彼女は生き物に好かれやすい   作:彼岸花ノ丘

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孤独な猫達10

「(さぁ、出たよ! フィアの前に出てやった! 出て……それからどうすりゃ良いのさ花中ぁ!?)」

 心の中で狼狽の叫びを上げながら、ミィは額から噴き出ようとする冷や汗を必死になって押さえていた。

 ミリオンの話通り、兄であるキャスパリーグは今にも殺されそうになっていた。麓から一回の跳躍で頂上まで到達したミィは、花中の助言もあったのですかさず兄を包み込む水球を攻撃。助け出されたキャスパリーグは今、ミィの後ろで四つん這いになりながらゼェゼェと息を荒げていた。何処か怪我をしているかも知れないが、ちゃんと生きているのならそれだけで御の字と言えよう。

 問題はここからだ。

 水で作られている顔に、氷よりも冷たい表情を浮かべているフィアとどう『やり合う』べきか。

「……花中さんが親しくなった相手ですから今まで見過ごしていましたがやはり駆除しておくべきでしたかねぇ……これだから哺乳類というのは信用ならない。同じ親から産まれたというだけの存在にどうしてそこまで入れ込むのやら」

 ズズズ、と不気味な音を鳴らしながら、フィアはキャスパリーグからミィの方へと()()()身体の向きを変える。

 殺意の矛先が兄から自分に移った。

 瞬間、敵意を感じ取ったミィの肉体は脈拍を上げ、神経を昂らせて警報を喚き散らす。フィアの殺意を感じ取ったミィの本能は、理性の合意を取らずに臨戦態勢へと移行した。兄を助けるつもりだったので戦い自体は望むところなのだが、ミィは全身に冷たいものが走るのを感じずにはいられない。

 例え兄との戦いを見ていなくとも、初めて出会った時の経験、麓に居ても届いた激戦の余波と音、そして本能で今の自分とフィアの実力差は測る事が出来る。正直どうにもならない相手だ。明確な殺意を持った大自然相手に、獣風情が何をどうすれば勝てるというのか。

 『本気』を出せば逃げるぐらいは出来そうだが……

 そのためには準備時間として十秒ほどの隙が生じてしまう。たかが十秒、と言えるのは『人間』までだ。この場において、一秒の隙は生死を左右する。

 どうする? どうすべき?

 もっと残念な事に、相手は考える暇すら与えてくれない。

「まぁどうでも良いですかまとめて潰してしまえば同じですし」

 フィアはそう独りごちるや、すっと指先を向けてきた。

 それを目の当たりにするやミィは反射的にしゃがみ込み、

 ――――髪の先が、ぷっつりと切れた。

「(い、糸……『糸』を使ってきた……!?)」

 不意打ち同然で放たれた見えない攻撃。それを殆ど直感で避けたミィは、いよいよ全身からぶわりと汗が噴き出したのを感じ取る。

 目視不可能の攻撃。初めて出会った時にも使われた必殺の技――――しかしミィはそれに慄いた訳ではない。

 出会いはほんの数日前。初対面の印象は最悪だったし、交わした言葉の数も多くない。だがそれでも最後はちゃんと和解し、数日の間共通の目的を持って行動していた相手を、なんの躊躇もなく殺せるか? そう問われたならミィは首を横に振る。キャスパリーグのような血縁者ではないので最終的には殺せたとしても、迷いを払うための時間は欲しいし、最後の最後で躊躇う事は否定出来ない。

 だがフィアは違う。

 彼女は邪魔だと思えば即座に手を下せる。覚悟すら必要とせず、罪悪感も後悔もなくやれてしまうのだ。

 思想の違いなんて些末なものではない。生物種の違いからくる根源的な感性のズレ……それが、ミィを慄かせたものの正体。

 フィアには兄以上に『説得』が通用しない。どう楽観的に考えても、手心なんて加えてくれる訳がない。

「やはり野良猫はちょこまかとしていて小賢しいですね。ですが全方位は避けられるでしょうか」

 だから彼女がそう言ったのなら、『避けられる』隙間を用意してくれている訳がなく――――

【フィアちゃん!】

 山中に響いたこの声がなければ、自分が今もこうして立っていられたか、ミィには自信がなかった。

「え? こ、この声……」

「この声は花中さんですか。大方ミリオンが何かして声を届けているといったところですかね」

 どうして山に花中の声が? と戸惑うミィに対し、フィアはうんざりとした様子でそう独りごちる。フィアも詳しい原理は分からないようだが、ミリオンが引き起こしている事象らしい。

 花中の声が聞こえてもしばらくフィアは殺意に満ちた眼差しを緩めずにいたが、やがて悩ましげに首を振るとミィに向けていた手を下ろす。

 その姿が見えているのか、花中の、少し安堵したような吐息が聞こえた。

【……うん。わたしの声の振動を、ミリオンさんが拾って、それを伝達、して、遠くに届けてる。つまり、糸電話の要領で、話をして、いるの。だから、ちょっと交信に、時間が掛かる。それより……】

「それより?」

【……フィアちゃん、キャスパリーグさんを、殺そうと、したよね? わたし、出来るだけ殺さないでって、頼んだ、よね?】

「んぁ? あーそういえばそんな事を言っていたような気がしますねすっかり忘れていましたよ」

 花中に問い詰められ、フィアはあっさりと白状する。あたかも、買ってこなければいけない物を忘れてしまった時のような気軽さ。少しだけだがフィアの表情は和らぎ、笑顔すら浮かべている。

【……それに関して、わたしからは、何も言わない。わたしは、フィアちゃんに、頼んでいる側で、わたしには、キャスパリーグさんを、止められない。だから、フィアちゃんが決めた、事に、文句は、言えない】

「そうでしょうそうでしょう」

【でも、なんでミィさん……猫さんまで、殺そうと、したの?】

 しかし花中のこの一言で、フィアの笑顔は消えた。

「……邪魔だったからです。それ以上の理由が必要ですか?」

【邪魔だったって……だって、猫さんは、わたしの、わたし達の、友達なんだよ!?】

「最初から友達だなんて思っちゃいませんけどね敵の身内なんですし。仮に友達でもここまでされたら切り捨てますけど。勿論花中さんは特別ですから例外ですが」

【う、ううう……!】

 悪びれた仕草もなく平然と断言され、花中の悔しそうな声が辺りに響く。それでもフィアの態度は変わらない。

「言いたい事はそれで終わりですかね? じゃあコイツ等は片付けさせていただきます。兄の方もそうですが妹の方も裏切った以上話し合いなんて必要ありませんよね」

 そしてフィアはゆっくりと、再度指先をミィ達の方へと向け――――

【じゃあ良いもん。一週間、口利いてあげないから】

 ビクリと、その身体を強張らせた。

 それからギギギと音が聞こえそうなぐらいぎこちない動きで、フィアは麓の方へと振り向く……何故麓か? そこに花中が居るからであろう。

「か……花中さん? あの今なんて……」

【一週間、口利かないって、言ったの! だって、フィアちゃん、いっつもいっつも、わたしの話、聞いてくれないんだもんっ! だったら一週間ぐらい、話をしなくても、同じでしょ!】

「いやいやいやいやいやいや!? 全然違いますよ!? え。あのちょ」

【もう帰るっ!】

 ブツッ、と、なんだかわざとらしい交信の途絶える音を最後に、花中の声は聞こえなくなった。「花中さん!? 花中さーんっ!?」とフィアは何度も名前を呼ぶが花中からの返答はなし。フィアはミィ達に向けていた手をあっさり引っ込めるや自分の口元に当てて、わたわたあわあわと右往左往し始める。

