌にはなっているらしい。僅かながら、しかし着実にフィアの歩みが鈍くなっていく。抱き付かれている花中の歩みも、一緒に遅くなった。
「フィアちゃん? どうしたの?」
「ん? いえなんか嫌な気配が近付いてきているような感じがしまして」
「嫌な気配?」
「ええ。なーんか前にも感じた事があるような気がするんですけどねぇ……」
訊けばフィアはつらつらと答えるが、フィア自身あまりしっかりとは分かっていないらしい。返ってきたのは曖昧な答え。
気にはなるが、直感に優れた野生生物であるフィアでも分からぬものをただの……ではなくなってしまったが……鈍感な人間である花中に感じ取れる訳もなく。
だけどあまり気にしなくても良いやと花中は思った。勿論それなりの根拠はある。フィアに警戒心は見られないため、そこまで逼迫した危機を感知したのではないと考えたからだ。それにもしも危険な何かであったなら、一刻も早く避難所の人々と合流した方が良い。他の人達が何か知っているという可能性もあるだろう。
何があるにしろ、食堂に向かうという行動は変わらないのだ。変に警戒せずとも、フィアがそう言っていたという事を覚えておけば十分。
「そっか。なら、みんなのところに、行ってみよう。もしかしたら、話とか聞けるかもだし」
「むぅ。花中さんがそう仰るのでしたら」
フィアに進むよう促し、フィアは釈然としない様子ながら同意する。
もう数十秒と歩けば、花中達は目的地である食堂に到着出来た。
食堂もまた、極めて質素な作りをしている。壁は何処かで拾ってきたブルーシートを継ぎ接ぎしたもので、天井も薄汚れたボロ布を何枚も適当に張っただけ。それらを支える柱は錆びた鉄パイプ数十本。机として置かれているのはよく磨いた廃材で、椅子は平たい瓦礫を積み上げて作ったものである。まともなのは、百人は収容出来そうな広さぐらいだ。
そんな食堂に入った花中達が目にしたのは、大勢の人々が話し合っている光景だった。集まっている人々はざっと見る限り、花中より年上の大人達が大半。数は凡そ二十人程度。
集まっている人達はわいわいと、それなりの笑顔を浮かべながら話し合っていた。どうやら『何か』はあったらしいが、重大な問題が起きた訳ではなさそうだ。まずは一安心であり、花中は小さな息を吐く。
安堵すると、今度は何があったのか、積極的に知りたい気持ちとなった。幸いにして集まっている人の中に一人だけ、花中と同い年ぐらいの少女の姿がある。彼女になら訊き易い。
「小田さーん、どうかしましたかー……?」
「あっ、大桐さん。丁度良いところに」
少女――――晴海に声を掛けたところ、くるりと振り返った晴海は手を振って花中に返事をした。
丁度良いとはどういう事だろう? 疑問に思いながら、花中はフィアと共に晴海に歩み寄る。
「えと、何か御用がありましたか?」
「そうそう。まぁ、あたし達じゃないんだけれど」
「? 小田さん達じゃない……?」
「大桐さんにお客さんよ」
疑問に思う花中に、晴海は場所を示すように手を差し向ける。すると食堂に居た他の人々も、静かに退いた。まるで道を開けるように。
そして現れるのは一人の女性の姿。
彼女の姿を目にした瞬間、花中は大きく目を見開いた。そんな馬鹿な、どうして……色んな言葉が浮かんでくる。しかしどれも嫌な気持ちは含まれていない。いや、むしろとても嬉しいぐらいだ。
何故なら彼女とは、冗談や大袈裟な例えではなく、残りの人生であと一回でも会える時があるとは、正直なところ思っていなかったのだから。
「やぁ、花中ちゃん。久しぶり……元気そうで何よりだよ。あと早速で申し訳ないけど、なんか食べ物くれない? お腹ぺこぺこで今にも倒れそうなんだよね」
そしてこれが夢ではないと伝えるように、花中に向けて彼女――――星縄飛鳥は見慣れた胡散臭い笑みを浮かべるのであった。
星縄さん登場。
うん、フラグの塊ですね。なんのフラグかは言いませんが。
次回は11/8(金)投稿予定です。