 しばらくしてフィアはミィ達の方を一瞥。

「あなた達! 私は用事が出来ましたから後は勝手にやってなさい!」

 言うが早いか、フィアはその身体をぐちゃりと崩した。さながら投げ捨てられた泥人形のように。

 そして、静寂。遮る物がなくなった山に湿った風が吹く。

 フィアが戻ってくる気配は、全くなかった。

「……え? マジで帰ったの? 今ので?」

 あまりにも呆気ない幕切れに、ミィは茫然と立ち尽くす。立ち尽くし、なんとか納得しようとし――――ぷっと、吹き出してしまった。

 フィアにとって、今回の騒動なんかよりも花中とのお喋りの方が大事、という事なのだろう。

 そうだ。命が懸かっているだの町が危ないだの、全部人間の物言いではないか。自分達の立場から見れば、なんて事はない……ほんの少し話が大袈裟になっただけで、本質はただの一言で言い表せる。人間でないフィアはそれを見抜いていた、いや、素直に理解していただけ。

 花中が言っていたように、最初から『猫』の気持ちで考えれば簡単に分かる話だった。そして話が簡単なら、やる事もまた簡単だ。

「兄さん……大丈夫?」

 一通り笑ったミィは振り返る。

 キャスパリーグは、もうしっかりと自分の足で立っていた。先程まで絶え絶えになっていた息は、今では少し鼻息が荒い程度。眼差しにも生気が戻り、真っ直ぐミィを射抜く。

 ミィはもう、その眼差しに怯えない。射抜かれたなら、射抜き返してやる。

 ……しばし互いに相手を見続けていると、不意に、キャスパリーグがため息を吐いた。

「お前な……睨み合いをしてどうする。俺に息を整える暇を与えるつもりなのか?」

「え? ……あっ!?」

 兄に指摘され、ミィはようやく自分の失態に気付いた。確かにこのままにしていたら兄は息を整え、万全の態勢になってしまう。しかも自分達には肉体を自在に操る能力があり、その応用で細胞分裂や血流を促進させ、疲労や怪我の高速回復が可能だ。

 まだ復讐を諦めてもらっていない以上、負傷や疲労をしている方が何かと好都合である。叩くなら早ければ早いほど良い。とはいえ、指摘されたから攻撃を仕掛けるというのはなんか情けない。

 ぐだぐだ、うだうだ。雰囲気がどんどん崩れていく。さっきまで場に満ちていた、お互いの想いが鍔迫り合いをしているような張り詰めた空気が逃げるように薄れていく。

 だからだろうか。キャスパリーグが、ふっと口角を上げた。

「全く、相変わらずだなお前は……どうして俺を助けた? あのままにしておけば俺は死んだ。そうすればお前の大好きな人間は誰一人傷付く事なく助けられたんだぞ」

「……だって、まだ兄さんとちゃんと話をしてないから……話を聞いてもらってなくて、復讐も止めてもらってない。そんなの嫌だから助けたの」

「くどい。止める気はないと言っているだろう」

「話はちゃんと聞いてよ。止めてほしいじゃなくて、()()()()()()()()()って言ったんだけど」

 ミィの言葉で、キャスパリーグは考えるように天を仰ぐ。それから、やれやれとばかりに首を横に振る。

「結局は力尽く、という訳か」

「うん。それも今度は本気で、ね」

 そう告げて、ミィはキャスパリーグからゆっくりと、後ろ歩きで距離を取る。キャスパリーグも、ミィを視界に捉えたままゆっくりと、後ろに歩いていく。

 互いに立ち止まった時、二匹の距離は二十メートルほど開いていた。

 距離を『十分』に確保出来たのを自分の目で確認した二匹は大きく息を吸い込み――――

 ベギンッ! と、身体から音を響かせた。

 ぶわりと髪の毛が逆立つ。ペキペキと音を鳴らしながら、ゆっくりと首が長く伸びていく。顔面が歪み、目尻が裂けて人よりも遥かに巨大な眼球が露出。口先が尖るように伸び、つられて鼻筋が、額が大きく歪んでいく。

 腕は一気に膨れ上がり、指は少しずつ短く、太く変形する。足は腕以上の太さへと変化し、ギチギチと歪な声を上げながら伸びていく。肌色の皮膚からは雨期を迎えて一斉に芽吹く草のように毛が次々に生え、肌色だった身体を黒く染め上げていく。そしてお尻の部分からは一本の、筋肉の塊で出来た長い尾っぽが生えてくる。

 ベキ、ゴキボキ、ギチ、ギギ、ゴギンッ、ベギッ、バギンッ……

 それは時間にすればたった十秒ほどの、気色悪い演奏会。やがてミィとキャスパリーグの身体から音が失せた時、人の姿は完全に消えた。

 代わりに立つのは、二匹の獣。

 一方は体長四メートル、もう一方は体長五・五メートルほど。全身を黒色の毛で覆い、筋肉質な体躯をしている……ネコ科らしい顔立ちの猛獣。

 それがミィとキャスパリーグが変化した姿だとは、変化を最初から見た者以外には分からない事だろう。

「ふぅ。この姿になるのも久しぶりだな。さて、何ヶ月ぶりか……」

 大きい体躯の方の怪物が、男の声で喋る。人型の時よりも僅かに濁りの混じった発音だが、間違いなくキャスパリーグの声だ。

 この姿こそがミィ達の本当の姿であり、そして百パーセントの力を解放した、『本気』の力を発揮出来る唯一の形態。

 こうなったらどうなるか。それはミィにも、キャスパリーグにも分からない。何しろこの姿になって本気で戦った事など……生まれてすぐの頃に数度やっただけ。まだ小さかった、体重一キロにも満ちていない頃の話。

 ――――そう、あの時以来の『戦い』。

「言っておくが、手加減はしない」

「分かってる。というか、する訳ないじゃん」

 完全なる獣と化した二匹は、同時に、その身体で構えを取る。前脚後ろ脚を広げ、身体を前傾にし、尾をピンと伸ばす。

 一触即発、どちらかが打って出ればもう一方も即座に動くだろう状況。

 その中で、ミィがくっくっと、噛み殺すように笑った。

「……どうした、何がおかしい」

「ふふ。おかしくはないけどさ、久しぶりだなって思って」

「久しぶり? お前、この戦いをなんだと思って」

「意地っ張りな兄貴に、可愛い妹がワガママを押し通そうとしている。そういうの、なんていうか知ってる?」

「む……」

 ミィからの問い掛けに、キャスパリーグは言葉を詰まらせる。その戸惑いが、今のミィには愉快で堪らない。

 人間がたくさん死ぬだとか、家族の復讐だとか……そんな大きな『建前』に目が眩んでいた。誰かに助けてほしいと願ってしまった。いや、きっと花中の言葉がなければ今も惑わされ、悲壮に打ちひしがれて兄と対面していたに違いない。

 猫なのだから、猫の事だけ考えれば良い。

 猫なのだから、猫の視点で物事を見れば良い。

 そうすれば自ずと本質は見通せる。見通せてしまえば、なんとくだらない話なのか。

 結局のところこの戦いはちょっとばかし規模が大きいだけの、

「『兄妹ゲンカ』って、言うんだよっ!」

 ミィの声に続き、爆音が山中に轟いた。

 

 

 

「さかなちゃーん。そろそろ離してあげたらー?」

「いいえまだです! こんなんじゃ足りませんっ!」

 麓にある、旧ダム地。今では瓦礫の山と化したその場所に、ミリオンとフィアは居た。フィアはぷっくりと頬を膨らませてご機嫌斜めを猛アピールしており、ミリオンはそんなフィアを見て呆れたように肩を竦める。

 そして二人の友達である花中は、フィアの膝の上に乗せられ、ぎゅうっと抱き締められていた。腕を外に出す事も許されない、拘束されているも同然な抱き締められ方。しかもあまり力加減が出来ておらず、少し身体が痛い。死ぬとは思わないが、痛みなのだからないに越した事はない。

 それでも花中は離してだとか痛いだとか、不満を訴える言葉を漏らす事はなく、苦笑いをするだけ。

 何分この抱き締め行為――――フィアへの謝罪というか、お詫びみたいなものなので。

「はなちゃんも、辛いなら辛いって言った方が良いわよ。ほっとくとさかなちゃん、絶対離してくれないだろうから」

「で、でも、脅すような、真似、しちゃいましたし……お詫びと、お礼を、しないと」

「そうですよ! 私が花中さんの事が大好きなのは花中さんが一番知ってるでしょうに! 深く傷付いたのでその分の慰謝料はしっかりいただきますからね!」

 そう言うとフィアはポフンと花中の髪に顔を埋め、深呼吸をするかのように口から息を吸い込む。フィア曰く、空気と共に花中の匂い成分を取り込み、水に溶け込ませ、その花中の匂いをたっぷりと含んだ水を自分の鼻まで運んで堪能するとの事。フィアの本体は未だ山の奥深くに潜んでいるため直に花中と触れ合う事が出来ず、またフナであるため嗅覚がとても発達している事を思えば……人間である花中には理解し辛いが、案外普通のコミュニケーションなのかも知れない。

 それに先程ミリオンに答えたように、これはお詫びであるのと同時に、お礼でもあるのだ。

 あの二匹に、『兄妹ゲンカ』をさせてくれた事への。

「しっかしまぁ、真の力を解放する、なんて少年漫画みたいな展開は予想外だったわ。むしろあの人間形態がリミッター解除的なもんだと思ってたのに。どのぐらいパワーアップしてるのかしら?」

「地面を蹴る力から推測するに今までの十二割増しといったところでしょうか。二十%増じゃなくて百二十%増ですからそこのところ勘違いしませんように」

「もう私じゃ手に負えないわねー。飛び回るハエを捕まえるのは苦手だもの」

 フィアと他愛ない話をしながら、ミリオンは近くの尾根を見上げる。花中も見たいが、強靭な友人によって羽交い絞めにされているのであまり自由に辺りを見渡せない。ミリオンと同じ景色を視界に入れる事は出来なかった。

 それでも身体を叩くような衝撃波から、尾根で起きているケンカの規模はうっすらとだが感じ取れる。

「時に花中さん。あの野良猫が兄に勝てず説得も失敗した場合はどうするか分かってますよね?」

「……うん。ミィさんが、勝てなかったら……もう『止める』しかない。その時は、お願いするね」

「結構。私としても花中さんの安全を脅かす輩は野放しに出来ませんからね。あれほど大きな力となれば尚更です。まぁケンカで多少なりと弱るでしょうから『処理』は簡単だとして……果たして妹に勝てますかね。体格差からして相当不利だと思うのですが。同種ですから隠し玉なんかもないでしょうし」

「うっ……わ、わたしは信じてるから……」

「信じて勝てたら苦労はしませんけどね。んじゃ私は兄が勝つ方に賭けましょう。勝ったら明日の朝まで花中さんをぎゅーっとさせていただきますね」

「ふぇっ!?」

「んふふふふ。一度花中さんの匂いを嗅ぎながら眠ってみたかったんですよねー」

 戸惑う花中を余所に、フィアは上機嫌に鼻を鳴らす。どうやら既に賭けには勝ったつもりでいるらしい。心なしか、抱き締める力も強くなっている。この二週間で誰かにくっつかれた回数は数えきれないほどに達し、かなり慣れてきたとはいえ、密着されると花中は未だ心臓の高鳴りを抑えられない。

 こんな調子で、さて、今夜はぐっすりと眠れるだろうか。

 ミィに勝ってもらわねば困る理由がまた一つ増えてしまい、花中はため息の後祈るように手を組むのだった。

 

 

 

 最初の攻撃は、ミィが繰り出したパンチだった。

 射程距離ギリギリまで相手に接近、その後素早く前足による打撃を加える……言葉にすれば単純極まりないシンプルな攻撃。猫がネコジャラシ相手にやるのと変わらない、様子見のジャブだ。

 ただしミィが放ったものは、軽く音速の数十倍に達していたが。大気を吹っ飛ばし、生じた爆音を置き去りにしながら、ミィの左手はキャスパリーグの顔面へ。

 初手の一撃は見事無防備な兄の右頬に直撃。衝撃が突き抜け、暴風が辺りに吹き荒れた。

「フンッ!」

「ギャンッ!?」

 それほどの打撃をなんの問題もなく耐えたキャスパリーグは、容赦のない反撃をミィに叩き付ける! ミィよりも大柄故リーチの長い左前足はミィの背中を易々と捉え、鈍器が如く重く硬い拳をお見舞いした。豪腕の威力に耐えきれず、ミィの足は挫け、身体を地面に打ち付けてしまう。

 瞬間、ノロマな大轟音が衝撃波となって山全体を駆け巡った。山頂のみならず、中腹辺りに逃げ込んだ動物達や植物すらも容赦なく吹き飛ばしていく。最早山から獣は失せ、木々は無残に砕かれてしまう。

「ん、にゃろうっ!」

 だがミィは健在。

 叩き付けられ低くなった姿勢を維持したままダッシュ! 砲弾と化したミィは兄の懐に潜り込むや、そのまま一気に立ち上がる! いわばそれは全身の筋肉を使った巨大なアッパーカット!

 ボンッ! と爆風を伴い、キャスパリーグの上体が浮かび上がった!

「ぬぐっ、ァアッ!」

 しかしキャスパリーグは殆ど怯まず、左腕を振って懐に入ってきたミィを薙ぎ払わんとする。ミィはすかさず跳躍し、一旦距離を開ける。瞬時に判断した事で、兄の爪先が薄皮を撫でただけで済んだ。そして攻撃を外したキャスパリーグには大きな隙が出来ている筈。もう一度跳び込みそのまま突き飛ばせば……

 そう思ったのも束の間、ミィは異変に気付く。

 兄の身体が、燃えている。

 黒い毛がチリチリと音を立てている。周りの空気が揺らめいている。身体の一部の筋肉が不自然に膨れ上がり、口周りの涎がブクブクと沸騰している。

 ――――不味い。

 危機を感じ取ったミィはすぐさま息を吸い込み、

 時同じくして兄は息を、吐き出した。

 瞬間、息吹の通り道が赤く色付く!

 キャスパリーグの口から吐き出された赤色はさながら炎のように揺めき、竜巻の如く勢いで駆ける。辺りに燃えるものはない。草木も落ち葉も大木も、殴り合いの余波で既に彼方まで吹っ飛ばされているのだから。なのにチリチリパチパチと音がするのは……赤色に触れた周りの空気や地面が炙られ、弾けているからに違いない。

 恐ろしく膨大な熱量の強襲。前傾姿勢となっていたミィにこの灼熱を躱す動きは取れず、抗う間もなく赤色がミィの身体を撫でた。

「ぐぅ……!」

 呻きを上げ、ミィは苦悶の表情を浮かべる。吹き付けられた熱はミィの毛を焼き、肌を燻す。物理的防御を無視する熱学的攻撃、ミィの強靭な肉体もこのままでは灰にされてしまうだろう。

 だが問題はない。既に対策は取っている。

 心臓の鼓動を早めて全身の血流を加速。今し方浴びせかけられ、肉体に蓄積した大量の熱を血液で回収する。

 ここで血管を拡げ、冷たい外気へと排熱するのが通常の生理作用である。だがミィは『能力』である肉体操作によって逆に血管を収縮。熱を外部に漏らさず肺まで巡らせ――――そこで一気に解放。全身の熱を肺に溜まった空気へと移していく。

 当然肺の中はどんどん加熱されていき、通常ではあり得ない高温状態へと変化する。肺から焦げ付く臭いが上ってくる。喉が焼ける。口内の涎が沸騰する。血液の高温化・排熱機能抑制により十分な冷却が出来ず、表皮の毛がチリチリと焼けてくる。

 肉体的限界を感じたら、後は吐き出すのみ!

 ミィは勢いよく、肺に溜め込んでいた空気を口から吐いた。全身から回収した熱により、肺内部の空気は一千度近くまで上昇。金属をも溶かす灼熱の吐息と化す。

 ミィの吐息は自身に襲い掛かった熱を押し返し、兄と自分の中間で力が拮抗する。拮抗点では二つの熱量が合算され、濡れた地面が一瞬にしてマグマへと変貌を遂げていた。

 そして紅蓮の息吹は肺の空気が尽きるのと共に枯れる。

 ミィとキャスパリーグ、双方の息が止まったのは全くの同時だった。

「(うぅ……やっぱり兄さん強過ぎだよぉ……!)」

 涎が干からびてカピカピになった口周りを拭うミィの脳裏に、弱気な言葉が過る。

 元々この戦い、ミィの方が圧倒的に不利である。

 雌雄にどのような差があるかは種によって異なるが、猫の場合、雄の方が雌よりも体格がガッチリとしていて大型になりやすい。つまり雌よりも雄の方が力は強く、そしてタフだという事だ。無論筋肉が多ければエネルギー消費量も増大するため、雄の方が優れた存在とは言えない。自然界の掟は弱肉強食ではなく適者生存。強者である事は生存戦略の一つに過ぎない。

 しかし戦いという土俵に上がるのであれば、猫の場合間違いなく雌よりも雄の方が圧倒的に『適者』だ。

 これで能力がフィアのような如何にも超能力っぽいものなら、体格差など問題にならなかったかも知れない。しかしミィとキャスパリーグの能力は『自分の肉体を自在に操る』事。肉体の差が戦力の決定的な差となってしまう。速さも段違いであり、本来、今し方の攻防のように一時拮抗する事すら難しい。

 そう、難しいのだが……

 不思議とこれまでの攻撃は、キツイが耐える事は出来ている。動きも、辛うじてだが追えている。まるで手加減でもされているかのよう。

 無論、まさか本当に手加減している筈がない。

「(……疲れている、のかな)」

 ふと覚える違和感の正体を、超絶の反応速度を誇る思考回路で分析。フィアとの戦いが原因なのではとミィは推測する。ミリオンの言っていた事が確かなら、兄はフィアに一方的に嬲られている。少なくないダメージがあっただろうし、何より体力を大きく消耗したに違いない。全快状態の自分と比べコンディションに劣るのは明らかだ。

 ただ、その考えにもどうもすんなりとは納得出来ないが……のんびり考える暇はない。

 何しろミィは肉体操作の『能力』により疲労の回復も迅速に行えるのだ。実の兄であるキャスパリーグも同様の力が使えるのは言うまでもない。

「(本当の理由がなんであれ、休ませる訳にはいなかい、ねっ!)」

 一瞬の猶予すらも惜しみ、ミィはその身を()()()()()。四本の足で大地を蹴り、一直線に向かうは兄の傍。

 ただし近付いても減速などせず、むしろ加速。

 そして身を低く屈めて懐に潜り込んだら、一気に立ち上がる!

「ぐ、ぬぅっ!」

 キャスパリーグは堪えようとしてか唸りを上げるも、ミィが掛けた力の向きは上方向。ベクトル的には摘まみ上げられているのと同じであり、いくら踏ん張ろうと耐えられるものではない。数十トンという体重もミィの怪力の前では重石にもならない。

 キャスパリーグの身体は易々と傾き、持ち上げたミィ共々二本足で立つ形に。ミィは前脚の掌を能力により『拡張』するやキャスパリーグの前脚を握り締め――――そのまま、取っ組み合いへと持ち込む!

「た、お、れろぉぉ……!」

 ギチギチと筋肉が音を鳴らし、脈動する肉が膨大な熱を帯びて周囲の空気を陽炎の如く揺らめかす。ミィは全身全霊の力を込め、キャスパリーグを押し倒そうと前に意識と身体を傾ける。

 だが、一歩も前に進めない。

 組み合ったキャスパリーグの身体は、さながら山の如く不動を貫いていた。

「……大方、先程の戦いで疲れていると思ったのだろう。肉弾戦に持ち込めば体力回復を妨げられ、消耗が激しければそのまま一気に押し通せるとも」

「っ! だ、だったら何さ!」

「残念だが、甘い目論見だったな。いくら疲れていようと、お前に負けるほど俺は柔じゃない」

 ミィの強がりを一蹴するや、キャスパリーグが動き出す……ただし、前に。

「ちょ……ふ、うぐぎぎぎ……!?」

 必死になって踏ん張れど、ミィの身体はズルズルと地面の上を無情にも滑る。前に進むべく傾けていた身体が、少しずつ、着実に押し戻される。

 攻勢は一瞬で逆転してしまった。今やミィは押し倒される側となり、そして兄と違い、拮抗しきれず押されている。力を留められずに地面を滑っているのが却って幸いだ……完全に受け止めていたなら、今頃とうに押し倒されている。

 いや、滑り続けるのも限度がある。兄の力を受け止めている腕の『骨』が、ミシミシと音を鳴らしているのだ。

 骨といっても、ミィ達の実際の骨格は小さな猫姿の時のまま。正確には硬質化させた筋肉を骨に纏わせて形成した疑似骨格なのだが、硬質化した事で柔軟性に欠いており、限界以上の負荷が掛かれば骨のように折れてしまう。そうなれば本物の骨折のように激痛が走り、何より筋肉の付着点という土台としての機能を喪失するため筋力を発揮出来なくなる。しかも硬質化の代償として一定期間細胞分裂が鈍化するため、回復には時間が掛かる。元が筋肉なので純粋な骨よりかは圧倒的に早く回復するものの、破断となれば完治に半月ほど必要だ。少なくとも、この戦いの中においては通常の骨折と同じ扱いで良い。

 ただでさえ押されている上に骨折となれば、最早勝機はない。負けたらどうなる? 兄は復讐を諦めてくれていない。だから兄は人間を殺しに行くだろうし、花中を守るためにフィアとミリオンは兄を始末しようとする。兄が逃げ切れば人が、逃げ切れなければ兄が、殺される。どう転んでも『最悪』の結果にしかならない。

 そんなのは、嫌だ。

 負けられない。

 負けたくない!

「ま、ける、もんか……」

「……まだ諦めないか。だったらこちらも」

「負ける、もんかぁ……!」

「っ!? お、おい、待て――――!?」

 兄が何か言っていたが、聞き届けてなんてやらない。

 体力の消耗? 体格的な有利不利? ……違う。もっと視点を高く。

 キャスパリーグは『この後』、フィア達から逃げないといけない。つまり此処でヘトヘトになる訳にはいかないし、大きな怪我も出来ない。必然戦い方は慎重に、無難なものへと帰結する。対してミィは、極論を言ってしまえば共倒れに持ち込めればそれで十分。余裕のある勝利など必要としていない。

 兄と自分の力には大きな隔たりがある。だから無難な力加減の時に無難な力で挑んでも相手にならないし、こちらが無茶をしても兄が無茶を以てして迎え撃てば返り討ちに遭う。

 だが無難な力しか出せない時に、無茶な力でぶつかれば――――もしかすれば、もしかする。

「ぐ、ふ、ぅうヴヴヴヴヴヴヴ……!」

 少女の唸り声が、少しずつ獣の声へと変化していく。全身の筋肉を『解放』、今まで高密度を保っていた筋繊維を緩めていく。腕や手足だけでなく、腹周り、そして首の筋肉も膨れ上がり、全身を歪な筋肉の塊へと変えていく。体躯はぶくぶくと膨れ上がり、ミィの背丈はキャスパリーグを見下ろすほどに巨大化した。

 これは、諸刃の剣だ。

 今まで筋繊維同士で支え合い、桁違いのパワーと安全性を両立させていた。だがその密集状態を解放し、筋繊維一本当たりの自由度と面積を最大限に拡大する。支えを失った筋肉は強度を失って切れやすくなり、力のコントロールがやり辛い。膨らんだ筋肉が疑似骨格を圧迫して鈍痛を作り、血液の輸送能力を超えた熱量が発生するため熱さで頭が朦朧としてくる。

 それら全ての苦痛と引き換えにミィの身体は自由を、否、暴走を手にするのだ。

 その力の強さたるや、『本気』の倍に値する!

「ぬ、ぐ……!」

 ズシン、とキャスパリーグが一歩後ずさる。

 すぐにもう一度、ズシン、とキャスパリーグが半歩下がる。

「ガアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!」

 咆哮と共に、ミィは一気に力を込める! ブチブチと身体中の筋肉が千切れ、オーバーヒートした体表から焼肉の香りが漂ってくる。

 しかし激痛など歯牙にも掛けず、ミィはひたすらに、愚直に前へと進み続けるのみ。キャスパリーグは顔を顰め、脂汗を流しながらもミィを押し留めようとするが、ミィの歩みは止まるどころか加速していく。

 ――――このまま一気に、押し倒す!

 熱暴走する頭の中でも色褪せない、ハッキリと浮かぶ強い意志を柱にミィは更に力強く踏み出し、

 そこでキャスパリーグは組み合っていた右手だけを引くのと同時に、大きく身体を捻った。

「(……! しま……)」

 事態に気付いた時にはもう遅く、前へと進むミィに対しキャスパリーグは舞うように身を翻す。さながらそれは闘牛士が猛牛を翻弄するかのよう。

 組み合う事が前提の力は、相手が居なくなった途端その行き場を失ってしまう。ましてやコントロールを捨て去っている今、止めようにも止まらない。勢い付いたミィの身体は投げ飛ばされるように数十メートルも()()()()()しまった。ぐるんと前転するように身体が回り、背中から地面に叩きつけられる。ここでミィがその反動を使って即座に体勢を立て直せたのは、偏に猫という格段に運動能力に優れた種だったからに他ならない。

 即ち他種族であれば見事な受け身も、同種であるキャスパリーグにとっては明確な隙。既にキャスパリーグはミィの方へと振り返り、猛然と駆け出している!

「グ、ガアッ!」

 ミィは即座に――――キャスパリーグとの距離が未だ十メートル以上離れているにも関わらず、その場でぐるんと全身と一緒に尾を振った。如何に肥大化したと言っても、今のミィの体長は六メートルほど。尾の切っ先すらもキャスパリーグには届いていない。

 だが尾の先端が薙ぎ払った空気は細く、そして極限まで圧縮され、白濁とした衝撃波となる。

 例えるならそれは大気の刃であり、白濁の刃はキャスパリーグ目掛け飛んでいった!

「っ!」

 キャスパリーグは即座に、ミィの『攻撃』を理解したのか駆ける足にブレーキを掛ける。しかし彼が立ち止まっても正面から飛来する『刃』は避けられない。

 一瞬右に身体を傾け、キャスパリーグは顔を顰めると最初に傾けた方とは反対側に大きく跳躍しこれを回避した。目標に当たらなかった『刃』は、ミィ達がケンカをしている此処とは谷を挟んで向かい側にある、傷一つない尾根に激突。火薬でも仕込んでいたかのように大量の木々と土砂が噴き上がらせながら爆音を周囲に轟かせる。

 その威力を背中越しに感じ、『もしも』を想像したのか。キャスパリーグは不快そうに目を細めた

 瞬間にミィはキャスパリーグに突撃! 全体重を乗せた体当たり――――正しくは頭突きを脇腹にお見舞いする!

「ぬ、ぐぅうっ!?」

「ガアアアアッ!」

 僅かながら怯んだキャスパリーグを追撃するように、ミィは頭を突き上げる! キャスパリーグの巨体はその勢いで僅かながら浮き上がり、浮いた身体目掛けミィは飛び込むかの如く跳躍。もう一度頭突きをお見舞いする!

 絶え間なく受けた攻撃にいよいよ耐え切れず、キャスパリーグは一瞬よろめき、挫いたように右膝を付く。けれどもキャスパリーグの闘志は消えない。前足だけで身体を跳び起こすや、爪を立てた両手でミィの身体をガッチリと抱え込み、今度は自分が頭突きを食らわせる! ミィもこの一撃によろめき、更に身体の肉が抉れてしまう、が、こちらも目から闘気は失せていない。ミィは地面を踏みしめるや即座に跳びかかり、今度は兄の太く屈強な首筋に人間の指よりも遥かに太い牙を突き立てた!

 頭突き、噛み付き、引っ掻き……されどその傷はどれも致命傷には至らない。巨大な筋肉を含めた肉体のコントロールが能力であるミィ達にとって自己修復機能もまた能力の適応範囲。骨折や硬質化させた筋肉のように細胞分裂の鈍い組織でなければ、即座に修復出来る。ミィの抉られた肉も、キャスパリーグの首に開いた穴も、十秒ほどで痕跡すら見えなくなる。

 やがて二度目の取っ組み合いに入ったが、最早そこに知性はない。相手の首に噛み付き、爪を腹の肉に突き立て、相手しか見ていないものだから足を滑らせ斜面を落石が如く勢いで転がり落ちる。斜面は頂上で発生した衝撃波の直撃を受けておらず、多少なりと無事な草木も生えていたが、数十トン……二体で百トンオーバーの重量と化した『落下物』を受け止められる生物など存在しない。爆風に耐えた巨木は小枝のようにへし折られ、難を逃れた草は着地の衝撃だけで弾け飛ぶ。殴り合いの余波が中腹辺りの動物達すらも吹き飛ばしていた事が、結果的に被害を小さくしている有り様だ。

 これほど破滅的な被害を辺りに撒き散らすも当の二匹はまるで気にせず、平地に落ちれば平然と起き上ってすぐさま取っ組み合いを再開する。互いの攻撃でしか相手が傷付かず、その傷も即座に修復される。全てを破壊しながら、二匹の獣は死に絶える事なく戦い続ける。

 ……しかし、諍いは少しずつ終局に向かっていた。

「ギ、ッ!」

 キャスパリーグの牙が、ミィの肩の肉に穴を開ける。即座に反撃しようとミィは左足を振り上げ、しかしキャスパリーグはこれを躱して腹を突き上げるような頭突きを食らわせてくる。

 持ち上げられ、投げられるようにミィの身体が宙に舞う。すぐに体勢を整えようとミィは猫らしく空中で身を捩り、

 ――――上手く、動けない。

「ゴガッ……!?」

 背中から、ミィは地面に叩きつけられた。猫でありながら受け身が取れず、痛みがもがき苦しむ……が、悠長にしている暇などない。

 転がるようにして即座に起き上り、ミィはすかさず前足を振るう。前足の太さ故に尾のような鋭さこそないが、音を置き去りにするほどの速さは周辺の空気を掻き乱し、暴風へと変貌させる。

「ふんっ!」

 しかしキャスパリーグは避けず、左腕を力一杯振り上げた。ミィと同様の動き――――生じる結果もまた同様。

 暴風と暴風がぶつかり、混ざり……ミィの方だけに突風が押し寄せる。

「グッ……!?」

 吹き荒れる風から目を守ろうと、ミィの身体は勝手に瞼を下ろしてしまう。理性では不味いと思えど、反射的な行動であるがために抑えきれない。

 そして晒してしまった隙が見逃してもらえる道理などなく、ミィはそのがら空きの顎にキャスパリーグの巨大な後ろ足を喰らう羽目になった。六メートル以上の巨体が立ち上がるように蹴り上げられ、それでも勢いは衰えずミィは地面に倒れてしまう。

 なんとかミィは身を起こし、立ち上がろうとする……が、あろう事か、崩れ落ちるように膝を付いてしまった。

「ナ、ニ……!?」

 自分のやらかした行動に、ミィは愕然となる。

 立ち上がろうとしているのに、腕に力が入らない。まるで痙攣するように全身が震え、酩酊しているかのような気持ち悪さで頭が揺さぶられる。呼吸が乱れ、十分な酸素が身体に回らない。

 突然の不調に戸惑うミィ。そのミィとの間隔を、キャスパリーグはゆっくりとした動きで詰めてきた。

「無理が祟ったな。『正常』な範囲を逸脱した力を振るえば、いずれそうなるのは必然だ」

「マ、ダ……マダ、ヤレルッ……!」 

「気持ちは一丁前のようだが、生憎それでどうにかなるもんじゃない。支えを失った筋肉が、自分の力に耐え切れず破断しているんだ。精神的問題じゃない。物理的にどうしようもない状態だと気付け」

 キャスパリーグの警告染みた言葉に、歯向かうようにミィは立ち上がろうとする――――だが、崩れ落ちるように前のめりに倒れてしまうだけ。いくら力を込めても、身体を支えられない。まるで自分の腕が他人に乗っ取られたような錯覚を覚える。

 もう前脚は、使えそうにない。

「マ、ダダアアアアアアアアアアアアアアッ!」

 それでもミィは諦めず、まだ『生きて』いる後ろ脚で大地を蹴ってキャスパリーグに飛びかかり、

「――――遅い」

 キャスパリーグは跳び掛かってきたミィを、左手の一撃で易々と迎え撃った。

 目には見えるのに身体が動かず、ミィはキャスパリーグの攻撃を胴体でもろに受けてしまう。戦車すらも凌駕する超重量はボールのように弾かれ、大地を揺らしながら転がり、行く手にあった木々を押し潰し……どうにか止まったのは、切り立った崖の傍だった。

「グ、ウ、ゥゥ……フゥ、フゥ、フゥゥ……!」

 今度こそ立ち上がろうとミィは秘大地を踏み締めるが、今度は前脚どころか後ろ脚にも力が入らなくなっていた。頭が持ち上げられず地面の方を向き、乱れた吐息を繰り返す口からは沸騰した唾液がダラダラと零れ落ち、眼球が痙攣するように揺れ動いて視界がぼやける。

 このままでは戦うのは勿論、動く事も儘ならない。せめて攻撃が回避出来るよう足の筋繊維だけでも修復を――――

 しかしミィのその意図は、ズシン、という間近に聞こえた『足音』で、叶わなくなった。

「ここまで粘るとは予想外だったが、もう終わりだ。生憎、動けるまで待ってやるつもりはない」

 聞こえてくる、兄の声。未だミィは顔を上げる事が出来ないが、ズシン、ズシン、と耳に届く足音の大きさで、大凡の距離は掴めた。大体十メートル。体格、そして自分達のスピードからして、瞬きが終わる前に決着を付けられる位置だ。

「血の繋がった、最後の家族だ。命までは取らん。だが、そこまで消耗した状態で攻撃を受ければ、流石にしばらくは動けないだろう。そこから落ちたとなれば尚更だ」

「……あ、あたしヲ、倒しタら……フィア、たちが、きっと、止めようト、する……いくら、兄さンでも、フィアとミリオンに、追われたら、逃げ切れなイよ……!」

「それぐらいは想定済みだ。山と一体化している『奴』と『黒い化け物』に追われたら、確かに逃げるのも難しいだろう。だが、まるっきり無理ではない筈だ。どんな物事でもな……連中は、否定するかも知れんが」

 キャスパリーグが答えると、ざぁと、周囲にある倒木達の梢が一瞬ざわめく。それはフィアからの返事か、ミリオンの反応か、それともただの自然現象か。

 本当にフィアとミリオンの追跡から兄が逃れられるか、ミィには分からない。だがやるしかない以上、キャスパリーグは今更ミィに『止め』を刺す事を躊躇しないだろう。

 ようやく動かせるようになった首をミィは回し、自身の背後を振り返れば、崖の高さが窺い知れる。地殻変動の影響で元々切り立った崖が多い泥落山であるが、今自分が追い詰められた此処は一段と高く、中規模のビルぐらいの高さがあるように思えた。平時ならばいくら高くともどうという事はないが、今のように疲弊している状態では自分から飛び降りても危ないかも知れない。突き飛ばされたのなら、言わずもがな、だ。

 どうする? 破れかぶれで立ち向かうのは、足腰がガタついているから無理。受け止めるのは、もっと無理。寸でのところで身を躱す……かなり難しい。ならいっそ道連れにしてやれば、この高さなら或いは……いや、疲れ果てた自分を踏み台にされるのがオチではないか。

「(どうしたら……何か、今の兄さんと戦える方法は……!)」

 自分の頭では何も浮かばず、ミィは過去にすがりつく。さながら走馬灯が如く思考はめまぐるしく駆け回り、フィアとの戦いを、ミリオンの立ち振舞いを、花中の知略を振り返った――――

 それでも、何も浮かばない。

 フィアからも、ミリオンからも、花中からも……この状況を打開するための方法は得られない。フィアは自由な超能力を、ミリオンは理不尽極まりない力を、花中は研ぎ澄ました知力で困難に立ち向かっていた。誰も自分の戦い方とは似ていないのだ。参考になんてなる筈がない。

 ミィは深く、息を吐いた――――直後、ボギンッ! と身体を鳴らす。

 身体から鳴る生々しい音はしばらく続き、伴ってミィの身体も縮んでいく。無骨な筋肉にしなやかさが戻り、眼球は小さくなる頭に押され奥へと引っ込む。

 最後に一際大きな音を響かせると、ミィはすっと立ち上がり……完全なる少女の、人の姿へと変化していた。

 変化を見届けていた、猛獣姿のままであるキャスパリーグはふんっと鼻息を鳴らし、訝しげに表情を顰める。

「今更、どうして人の姿になる。その姿になっても、回復力は上がらん。むしろ血流が遅くなり、細胞分裂が鈍るぞ」

「でも防御力は上がるでしょ。筋肉が密になってる分だけ」

「……………」

 ミィの反論にキャスパリーグは僅かに言葉を詰まらせると、やれやれと言いたげに首を振った。身体を縮めれば防御力が上がるのは事実だが、減少した身体機能を補うほどではない。防御をほんの少し高めるために総合的な力を半減させるなど、本気の『ケンカ』をしている最中では愚行に等しい選択だ。

 ミィとてそんな事は分かっている。分かった上で、選んだ。どの道『フルパワー状態』ではもう勝ち目などないのだから。

「……最後まで諦めるつもりはないようだな」

「当然でしょ。自分からケンカを吹っ掛けときながら降参なんて、ダサ過ぎじゃん。やるんだったら最後までやるし、それに……」

「それに?」

「まだ、負けるなんて思ってないから」

 妹の強気な言葉に、キャスパリーグは何を思ったのだろうか。

 彼はため息一つ吐かず、表情を顰めず、じっと、ミィを見据えるだけ。

 ミィもまた、兄の瞳を睨み反すのみ。

 張りつめる緊張――――しかし人からすれば僅かな静寂も、猫達にとっては猶予に等しい。

「これで、終わりにするッ!」

 キャスパリーグは容赦なく、最大の加速度で突進してくる!

 ミィの身体は ― 僅かな時間でいくらか動けるようになったとはいえ ― 筋肉の損傷を回復しきれておらず、機敏な回避は出来そうにない。受け止めるべく足と腕を広げて訪れる衝撃を待ち構えるしかなく、ミィもまた最大の力を以てして兄と向かい合う。

 立ち向かう『人間』に、『猛獣』が襲い掛かる。構えるミィを射程内に捉えるやキャスパリーグは獅子の如く両前脚を突き出しながら跳び掛かり

 そして、

「あまり人間を嘗めてると、そのうち痛い目見るかもよ?」

 ミィはポツリと呟いた。

 瞬間、突進してくるキャスパリーグの巨体に掴み掛かったミィはその巨体を――――受け止めなかった。

 ぶつかる寸前キャスパリーグの下へと、ミィは自らの身体を勢い良く滑らせたのだ。

「――!?」

 四つ足の獣であり、跳び掛かってしまったキャスパリーグは目で追いこそするが、ミィの動きを止められない。ミィはするりとキャスパリーグの胴体の真下に潜り込む。

 そしてすぐさまキャスパリーグの下っ腹の辺りに、渾身の蹴りをお見舞いした。

 満身創痍で、且つ身体機能をセーブした状態。筋肉が他の部位と比べ薄い腹部とはいえ、この程度の威力では兄を怯ませる事すら難しい。そんなのはミィだって分かっている。最初から怯ませるつもりなんて毛頭ない。

 ――――如何に疲弊していようと、自分の体重を支えられるぐらいには回復した。兄の方が若干重いが許容範囲。

 力一杯蹴飛ばせば、兄の身体ぐらいなら浮かせられる!

「ふっ、ぬうううううううううううううっ!」

「!?!??」

 身体を掴んだまま腹を蹴り上げようとするミィの行動に、キャスパリーグは目を白黒させるばかり。

 もし、彼が少しでも人間を理解しようとしていたなら、ここまで動揺せずに済んだかも知れない。ミィが何をしようとしているのか気付き、どうすれば抗えるかを考えられたかも知れない。

 しかしキャスパリーグは、人間を敵視するだけだった。相手を知ろうとせず、ひたすらに憎悪を積み重ねただけ。少しでも人間に理解を示したミィを敵だと決め付けるほどに、人間を()()()()()

 だからミィだけが知っている。

 花中との思い出からは得られなかったが……もう一人の『友達』との思い出が、自分に力をくれる。万物を破壊して余りある力を持つ自分達は必要としなかった、弱いからこそ人間が編み出したものがある事を『彼女』は教えてくれた。その一つを、彼女は伝授してくれた。

 その名は『格闘技』。

 初めて加奈子と遊んだあのゲームセンターで学んだ――――巴投げだ!

「飛んでっけえええええええええええええっ!」

 ゲームの画面よりもぎこちない、だけどよりパワフルにアレンジされた人の技術が、キャスパリーグの身体を投げ飛ばした!

「ぬぐぅぉぉおおおおおおおっ!?」

 一人投げ飛ばされたキャスパリーグの声が色めき立つ。描く放物線はかなり角度が高く、十メートル以上の高さまで飛んでいく。今頃彼の眼下には、ミィが見たものよりも一層険しい断崖が広がっているだろう。

 しかし。

「この、程度……ッ!」

 キャスパリーグはぐりんと空中で身体を捻り、易々と体勢を立て直してしまう。

 そう、彼は猫であり、高く不安定な場所からの着地は種族的十八番だ。肉体的に適しているのは勿論、しなやかな着地をするための挙動は本能に染み付いている。何より全てを超越する肉体能力の前では、こんなビル一棟程度の高さなど脅威でもなんでもない。

 ……普段なら。

 だと言うのにキャスパリーグが浮かべるのは苦々しさと不安を滲ませた顰め面。

 挙句その右肩に『何か』が触れた瞬間、彼は跳ねるように振り返り、

 そして表情を驚愕一色に変えた。自分の右肩に飛び乗った、ミィと目が合ったために。

「お、おまっ……!?」

「あ、やっぱり焦った」

 狼狽した兄の顔を目の当たりにして、ミィはにやりと笑ってやる。

 ケンカをしていて覚えた違和感。

 本来ならばミィとキャスパリーグの力の差は、それこそ一瞬で全てが終わってしまうような、絶望的な開きがある。なのにどうして今まで、ジリ貧になるまで戦えたのか。最初は体力を消耗しているのが原因かと思っていたが……ケンカを続けているうちに、違和感の正体を見破った。

 左前脚による叩きつけ。

 左腕での薙ぎ払い。

 右腕を引いてからの投げ飛ばし。

 右側に跳ぼうとしたのを中断してまでやった、『左前脚』に力を込めての跳躍。

 真っ先に地面に着いた右肘。

 暴風を起こすために振り回した左腕。

 どの攻撃も、どの回避も――――全て、右腕に力が掛かるのを避けていたのだ。恐らくはフィアとの戦いで外からは見えない怪我……肩辺りの疑似骨格にヒビが入ってしまったのだろう。肩を痛めたとなれば万全の力など発揮出来ない。いや、全力を出そうものならあまりにも強力な自らの筋力に耐えきれず、ヒビが入って脆くなった『骨』は砕けてしまう。かといって能力で再生しようにも、硬質化させた筋肉の再生は遅い。否が応にも戦い方は穏健で、怪我のある部位を庇った歪なものにならざるを得ない。

 そんな状態にも係わらず高所から飛び降りるなど自爆に等しい暴挙と言えよう。ましてやそこに『強烈な打撃』を受けたなら――――

「お前、まさかそのために身体を!?」

 狼狽を隠せない様子の兄の叫びに、自由落下によってまもなく地面に着いてしまうが故にミィは自慢気に答えてやる事が出来ない。

 正にその通り。防御力の上昇は微々たるものでも、身体の密度はそれこそ何倍にもなっている。人間体ならその重量を全力状態よりも狭い範囲に集中させられる。そして空中でも自由に殴り掛かれる。

 重力加速度 × 大質量の一点集中 + 手加減なしの拳。

 如何に兄の肉体が強固だろうと、怪我をした身でこの一撃を耐えられるものか。

「言ったでしょ。人間見下してると痛い目見るかもって」

 だからこの言葉を以てして兄への返事とし、

「ぐ、うおおおおオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!」

 最早気合いで耐えるしかないと、キャスパリーグは咆哮で以て答える。

 かくて二頭の『巨獣』は大地に堕ち。

 火山の噴火が如く轟き響く爆音に混じって、微かに、何かが割れるような音がしたのだった。

 

 

 

「……兄さん、大丈夫……?」

 獣の姿のまま俯せに倒れているキャスパリーグを見下ろしながら、少女の姿のミィはほんの少しオドオドとした、不安げな声で話し掛ける。

 キャスパリーグは両手両足を広げた大の字で倒れているが、獣の姿故にその姿勢でも頭上を見上げる事が出来ていた。この辺りの木々も戦いの余波で倒れており、空に広がる一面の星空……は麓の町明かりに負けて見えないが、青みがかった夜空の色が何処までも広がる光景は、何物にも邪魔される事無く見渡せた。

 その夜空を見て兄が何を思ったのか、ミィには分からない。しかし漏らしたキャスパリーグの吐息は、ミィには疲れ果てていながらも硬い芯は未だ残っているように感じた。

 やがてキャスパリーグは、ゆっくりと口を開く。

「肩の骨を折られて大丈夫も何もないだろう。尤も、俺達は怪我の治りも早いから、半月もすれば完治するだろうが」

「……まだ、人間への復讐は諦めてないの?」

「わざわざ言う必要があるのか」

 兄からの問い掛けに、ミィは唇を噛み締める。

 ケンカには勝てた。兄も生きている。しばらくは復讐など出来ない……だが、それだけ。キャスパリーグの心には未だ復讐の火が燻り、また何時か、今まで以上に燃え盛ってもおかしくない状況にある。

 その火は、いくら話し掛けても、いくら叩いても、結局消えてはくれなかった。最早残っている方法は『燃えている芯』ごと削るしかない。心をへし折るか、或いは身体を文字通りへし折るか。

 そんな事、望んでいないのに。望んでいないから、ケンカしたのに。

 これじゃあ、何も変わらない。

「う、ぅ、ううぅ……うううっ……!」

 涙が、ボロボロと溢れてくる。

 どうして、何も変わらない。自分の力不足なのか、それとも何かが足りていないのか。或いはもう、手遅れなのか? まだ何も始まっていないのに?

 もう、どうして良いのか分からない。ミィの表情は段々と崩れ、喉まで込み上がった叫びを吐き出さんと噛み締めていた口は自然と開き――――

「ああー、だけど半月も休んでいたら、やっぱり身体が鈍るだろうなぁー」

 寒気を覚えるほどに白々しい声が耳に届いた途端、喉まできていた声はぷすんと不発に終わった。

「……へ?」

 なんとなくミィの口から出たのは、疑問の声。

 聞き間違いでないのなら……今の声、兄さんの口から出てきたような?

「身体が鈍ったら鍛えないとなー。あー、しかも妹に負けたなんて情けないからかなり鍛えないとなー」

 困惑していると、今度は間違いなくキャスパリーグの口から白々しい言葉が。ミィが目を瞬かせる中、鍛えるのに何ヶ月も掛かるよなー、そんなに鍛えてたら冬になっちゃうよなー、冬じゃ雨なんてあまり降らないから土砂崩れを起し辛いなー、等々あからさまな独り言を延々と零す。

 そうしてミィが唖然とする中すっと四本の足で立ち上がり、

「という訳で俺は旅に出る。大体一年ぐらい。じゃ、そういう訳で」

 そのまま立ち去ろうとしたので、ミィはすかさずキャスパリーグの肩を掴んだ。無論、ボロボロに砕けているであろう右肩を、ガッチリと。

「いででででででっ!? ちょ、は、離せ! 痛いから離せ!」

「離す訳ないじゃん! その、も、もしかしてもしかするともしかしちゃうかもだけど、でもちゃんと言ってよ! そんな曖昧な言葉じゃ納得出来ない!」

「ぐ……」

 妹に問い詰められ、兄はサッと目を逸らす。しかし妹はじっと、じっと兄の目を離さず……

 やがて、キャスパリーグはため息を吐いた。大きく、深く。

「……やはり、人間を許す気にはならない。お前のように慣れ合う事は勿論、アイツ等の暢気で、傲慢な顔を思い起こすだけで腸が煮えくり返る」

「兄さん……で、でも」

「ただし!」

 説得しようとミィが声を出した、途端キャスパリーグの大きな声が山に響く。ミィは息を飲み、押し黙ってしまう。

 静寂の中、改めてキャスパリーグの口が動く。

「妹にケンカで負けて、情けを掛けられて、挙句大声で泣かれそうになって……それでも意地を通そうとは、思わない」

 ――――とても、穏やかに。

「にい、さん……?」

「全く、妹とは面倒なものだ。切り捨てたつもりなのに、敵だと思っていたのに……本気で泣かれたら、そんな気持ちはどっかにいっちまう」

「……………」

「……俺は、まだ人間を許していない。だけどお前を泣かせるのも嫌だ。だから―――― 一年だけ、時間がほしい」

 ミィがそっと、肩から手を離すと、キャスパリーグはミィに背中を向ける。

 彼は一歩二歩と歩み出したが、ミィはそれを止めない。

「一年だ。その一年で、俺も人間を見極めよう。多くの人間と関わろう。悪い人間も、良いとされる人間も。お前のように、出来るだけちゃんと知ろう。その上で、やはり人間の傲慢さと残忍さが目に余るようなら……今度こそ、復讐を止めるつもりはないからな」

 それじゃあな――――その言葉を境にキャスパリーグは大地を蹴り、姿を消した。後に残るのは、ふわりと残った空気の渦だけ。

 誰の目にも瞬間移動でもしたかのように、キャスパリーグはその姿を消した。しかしただ一匹、最後までその後ろ姿を見送っていた猫少女は、ふっと笑う。笑ってから、握り拳を前へと突き出す。

 そして、

「そん時は、またケンカして、大泣きして、こっちの言い分押し通すまでだよっ!」

 山中に響く元気な声で、恥じる事なくそう告げた。

 

 

 

 こうして兄妹ゲンカは幕を閉じ、

 

 山に本当の静寂が戻る。

 

 人が作り上げた巨大な文明は

 

 脆くも崩れ落ち、

 

 災害への備えは失われた。

 

 何万もの人の命が密かに救われ、

 

 同時に一つの尾根から息吹が消えた。

 

 被害は、見方によっては甚大だ。

 

 責任の追及もなく、咎人への罰もない。

 

 されど彼女達にとってこれは

 

 ただのケンカなのであって。

 

 終わり方など、大体こんなもので十分なのであった。




本作は能力バトル小説です(今回やってる事:超パワーVS超パワー)

……ドラゴン○ールを能力バトル漫画と呼ぶぐらい適当な事を言っている気がする。


次回は本日中に投稿する予定です。

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